2004年10月30日
「あぶない日中関係-戦争責任と日中友好」
発言録
(メモの粗起こしです。文章の一切の責任は集会主催者にあります。)
◆ 中国の細菌戦研究者・原告からの問題提起
【陳致遠さん】----(湖南文理学院教授 10月28日の法廷で証言)
1972年日中国交正常化から32年、日中両国の交流は飛躍的に拡大しました。例えば、経済交流では、1972年は11億ドル輸出貿易でしたが、中国の税関の統計によれば2003年では1330億ドルに飛躍的に拡大しました。日本と中国は双方とも最大の貿易相手国になってます。
日中両国の経済関係はますます緊密になっているんですけれども、しかし、一方では政治関係は悪化しているという傾向さえ見せています。中国ではこれを"経熱政冷"つまり"経済は熱いけれども政治は冷たい"という現象だというふうに言われています。
私は、現段階の日中政治関係の冷却化は、完全に少数の日本の政治家や右翼勢力が歴史事実、そして、戦争責任を否定するということからきたものであると考えます。
1972年の日中国交正常化の時に中国政府は、日中両国人民の末永く友好と発展のために、極めて寛大な姿勢で国家間の戦争賠償請求を放棄しました。それをもって日本政府の中国侵略戦争に対する反省の約束を得たわけです。
しかし、1982年教科書問題以来、一部の日本の政治家が日中共同声明にある戦争を反省するという政治的約束を再三破ってきています。右翼勢力がたびたび中学校の歴史教科書を改ざんし、軍国主義による中国に対する侵略戦争と戦争犯罪行為の事実を否定しています。そして、その改ざんされた教科書は文部省によって何度も認可されました。
それから、2004年までに日本の政治家は、個人あるいは団体で20数回にわたってA級戦犯の祀られている靖国神社を参拝してきました。その中で、とりわけ日本の首相は、のべ7人も参拝している、特に現在の首相小泉純一郎氏は国際世論の反対にもかかわらず、断固として4年連続4回も靖国神社に参拝してきました。この行動は中国国民の感情を著しく傷つけ、日中政治関係に極めて悪い影響を与えてしまいました。
それから、強制連行や慰安婦、細菌戦などの中国の民間賠償請求などに対しても日本政府は頑固な態度を取ってきています。この頑固な態度も中国国民の感情を傷つけています。
日本と中国両国の良好な政治関係を発展させることは、日中両国の経済関係を維持し、発展させる上でも非常に重要なものです。そして、健全な日中関係は日中両国国民の利益となるだけでなく、アジアないし世界の平和と発展にとっても非常に重要です。現段階で日中政治関係における最大の問題は、日本政府が歴史と戦争責任問題を正しく認識できるかどうかということにかかっています。
日本政府は、日中両国間の3つの重要な文書、すなわち、1972年の日中共同声明、78年の日中平和友好条約、そして、98年の日中共同宣言という3つの重要な文書の中で、戦争を反省すると中国に約束してきました。
しかし、ここ数年の日本政府の行為をみますと、そこに戦争を反省するという正義が全く見られません。私たちは、日本政府がその約束を守り、本当に戦争を反省し、歴史を鏡として未来に向かうように期待しております。
特に私たちは、現在進行中の中国民間による細菌戦被害賠償請求などの訴訟において、日本政府がその法的な加害責任を認め、中国の戦争被害者に対して謝罪と賠償を行うことを期待しています。
日本軍国主義によってもたらされた中国侵略戦争は、中国国民に極めて大きな災難を与えたばかりでなく、、日本国民も大きな災難を被りました。軍国主義は、日中両国国民の敵であり、人類の平和と進歩という歴史の潮流に逆行するものです。
人民こそ歴史の発展をおしすすめる存在です。2000年以上にわたる友好交流の歴史と共同の文化的背景を持つ日中両国国民が、一致団結して歴史に逆行する軍国主義に反対すれば、日中関係は必ずすばらしい未来が期待できると私は信じています。どうもありがとうございました。
【楼献さん】----(浙江省杭州商学院科技哲学研究所副所長 10月28日の法廷で証言)
尊敬する司会者、尊敬する御来場の皆様、こんにちは。
日本の首都東京で、日本の友人の皆さんと一緒に過去の戦争の責任や、将来の日中関係について議論するようなすばらしい機会をいただきまして大変うれしく思っています。
先程陳教授もおっしゃったように、中日両国の政治関係は冷たく、まるで本日の天気のように少し冷たい風が吹いております。それだけでなく、少し雨も降っています。しかし私は、両国国民の努力によって、このようなやや冷たい関係も、やがてそう遠くない将来に日があたるようになると信じています。
中日両国の関係の将来について考えるとき、私は主として、これは日本の姿勢にかかっていると考えています。というのは、まず、中日両国の2000年以上の歴史を見ますと、既に唐の時代から密接な往来がありました。けれども、中国が力を持っていた時代に、中国は一度も日本を侵略したことがありません。
中国は日本に対して、経済の面でも文化の面でも技術の面でも日本の利益になるようなものばかりを与えてきました。しかし、中国が弱くなると、日本は中国を侵略するようになりました。日清戦争、日露戦争もありましたけれども、それは中国の領土で闘った戦争です。その後、日本の中国侵略が長い間ありました。近代において、日本が強くなると、中国を侵略しました。
2000年以上の中日往来の歴史を見ますと、それは、中国が強くても弱くても日本に脅威を与え、侵略したことはないんですね。しかし、逆に日本は強くなると中国に対して脅威を与え、或いは、中国を傷つけてきました。
従って、戦争責任とは、細菌戦の被害とか化学兵器による被害など、日本のかつての侵略の戦争責任を清算するということなんですが、それは、中日両国の人民が、日本が再び強くなった軍国主義の道に逆戻りしてしまうことを防ごうという気持ちがその根底にあるわけなんです。
中国人民、その他アジアの国々の人々が小泉の靖国参拝に関して大変敏感に反応し、憤慨するのもこのように日本が再び軍国主義の道に逆戻りし、再び戦争をするということを懸念しているわけです。
日本の方々が我々と一緒に努力して、日本が経済的に発展して強くなっても、平和を愛し、アジア、世界平和のために我々が貢献するように一緒に努力しましょう。どうもありがとうございました。
