原告陳述書
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陳 述 書
控訴人 熊 善 初
1 尊敬する日本国東京高等裁判所裁判官の諸先生:
私は熊善初(男性)です。1929年9月24日生まれで、現在満75歳になります。学歴は中学卒業で、中華人民共和国湖南省常徳市共城区周家店鎮黄公咀村6組に住んでいます。本訴訟の180人の原告の中の一人です。
私は,日本軍731部隊が実施した常徳細菌戦における被害者の遺族です。同時に、私自身もペストに感染し、救助を受けて幸いに死を免れた歴史的証人でもあります。
この度、私が老弱の体と旅途の疲労を省みずに日本に来たのは、荘厳な法廷で、自分の体験と所見をもって、我が家と常徳の何千何万の一般市民が731部隊細菌戦によって受けた苦痛を陳述し、半世紀以上を心にしまっている憎みを訴えたいからです。
私の陳述を通じて、「正義を実現する」ことを天職とする裁判官の諸先生に私たち細菌戦被害者の心情を理解していただき、その上、中国の原告にあるべき共感と支持をいただければ、と希望しています。
これから四つの面に分けて、私の法廷陳述をさせて頂きます。
2 細菌戦によってもたらされた我が家の悲惨な境遇
悲劇は1942年10月に起きました。当時、私の家は、周家店鎮熊家橋村にありました。我が家では三つの世代が一緒に住み、8人家族で、農業を生業としていました。
父は熊大川、母は魯多姑、二人とも六十歳近いでした。長兄は熊用楠、31歳で、二番目の兄は熊八生(未婚)、28歳で、長兄の妻は陳双英で30歳でした。彼ら3人が我が家の労働力で、この大家族の大黒柱でした。
長兄にはかわいい息子が二人いました。上は熊紹武8歳で、下は熊紹平5歳でした。
私は末っ子で、当時13歳で、石公橋完小学校の六年生でした。
我が家の生活はそれほど豊かではありませんでしたが、みんな仲良く一緒に暮しており、幸せな家でした。
1941年、長兄熊用楠は、国民党政府の徴発を逃れるため、妻の実家のある陽城郷復興村に身を隠してしばらく暮らしていました。徴兵が終わってからまた家に戻りました。
長兄は、家の燃料が不足したので、1942年旧暦10月のある日、舟で10キロ余りのところにある王茅嶺という沼地地帯で薪にする葦を採り、石公橋を通りがかったちょうどそのとき、石公橋の丁長発家にペストの死者が出て、庭に野次馬がたくさんいました。長兄も人ごみに入ってしばらく立ち止まってその様子を見ていました。
熊家橋村の自宅に帰った用楠は、その夜発病し、高熱を出したり、ひどく頭痛がしたり、両手と両足が痙攣したりして、夜明け前に亡くなり、死体も全身黒くなりました。
家中では泣き声ばかりでした。特に両親は気絶して倒れました。幸い親族と友達が慰めてくれて、気を取り戻しました。兄の葬式も全部親族と友達がやってくれました。
長兄の葬式の直後、思いもかけずに第二の悲劇が起きました。5歳の甥である熊紹平も発病してしまい、その病状は長兄のと全く同じでした。発病して二日で死亡しました。その後もう一人の甥熊紹武も倒れて、発病して三日で死亡しました。
二人の甥の急死は、私の両親にとってもう一つの大打撃となりました。長兄の妻は何度も気絶していました。見舞に来た人達も涙を抑えられませんでした。まだ泣き声が終わっていない時期に、次兄の熊八生もまた同じ症状で倒れて、三日後死亡しました。
こうして8人家族は10日間のうちに4人がペストで急死してしまいました。その悲惨さが想像できるでしょうか。
当時、私は、石公橋完小学校で寄宿生として勉強していました。長兄が病死した報を受けてからすぐ家に駆けつけました。まだ幼かった私も大変な悲しさを感じていました。次兄が病死してから、家の後継ぎを絶たれないために、両親が私を督促して学校に帰らせました。
二人の兄の急死は、家の大黒柱が無くなったということです。長兄の妻はまだ30歳だし、夫にも二人の子供にも死なれたので、両親は彼女に再婚するように勧めました。60歳に近い両親は、再び家計の負担を担うようになり、悲惨で貧困な生活が強いられました。私も、家庭の衰微と貧困で、後に中学を終えてから退学しなければなりませんでした。
3 私のペストとの闘い
石公橋完小学校は、石公橋鎮の街より1キロ足らずのところにありました。私が家から学校に戻った際、石公橋街のペストは既に大流行となっていました。常徳市内の防疫医療チームも石公橋で簡易病院を設置して、ペスト患者を収容し、治療するようになりました。
