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[控訴人側] 第七準備書面
2002年(ネ)第4815号謝罪及び損害賠償請求控訴事件
控訴人(一審原告) 程 秀 芝  外179名
被控訴人(一審被告) 日 本 国
第7準備書面
2005年3月22日
東京高等裁判所第2民事部 御中
控訴人ら訴訟代理人
弁護士   土    屋   公    献
同     一    瀬   敬  一  郎
同     鬼    束   忠    則
同     西    村   正    治
同     千    田        賢
同     椎    野   秀    之
同     萱    野   一    樹
同     多    田   敏    明
同     池    田   利    子
同     丸    井   英    弘
同     荻    野        淳
同     山    本   健    一

目 次

第1部 本件細菌戦による不法行為と損害賠償責任
  第1章 本件細菌戦の加害行為の残虐性、深刻性
    第1 731細菌戦部隊
    第2 原判決の「細菌戦事実及び国家責任」の認定と控訴審での事実調べ
    第3 控訴審で明らかにされた事実―常徳の場合
    第4 控訴審で明らかにされた事実―寧波の場合
    第5 控訴審で明らかにされた事実―衢州の場合
    第6 本件細菌戦の加害行為の残虐性、被害の重大性について
  第2章 請求権問題、「日中共同声明等による解決」論について
    第1 原判決および被控訴人国の追加主張の誤り
    第2 日中共同声明の文言から、国民個人の賠償請求権を放棄していないこと
    第3 日中国交正常化交渉における賠償請求権問題
    第4 日華条約によっては賠償請求権は放棄されていない
    第5 中華人民共和国の発足と蒋介石らの台湾逃亡の歴史的意義
    第6 日華条約の前提にするサンフランシスコ条約について
    第7 戦争被害の実態に応じた賠償は全くなされていない
    第8 国家が国民個人の損害賠償請求権を放棄することはできない
    第9 被控訴人国の従前の主張(外交保護権の放棄)との食い違い
    第10 中国政府は、個人の被害賠償まで放棄したと認識していないこと
    第11 最近の戦後補償をめぐる裁判所の判断
    第12 結語
  第3章 ハーグ条約および国際人道法に基づく謝罪及び損害賠償請求権
    第1 はじめに
    第2 原判決について
    第3 ハーグ条約3条の解釈
    第4 国際人道法違反の被害者の損害賠償請求権
    第5 二国間協定と個人請求権の関係
    第6 国際人道法違反の被害者が救済を受ける権利
    第7 結び
  第4章 国際慣習法の過去の不法行為についての加害国に対する個人請求権に基づく謝罪及び損害賠償請求権
  第5章 中国民法にもとづく謝罪及び損害賠償請求
    第1 法例第11条1項が適用されないとの認定をした原判決の誤り
    第2 法例11条1項に基づく準拠法の決定
    第3 法例11条2項の適用はない
    第4 法例11条3項の適用はない
    第5 中国民法の規定とその適用関係
  第6章 「国家無答責の法理」は、本件細菌戦には適用されない
    第1 「国家無答責の法理」の確立は認められない
    第2 本件細菌戦は、国際慣習法に違反した違法行為であり、「適法な公権力行使権限」に基づかず「国家無答責の法理」は適用されない
    第3 本件細菌戦は非権力的な公法上の行為(事業活動)なので、「国家無答責の法理」は適用されない
    第4 「国家無答責の法理」は外国での外国人に対する権力作用には適用されない
    第5 ハーグ条約の国内法化によって「国家無答責の法理」は排除され適用されない。
    第6 「国家無答責の法理」は一法解釈にすぎず、現在の法解釈に基づき裁判すべき
    第7 まとめ
  第7章 時効・除斥の不適用
    第1 時効は未だ完成していない
    第2 本件細菌戦において時効・除斥期間の適用を制限すべきである
    第3 除斥期間を適用しない近時の判例
    第4 まとめ
  第8章 条理に基づく謝罪及び損害賠償請求
    第1 原判決は社会的正義に反する
    第2 条理の法源性
    第3 条理に基づく補償請求について
    第4 本件における条理の存在
    第5 条理に基づいた裁判例
第2部 戦後の不法行為と損害賠償責任
  第1章 被控訴人国による細菌戦の隠蔽及び行政不作為、立法不作為の事実
    第1 被控訴人国の国家意志による証拠隠滅と隠蔽行為の継続
    第2 被控訴人国による敗戦前後の証拠隠滅
    第3 連合国の占領下における被控訴人国の隠蔽工作
    第4 1980年代の被控訴人国の隠蔽行為
    第5 1990年代の被控訴人国の隠蔽
  第2章 立法不作為による謝罪及び損害賠償請求
    第1 問題の所在
    第2 ハーグ条約第3条に基づく被控訴人国の国家責任の成立とその性質論
    第3 ハーグ条約第3条に基づく賠償請求権と日中共同声明における「賠償請求の放棄」について
    第4 ハーグ条約第3条に基づく個人の損害賠償請求権と日中共同声明
    第5 ハーグ条約第3条に基づく中国の損害賠償請求権と日中共同声明
    第6 被控訴人国には被害者個人に対して立法上の救済義務が発生する
    第7 立法義務の不履行による立法不作為の成立
    第8 結論
  第3章 行政不作為による事実調査・救済義務違反の不法行為
    第1 問題の所在
    第2 作為義務の発生要件
    第3 本件細菌戦における被控訴人国内閣の事実調査・救済義務の不作為
    第4 本件細菌戦の被害発生と被控訴人国の作為義務の成立
    第5 公務員の職務上の義務規定のない本件細菌戦被害救済義務と条理に基づく作為義務の成立
    第6 結語
  第4章 隠蔽による不法行為
    第1 問題の所在について
    第2 国家無答責論の破綻
    第3 控訴人らは,被控訴人国に対する損害賠償・補償請求権を有する。
    第4 本件隠蔽による権利行使妨害の重大性
    第5 被控訴人国による隠蔽という作為は、控訴人らに重大な精神的損害を与えているものであり,それらの隠蔽行為は、控訴人らに対する新たな加害行為をなす。
    第6 結語
第3部 控訴人らの請求
    第1 謝罪請求
    第2 損害賠償請求
    第3 結語

第1部 本件細菌戦による不法行為と損害賠償責任

第1章 本件細菌戦の加害行為の残虐性、深刻性

第1 731部隊による本件細菌戦

 1 原判決は、本件加害行為を行った731部隊について、「同部隊は、昭和13年(1938年)ころ以降中国東北部の ハルビン郊外の平房に広大な施設を建設してここに本部を置き,最盛期には他に支部を有していた。同部隊の主たる目的は, 細菌兵器の研究,開発,製造であり,これらは平房の本部で行われていた。また,中国各地から抗日運動の関係者等が731部隊に 送り込まれ,同部隊の細菌兵器の研究,開発の過程においてこれらの人々に各種の人体実験を行った。」と認定した。
 本件加害行為の国際法違反について検討する意味でも、731部隊の設立及び活動内容について確認していきたい。

 2 日本は、1931年9月、自ら南満州鉄道を爆破した柳条湖事件からい わゆる満州事変を起こし、敗戦まで中国侵略戦争を続けた。この14年間の中国侵略の中で、日本軍は、国際法を無視して細菌戦を研究し、実戦で細菌兵器を使用した。
 これより先、日本は、日清戦争で中国から台湾等を割譲させ、日露戦争で租借地関東州(旅順・大連など)と南満州鉄道を獲得、以降、関東軍を使って中国東北地方における日本の権益の確保・拡大をめざしていた。柳条湖事件後まもなく、関東軍は、中国東北(旧満州)のほぼ全土を占領し、翌32年3月には、日本の傀儡国家「満州国」が建国された。
 その後日本は、中国の華北の一部を当時の中国国民政府(国民党政権)の支配から切り離そうとする「華北分離工作」を続け、37年7月、ついに北京近郊で中国軍との武力衝突を引き起こし(盧溝橋事件)、日中両国は全面戦争に突入した。ただちに日本軍は、華北では北京・天津を占領したのち鉄道線沿いに南下して諸都市を占領し、華中では8月に上海に上陸してこれを占領した。さらに12月には首都南京を陥落させ、このとき南京大虐殺事件を起こした。翌38年には5月に徐州を、10月には武漢をそれぞれ占領した。しかしこれ以降、中国は新たに重慶を首都とし、侵略に対する抵抗・反撃を強め、日中両軍は対峙段階に入った。1941年12月、日本軍は真珠湾攻撃とマレー半島上陸を行い、日中戦争はアジア太平洋戦争に発展した。これ以降も敗戦まで、日本は中国大陸に100万人規模の軍隊を配置して侵略戦争を継続したが、中国の抵抗は強く、ついに1945年8月、日本軍は中国に降伏した。
以下、日本軍における細菌戦部隊の創設の経過について、詳述する。

3 まず「満州国」が建国された32年、東京の陸軍軍医学校に防疫研究室 がつくられた。翌33年、中国東北の黒龍江省5常県背陰河に防疫班(東郷部隊)が設置された。東郷部隊は、一時東京に戻ったのち、中国東北の込櫛篋市南崗に移転した。36年4月、関東軍参謀長板垣征四郎は、陸軍次官梅津美治郎あてに「細菌戦準備の為」の「関東軍防疫部」の新設を要求、その結果、同年8月、東郷部隊は「関東軍防疫部」として天皇の軍令にもとづく正規の部隊となり、ハルビン市南東24キロの平房に施設の建設を開始した(甲3の11頁)。
 右の部隊は、表看板としては軍隊における「防疫」や「給水」、すなわち伝染病の予防と浄水の供給を掲げていたが、実態は、細菌兵器の開発と実用化をめざす秘密機関だった。戦線が拡大するにつれ、兵員の消耗や物資の不足が深刻となり、とりわけ兵器の近代化の遅れが顕著になると、細菌兵器は、安価に製造でき、かつ敵国に無差別な大量被害を与えることができるとして重視されたのである。

4 1936年秋、関東軍防疫部のために囲い込まれたハルビン郊外平房の 6平方キロメートルにわたる地域で、施設の建設が始まった。38年6月には、「関東軍参謀部命令第1539号」にもとづき「特別軍事区域」が設定され、部隊の周囲を「無人区」とするため、中国人農家546戸が強制的に立ち退かせられた。こうして日本の細菌戦の中枢となる部隊の本部官舎、細菌製造工場、各種実験室、監獄、専用飛行場、隊員家族宿舎などが建設された(甲30の68頁以下、甲54、甲110、甲184)。
 施設の中心は、約100メートル四方、3階建ての「ロ号棟」とよばれたビルであり、1940年に完成した(甲560。関東軍防疫部は1940年に「関東軍防疫給水部」と改称され、翌41年、「731部隊」の部隊番号をもつようになる)。
 部隊の中枢は4つの部から構成されていた(甲109)。その第1部の細菌研究部と第4部の細菌製造部はこの「ロ号棟」に置かれ、ペスト、コレラ、チフス、炭疽菌などが研究・製造された。別棟に置かれた第2部は、実戦研究を担当し、植物絶滅の研究班や昆虫(ノミなど)の研究班、さらに航空班などがあった。ハルビン市南崗の陸軍病院に置かれた第3部は、部隊の正式名称にかかわる「防疫給水」のための濾水器の製造のほか、ペスト菌などを入れる細菌戦用の陶器製爆弾の容器を製造した(甲32の21頁)。
 第4部では、「ロ号棟」の3棟、5棟で、細菌の大量生産が、石井式培養缶(甲87)を用いて行われた。
 元731部隊員の証人篠塚良雄は、実際に大量生産された細菌の種類と特徴について、原審法廷で次のように供述する。
「私たちが教えられたのは、この石井式培養缶、これは3パーセントの普通寒天培地に増殖する通性好気性菌はすべて培養できるんだと。破傷風、結核菌を除けば、ほとんどのものができるんだと、このようなことも聞きました。実際、私どもが行ったのは、赤痢、チフス、パラチフス、コレラ、ペスト、脾脱疸菌。1941年以降は、特に脾脱疸菌、ペスト菌、コレラ菌が多かったと、このように記憶しております。私どもは、この培養に当たっては、何の細菌を作るんだと、はっきりと言い渡されてはおりませんでした。しかし、私たちはかき取った細菌のにおい、形、濁り具合、これらによって判断したわけであります。赤痢菌は昔のキュウリのような、確かににおいがしました。チフス菌は、比較的きれいなものであります。培養したコロニーと言われている集落を見ると、真珠か何かのような感じすらしました。脾脱疸菌は、濁りが強いと、コレラ菌はガサガサしている、このようなことから、区別しました。また、ペスト菌、これは納豆をかき回して引っ張るような感じ、糸を引くと。ペストに感染して死んだ隊員が多くいます。恐らく、この糸が切れなくて感染したんだろうと、私はこのように思っております。このような特徴を、この中で知ることができました。」(篠塚調書22頁)
 「ロ号棟」の中庭には、最大400名を収容できる特殊監獄が建設された。この特殊監獄には、日本の支配に抵抗した、あるいは抵抗したとみなされて捕えられた中国人、ロシア人、朝鮮人、モンゴル人などが収容された。これらの人々は、名前を奪われて「マルタ(丸太)」と呼ばれ、1本、2本と数えられた。彼らは、「ロ号棟」の中の解剖室や野外の実験場で、人体実験に使われ次々に殺されていった(甲25の92頁)。
 人体実験では、細菌を注射・塗布して観察する生体実験を始めとして、動物の血液との交換、人為的な凍傷、減圧実験などありとあらゆることが行われた。また平房から120キロ離れた安達に設けられた野外実験場では、被験者を杭に縛り、飛行機からペスト菌弾や炭疽菌弾、毒ガス弾を投下・炸裂させ、効果を測定する実験などが行われた(甲131ないし甲137、甲142の91頁)。ハルビン市松花江の中州でも同様の野外実験が行われた。
 細菌兵器のうち、もっとも殺傷力が高いと評価された「ペスト感染ノミ」を撒布する方法は、上記のような研究・実験から生み出された。ペスト感染ノミは、ペスト菌を注入したネズミにノミをたからせ、その血を吸わせて生産された。
 ペスト感染ノミを使う方法は、ペスト菌を空中から撒布すれば菌は死滅するという当時の世界の生物学界の常識をはるかに越える独自のものであった。ペスト菌の場合も他の菌と同様に、特に上空から裸の菌を投下する場合、空気の抵抗や気温の変化によって菌が死滅するおそれがあるうえ、撒布作業をする人が菌に汚染される可能性が高かった。そこで考案されたのがペスト感染ノミを製造しそれを撒布するという方法である。ノミは、人間へのペスト感染を最も媒介しやすいうえ、裸の菌よりも空気の抵抗、気温の変化に比較的強いからであった(甲3)。
 