【裘為衆さん】----(寧波市 ジャーナリスト 10月28日の法廷で証言)
皆さん、こんにちわ。私は寧波の被害者、そして原告団を代表して、皆様の裁判に対する支持と支援に心から感謝を申し上げます。
1940年10月27日、寧波に災難がおとずれました。それは日本軍による空襲です。日本軍がペスト細菌兵器を寧波市に撒きました。たくさんの民間人がそれによって死亡し、また多くの人が故郷を離れなければならなくなりました。私は当時の被害状況を調査してきました。当時の被害者らは日本軍の残虐な行為を話してくれました。被害者や遺族らは皆口を揃えて、日本政府が人道公平の立場に立って、謝罪と賠償を強く求めています。
1940年以前、寧波市は中国でも有名なビジネス都市でした。寧波市は日本とは昔からビジネス上、そして友好の往来がありました。そのため、寧波の人々は日本人がなぜこのような事をしたのか理解できません。寧波には天童寺というところがあり、それは日本でいう仏教の曹洞宗の発祥地です。
寧波市は友好都市であり、ビジネス都市でもあり、そのことを寧波の人々は誇りに思っています。今回日本に来て、食事やいろいろな物が寧波に近いことがわかりました。
寧波の人々は、日本政府が現在のようなやり方、考え方を改めて、再び中国人民、寧波人民を傷つけるようなことをしないよう強く求めています。
靖国参拝、海外派兵などを止めるよう、また、日本が再び軍国主義の道に戻らないよう強く求めます。日本人と中国人民が平等で、日本が新しい軍国主義の道を進まないよう努力しましょう。
我々が共に中日友好を強固にし、発展させていくために努力しましょう。ありがとうございました。
【王選さん】----(731部隊細菌戦裁判原告団代表)
私は日中関係に関する専門家ではありません。一中国人としての意見を日本の方に述べたいと思います。
日中関係の問題は、一方的に述べることではないので、日本の方々の意見も聞きたいと思います。日中関係と一言で言っても、歴史問題ついてなど様々な問題があるので、一つ一つを整理して具体化していかなければ解決出来ないと思います。
一審の裁判の時、東京女子大学の聶莉莉先生が、文化人類学という視点から証言していただきました。私は聶先生の視点は素晴らしいと思います。歴史問題の話しをすると、たいてい国家間の問題へなってしまいます。しかし聶先生は、歴史問題の中に個人のことも含まれていること、国家間の歴史問題の中に個人の戦争体験や苦難も含まれていることを強調されました。この視点は大切だと思います。
中国で反日行動が起きた時などのメディアの対応を見ていると、私は、日本の一部の人々はまだ中国人一人ひとりの声や想いを聞く余裕がないという印象を受けました。
現在は経済が発展し、情報化社会になり、社会は多元化してきています。従って、より個人の考えが表に出てくるようになっています。日本と日本人が、このように進歩している中国の社会へどのように対応していくかが問われていると思います。この問題が日中関係の一つの課題だと思います。中国だけでなく、アジア各国の一人ひとりの声も日本に届くようになり、特にアジアの戦争被害者の声が日本に届くようになってきましたが、まだその声はほんの一部です。
日本は、この問題に直面しなければならないと思います。
以上は短いものですがいま私が考えていることです。ありがとうございました。
◆ 研究者からの発言
【荒井信一さん】----(日本の戦争責任資料センター代表)
小泉がなぜ靖国参拝を続けるのかについて話したいと思います。また、1942年の日中共同声明で、中国が国家賠償を放棄したことも時間があれば述べたいと思います。
首相の靖国参拝理由として、日本の英霊に対して、今日の平和を感謝するために参拝するということがあります。これは日本人の平和意識にも関連するのですが、日本人の平和意識には、戦争による加害意識は非常に薄く、逆に原爆や空襲による被害意識の方が強く、これが戦後の日本人の平和意識の中で役割を占めております。ですから、小泉の「英霊のために今日の平和がある、それを感謝するために靖国神社を参拝する」、これはもっともらしく聞こえます。
なぜ小泉が靖国参拝をするのかということについて、同じ自民党議員の平沢勝栄が述べています。平沢議員は、あれは自民党と自民党支持者らのために行っていると感想をもらしたことがあります。これは重要な意味があると思います。自民党は選挙に勝つこと、自民党の票を獲得するために支持組織をつくることが非常に重要としております。
その一つが日本遺族会であります。これは戦没者遺族の会ですが、実質的には40年ほど前から性格が変わり、自民党の票を集める集票組織の役割を果たしています。
また軍人恩給連盟というのもありますが、これは戦争に参加した軍人に今でも恩給が支払われるというものです。戦時中の階級に応じて支払われているのですが、おそらく現在生存しているもっとも上の階級は中将だと思いますが、年間700万円支払われております。
このような集票組織について、小泉は苦い経験があります。1995年に自民党は初めて総裁選挙を行いました。つまり党員が総裁を決めるという選挙です。この選挙で橋本龍太郎という議員がいましたが、この橋本龍太郎は日本遺族会の会長でした。後に日本の首相となります。小泉はこの選挙で橋本龍太郎に惨敗してしまったのです。
小泉の選挙区は神奈川県の横須賀市ですが、ここは旧海軍関係の遺族がたくさんいました。小泉にとってはこの遺族らは大切な集票組織でありました。ところが自民党総裁選挙の時、この遺族らの票は全て橋本龍太郎へと行きました。なぜなら、橋本龍太郎は日本遺族会の代表として靖国神社を公式参拝していたからです。遺族らはそんな橋本龍太郎に期待をしたため、小泉は惨敗してしまったのですが、これは小泉の中で今でも大きな苦痛として残っていると考えられます。
小泉は橋本龍太郎の次の次に首相となったわけですが、小泉にとって靖国を参拝するということは、自民党の中の確執といいますか、対立といいますか、つまり橋本派というのは、今の小泉の構造改革の反対派となっておりますけれども、これに対して、小泉が主導権を主張するためには、やはり靖国参拝が重要な意味を持っております。小泉は靖国を何度も何度も参拝することで、橋本龍太郎との違いを明確にし、誇示しているのではないかと考えられます。つまり、小泉が何度も靖国を参拝するのは、自民党での主導権を主張するためであるということです。
