原告陳述書
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陳 述 書
控訴人 范 小 青
わたしは、范小青と申しまして、今年70歳です。今は中国浙江省寧波市
聯豊路169弄53号102室に住んでいます。
わたしの夫は銭貴法と申しまして、本件細菌戦の原告でありました。彼は1927年11月9日の生まれで、1997年12月16日に亡くなりました。わたしは、夫の代わりに訴訟を受け継いで、公正な裁判を求めます。
2 わたしの夫・銭貴法は、子供の頃両親から離婚されて、流浪しながら、物
乞いをしていました。
1940年の頃、彼は12歳で、毎日寧波の元泰酒屋の店前で乞食をしていました。そこの主人の何福欽が彼のことを可哀相に思い、店の従業員として雇いました。
衣食住費を酒屋側が負担し、彼は雑用に従事しました。酒屋は三階建てで、店員たちは夜には、テーブルの上や床の上で眠りました。布団などは倉庫に入れてありました。
3 生前、日本軍の細菌戦によるペスト惨禍当時の様子を、夫はわたしに次ぎ
のように語っていました。
1940年10月27日の朝7、8時頃、寧波城では、突然空襲警報が響き渡りました。しばらくすると、一台の日本軍機が城の上空を旋回するのが見え、開明街方向に急降下しました。人々はてっきり爆弾を投下するのだと思ったのですが、多くのビラを撒いただけでした。ビラには、日本、ドイツ、イタリアの国旗と、『中日親善』を表す握手図が印刷されていました。
同日午後二時ごろ、日本軍機が再度寧波に侵入してきて、大量の麦粒と小麦粉を撒き散らしました。開明街一帯の空はまるで一面淡黄色の雲霧に覆われたようで、屋根の瓦からもさらさらという音が聞こえたので、みんな怪しいと思っていました。
元泰酒屋は開明街と中山東街の曲がりにあります。最初に発病したのは酒屋主人の弟である何福林でした。何福林は27日の午後、地上に散らばっている麦粒を拾い、噛んでみて、これは麦だと言ったことがあります。その晩、彼は頭がふらふらすると言いましたが、28日にはもう重症でした。店員は竹製椅子で彼を病院に運びましたが、11月1日に病死しました。
酒屋の18名の職員の中で、14人が相次ぎ高熱を出し、痙攣しました。
3 わたしの夫は11月1日に発病して、意識を失い、疫区内の同順庄の甲部
隔離病院に運ばれ、治療を受けました。腿と腋の下にはリンパの腫れ物があって、治療の時に切り落とされ、傷の跡が残りました。
病院の中は、ペストに感染し、もうじき死んでしまう人ばかりでした。ある人は小さく縮んでしまい、ある人の目玉は飛び出し、そこには様々な死ぬ寸前の様相があって、実に怖かったです。
11月30日の夜、開明街一帯は天をつくような火と光に満ちました。国民政府が疫区を燃やしたのです。
その後、わたしの夫は陳和尚と一緒に南門の祖関山孝子廟に移されました。孝子廟に移されてから、一週間も経たず、陳和尚が亡くなりました。
元泰酒屋で伝染した14人の中で、ただ一人、わたしの夫が生き延びました。ほかの13名の店員はみんな死にました。
わたしの知っているところでは、徐家林(男、34歳)、何福林(男、25歳)が1941年10月30日に病死し、丁文章(男、23歳)、陳福水(男、25歳)は1941年11月1日に病死しました。
高阿宝(男、51歳)は1941年11月4日、馮雲生(男、18歳)は1941年11月6日に病死しました。
今回のペストで、寧波では、死んでしまった人の数は前の分かった人だけで109人でした。酒屋が焼き潰されたので、主人の何氏はほかの地に逃げ、わたしの夫は再び乞食になりました。その苦しみは、三日三晩をかけても言い尽くせないほどです。
4 わたしには本当に分からないのです。日本政府はなぜ、細菌戦で人を殺し
たというこんなにはっきりした事実に対して、まだ反省しないのでしょうか。なぜ自ら進んで、罪を認めないのですか。日本政府は民主的な政府とは言えますか。日本は法治的な国家ですか。
六十年も過ぎて未だに、わたしのような老人が法廷に立ち、正義を求めなければいけないなんて、わたし自身すらも日本政府に代わって、恥ずかしく感じているほどです。
以 上
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