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原告陳述書

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陳  述  書

控訴人    王    選

 王選と申しますが、1952年8月6日中国上海市に生まれ、浙江省義烏市崇山村 の原告です。
 崇山村は父が生まれ育った故郷で、同族村として、現在2000人あまりの村人はほとんと王という名字で、同じ先祖の子孫です。1969年文化大革命の時に、私が知識青年として、上海かれ崇山村に下放された。1973年まで村で村民と一緒に畑で働いて、生活をしていました。
 その後、大学で英語を専攻し、卒業してから、高校で英語を教えていました。
 1987年に中国浙江省杭州市から日本に留学し、現在姫路に住んでいます。
 日本軍の細菌戦被害者の遺族として、日本の平和運動の方々から学びながら、中国の細菌戦被害調査、関連研究をしています。

2 細菌戦問題に関わるようになったのが、偶然のきかけでした。
 1995年8月3日朝、姫路の自宅で取っていた英字新聞ジャパンタイムズを開き、ある記事が目に飛び込んできた。その記事に以下のような内容が書かれています。

 初の731部隊国際シンポが中国黒竜江省のハルビンで開かれまして、大会で日本の市民団体の方が中国にある731部隊細菌戦被害地浙江省義烏市崇山村に訪れ、実地調査をした報告をしました。報告によると、731部隊の細菌戦よって1942年崇山村でペストが流行しました。
 現在、村民代表三人が村人を代表して、細菌戦ペストで亡くなられた382人、日本軍によって焼かれた405間の家等の損害に対し、日本政府に「連合訴状」を提出し、損害賠償を求める。


 私は崇山村にあったペストが731部隊と関係していると明確に書かれていることを見て驚きました、一体という関係だったのか、ともかく知りたかった。
 実は、前にも、日本の人が崇山村を訪れ、戦争中日本軍が撒いたペストを調べたと弟に聞きました。1994年に、私が筑波大学から姫路に移し、日本での生活が少々落ち着いて来ました。そして、一回中国に帰りました。
 上海の実家で、弟がやや緊張していて、やや興味深い顔で上海のある地方新聞紙の切り抜きを私に見せてくれました、“姉さん、日本人が崇山村に鼠疫を調べに来たよ。”と切り抜きの記事を私の目の前の机の上置いた。
 その後、故郷に帰り、同族の王煥斌叔父(本件の義烏原告楼賽君の夫)と会い、王煥斌さんは私が日本から来たと分かり、すぐ村人たちは日本軍がやったペストに対して日本政府に損害賠償を求める活動をしていると私に話してくれた。
 日本の人がペストのことを調べに来た話もしました。その日本の方たちとの連絡方法を彼と考えていました。
 日本に戻ってから、ある日、妹から突然電話がかけてきた、日本の市民団体が崇山村を訪れ、細菌戦ペストを調査する内容の記事が日本の新聞紙にあったと教えてくれました。私も中国で聞いた話を彼女にしました。二人が嬉しくて、お互いにその日本の市民団体の連絡先を調べようと約束しました。
 それから一年が経ちまして、何の手係もなかった内に、このジャパンタイムズの記事が現れる、見た瞬間に、私が飛ぶほど喜んでいました。おかげで、その後、やっと、故郷の細菌戦ペストを調べている日本人と出会だ。
 それは、1987年日本に来てから、始めで日本人から戦争の話を聞き、始めで日本人と戦争についての話ができたことでした。

3 弟、妹と私兄弟3人が子供の時から、父から日本軍が崇山村でペストを撒いたと
教えられた。私の記憶に、父は二回当時の話しをしてくれました。
 一回目は小学生の時のことと思いますが、その時の私の身長の高さは丁度家の二階のベランダの窓の一番下から、庭を見えるぐらいだった。“あなたに元々一人叔父さんがいった”とお父さんが話し始まった。
 お父さんに兄弟はおばさん(本件の崇山村原告王容儀)一人しかいないから、まだ男の兄弟もいるなんて、喜んで、“どこにいるの”と尋ねた。
 そして、戦争中、日本軍が崇山村でペストを撒いた、毎日毎日沢山の人が死んでいた。当時13才の叔父さん王海宝もペストで死にましたと答えた。先ほど、私の好奇心と喜びをその“ペスト”、“死”の言葉でぞっと冷やかされた。
 話しているお父さんは何か見ているような奇怪な恐怖の表情が目に光っていた、両親がなくなり、長男として海宝を守れなかった悔やみ、むなしさが顔に写っていた。
 当時の私にとって、とんでも無い暗い重い話だった。“死”がなんだ、と子供の私がいつも一人で真剣に考えていた、しかも、周りの友達に心を開いて、話すできない命題でした。
 義烏地方公文書館に保存されている文書によると、1943年3月6日に、県衛生院が崇山村のペスト死者のお墓が285個所あると県政府に報告しています。同時期に、県衛生院院長楊尭震が崇山村に調査に行った。
 楊院長によるペスト後の村の光景は、付近の丘にお墓だらけでした。大抵、避難に急ぐ、草々に埋葬したため、墓の大半が崩れ、死体が犬に外へ出さられたのもある。病原菌の拡散の恐れがあるから、楊院長が県政府に予算を作り、墓の修繕と死体の埋葬を要請した。
 崇山村は災難に打ちのめされて、飢えと寒さで困窮している。県政府は郷公所に郷内他の村人を動員して、崇山村を助け、お墓を修繕すると命じた。

