平成14年(ネ)第4815号
控訴人 程秀芝ほか179名
被控訴人 国
準 備 書 面(5)
第1 国家無答責の法理を否定したとされる下級審裁判例について
1 はじめに
2 東京高裁平成12年11月判決について
3 京都地裁1月判決について
(1) 国家無答責の法理に関する判示
(2) 国家無答責の法理は保護すべき公務のみに適用されるとする点について
(3) 公務のための権力作用に当たらない行為には民法上の不法行為責任が成立
するとする点について
4 福岡高裁判決について
(1) 福岡高裁判決の国家無答責の法理に関する判示
(2) 国賠法施行前における国家無答責の法理と民法解釈との関係について
(3) 国の公権力の行使に関する大審院判例の変遷について
(4) 国家無答責の法理を否定する学説の存在について
(5) 正義・公平の理念に基づく国家無答責の法理の適用制限について
第2 国家無答責の法理は実定法上の根拠を欠くとする点について
1 行政裁判法16条が「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス」と規定することについて
2 裁判所構成法制定の過程で司法裁判所が国家責任に関する訴訟を受理する明文の規定が草案から削除されたことについて
3 旧民法373条制定に当たってボアソナード民法草案から国家責任規定が 削除されたことについて
4 現行民法715条の制定経過について
第3 国家無答責の法理は法令によって権限が付与された行為のみに適用される
とする点について
第4 国家無答責の法理は日本国の統治権の及ばない外国人には適用されない
とする点について
被控訴人は、本準備書面において、国家無答責の法理に関する岡田正則教授の2004年(平成16年)7月13日付け鑑定書(甲第502号証、以下「岡田鑑定書」という。)における意見に対し、必要と認める範囲で反論する。なお、略語等は、特に断らない限り従前の例による。
第1 国家無答責の法理を否定したとされる下級審裁判例について
1 はじめに
岡田鑑定書は、国家無答責の法理を否定した近年の下級審裁判例として、東京高等裁判所平成12年11月30日判決(判例時報1741号40ページ、以下「東京高裁平成12年11月判決」という。)、京都地方裁判所平成15年1月15日判決(判例時報1822号83ページ、以下「京都地裁1月判決」という。)、東京地裁3月判決、東京高裁平成15年7月判決、新潟地裁判決及び福岡高等裁判所平成16年5月24日判決(以下「福岡高裁判決」という。)を挙げる(岡田鑑定書4ページ)。
しかし、東京高裁平成12年11月判決は国家無答責の法理を承認しているから、これを否定した裁判例として同判決を挙げることは誤りである。また、東京地裁3月判決、東京高裁平成15年7月判決及び新潟地裁判決が、国家無答責の法理に対する理解を誤ったものであることについては、それぞれ被控訴人準備書面(1)44ページ以下、同(3)2ページ以下及び同(4)2ページ以下において、詳細に指摘したとおりである。そして、京都地裁1月判決及び福岡高裁判決も、同様に国家無答責の法理に対する理解を誤り、その結果として、国賠法附則6項に違反するとともに、最高裁昭和25年判決と相反する判断をした。したがって、これらの下級審裁判例が、国家無答責の法理を否定する根拠となり得ないことは明らかである。
以下、東京高裁平成12年11月判決、京都地裁1月判決及び福岡高裁判決の国家無答責の法理に関する判示内容について述べ、東京高裁平成12年11月判決に関する岡田鑑定書の指摘の誤りのほか、京都地裁1月判決及び福岡高裁判決の判示内容の誤りを明らかにする。
2 東京高裁平成12年11月判決について
岡田鑑定書は、東京高裁平成12年11月判決を、「国家無答責の法理は実定法上の根拠をもっておらず、今日適用できる法理ではない」(岡田鑑定書4ページ)と判示した裁判例であると指摘する。
しかし、東京高裁平成12年11月判決は、国家無答責の法理に関し、「昭和22年に施行された国家賠償法は、公権力の行使等による損害の賠償に関する国又は地方公共団体の責任を定めるものであるところ、その附則6項は、同法施行前の行為に基づく損害についてはなお従前の例によると規定しているから、右法律の施行前の公権力の行使等による損害については、旧行政裁判法16条の規定(「行政裁判ハ損害要償ノ訴ヲ受理セス」)により、公務員の公権力の行使に起因する不法行為等の賠償請求の訴えは、行政裁判手続による権利保護要件を欠くものとしてこれを許容されず、判例上も公権力の行使等公権力作用による損害については民法の不法行為の適用はないことが法理として確立していた(いわゆる国家無答責の原則)。」と判示し、国家無答責の法理を承認したものであり、岡田鑑定書が掲げる内容など一切判示していない。
したがって、岡田鑑定書の上記指摘は明らかに誤りである。
3 京都地裁1月判決について
(1) 国家無答責の法理に関する判示
京都地裁1月判決は、東京地裁3月判決や新潟地裁判決と同様、中国人を原告とするいわゆる強制連行・強制労働事件に関するものであるが、国家無答責の法理の内容につき、「そこで問題とされる国家の行為が公務のための権力作用である場合に、当該公務を保護するためのものであって、当該行為が公務のための権力作用にあたらない場合には、国の行為についても民法上の不法行為責任が成立することを当然のこととしているものである。したがって、国家無答責の法理が適用される国家の権力行為がかつて存在したことを、一般論としては肯定できるとしても、少なくとも原告ら6名に対する強制行為は、既に検討したとおり不法行為であって、保護すべき権力作用ではなかったから、被告国の主張は、その前提を欠き失当である」と判示する。
(2) 国家無答責の法理は保護すべき公務のみに適用されるとする点について
京都地裁1月判決は、国家無答責の法理は公務を保護するものであるから、その適用範囲を保護すべき公務か否かによって画し、旧日本軍はその優越的実力に基づいた強制力を組織的に行使したが、法的根拠がないから保護すべき国家の権力的作用とはいえず、国家無答責の法理が適用されない旨判断したものである。
しかし、国家無答責の法理は、国の賠償責任を認めた規定が存在しないが故に国が賠償義務を負わないというものであり、問題とされている権力的作用に法的根拠があるか否かは全く問題とならない。
