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裁判報告会(2004.9.2第7回控訴審後)

裁判終了後、荒井信一さん(日本の戦争責任資料センター代表) においでいただき、 「最近の中日関係に思う」と題して約1時間講演していただきました。

   ●9.2裁判報告・講演会における荒井信一さんの講演●

最近の中日関係に思う

2004.9.2 荒井信一(日本の戦争責任センター共同代表)



不信感の悪循環------------------------------------------

 現在の中日関係の特徴のひとつは、経済と安全保障の面で相互依存関係が急速に進んでいることです。例えば経済の面で色々と挙げることが出来ますけれども、直接的には日本企業が大量に生産拠点を中国に移していますし、進出の仕方も非常に多様になってきている、ということがあります。
 安全保障の面でいえば、日本では北朝鮮拉致問題が強調されますが、むしろ東アジアの非核化について六者協議という枠組みができていて中国も日本もその枠組みで動かざるをえなくなっている。北朝鮮の核問題を解決するために多国間協力という枠組みは無視できませんし、その中で中国のイニシアチブが非常に強く発揮されてきていることも大きな特徴でしょう。

 それからもっと細かいことを言えば色々あります。例えば2001年から中国一般人の日本への観光旅行が大幅に自由化され、大勢の中国人が日本へやってくることができるようになった。これからその数はおそらく激増するだろうと思われます。反対に二、三年前の経験ですが、北京の故宮のウラの道を日本の女子高校生二百人ぐらいがミニスカートにルーズソックスでぞろぞろ歩いている修学旅行に出くわしたことがあります。
 そういうことも含めて民間レベルでの相互交流が進展してきている。人と人との交流もそうですし、企業の進出もそうです。あるいはボランティア、例えば中国の砂漠化を防ぐための植林運動も広範囲に、色んな人がボランティアとして参加し中国の奥地にまで出て行っています。そのような面だけをみると日中関係は緊密化してきておりますし、安定化に向うように思えます。しかし、反面では今度のアジアサッカーの試合では、重慶、済南、それから北京で、日本の選手やサポーターに対するブーイングなどの問題が起きました。中国の大衆の日本を見る眼がきびしくなってきていることも大きな特徴です。

 私は9月中旬から中国に二週間近く滞在し、前半は主として陝西省の農村、後半は北京にいましたが、反日的な感情が日常的に日本人に向けられているとは感じられませんでした。しかし事件としてここ一年間に報道されたものを挙げても、日本人の集団買春問題とか、西安大学での文化祭問題とか、あるいは日本軍の遺棄した毒ガスの問題であるとかが中国内で次々に報道されて中国人の対日不信感をかきたてています。
 遺棄毒ガスはいうまでもなく、重慶にしろ済南にしろ、日本の侵略の記憶と強く結びついた土地ですし、集団買春にしても私には、珠海のホテルでの日本人男性団体客の姿と、かつて慰安所の前に列を作った日本兵の姿とがダブって感じられました。

 日本側でも、中国の存在感の増大、渡日中国人の犯罪の多発、凶悪化を背景に中国や中国人にたいする反発や極端な言論が報道される状況があります。こういうことで中日相互に大衆感情が悪化し、不信感が不信感を呼ぶ悪循環が始まりつつあるようにさえ思われます。



毒ガスと新幹線-------------------------------------------

 外交の公開は、第1次大戦以来民主的な外交の原則になりましたが、それは世論の重要性に注目したからです。しかし20世紀の大衆社会では政府や言論・マスコミの操作によって「世論」が作られ悪用された例は数々あります。大衆の心理を熟知したヒトラーの政権獲得の手口もその例の一つです。この危険を防ぐために私は最低限、「情報の公開」が必要であり、また賢明な政治指導が期待されると思います。自由な言論の役割にも期待したいと思います。

 今の日本の場合、とくに北朝鮮拉致問題で「世論」がマスコミ、あるいは右翼的な発信者等によってミスリードされた面が多い。そういう「世論」がリーダーシップに大きく作用し国交正常化交渉が長期にわたり停滞するということになりますと、マイナスに作用していく。そういう要素がかなり顕在化している。これが現在の一つの問題だろうと思います。もちろん北朝鮮が情報を秘匿し操作していることが、マイナスに寄与していることも否定できません。北朝鮮が拉致問題を重大人権侵害問題として、真相究明をはじめ国際基準にかなった解決をおこなうことが必要です。

