原告陳述書
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陳 述 書
控訴人 陳 英 芳
1 わたしは、陳英芳と申しまして、1960年1月1日の生まれです。学歴は 中学卒業で、今年44歳です。専業主婦であるわたしには、一人の息子と一人の娘がいて、自宅は中国浙江省義烏市建設三村41幢6号にあります。
わたしの父の王六通は本件細菌戦の原告でしたが、父は1999年11月30日に亡くなりましたので、わたしが父の遺志を継承して、引き続き本訴訟に参加することにしました。
2 1941年頃、わたしの父はまだ11歳で、家族の十二人は義烏市郊外の義駕山村に住んでいました。1942年、春節を迎える際、一家をほとんど滅ぼすような、突然の災難がわが家族に降りかかりました。
春節の前、家庭生活が貧困だったので、わたしの祖父王朝福は隣の村の北門(ペスト爆発の源になったところ)へ乞食をしに行きました。家に帰ってから、高熱を出し、全身が腫れ上がって、時々痙攣もしたりして非常に苦しそうでした。家族のみんなも何の病気とも分からず、伝染しました。病状も祖父とよく似ていました。
当時、村民たちはわが家族がその病気に伝染したと分かってから、みんな近づくことを避け、自宅の壁の隅々に石灰を撒きました。
大晦日(除夜)の1日に、わたしの祖父の王朝福(当時42歳)、祖母の趙愛蘭(当時35歳)、伯父王四通(当時15歳)、伯父王五通(当時13歳)が相次いで亡くなりました。
その翌日に、つまり、旧暦の元旦、父の姉妹の王妹(当時9歳)、伯父の嫁の金小妹(父の兄の妻、当時30歳)、伯父王?海(父の兄の息子、当時12歳)、いとこの王桂蘭(父の兄の娘、同時7歳)も相次いで亡くなりました。
一瞬の間に、わが王家では八人が亡くなり、その症状も大体似ていました。突然高熱を出し、死んだ時には体が丸く縮まって、その苦しみははっきりと見ることができます。みんな伝染病にかかったと思っていました。
3 その後、予防ステーションの人の証言で、これが腺ペストに感染したせいで、付近の北門から蔓延して来たとわかりました。
幸いなことに、一番上の伯父王一通と三番目の伯父王三通はよその所で作男として働いていて、二番目の伯父王二通は兵役に就いていたため、そして、わたしの父は接触が少なかったので、難に逃れました。
凶報が年長の一番目の伯父に伝わり、彼はすぐに帰りました。しかし、ただ家族の死後の始末をすることに間に合ったのです。親類がわけもなく、亡骸になってしまって、父はただみすみす家族が一人ずつ運ばれていくのを見ているだけで、何のしようもなかったのです。
家が貧しいあまり、棺桶を買う余裕もありませんでした。しかたなく、蓆や布団などで遺体を巻き、一列に並べて、いい加減に、村の東外れの山坂の上にある楠木の下に埋葬しました。あの八個の墓は、父の心の奥に永遠に消えない痛みを残しました。
日本軍による細菌戦はこのように、むりやりに何の罪もない家族を崩壊させました。死後の始末が終わって、伯父たちはまた作男をしに行き、何の頼りもない父を一人後に残しました。
4 父母と兄弟の頼りがなくなって、父の生活は非常につらくなり、時々飢えたり、凍えたりして、時には近隣の人たちの助けを受けました。実にどうしようもない時には、物乞いで暮らしを送ります。年齢が大きくなるにつれて、金持ちの家で作男をしたり、牛飼いをしたりしました。解放戦争が終わり、父は人民解放軍に参加して、生活は比較的穏やかになってきました。
わたしの父は退役してから、ずっと農業に携わってきました。母は兄とわたしを生んでからまもなく、父と離婚しましたので、わたしは母の姓に従いました。
5 その後、泣き面に蜂のように、わたしの唯一の兄も七歳の頃亡くなりました。そして、一番目の伯父はずっと未婚で、二番目の伯父も此れっきり消息がなく、三番目の伯父は子供がないのです。
三人の伯父とわたしの父が相次いで亡くなった後、たくさん人があったわが王家は、ただわたし一人が残されました。細菌戦がなかったら、わが王家はもう、子孫が枝葉が茂るように、いっぱいになっていたことでしょう。
6 わたしの父はこの恨みをわたしと孫までずっと言い伝えてきました。必ず日本政府からの謝罪と賠償を求めます。この目的が達せなければ、絶対に後には引きません。
以 上
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