そもそも、不法行為(違法行為)は、法により許されない行為であり、法によって保護すべき行為とはいえず、通常は、民事及び刑事責任を発生させるものである。しかし、明治憲法下では、その違法行為が国家の権力的作用である限り、民法の不法行為規定の適用を排除し、他に国に賠償責任を認める規定がなかったことから国の賠償責任が否定されたものである。
したがって、京都地裁1月判決が、保護すべき権力作用でなかったとして、国家無答責の法理を適用せず、民法を適用すべきであると判断したのは、上記の国家無答責の法理を全く理解していない証左である。
仮に、公務員がした行為が、法的に保護されるべき行為であれば、それは適法行為であって、損害賠償(国家賠償)の問題は生じず、損失補償の問題が生じるにすぎないし(宇賀克也・国家補償法3ページ参照)、不法行為だから保護する必要がないとしても、それが国の権力的作用による場合は、民法の適用が排除され、国は損害賠償義務を負わないのである。
結局、公務員が職務に関して行った不法行為が国家無答責の法理の適用対象といえるか否かは、その行為の性質が権力的作用であるか否かで決せられるのであって、その行為に法的根拠があるか否かで決せられるものではないのである。
この点については、既に最高裁昭和25年判決が判示しているところである。すなわち、同判決は、「論旨は原判決は本訴を公権力の行使による損害の賠償を求めるものであるとしながら、その権力が如何なる公法上の法規又は処分によって基礎づけられているかを明かにしていないと主張するのである。・・・そして、上告人は原審口頭弁論においてしばしば右破壊行為が違法な公権力の行使であることを主張しているのであって、原審が其主張に基き本訴を公権力の行使による損害の賠償を求めるものであるとしたのは当然である。(もし右破壊行為が公権力の行使ではなく所論警察官の私人としての行為であるならばそれについて国に損害賠償を請求し得ないことはいうまでもなくそれだけで本訴請求は理由なきものとなるであらう)そして、原審がその判示した理由によって、本訴請求を棄却するためには、所論のように如何なる法令又は処分に根拠をおくかを判示する必要がないので、原判決には何等違法はない。論旨は又原判決は本件公権力の行使が違法であるか否かを判示していないというのであるが、たとえ本件家屋の破壊が違法であっても、国が賠償責任を負うべきものでないことは後述のとおりであるから、国に対して損害の賠償を求める本訴においては、その不法であるかないかを判示する必要はないのであって、論旨は理由はない。」(下線は引用者)と判示している。
以上に述べたように、京都地裁1月判決は、国家無答責の法理及び最高裁昭和25年判決を正解しておらず、失当である。
なお、岡田鑑定書は、最高裁昭和25年判決を、「まったく無内容であるから判例とはいえない」(岡田鑑定書40ページ)と批判するが、これは何ら根拠のない批判であって学者としての意見を超えるものではない。最高裁判所昭和27年1月25日第二小法廷決定(ジュリスト7号41ページ)は、「国家賠償法施行前においては、公務員の不法行為について国家が賠償責任を負わないことは当裁判所の判例とするところである(昭和24年(オ)第268号昭和25年4月11日第三小法廷判決参照)。」と判示し、最高裁昭和25年判決及び同判決に示されている国家無答責の法理について判例としての位置づけを与えているところである。
(3) 公務のための権力作用に当たらない行為には民法上の不法行為責任が成立するとする点について
また、京都地裁1月判決は、「当該行為が公務のための権力作用にあたらない場合には、国の行為についても民法上の不法行為責任が成立することを当然のこととしている」と判示する。
しかし、公務員が行った行為が公務のための権力的作用に当たらないならば、もはや国の行為とはいえないのであって、公務員個人の行為として、当該公務員が個人責任を食えば足りることとなる。この点について、最高裁昭和25年判決も、「若し仮りに警察官が公権力の行使に名をかり、職権を濫用して本件家屋を破壊したものであるとすれば、これ等警察官が民法上の不法行為の責任を負うことはあるかも知れないが、その場合右の行為はもはや国の行為と見ることはできないのであって、尚更国が賠償責任を負う理由はないのである。」と判示しているところである。
これを本件に即していうと、仮に旧日本軍人らが、何ら法的根拠もなく、控訴人らの主張するような行為をした場合には、官吏が公権力の行使に名を借りて行った職権を逸脱する行為であって、もはや官吏としての行為とみることはできず、国の行為とはいえないから、そもそも国家に対する損害賠償の問題は生じず、また、仮に法律・命令を執行するに当たって行われたという官吏の行為の外形から国の行為とみるべきであるとすれば、この行為は権力的作用であるから、民法の不法行為規定の適用はなく、国は賠償責任を負わないのである(東京高裁平成14年3月28日判決・訟務月報49巻12号3041ページ参照)。
京都地裁1月判決は、かかる基本的な理解を欠落させているといわざるを得ない。
4 福岡高裁判決について
(1) 福岡高裁判決の国家無答責の法理に関する判示
福岡高裁判決は、中国国民である控訴人らが、第二次世界大戦中、中国国内から日本国内に強制連行され、被控訴人会社が経営する炭坑で強制労働に従事させられたとして、被控訴人国及び被控訴人会社に対し、損害賠償を請求した事案につき、控訴人らが、「国家無答責の法理は判例の所産にすぎず、裁判所の判断を一般的に拘束するものではない。」、「本件においては、仮に、被控訴人国がなした不法行為が国家無答責の法理の要件を満たすとしても、正義・公平の原則から、被控訴人国が同法理の適用を主張することは許されない。」などと主張したのに対し、次のとおり判示した(判決文118ないし124ページ)。
@ 「旧憲法下(正確には国賠法施行前。以下同じ。)において、複数の事例において、大審院判例は、民法の不法行為に関する規定は公務員の権力的作用には適用がないとの解釈をとり、国家の権力的作用に基づき、個人に損害が生じても、国に不法行為責任を認めていなかったことは被控訴人国の主張するとおりであ」り、「旧民法の立法過程における諸議論及び民法715条の立法過程における諸議論をあげて、特別法を設けて責任を認めなかった以上、国家に責任を認める余地はないとする被控訴人国の主張には傾聴すべきものがある。」