学校へ自宅から通学する学生も多数いるので、病原菌が学校内にも持ち込まれました。石公橋から自宅通学の学生に、病気で休学になった学生が現れました。そのうち、すぐ死んでしまった学生もいましたし、簡易病院に送られた学生もいました。
私と他の数人の寄宿学生も発病し、頭痛と高熱が出たりするようになりました。担任の丁介南先生が私たちを簡易病院に連れて行ってくれました。外国の医師に診てもらって(後でこの外国医師の名前はポリッツァだと知りました)、ペスト感染だと診断されました。
私たちは、非常に緊張しましたが、その医師は「早い段階で来たので、大丈夫」と言い、その場で注射をし、薬を配ってくれました。その薬を毎日3回を飲み、そして注射を受け、7日間が過ぎると、病状はコントロールできて、だんだんと治りました。
私が発病していた頃の感覚は、頭痛、高熱、食欲減退という具合だったのですが、まだ兄たちのような両手と両足が痙攣するほどではありませんでした。早い段階で治療を受けたので、早期に治りました。
今考えると、不幸中の幸いだったと思います。ペストとの闘いの勝利者と言えます。しかし、私が生涯憎むのは、ペストという病原菌ではなく、この病原菌を撒いた日本軍国主義者です。
4 ペストは熊家橋一帯で蔓延
我が家が災難に見舞われていた頃、この疫病は熊家橋や黄公咀などの村で蔓延し、急死した者が立て続けに現れました。数人が死ぬ家もあるし、家族全員が死んでしまった家さえあります。一時期、人心不安という状況になっていました。
(1) 熊家橋の惨状
1942年10月には、ペストが熊家橋に広がりました。私はこの目で、一家全員が亡くなったりした、非常に残酷な事例を幾つも知っています。その例を三つ挙げます。
熊家橋村に陽梅廷という家族がいました。家族5人全員が漁業で生活していました。陽梅廷は当時30歳で、妻?冬梅は28歳、長男陽任能は11歳、次男陽仁杰は9歳、そして娘陽公妹は6歳でした。
10月のある日、夫婦2人は釣りをした後、船で石公橋街で張国珍という人の魚屋に魚を売りに行きました。偶然同じ日に、張国珍の娘張小年が(ペストで)亡くなっていました。陽梅廷はその日、家に帰ってから発病し、自分が死の運命から逃げることは出来ないだろうと悟り、妻に「今のこの病気の最中から私は多分回復出来ない。私が死んだら、あなたは子供を連れてあなたの実家の西瓜山出(約10q離れている)へ行きなさい」と言いました。その翌日、陽梅廷は本当に亡くなりました。
?冬梅は嘆き悲しみ、人を頼んで夫を埋葬した後、自分は子供達を連れて実家へ避難しました。しかし既に手遅れで、彼女自身も発病し、4日後に亡くなりました。その後、一週間のうちに、2人の息子と1人の娘も相次いで亡くなってしまいました。これもまた、徹底的に撲滅された家族の例です。
その頃、ペストは熊家橋の周りで最もひどい状態だったので、当地の或る青年達は家で感染することを恐れ、共に家から100q以上離れた湖北宣昌三斗坪へ食塩を運搬する仕事につきました。
第一に災難を避ける為であり、第二にはお金を得る為でした。その中の一人が熊国偉という名で、三斗坪についてすぐ、そのまま屋外で亡くなりました。彼の妻、田妹姐は一人息子の熊用徳(10歳)を連れて昼夜夫の帰りを待っていましたが、一ヶ月も経った頃、仲間から熊国偉は既に三斗坪で亡くなっていたと知らされました。未亡人となった田妹姐はその後再婚することはなく、健在ですが、息子の熊用徳は文盲で、貧しい暮らしを送っています。
また、熊家橋には回隆庵という寺院があって、その寺院にはたくさんの仏像がありました。住職である趙方元という人と、もう一人、?余書という僧侶がいました。ペストが最悪の状態になった時、人々がこれは天災であると信じて寺院に押しかけ礼拝をしたので、ペストが寺院にも入り込み、二人の僧侶も相次いで亡くなりました。寺院は廃寺となって閉鎖されてしまいました。
(2) 石公橋街からペストが伝染した経過
大体の場合、疫病は石公橋街から村落へ、そして相互伝染を通じて蔓延していきました。村落の熊美廷という人は石公橋鎮の熊春和穀物店に勤めておりましたが、ペストに感染し、帰宅して死亡しました。
熊大金と熊用宜という親子が彼の葬式をやって、帰宅してから二人とも倒れました。翌日の夕方、二人とも死んでしまいました。その家に親子二人しかいなかったので、夜に死体を見守る人もいませんでした。熊大金家はこうして全員亡くなったのです。
熊鵬程という22歳の青年も熊美廷の葬式を手伝ったので、感染して亡くなりました。彼はその3年前結婚し、お母さんと奥さんと一人の子供さんと一緒に住んでいました。彼の死後、奥さんは仕方なく再婚し、お母さんは子供さんを連れて乞食しながら暮すようになってしまいました。