 5 細菌戦部隊の創設には、軍医石井四郎の役割りが大きかったが、細菌戦
の研究と実戦という戦略的課題は、日本陸軍の中央部が認可し推進したものであった。
 したがって、細菌戦部隊(東郷部隊、関東軍防疫部)が当初、日本陸軍が主敵と見なしていたソ連に近い中国東北に設置されたことは当然である。また同部隊の4支部(牡丹江、林口、孫呉、今性櫛)も、ソ連との国境線に沿って配置された。細菌戦が最初に行われたのは、1939年の関東軍とソ連軍が衝突したノモンハン事件においてのことであり、ハルハ河の上流ホルステン河にチフス菌が流された(甲86の11頁)。
 他方、日中戦争は、国共合作を実現した国民党軍と共産党軍の頑強な抗戦により、戦線は膠着した。日本陸軍は、北支那方面軍、中支那派遣軍(のち支那派遣軍に拡充)などを編成して1938年の後半には中国戦線に100万の兵力(これは当時の日本軍の総兵力の約8割に相当する)を動員したが、同年の徐州作戦と漢口作戦では国民党軍の主力を捕捉することに失敗し、国民政府は四川省重慶に移転して抗戦を続けた。また共産党軍は、華北を中心に日本軍占領地の後方にゲリラ戦地区を建設して、日本軍を消耗させたのである。
さらに1939年9月、ヨーロッパで第2次世界大戦が勃発した。日本の中国侵略戦争が継続・拡大し、日米間の対立が激化する中で、翌40年9月、日本は、日独伊3国同盟に調印した。ドイツのヨーロッパにおける軍事的勝利に期待をかけつつ、日本は、南方の東南アジア等を新たに侵略することによって、事態を一気に解決するという戦略を打ち出したのである。
 このような状況のもとで、日本軍は、細菌戦研究を強化し、細菌戦部隊
の規模を拡張していった。すなわち、関東軍防疫給水部(731部隊、ハルビン)に加えて、中国では北支那防疫給水部(1855部隊、北京)、中支那防疫給水部(1644部隊、南京。甲57、甲58)、南支那防疫給水部(8604部隊、広州)が40年までに編成され、42年には南方軍防疫給水部(9420部隊、シンガポール)が編成された(括弧内は部隊番号と本部所在地、以下部隊番号も用いて表記する)。さらに、これらの各部隊には、数個から十数個の「支部」が設けられた(甲559)。
 日本軍の細菌戦は、これらの諸部隊が直接間接に参加して、中国の各地に対して行われたのである。

6 1940年、日本陸軍の中央部は、細菌兵器の使用を本格的に検討し、 細菌作戦発動を命じた。天皇の命令たる「大陸命〔大本営陸軍部作戦命令〕」にもとづき陸軍参謀総長が出す作戦の具体的な指示である「大陸指〔大本営陸軍部作戦指令〕」の「第690号」が発令されたのである。
 6月5日、陸軍参謀本部作戦課の荒尾興功、支那派遣軍参謀井本熊男、南京・1644部隊長代理の増田知貞の間で細菌戦実施についての協議が行われた。協議の結果、攻撃目標は浙江省の主要都市とすること、実施部隊は支那派遣軍総司令部直轄とし、部隊責任者は関東軍防疫部長石井四郎とすることなどが決定された。作戦方法は、飛行機による菌液撒布とペスト感染ノミの投下であった。
 7月25日、関東軍は「関作命〔関東軍作戦命令〕丙第659号」(甲20の証拠書類保管文書830号)を発令した。この作戦命令は、浙江省への細菌戦のために731部隊員で臨時編成された「奈良部隊」の人員・器材の輸送を命じたものであった。同命令によってハルビンを出発した「投下爆弾700発、自動車20両」などの器材が、8月6日、前線基地とされた浙江省杭州に到着した。2日後には、1644部隊と731部隊からの総勢120名の隊員が杭州に集結した(甲88の14頁)。
 元731部隊航空班の証人松本正一は、本法廷で、杭州から「寧波作戦」に航空班のパイロットの「ほとんど全員が参加した」(松本調書32頁)と供述している。
 これ以後、具体的な攻撃目標の捜索が行われた。9月上旬、細菌戦の攻撃目標に寧波と衢州が決まり、金華も候補にあげられた。このうち、寧波は中国東南部における重要な港湾都市であり、衢州・金華は浙江省から江西省に通じる浙p鉄道上の要地であった。9月18日、攻撃目標の候補地に玉山、温州、台州などが加えられた上、浙江省への細菌戦が始まった。
 9月18日から10月7日までに、コレラ菌、チフス菌、ペスト菌による6回の細菌攻撃が行われた。この6回の攻撃では、菌液撒布とともに、10月4日の衢州に対する攻撃の場合のようにペスト感染ノミが投下された(甲113)。続いて10月下旬、寧波にやはりペスト感染ノミが投下された。11月末、金華にペスト菌が投下された(次頁の井本日誌参照)。
 攻撃対象となった地域のうち、少なくとも衢州と寧波の2カ所で大規模なペスト流行が発生した。
 11月25日に、陸軍参謀総長杉山元は、支那派遣軍と関東軍に対し「大陸指第781号」(甲21)を発し、11月末日をもって作戦を終了させることを指示した。

7 1941年の前半、日本陸軍の中央部や関東軍防疫給水部(731部 隊)、北支那防疫給水部(1855部隊)、中支那防疫給水部(1644部隊)は、前年の細菌戦実施の結果をふまえ、攻撃方法や細菌増産のための施設拡充などについて、さまざまな検討を行った。また、1941年6月のドイツ・ソ連間の戦争開始に伴って行われた陸軍の対ソ連戦争準備(同年8月中止)の期間、731部隊は対ソ戦用のペスト感染ノミの増産をはかった。
 細菌戦再開が決定され、 陸軍参謀総長名の「大陸指〔大本営陸軍部作戦指令〕」が発令されたのは、9月16日になってのことである。攻撃の対象に選ばれたのは、洞庭湖に近い湖南省西部の戦略要地常徳であり、目的はペストの流行による国民党軍の交通路遮断であった。今回の作戦の中心となったのも、前年と同様、731部隊と1644部隊であり、731部隊からは40ないし50名が派遣され、作戦参加者の総数は約100名であった(甲112)。
 11月4日、731部隊の航空班増田美保は、97式軽爆撃機を操縦して飛行場を午前5時30分に離陸し、常徳に6時50分に到着した。ペスト感染ノミとそれを保護する綿・穀物など36キロが、常徳の上空高度1000メートル以下から投下された。この常徳に対する攻撃には江西省の南昌の飛行場が使われた。
 井本日誌には、次頁の記載がある。1941年11月4日、日本軍は、湖南省の常徳市に対し、細菌戦を実行した。日誌から、実行者(731部隊の増田美保)、攻撃機の型式や攻撃時間、投下時の高度、さらにペスト感染ノミを飛行機の機体の下に取り付けられた函に入れ、その函のフタを開けて投下させる方法をとったこと等がわかる。
 「アワ36s」とは、ペスト感染ノミ36キログラムのことで、これが常徳に撒布された。しかも、細菌戦実行後の常徳のペスト流行の報告がなされている。
 増田美保は、薬剤将校で、731部隊で特別にパイロットに訓練された人物である(甲565)。
 11月12日、最初のペスト患者が発見された。翌1942年にかけて常徳の市街地・農村地区、および近隣の桃源県でペストが流行する。日本軍は、情報収集によって攻撃が成功したと判断し、ペスト感染ノミの空中投下という方法に自信を深めた。
 なお、1941年12月8日、日本はアメリカとイギリスに対し宣戦を布告し、太平洋戦争の開戦にふみきった。かつての日清戦争の宣戦の詔書には、「苟モ国際法ニ戻ラサル限リ各々権能ニ応シテ一切ノ手段ヲ尽スニ於テ必ス遺漏ナカラムコトヲ期セヨ」と国際法に準拠すべきことが明記されていた。日露戦争、第1次世界大戦の宣戦・開戦の詔書も同様であった。しかし、この太平洋戦争の宣戦詔書には、こうした文言が全く見られないことは、きわめて示唆的である。事実、日中戦争につづき、アジア太平洋戦争にあっても、日本軍は国際法違反の細菌戦を計画し、実行するのである。

8 1942年の細菌戦は、戦争があらたな事態を迎える中で実行された。同年4月18日、太平洋上の空母を発進した米軍爆撃機が、初めて日本本土を空襲し、日本の政府と軍に大きな衝撃を与えた。米軍機は中国浙江省の都市を着陸予定地としていたため、同月30日、大本営は急遽浙江省から江西省に通じる浙袴鉄道沿線の諸都市を攻撃し、飛行場を破壊する作戦を決定し、「大陸命〔大本営陸軍部作戦命令〕第621号」を発令した。この浙袴作戦(せ号作戦)は、第13軍の6個師団と第11軍の2個師団、計8個師団を動員する大規模な作戦であった。
 陸軍中央と石井四郎(当時軍医少将)は、この作戦の中で細菌攻撃を実施することを決定した。だがこの細菌攻撃について、第13軍司令官沢田茂中将は、陣中記録に、「石井部隊の使用、総軍〔支那派遣軍総司令部〕
よりも反対意見を開陳せしも大本営の容るる処とならず。大陸命を拝したりとならば仕方なきも作戦は密なるを要す。」(6月25日の項)、「石井少将連絡の為、来著す。其の報告を聞きても余り効果を期待し得ざるが如し。効果なく弊害多き本作戦を何故続行せんとするや諒解に苦しむ。」(7月11日の項)と記している。
 すなわち、この時の細菌戦実施は、極秘作戦として大本営で決定され、現地の支那派遣総軍や第13軍の実施反対は拒否されたのである。細菌戦の陣頭指揮にあたったのは石井四郎である。
 7月には、ハルビンの731部隊派遣隊が南京に到着、ここで南京・1644部隊の部隊員と合流した。要員総数は150ないし60名であり、8月初めには作戦実施のための配備が終了した。今回の細菌戦は、これまでの航空投下と異なり、主に地上撒布の手段が用いられた。すなわち、13軍など日本軍は所期の飛行場破壊の目的を達成し、同月中旬から1部の占領地を除いて撤退を始めたが、この撤退のさい、さまざまな方法で細菌が撒布されたのである。その目的は、日本軍撤退後に復帰する中国軍の行軍ルートや拠点都市に伝染病を流行させることによって、飛行場の再建を不可能にすることであった。
 江西省の上饒(旧称広信)や玉山では、ペスト感染ノミやペスト菌を注射した野ネズミが放たれ、同省の広豊でもペスト感染ノミが放たれた。さらに玉山では、ペストの乾燥菌を付着させた米を撒いて、その米を食べたネズミを感染させる方法も試みられた。また浙江省の衢州・麗水では、ペスト感染ノミの他、チフス菌やパラチフス菌が撒布された。さらに同省の常山と江山では、コレラ菌を@井戸に直接入れる、A食物に付着させる、B果物に注射する、などの方法が採られた(次頁の井本日誌参照)。これらの謀略的な細菌地上撒布により、前記諸都市ではコレラやペストをはじめ多数の伝染病患者が発生した。
 さらに、この1942年には、日本軍は太平洋戦域でも細菌戦を実行しようとした。たとえば、フィリピンのバターン半島に立てこもったアメリカ・フィリピン軍に対する細菌戦が準備されたが、準備中にアメリカ軍らが降伏したため中止された。また、サモア、アラスカのダッチハーバーや、オーストラリアの主要都市、インドのカルカッタに対する細菌戦が検討されていた。

9 1943年、ソロモン群島ガダルカナルからの撤退後、太平洋における日本軍の敗勢は明確なものとなった。中国での戦争も、本来の中国政府を 屈服させるという目的を放棄し、占領確保のための作戦が中心になった。こうした状況下に、ハルビンの731部隊、北京の1855部隊、南京の1644部隊、広州の8604部隊、シンガポールの9420部隊の日本軍細菌戦部隊は、ペスト感染ノミとネズミの増産に力を入れ、中国の他の地域に対してだけでなく、ビルマ、インド、ニューギニア、オーストラリアなどに対する細菌攻撃も検討された。
 なお、同年9月、日本軍第59師団防疫給水班は、中国山東省西部で、コレラ菌撒布により、細菌兵器の効果を実験し、あわせて行軍中の日本軍部隊の防疫能力を試す細菌戦を実施している(甲2の44頁)。

10 1944年になると、日本軍は、太平洋の制海権・制空権を完全に奪われ、南太平洋の拠点を次々に失った。同年6月には、大本営が前年に設定した「絶対国防圏」の要域であるマリアナ群島のサイパン島に、アメリカ軍が上陸した。陸軍参謀本部作戦課は、潜水艦を使ってシドニー、メルボルン、ハワイ、ミッドウェーを細菌攻撃する計画を立て、さらにサイパン島攻防戦では、実際に細菌攻撃部隊が船で派遣された。この部隊の1部はサイパン島で玉砕、1部はトラック島に向かう途中で米軍潜水艦により撃沈された。同年7月、サイパン島が陥落すると、これを奪回するための細菌攻撃が検討されている。

11 1945年1月、陸軍中央部は、細菌戦の戦略的実施を中止する決定を行った。
太平洋戦線における戦況の悪化は、もはや大規模な細菌戦実施を不可能にしていたのである。
 だが、中国東北では、事情が異なった。ソ連の参戦が確実となった2月以降、弱体化した兵力を補うべく、関東軍とその細菌戦部隊である731部隊は、ペスト菌の大増産計画を立てた。「満州国」の行政権力を通して民衆から大量のペスト菌培養用のネズミ類(ハタリス)が集められ、設備も増強された。さらに、国境線に配置された731部隊の4支部は、関東軍の各軍の指揮下に置かれたのである。1945年6月当時の731部隊は、関東軍防疫給水部略歴によれば、3550名の人員を要した(甲555)。
 こうした対ソ連細菌戦準備は、同年8月、日本の敗戦直前まで続けられた。
 8月9日のソ連参戦後、731部隊はその細菌戦研究・細菌兵器製造等の一切の施設を破壊し、収容されていた「マルタ」を全員殺害して撤退した(甲31の14頁以下)。
 だが、中国人に対する加害行為は、これだけでは終わらなかった。施設跡から逃げたネズミやノミによって、周囲の村落およびハルビン市内にペストが発生した。少なくとも数百名の死者を出したこの流行は、1959年まで続いた(甲78)。

第2 原判決の「細菌戦事実及び国家責任」の認定と控訴審での事実調べ

 原判決は、結論で被控訴人の法的責任を否定するものだったが、他面で、以下のとおり、旧日本軍731部隊等が陸軍中央の指令により中国各地で細菌兵器を実戦使用した事実を全面的に認定した。
さらに、原判決は、細菌戦の事実と共に、以下のとおり、当時、細菌戦が国際法に違反しており、被控訴人の国家責任が成立したことを認定した。
 控訴審裁判所においては、こうした認定を踏まえて判断すべきと思料する。

1 原判決による細菌戦事実の認定
  (1) 日本軍の加害行為
 原判決は、「1940年から1942年にかけて、731部隊や1644部隊等によって」、衢県(衢州)、寧波、常徳にはペスト感染ノミを投下し、江山にはコレラ菌を地上散布し、「細菌兵器の実戦使用(細菌戦)が行われた」(原判決30頁)と認めた。

  (2) 伝播による細菌戦被害
 原判決は、「衢県でのペストは、義烏、東陽、崇山村、塔下洲のようにその周辺の地域にも伝播し、大きな犠牲をもたらした」(原判決31頁)と認定した。また「1942年3月以降、常徳市街地のペストが農村部に伝播していき、各地で多数の犠牲者を出した。」(原判決34頁)と認定した。このように二次感染、三次感染の発生そして伝播による被害地域の拡大が認定され細菌兵器の大量破壊性と残虐さが一層明確になった。

  (3) 細菌戦の指揮命令系統
 原判決は、「細菌兵器の実戦使用は、日本軍の戦闘行為の一環として行われたもので、陸軍中央の指令により行われた」(原判決34頁)ことを認めた。

  (4) 細菌戦の犠牲者
 原判決は、本件裁判の被害地8ヶ所全体の細菌戦による死亡者の数が1万人を超えることを認定した(原判決30頁ないし34頁)。

  (5) 細菌戦の残虐性
 原判決は、「ペストは社会形態を介して伝播し、人々を次々に死に追いやることから、差別とお互いの疑心暗鬼を招き、地域社会の崩壊をもたらすとともに、人々の心理に深刻な傷跡を残す。」「ヒト間の流行が治まった後も、病原体が自然の生物界で保存され、ヒトの間に感染する可能性が長く残存する。その意味で、ペストは、地域社会を崩壊させるだけではなく、環境をも長期間に渡って汚染する病気である」と認定した。また「コレラは、伝染力が強く、次々と死者が出ると地域社会において差別やお互いの疑心暗鬼を招くことも多い。」(原判決35頁、36頁)と認定した。