A しかし、「民法715条が公務員の権力的作用に基づく不法行為責任の発生する余地を文理上排斥しておらず、行政裁判法16条はともかく、実体法としての特別法が制定されていない以上、公務員の権力的作用に基づく不法行為について民法715条を適用するか否かの解釈は、国賠法施行前においても、判例にゆだねられたものと解きざるを得ない。」、「大審院の判例が、当初は権力的作用と非権力的作用を問わず、私経済作用を除くすべての公務員の行為に責任を認めていなかったのに、大正5年の遊道円棒事件判決以来、非権力的作用については民法の適用を認め、不法行為責任を肯定するように変遷してきたことも、そのように解して初めて合理的に説明し得る。」、「戦前の有力な学説も、国家無答責の法理につき、一致して支持していたわけでもなければ、異論がなかったわけでもない。」
B 「以上によれば、旧憲法下における事例であっても、すべての権力的作用に基づく行為について民法が適用されないとする法理があったというのは相当でなく、戦前の判例法理を前提としても、特段の事情がある場合には、国は不法行為責任を負わなければならないと解釈する余地は残されていたと解するのが相当である。」
C「本件強制連行・強制労働は、公務員の権力的作用に基づく行為ではあるが、正義・公平の理念に著しく反し、行為当時の法令と公序に照らしても許されない違法行為である。国家無答責の法理を適用して責任がないというのは不当であり、民法により不法行為責任が認められるべきものである。」福岡高裁判決は、上記のように判示して、国賠法施行前の公務員の公権力の行使についても民法709条、715条の適用の可能性を認め、同条に基づく損害賠償責任の成立を認めた。その上で、同判決は、かかる損害賠償請求権は、民法724条後段の除斥期間の規定の適用によって、遅くとも平成12年5月10日前に消滅したと判示した。
しかし、福岡高裁判決は、東京地裁3月判決と同様に、明治23年に国家無答責の法理が採用された根拠及び行政裁判法16条、旧民法等の立法経緯についての理解を誤り、国家無答責の法理が単なる判例法理ではなく、当時の基本的法政策として採用されたものであることを正解しておらず、失当である。また、福岡高裁判決は、新潟地裁判決と同様、国家無答責の法理について、「正義・公平の観点」という抽象的概念をもってその適用を制限したが、これは法解釈の名に値するものではない。以下、詳述する。
(2) 国賠法施行前における国家無答責の法理と民法解釈との関係について
福岡高裁判決は、「公務員の権力的作用に基づく不法行為について民法715条を適用するか否かの解釈は、国賠法施行前においても、判例にゆだねられたものと解きざるを得ない。」旨判示する。
しかし、被控訴人が従前から繰り返し述べるとおり、国賠法施行前において、国家無答責の法理は、行政裁判法と旧民法が公布された明治23年の時点で、国の権力的作用について国が賠償責任を負う旨の法規は制定せず、また、民法の不法行為の規定はこれに適用しないという法政策が採用されたのであり、国賠法施行前において、国家の権力的作用について損害賠償が否定されたのは、かかる法政策に基づき国に損害賠償を認める根拠規定を置かないこととしたためであるから、民法の解釈問題が生じる余地はない。この点に関しては、被控訴人準備書面(1)49ページ以下で述べた東京地裁3月判決に対する批判がそのまま妥当するので、これを援用する。
(3) 国の公権力の行使に関する大審院判例の変遷について
福岡高裁判決は、国家無答責の法理が判例法理にすぎないことの根拠として、「大審院の判例が、当初は権力的作用と非権力的作用を問わず、私経済作用を除くすべての公務員の行為に責任を認めていなかったのに、大正5年の遊道円棒事件判決以来、非権力的作用については民法の適用を認め、不法行為責任を肯定するように変遷してきたことも、そのように解して初めて合理的に説明し得る。」と判示する。
しかしながら、上記判示は失当である。
大審院の判例は、立法者が、明確に国の責任を否定していた権力的作用については、一貫して、法律に特別の規定がない限り民法の不法行為法の適用がない(民法は対等な私人間の法律関係に関する法であり、国と私人との権力的関係に本来適用されるものではない)ものとして、国の賠償責任を否定している。
立法者意思が必ずしも明確でなかった非権力的作用についても、古くは、純粋な私経済作用(官庁事務用品の購入・官庁建物の賃借等)以外については国の賠償責任を否定していた。ところが、大正5年6月1日のいわゆる徳島市立小学校遊動円木事件の大審院判決は、公立学校の施設の暇疵による損害について、小学校の管理は行政の発動であるが、その管理権に包含する小学校校舎の施設に対する占有権は公法上の権力関係に属するものではなく、「全ク私人カ占有スルト同様ノ地位ニ於テ其占有ヲ為モノ」と判示して、民法717条の適用を認めて国の責任を認めた。
しかし、この判決については、「権力作用=無答責、私経済作用=民法上の責任という基本的枠組みを変更したわけではなく、私経済作用の外延を拡大したにとどまる。」とされており(宇賀克也・国家責任法の分析418ページ)、結局、大審院は、立法者意思が明確に無答責としていなかった国の権力的作用以外について国の責任を認めたに過ぎず、国の権力的作用に関しては、国家無答責の法理が前提とされていたのである。
(4) 国家無答責の法理を否定する学説の存在について
福岡高裁判決は、国家無答責の法理が判例法理にすぎないことの根拠として、「戦前の有力な学説も、国家無答責の法理につき、一致して支持していたわけでもなければ、異論がなかったわけでもない。」旨判示する。
しかし、上記判示の表現振りからも明らかなとおり、権力的行為について民法の適用ないし類推適用を認める見解は少数説であり、しかも、日本国憲法下の判例においても、かかる見解は明確に否定されている。
すなわち、最高裁昭和25年判決は、国家賠償法施行前に生じた警察官の防空法に基づく家屋破壊の不法を理由に提起した国家賠償請求事件に関し、上告理由書記載の「従前の判例学説が本件の如き場合に上告人に請求権なしとするものが多かった事は事実であるが、少数なるも請求権ありとする学説もあった。通説必ずしも真ならず。」とする上告人の主張に対し、「本件家屋の破壊行為が、国の私人と同様の関係に立つ経済的活動の性質を帯びるものでないことは言うまでもない。而して公権力の行使に関しては当然には民法の適用のないこと原判決の説明するとおりであって、旧憲法下においては、一般的に国の賠償責任を認めた法律はなかったのであるから、本件破壊行為について国が賠償責任を負う理由はない。」、「従前といえども公務員の不法行為に対し、国が賠償責任を負うべきものであって、新憲法はこれを法文化したに過ぎないと主張するのであるが、国家賠償法施行以前においては、一般的に国に賠償責任を認める法令上の根拠のなかったことは前述のとおりであって、大審院も公務員の違法な公権力の行使に関して、常に国に賠償責任のないことを判示して来たのである。」とした上で、「当時仮に論旨のような学説があったとしても、現実にはそのような学説は行われなかったのである。」と判示している。