それから、10月18日に靖国神社参拝問題について、小泉が靖国を参拝することで、中国との交流が途絶えてしまうのは問題ではないかと自民党議員から質問がありました。これに対して小泉は、中国が愉快に思っていないことは知っているが、よその国が、死者の慰霊の仕方がよろしくないからといって、参拝をしないというのは果たしていいことなのだろうかと返事をしております。
中国が靖国神社を参拝することに対して反感を持つ大きな理由として、A級戦犯が合祀されているということがあります。これについては小泉も知っているはずなのですが、一般的な答えではぐらかしています。
そのことに怒った投書が、10月22日付けの朝日新聞に掲載されていました。内容は、小泉が靖国参拝の理由を一般論にすり替えることや小泉の参拝に理由のある不快感を示すのであれば、それを尊重することは、決して自分の立場を捨てることにはならない、と批判しております。そしてこの投書は最後に、小泉の答弁はあまりにも言葉が単純化しており、納得ができないと述べています。
私は小泉の靖国神社参拝の答弁が単純化、つまりフレーズ化していると思います。
このような首相が自分の考えを単純な一言で述べるということには前例があります。それはヒトラーです。
ヒトラーは、第一次大戦時に兵隊として従軍しておりますが、ドイツがなぜ敗戦したのかを考えていました。そして彼は、イギリスの洗練性に負けたのだと考えました。つまりドイツは大衆の心を掴むような洗練を怠ったために負けたのだと。彼は第一次大戦後に半自叙伝『我が闘争』の中で、そこで洗練の重要性について非常に強調しております。そこでヒトラーは、どうすれば大衆の心をつかむことができるか書いております。
このようなことから、小泉のフレーズ化した発言は、大衆を自分の思うように操作するのに効果的な要素であると考えられます。
ですから、私は小泉の靖国神社参拝は、やはり自民党の生地の表れであって、自民党や自民党支持者をつなぎとめる、また今の停滞感をもっている日本の大衆を戦争する方向にもっていくという本質があるのだと思われます。
結論から言えば、これはうち向きのものであると言えます。小泉の他に石原慎太郎という、自民党員から圧倒的に支持されている人物がいます。ですから、表面だけを見て批判するのではなく、隠れた部分を民衆同士で討論することが非常に重要であると考えます。
実はここ4年、中国・韓国・日本で共通に使える歴史教材をつくろうという企画が進められています。来年の5月には日中韓で発売を予定していますが、ここに至るまでは多くの問題がありました。国によって歴史の解釈が異なっていたからです。しかし徹底的に討論し、一方的でなく、共通の解釈をすることが重要なのだと感じました。ですから、私たちは一方的に意見を押しつけるのではなく、お互いに共通の理解をつくっていくこと、そしてそれを広めていくことが重要なのであると考えます。ありがとうございました。
【聶莉莉さん】----(東京女子大学教授 文化人類学)
今日は私がフィールドワーカーとして活動してきたことについて述べたいと思います。
私は1998年から中国の細菌戦の被害調査をしてきましたが、主に個人の記憶について重点をおいて調査してまいりました。
今回のテーマは戦争責任と日中友好についてですが、私は市民団体の方々達と話し、皆さんが中国国内での反日感情について、例えばサッカー場でのファン達の反応や売春事件などについて、苛立ちを感じていると私は読みとりました。
いったいこの細菌戦裁判が、日中関係の中でどういう位置づけをしているのか、この問題には私なりに関心があります。また先ほど王選さんが歴史問題については具体的に語らなければならないということや被害の問題の諸側面について発言されていましたが、これらについても私の見解を述べたいと思います。
まず一点目として、荒井先生のレジュメの中にある、過去を忘れようとする国家の政策と現地の人と民意のズレということに触れられたのですが、中国は日中国交正常化以後、戦争の賠償を放棄し、日本との友好に力を入れてきました。しかし民衆の間から戦争被害に対する記憶・怒りがわき起こり、民意と国との間にズレが生じているのではないかと言われています。
私は個人を対象に調査しているため、この民意のズレを非常に感じました。どのような民意なのか、私の記憶や調査した角度から分析してみようと思います。
常徳では7800人もの被害者のデータがあり、そこからたくさんの人が細菌戦で亡くなっています。非常にむごい犠牲を強いられ、提訴した1997年まで、細菌戦の犠牲者たちは、被害の事実を誰にも言うことはありませんでした。それはなぜなのかと、私は疑問に思いました。
ここで私はフランスの歴史学者ピエールの「記憶の場」という概念を用いました。細菌戦の被害者は記憶の場というのを失ったのではないかと思います。記憶というのは、人と共に生きて、人と共に存在しているものです。ノラの分析によると記憶には物質的、象徴的、機能的な側面があります。細菌戦の記憶は、この中のどれにもあてはまらず、記憶の場というものがありませんでした。
このような戦争記憶が、なぜ中国で語られなかったのかということについて考える場合、このズレで説明できると思います。この記憶というのは分析すると三つのレベルに分けられます。国家の記憶、地域の記憶、集合的記憶と個人の記憶。特に細菌戦ではこの記憶にズレが生じています。このズレについて、私はこう考えます。
長い間、中国の国家的なイデオロギーはいくつかの特徴があります。一つは抗日、もう一つは抗日の面を強調しながらも民衆の犠牲を見落としてはいないということです。日本軍に暴行された被害者を綿密に見るということがなかったのです。
言い換えれば、犠牲者の立場に立って、ヒューマニズム的に指導することがなかったのです。ですから、闘うことを強調すると、犠牲がでるということになります。ここでいう犠牲というのは、主に革命によって命を落とした革命烈士や英雄共産党員のことです。中国には犠牲の中に民衆の意味はなかったのです。