 2 原判決は、細菌戦被害への被控訴人の国家責任を認定
  (1) 日本軍の細菌戦の国際法違反性
 原判決は「もともと細菌兵器は、これが戦闘の目的と比較して不相当な性格のものであるとの従来からの少なくとも黙示的な共通認識を前提にジュネーブ・ガス議定書で明示的にその使用が禁止されたものと解され(当事国は125か国である。)、同議定書は1928年には発効したから、遅くともそのころまでには多数の国家の行態の中に同議定書に対する法的確信が確認されるに至り、もって同議定書を内容とする国際慣習法が成立するに至っていたものと認めるのが相当である。そして、前記認定の旧日本軍による中国各地における細菌兵器の実戦使用(本件細菌戦)がジュネーブ・ガス議定書にいう『細菌学的戦争手段の使用』に当たることは明らかである。」(原判決38頁)旨を判示した。
 このように、日本が中国で行った細菌兵器の実戦使用はジュネーブ・ガス議定書を内容とする国際慣習法に違反していることを認めた。

  (2) 日本の細菌戦被害に対する賠償責任
 原判決は「ジュネーブ・ガス議定書のような条約ないしそれを介して成立する国際慣習法による害敵手段の禁止もヘーグ陸戦規則23条1項にいう『特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止』に該当すると解するのが相当である。したがって、ジュネーブ・ガス議定書を内容とする国際慣習法による細菌兵器の禁止に違反した場合にもヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生ずるというべきである。」と述べて、次に本件に関して「被告には本件細菌戦に関しヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていたと解するのが相当である。」(原判決39頁)と認定した。
 このように、日本が中国で細菌戦を行ったことについて、細菌戦被害者が受けた損害を賠償するというハーグ陸戦条約第3条を内容とする国際慣習法による国家責任が被控訴人に成立したことを認めた。

3 控訴審での事実調べ
 控訴審裁判所においては、こうした原判決の認定に踏まえて、控訴人らが被った細菌戦の被害の深刻性がより一層明白になったと思料する。
 細菌戦被害の深刻さについて、中国の3人の地元研究者(陳致遠、楼献、裘為衆)による鑑定書の提出及び証人尋問で、控訴人親族の被害を中心に追加立証を行った。
 すなわち、証人陳致遠(湖南文理学院教授)は鑑定書を提出し、湖南省常徳市の城区市街地の控訴人12名と石公橋市街地の控訴人5名について、控訴人親族の死亡場所の特定による被害立証を行った。また、上記両地区の死亡者の死亡地点を地図に落とし、控訴人の死亡地点との関連を明確にして、控訴人親族の死亡とペストの流行と関係を一層明確にした。
 証人楼献(杭州商学院科技哲学研究所副所長)は、鑑定書を提出し、浙江省衢州の控訴人14名について、控訴人親族の死亡場所の特定による被害立証を行った。
 証人裘為衆(ジャーナリスト、寧波細菌戦の研究者)は、浙江省寧波市の被害の追加調査を行い鑑定書を提出した。
 控訴人胡賢忠(寧波、1932年2月生、72歳。父母、姉、弟を亡くす)及び控訴人熊善初(常徳、1929年9月生、75歳。兄2人と甥2人を亡くす)は、本人尋問で、その被害の深刻性を生々しく証言した。
 また、地元の被害調査委員会による調査の成果として、湖南省常徳市の「7643人の常徳細菌戦死亡者名簿」が提出された。
 さらに、江田憲治教授(京都大学)は、鑑定書を提出し、湖南省と浙江省ではペスト防疫活動が続けられているなど細菌戦被害が戦後に波及している深刻性について立証を行った。聶莉莉教授(東京女子大学)は、鑑定書を提出し、細菌戦の被害記憶と被害者意識を分析し、被害者の精神的苦痛は現在においても深刻であることについて立証を行った。
 これらの証拠により、控訴人ら細菌戦被害者が被った被害の程度が極めて深刻であることが立証された。
 以下では、法律の適用を論ずる前提として、控訴審において明らかになった被害事実を主張する。

第3 控訴審で明らかにされた事実―常徳の場合

 1 細菌戦の犠牲者(「7643人の常徳細菌戦死亡者名簿」の提出)
 控訴審では、中国湖南省常徳市において、被害者や遺族を中心とする市民団体「日本軍731部隊細菌戦被害常徳調査委員会」(以下「常徳調査委員会」)が作成し、聶莉莉教授が点検作業を行った「7643人の常徳細菌戦死亡者名簿」が提出された(甲570)。
 常徳調査委員会は、1998年3月から、細菌戦被害に関する本格的な調査を開始し、被害者の遺族から聞き取りをしたり、遺族自身に書いて貰ったりして、約1万5000名の被害陳述書を作成し、死亡者名簿に7643名の死者を登録した。
 この死者の登録数は、常徳市档案館に保存されている1万5000通の被害陳述書の約半分であるが、「被害者の遺族が生きており、かつ当時の隣人や友人などの第三者証人による証言を得られる人について、初めて被害者認定をする」という厳しい認定基準に従っている結果である。
 たとえ被害当時の歴史記録に名前が被害者として記載されている場合でも、遺族が生存していない場合には、上記の認定要件を満たさないものとして調査委員会の被害者名簿からは除外されている。もちろん 「幸存者」は死亡者名簿には含まれない。
 原審裁判所において証言した聶莉莉教授(東京女子大学)は、2000年12月1日付鑑定書〈湖南省常徳地域における日本軍による細菌戦被害状況に関する研究―フィールドワーク等に基づいて文化人類学の観点から―〉(甲92)の中で、「常徳地域におけるペスト被害状況を明らかにし、死亡した被害者を登録することを主な目的とする調査委員会は、成立して以来、活動経費を提供する固定的なサポーターがなかったが、メンバーたちがいつも自費で調査に出かけた。2000年11月現在まで、彼らは、常徳及び周辺地域の13県の70郷鎮、486行政村において、ペストによる被害調査を行い、ペスト被害死亡者合計6,491人と、ペスト被害を受けた生存者28名の名簿を整理した(第一冊、死亡者4,127名、感染した生存者28名、1998年12月。第二冊、死亡者2,364名、1999年11月。死亡者合計6,491名)。近いうちに、その後登録した名簿を新たに印刷する予定であるが、新しい名簿を加えると、被害死亡者登録数は合計7,643人となるという。」(甲92の80頁)と述べた。その後の調査委員会の死者名簿の策定および聶莉莉教授の点検作業を通して、2005年3月3日付意見書(甲570)に「7643人の常徳細菌戦死亡者名簿」を添付して提出し、改めて常徳細菌戦被害による死亡者数が少なくとも7643人であることを再確認している。

 2 細菌戦被害の深刻性
 陳致遠教授の聞き取り調査から、控訴人の受けた精神的苦痛の深刻さを指摘する。ここでは一部を紹介する。
 (1) 全住民に対するペスト死亡者数の割合の多さ
  陳致遠教授は、 常徳都市部について、細菌戦が常徳の無辜の住民に深刻な影響を与えたことについて、死亡率が186分の1から100分の1に達することを指摘する。
 すなわち、1942年の常徳都市部の人口が62,150人であったところ、調査によって判明したペスト死亡者297人に、公文書に記録された死亡者37人を合計するとペスト死亡者は334人にのぼり、日本軍のペスト攻撃による死亡率を計算すると186分の1となる。また、ケ一?氏(常徳防疫所副所長)が主張する死亡者は600人余りであるとする説に則って計算すると、死亡率は約1/100となるという。
 (2) 遺族の受けた精神的苦痛
 細菌戦は、ペスト被害者に多大な肉体的苦痛を与えただけではなく、控訴人らを含む遺族に精神的な苦痛をももたらした。
 陳致遠教授が、この点につき、鑑定書16頁以下で、死亡者との親族関係につき指摘するように、ある人は父または母を失い、またある人は子供を、祖父、祖母は孫を失い、妻は夫を、夫は妻を失った。人々はそれぞれの親族を失い、どれほど悲惨なめに遭い、どれほど残酷な精神的苦痛を被ったのか計り知れない。
ア 控訴人方運勝の兄・方運登は1941年11月に8歳で、ペスト に感染して死亡した後、祖母は精神障害になり、一年中、夜中に孫の名前を呼びながら町をぶらぶら歩き回った(控訴人方運勝は、「兄は当時一家の唯一の男の子でした。祖母は彼の死を非常に悲しみ、精神を病んでしまいました。時々独りで孫の名前を口にしながら、一日中あちらこちら歩き回っていました。私がまだ子供の時に、祖母はよく私を連れて町のなかで兄の名前を呼んでいたことを覚えています。」と述べている)。
イ 控訴人高緒官は、鶏鵝巷に住む5人家族の家庭であったが、194 1年12月、2人の男の子を亡くした。13歳の高緒文と11歳の高緒武である。彼らの死に母親は昼夜すすり泣きつづけた。母親は両眼とも殆ど失明し、さらには、一時的に二ヶ月ほど精神に異常をきたしてしまった。
  (3) ペストによる家庭・生活の破壊
 細菌戦は、ペスト被害者に多大な肉体的苦痛を与えただけではなく、控訴人らを含む遺族の家庭・生活を破壊した。陳致遠教授の聞き取り調査から、控訴人の受けた家庭・生活の破壊の深刻さを指摘する。
ア 控訴人劉開国の祖父・劉棟成は元々常徳城内最大の味噌販売店2軒 の内の1軒の経営者であり、豊かな中産階級に属していた。祖父がペストで亡くなったため、店は閉店を余儀なくされ、家族の暮らし向きは急速に悪くなった。
イ 控訴人謝旋の父・謝行鈞は、常徳城北にある「興盛祥南貨店」の経 営者で豊かな生活を送っていた。しかし、1941年12月に5人の家族の内4人が7日間に死んでしまった。13歳だった控訴人謝旋は、家を離れて勉強していたため生き残り、単身おじさんの家で養ってもらった。
ウ 控訴人馬培成の祖父馬宝林は、容啓栄報告書『常徳鼠疫(ペスト) 患者一覧表』中の第22号被害者に記載されているが、人々に「馬瓦匠(左官)」と呼ばれて、常徳城東の五鋪街に住んでいた。1942年4月、夫人が先にペストに感染し、隔離病院で亡くなり、後に、彼も4月17日にペストに感染し、広徳病院で亡くなった。彼らの息子は14歳で孤児になったが、生活苦に耐えて成長していった。

  3 控訴人親族の死亡場所の特定による被害立証
湖南文理学院の陳致遠教授は、鑑定書(甲536の1、甲536の2)において、武陵区城区の細菌戦による死亡者について、当時の歴史記録に基づく死亡者が37名、歴史記録以外で「7643人の常徳細菌戦死亡者名簿」中の城区323名中の市街地297名(但し、毛仁山が歴史記録20番、死亡者名簿122番の両方に記載されているのて296名)の合計333名の死亡家族分布図を作成した。
 さらに、陳致遠教授は、同鑑定書の附属文書一(日本語版46頁ないし88頁)で、武陵区城区の控訴人12名の被害調査を行い、被害当時の12名の控訴人の家族の住居を特定した。
 この点について、陳致遠教授は、本法廷で次のように証言した。

この図は、私がこれを作りましたのは、1942年の容啓栄報告と、それから、現在の常徳細菌戦被害調査委員会の研究を基に、自分でいちいちそれを検証いたしまして作りました。(中略)これを見ますと、常徳のペスト患者が発生したところがきちんと特定できるということで、住所と番地によってそれを特定いたしました。この図から分かることは、1941年に日本軍が細菌戦によるペスト攻撃を行ってから、被害は45年まで続き、細菌攻撃を受けた地域にたくさんの被害者が生じ、現在訴訟を行っている控訴人もこの地域を中心に分布しているということが言えると思います。
(第8回口頭弁論、陳致遠証人調書速記録5頁)

このようにして、12名の控訴人の親族が、1941年11月4日にペスト菌の細菌弾を投下した後に流行し1945年まで続いた被害地域に居住し感染し死亡したことが立証された(次頁の分布図参照)。

  4 また常徳市石公橋の市街地におけるペスト死亡率、ペスト感染者の受 けた苦しみ、ペストによる家庭・生活の破壊について、陳致遠教授は鑑定書において次のように明らかにしている。
「中国第二歴史公文書館に保存されている『疫情旬報』第26号には、石公橋鎮のペスト発生及び予防治療の状況について、次のように記されている。
「今年1月の間、常徳城内関廟街の胡という姓の者は城内でペストに感染し、新徳郷石公橋に戻り、発病して死亡した。彼に続いて家の女性使用人も感染し死亡した。衛生署医療防疫総隊第十四巡回医療防治隊は一度役人を派遣し、調査処理をした後、再発はなく、ペストネズミも発見されなかった。しかし、10月27日には当該地区で突然、再び1名のペスト感染者を発見した。その後、殆ど毎日のように死亡者がでた。11月24日まで合計して35名のペスト感染者を発見した。そのうち、31名が死亡した。その他、石公橋より10華里離れた鎮徳橋では11月20日にも2人が死亡し、25日までに9人が死亡した。湘西防疫処が派遣した係の調査結果によると、病例が発見される前に死んだ鼠を発見していたのに、一般民衆はその鼠がペスト菌で死亡したと知らなかったので、最終的にペストの大流行が発生した…」。
「予防治療の経過:11月14日に湘西防疫事務所は大量の薬剤を持つ各課の防治作業員を派遣した。石公橋と鎮徳橋との両地で防疫の仮事務所を設け、石公橋で隔離病院支部を設置して当地駐在軍の協力の下で予防治療の仕事を進めた。現在、当該地区には衛生署医療防疫総隊第2大隊に属する10、14巡回医防隊…等9防疫部門がある。防疫専門家であるポリッツアー博士(オーストリア人)の指導下で、防疫に従事する役人が30人余りいた。その他、衛生署第15巡回医防隊と軍政部第4防疫大隊第1中隊とも疫病地区に行き、防治作業に協力した」
 中国第2歴史公文書館に保存されている、1942年12月4日に戦時防疫連合事務所の容啓栄主任が署名した第37号『ペスト疫病情況緊急報告』には、
「湖南省疫病情況について:衛生署医療防疫総隊第2大隊の大隊長代理人である施毅軒は11月16日に電報で報告:常徳県新徳郷石公橋鎮では11月6日に腺ペストを発見し、11月15日まで死亡者が20人に達した…治療チームをすでに1組派遣した。施毅軒はポリッツアー博士と一緒に第2チームを引率し疫病地区の一切の事項を監督・指導。施毅軒とポリッツアーは11月28日に電報で報告:石公橋鎮ではもう隔離病院を設置し、当該地区の疫病情況に対し積極的に対処し、堤防を築いて隔離し、住民を移動させる準備をしている」
と述べている。
 同公文書館所蔵の1942年12月21日の第38号『ペスト疫病情況緊急報告』では下記のように書いている。
「湖南省の疫病情況について…(二)施毅軒大隊長が12月3日に電報で報告:石公橋鎮では合計40人余りの死体を発見した。最近の1週間には新しい病例を発見しなかった」。
 以上の資料をまとめると、石公橋鎮は1942年10月27日にペスト流行が始まった。流行する前に大量の鼠の死体を発見した。11月6日、常徳防疫部門はペストの発生の情報を得た。11月14日、湘西防疫所は予防治療員を派遣し、疫病地区で予防治療の仕事を始めた。11月15日に統計した死亡者数は20人に達した。11月24日までに発見されたペスト感染者は35人で、うち31人が死亡した。12月3日まで合計して40人余りの病死者を発見した。」
 常徳市石公橋の控訴人ないしその親族の居住地は、日本軍による細菌戦が実行されたペスト流行地区であった(次頁の分布図参照。)。