したがって、国家無答責の法理を否定する学説の存在を根拠に国家無答責の法理を判例法理にすぎないとする福岡高裁判決の上記判示は、失当である。
(5) 正義・公平の理念に基づく国家無答責の法理の適用制限について
福岡高裁判決は、「本件強制連行・強制労働は、公務員の権力的作用に基づく行為ではあるが、正義・公平の理念に著しく反し、行為当時の法令と公序に照らしても許されない違法行為である。国家無答責の法理を適用して責任がないというのは不当であり、民法により不法行為責任が認められるべきものである。」と判示した。
しかし、前記のとおり、国家無答責の法理は、国の公権力の行使については民法の適用がなく、その他国の賠償責任を認めた法律もなかったことによるものであるから、この法理の適用を制限したからといって、国の賠償責任を認める法律が出現するわけではない。この点に関しては、被控訴人の平成16年7月20日付け準備書面(4)2ページ以下で述べた新潟地裁判決に対する批判がそのまま妥当するので、これを援用する。
第2 国家無答責の法理は実定法上の根拠を欠くとする点について
1 行政裁判法16条が「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス」と規定することについて
(1) 岡田鑑定書は、行政裁判法16条について、「草案の検討段階で「法律ニ反対ノ明文アル」例として「郵便電信鉄道等ニ関スルモノ」が、「法律ニ拠リ政府ニ賠償ノ義務ヲ負フ者」の例として「違法ノ逮捕若ハ処刑等二関スルモノ」が挙げられていることを考えれば、今日の国家賠償の問題とはかなり異なる問題が論じられていることが理解できる。」(岡田鑑定書8、9ぺ一ジ)などとし、「行政裁判法16条にいう「損害要償ノ訴訟」とは主として損失補償にかかわる補償請求訴訟である。」(同10ページ)とする。その趣旨は必ずしも明らかでないが、行政裁判法16条は国家無答責の法理とは無関係であるから、同法理の根拠とはならないとするものと思われる。
(2) しかし、被控訴人準備書面(1)2ページ以下で述べたとおり、行政裁判法16条は、国家無答責の法理を当然の前提として、行政裁判所の損害賠償請求事件に係る事物管轄の範囲を定めたものである。
行政裁判法案の作成に当たり、先決的に解決すべき問題として、いかなる問題が検討され、かつ解決されたかについては、伊藤博文が編纂した「官制關係資料」所収の「行政裁判所設置ノ問題」と題する資料(乙第26号証)にそれを見ることができるが、これによれば、行政裁判法の制定過程において、政府の主権に基づく処置すなわち公権力の行使に該当する措置によって生じた損害については、憲法学上当時一般に是認されていた国家無答責の法理により、個人は、原則として行政裁判所に対して損害賠償の訴えを提起できないとしたのである。
また、行政裁判法案の原案を作成したモッセは、国の不法行為責任を否定し、司法裁判所のみならず、行政裁判所においても、国の不法行為責任を問い得ないとしていた。すなわち、モッセは、「国ノ民法上損害賠償義務ニ関スル意見」と題する答議において、国が民事上の活動を行う場合には、国は民法に従って責任を負い、民事裁判所に損害賠償請求訴訟を提起することができるとする(郵便、電信、鉄道等に関し、特別の責任規定があれば、それは民法に優先して適用される)が、官吏が国権を執行するに際し、義務違反の処置若しくは怠慢により第三者に加えた損害に対し財産上責任を負わないと述べている。したがって、モッセは、私経済主体としての国家と公権力主体としての国家とを区別し、前者については私人と同様の責任を負うが、後者については無答責という解釈を採っていたのである(宇賀・前掲国家責任法の分析409、419、420ページ、「モッセ氏國ノ民法上損害賠償義務ニ關スル意見」・乙第31号証474ないし477ページ)。
以上のことからすれば、行政裁判法16条にいう「損害要償ノ訴訟」は、いわゆる損失補償ではなく国家賠償の訴えを指すもので、同条が、国家無答責の法理を当然の前提として、行政裁判所はかかる訴えを受理できない旨を規定したものであることは明らかである。
(3) これに対し、岡田鑑定書は、モッセが行政裁判法16条にいう「損害要償ノ訴訟」の例として「郵便電信鉄道等ニ関スルモノ」や「違法ノ逮捕若ハ処刑等ニ関スルモノ」を挙げているとし、これを根拠に、「今日の国家賠償の問題とはかなり異なる問題が論じられていることが理解できる。」(岡田鑑定書9ページ)とするが、明らかに誤りである。
モッセが示した見解は、「(一)國ハ民法上ノ事ヲ爲ス場合ニ限リ法人其機關ノ處置ニ付負限スル責任ヲ規定スル民法上原則ニ依テ其責ニ任ス 此責任ノ理由ハ民法ニ由テ生スルモノナレハ民事裁判所ノ権限ニ屬ス 前記ノ原則ハ特別ノ法律(郵便電信鉄道等ニ関スルモノ)ヲ以テ反對ノ規定ヲ設ケサルトキニ限リ其効アリトス」、「(二)國ハ其官吏国権ヲ執行スルニ際シ義務背反ノ處置若クハ怠慢ニ依リ第三者ニ加ヘタル損害ニ對シ財産権上其責ニ任セス但特別ノ法律上規定(違法ノ逮捕若ハ處刑等ニ関スルモノ)ヲ以テ之ヲ承認シタル場合ハ 此限ニ在ラス」(「モッセ氏國ノ民法上損害賠償義務ニ關スル意見」・乙第31号証477ページ)というものである。このように、モッセは、私経済主体としての国家の活動と公権力主体としての国家の活動を区別した上で、前者の例として「郵便電信鉄道等ニ関スルモノ」を、後者の例として「違法ノ逮捕若ハ處刑等ニ関スルモノ」を挙げているのである。
そして、モッセが公権力主体としての国家の活動によるため無答責とするものは、国家の「官吏國権ヲ執行スルニ際シ義務背反ノ處置若クハ怠慢ニ依リ第三者ニ加ヘタル損害」であり、これは、「違法ノ逮捕若ハ處刑等ニ関スルモノ」が例示されていることから明らかなとおり、いわゆる損失補償ではなく、正に今日でいう国家賠償の問題である。
(4) 以上のとおり、行政裁判法16条にいう「損害要償ノ訴訟」が損失補償を指す旨の岡田意見書の見解は根拠のない独自の解釈といわざるを得ず、かかる解釈に基づき、同条は国家無答責の法理の根拠とはならないとする岡田意見書の意見は、失当というほかない。