もう一つは国家主義というスタンスにたって、国家から共産党員が民衆の苦難を救ったという意味があります。ですから最終的には国家の方の過去を忘れないだとか、共産主義や社会主義建設、そこに還元するんですよね。個人一人一人の救済、内面のことを言い出して、その言い出したことが尊厳を回復するとか、ヒューマニズムの立場が足りなかったんですね。
また、集合的記憶と個人の記憶にもズレが生じているんです。常徳を例に見ると、日中戦争の間にいくつかの大きな事件がありました。
一つは常徳会戦ですね。それについて常徳の人々は語っています。10数万の日本軍に対して、国民党は1万未満の兵士で街を守ったということが人々の間で話され、記念館も残されています。
それなのになぜ細菌戦については語られなかったのか。民衆の記憶にならなかったのか。それについては文化的、心理的、社会的な要素があります。細菌戦の被害は疫病による、非常に醜い、悪いイメージがあります。長い間、それが日本軍による病気だとわからなかったんです。ですから、祟りや悪霊の仕業で、けれどもそれがどうしてその人がかかったのか、その人の宿命なのか、果報なのか、そのような民俗宗教的な目で見ました。すると、差別・軽蔑の目で見るという問題もありまして、死体が変形したり変色したりと、醜かったので語られなかったということがあります。
今回の裁判に、このことは大きな意味を持っていると思います。やはりこの国際人道主義を擁護する立場に立って、個人の尊厳に焦点をあてたような訴訟を起こすということは、このような中国における記憶のあり方という背景において、非常に意味を持っていると思います。
次の話題に入ります。荒井先生が問題提起した、政府主導のナショナリズムと大衆のナショナリズムについてですが。このナショナリズムを細分化することは可能だと思います。ここで学者の意見などをあげさせて頂きます。
南京大学の王キンテイさんの論文をあげます。「群衆性民族主義と崇高化の肥大」というタイトルですが、彼は民族主義を三つの次元で捉えています。荒井先生のおっしゃていた大衆ナショナリズムの場合、ウチとソトの優劣についてです。一概によそ者を排斥するんです。二番目は小さなことを無限に拡大するというか、個人のことでも国家民族の次元で捉えるということです。三番目は民意の名義で数量でも優勢に見えるんですね。それが王さんがまとめた特徴です。
したがって国家は民族的なナショナリズムを利用しながら、国家主義的なものを拡張し、政治的に利用しやすくしています。
ですから、中国の場合もそうですが、戦争記憶を引き起こして、その途端、どうしても中国の今の体制、国家主義の主導において、今のイデオロギーのもとでに染まらずにいられなかったと思います。そのあたりは非常に複雑だと思いますが、民衆が自然な感情、戦争記憶や体験がありながら、一方で自分の表現をまとめるか、自分の求心力を求めるか、自分の利益を誰を代表にして実現できるか、それを自然に国家に求める面もあるんです。それを利用しないということはないと思います。
その辺は長い歴史の中で、民族主義と国家の相対関係をある程度理解したら、より理解しやすくなると思います。一概にいいか悪いかは判断できない問題だと思います。
中国の学者として、あるいは中国人として、冷静に分析して、このような複雑な問題を日本でも理解的に理解してほしいと思います。
最後に国際交流と国際市民連帯についてですが、やはりどうしても国家主導に、国家という枠に封鎖されたところがあります。はたして民衆一人一人を大切にして、一人一人の尊厳を大切にしたか。そこはどうしても限界がでてくると思います。
ですから、荒井先生がおっしゃっていたような、市民のレベルで行動を起こすことで、その限界性を超えること、打破する重要な一歩だと思います。ですから私もこのような葛藤から、今日本国内で起こされている戦争裁判について、そこにはいつも日本と中国の間、民衆や学者、あるいは被害者と加害者の間
、市民団体の間に強い連帯を感じます。そこには希望があるように見えます。
ここで一冊の本を紹介致します。谷川先生の本ですが、国民国家とナショナリズムについて、ヨーロッパを例にあげています。EUという壮大な枠組みが、国民のアイデンティティーの復興をもたらしています。単独性からもたらされた戦争の偏見、お互いの隔たりを打破する一つの道ではないかと思います。
アジアではヨーロッパほどではないのですが、今市民のレベルで努力の対話、知識の共有、単独的閉塞的な視野の打破ということからスタートしていくことが、非常に未来のあることだと思うんです。
今、中国では有名人を市民が選挙して選ぶという催しがしばしば行われていますが、そういう投票で細菌戦原告団の活動が評価されて王選さんが有名人10人の一人に選ばれています。また日本の市民運動や弁護士達の活動も、中国の人たちに注目されるようになってきました。そういう動きを見ると、少しずつ良い結果があらわれていると思います。民間の日中の交流がもっと広がり、それがバネとなって日中両国の真の友好が発展することを信じています。
◆ 自由発言(中国からの来日者から)
【方時偉さん】----(浙江省衢州市出身 細菌戦被害者)
皆さん、こんにちは。本日は、この機会をお借りして、私がかつて日本軍の侵略の被害を受けた事実を皆さんに申し上げたいと思います。
私は1928年2月に生まれ、現在77歳です。1940年、日本軍が衢州にペストを投下しました。衢州でたくさんの人が死にました。それで衢州の人は、住み慣れた土地を離れて、あちこちに逃げなければなりませんでした。私の場合は市から15km離れた田舎の方に逃げました。
1942年の8月、当時私はまだ14歳でしたが、日本軍が再び衢州あたりに多くの種類の細菌を撒布しました。それで私の母が感染し、いつも下痢をするようになりました。親戚や私を含め、炭疽菌に感染しました。数ヶ月の間に多くの人が死にました。
夜中、母が「つらい、のどが渇いた」と言うので、私は起きて、お湯をわかして持っていきました。けれども母は何の反応もありませんでした。私は何度も「ママ! ママ!」と呼びました。しかし、母は全く反応しませんでした。私はまだ14歳だったので、どうしたらいいのかわからず、ただただ「ママ! ママ!」と叫ぶことしかできませんでした。私の叫び声を聞いて、近所の人が来ました。しかしその人は「あなたのお母さんはもう息をしていない。死んでいるよ。」と言いました。