 そこで日中関係に戻りますと、昨年9月、大衆的な対日不信感のいわば震度を実感する機会がありました。中国社会科学院日本研究所で「近代日本の内外政策」という学術討論会があって、北京にいったときの話です。一日目が確か9月6日だったと思うのですが、その時に中国日本史学会の会長と、社会科学院の世界政治経済研究所国際戦略室のメンバーの二人から話があるので一緒につきあえということで、研究会が終わってから一緒に食事をしました。
 その時の話は、ちょうどその前の8月、黒龍江省チチハル市で旧日本軍の遺棄毒ガスにより死者1名をだし43名が負傷入院した事故についてでした。この事故が一体日本の新聞でどのくらい報道されているのかという質問でした。朝日新聞で2回報道されている。1回は1面で多分、5段ぬきか6段ぬきでかなり大きく扱っていたと記憶している、と答えましたが、彼らが言いたかったのは、中国と日本の世論の落差でした。

 中国ではこの問題をめぐって世論が非常に沸騰しました。当時、中国では北京-上海間の新幹線の建設が重要な問題でした。その場合、日本方式でいくかドイツ方式でいくかフランス方式でいくか、が問題でした。技術的には日本の新幹線方式を推す人たちもいましたが、毒ガス問題を契機とする反日感情の噴出と平行して反対論が高まり、もし政府が日本の新幹線方式を導入すれば「政変」がおきかねないという話でした。「政変」というのは事態の深刻さを印象付ける形容詞と思いますが、「世論」の沸騰が新幹線の導入という経済問題にまで影響を与えつつある現状が読み取れました。

 彼らの話はまだ続きがありました。前日の9月5日に、全人代の呉邦国議長が訪日をしています。その前の3日から4日にかけて日本から防衛庁、外務省の係官が北京にやってきたそうです。全人代議長の訪日の時に毒ガス問題を解決したいという政治的な要請が多分あったのですね。しかし毒ガス問題の落としどころについて中国側と詰めたけれど結局交渉は成立しなかった。全人代議長の訪日は空振りに終わってしまったという趣旨の話でした。私が帰国してからの話ですが、10月19日に日中両国政府がチチハル事故について合意しています。日本政府が中国政府に「遺棄化学兵器処理事業にかかわる費用」として3億円を支払うという内容です。支払いの理由が処理費用という実務的な名目になっているところに、中国の世論との大きな落差が感じられます。

 中国の有力紙『中国青年報』は9月7日から10月5日にかけて全国の青年層を対象にチチハル事故による日本への印象の変化について調査しました。83%が対日印象を悪化させていることがわかりました。75%は「もともと悪かったが、さらに悪くなった」、8%が「もともと悪くなかったが、悪くなった」と答えました。彼らが印象を悪くしたのは、日本政府が責任をとらず、賠償に応じていないと感じているからだと思われます。日本政府の姿勢について86%が「戦争責任から逃れようとしている」と答えました(朝日新聞、2003年11月11日付)。金額も当初、1億円と伝えられましたが、3億円になった。理由はわかりませんが、私は日本政府が実務的経費として押し切った代償がプラスの2億円では…と勘ぐっています。チチハル事故の後、日本政府にたいし賠償を含む被害回復を要求する呼びかけがインターネットでおこなわれましたが、全人代議長の訪日のあと賛成署名が一日10万のオーダーで増え、9月15日には150万に達したという話も友人から聞きました。

 いずれにせよ、中国青年の対日印象の悪化は新幹線導入のような経済問題にまで影響するようになっていると思います。中国経済にとって非常に重要なインフラ整備の一環であります。こういう問題までが大衆感情というバリヤーに阻まれて円滑にいかない。私は遺棄毒ガスの問題でするどくあらわれたようにその根底に戦争被害の問題の未解決ということがあると思います。とくに遺棄毒ガスの問題については9月29日に東京地裁が日本政府の賠償責任を認めたばかりであるのに、実務的経費の支払いという名目で両国政府が合意し、中国風にいえば戦争遺留問題を積極的に解決しなかった。実務的な解決を選択した中国政府と、大衆の感情とのあいだにも落差があったと感じざるをえません。もちろん経済、安保の面で日本政府と協調せざるをえない中国政府が、外交実務のうえでは戦争遺留問題を優先順位の下位におく理由は理解できます。すでに小泉首相の靖国神社参拝の問題が、日中間の外交を停滞させています。政府レベルでは実務的解決はやむをえなかったのかもしれませんが、大衆レベルでは、不満の残る解決であったのではないでしょうか。
 そして今度のサッカーのブーイング等も観客のマナーの悪さがあったにせよ、その延長線上で理解すべき問題ではないか。基本的にはそれは何に由来するかといえば、やはり加害、被害の関係をはっきりさせて、日本が加害に対して謝罪し、被害者にたいし必要な補償を支払うという、つまり過去の清算がキチンとなされていないことから始まる問題です。