 5 ペストの拡大と生活習慣
 聶莉莉教授は、宗教や生活習慣がペストが伝播し被害が拡大していったことについて、ムスリムの葬式について、次のように指摘する。
 事例 ムスリムの葬式とペストの伝播
 ムスリムの葬儀は、漢民族以上に厳格な様式に従って行われ、「老師傳」(イスラムの教義によって礼拝や儀礼を司祭する人)が葬式の全体を司った。
 ムスリム特有の儀式である「守霊」(通夜)、「洗屍」(遺体を水で洗って清める)、「包扎」(遺体を白い布で包む)、「入棺」(教会にある公用の棺に遺体を入れる)、「喪儀」(経を読んで死者と分かれる儀式)などが行われる。
 墓地に棺を運ぶ「出葬」では、通常親戚や隣人、地域の若者が棺を担ぐが、彼らは「喪夫」と呼ばれた。イスラム教の葬式で共通の棺桶が使われたり、死者の体を触ったりする習慣があることは、ペストが伝播する原因となった。許家橋郷民族村の被害者は全部で61人だったが、村の9人の「老師傳」のうち6人が亡くなり、「喪夫」をした人も8人が亡くなった(李光府陳述書25号)。
(甲508聶莉莉教授「鑑定書」の21頁)
 また、火葬を嫌う世界観が、ペストの伝播を広げる結果になったことを次のように指摘する。
 他の地域の漢民族と同様、常徳人も「完屍」、即ち死者の身体が必ず保全されなければならず、「入土為安」即ち土葬された死者は安楽であるという観念が非常に強かった。
 中国人の世界観の中枢は儒教であった。身体の保全は、儒教の中心的教えの一つである「孝」とつながった。「身体髪膚、受之父母、安敢毀傷」(身体、髪、皮膚などは父母が授けたもので、敢えて毀傷することができない)という訓戒は、儒教の経典『孝経』に記載されている。儒教の影響を受けた中国の人々にとって、死者の身体を解剖することは受け入れがたいことであった。
また、仏教の影響により、遺体が解剖されると、死者の身体が完全でなくなり、「陰間」(あの世)においても安らかにできないし、輪廻転生もできなくなると思われていた。それは、死者にとって大変気の毒なことであり、生きている親族にとっては、亡人を守れず失格だということとなる。
 一方、「入土為安」の観念は、中国人の世界観にある風水思想とも密接に関連している。大地の偉大なエネルギーである「気」が、そこに埋葬された祖先の骨を経由して子孫に流れ込み、子孫の繁栄や出世、財力の蓄積、一族の隆盛など様々な恩恵を与える。この世の人々の富貴栄華、没落退廃などの運命は、祖先の墓に握られていると解釈する人々にとって、逝去した祖先を土葬するのは、「天経地義」(至極当たり前の道理)であった。
 「完屍」や「入土為安」という観念や慣習があるために、政府が実施した死体解剖や火葬などの措置は強く反感を持たれ、家にペストによる死者が出ても、防疫隊や政府に報告せずにこっそりと埋葬した家がたくさんあった。(甲508聶莉莉教授「鑑定書」の21頁)

 6 現在まで続くペストの脅威の継続
 常徳市疫病予防制御センター(元常徳市衛生防疫センター)は1984年から毎年、1940年代にペストが大流行した常徳都市部と常徳石公橋鎮、それから桃源城関鎮の3つの地区の鼠に対して、ペスト検査を実施している。1990年には常徳都市部で2例、1991年には桃源城関鎮で1例のペスト抗体に陽性反応を示した鼠の血清が見つかった。これは今後常徳市でまだペスト発生の可能性があることを示している。陳致遠意見書で次のように述べている。
「5.常徳市は今日でもペストの潜在的脅威に直面している
筆者は常徳市疫病予防制御センター(元常徳市衛生防疫センター。)を訪問した。当該部門の主任である鐘発勝は次のように述べた。彼らは1984年から毎年、1940年代にペストが大流行した常徳都市部と常徳石公橋鎮、それから桃源城関鎮の3つの地区の鼠に対して、ペスト検査を実施している。1990年には常徳都市部で2例、1991年には桃源城関鎮で1例のペスト抗体に陽性反応を示した鼠の血清が見つかった。これは今後常徳市でまだペスト発生の可能性があることを示している。彼らが検査した3例の陽性を示したサンプルは1991年に、中国ペストブルセラ症防治基地である、「吉林省地方病第一防治研究所」へ送られ、再検査された。その結果も陽性であった。以下に『再検査結果通知書』のコピーを付録した。また、湖南省常徳市ペスト連合監督観測組の『湖南省1991〜2000年ネズミ間ペストの監測報告』をも添付した。
 鐘発勝主任は最後に筆者にこのように話した。「上述した検査結果は、常徳市で今日でもペスト再発の可能性があり、常徳の人民は今なお1941年の日本軍隊が投下したペストの危害に直面していること示している。」(甲536の2、31頁、32頁、甲507、3頁、10頁)

第4 控訴審で明らかにされた事実―寧波の場合

  1 新たに判明した被害事実
 控訴人らの被害状況について、証人裘為衆は、5年間にわたる聴取り調査の結果、新たに4名の死亡者名を確認し、また記録上死亡者とされていた被害者1名の生存を確認した。
 裘為衆証人は、鑑定書において次のように明らかにしている。
   「2.112名の死亡地点
 寧波を離れた人も含め、現在判明している112名の死亡者の死亡場所を確定した。
    3.家を焼却された隔離地区の115軒の家族の現在(1軒に複数の 家族が住む場合を含む)
(1) 絶滅した家族
 もとよりそこに住んでいた115軒の家の中で、11家族が全滅だった。
(2) それ以外の家族
 それ以外の104家族はすべてを失ったため、しかたなく寧波を離れた。彼らのその後の境遇はほとんど知られていない。感染していたのかどうか、現在生きているのかどうかすら分からない。新中国が成立してから、ごく一部の人は寧波に戻ったが、現在、寧波に残っているのは10家族にすぎない。」(甲538の2の5頁、6頁)

  2 当初の規模を上回り広範囲に広がっていた被害
 寧波近郊93カ町村での調査の結果、細菌戦被害者112名の死亡 地点がすべて判明し、細菌戦被害者らが開明街一帯の封鎖地区から逃亡・避難した先は、当初明らかにされていた地域よりはるかに広範囲であった事実が明らかにされた。
 証人裘為衆の鑑定書は、次の事実を明らかにする。
「7.疫区を離れる人々
 突然のペストによる死者の出現後、その地域の住民、または一部の感染者は、ペストから逃げるためにぞくぞくと本籍地へ戻り、又は他所へ避難したり、親戚や友人に助けを求めに行った。感染後に疫区から外へ逃げたのはろ桂生、汪応発、胡世貴の3世帯の他にも、たくさんあった。胡康宏、沈丹鳳のように、疫区の外に住んでいて、ペストに感染した人は数えきれない。
 『時事公報』によると、11月10日にペストでなくなった人のうち、名もない人は5人いた。その中には、中心地でなくなった乞食や流浪者は含まれていない。当時でも、死者全員の身分を断定することはできなかった。」(甲538の2の8頁)

証人裘為衆は、一家離散に陥った寧波の人々の被害についても次のとおり証言する。

お父さんの友人に、開明街に疫病が流行すると、早くこのところを離れろと言われまして、一家全部そこから逃げ出しました。逃げ出した直後に、その地域が感染地域として隔離されました。しかし、新しい家に引っ越しした直後に、妹の声良羞が発病して亡くなりました。お父さんがそのことを隠そうとして、妹さんの遺体を箱の中に入れて、ひそかに海に運んで、海にその遺体を捨てました。しかし、お父さんが家に戻りますと、今度、お父さんが感染しました。しかし、近所に自分が感染したということを知らせたくなかったので、ずっと我慢して自分の病気のことを言いませんでした。そしてソファーの上に座って、そのままソファーの上で亡くなりました。母親が父親の葬式をやりましたが、しかし、そのときには家族が感染しているということがケンキョされました。そこで、やむを得ず田舎のほうに引っ越ししました。田舎のほうで、今度お母さんが発病します。親戚に頼んで、寧波市の華美病院で治療を受けましたが、その病院で亡くなりました。お姉さんがお母さんの看病をして、そしてお姉さんも感染して、やがて亡くなりました。
(証人裘為衆速記録6頁)

証人裘為衆は、調査結果により、感染した患者が寧波市内各地及び郊外に逃亡した死亡した分布図を明らかにした(次頁の分布図参照)。
 ペスト流行地区に住んでいた人たちは、感染を恐れて離散したが感染地区以外で発病し死亡した。これが流行地区以外でもペストでの死亡者を生み出したのである。細菌兵器の残虐性の特徴を示している。

  (3) 控訴人本人らの聴取り調査によって、生存者・遺族らは、肉親を殺 され家屋をはじめすべての財産を失って孤児生活を余儀なくされるなど悲惨な生活を強いられた事実、細菌戦によって受けた精神的・肉体的苦痛は被害当時のみのものではなく、今日なお苦痛を強く感じている事実が明らかにされた(前同)。
第5 控訴審で明らかにされた事実―衢州の場合

 1 細菌戦被害の深刻性
 楼献証人は衢州の市街地の被害と原告14家族の被害について現地におもむき悲惨な被害の実態を調査した。
 楼献証人の鑑定書は次のように被害の実態を明らかにしている。
「8 1940年、1941年衢県診療所の伝染病調査登録表、疫病発生状況報告表および衢州日報日刊新聞と大明新聞の記録だけでも、1940年11月から1941年の12月までの14ヵ月間に、衢県県城内と近郊地区の死亡者数は204人であった。
 1940年12月末に至って衢県ペストは既に県城内58本の通りに広く汚染していた。また柯山、万田、横路、浮石、樟潭など13の町村に拡散してしまった。
 1941年3月、日本軍飛行機は衢州県の県区を爆撃した。住民は田舎へ逃げ、疫病は広く拡散された。ただ1940年、1941年衢県診療所の伝染病調査登録表、疫病発生状況報告、または「衢州日報日刊新聞」、「大明新聞」によっても、1940年11月から1941年12月にかけての14ヵ月間で、衢県県区と郊外市区の死亡人数は204人に至った。ペストを恐れてよそに逃げ出した人と隔離を嫌って死亡報告をしなかった人と報告し落とした人などを含めていない。この204人の死亡リストから見ると、死者は家族同士、隣同士の場合が多い。死亡時間は集中している。例えば、衢県県内では、1940年11月の死亡者数は23人、12月の死亡者数は11人、1941年2月の死亡者数は13人、3月の死亡者数は43人、4月の死亡者数は69人、5月の死亡者数は17人にのぼる。化尤巷30号では1941年3月に6人が死亡、羅漢井巷7号では1940年11月に7人が死亡、羅漢井巷5号では1940年11・12月に5人が死亡、柴家巷5号では1940年11・12月に5人が死亡と記載されている。衢県県内での全家族死亡は17戸、一家3人以上死亡は20戸、一家2人以上死亡は29戸である。この事件で衢州14人の原告は32人の親族がペストで死亡した。例えば、原告方石?、7人の親族は1941年5月に死亡した。原告葉賽舟も3人の親族が1941年5月に死亡した。」
 これにより、控訴人ないしその親族の居住地が、「衢州14名原告家人受害地点図」「衢縣城区40−41年ペスト死亡者世帯主要分布図」(次頁)のとおり、日本軍による細菌戦が実行されたペスト流行地区である事実が明らかにされた

 2 現在も続く精神的苦痛
 さらに、楼献証人の聴取り調査により衢州でのペストの流行と被害の事実が残酷であること、控訴人本人ないし被害者遺族が細菌戦によって受けた精神的・肉体的苦痛は被害当時のみのものではなく、被害調査などにおいても辛い記憶を呼び起こすこととなることから長期的・持続的である事実が明らかにされた。すなわち、楼献証人の鑑定書は次のように記述している。
「方石?によると、方石?の親族は皆ペストに感染してから約3日のうちに亡くなり、その間高熱と意識不明で何も食べられない状態が続き、また異常な喉の渇きから水ばかり欲しがるなど、その姿はとても悲惨で見ていられなかったと陳述書で述べている。また葉賽舟は、伝染病が流行していた地域に住んでいたために、ペストによって祖母、伯父、伯母を相次いで亡くしてしまった。当時まだ10歳くらいの子供だったが、苦しんだ家族のことを今でもはっきりと覚えており、ひどく恨んでいると陳述書で述べている。」

 3 防疫活動について
 民国政府が衢州に対し、11の医療防疫部門で1940年11月1 5日から1941年末までの間に合計489名もの医療人員を派遣し、防疫委員会を組織して各種の対策を講じた事実が明らかにされた(甲510)

 4 戦後においても細菌戦による衢州市のペスト流行の危険は存続し、12 の医療防疫部門で1945年から1966年までに合計456名の医療人員が派遣されて専門治療にあたり、現在なお監視と予防活動が続けられ、ペストの再流行を警戒している事実が明らかにされた(甲510、甲507、20頁)。

第6 本件細菌戦の加害行為の残虐性、被害の重大性について

 原判決は、本件細菌戦の事実を認定し、かつ、細菌戦が国際法に違反し、被控訴人の国家責任が成立していたことを認めながら、最終的には控訴人らの謝罪と賠償の請求を全面的に退けた。
 この原判決の重大な誤りを検討する際、その前提となる本件細菌戦の加害行為の残虐性、被害の重大性について、以下で指摘したい。

 1 細菌戦は、ホロコーストに比すべき残虐で非人道的な犯罪行為

 原判決は、「ペストは社会形態を介して伝播し、人々を次々に死に追いやることから、差別とお互いの疑心暗鬼を招き、地域社会の崩壊をもたらすとともに、人々の心理に深刻な傷跡を残す。」「ヒト間の流行が治まった後も、病原体が自然の生物界で保存され、ヒトの間に感染する可能性が長く残存する。その意味で、ペストは、地域社会を崩壊させるだけではなく、環境をも長期間に渡って汚染する病気である」と認定した。また「コレラは、伝染力が強く、次々と死者が出ると地域社会において差別やお互いの疑心暗鬼を招くことも多い。」(原判決35頁、36頁)と認定した。

(1) 旧日本軍731部隊などの細菌戦部隊が中国各地で行った細菌戦は、 決して戦争犯罪という言葉だけでは言い尽くせない、実におぞましい悪魔の所業というべきものであった。
 細菌戦のために軍医を集めて秘密部隊を創り、その細菌戦部隊の中でペスト菌を生産し、鼠をペストに感染させ、ペストに感染した昆虫の蚤を大量生産し、空中から人の住む街や村に投下するという、空中から戦闘とは全く無関係の一般住民をペストやコレラなどの疫病に感染させ、その地域一帯に疫病を大流行させるという行為は、細菌兵器開発のための人体実験も含め、作家森村誠一が名付けたとおり、「悪魔の飽食」を彷彿とさせる。
 明らかに戦争という日本が中国で行った細菌戦の残虐さ、非人道的は世界史的にみてドイツ・ナチスが行ったホロコーストにも比すべき、残虐で非人道的なものであった。
 典型的なジェノサイドであり、中国の一般住民に対する大量無差別虐殺行為である。本質的に言うならば、まさに細菌戦は、ナチスが犯したアウシュヴィッツ等での毒ガス等によるユダヤ人・ポーランド人などの民族抹殺的な大量虐殺行為と何ら異ならない、人類史上最も残虐な行為なのである。

(2) 細菌戦部隊の本質は、日本帝国主義の中国東北地区の植民地支配(傀 儡「満州国」のでっち上げ)の残虐性と中国侵略戦争の民族差別的特質にある。農地を強奪して細菌兵器製造施設を建設し、農民を労工として強制労働させ、更には抗日派を含む中国人を特別監獄に投獄して生体実験の材料とした。これらは植民地支配の故に可能だった。また大量殺戮を企図した細菌戦の民族差別性は明白である。
 実は、日本が細菌戦部隊の事実をいまだに認めない動機は、中国植民地支配の残虐な実態が暴露されることへの恐れ、国策として中国に対して民族抹殺を含む民族差別政策をとってきたことが暴露されることへの恐れにあったのである。