2 裁判所構成法制定の過程で司法裁判所が国家責任に関する訴訟を受理する明文の規定が草案から削除されたことについて
(1) 裁判所構成法は、明治20年5月にルドルフが中心となって草案を起草し、法律取調委員会で検討修正して、明治23年に法律とされたもので、法律取調委員会案(帝国司法裁判所構成法草案)の33条で、「地方裁判所ハ民事訴訟ニ於テ左ノ事項ニ付裁判権ヲ有ス」として、「第一 第一審トシテ(イ)金額若クハ価額ニ拘ラス政府(中央政府ト其配下ノ官庁トヲ問ハス)ヨリ為シ又ハ之ニ対シテ為ス総テノ請求 (口)金額若クハ価額ニ拘ハラス官吏ニ対シテ為ス総テノ請求但其請求公務ヨリ超リタル時ニ限ル (ハ)其他区裁判所若クハ特別裁判所ニ専属スルモノヲ除キ総テノ請求」とされていたが(下山瑛二・人権と行政救済法68ページ)、井上毅が意見書(裁判構成法案意見・井上毅傅史料篇第一614ページ・乙第29号証)を提出し、上記のうち、国家責任に関する訴訟を受理する明文の規定が草案から削除されることとなった(田上穣治編・体系憲法事典365ページ以下)。
このことに関し、岡田鑑定書は、「裁判所構成法制定の過程で国に対する民事裁判の包括的管轄規定が削除されたことは、国家無答責の法理が実定法上で確立されたということの根拠にはならない。」(岡田鑑定書14ぺ一ジ)とする。
(2) しかし、被控訴人準備書面(1)4ページ以下で述べたとおり、井上毅は、国家無答責の法理を根拠に、国家賠償請求訴訟を司法裁判所に提起できないとしたのであり、この井上毅の意見が客観的に通った形で裁判所構成法が制定されたのである(下山瑛二・人権と行政救済法68ないし69ページ。同旨東京高裁平成14年3月28日判決・乙第30号証)。
したがって、裁判所構成法制定の過程で、司法裁判所が国家責任に関する訴訟を受理する旨の明文の規定が草案から削除されたことは、国家無答責の法理が基本的法政策として採用されたことの証左というべきである。
(3) これに対し、岡田鑑定書は、「行政裁判法16条にいう「損害要償ノ訴訟とは主として損失補償にかかわる補償請求訴訟である。井上毅の見解によれば、損失補償の請求訴訟は行政裁判所で処理されるべきであって、実定法で認められていない限り司法裁判所の管轄外とされるべきものであった。(中略)これとの対応関係で、司法権が国に対する訴訟のすべてを管轄することに反対したのである。」(岡田鑑定書13ページ)とする。
しかし、前記1で述べたとおり、行政裁判法16条にいう「損害要償ノ訴訟」は、いわゆる損失補償ではなく国家賠償の訴えを指すのであって、これが損失補償の訴えを指す旨の岡田意見書の見解は、根拠のない独自の解釈といわざるを得ない。この点で、岡田鑑定書の上記意見は、前提に誤りがあるといわざるを得ず、失当である。
また、井上毅が上記意見書で示した意見は、「第一 國ニ對スル訴訟ノ事 ブラクストン氏王權篇云ハク王二對スル訴訟ハ民事ト雖モ之レヲナスコト能ハス蓋シ何ノ法院モ國王ヲ裁判スルノ法權ナケレハナリト故二英國二於テ君主及ヒ政府二對スルノ訴訟ハ唯々請願ニ由リテ恩惠ノ許可ヲ得タル後始メテ裁判ヲ受クルコトヲ得 普國千八百三十一年十二月四日ノ閣令云ハク君主ノ資格ニ於テ臣民トノ間ニ裁決ヲ要スルノ權利ノ争ヲ生スルノ理ナク又之レヲ裁決スルノ權限アル裁判所ハ全國ニ一モ存スルコトナシト 政府ニ對スル訴訟ハ獨逸ニ於テ國權ト區別シタル財産上ノ訴ヲ許シタルノミニシテ單純ニ國ニ對スル訴訟トシテ之レヲ許シタル「ノ」國アルコトナシ今本案ニ國ニ對スル訴訟ヲ以テ裁判所ノ權内ニ皈シタルハ其ノ當ヲ得ザルノミナラズ專ラ居留外國人ノ目本政府ニ對スル訴訟ノ爲ニ地ヲ爲ス者ナリ」、「第三 官吏ノ公務ニ對シテハ要償スルコトヲ得ス何トナレハ其ノ公務ハ國權ノ一部ニシテ國權ハ民法上ノ責任ナキ者ナレハナリ官吏ニ對スルノ要償ハ其ノ官吏ノ私事トシテ訴フル者ニ限ルヘシ第三十二條(ハ)ノ場合ハ國法ノ大則ニ背ク事」(引用者注・上記第三十二條とは、帝国司法裁判所構成法草案33条に相当する。)というものである。
これらの記述、殊に、「第三官吏ノ公務ニ對シテハ要償スルコトヲ得ス何トナレハ其ノ公務ハ國權ノ一部ニシテ國權ハ民法上ノ責任ナキ者ナレハナリ」との記述にかんがみれば、井上毅が、国家無答責の法理を根拠に、国家賠償の訴えを司法裁判所に提起できないとしたことは明らかである。したがって、井上毅が損失補償の訴えのみを念頭に置き、これを司法裁判所が受理することに反対したにすぎない旨の岡田鑑定書の見解は、誤りといわざるを得ない。
(4) 以上のとおり、裁判所構成法制定の過程で、国家責任に関する訴訟を受理する旨の明文の規定が草案から削除されたことは、国家無答責の法理が基本的法政策として採用されたことの証左というべきであり、これを国家無答責の法理の根拠とはならないとする岡田鑑定書の意見は、根拠を欠き失当である。
3 旧民法373条制定に当たってボアソナード民法草案から国家責任規定が削除されたことについて
(1) 岡田鑑定書は、旧民法373条制定に当たってボアソナード民法草案から国家責任規定が削除されたことについて、「官吏の不法行為について国は賠償責任を負わなくていい場合があるが、どのような場合がそれに該当するかは実定法では明示せずに、判例に委ねるという趣旨であ(った)」(岡田鑑定書16ページ)とする。
(2) しかし、前記1及び2で述べたとおり、行政裁判法及び裁判所構成法の立法者意思は、国家無答責の法理を根拠として、行政裁判所及び司法裁判所は、いずれも国家賠償請求訴訟を受理しないとしていたもので、にもかかわらず、実体法である民法において、国の権力的作用について賠償責任を認める条文を規定することは矛盾である。
したがって、ボアソナード民法草案373条から国家賠償責任を認める文言を削除したのは、国家無答責の法理が採用されていたためであることは明らかである。
(3) また、被控訴人準備書面(1)6ページ以下で述べたとおり、旧民法373条の審議の過程において、起草者(ボアソナード)は、同条に「公ノ事務所ノ責任」を規定した理由につき、国又は公共団体の権力的作用にも民法を適用すべきことはフランスその他の諸国においても異論のないところであるから、日本においても同様とすべきであるとし、これを受けて、今村報告委員は、法律に責任を免除する規定を置く以外は、国又は公共団体は賠償責任を負うべしとの修正案の意見を示した。この修正案は、ボアソナード民法草案373条中、「公私ノ」の3文字を削除し、新たに、「國、府、縣、町、村ニモ本条ノ規定ヲ適用ス但法律ヲ以テ特ニ責任ヲ免除スル場合ハ此限ニ社ラス」との条項を追加するというもので、国が本条により国家賠償責任を負うべきことを明示するものであった(乙第31号証398ページ)。