「過去は忘れましょう」と過去の清算--------------------------- 

 戦争遺留問題における政府の対応と大衆感情の落差について、私は50年前のある体験を思い出します。
 1956、7年ころというと、日中の国交はまだありませんが、人的交流が始まりつつあった時期です。同時に日本では岸信介が保守政界に返り咲きやがて首相になっていく。かつてA級戦犯容疑者として逮捕された人たちが裁判にもかけられないで釈放され、しかも日本の政界の頂点に急速に復活しつつある、こういう時期だったわけです。

 その頃だと思いますが、中国の『大公報』の王雲生社長が来日しました。『大公報』紙は中国共産党と統一戦線を組んでいた第三勢力を代表する有力な新聞でした。私たちは、別のことから王雲生の名前をよく知っていました。9・18事件、つまり満州事変の始まった翌年、1932年から王雲生が『大公報』に「中日交渉六十年史」の連載を始めました。これは『日華交渉六十年史』としてその後、日本語に翻訳されました。全4冊のはずが、2冊だけで戦争のために中断しましたが、戦前の日本でよく読まれた本です。私たちはこの本の著者として王雲生の名前を知っていたのです。
 この本は、満州事変に触発されて明治初年から日本の中国侵略の歴史を書いたものでした。ジャーナリストの著作でありますが、学問的にみても例えば日清戦争の時に李鴻章という政治家が活躍しますが、この人の資料、 李忠正公文書などの一級資料も使った労作であり、愛国の書でした。

 そこで私たちは王雲生氏に時間を割いてもらい、懇談会を開きました。会の冒頭で『日華交渉六十年史』を挙げて私どもは、あなたの業績は非常に重要なものと考えていると切り出しました。すると王さんが、イヤあの本は絶版にしましたというのですね。理由は、今は日中間は「過去は忘れましょう」ということが重要なのだ、今必要なのは日中間の友好を促進することだと。だから過去は忘れましょうということなのですね。ですからあの本は絶版にしたという返事でした。
 そこで私たちは「いや、日本人としては過去を忘れるわけにはいかない」と反論しました。とくに岸信介が政界のトップに復活し、戦犯裁判で有罪判決を受けた重光葵が外相として復活、日本外交に親米反中国的な姿勢が強まっている状況があるので、なおさら過去を忘れるわけにはいかないんだ、ということでしばらく議論になりました。

 ところが途中で王雲生氏がここから後は記録しないでくれ、筆を止めてくださいといいだしました。そしていうには、確かに最近は中国に日本の友好人士が来るようになった、そのなかで軍人も来るようになった。遠藤三郎のような平和主義者も来るけれど、辻政信ですね、かつての大本営参謀、辻政信みたいな人も来るんだというわけですね。辻政信はかつて中支那派遣軍に来たときに、中国人を殺して肝を食ったという話がある。中国の民衆の間にこの話は流布していて多くの人がそれを信じている。
 ですから中国政府が過去を忘れましょう、忘れましょうと言わなければ、辻政信のような人が中国にきたときにどうなるか。そういう意味で、中国政府は必死になって、日本の侵略による被害を直接受け、あるいは被害の記憶を生々しく持っている中国の民衆に対して、過去を忘れよう、過去を忘れよう、今大事なのは日中の友好を促進することだといい続けなければならないのだ。これが王雲生氏の話の骨子でした。

  この話は当時の私たちには、非常に印象的でした。当時の中国政府の外交政策は民意の反映によるよりも、むしろリーダーシップの高度な政治判断によって動いていました。王雲生氏の話は、政府の政治決断と民意のあいだのズレを示唆するものでした。「過去は忘れましょう」政策は基本的には60年代から70年代にかけて継承されていったと思いますが、60年代中ころにはかなりむずかしい局面があらわれました。それは「日本軍国主義の復活」論の登場で、とくに佐藤栄作政権(1964〜1972)の時、ベトナム戦争への加担、日韓条約の強行、70年安保等に関連して、中国の「日本軍国主義」批判が絶頂に達し、日中の政治関係が「最悪の状態」になったと評されたことです。



戦争責任の認定と相対的安定------------------------------- 

  「最悪の状態」の転機となり日中関係に相対的な安定をもたらしたのが、1972年の日中共同声明です。田中角栄首相が北京に行って周恩来首相とのあいだでむすんだもので、国交正常化の基礎となったものです。「過去の清算」に関連して重要な項目が二つあります。