私はまだ14歳の少年だったので、どうしたらいいのかわかりませんでした。
でも私は奇跡的に生き延びることができました。私の場合、2回死にそうな目にあったのですが、2回目というのは1945年の8月の中旬で、日本が降伏する寸前なのですが、私は日本軍に捕らえられて、死ぬほど殴られて、足の上の方の黒い傷はその時に殴られた傷跡で、私はその時死にそうになったのですが、なんとか生き延びました。
今回日本に来たことは、中国の多くの新聞・テレビ・マスコミが、日本に来る前から報道しました。現在でもほぼ毎日報道しています。私が日本に来て、自分の被害の事実を話すことに、中国人の多くが非常に関心を持っています。
私は77歳ですが、私の生きているうちに必ず、自分の被害の事実を、すなわち日本が中国へ侵略した戦争犯罪の事実を、生き証人として、これから日本人や中国人民に語っていきたいと思います。
日本に来て知ったのですが、こちらには81歳の弁護士がいらっしゃる。昨日はインターネットを見て、81歳の女性が私を訪ねてきました。このように私よりも年上の方がこうやって頑張っているのを知り、私は非常に感動しました。私も彼らを見習って、これから努力していきます。この裁判が勝利するまで一緒に頑張りましょう。どうもありがとうございました。
【羅立娟さん】----(ハルビンから来日した毒ガス被害者訴訟団の弁護士)
皆さんこんにちは。私は昨日日本に来たばかりで、ここで発言を求められると思いもしなかったので、何の準備もしていないので申し訳ないのですが、戦後裁判について、私の知っていることや感じていること、希望などをお話させていただきます。
私はこのような集会に参加するのは初めてではありません、チチハルの毒ガス裁判にも関わってきましたし、2003年2月15日と9月22日の東京高裁の法廷にも行ったことがありますし、訴訟と訴訟に対する日本の社会の方々の支持・支援の集会など
に参加して、かつての戦争が中国人民や日本人民にもたらした被害を改めて認識しました。
日本に来る前には、かつての日本の中国に対する侵略が中国に対して多くの被害をもたらした、悲惨な状況がわかったのですが、しかしこのようなチャンスで日本に来て、弁護士の先生や日本の支援の活動している人たちと交流し、中国に対してだけでなく、日本に大しても非常に被害をもたらしたとわかりました。
そこで私は思ったのですが、将来において、過去のような悲劇が再び起こらないよう、中国人民も日本人民も希望しています。我々は世界の平和を希望しています。そして中日友好の関係が末永く続くことを希望しています。
民間の戦後賠償の問題についてなのですが、2003年の9月22日までは、日本と中国の間では、法律上おそらく大きな隔たりがあると思っていましたが、しかし9月22日の勝訴によって、私は一人の弁護士として、この問題はもはや法律の問題ではなくなったと考えています。それは政治家の認識の問題、特に日本の政治家の認識の問題であると思います。日本の政治家がしかるべき姿勢と方法をもって、この問題を対処すれば、戦後処理を含めて、歴史的問題を解決することは、決して難しいことではありません。しかし日本の政治家には、それを直視するような勇気はないようです。しかし正しい姿勢をもって、勇気をもって、この問題を認識して対処しない限り、中日友好関係の更なる発展は難しいと思います。
我々の努力、日本の方の支援の努力によって、中日関係がより良くなる。そして現在も冷えた側面もある関係が、全面的に熱くなるようになることを望みます。我々が隣国として、いろんな面で非常に深い交流をもっています。我々が努力すれば、中日関係はより明るい将来をもつと思います。ありがとうございました。
◆ 中国人留学生から
【張剣波さん】
私は大学で歴史学を専攻していて、主に中国の近現代史について勉強しています。
昔、中国にロシアで通訳をしていたシテツという人がいました。彼は通訳という仕事についてこう言っていました。
通訳という仕事は、言葉の橋渡しをしているだけで、全く自分の意見を言えず、苦痛であったそうです。しかし私はそのようには思っていません。
私は中国の被害者の声、弁護士の先生方の声、市民の皆さんの声を伝える。それらの声はみな事実の声であるし、正義の声でもあります。その中の多くは、私の言いたいことでもあります。なので、人の声を借りて自分の心を表す。そういうとても素晴らしい仕事は他にありません。仕事といってもお金をもらっているわけではありませんが、通訳という仕事をとても楽しんでやっております。
【徐愛玲さん】
私が言いたいことは二つあります。
私は、以前、日本の学生たちに日中戦争について尋ねたことがあります。ほとんどの学生が日中戦争について知っていました。ただ、日中戦争がどうして起こったのか、日本軍が当時、どのような残忍な行為をおこなったのかについては知りませんでした。
時々反論されることもあります。なぜ中国は未だに歴史問題にだけとらわれて、日本を責め続けるのですか、南京で大虐殺はおこなわれたのですか、細菌を使って中国人をたくさん殺したのは本当ですか、などがあります。これらの背景には、日本政府が学校で歴史を正しく教えてこなかったことと、日本人がマスコミだけを通じて、歪んだ歴史の真実を認識していたことが反映していると思います。
戦争によって何人が殺されたのかという数字の問題だけではなく、日本がどのくらい残忍な手段を用いて、中国人を殺してきたのかという真実にも目を向けてほしいと思います。
ですから日本政府のやり方はとうてい理解できません。歴史をよく知るということは、ただ経験をつむということではなく、将来再び残忍な戦争が行われないように警鐘することでもあります。
日本政府がこのような認識がないために、戦後60年近く経っている現在でも、アジア各国から絶えず批判を受けているのではないでしょうか。日本と中国の両政府の考え方には、かなりの隔たりがあり、ずっと平行線のままとなっています。これが両国関係における最大の阻害となっています。
もう一つは中国側に対してなのですが、中国政府はやはり、中国国民に歴史問題と別の問題を一緒にしない方がいいと考えております。