今村報告委員の見解は、国家と官吏が委託者と受託者の関係にあれば、国家はその官吏の不法行為について民法により賠償責任を負い、かつ、官吏の行為の性質を問わず、国家と官吏は常に委託者と受託者の関係にあるから、結局、本条は官吏の不法行為について常に適用され、国家は賠償責任を負うというもので(乙第107号証39ページ)、これによれば、「國、府、縣、町、村ニモ本条ノ規定ヲ適用ス」との規定を追加する必要はない。このことに加え、上記修正案が、官吏の行為が公権力の行使に当たる場合は民法の適用はなく、国家は免責されるとの見解を踏まえた上で作成されたこと(乙第107号証38ないし40ページ)を併せ考慮すると、「國、府、縣、町、村ニモ本条ノ規定ヲ適用ス」との規定は、本条がそのような場合を含めて適用されることを明確にするため、あえて、追加されたものと思われる。
しかし、結局、「國、府、縣、町、村ニモ本条ノ規定ヲ適用ス」との規定は追加されず、ボアソナード民法草案373条から国家責任の規定が削除されたにとどまったのである。
かかる経緯を踏まえれば、井上毅が明確に述べるとおり、国家無答責の法理を採用すべきことを根拠に、国家責任を認めていたボアソナード民法草案の規定を削除したものというべきである(乙第33号証970、974、975ページ)。
(4) これに対し、岡田鑑定書は、国家責任を削除した理由に関する民法報告委員の意見(乙第31号証398、399ページ)を指摘し、これに基づき、「官吏の不法行為について国は賠償責任を負わなくていい場合があるが、どのような場合がそれに該当するかは実定法では明示せずに、判例に委ねるという趣旨であ(った)」(岡田鑑定書16ページ)とする。
しかし、岡田鑑定書の指摘する上記意見は、今村報告委員の前記修正案に対する他の委員の様々な意見を紹介した上、「民法報告委員二於テハ(中略)公私ノ事務所ノ責任アルコトヲ明言セス」(乙第31号証398、399ページ、下線は引用者)などとするもので、そもそもいかなる時点で表明された誰の意見であるかすら明らかでなく、まして法律取調委員会全体の意見とみることはできない(そのような意見であることをうかがわせる記述も全くない。)。法案の審議過程においては、様々な立場から議論がなされるのであり、そのうちの一つをもって、直ちに立法者意思のごとくとらえることは、誤りというべきである。法解釈は、法の制定経過の全体のほか、議論の最終的な結果として規定された条文の文言によってなされるべきところ、このような観点から検討すれば、行政裁判法と旧民法が施行された明治23年の時点において、公権力行使について国家無答責の法理を採用するとの基本的法政策が確立したとみるべきことは、被控訴人準備書面(1)2ないし12ページで詳述したとおりである。
また、岡田鑑定書の指摘する上記意見は、「政府官廳カ官吏屬員ニ対シ委托者タルノ資格ヲ有スル場合ニ於テハ官吏屬員ノ過失ノ責ニ任ス(中略)而テ如何ナル場合ニ於テ政府官廳カ委托者ナルヤ否ノ問題ハ事實ノ問題トシテ司法官ノ判断ニ委ス」というものである。すなわち、国家と官吏が委託者と受託者の関係にあれば、国家はその官吏の不法行為について民法により賠償責任を負う(そのような関係になければ免責される)とした上、官吏の特定の不法行為に関して国家とその官吏が委託者と受託者の関係にあるか否かは法的判断ではなく、事案ごとの事実認定の問題であるから、その判断は司法裁判所にゆだねるとするものにすぎず、決して、民法の適用範囲にかかわる法的判断である国家無答責の法理の採否を「判例に委ねる」(岡田鑑定書16ページ)ものではない。
(5) 以上のとおり、ボアソナード民法草案373条から国家賠償責任を認める文言を削除したのは、国家無答責の法理が採用されたためであることは明らかであって、その採否を判例にゆだねる趣旨であったとする岡田鑑定書の意見は失当である。
4 現行民法715条の制定経過について
(1) 岡田鑑定書は、現行民法715条の制定経過を総括して、「国家無答責の問題はまだ未決着のままであり、大審院の方針も不明確なままであり、将来的に特別法をもって対処すべき問題だという点では一致をみていた、といってよいだろう。」(岡田鑑定書21ページ)とする。
(2) しかし、現行民法は、国家無答責の法理に基づき、公法上の行為には適用されないとの理解の下に制定されたものである。
すなわち、現行民法715条の制定経過は被控訴人準備書面(1)22ページ以下で詳述したとおりであり、国家無答責の法理に関し、高木豊三は、穂積陳重に対し、公務員の「公權ノ作用」による職務行為について、民法715条を適用して国に賠償責任を負わせることは様々な弊害が生じ、大問題であるから、民法715条の適用対象とはならないと、はっきり答弁するように迫ったのに対し、穂積は、民法715条の適用対象であるとは決めていないとし、特別法によって定める事柄であり、特別法を制定しない場合に、民法715条の適用で押し通すとは考えていないと答え、それに対し、高木が、その答弁でよく分かったと答えて、この点に関する法典調査会の議論を終えている。このように、現行民法715条(草案723条)の法典調査会における審議の結果、国の権力的作用より広く、政府の官吏が職務を行うについて、その職務が「私法上の関係」でなく「公権の作用」である場合には、現行民法715条(草案723条)の適用がないことが確認されているのである。
このことは、現行民法の起草者の一人である梅謙次郎が、明治41年2月発行の法學志村第10巻第2号において、官吏の職務上の不法行為に基づく民事上の賠償責任につき、官吏の職務上の不法行為に関しては、民法715傑の適用がないことを明言し、立法論として国に賠償責任を負わせるべきと考えている旨を明らかにしていること(法學志林10巻2号45ページ・乙第36号証)、同じく起草者の一人である富井政章も、大正元年に東京帝国大学で行った民法の講義に関する講義録の民法715条の解説で、官吏の加害行為について、民法715条は適用せず、行政法規に委ねるというのが立法趣旨である、行政法の分野では、特別規定がある他は、一般原則として、国は賠償責任を負わないとされており、公権の執行に賠償責任を負わせることは大いに問題があるが、国が、営業として事業をなす場合にまで、無答責としてしまうのは問題であり、裁判例もその様に判示しているが、それは不当である旨述べていること(富井博士述・債權各論究196、197ページ・乙第37号証)から明らかである。これらの民法起草者はいずれも、国家の権力的作用について、民法の適用はなく、立法論として行政法など特別法によって定めるべきでことであるが、行政法では一般的に賠償責任を負わせる特別法を定めていないと説明しており、国家無答責の法理を前提としているのである。