 一つは前文で「日本は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」として、日本が「侵略」という言葉は使っておりませんけれども中国国民に重大な損失を与えた戦争責任を認め、そしてそれに対して反省の意を表したことです。

 もう一つは本文第五項「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」の規定です。戦争賠償の放棄宣言に個人の損害賠償請求権が含まれるかどうかが、現在でも直接に戦後補償裁判の争点になっているわけで、いろいろの議論がありますが、一つ気になっていることがあります。中国のある学術討論会のときだと思いますが、南京医科大学の孟国祥氏の報告がこの問題にふれていました。共同声明をめぐる日中協議の時に中国側の原案では、第5項は「賠償請求権の放棄」となっていたのが、日本側の反対で「賠償の請求を放棄」となったという報告でした。賠償の請求という行為を放棄するのと、賠償請求権を放棄することとはまったく違うように思います。前者であれば、中国側は賠償請求権を留保していることになります。国家は賠償請求を放棄しても、個人の請求権は存在していることになります。この問題を解決するためには、共同声明に至る議事録の公開が必要です、前にいったように、外交の民主化のためには情報の公開が不可欠です。

 これがきちっと出されないと、なかなか国家賠償の放棄という、つまり、そこで個人請求権も放棄したのかどうかという問題についても、歴史学的にはなかなか決着がつかないように思います。78年には日中平和友好条約が成立し、友好関係を促進するうえでの諸原則が定義され、これで日中関係がいっそう安定することが期待されました。ところが1982年の夏に日本の歴史教科書改ざんの問題が起こる。韓国及び中国との間の外交問題に発展していったことは皆さん、ご存じだろうと思います。さらに3年後、1985年の8月15日には中曽根首相が首相として初めて8月15日に靖国神社に公式参拝した。

 この二つの問題は中国の政府だけでなく世論の反発をも招きました。しかし問題の鎮静化のプロセスを見ると、今の日本政府の対応とは明らかにちがう。教科書問題については82年9月に宮沢官房長官談話が出て、日本の政府の責任において記述を是正すると約束し、その実行として文部省の検定要項にいわゆる近隣条項がもうけられて、近隣諸国の現代史の扱いに注意をするという指導がなされていく。
 靖国公式参拝についても翌年の96年の8月15日には中曽根首相が公式参拝を取りやめると同時に、首相自身も従来の戦争観を修正する発言をしています。靖国参拝はA級戦犯を褒め称えることになるとか、太平洋戦争は間違った戦争であるなどの発言です。
 中曽根首相は当時、国際国家日本をかかげていましたが、中国との関係では抑制的でした。相対的な安定は中国にとっても日本にとっても国益にかなうことだという認識は共有されていました。
 


戦争被害調査とメモリアル-----------------------------------

 1987年に廬溝橋事件50周年日中学術討論会が慶應義塾大学でありました。中国社会科学院近代史研究所の劉大年名誉所長が中国側の団長格でした。劉所長の話では、今まで抗日戦での中国側の死者は2000万人とされてきたが、これは暫定的な数字だった。どのくらいの死者があったかも含めて抗日戦の被害調査をこれからキチッとやる、人的被害にしても今から戸籍に当たって本格的に調査するといっていました。この段階で、中国が戦争被害について本格的な調査に取り組み始めた、そのことにはいろいろの意味があると思いますが、当時私は中国が戦争遺留問題を客観的、理性的に処理するための材料をキチッと調えるという方向性を明らかにしたのだと理解していました。

 しかし今から考えるともっと深い意味があるように思います。私は原爆被害の調査に加わった経験がありますが、戦争被害の調査には被害者の自発的、能動的な協力が不可欠です。抗日戦の被害調査についても同じ要素があり、それは一面では被害者(民衆)の記憶を呼び戻し、活性化させる結果になるだろう。その場合、民衆の記憶を封じ込めてきた「過去は忘れよう」政策との折り合いはどうなるのだろうか。