例えば重慶でのサッカーのブーイングの事件なのですが。中国のある観客が記者のインタビューに、戦争中日本は重慶で空爆をしたから、ブーイングでやり返しただけだと答えていました。この人は戦争に対して正義感をもっているからかもしれませんが、でも戦争問題は戦争問題でスポーツとは関係ないと思います。ブーイングという行為は、センセイ全世界で禁止されている行為であることを認識してほしいと思います。ブーイングという行為を正当化させないように、中国は教育に努力すべきであると思います。
中国と日本の関係の改善は、まず両国の政府が努力しなければならないことと、民間においては、交流をもっと密接化させ、時間が経つにともなって、両国の理解と信頼が強化されていくのではないかと思います。私はこれからもこの問題にむけて、両国民の理解と努力が活性化することを願っております。 ご静聴ありがとうございました。
【劉迪さん】
フリージャーナリストとして、日本でも十数年活動しております劉迪と申します。今まで中国で細菌戦について、最近の中日関係について報道してきました。
最近、中日関係に変化の兆しがみられるようになりました。その一つに中国と日本の世論の変化があげられます。
最近小泉政権に行き詰まりが感じられるようになりました。その理由として大幅な支持率の低下があり、自民党の政治家たちもポスト小泉のことを考えているということで、小泉にも焦りがでていることは間違いないです。
もう一つ、中国の世論なのですが。私たちがこの裁判を始めて8年になるのですが、始めは中国で報道してはいけなかったのですが、今では中国全土で多く報道されるようになりましたし、民間でも訴訟などの準備・支援する人たちが増え、次第に私たちの活動内容が多くの人たちに知られるようになり、組織化されてきました。
これらのことから、今後中日関係を左右する要素として、政府間だけの問題ではなく、両国間の民間の力も重要であることがわかったと思います。
先程のお話でもありましたが、中国人民はなぜ今でも戦争という歴史問題について意識が強いのか。これは王選さんや一瀬弁護士とともに私もよく話し合うのですが、これについてはっきりとした答えはわかりません。しかし中国人民は、過去に受けた残忍な行為が再び行われないことを願っています。ですから、次の世代のために、このような事実を残そうとしていることが理由の一つとして考えられると思います。過去の事実を明らかにすることで、人類の進歩に貢献できる、こういった考えがあると思います。
もう一つは、この訴訟を通して、全人類の共通の原則をまとめ、この原則に背くことがないよう努力していると思っています。
私はそれをこの訴訟を通じて得られることを期待していますし、原告団や弁護士の先生がそれを目標として頑張っていらっしゃるのではないかと思います。
十数年日本に滞在し、メディアの報道の体験者として、私は日本の市民活動をもっと中国人民に知らせた方がいいのではないかと思います。ですから、今日いらっしゃっている寧波の記者に私は期待しています。日本での活動をもっと中国人民に知らせることはとても重要なことだと思います。
ただ訴訟の時だけ報道するのではなく、そこに至るまでの経過やどんな準備をしているかなど、そういうことも中国人民に伝えるべきだと思います。
これには二つの意味があります。一つは中国の人々に支援してもらうという意味もありますが、もう一つは、中国の多くの人々に、日本にこんな素晴らしい人たちがいることと、中国人民と同じような考えをもっているというメッセージを伝えるべきだと思います。
そういうことで、私はこれからも中国のメディアの方々と一緒に努力していきたいと思います。私の話は以上です。どうもありがとうございました。
【王選さん】
先程、方時偉さんの話しの中に炭疽菌についてありましたので、私の調査したことなどから、炭疽菌の使用についての背景・状況をお話ししたいと思います。今日は日本のすばらしい細菌学の先生である中村明子先生もいらっしゃっていますので、皆さんに誤った知識を伝えないようにいたします。
731部隊は炭疽菌を培養した。これは、元731部隊隊員である篠塚さんの証言の中にも脾脱疽として出てきています。
ハバロフスク裁判でも、生産部長の柄沢十三夫の供述によると、月600kgの生産能力はもっていたとあります。
そして1942年の浙?作戦において使用したということが、日本の学者常石敬一氏の著書に書かれています。
最近私は1942年当時に防疫活動をしていた人に話を聞きました。すると当時から、撒かれた細菌が炭疽菌であることを知っていたと言います。
1942年の浙?作戦が行われた時期に衢州や金華などで同時に多くの人の足が腐るという病気が流行しました。方さんは先程言いませんでしたが、方さんの村でもほとんどの人の足が腐りました。中国ではその病気を今でも炭疽病と言っています。
今年の夏に1943年の公文書を発見しました。その中に当時日本軍の元でスパイをしていた中国人のことが書いてありました。緑色の小さな薬のようなものを渡されたとあります。それを水の中に入れると、中国人の足が腫れて腐ると書かれてありました。
これについて、日本が炭疽菌を撒いたかどうか検証したいので、医学的な根拠を得るためにも、私たちは中村先生の協力を得たいと思います。
とにかく、今年の夏に文献が発見され、確かに1943年に日本軍の作戦によって引き起こされたのだということが確認されたということです。以上です。ありがとうございました。
自由発言(日本から)
【土屋公献さん】----(731部隊細菌戦裁判弁護団団長)
この731部隊細菌戦裁判の弁護団長を務めさせていただいております、弁護士の土屋と申します。本日は大勢の方に来ていただいて、とても感謝しております。
この裁判は第一に、過去においてこのような残虐な行為があったという事実を最大もらさず、裁判という法廷を通じて、傍聴される方々を通じて、あるいはマスコミの方々を通じて、全国民、全世界へこの細菌戦という歴史事実を広く知らせるということが細菌戦裁判の一つの目的であります。
もう一つは、細菌戦によって亡くなられた方々の無念をはらす、慰める、尊厳を回復させる。これがこの裁判のもう一つの目的です。