4 二回目は文化大革命の前期でした。その時に、お父さんが紅衛兵に“売国者”と
されて、厳しく取り調べられ、家も捜索された。家族一家は闇に詰まされた。ある日、父は戦争の時に自分に本当に何があったかと私に打ち明けたいと言いました。
 私は本当の売国者の話を聞かれるのが恐れていて、もういいと言った。お父さんは堅持して私に話を聞かした。
 日本軍がお父さんを捕まえた、そして崇山村のペストのことを細かく聞きました。父は彼らが持っているペストに関する専門知識、興味、崇山村の詳細の情報に驚かされた。崇山村のペストはきっと日本軍と関係があると疑っていた。
 そして、“売国者”という罪名の根拠は、主に父が日本軍に捕まえられた時に、日本軍の前に膝まずかれた。その時の私は、けして毎日お父さんを尋問している紅衛兵たちより必要な歴史知識を持ち、彼の侵略軍に跪かれた行為を理解できることにならなかった。
 そして、お父さんは貴方たち若い学生さんが以前の時代のことが全く知らない、その戦争は民族の災難だったが、なぜ僕一人が責められるのか。私の心の中に崩れそうなお父さんのイメージを立てくれました。硬骨な父のその弁解が、日本人の前で跪かれることにより持たされた屈辱を乗り越えようとしている努力の一つでした。
 気品の高い父が“屈辱”という言葉を自分の口にしないでしょうが、しかし、私に深く伝わって来ました。
 “死”以外に、もう一つ、私一生も考え続けている命題は “死ぬか、それとも反抗できない暴力または権力に跪くか。”
 (おばさん王容儀によると:上海の裁判所で勤めているお父さんは故郷から祖母が病気に倒れた手紙を届いて、上海から出て崇山村へ迎えた。戦時中交通が遮断され、360キロメーター距離のたびが一ヶ月かかった。やっと着いたら、祖母はもう亡くなられました。祖父は大部前にも亡くなった。おばさん容儀と叔父海宝を上海へ連れて行こうとしているところ、太平洋戦争が爆発した。
 上海に戻れなくなって、お父さんは一旦金華の国民政府の裁判所で勤務することになった。1942年中日本軍が浙かん作戦を発動し、金華を占領しました。その内、お父さんが日本軍に捕まえられました。死ぬほど殴られて、すごい重荷を運ばされて、一回逃げ出して、又捕まえられた、二回目が逃げられました。兄弟を会いに崇山村に戻る時に、顔にあざと傷だらけでした。)

5 崇山村の人々は過去の克服為にも細菌戦裁判を引き起こしました。以来、他の
村の人々と団結して、細菌戦被害調査を義烏全域に拡大しました。その上で、2001年前半に、民間募金で、1644部隊調査班が村人に生体解剖をやった場所としての林山寺で細菌戦被害者の記念亭を建てました。記念亭の後ろに、調査で分かった一千名を越える被害者の名前を刻んでいる記念碑が並べている。
 2003年の始めに、村の入り口に焼かれた家の分布図の碑を付けられた。 
 崇山村の近くに、王姓同族の家族祠堂曲江寺があります。清の時代の建物で、以前郷鎮の小学校、中学校に使われていた。今年になって、義烏市教育局が王姓家族に返してくれました。これから、村人はその建物に細菌戦歴史記念館を作ります。
 崇山村は中国の広大な農村にある普通の村です。この村にあった細菌戦被害が中国全体被害の氷山の一角にすぎないものとは言えます。
 無視できないのは、崇山村のように、一カ村の村人は、自らの力で以上のような努力を払い、侵略戦争の暴力に持たされた“屈辱”に立ち上がろうとしていることは、この細菌戦裁判の他の被害地にも見られ、まだ中国の他の細菌戦被害地域にも広がっています。

6 2002年8月27日に、崇山村の人々が村中心の広場に集め、日本からの国際電
話を待っていました。“敗訴”と伝えられる時に、空から雷が伴って討って来ました、今までないような激しい暴雨が降り出した。“神様も泣いた。”と村民たちが言う。
 その“敗訴”の結果は、村人に、細菌戦被害者に新たな“屈辱”と感じさせられたとは言えよう。
 言えば、紅衛兵さんたちがお父さんを“売国者”として批判したもう一つの理由は父が知識者として村人をペストから助けなかった。当時の父ができないことを私は引き継いてやっています。
 しかし、細菌戦をやった被告側は今までに被害者たちにまた何にもしていないではないでしょうか、自分がやったことになんにもしなくでも良いでしょうか。
 ある意味では、現在に生きるすべての人は、現代戦争に生き残ったものです。幸運に生き残った人間としては、現代戦争から生命とその尊厳を守ることは生まれつきの運命的役目ではないでしょうか。そして、不幸に戦争によって被害を遭わされた人々を助けることは、生命とその尊厳を守ることに当たります。
 ご静聴ありがとうがざいました。

以 上