なお、明治28年10月4目の法典調査会に出席していた穂積八束は、民法施行前の明治30年9月発行の法學協會雑誌第15巻第9号に、「公用物及び民法」(穂積人束博士論文集412ページ・乙第78号証)と題する論文を発表し、その冒頭で、「民法ノ制定ハ欣フヘシ民法ノ濫用ハ戒メサルヘカラス我民法ノ條規ハ行政ノ事物ニ向テ何レノ點ニマテ侵入セント欲スルカ警察及財政ノ事項ハ純白ナル公權カノ行動ニ屬シ民法ノ條規ノ適用ヲ容ルルノ餘地ナシ獨リ公用行政ノ範圍ニ於キテハ其ノ事物ヲ規律スル法ノ原則カ公私敦レノ法域ニ歸屬スルカ往々ニシテ疑ヲ招クコト多シトス公用物ノ公有權ノ如キ學者ノ解説一ニ歸セス」と述べている。かかる穂積八束ら公法学者の考えによれば、公権力の行使の適否が問題となるような公法的法律関係に民法を適用することは、まさに「民法の濫用」であり、「行政法という異質な法領域を民事法の発想で判断する民事法帝国主義的な発想」(阿部泰隆・法学教室267号38ページ)とされたのである。
(3) これに対し、岡田鑑定書は、穂積陳重が、法典調査会の議論の最終段階において、「官吏ノ職務執行ノ場合ニ是レガ當ルガ宜イト我々ハ極メテ居ラヌノデ我々ガ研究シテ見ルト時トシテハ民法ニ書イテ居ル國モアリマスカラ是レモ書カウカト思フテ相談シテ見マシタガイヅレ特別法ガ出來ルダラウト思ヒマシタカラ止メタノデアリマス特別法ガ出來ヌト云フコトヲ豫想シテ是デ突キ通スト云フノデハナイ若シ特別法が出來ナカツタラ是レガドウ解釋サレルカト云フコトヲ問ハレマスカラ特別法ガナイ以上ハ例ヘバ軍艦ガ一己人ノ商賣責船ト衝突シテ其船ヲ沈メタトカ云フサウ云フ様ナ場合ニ賠償ヲ求メルト云フニハ此條ガ當リハシナイカト云フ御相談ヲシタノデ特別法ヲ作ラナイデ是レデ押通シテ仕舞ウト云フ丈ケノ決心ハ我々三人共ナカツタノデアル併シ若シ特別法ガナカツタラバ是レガ當ルジヤラウト云フ考ヘハ三人共持ツテ居ル」(乙第34号証348ページ上段)(引用者約:官吏の職務執行の場合に、本条が適用されるのがよいと我々は決めていない。我々が研究してみると、時として民法に書いている国もありますから、これも書こうかと思って相談してみましたが、特別法ができるだろうと思いましたから止めたのであります。特別法が出来ぬということを予想してこれで突き通すというのではない。もし、特別法が出来なかったら、本条がどう解釈されるかということを問われますから、特別法がない以上、例えば軍艦が一個人の商売船と衝突してその船を沈めたとかいうような場合に、賠償を求めるというには本条があたりはしないかというご相談をしたので、特別法を作らないでこれで押し通してしまうというだけの決心は我々3人ともなかったのである。しかし、もし特別法がなかったならば、本条が当たるだろうという考えは3人とも持っている。)などと発言していることに続けて、「国家無答責の法理の問題はまだ未決着のままであ(った)」(岡田鑑定書21ページ)とするが、失当である。
穂積陳重の上記発言は、特別法が制定されない場合に、本条がどのように解釈されるべきかということに関して、個人的な見解を、自己の希望をも込めて述べたにすぎない。すなわち、当時の裁判例の傾向は、高木豊三の発言などにあるように、大審院判決では、政府の官吏の職務執行により第三者に損害を及ぼした場合に政府の責任を認めたものはなく、裁判例の一般的な傾向としては政府が責任を負わないとするものであった上(乙第34号証347ないし349ページ参照)、穂積自身、「私共ノ見解ハ外ニ規定ガナケレバ適用サレヤウト思ヒマスガ大審院ニ往クド適用サレヌト思ヒマス」(同考証350ページ上段)と述べているところであり、判例上本条の適用が否定されることは共通の認識だったのである。
(4) 以上のとおり、現行民法は、国家無答責の法理に基づき、公法上の行為には適用されないとの理解の下に制定されたものであり、当時、国家無答責の法理の採否はいまだ未解決であったとする岡田鑑定書の上記意見は失当である。
第3 国家無答責の法理は法令によって権限が付与された行為のみに適用されるとする点について
1 岡田鑑定書は、国家無答責の法理の適用の有無は、「あくまでも法令によって権限が付与されている行為だったのか否かで判断される」(岡田鑑定書42ページ)ところ、「細菌の散布行為は、法令によって付与された権限の行使ということはできず、むしろ裸の暴力に他ならない」(同42、43ページ)から、控訴人らの主張する本件加害行為に国家無答責の法理の適用はないとする。
2 しかし、前記第1、3、(2)で述べたとおり、そもそも、不法行為(違法行為)は、法により許されない行為であり、法によって保護すべき行為とはいえないが、明治憲法下では、その違法行為が国家の権力的作用である限り、民法の本法行為規定の適用を排除し、他に国に賠償責任を認める規定がなかったことから国の賠償責任が否定されたのである。すなわち、公務員が職務に関して行った不法行為が国家無答責の法理の適用対象といえるか否かは、その行為の性質が権力的作用であるか否かで決せられるのであって、その行為に法的根拠があるか否かで決せられるものではない。
この点については、最高裁昭和25年判決が、「論旨は原判決は本訴を公権力の行使による損害の賠償を求めるものであるとしながら、その権力が如何なる公法上の法規又は処分によって基礎づけられているかを明かにしていないと主張するのである。…そして、原審がその判示した理由によって、本訴請求を棄却するためには、所論のように如何なる法令又は処分に根拠をおくかを判示する必要がないので、原判決には何等違法はない。」と判示しているところである。
岡田鑑定書は、国家無答責の法理及び最高裁昭和25年判決を正解しておらず、失当である。
3 また、国家無答責の法理の適用の有無が、「あくまでも法令によって権限が付与されている行為だったのか否かで判断される」(同42ページ)との意見は、その根拠が必ずしも明らかでないが、大審院判例の分析に関する、「判断基準を行為の目的から法的根拠(とくに権限規範)へと移すことによって「権力」性の認定を厳格に審査するようになったことである。たとえば、公共事業については[12]判決が、軍事関連事業については[28]判決が、水利組合については[23]判決が画期をなすものとみられる。」(岡田鑑定書36ぺ一ジ)との記述に照らすと、大審院大正5年6月1日判決(上記[12]判決)、大審院大正14年12月11日判決(上記[23]判決)及び大審院昭和7年8月10日判決(上記[28]判決)を根拠とするものと思われる。