(3) 731部隊は、細菌戦によって、明らかに軍事的拠点でもなく、また 軍事的目標も存しない中国の普通の一地方都市や農村に対して、戦闘機からペスト感染蚤を投下せしめ、あるいは地上で謀略的な手口をもちいてコレラ菌入りの食物を食べさせるなどして、平穏に暮らす中国の民衆を大量に虐殺したのであった。
 このような731部隊などの日本軍の細菌戦部隊が行った細菌戦の残虐さは、ナチスのアウシュヴィッツの残虐さに優るとも劣らない、実に恐るべき残虐行為と言わなければならない。
 このような集団殺害行為は、当時から国際法上の人道に対する罪に該当し、また現在の国際法上の概念ではジェノサイドにも該当するものである。
 細菌兵器は、少量が使用されても大きな破壊力を有する潜在力をもっている。その破壊作用は長期間にわたり、一度おさまっても、再び三度流行することもある。
 細菌の大量培養による細菌兵器は、第一次世界大戦中、ドイツで開発が着手されたが、細菌兵器の本格的な開発、製造、実戦使用を行ったのは日本軍の731部隊などの細菌戦部隊がはじめてである。
 細菌兵器は、その開発過程において不可避的に残虐な生体実験を内包する。

(4) 731部隊は、1933年、日本が植民地支配を行っていた旧「満州 国」ハルビン市郊外の平房に接収した610ヘクタールの広大な土地に本部を置き、各種細菌の培養・製造室、蚤・小動物(細菌媒体)の飼育室、特殊監獄、専用飛行場、宿舎等の大規模施設を建設して、チフス、コレラ、赤痢、ペスト、炭疽、凍傷などの研究・培養を行った。その際、常時200人から400人の「マルタ」すなわち捕虜を生体実験に用いて前記各種の細菌を培養し、細菌兵器を開発・製造したのであった。
 細菌戦がもたらす被害の特徴は、その無差別性と致死率の高さにある。731部隊の用いた細菌兵器は、致死性の高いペスト菌またはコレラ菌である。これらの細菌が引き起こす病気は激しく、長期間流行する。一家族、一地域の大半が全滅する例が多い。
さらに細菌戦のもたらす被害の特徴は、伝播により被害範囲がどんどん拡がるということにある。被害範囲は、人や鼠の蚤を介した病原菌の伝播により、直接の攻撃対象地区にとどまらず、周辺の地域にどんどん拡がっていく。
 日本軍は、平房などで行われた大量の捕虜を使った人体実験によって開発された細菌兵器を、戦争史上初めて、大規模に実戦使用したのであるが、生体実験の残虐さと、細菌戦の残虐さは、表裏一体をなすものである。

 2 本件細菌戦による被害の重大性
  (1) 細菌戦による都市、村での疫病の流行
 日本軍は、細菌戦の実行で、生体移植により毒性を強めたペスト菌、コレラ菌等を大量に生物兵器として生産・使用し、中国全土の村や都市の住民間にペストなどの疫病を流行させた。狙いは非戦闘員たる住民の大量虐殺にあった。このような日本軍による細菌戦は、中国民衆に対する徹底した民族差別と排外主義に基づくものであった。
 日本軍による本件細菌戦が行われている最中、1942年3月に関東軍軍医・牧譲軍医中佐は、「細菌戦について」という講演の中で、「全般的には兵站に絡んでいることになる都市を攻撃して、都市をひどい目に遭わす。これは将来相当やられる問題であります。軍隊関係のものには、直接しないで大きな都市に伝染病を流行らしてゆく」「細菌戦の狙い所の一つは、後方を混乱せしめて精神上に困ったことになったと言うような観念を敵に与えることで、大きな都市をうんとひどい目に遭わすということがある訳であります」と述べている。
 牧はこの他に攻撃対象として、軍隊、物資の兵站補給地、軍事要塞、水道水源地、軍需工場、牧畜や農産物扱い所をあげている。
 細菌兵器は、人間、家畜、農産物など、生命あるものだけを殺傷する、最も残虐な大量殺戮兵器である。日本軍は、無差別に大量の住民を虐殺する、人類史上、最も残虐で卑劣なジェノサイドを中国民衆に対して行ったのである。

(2) 被害者は一般住民である
 控訴人らの肉親たちは、都市あるいは農村の住民であったが、731部隊の細菌兵器により、ペスト、コレラなどに感染し、あるいは汚染地区からの伝搬により感染したことにより、もがき苦しんだ後死亡した。あるいは控訴人ら自身が罹患した。
 また、ペスト流行地域は、寧波などの例に明らかなように、疫区として封鎖され外出禁止となり、1人でも病人が出ると家族全員が隔離の対象となった。いったん隔離所に入ると生還する望みを絶たれるも同然であった。罹患すると医師すら恐れて治療を拒否した。患者は脇の下や鼠径部のリンパ腺が腫れ上がり高熱と乾きに苦しみぬいて短期間のうちに死亡した。
 さらに、彼らの家屋は、衢州、義烏、崇山村、寧波の例のように、防疫のため焼燬・破壊された。
 また細菌戦部隊は、作戦後、被害地区に「防疫」の名目で入り込み、その疫病に苦しむ住民を生体解剖して、細菌戦の効果を確かめるなどした。
 このように、細菌戦の被害を被った中国民衆は、筆舌に尽くしがたい苦しみを受けたのである。

(3) 高い致死率と鼠、蚤、人を介しての強い感染力
 細菌兵器に使用されるペスト菌は、感染経路によって、腺ペストや肺ペストなどの症状を呈する、非常に強烈な病原体である。
 腺ペストは、蚤などを通して菌が人体に入り感染する。熱と悪寒がして虚脱状態を呈する。そして炎症性のはれものがリンパ腺にできる。とくに足に菌が入ることが多いので鼠けい部のリンパ腺にできる。
 肺ペストは、泡沫伝染で菌が呼吸器官に入って、肺炎に似た症状を起こす。泡沫喀痰に大量の菌がある。
 ペストにかかると、2、3日で死亡する。出血がひどく、死体は黒色を呈するので黒死病といわれる。どんどん伝染し、伝染が始まると、これを撲滅するのが難しい病気である。伝染病の中では死亡率が最も大きい。
コレラは、消化器官を冒す病気である。おう吐・下痢の非常に激しいもので、腹痛、けいれん、虚脱を引き起こすといった特徴がある。コレラ菌は、水や食物から口に入ってくる。とくに魚介類が汚染されて伝播する場合が多い。
 コレラも死亡率が高いうえ伝染力も非常に強い病気である。

(4) 治療など防御方法の困難さ
細菌兵器は、爆弾のように、いつどこに何が使用されたかということがすぐには判明しない。病気が流行しても、細菌兵器によるものか否かが直ちに判明するわけではない。
 しかも、細菌兵器に用いられた病原菌は、人に感染しても潜伏期間があるため、原因究明が遅れる。病気が発生しても、個体差があるため、使用された病原菌の特定が容易ではない。
 寧波においては、1940年10月27日、日本軍の飛行機が大量の小麦粉や麦粒を投下した後、市内でこれまで見たこともない真っ赤な蚤が大量に飛び跳ねているのが発見された。10月30日初めての死者が出た後、患者が続々と病院に駆けつけたが、最初、悪性マラリアか横根と誤診された。
 最悪の伝染病であるペストの確実な診断とその公表は、いかなる医者も事の重大性を認識しているがゆえに、慎重のうえにも慎重を期す。最初にペスト菌が発見されたのは、11月2日になってからであった。
 同日、県政府と予防委員会は、汚染地域の封鎖を決定したが、それほど厳重なものではなく、汚染地域からは逃亡者が続出した。その後消毒作業が行われたが、11月末に汚染地域の建物は焼却された。
例えペスト菌が発見されたとしても、感染を防ぐことは難しい。ペストの被害は直接に撒布された地域に限定されず、人や鼠を媒体として各地に拡がった。
 例えば、控訴人らのうち義烏、東陽、崇山村、塔下州のペスト被害は、衢州に投下されたペスト被害が拡大したものであり、また、常徳の場合も、市街地から、周辺農村地区へペスト流行は伝播している。
しかも、ペスト菌は、1回病気の流行が下火になっても、感染した鼠がいると再流行する。鼠に付着した蚤の行動する時期になると、再度、流行することになる。感染した鼠を撲滅するのは困難で、何十年と長期化する。

  (5) 自然環境の破壊
このように病気が発生すると、治療が困難で、感染した人を隔離して、感染を拡げないようにしたり、家屋、建物類を焼却することが、最善の防御方法になる。
 しかし、感染を防いだり、病原菌を完全に撲滅することは不可能で、一度被害にあうと、その影響は長期間にわたって、人間社会のあらゆる側面に及ぶ。
 細菌戦による被害は、人間の命を奪い、衣食住の環境を汚染し、さらに、人間が生きるための条件である広範な地域の自然環境の汚染となって、地域住民に影響を与える。

  (6) 地域社会を破壊
 こうした環境破壊とともに、細菌戦の被害は、人間の社会的関係の破壊となって影響を与える。隔離されたり、封鎖された地域の人々は、例え病気が治癒したとしても生活の手段を奪われる。また、伝染病が流行した地域は、長期間にわたって、不潔で危険な地域とみなされて、差別される原因になる。
 伝染病は、人々を隔離したり疎開させたりすることによって、人と人の交流を困難化させ、生き残った人の生活をも破壊していくのである。
 細菌戦の残虐性は、伝染病によって人々を殺傷し、パニック状態に落とし込めるというだけでなく、長期間にわたって、地域社会を根底から破壊していくという点にある。控訴人ら、細菌戦の被害地住民にとって、細菌戦による被害は、戦争一般による被害には解消できないものである。控訴人ら被害者にとって、何十年経とうと、その受けた被害を癒されることはないのである。

  (7) 以上の通り、日本軍による細菌兵器を使ったジェノサイドの被害は、 ナチスのアウシュビッツでの残虐さと同罪であり、過去に例がないほどの残虐なものであった。

 3 以上のように、本件細菌戦が人類史上、最も残虐で卑劣なジェノサイド であり、控訴人ら被害者の被った甚大な被害を踏まえて、原判決が細菌戦の事実を認定し、かつ被控訴人の国家責任を認めながら、控訴人らの請求を退けた法律論について、次章以下で、逐次、反論を加える。


第2章 請求権問題、「日中共同声明等による解決」論について

第1 原判決および被控訴人国の追加主張の誤り

 1 原判決の判断
   原判決は、日中共同声明等が控訴人らの請求にいかなる法的影響を及ぼすかという点について、「被告には本件細菌戦に関しヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていた」ことを認めたうえで、本件細菌戦に係る被控訴人の国家責任は、日中共同声明で「中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言」したこと、日中平和友好条約により「(日中)共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認」したことによって、「国際法上はこれをもって被告の国家責任については決着したものといわざるを得ない」と判示している。

 2 被控訴人国の追加主張
 被控訴人国は、控訴審において、「日華平和条約11条及びサンフランシスコ平和条約14条(b)により、中国国民の日本国及びその国民に対する請求権は、国によって放棄されている。日中共同声明5項にいう『戦争賠償の請求』は、中国国民の日本国及びその国民に対する請求権も含むものとして、中華人民共和国政府がその『放棄』を宣言したものである」(被控訴人第1準備書面124頁)と新たに主張を追加した。

 3 控訴人らの主張
 しかしながら、日中共同声明では、国民個人の損害賠償請求権まで放棄したとは言えない。
 第1に、日中共同声明の中で戦争賠償に関して述べている5項は、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」と規定しており、文言自体からして、中華人民共和国政府の日本国に対する、いわゆる「戦争賠償」の請求を放棄しただけであり、中華人民共和国の国民個人の日本国に対する請求権を放棄したのではない。
 これは、日ソ共同声明、日韓請求権協定などの二国間条約等で「国及びその国民」と規定されていることと比較すれば、国民の請求権を意識的に除外したことが明らかであり、中華人民共和国が国民個人の日本国に対する請求権を放棄したのではない。
 この日中共同声明の文言は、日中間の国交正常化交渉の不正常な結果の産物である。
 1949年に中華人民共和国が成立し、国民党政権が台湾だけしか実行支配していないにもかかわらず、日本は国民党政権との間で、1952年に日華条約を締結し、国民党政権を中国の唯一の正当政府として外交関係を続けていた。
 日中共同声明で、日本政府は、前文で「日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。」とし、2項で、「日本国政府は、中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であることを承認する。」と約束しながら、日華条約有効説を採り続けることは国際法上許されない姿勢を続けている。
 また日中共同声明の文言からは、国家の戦争賠償の請求権(請求の権利)すら放棄していないと解されるのである。日本側は請求権の「権」を抜いたことについて日華条約で請求権はすでに放棄されているので二度放棄できないためであるなどと説明するが、実際の国交正常化交渉の過程とは正反対の説明であり合理的な説明にはなっていない。
 第2に、被控訴人国は、そもそも日華条約と同条約で準用するサンフランシスコ条約の相当規定において個人の賠償請求権は放棄されたことになると主張するが、控訴人らは中国大陸の住民であるので、サンフランシスコ条約及び日華条約の締結の際、中国大陸を実行支配をしていたのは中華人民共和国政府であり、中華民国政府ではない。その他、サンフランシスコ条約及び日華条約において、控訴人らの賠償請求権を放棄したという議論は、無益な為にする議論といわなければならない。
 第3に、戦争被害の実態に応じた賠償は全くなされていない。
 第4に、そもそも国家は、国民個人の外国政府に対する損害賠償請求権を自国政府の代償措置なしに、放棄することはできない。しかし、日中共同声明に際し、中国政府が被害国民に補償措置をとった事実はない。したがって、中国政府は被害国民の請求権を放棄することを想定していないといわねばならない。
 第5に、控訴人らの被害は、ジュネーブ・ガス議定書で明示的に使用が禁止された細菌兵器の実戦使用という国際法違反の悪質な戦争犯罪によって引き起こされたものであり、ジュネーブ第4条条約の「非人道的待遇(生物学的実験を含む)等の重大違反行為の賠償請求の免責禁止」条項により、政府が国民の権利を放棄することはできない。
 第6に、日韓請求権協定第2条【財産・請求権―問題の解決】で、「両締結国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決されたことになることを確認する。」と規定し、「国民の請求権」を含めて規定しているが、この場合でも、日本政府は、個人の請求権を放棄したものではなく、外交保護権を放棄したにすぎないと国会答弁しているとおり、日本が当事者となった国家間の合意で、日本人の外国等に対する請求権の場合と外国人の日本国に対する請求権のいずれも、国民個人の請求権放棄ではなく、外交保護権の放棄にとどまるという見解を表明している。
 第7に、中国の政府高官は、日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって、個人の賠償請求は含まれず、国民個人の権利であることを表明しており、日中共同声明の当事者である中国政府が個人の賠償請求を日中共同声明で放棄したと理解しているとは到底考えられない。
 第8に、最近の裁判例を検討して、いかなる意味でも、日中共同声明等で個人の賠償請求を放棄したと解する余地がないことを確認する。

第2 日中共同声明の文言から、国民個人の賠償請求権を放棄していないこと

 1 日中共同声明5項の文言
 日本政府と中華人民共和国との間で、1972(昭和47)年9月29日、日中間の戦争状態を終結させるため、日中共同声明が発せられた。同声明の5項は、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。」と規定した。
 日中共同声明は、文言自体からして、中華人民共和国政府の日本国に対する戦争賠償の請求を放棄しただけであり、中華人民共和国の国民個人の日本国に対する請求権を放棄したとは規定されていないのであり、個人の私的請求権は放棄されていない。