 私が思い出すのは、文化大革命が終息した直後、1977年に訪中した時のことです。中国社会科学院の招待で、日本社会科学者訪中団(団長井上清)を組織して中国各地を回りました。東北の旅には当時近代史研究初の副所長であった劉大年氏が付き添ってくれました。撫順にいったときに撫順市の革命委員会(市政府)に郊外の平頂山を訪問したいと申しいれました。1932年9月16日、日本軍が平頂山の村民約3000人を虐殺した事件は、1972年に本多勝一さんが『中国の旅』を書いて、平頂山における村民虐殺の事実を詳しく報告するまでは、一般の日本人にはよく知られていませんでした。そこで平頂山を訪問したいと申し出たのですが、革命委員会はクビをタテにふらなかった。「過去は忘れましょう。今は日中友好が第一です」の一点張りでした。そこで最後に、我々は日本の現代史研究者として日本に帰ったら日本軍が中国に対して何をやったのかということを日本人民にキチンと報告する義務があるので、どうしても見せてほしいと頼み込んでやっと見せてもらえました。本多さんの著書がでたころ遺骨館の建設がはじまったようですが、本多さんが平頂山を訪ねたころには、まだ虐殺の現場である平頂山の崖の下には一見何もなかった、しかし案内してくれた人が崖の下の土をすこし掘ると、そこからたくさんの白骨が出てきたと書いてありました。ところが現地にいってみると、日本軍が犯行を隠すためにダイナマイトで崖を崩し死体を埋めたあとがそのまま掘り出され、累々たる遺骸が白骨のまま丁重に保存されていました。その上には大きな上屋がつくられ、立派な遺骨館となり、いたるところに中国の各地、各組織から送られた弔問の花や旗が立っていました。私は「過去を忘れよう」という公式の政策と、現地の人々の「民意」のズレをここでも感じないわけにはいきませんでした。

 平頂山の遺骨館はかなり早い例だと思いますが、とくに1980年代になると中国の各地に戦争の記憶を保存する本格的なメモリアルが作られるようになりました。劉所長が東京で戦争被害の本格的調査を約束した1987年には、盧溝橋に抗日戦争記念館が立てられました。このころから、中国政府は抗日戦の被害と直接向き合い、戦争の記憶を保存し伝える方向にギアをいれかえたと思われます。



歴史認識と8・15------------------------------------------

 中国が本格的な戦争被害の調査に踏み切り、また各地に殉難同胞記念館のようなメモリアルが建てられるようになったのは、82年の教科書問題の影響がおおきいと思います。日本でも現代史研究者がこれを契機に南京虐殺事件のような加害の事実の本格的調査をはじめました。90年代の前半には、海部、細川、村山各首相が過去の侵略戦争にたいする「反省」を明確に述べるようになりました。教科書の記述も改善され、南京虐殺、731部隊、従軍「慰安婦」等が教科書に記述されるようになりました。 

 しかし90年代後半からは、自民党のタカ派議員、遺族会などの圧力団体、自由主義史観研究会等の歴史修正派などによる教科書攻撃が活発化します。この動きについては別のところで分析しましたのでここではふれません(船橋洋一編『いま、歴史問題にどう取り組むか』2001年、岩波書店)。私はこれらの動きはグローバル化を背景とする社会の流動化、改革の停滞に対する国民の不満といらだち、歴史認識問題をテコとする一国的ナショナリズムへの誘導の策謀等によるものと思いますが、すでに過去の侵略戦争を美化する教科書を東京都が採択するまでになっています。

 90年代の日本は「失われた10年」といわれますが、私は中国に行くたびに「日本の1年は中国の10年」という感想を新たにしています。この間の中国の経済発展や都市開発は目覚しいものがありました。しかし反面では都市と農村、沿海と内陸の格差は増大し、とくに農村人口の流動化は大きな問題です。グローバル化に対応する中国の「改革開放」政策は、中国社会の拡散化多元化を促進しましたが、おそらくそれを反映して中国の公的な戦争観も変化しているように見えます。

 盧溝橋の抗日戦争記念館が1995年に3年かけて大改修を行いました。新しい展示を見て私の第1印象は、抗日戦争史観から抗日救国史観への転換ということでした。古い展示では共産党の役割、指導を強調していました。新しい展示では国民党や在外華僑の果たした役割についてもスペースを割いています。抗日戦の勝利は各層各界の人々の民族的団結によってもたらされたことを強調しているように思えました。近年、中国の歴史研究者と話をすると、中国のナショナリズムは民族集中ナショナリズムだと説明されることが多い。内向きのナショナリズムで他国多民族を差別化するナショナリズムではないということでしょうか。それは社会の拡散化多元化に対する対応としてやむをえないものかもしれませんが、問題はそれが強権政治と結びつくことでしょう。民主化の進行と関連づけて評価すべきでしょう。いま中国で強調されている愛国主義についても同様な側面を指摘できます。