そしてこの裁判に勝つことによって、日本政府に今までの卑劣な姿勢を改め、被害者達に心から謝罪をし、賠償する。そのことによって、このようなことを二度と再び繰り返さないようにする。これが多くの犠牲者をだした中国と日本国民との、本当の意味の友好、平和、共存、これを築くため、そしてこれが世界の平和に繋がる。これが、裁判の大きな目的なのであります。
この度、中国から来日された方々から貴重なお話しを聞き、また研究者の先生方から新たな知識をたくさんの得ることができました。大変有益な会であったと思います。今日得た勇気と知識を糧にして、この裁判を最後まで勝ち抜くために、私はそれ
までは絶対死ないで頑張ります。
【篠塚良雄さん】----(元731部隊少年隊員)
被害にあわれた方々を前にして、本来なら謝罪をすべきなのですが、今日は省かせていただきます。それはただ謝罪をすれば解決できるという問題ではないからです。私自信も力の無い中で、自分のおこなった犯罪の事実を暴露することによって、日本府の戦争責任を追及してきたつもりです。しかし現在にいたってもまだ裁判の勝利勝ち取ることができなかった。当時の加害者の一人として、無念であると思います、自分の力の無さを痛切に感じております。
私のこれから申し上げることは、昨日証言された事柄についてですが、それは事実その通りであります。これは私が参加してつくったものであります。
1940年、この時は私が命じられてやっていたことは、ノミを増やすことです。また、この年、この部隊ではハルピン、平房にあります引き込み線から、汽車を用意し、実験機材を全て積み込んで、南京杭州へと向かったんです。これはですね、多くの隊員がそこに参加しています。この時は、平房の飛行場から頻繁に飛行機が飛び立っていた時期でもあります。1940年の細菌戦、これはその通りであります。
また、1941年でありますが、私の知っている範囲では、これが一番細菌の大量生産の時期であったと思っています。
この時につくられた細菌ですが、私は全てを把握しているわけではありませんが、炭疽菌もあったと思います。しかし、この部隊では炭疽菌と呼んでいませんでした。脾脱疽菌と呼んでいました。これは芽胞菌でありますから、炭疽菌であることは間違いないと思います。しかし炭疽というとわかりやすいために脾脱疽菌と呼んでいたのかもしれませんが、私は今まで炭疽菌と脾脱疽菌は別だと思っていたのですが、やはり炭疽菌と脾脱疽菌は同じ細菌であるということを最近知ったわけであります。
この時以降に、もう一つ炭疽菌については、三谷班という班があり、乾燥細菌をつく
る部署でした。
1941年から1942年にかけて、私の知っている限り、非常に大量の細菌をつくっていました。その中に関特演というのがありました。それは関東軍特殊演習ということで、日本の侵略した満州、ここに兵力を集め、南に行くのか北に行くのかと言っていた時期でもあります。731部隊からも隊員の多くは、それによっていわゆる中国戦線へと行き、最終的にはシンガポールまで行っているのであります。その過程の中でどのようなことをしてきたのか、私には詳細はわかりません。しかし、その時衛生隊という言葉を聞いています。
生体実験、生体解剖については、私の所属していた班の任務としては、毒力の強い細菌をつくるためでした。人の体を通せば毒力が高くなる、殺傷力が強くなる、こういうことから、生体実験をおこなっていました。またはワクチンとの力関係、この中でより猛毒な細菌をつくろうとした。このことからも生体実験を多くおこなったのだと私はそのように認識しております。ご静聴ありがとうございました。
それから中・高校生向けに細菌戦についての本を出しました。高校の国語の先生に協力していただいたのですが、最近売れていると聞いております。少しはお役に立てているということなのかわかりませんが、私も先程の弁護団長同様、まだ死ぬわけにはいきません、もう少し頑張ります。ありがとうございました。
【西川重則さん】----(平和遺族会全国連絡会事務局長)
私は今年の4月2日に常徳、重慶に行ってまいりました。私にとっては初めてのもっとも重要な旅路でした。その重要なことを私の反省も含めて、皆さんにご報告し、私のアピールにかえさせていただきたいと思います。
私は靖国神社問題にこだわり続けて、もう30年になります。そして今年の4月、常徳で、私は小泉首相の靖国神社参拝問題についての問題性や報告を求められたもとの思っております。
それから重慶では、1939年の5月3日からだといわれている、いわゆる海軍の無差別戦略構想に基づく、住民殺傷の爆撃を繰り返したという場所を初めて訪ね、いかに戦争の悲惨さ、惨禍、つまり日本の加害の責任がいかに大きいか、それが未解決のままであることを確認してまいりました。
私はこれから毎年中国に行きたい。そして中国を歩きつつ、中国で何があったのか、つまり日本は何をしたのかということを事実に基づいて、私はこれを日本の多くの人にはっきりと伝えたい。
結論を言うと、多くの日本人は重慶がどこにあるのか知りません。常徳についてはもっと知られていません。これはなぜなのかということです。私はこれを記憶の検証教育と言っています。それを靖国神社で言うと、戦争の神社に一変してしまいました。有事法制下の靖国神社。そうした日本人の状況を直視して、私も戦争の加害の責任を担って、かつてあったことを二度と繰り返してはならないという思いをもって、特に若い方とともに旅を重ね、そして再び戦争をしないどころか、本当に友好、親善の日本になって、そして世界の平和のために何ができるかと真剣に考える、残された生涯でありたい。そんな思いで、皆さんに旅に参加していただきたいというお願いも含め、私の話しを終わらせていただきます。
【三嶋静夫さん】----(ABC企画委員会事務局長)
ABC企画委員会事務局長の三嶋と申します。ABC企画委員会の一番始めの出発は1992年、731部隊展全国実行委員会発足以来の活動を続けてきて、これまでに731部隊展で145回、約45万人の方々に見ていただきました。しかし1億2千万人の日本の中で、私たちの活躍の場はまだまだあるのだということを痛切に感じました。