 2 各国との平和条約等の文言との比較
 日本国と各国との平和友好条約等では、国家と国民の請求権を分けて規定している。

(1) 1949年のサンフランシスコ平和条約14条(b)は、「連合国は、 連合国すべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事経費に関する連合国の請求権を放棄する。」と国家と国民の請求権を分けて規定している。
 これと明らかに異なり、日中共同声明第5項には、中国国民の請求権を放棄することは明記されていないし、中華人民共和国政府が放棄するとしたのは国家の「戦争賠償の請求」のみである。

(2) 1956年10月19日にソヴィエトと日本国間で締結された《日本 国とソヴィエト社会主義共和国連邦との共同宣言》の中にも、既に国家賠償と民間賠償を区別した先例がある。(甲504菅建強「鑑定書」37頁以下参照)
 この宣言の第六条に、「ソヴィエト社会主義共和国連邦は、日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。日本国及びソヴィエト社会主義共和国連邦は、1945年8月9日以来の戦争の結果として生じたそれぞれの国、その団体及び国民のそれぞれ他方の国、その団体及び国民に対するすべての請求権を、相互に放棄する。」と規定している。
 このほかに、日本国とアジア国家の締結した平和条約あるいは協定でも、更にこの問題を説明することができる。

(3) ビルマはサン・フランシスコ講和会議に参加しなかったが、日本国と ビルマ連邦は単独で平和条約を締結し、1954年(昭和29年)11月5日、日本・ビルマ両国は「日本国とビルマ連邦との間の平和条約」及び「日本国とビルマ連邦との間の賠償及び経済協力に関する協定」に調印した。日本国は、ビルマ連邦に対し、賠償と借款をすることとなった。日本・ビルマ平和条約第五条第二項に、「ビルマ連邦は、この条約に別段の定がある場合を除くほか、戦争の遂行中に日本国及びその国民が執った行動から生じたビルマ連邦及びその国民のすべての請求権を放棄する。」と規定されている。

(4) 1958年1月20日、ジャカルタで平和賠償条約、即ち《日本国と インドネシア共和国との間の平和条約》が調印された。その第四条第二項に、「インドネシア共和国は、前項に別段の定がある場合を除くほか、インドネシア共和国のすべての賠償請求権並びに戦争の遂行中に日本国及びその国民が執った行動から生じたインドネシア共和国及びその国民のすべての他の請求権を放棄する。」と規定されている。

(5) 1965年6月22日、日韓両国政府は《日本国と大韓民国との間の 基本関係に関する条約》及び4つの協定に調印した。《財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定》の第一条第一項に、「日本国は、大韓民国に対し、三億合衆国ドルを無償供与し、二億合衆国ドルを政府へ長期低利で借款するものとする。」
 第二条第一項に、「両締約国は、両締約国及びその国民の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、完全且つ最終的に解決されたこととなることを確認する。」と規定されている。

(6) 《日本とシンガポール共和国との間の1967年9月21日の協定》 は、事実上、日本国のシンガポール国家及び国民に対する無償供与に関する協定であり、“「血債」協定”との名称がある。この協定の第一条第一項に、「日本国は、二十九億四千万三千円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務をシンガポール共和国に無償で供与するものとする。」第二条に、「シンガポール共和国は、第二次世界大戦の存在から生ずる問題が完全かつ最終的に解決されたことを確認し、かつ、同国及びその国民がこの問題に関していかなる請求をも日本国に対して提起しないことを約束する。」と規定されている。

(7) 《日本とマレーシアとの間の1967年9月21日の協定》も、事実 上“「血債」協定”である。この協定の第一条第一項に、「日本国は、二十九億四千万三千円の価値を有する日本国の生産物及び日本人の役務をマレーシアに無償で供与するものとする。」第二条に、「マレーシア政府は、両国間に存在する良好な関係に影響を及ぼす第二次世界大戦の間の不幸な事件から生ずるすべての問題がここに完全かつ最終的に解決されたことに同意する。」と規定されている。

(8) 1951年のサン・フランシスコ講和条約会議以後、日本とタイとの 国交が回復し、1955年7月9日、バンコクで、《特別円問題の解決に関する日本国とタイとの間の協定》が調印された。この協定の第一条第一項に、「日本国は、五十四億円に相当するスターリング・ポンドを、五年に分割してタイに支払うものとする。」第二条に、「日本国は、九十六億円を限度額とする投資及びクレジットの形式で、日本国の資本財及び日本人の役務をタイに供給することに同意する。」第三条に、「タイ政府は、次の請求権を含む「特別円問題」に関する日本国の政府及び国民に対するすべての請求権を、タイ政府及び国民に代って、放棄する。」と規定されている。

(9) ミクロネシアのパラオ共和国は、第二次世界大戦後、国際連合憲章お よび信託統治協定により米国の施政下に置かれていた。
 1969年4月18日、《サン・フランシスコ平和条約》第十四条(a)を基礎とし、日米間で《太平洋諸島信託統治地域に関する日本国とアメリカ合衆国との間の協定》(アメリカとミクロネシア協定)が締結された。この協定の前文に述べられているように、太平洋地域の住人が第二次世界大戦中、日米間の敵対行為によってこうむった苦痛に対し同情の念を表明しつつ、日本国及びその国民に関する請求権、施政当局及び住民の財産・請求権の処理の問題についての両国間の特別取り決めの最終的解決を確認することにつき合意に達した。
 日本国は施政者であるアメリカ合衆国に対し、三年間、五百万米ドル(日本円十八億円)相当額の生産物及び日本人の役務を無償で供与し、アメリカ政府もこの地域の住民のために、五百万米ドルを拠出する。第三条に、請求権問題に関しては、既に完全にかつ最終的に解決されたことに双方同意することを調印する、と規定されている。

(10) 第二次世界大戦で中立国であったスイス、デンマーク、スウェーデ ン、スペインなどの国は、大戦中、日本軍が南方地域及び中国で、上記の国民の人的・物質的損害に対して、国際法の原則に基づき賠償請求する権利を有する。
 日本とスイスの間では、1955年1月に協定が調印され、日本はスイスに対し、1350万スイスフラン(約11億日本円)を支払った。 スペインとの間では、1957年1月、公文書が交換され、日本はスペインに対し、550万米ドル(約20億日本円)を支払った。
 スウェーデンとの間では、1958年5月に協定が調印され、725万クローネ(約5億日本円)を支払った。
 デンマークとの間では、1955年9月及び1959年5月に協定が調印され、日本は30万英ポンド(約三億日本円)と117万5千米ドル(約4億2300万日本円)を支払った。

(11) 日本とスイスの協定の第三条第二項に、「スイス連邦政府は、第一 条に掲げる金額が日本側から支払われた際、即、この条及び第二条に掲げる政府の一切の要求を放棄し、スイス国民は、この問題に関して、いかなる請求をも日本政府に対して提起しないことを約束する。」と規定されている。

(12) 日本とスペインの協定の第三項に、「第一項に規定する金額の支払 い後、日本国政府は、この条項に述べる損害及び苦痛に関する一切の賠償請求の責任を、完全かつ最終的に免除される。」と規定されている。

(13) 日本とスウェーデン政府間の協定の第四条に、「スウェーデン政府 は、第一条に掲げる金額をひとたび日本政府が支払った場合、この条項に述べる一切の請求権は、完全かつ最終的な解決を得たと見なすことを承諾する。スウェーデン政府は、日本政府がこの条項に掲げる金額の支払い後、前述の請求以外のいかなる賠償・支払いも請求しないことを保証することを併せて約束する。」と規定している。

(14) 日本とデンマークの協定の第三条に、「第一条に掲げる金額をひと たび支払った場合、第二次世界大戦(1937年7月7日のシナ事変の発端を含む)期間、日本国の政府機関がデンマークの政府機関及び国民と法人に与えた損害及び苦痛に対する、一切の相関する損害賠償請求の責任に関して、完全かつ最終的な免除を得る。」と規定している。

 以上をまとめると、1972年に日中間で《日中共同声明》が締結される以前に、多くの国際外交法の実践により、既に十分、国際習慣法上での国家と国民の戦争賠償請求権に関する明確な区別が存在していたことが説明できる。
 日中両国の指導者が《日中共同声明》に署名した際、日本とアジアの被害国が結んだ協定について、収集し研究し対比しなかったと考えることは不可能である。
 日本とアジア被害国国家が調印した協定の中に、国家と国民二種類の損害賠償の権利がある、との明らかな前提の下で、《日中共同声明》の中では、中国政府は日本国に対する戦争賠償の請求を放棄するとの条文を使用したのであり、その意図は明らかである。よって、共同声明の中で放棄したのは、中国の国家の請求のみである。

第3 日中国交正常化交渉における賠償請求権問題

 1 日中国交正常化と日中共同声明締結の背景
 米国政府は、1971年7月にキッシンジャー大統領特別補佐官を秘密裡に中国に派遣した。キッシンジャーは周恩来首相と会談し(7月9〜11日)、15日にニクソン大統領が翌年5月までに北京を訪問すると発表した。 
 同年10月25日には、国連総会で、中華人民共和国の代表権を認め、台湾の中華民国政府(国民政府)を追放するという第2758号(アルバニア案)が圧倒的多数で可決された(賛成76、反対35、棄権17)。
 中国の国連加盟問題は、1949年の中華人民共和国の成立とともに起こり、翌1950年にはソ連が安保理に提出したが否決され、同年インドが国連総会に提出した決議案も否決された。中華人民共和国の加盟に反対したアメリカは、アジア・アフリカの新興国の国連加盟が急増すると、1961年に中国の加盟問題を重要事項(可決には3分の2以上の賛成が必要)にすることを提案して可決された。 
 1971年のキッシンジャーの訪中以後、アメリカは従来の政策を転換し、中華人民共和国の国連加盟は支持するが、台湾の中華民国政府の追放には反対するとの方針をとり、同年9月に中華民国政府の追放を重要事項とする逆重要事項指定決議案と、中華人民共和国と中華民国政府の二重代表制案を国連に提出し、日本も共同提案国となった。 
 しかし、10月に開かれた国連総会では、逆重要事項指定決議案は否決され(賛成55、反対59、棄権15)、中華人民共和国の代表権を認め、中華民国政府を追放するというアルバニア案が可決された。 
 1972年2月21日、ニクソン大統領は、アメリカの大統領としては初めて中国を訪問し、2月27日に共同声明が発表された。米中共同声明で、アメリカは平和五原則を承認し、これによって長い間敵視してきた中華人民共和国を事実上承認した。
 ニクソン訪中後、社会党、民社党、公明党各政党は代表団を中国に派遣し、日中国交正常化に関する原則を協議した。1972年4月13日、民社党訪中代表団と中日友好協会代表団とが共同声明を出し、次に挙げる復交三原則を発表した。
@ 世界には一つの中国しかなく、それは中華人民共和国である。中華人 民共和国は中国人民を代表する唯一の合法政府である。「二つの中国」、「一つの中国、一つの台湾」、「一つの中国、二つの政府」など荒唐無稽な主張に断固反対する。
A 台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であり、しかもすでに中 国に返還されたものである。台湾問題は、純然たる中国の内政問題であり、外国の干渉を許さない。「台湾地位未定」論と「台湾独立」を画策する陰謀に断固反対する。
B 『日華条約』は不法であり、無効であって、破棄されなければならな い。

 2 日中共同声明』と復交三原則に関する問題
 1972年9月25日、日本国首相・田中角栄が政府代表団を率いて訪中した。同年9月29日、中国政府を代表した中国首相・周恩来と中国外務部長・姫鵬飛並びに日本政府を代表した首相・田中角栄及び外務大臣・大平正芳が署名したことにより、ここに日中両国の共同声明が発表されたのである。
 日中国交が樹立されたのに伴い、日本と台湾との政府当局間の関係はすべてその法律的効果を失い、民間でのみ台湾との関係が保持されたのである。
 『日中共同声明』では、次のように言及している。
「日本側は、中華人民共和国政府が提起した「復交三原則」を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものである。」(前文)
 この記載は、日本政府は中国政府が提出した復交三原則が日中国交正常化の前提条件であることを十分に理解し、日本国が充分な理解に基づいて中国政府との共同声明を発表したと、言い換えることができる(甲504菅建強「鑑定書」24頁以下参照)。
 よって、この声明の発表によって、日本政府が中国政府と同じ立場に立つこと、即ち、『日華平和条約』は無効な条約であるとする立場に立つことを承認したといえる。
 『日中共同声明』のみならず、その後に発表された『日中平和友好条約』においても、「前記の共同声明が両国間の平和友好関係の基礎となるものであること及び前記の共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきこと」を重ねて確認している。
 『復交三原則』の第一原則は、「中華人民共和国政府が中国の唯一の合法政府であることを承認する」(『日中共同声明』二項)ことである。
 『復交三原則』の第二原則は、「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部であり、しかもすでに中国に返還されたものである。台湾問題は、純然たる中国の内政問題であり、外国の干渉を許さない」(『復交三原則』第二項)ことである。この問題に関しては、『日中共同声明』三項の形式により問題の解決が図られているのだが、即ち、「中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」のである。『ポツダム宣言』第八項には「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベクとあり、『カイロ宣言』では、次のように規定されている。
 「同盟国の目的は、…中略…並びに満洲、台湾及び澎湖島のような日本国が清国人から盗取したすべての地域を中華民国に返還することにある。」
 『カイロ宣言』でいう“中華民国”は実際の国土としての中国大陸を意味しており、それ故に、中華人民共和国政府は台湾島が中国の領土であると主張するのである。『復交三原則』の第三原則は、「『日華条約』は不法であり、無効であって、破棄されなければならない。」と言うものである。

 3 国交正常化3原則と日華条約の取り扱い
 国交正常化3原則の第3項には日華条約は不法であり、破棄しなければならないとなっているが、中国政府は、日本政府の「困難」を考慮した形で、日本側の自発的な処理に任せた(甲505殷燕軍「鑑定書」18頁以下参照)。
 1972年9月28日第四回目の首脳会談で田中角栄総理は「台湾は日中国交正常化後は戦争状態に戻るといっているから、日本の総理としては困っている」と言った。周総理は「今回の共同声明につき、中国側で、戦争状態の問題につき、表現を考えたのは、その点に配慮したからである」と双方の妥協を説明した。
 つまり、日本側は、日華条約の破棄による効果は十分覚悟しており、「平和条約」破棄なら戦争に等しいことであるのは、十分承知している。また中国側は、日本側の「困難」を配慮し、「不正常な状態」に換えたのである。
 結局、日本側は、言葉的には、日華条約を破棄したのではなく、終了したという言い方で日華条約の無効化をさせたことにより、三原則の第三項の要求に応じたのである。
 また三原則の第一項は、共同声明第二項「中華人民共和国政府は中国の唯一の合法政府であることを承認する」と、三原則第二項は、共同声明第三項、中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。
 日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、「ポツダム宣言第8項に基づく立場を堅持する」と書き加え、台湾政権と国交を断交することで、中国側の正常化3条件を満たしたのである。