私の長兄である熊用楠の葬式を手伝ったことで感染し、帰宅して二日足らずのうちに亡くなってしまった人もいます。名前は熊運生で、当時は31歳でした。彼の奥さんは5歳の次男を連れて再婚しましたが、10歳の長男は自分を養うために童工として働かざるを得ませんでした。
更に悲惨なのは熊泗亭という塾の先生です。彼の家は3人家族で、彼は14歳の息子を連れて塾で働いており、奥さんは家にいました。ペスト大流行の際、奥さんは発病して家で亡くなりました。それを聞き、親子二人は家に帰りました。そして奥さんの亡霊を慰めてもらうため、毛道士という人の家に行きましたが、しかし毛道士は、疫病を怖がって行きたくなかったので、健康を理由で辞退しました。そして毛道士はすまない気持ちで「この度は本当に申し訳ない、次に必要な時に手伝う」と言ったら、熊泗亭先生は「次だなんて、そんな不吉な話をするな」と怒って、結局口論になりました。
二日後、彼の息子は本当に発病して亡くなりました。熊泗亭先生は旧式のインテリでしたが、こういった打撃に耐えられず、精神病になり、半月も経たないうちに死んでしまいました。
(3) 村落がペストにより廃れてゆく様子
そのほかに周交春家では十日の内に9人が亡くなり、彭付清家では九日の内に7人が亡くなりました。
とにかくそのとき(10月〜11月)、いたるところで人が亡くなるのが見られて、村落中は悲痛と恐怖の雰囲気に包まれていました。人々は家に引きこもったり、家族全員を挙げて他の土地に逃げたりしました。最初は、道士に霊を慰めてもらえましたが、後になると、道士は勿論のこと、埋葬する人さえ見つけられなくなり、家族が埋葬するしか無くなりました。当時、急死した人が一つの村に何人いたのか、誰も知りませんでした。誰も調査する勇気が無かったのです。
最近数年間の調査では、熊家橋村だけでも73戸で152人もの人が犠牲になりました(死亡者名簿及び分布図は後ろに添付します)。
5 細菌戦被害者の心の声
我々中華民族は平和を愛する民族です。私たちは日本国民を含む世界各国国民と平和共存したいと思います。しかし、中国国民、特に常徳市民、は日本軍国主義者に対して深い憎しみを感じています。これは日本軍が中国を侵略した時に中国国民に与えた災難は酷すぎるからです。
特に1943年冬に、日本軍は大挙して常徳城に侵攻し、この歴史名城を廃墟にしました。日本軍は至るところで放火・殺人・強姦・略奪などの不法行為をやりました。常徳の市民はこのような苦しみを厭なほど味わってしまいました。
それに加えて、1941年に731部隊が常徳で残虐極まりない細菌戦を実施し、何千何万の一般市民を虐殺しました。この被害は人々の心の奥底にしまわれる傷となり、未だにちっとも慰めを受けていません。最近、私が村の被害者の親族は、私が出廷する事を知り、家へ日本軍の戦争犯罪に対する憤慨を訴えに来ました。
彼らは、法廷で日本軍が犯した罪を徹底的にあばいて欲しいとか、現在の中国国民はどんな強権にも屈服しないから必ず民族的尊厳を擁護してこれらの犯罪行為に対して血債を支払わせるようにと、私に伝えました。
人間には必ず家族がいます。もし裁判官の家族も私たち細菌戦被害者のように無残に殺害されたら、どういう御心情ですか。
第二次世界大戦中、お国の長崎と広島の一般市民も原子爆弾の被害を受けました。この問題に対して、私たちも非常に関心を持っています。日本の右翼勢力は何回も歴史を改竄し、侵略戦争を美化しようとしましたが、長崎と広島のことを全然削除しようとはしません。
裁判官の諸先生方が歴史を尊重しながら、被害者の立場に立って事を考えていただきたいと思います。そうすると、私たち細菌戦被害者の心情を理解できるのではありませんか。
そのほかに、一点だけ説明させていただきたいと思います。
私たち中国の被害者は遥遥日本に来て、日本の裁判所で日本国政府を訴えるのは、裁判官と日本国の分権制度に対して信頼しているからです。それにもかかわらず、東京地方裁判所の裁判官は私たちの信頼を背いて、不公平な判決を下しました。
東京高等裁判所の裁判官の諸先生方は、そうしないで、正義の擁護、および中日両国国民の平和友好のために、本件に対し公正なる判決を下すように、私たち期待します。
どうもありがとうございます。
以 上
別紙1: 周家店鎮熊家橋村におけるペスト感染での死亡者名簿
別紙2: 周家店鎮熊家橋村におけるペスト感染での死者の分布図
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