 この8月にソウルで日・韓・中三国の歴史認識に関するフォ-ラムがありました。討論会の主題は、8・15の記憶をめぐるものでした。日本では、終戦と呼ぶか、敗戦と呼ぶか論争がありますが、8・15は戦争の終結した日として記憶され記念とされてきました。しかし中国では8・15はあまり重要ではない。むしろ日本が正式に降伏文書に署名した9月2日、または在華日本軍が正式に降伏した9月23日が戦勝記念日となっているということでした。戦争がいつ終わったかをめぐってさえこのような違いがあります。中国にとっては戦争の終結は抗日戦勝利の日であり、したがって記念し記憶されるべきは日本軍が正式に降伏した日なのです。このような歴史認識の違いを誇張し、歪曲してたとえば「反日教育」というレッテルを貼って相手を攻撃することは可能でしょうが、意味はないと思います。

 ソウルのフォーラムは、2002年からはじめ南京、東京に続いて開いた3回目のフォーラムです。南京の会議の時に三国の中学で共通に使える副教材を作ろうという提案がなされました。ここからはじまってこれまで8回、会議がもたれきびしい討論が重ねられましたが、来年5月には出版されるところまでこぎつけました。東アジアの平和を念頭において三国共通の歴史認識をひろげ共有する試みでした。ある意味ではそれぞれのナショナリズムを乗り越える努力ともいえますが、ある中国の代表は中国の歴史教科書の政治史的な限界を批判しながら、共通教材を作るためには東アジアの世界市民的立場にたつことが必要だと断言しました。

 三国会議の中国側の中心的メンバーである社会科学院近代史研究所の歩平所長は、日本人が8・15を終戦記念日とする意図はよくわかる、「しかしその時、まさに日本の敗戦によって、アジア各国人民の苦難も終わったということを考えた人は非常に少なかった」と指摘し、日本人は被害の角度から戦争を理解するが、アジアの人々は加害の角度から戦争を理解していると評しています(「グローバル化時代の歴史認識と教科書」)。この違いはまた「心の距離」でもあるが、距離を克服するためには、「国境を乗り越える努力」が必要と歩平所長は力説しています。三国副教材の制作は、相互理解と共通の歴史像を作り出すための「国境をこえる努力」の一つです。
 歴史認識の問題としていえば、相互の歴史認識の違いを理由として相手を差別化するか、相互理解と粘りつよい対話によって違いをのりこえるか、今はその分かれ道であると思います。



「反日教育」とは-------------------------------------------

 抗日戦争記念館の出口には田中角栄首相の言葉と、村山談話の一節が大きくかかげてあります。これは中国側が戦争遺留問題を日中共同声明と村山談話の精神で解決したいという意思表示として私は受けとめています。しかしこの和解のプロセスはまだ成功していません。むしろ最近では、アメリカ発の中国脅威論も加わって攻撃的な論調が勢いを増しています。私はこれらの論調の多くがステレオタイプの中国観、国家観によりかかったもので、中国の新たな変化を見ておらず、その人の知的怠慢をおのずから暴露していると思います。

 歴史認識と密接な教科書制度一つとってみても、グローバル化への対応の中で大きく変容しつつあります。90年代以前には国家が一元的に編纂し人民教育出版社が一元的に出版した教科書1種類しかありませんでした。今では多種類の教科書が流通しています。とくに興味をひくのは上海や広東のような沿海対外開放地区向けの歴史教科書が作られる一方、四川省は内陸農村と小都市向け、浙江省は農村と山間部向けというように各地の実情に合わせた歴史教科書を作っていることです。中国の地域民衆の生活に即して歴史教育をおこなおうということです。

 教科書の複数化以外にもグローバル化との関連でめだつのは世界史と中国史を分離しないで、世界史の流れの中で中国の近代的発展を理解しようとしていることです。上海で最初に試行的に作った歴史教科書には、古代史、中世史がありません。15世紀末のポルトガル人のバスコダガマが、アジアへ行くインド航路を発見したことから始めています。中国人がヨーロッパ人と直接接触、交流するようなった、世界化の開始、グローバル化の開始を起点として中国史の学習が始まっています。
 また2000年に教育部が高等中学の歴史教育に示した「歴史教学大綱」では、学生が「民族の命運や人類の命運に対する関心と歴史への責任感」を高めることを求める一方、世界史の学習によって「世界平和、経済発展、生態保護、文化交流のため」世界と協力する意識を要請することを求めています。中国の歴史教育も多様化多文化主義化しつつあるので「反日教育」一色に染め上げられているわけではありません。