 4 周恩来首相の日華条約に対する態度と請求権に関する中国側提案の趣旨
 周恩来首相は、日中国交正常化に向けた田中角栄首相との第2回首脳会談(1972年9月26日)において、「日華条約につき明確にしたい。これは蒋介石の問題である。蒋が賠償を放棄したから、中国はこれを放棄する必要がないという外務省の考え方を聞いて驚いた。蒋は台湾に逃げて行った後で、しかも桑港条約(引用者・サンフランシスコ条約)の後で、日本に賠償放棄を行った。他人の物で、自分の面子を立てることはできない。戦争の損害は大陸が受けたものである。我々は賠償の苦しみを知っている。この苦しみを日本人民になめさせたくない。我々は田中首相が訪中し、国交正常化問題を解決すると言ったので、日中両国人民の友好のために、賠償放棄を考えた。しかし、蒋介石が放棄したから、もういいのだという考え方は我々には受け入れられない。これは我々に対する侮辱である。田中・大平両首脳の考え方を尊重するが日本外務省(引用者・高島条約局長)の発言は両首脳の考えに背くものではないか。」(甲540『日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』の56頁)と述べ、日華条約で賠償を放棄しているから二度放棄する必要がないという外務省高島条約局長の発言を批判し、日中共同声明5項に結実される戦争賠償放棄の提案の趣旨を説明している。
 これに対し、田中角栄首相は、「大筋において周総理の話はよく理解できる。日本側においては、国交正常化にあたり、現実問題として処理しなければならない問題が沢山ある。しかし、訪中の目的は国交正常化を実現し、新しい友好のスタートを切ることである。」「賠償放棄についての発言を大変ありがたく拝聴した。これに感謝する。中国側の立場は恩讐を超えてであることに感銘を覚えた。」(甲540の58頁)と応じ、日本政府として日華条約を実質的に無効にすることを約束した。
 なお、そこで想定された賠償の内容は、戦闘行為に伴い中国国家が支出した戦費や、通常の戦闘行為に伴う中国国家が被った物的損害などを念頭に置いたものであり、中国の民間人が被った個別の特別な損害などはもともと含まれていない。
 まして、明白な戦争犯罪によって中国民間人が被った損害についてまで、賠償請求を放棄して犯罪行為を宥恕するなどということは、論外のはずであって、それまで放棄の対象に含めるなどという考えは毛頭ないものというほかない。

 5 日中共同声明5項では、請求権という法的権利を放棄していない
 中国の戦争賠償請求放棄は法的表現ではなく、その請求「権」は放棄できなかった(甲505殷燕軍「鑑定書」21頁以下参照)。
 日中間の公式交渉会談で日本側が、賠償問題はすでに日華条約の段階で解決済みと主張し、「一国に二度の賠償放棄を認められない」と、中国側の賠償請求権放棄を「受け付けない」立場を表明した。共同声明での文言をめぐって、日本側は依然として日華条約が有効性をもつというこれまでの法律論を主張し、中国側からの「二度目」(台湾側が一回目)の賠償請求権の放棄に難色を示した。その結果、「戦争賠償請求の放棄、といった文言は、中国側の強い要求で共同声明に入れられたが、賠償請求権の「権」については、日本側の強い要望により文章から削除させられた(1972年9月30日の大平外相の自民党両院議員会議での発言)。
 ところで日本政府案と中国側の声明案とは、賠償条項の内容に違いが見られた。賠償条項について、日本政府案の第7項としながらも、全項に括弧をつけたのである。その括弧について日本の「対中説明」には次のように記している。「賠償の問題に関する第7項は、本来我が方から提案すべき性質の事項ではないので、…日本側提案のような法律的ではない表現であれば、日中双方の基本的立場を害することなく、問題を処理しうると考える」と。それにしたがって日本政府案には、「中華人民和国政府は、日中両国国民の友好のため、日本国に対して、両国間の戦争に関連したいかなる賠償の請求も行なわないことを宣言する」と書かれていた。ここに二つの問題が浮き彫りされている。
 一つは、日本政府は、「解決済み」とする賠償問題についても、「いかなる」賠償の請求ということで戦争賠償問題の「完全」解決を求めようとしたのである。もう一つは、戦争賠償請求権の放棄ではなく、「賠償の請求を行なわないことを宣言する」という形で、中国側の戦争賠償請求権の存在を認めること自体を避けようとした。つまり日本側はそもそも中国側の賠償請求権さえ認めようとしなかったのである。
 結局、日中共同声明第五項には「中華人民共和国政府は、日中両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と書かれた。「戦争賠償請求を放棄する」といった請求権の“権”をとったことにより、それが法的表現ではないことを意味した。そのため日中間においては、戦争処理や賠償問題が法的に解決される文書が存在しているのかどうかも問題になった。
 つまり日本側が堅持した通り、この記述は法的表現ではない。「賠償請求は放棄したとはいっても、請求権は放棄していない」。またその権利はまだあることはもちろん、今回は請求しない。その請求の権利を日本側の強い要請で、留保させられたか、中国側がその請求の権利を放棄できなかったか、と解釈するしかないのである。逆にもし「賠償請求を放棄する」と「賠償請求権を放棄する」とは同じことだと解釈するならば、なぜ当初「賠償請求」の権をわざわざ日本政府が取らなければならないであろうか、と問わざるを得ないのである。
 この経緯は、日本側にとって、“日華条約の整合性”のため、好都合のように見えるが、実際に新しい問題を発生させた。つまり、日本側の認識として「法律的ではない表現」しか賠償問題の言及を認めないという立場により、せっかく合意された共同声明にある戦争処理に関する文言は、いずれも「法律的ではない表現」になることを、日本政府が認めたことを意味するからである。言い換えれば、中国側が日華条約の法的合法性を否定し、日本側が日中共同声明の法的意味を否定する解釈をすることにより、日中間の戦争処理問題は、今日になっても依然として法的には未解決のままにあり、双方の合意ができていない状態なのである。
 この問題に関する毎度の政府見解のなかで、必ずといっていいほど、「中国が賠償請求権を放棄した」と断言しているのであるが、それは日本政府が「うっかり」したためかどうか、日本政府が自ら求めた結果として請求の「権」を文書から取ったことを忘れてしまったのである。その結果、中国側がその「権利」を放棄した法的な根拠は、日中共同声明を含め、何処にもないはずである。

第4 日華条約によっては賠償請求権は放棄されていない

 1 日華条約締結の経緯
 中華人民共和国政府と中華民国政府の不参加にもかかわらず、日本は『サン・フランシスコ平和条約』に調印した(甲504菅建強助教授「鑑定書」16頁以下参照)。
 日本の国会では野党が、サン・フランシスコ条約の締結に関する審議の過程において、中華人民共和国政府と平和条約を締結すべきだ、との主張をした。それに対し、吉田茂首相は、台湾の国民政府は地方政権の一つに過ぎないと回答していた。
 1951年12月、アメリカは再度ダレス国務長官を特使として日本に派遣した。同月8日に挙行された吉田・ダレス会談の結果、日本は24日にダレス特使に渡した“吉田書簡”の中で、アメリカに次のように伝えた。「中華民国の国民政府が望むのであれば、日本は『サン・フランシスコ平和条約』の原則に従って、国民政府と日中国交正常化に関する条約を締結し、中国共産党政権とは締結しない。」
 日本が唯一恐れたのは、米国上院が『サン・フランシスコ平和条約』を批准しないことであり、それ故にアメリカが支持する中華民国と平和条約を締結する決定を下したのである。
 しかし、吉田茂首相は、「二つの中国」政策を採っており、サンフランシスコ平和条約第26条にいう「二国間平和条約」は、国連における中国代表権問題が国際的に解決されるまで延ばしたいと考えていた。中国との平和条約締結は将来の課題として、とりあえず国民党政権との間で、「正常な関係を再開する条約」を結び、その条約の適用範囲を台湾政権が実効支配している地域に限定しようとした。
 日本政府は、台湾政権の「中華民国」を全中国の代表政府として承認したのではなく、日華条約はあくまでも中国との全面的関係のワンステップと見て、台湾政権に対する全面承認はしない政策を取っていた。
 1952年2月17日、日本国全権委員・河田烈が台北に赴き、1952年2月20日から正式に会談を開始し、4月28日に『日華平和条約』に署名、調印した。この間に行われた公式会談は3回、非公式会談は18回にものぼる。
 当初、中華民国は賠償を強硬に要求していたが、それは日本に対して賠償を要求しないと、中国大陸の“国民感情”を抑えることができないと考えたからである。この要求に対し、日本政府は、一度は会談を中止し、代表団を日本に呼び戻そうとすら考えていた。台湾の国民政府がこのように強硬な態度を採ったのは、米国上院の議員の一部を中心とする国民政府支持者たちの支持を期待していたからである。
 だが、米国上院が『サン・フランシスコ平和条約』を批准したため、国民政府の期待は外れ、賠償の要求を取り下げざるを得なくなった。
 このような背景があるが、形式上は、国民政府が自発的に賠償の要求を放棄する決定をしたことになっており、議定書上には、「中華民国は、日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、サン・フランシスコ条約第十四条(a)1に基づき日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する。」(『日華平和条約議定書』1(b)引用)と記載されたのである。このようにして、『日本国と中華民国との間の平和条約』(略称は『日華平和条約』である)は1952年4月28日に署名され、8月5日から効力を発することになった。この条約は十四の条文から構成され、この他に議定書、交換文書がある。その中でも、“議定書”は、「(日華平和)条約の不可分の一部を」なしている。
 日華条約の交渉経過と結果から考察すると、中国大陸から台湾に後退せざるを得なかった中華民国政府の国際的な地位は著しく低下し、会談において弱い立場に立たざるを得ず、問題を円満に解決し且つ本来の意図に反しないため、自発的に賠償請求権を放棄したように演じ、これを以って日本が台湾政権を承認するように図ったのである。
 一方、中華人民共和国政府は、日本に対して、賠償金額は少なくとも500億米ドル(1946年当時の貨幣価値に基づいて日本円に換算すると、18兆円に達する)に相当するとして、賠償を要求する態度をとり続けていた。
 敗戦国たる日本は、アメリカが台湾を積極的に支持している背景の下、自国の優勢な地位を充分に利用し、地位的に弱い台湾政権を条約締結者として選択し、賠償請求権の放棄を強いたのである。

 2 日華条約は中国大陸を代表する政府との講和条約ではない
  (1) 中華民国政府が中国という国家を代表して平和条約を締結していない
 1949年10月1日の中華人民共和国の成立で、「中華民国」の消滅を宣言され、中国に関する「中華民国」のすべての主権、権限などが消滅してしまった。
 この段階で「中華民国」の中国代表性がすでになくなり、中華人民共和国はそのすべての主権、権限などを継承した。一国の主権は分割することはできないことが国際法上の重要な原理である。
 中華民国から中華人民共和国へと政権の移行と法的継承(1949年10月)はあった。つまり政体の変化が、その代表する国家を変えることはなく、継承されたのである。
 被控訴人国の主張の根本的な誤りは、1949年に成立した毛沢東を主席とする中華人民共和国政府は中国民衆から支持された政権であり、蒋介石を総統とする台湾政府は中国民衆の支持を失った政権であるという歴史的事実を無視していることである。この点は、サンフランシスコ条約―日華条約―日中友好条約の解釈に当たり極めて重要なことなので、次章で項を改めて詳述する。

  (2) 台湾にだけ適用されることを確認した適用範囲制限の交換公文
 日華条約は、交換公文第一号で、「この条約の条項が、中華民国に関しては、中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域に適用がある」旨の了解を行い、日華条約が台湾にだけ適用されることを確認した。
 日華条約締結交渉にあたり、日本が強く求めていたのは、この条約適用範囲の限定であった。
 最初、蒋介石の中華民国政府(以下では、「台湾政権」ともいう)は、全中国の「代表政府」である政治的主張から強く拒否し抵抗し続けたが、日本と条約を結ぶためには、このような「侮辱的」ともいえる限定条項を受け入れざるを得なかった。
 日本政府はこの吉田書簡に書かれた「条約適用範囲」に基づき、台湾政権との条約締結交渉に臨んだ。締結交渉の中、日本側全権委員は、吉田書簡の内容、つまり後の条約交換公文第一号の内容について一文字の修正も応じないという強い姿勢を示し、最後まで日台間の大きな紛争点であった。
 周知のように、台湾政権は、日華条約の発効から「終了」まで、台湾・澎湖地域しか支配しておらず、中国本土への支配はなかった。

(3) 日華条約が中国本土には適用できない
 『ウィーン条約法公約』第29条には、次のような規定がある。
「条約は、別段の意図が条約自体から明らかである場合及びこの意図が他の方法によって確認される場合を除くほか、各当事国をその領域全体について拘束する。」
 この条文は、公約が規定する条約の適用地域に関しての基本原則の一つである。一般的には、条約は締結する当事国の領土全域に適用されるものである。条約締結国が条約の適用地域を締結国の領土、領空の一部のみに制限できるとは言え、国家間における戦争状態の終結、特に、日中戦争のように日本・中国両国の間で行われた戦争の終結問題に関して、平和条約を締結することは、双方の国家の全領域に条約が適用されることを前提にして条約を締結するのであり、一国の一部領域にのみ条約の効力が及ぶことなどありえない。
 仮に、締結した平和条約の効力がその当時において一国の一部領域及び一部の住民にだけ及ぶのであるならば、交換公文で述べられているように「中華民国政府の支配下に現にあり、又は今後入るすべての領域に適用がある」ならば、このようにその効力が将来にまで約束された条文は、現在の戦争状態を終了させる目的で締結される平和条約に、根本的に違反しているのである。
 それ故に、このように“平和条約”と名づけられた条約は、締結国全域と交戦国との交戦状態を今すぐ終了させるために締結されたものではないばかりか、交戦状態にある当事国ですらいつになったら戦争状態が最終的な終結を迎えるのか、見当がついていないことを証明している。
 『日華平和条約』が無効な条約であることの根拠は、結局のところ、日本国との『日華平和条約』締結は台湾国民政府の越権行為であり、日本国は国民政府が中国全土を代表して交戦状態を終了させる平和条約を締結する権利能力を持ち得ないことを知っていたにも拘らず、尚且つ国民政府と平和条約を締結したことにある。

  (4) 日本政府の国会答弁
 日華条約の批准に関する国会において、日本政府は、日華条約の適用範囲が中国大陸に及ばないことを明確に答弁していた。
ア 1952年5月30日、衆議院外務委員会において、林百郎(共 産)議員の「サンフランシスコ講和条約第14条(a)に基づき日本国の提供する役務賠償はこれを放棄するとあなた方の言う中華民国はいっているのでありますが、これは中国大陸全部に対する役務賠償を放棄するということを言っているのですか」との質問に対し、石原幹市郎外務次官は「重ねて申し上げますが、この条約には林委員が言われたような予見と予定とかいうようなことは何らいたしておりません」と答え、倭島英二条約局長は「いまご指摘の議定書1の(b)の関係でございますが、これは中華民国に関する限りこういう合意に達したということであります」と台湾地域に限定する発言をした(同委員会会議録15頁)。
イ 1952年6月18日、参議院外務委員会で、曽弥益(社会党右 派)議員が、日本と中華民国との間の戦争状態の終了がどれほどの効力をどの地域に対して持つかについて、「もう一遍全部を包括したはっきりした説明をして頂きたい」と質問したのに対し、倭島局長は「日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する」ということでございますけれども、実際問題として、(中略)そういうことを言い放しでは、甚だ現実の状態と離れてしまう。」「中華民国政府は例えばこの戦争状態を終了して平和な恰好になつて来た。ところが日本と中華民国政府の支配下にない地方との関係において行われたこと、或いは起つた事件ということについて中華民国政府が責任をとらなきやならんというようなことが生ずるかも知れない。それは実際支配下にないところについては酷だという気持がするわけであります。従つてその支配下にない地域で起つたこと、それは戦争状態を終了してしまつたということであつてもそれについては責任がとれない。やはりそういう問題について中華民国の関係においては現実の事態に引戻しておかなければいけないということでありまして、で適用範囲のところに、交換公文にありますように中華民国に関する限りそれは現実の事態というものに即応する意味において現にその支配下にあり、又将来その支配下にあるべき地方ということに限定されたというようなふうに解釈をしております。」(同委員会会議録15頁)と答えた。
 さらに岡崎勝男外相は「今回の条約におきましては、相手国はリパブリック・オブ・チャイナというも、交換公文の第二段にあるのはチャイナである。こういう違いは我々も認めております。これがどういうふうに発展して行くかは、これは一つの政治情勢によると思いますけれども、要するにこの吉田書簡の趣旨によりまして、チャイナとの間には究極においては全面的な関係を打ち立てたい。そこで現在可能なのはリパブリック・オブ・チャイナとかかる関係に入ることである」と台湾政権への限定承認を認めた(前同)。
ウ 同年6月26日、参議院外務委員会において、日華条約について、 曽弥議員は、「この条約によって日本政府は、この中華民国国民政府というものを全面的な中国の主人として承認したものではない。(中略)その点は総理のはっきりしたお考えを、イエス・オア・ノーでお答え願いたい」と質問したところ、吉田は「これは条約にもはっきり書いてありますが、現に中華民国政権の支配しておる土地をもつ中華民国との間に条約関係に入る。将来は将来であります。併して目的は終わりに一中国全体との条約関係に入ることを希望して止まないのであります」と答えた。曽弥は「総理、ずばりと言えば、全面的な承認ではないということでございましょう」と詰め、吉田「そういうことです」と「誤解の余地のない言葉」で台湾政権への限定承認を認めている(同委員会会議録8頁)。
 つまり、日華条約調印当初から日本政府は台湾政権に対する全面承認ではなく、限定承認であることや日華条約の限定性も認めていたのである。また台湾政権(中華民国)は日本政府からみても最初から国際法上の当事者としても不適切だったのであった。