しかし、これらの大審院判決はもとより、岡田鑑定書が分析対象として掲げるその余の大審院判決をみても、国家無答責の法理は法令によって権限が付与された行為のみに適用される旨判示したものは存しない(岡田鑑定書25ないし35ページ参照)。したがって、岡出鑑定書の上記意見は、根拠を欠く独自の見解というほかない。
4 さらに、控訴人らの主張する本件加害行為が法令に基づく権限の行使ではないとすることは、控訴人らの被控訴人に対する請求を基礎付けるものではない。控訴人らの主張する本件加害行為を、公務員が適法な公権力行使権限が存在しないのに行った実力行使であるとするのであれば、それは公権力の行使ではなく、私人においても見られる裸の暴力にすぎない。この点は、岡田鑑定書も、控訴人らの主張する本件加害行為は、「裸の暴力に他ならない」(岡田鑑定書42、43ページ)と明言しているところである。そうすると、本件においては、その公務員の私事による行為として、被控訴人は損害賠償責任を負わない帰結となろう。
そもそも、諸外国において、国家無答責の法理の根拠とされたもののひとつに、違法行為は国家に帰属しないことが挙げられていた。すなわち、「違法な国家機関の行為は、国家意思たる法規に違反する故に国家を代表する機関行為とは法律上認められず、したがって、(中略)法的責任は国家に生じない」とされていた(雄川一郎・行政上の損害賠償・行政法講座第3巻・4ページ)。
このように、公務員に権限がないことは、むしろ国家の賠償責任を否定することを正当化するものであり、権限がなければ国家の賠償責任が肯定されるなどということはできない。
5 なお、公務員にその権力的作用を行う権限があったか否かは、上記のように、当該公務員が個人として損害賠償責任を負うか否かを検討するに当たっては意味がある。すなわち、当該公務員に与えられた権限が公権力の行使に係るものであれば、その公務員は損害賠償責任を負わないが(判例が、行政裁判法施行以降、戦前、一貫して官吏無答責の立場を採っていたことにつき、宇賀・前掲国家責任法の分析422ないし430ページ)、権限が全くないと評価されれば、その公務員の私事に属する行為として、公務員個人だけが損害賠償責任を負うからである。
原田尚彦教授も、明治憲法下においては、「警察、軍事、税務、収用など公権力の行使にかかわる事項については、たとえ公務員が不法行為によって人民に損害をあたえても、国、公共団体はついに賠償の責めを負うことなく、ただ公務員の明白な権限濫用や無権限の行為についてのみ、民法709条により公務員個人に対する賠償請求が認められたにすぎなかった。」と指摘している(原田尚彦・行政法要論全訂第五版269ページ)。
また、前掲最高裁昭和25年判決も、「本件家屋の破壊が論旨のいうように公務員の重大なる過失によって行われたものであっても、そのために本件家屋の破壊行為が、国の私人と同様の関係に立つ経済的活動の性質を帯びるものでないことは言うまでもない。而して公権力の行使に関しては当然には民法の適用のないこと原判決の説明するとおりであって、旧憲法下においては、一般的に国の賠償責任を認めた法律もなかったのであるから、本件破壊行為について国が賠償責任を負う理由はない。又若し仮りに警察官が公権力の行使に名をかり、職権を濫用して本件家屋を破壊したものであるとすれば、これ等警察官が民法上の不法行為の責任を負うことはあるかも知れないが、その場合右の行為はもはや国の行為とは見ることができないのであって、尚更国が賠償責任を負う理由はないのである。」(下線は引用者)と判示している。
6 このように、仮に控訴人らの主張する本件加害行為が、何ら権限を有しない公務員によりなされたものであれば、官吏個人の賠償責任の有無が問題となるにとどまり、被控訴人が賠償責任を負うことはない。すなわち、かかる場合には、国家無答責の法理を根拠とするまでもなく、国に対して民法不法行為規定は適用されないのである。
岡田鑑定書は、かかる場合について、国家無答責の法理は適用されないとし、そこから直ちに国に対して民法不法行為規定が適用されるとするが、失当というほかない。
第4 国家無答責の法理は日本国の統治権の及ばない外国人には適用されないとする点について
1 岡田鑑定書は、「日本の主権下にない外国人と日本軍との間に公法上の関係が存在していなかったことは明白であるから、国家無答責の法理を適用する余地はない。」(岡田鑑定書43ページ)として、国家無答責の法理は日本国の統治権の及ばない外国人には適用されないとする。
2 岡田鑑定書の上記意見は、国家無答責の法理は法令によって権限が付与された行為のみに適用されるとの理解を前提とするものであるが、かかる理解が誤りであることは、前記第3で述べたとおりである。この点で、岡田鑑定書の上記意見は、前提に誤りがあるといわざるを得ず、失当である。
3 また、被控訴人準備書面(1)36ページ以下で述べたとおり、そもそも、本件において問題となっているのは、国が、いかなる者に対して、権力的作用を及ぼし得るかという問題(本件では、外国にいる外国人に対し、国の統治権に基づく優越的な意思の発動としての強制的・命令的作用を適法に及ぼし得るかという問題)ではなく、外国にいる外国人に対して、権力的作用を及ぼした場合に、国が、その国内法上、損害賠償義務を負うか否かの問題である。
そして、国家無答責の法理は、公権力の行使につき、その行為の性質を考慮して、実体法である私法ないし民法の適用自体を排除するもので、行政裁判法及び旧民法が公布された明治23年の時点で、公権力の行使について国は損害賠償責任を負わないという立法政策が確立したものである。このような法政策を採用した当時の我が国の法制において、外国人が被害者である場合には権力的作用につき、民法の不法行為規定を適用して国家責任を肯定し、日本人が被害者である場合のみに民法の不法行為規定の適用を否定して国家無答責となるという立場を採っていたとは到底考えられない。
4 岡田鑑定書の上記意見は、国家無答責の法理を正解しない独自の見解といわざるを得ず、失当である。
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