 しかし教科書問題と小泉首相の靖国参拝問題にあらわれた日本の政治の右傾化傾向が中国の対日警戒感を強めていることは間違いありません。私がそのことを強く感じたのは中国社会科学院日本研究所が日本軍国主義研究をはじめたことです。1999年に政府の指示ではじめたそうですが、前にふれた「近代日本の内外政策」という学術討論会がいわば研究成果のお披露目の会でした。討論会はこれまで2回行われ私は2回とも出ました。討論には日本、韓国の研究者が参加しましたが、「日本軍国主義」を主題とする総合的なシンポジュームが開かれたことはこれまでにないことだと思います。若い研究者たちの研究発表は力のこもったものでしたが、私は20年くらいの研究のブランクを感じました。おそらく80年代から90年代にかけて日本が再度「軍国主義化」する危険に関し否定的な認識があったのではないでしょうか。

 私が報告を聞いて感じたのは、ともすれば日本の近代史が軍国主義一色に塗りつぶされる危険があるかなという危惧です。日本の近代にも軍国主義に反対する動きはあったし、政治体制も変化しています。軍国主義を克服する契機を同時に見てゆかないと歴史が単色になってしまうという心配です。また関連する問題ですが、軍国主義が日本歴史の宿命となり、極端な言い方をすれば日本国民はこの宿命から逃れられなくなるようになる(荒井「軍国主義覚書」『戦争責任研究』43号所収)。
 歴史認識としてこれが間違っていることはいうまでもありません。ただ日本の侵略が台湾出兵から1945年までくりかえしおこなわれたことは事実ですし、とくに抗日戦争での日本軍の加害は深刻かつ大規模のものでした。それだけに民衆の戦争についての記憶―被害の記憶は民族的体験として語り継がれ、民衆の歴史意識のなかに定着している。それは政府の政策と関係なく祖父母や父母、あるいは学校の先生から語り継がれてきたものでした。

 歩平氏は自分の戦争をめぐる歴史意識の生成過程を次のように語っています。「私は戦後生まれだが子どものころから、本・新聞・映画などのさまざまなルートから戦争の残酷さ、とくに日本が中国を侵略した残虐さを知った。戦争を経験したことのある先達はつねに自分が戦争で受けた被害を例にして、後代の人を教育している。中国人は基本的にはこのような環境で戦争についての認識をつくってきた。私の父は当時中国の首都である重慶にいた。父は私に『重慶大空襲』の様子について語った。なぜなら、彼のよく知っている友人がその空襲で犠牲になったからであった。それゆえ子供のころから、日本人に会ったことがなかったにもかかわらず、『日本の鬼』というイメージがずっと私の頭の中にあって、しかもそれが相当につよかった」。
 私はこの文章を読んだ時に、『ゲルニカ』を描いたピカソのエピソードを思い出しました。『ゲルニカ』は、ドイツ空軍によるゲルニカ爆撃(1937年)の衝撃を形象化した絵画で、現代戦の悪とファシズムの加害を告発した20世紀最大の政治的絵画です。第2次世界大戦がはじまってドイツ軍がパリを占領した時の話ですが、パリに踏みとどまっていたピカソをナチスの将校が訪ねてきました。『ゲルニカ』の絵葉書をだして、これは貴方が描いたのかとピカソにたずねました。その時、ピカソは「いやあなた方が描かせたのだ」と答えました。私は抗日戦での被害を詳しく教える中国の教育を「反日教育」として声高に罵倒する人たちはナチスの将校と同じ精神の持ち主に思えて仕方ありません。

 

民意と民間-----------------------------------------------

 中国の政治体制では、上からの政治指導が強調されています。しかし経済の現代化、都市化の急激な進展のなかで「民意」の部分が急速に大きくなっているように思えます。「民意」の重みが増大する一方、ヒト、モノ、カネの交流がすすみ日本との関係が密接となるにつれ、「忘れましょう」政策により封じ込まれていた民衆の抗日戦原体験が浮上してくることは必然です。経済、安保の面で日本との関係を安定させなければならない政治指導の側の問題としては下から湧き上がる被害の記憶を一定の回路に誘導し公的記憶として合理的にコントロールできるようにしてゆくことが必要でしょう。その回路は、学術的調査であったり、戦争被害のメモリアルであったり、補償裁判の支援であったりでしょうが、中国政府はさまざまな努力をしています。しかし最近では、政府の政治指導と「民意」のずれが目立ってきています。毒ガス問題の後始末の日中の合意もその一例でしょう。