全て日本人がしてきたことです。私たちはこのごまかすことのできない厳しい事実に向き合い、私たちがこれからどうすればいいのかと日々考え、考えながら歩き、歩きながら走る。そういう状況におかれています。
その私たちの731部隊展の全国巡回活動において、もっとも大切にしなければならない、持続しなければならないと考えているのが裁判闘争の支援です。裁判闘争は3つあります。一つは731部隊、空爆、南京大虐殺です。もう一つは毒ガスが二つ。そしてこの細菌戦問題です。
敗訴になった裁判が多いのですが、私はその中でも絶対に譲ることができないのが、国際法違反だという判決が全てにでているということです。もう一つは国家無答責によって認めないということが最近は変わりつつあります。このような不公平は通らないという特徴的にでていることを私はどこでも訴えています。
来年で戦後60年を迎えます。今ABC企画では、戦後60周年を記念して、平房の地に、731部隊の虐殺によって亡くなられた烈士の方の慰霊碑を建てようと計画しております。そのために全国応募をお願いしようという計画を、11月半ばには発表できると思います。
これは建てるという意義よりも、子々孫々にまで私たちは罪を忘れてはならない。そして中国の有名な言葉である「前事を忘れず、後事の師とする」と同時に私自身は仲間と共に日中友好は、「源は遠く、流れは長く」この言葉を大切にしながら、これからも皆さんと共に裁判闘争、あるいは慰霊碑の建立、あるいは展示会の成功を目指して全国をかけ巡る。そのためには、たとえ愚直であっても、息長く、仲間を一人からでも二人からでも増やしていきたいと思います。ありがとうございました。
【吉田義久さん】----(相模女子大学教授 物理学)
細菌戦裁判の支援の立場からお話しさせていただきます。この裁判が高裁にうつり、まもなく判決がくだされようとしています。その中で私たちはどのようにして勝訴を勝ち取るか、それは皆さんの願いでもあります。
原告の皆さん、弁護団の皆さん、市民の皆さんが協力し、論理的には裁判官、日本政府を追いつめているのだと、私自身も感じております。
しかしこの裁判で勝利を勝ち取るには、先程もありました、政治も関係してくると思います。今の小泉政権は戦後補償問題どころか、新しい戦争をおこそうとしています。現に、ブッシュ政権はすでに新たな戦争をおこないました。つまり今は戦時体制に入っているわけです。戦時の中で、戦後補償問題も押しつぶしていくということを政府の側は明確に表明しているわけです。
軍国主義が日中民衆共通の敵であると、陳先生もおっしゃっていましたが、この軍国主義が軍人ではなく、日本政府の首相が語り、経済界の代表が政治を文字通り操っているのです。
この裁判闘争と同時に、軍国主義の復活を抑えていくこと、日中だけでなく、アメリカなどでも反戦運動が行われ、それが潮流になっています。この細菌戦裁判が全人類共通のテーマの一部であることを確認して、皆さんと共に頑張っていきたと思っております。
【前田哲男さん】----(東京国際大学教授 軍事・安全保障学)
大変有益な集会に参加できてありがたく思っております。私はここにいらっしゃっている日本人の方々とは違うルートで来たものです。
私は60年代、長崎でジャーナリストをしておりまして、そのため、核の問題、核の被害や大量殺戮というテーマに取り組んでおり、それがきっかけでした。
70年代、フリーになって、私は太平洋の実験場をまわったり、核の被害者に会うなどして、核の生産よりも核を落とす思想について、それがどこからきたのだろうかと考えるようになりました。
その時に頭をよぎったのが重慶という都市です。私が重慶爆撃について調査を始めたのは、赤道直下のアメリカの核実験場を調査する仕事のさなかでした。
ほぼ20年、重慶爆撃について調査をしてきましたが、そこで私たちは広島・長崎とは違う立場を重慶に対してもっているのだと痛感し、また重慶はまだ終わっていないのだと思いました。
過去の罪を問いながら、同時に世界に向けて、今なおなされつつある悪を告発する。そういう問題意識も共有したいというのが私の思いです。
【中村明子さん】----(細菌学者)
中村です。一審の時に細菌学者の立場から、細菌戦について証言した者です。
先ほど聶先生のお話にもありましたが、日本の細菌学者は、加害者でありながら、その記憶を意識的に封印してきたのだと思います。私がこの裁判で証言をすることに、専門家の中には、なんてバカなことをしているのだと思った方もいたと思います。
第一審で鑑定書を書くうちに、常徳で現地調査をおこなったりしているうちに、この細菌戦がおこなわれたのだと確信をもてるようになりましたし、第一審で細菌戦の事実を裁判所に認められたことからも、非常に嬉しく思っています。
私は加害者である人たち、つまり篠塚さんらを指導した人たちと同じ研究所で研究をしてきました。そういう立場から、私は鑑定書の事実やこの裁判を細菌学者の間に広めたいと考えております。むしろ最近は、こういう事実がおこなわれていたんだと、私を勇気づけてくださる方や支援してくださる方も増えてきております。
中国の民衆が意識をもって裁判に立ち上がったように、日本の細菌学者も自分たちがおこなったと事実を認め、専門家の中からもこの裁判を支援することが大切なのではないかと思います。この裁判に勝てるよう、私もともに闘いたいと思いますし、王選さんがおっしゃっていた炭疽菌の調査についても力をお貸ししたいと思っております。
◆ 閉会の言葉
【一瀬弁護士】
今日はありがとうございました。皆さんの貴重な証言、体験談、決意を受けて、弁護団も土屋弁護士を先頭に頑張りたいと思います。
最後に裁判の日程だけ紹介させて下さい。12月7日に証拠調べが行われます。3人の方が証言されます。証拠調べは残念ながら、今のところその12月で終わりで、その次に来年の3月22日で結審を迎えます。つまりそこで、国側、弁護側もそれぞれ言い分を述べるということが決まっています。
裁判闘争の勝利には非常に重要な意義をもっていると思います。絶対に悔いを残さないために、残る時間を最大限、皆さんの力を結集していただいて、裁判所に公正な、法的な責任を認めさせるまで闘いたいというふうに思っております。以上です。
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