 暴論かもしれませんが、私は中国の人たちと接触して、二つのナショナリズムがあると感じました。つまり「政府主導のナショナリズム」と、「大衆ナショナリズム」です。しかも「大衆ナショナリズム」の比重が強まってきている。ここに摩擦というか、対抗とまではいかないがかなり緊張した状態がうまれているといえるように思えます。

 毒ガス問題の時に感じたのですが、中国の世論形成に、インターネットの比重が大きいことです。インターネットというのはその性質上、権力による統制にはおよそむかない。それだけに政府のコントロールから逸脱する可能性があります。下手をすると、日本との関係の不安定要因に発展する要素が常に存在するという状況があるわけです。

 そして、もしそういう形で日中関係が非常に不安定化すると、すでに小泉首相の靖国参拝問題で日中間の正常な外交関係が阻害されている現実があるわけですから、経済・安保の問題に影響して、日本にとってもおおきなマイナス要因となることは明らかです。新幹線の問題にその一端が現れています。日本の国益としても、「大衆ナショナリズム」に合理的な回路をつくるために、積極的に必要な役割を果たしていくことが、非常に重要になってきているといえるのではないでしょうか。

 そのこととも関連しますが、日中関係の中で、政府間の関係と同時に、民間の比重が高まっている状況があります。前にいった歴史認識にかんする南京フォーラムの打ち合わせの時に、日本・韓国のメンバーが、民間同士の交流を強調したときに中国側が、中国には原則として民間はないのだと説明していました。また昨年の原告団をむかえての報告集会の時に、中国には民間があるのかという質問が出ました。
 そのときの王選原告団長の返事が印象に残っています。王選さんは浙江省や湖南省の細菌戦原告団をめぐるいろいろな動きを紹介されました。訴訟をめぐる地元や省政府の自発的な支援、協力についての具体的な説明でしたが、私は事実上、「民間」が形成されてきているのだと理解しました。この九月に北京で戦争遺留問題についての国際集会があり9ヶ国から三〇〇人あまりが参加しましたが、討論の総括のなかで中国の代表ははっきり「民間」という言葉で民間の交流・協力の重要性を指摘しました。日本だけに民間(市民社会、市民運動)があるのではなくて、中国自体も今非常に変わってきています。政府の指導とは別にか、平行してかわかりませんが、これからは民間のイニシアチブをいろいろな形で強めていくことが重要ではないでしょうか。

 ですから、今日の新しい状況の中で、民間同士で何ができるかということをお互いに検討しあってみる、話し合ってみる、提案してみることが必要ではないだろうか、と思います。中国には日本からたくさんの民間企業が思いがけないところまで進出しているのが実情です。私はいつもそういう民間企業で働いている人たち、日本から行った人たちが、今の中国のそういう状況について、どういう判断をしているのかということがいつも気になっています。彼らが中国の民族感情にキチンと向き合い、それを理性的に解決する回路を作っていくことが、企業にとっても会社にとっても利益になるはずです。

 私には日本の今の企業戦士たちと、かつての中国の戦場での日本の兵士の姿がダブって見えるような気のすることがあります。そういう時にいつも考えるのは、戦争中に中国に与えた被害を一番よく知っているのは日本の兵隊たちです。しかし日本の兵隊たちは、中帰連の人たちの貴重な証言をのぞいては、被害について生きている間あまり語ろうとしなかった。ドイツでは1960年代の終わりから1970年代の始まりにかけて、学生たちの運動として自分の父親に「あなたはナチスの時代に何をしていたのか」ということを問う運動がありました。この運動を通じて普通のドイツ人がナチス犯罪を自分の問題として考えるようになった。これが大きな転機となりました。日本では普通の人レベルではそのような転機がなかった。このこととつなげて考えると、大勢の日本の企業戦士たち、かれらはビジネスというきびしい関係を通じて中国社会のいろいろな側面に触れている人たちですが、彼らが中国人の戦争の記憶についてどう認識しているのだろうか、どう対応しているのだろうか、率直な意見を聴きたいと思います。彼らがまた口を閉ざしたらわれわれは貴重な機会を失うことにならないか、そういう人たちに何か働きかけることができないだろうか、と思っております。

 いずれにせよ、日本が戦争遺留問題について合理的な解決を拒みつづけてきたこと、中国政府も長いあいだ「忘れましょう」政策をとってきたことが、中国の「大衆ナショナリズム」のトラウマになっているように思います。これを解決するためには、日本政府がすすんで加害の事実を認め、真相を調査し、謝罪・補償とうの被害回復措置をとること、民間での交流、対話を広げ、活発化させることが必要だと思います。                                     (了)