  (5) 中華人民共和国政府の日華条約に対する態度
 1952年5月5日、即ち日華条約署名1週間めにあたる日に、周恩来首相は中華人民共和国政府を代表し、次のような声明を発表した。
 「アメリカが宣布し、効力を発した全ての対日単独平和条約は、絶対的に承認することはできない。中国人民を公の場で侮辱すると同時に敵視した吉田・蒋介石平和条約に対し、断固として反対する。」
 同時に、蒋介石の行った“賠償要求の放棄”の承諾を「他人の物で自分の面子を立てる」ものとして激しく非難し、中国政府と中国人民は、蒋介石の承諾を絶対に承認しないと述べた。周恩来は、日華条約は違法且つ無効の条約であると厳しく表明した。

  (6) 中華民国政府の国際的地位
 サン・フランシスコ講和会議は、戦時下において最大の損害を受け、且つポツダム宣言の構成国であり調印国である中国の参加を招請しなかった。
 その当時、ポツダム宣言の署名国家4ヶ国の中では旧ソ連とイギリスが、中華人民共和国政府が中国における唯一の合法政府であることを承認済みであった。そのためアメリカが台湾の国民党政府に講和会議へ出席する代表権を与えることができなかった。
 アメリカは台湾政権を引き止めるため、日本政府に対し、サンフランシスコ平和条約の発効までに、日本が台湾政権と『日華平和条約』を締結することを要求した。

  (7) 国際法の原則から、日華条約は平和条約としての効力を有さない
 国際法の原則によると、内戦状態の時に革命によって樹立された革命政府の実際的支配が確立する以前に、旧政府と他国とが締結した条約などは、新しく樹立された革命政府に対しても拘束力をもつ。
 だが、革命政府が国内において実際的な支配を揺るぎないものとして確立した後は、旧政府と他国が締結したあらゆる条約は革命政府に対しての拘束力を失う。
 『日華平和条約』が締結された当時、新中国政府は中華民国政府が過去に支配していた地域のうち、台湾、澎湖諸島、金門そして馬祖二島の計四箇所を除いて、既に中国の全領域を支配しており、すでに支配地域における有効な支配期間は2年半にも及んでいた。
 前述した国際法の原則に基づいて考えると、日華条約は中華人民共和国政府に代表される中国大陸に対しては、拘束力がないのである。
 当時、台湾に追いやられた国民党政府は、限られた領域を占拠していた或いはそこの住民を支配していたにすぎず、中国本土に反撃する或いは本土を支配することは実質不可能であった。過去の歴史上かつては中国全土を代表する合法政府であったとしても、人民の武装蜂起により、その法律的地位は交戦団体の地位にまで下がってしまった。
 一国にはその国の代表としての政府は一つしか存在しないことは、当然のことである。内政の動乱の時期には複数の政府が樹立される可能性はあるが、それは暫時のことに過ぎない。中華民国の憲法の効力は中国の全領土にまで及び、既に台湾国民党政府は中国大陸の全領土と住民に対する支配力を完全に失っていた。

 3 日華条約により、国民個人の請求権の放棄が入るか
 日華条約には、国民個人の請求権放棄が明文にはなっていない。
 被控訴人国は、日華条約11条は、「この条約及びこれを補足する文書に別段の定がある場合を除く外、日本国と中華民国との間に戦争状態の存在の結果として生じた問題は、サン・フランシスコ条約の相当規定に従って解決するものとする。」と規定し、「サン・フランシスコ条約の相当規定」の中に、14条(b)も入り、中国国民はこのサン・フランシスコ条約14条(b)の「国民の他の請求権を放棄する」という条項が適用を受けると主張する。
 しかし、サン・フランシスコ条約に招請もされていない中華人民共和国の国民に、重大な不利益規定が適用される理由はない。何故なら、「条約法に関するウィーン条約」第34条で、「第三国の義務又は権利を当該第三国の同意なしに創設することはない」と規定しているとおり、中華人民共和国の国民に適用されない。

第5 中華人民共和国の発足と蒋介石らの台湾逃亡の歴史的意義

 1 1951年のサンフランシスコ平和条約や1952年の日華平和条約に ついて議論する際には、1949年10月の中華人民共和国の発足と同年の蒋介石ら旧国民政府集団の台湾逃亡の歴史的意義について正確に認識しておくことが不可欠である。
 被控訴人は、1949年10月の中華人民共和国の建国の意義をことさら相対化してとらえ、あたかも国民政府も中国を代表する資格があり得るかのように主張している。
 2 しかし、この間の被控訴人の主張は歴史の厳粛な事実を無視するもので 全く間違っている。以下において、被控訴人の主張が間違っている根拠を歴史事実の中から指摘しておく。
 第1に、1949年10月に中国共産党が中核的な政治勢力となって推し進めた中華人民共和国の発足は、約半世紀にわたる中国の政治体制のあり方をめぐる中国国民党と中国共産党で間の抗争に最終的決着をつけた大事件であり、その決着の仕方は中国共産党が中国大陸全部を支配するという完全なものであった。従って、1949年に中国で起こった事件は単なる政治的な出来事の一つではなく、まさに中国革命と呼ばれるに相応しいものであったのである。
 この意味から、1949年以降、台湾を支配した蒋介石の「政権」を従来の中華民国を引き継ぐ政権ないし中国を代表する政権と見る余地が全く無いことは明らかである。

3 第2に、上記の中国革命は、中国の民衆自身が中国共産党の方針で中国 の政治が運営されることを支持した結果であって、民衆自身による政治選択があってはじめて可能なものであった。その意味で極めて民主的な性格を持っていた。
 上記の点は具体的な歴史的経緯を少しでも重視すれば明白なことである。だが、上述した通り被控訴人の主張の根幹に歴史の無視がある以上、本件細菌戦裁判において最小限度必要な歴史把握のために1945年から1949年の間の中国国内での政治的な状況について、以下に既に公知の域に達した歴史事実の中から若干述べておくものである。

 4 日本の本格的な中国侵略に対して、もともと中国においては1937年 以降第二次国共合作が成立し中国国民党と中国共産党が両軸を形成して日本軍と闘ってきた。中国の抗日戦争勝利の原動力は国共両党が日本の侵略に対して軍事的、政治的に闘って初めて可能だった。従って、戦後の政権構想の中軸を担う政治勢力は中国では中国国民党と中国共産党という二つの政党をおいてなかった。そこで1945年の日本敗戦後、同年8月に蒋介石と毛沢東が43日間に及ぶ重慶会談を行い、同年10月に両党の間で双十協定が調印された。同協定では、翌46年1月に政治協商会議を開くことが取り決められ、内戦の回避、平和的・民主的な中国の統一が合意された。

 5 両党の合意は日本敗戦後の中国の新しい政権構想を提起するものとして 決定的に重要な意味をもっていた。1946年1月、上記双十協定にそって国共停戦協定が結ばれ、さらに重慶で中国国民党、中国共産党および民主同盟・青年党などの民主党派が参加して国共政治協商会議が開催された。同会議では今後の政治構想について国民党が提案した国民党一党独裁的色彩が濃厚な提案が退けられ、国民政府の改組、国民大会の開催、共産党が骨子を提案した『和平建国綱領』の実施、憲法制定などが合意された。
 しかし、その後同年3月、中国国民党は一党独裁に固執して同党の会議で上記の政治協商会議の決定を拒否する態度をとり、6月以降国共内戦が本格化した。
 国共内戦では、当初は軍事力に優る中国国民党側が優勢であったが、次第に国民党支配区では中国国民党への内戦中止を求める民衆の声が上がるようになり、これに国民党が血の弾圧を加えたことで中国国民党に対する民衆の支持は急速に低下していった。他方、中国共産党の支配する地区では、農民に対する土地改革が積極的に行われはじめ中国共産党への支持が急速に増していった。また中国国民党は内戦の諸条件を有利に運ぶためにアメリカへの依存度を強め、他方、米国は中国に対する経済侵略を狙い、1946年11月には「中米友好通商条約」を結ぶなどして中国の権益を米国に売り渡すまでにいった。このため翌1947年初めからは上海の労働者の「米国製品ボイコット」運動が発生する事態となった。

6 1947年が国共内戦の転換点だった。中国国民党は大地主の権利を擁 護し米国の中国侵略を容認するなどの腐敗した政治を進めていき、この必然的な結果として民衆の中国国民党への大衆的な反発が表面化していった。同年2月には台湾省の台北で民衆の大規模な暴動が発生し、国民党の軍隊が残酷な大弾圧で3万人以上の民衆が虐殺された。5月には南京・天津・上海などで内戦反対、迫害反対の運動が起こり、これに対しても国民党の軍隊が残虐な弾圧を強行した。中国国民党は一層政治的に追い込まれて、民主同盟なども非合法団体に指定して解散を強制し、他の民主党派の反発を強めていった。

 7 1947年10月、中国共産党は地主からの土地の没収と耕作者への分 配を定めた「中国土地法大綱」を制定して、従前以上に活発に土地改革を実行していったが、その過程で中国共産党への政治的な支持が一挙に強まり、共産党の軍隊の勢力も増強されるようになった。
 その後、1948年9月から翌1949年1月にかけて有名な遼藩戦役、准海戦役、平津戦役という三大戦役で共産党軍が勝利した。1949年1月には蒋介石は総統を退き、4月には国共両党間で「国内和平協定最終修正案」が合意され、4月20日には和平協定の調印が予定されていたが、蒋介石がこれを拒否させたため、中国共産党は長江を渡って南京を占領した。

 8 上記の共産党軍の南京支配をもって、22年間におよんだ国民党が支配 した中華民国政府は消滅した。その後、同年9月に北京で中国人民政治協商会議が開かれ、中国共産党、各民主党派、無党派民主人士、人民解放軍、各人民団体、各地区・各民族さらに海外華僑などの代表が参加した。
 同会議で、新中国創立の問題が議論され、「中国人民政治協商会議共同綱領」が制定された。同綱領では、中華人民共和国は労働者階級の指導する労農同盟を基礎とする人民民主国家であること、中華人民共和国中央人民政府の主席を毛沢東とすること、複数の副主席をおくこと、北京を首都にすること、その他国旗国歌などを定めた。
 その後も中華人民共和国中央人民政府は国内統一の軍事行動を継続し、ようやく1950年6月ころまでに中国大陸内の旧国民党グループは軍事的にも政治的にも平定された。

 9 以上のような中国の民衆自身の政治選択の結果として、1949年10 月の中華人民共和国の発足が実現したのである。かかる新中国建国にいたる歴史事実とその民主的性格に照らせば明白なとおり、台湾の蒋介石「政権」なるものは、本質的には中国の民意を全く反映しておらず、違法に台湾省を武力で制圧している武装集団にすぎない(因みに蒋介石らは1949年5月に台湾に戒厳令を施行した)。このような違法集団が中国を代表しているという主張は全くのたわごとにすぎない。

10 第3に、アメリカは第二次世界大戦の終了後間もなく対ソ連敵視政策を 推し進め、1949年の中国革命に至る過程でも蒋介石の国民党軍を援助するなど、資本主義体制の護持を最優先させて、世界政策でも反共産主義を基準にした対外政策を取り続けたが、1949年10月に発足した中華人民共和国を承認せず、台湾に逃げ延びた蒋介石らの武装集団を強力にバックアップした。
 アメリカは、以上に述べたようなソ連および新中国を敵視した世界政策を絶対的な価値基準にして対中国政策を進めた結果、実際には何人にも明白な中国では中華人民共和国が新政権を担っている事実を無視し、逆に旧国民政府の残存武装集団として台湾省を違法に軍事制圧し続けている蒋介石集団を中国の正式の政権と見なすという、明かな誤りを犯している。台湾を中国と承認した諸国は、アメリカの意向を受けた国か、あるいは米国と同様の利害から中国敵視政策に立場に立つ国にほかならないのが実態である。いずれにしても米国およびその同調国の蒋介石「政権」を中国として承認するという国家判断は、自国の利害のために中国という他国の主権を無視するものであり、国際法を無視した完全な謬見にほかならないものであった。

 11 第4に、その後の世界の諸国の認識は、中華人民共和国が中国を代表す る政権であることを認識する諸国が増えて、最終的には国際社会でも多数派となり、真実が証明された。
 この経緯を国連の場合について簡単にふり返ると次の通りである。国連においても当初の段階では、アメリカは1950年代には審議棚上げ案で対処しようとし、次いで60年代に入ると総会の3分の2の多数を必要とする重要事項に指定して中国を国連から排除し続けた。しかし1970年になるとアルバニアやアルジェリアなど中国支持派の共同決議案が総会で多数を占めるに至った。これに対して米日両国は、中台両国政府の二重代表制や台湾の追放を重要事項に指定する逆重要事項指定方式による決議案を提案したりしたが、結局否決され、アルバニア案が76対35の大差で可決された。こうして中国すなわち中華人民共和国が国連に復帰することとなった。

 12 以上の経過は、もちろん中華人民共和国が中国を代表する政権であると いう真実が国際的にも明らかにされた意義を持っている。
 しかし、実は、1949年10月の時点から中華人民共和国が中国大陸を実行支配していたのであり、1970年までの時点で中国における政治体制には本質的に何らの変化もなかったのである。従って、上記での述べた国際社会における中国承認国が多数派となり国連に復帰した経緯は、そもそも1949年の時点でも中国として国家承認されるべきは中華人民共和国であった事実を証明しているのである。
 以上に述べたことは、今や公知の歴史的事実であると言っても過言ではない。何ら特異な見解ではないし、誰でも入手できる年表や辞典などで確認できる歴史的な出来事ばかりである。
 被控訴人は、このように明白な歴史事実を今も無視して裁判所で主張している事実に控訴人らは驚きを禁じ得ないとともに、これを控訴人らの請求を退ける理由に挙げていることに怒りを禁じ得ない。

第6 日華条約の前提にするサンフランシスコ条約について

 1 サンフランシスコ平和条約の締結とその背景
 1949年10月、中華人民共和国が成立した。1950年2月に中ソ友好同盟相互援助条約が締結され、6月25日に朝鮮戦争が勃発した。
 1950年9月、米国は対日講話を急ぎ、対日平和7原則を極東委員会構成国に伝達し、賠償放棄を含め寛大な講話を主張した。10月25日、中国義勇軍が朝鮮戦争に参戦した。
 米国は1951年7月20日、対日講和草案を起草し、日本国と交戦関係にあるその他の連合国に講和会議への招請を行った。
 しかし、戦争犠牲者数の最も多い被害国である、中華人民共和国政府或いは中華民国政府には、対日講和会議の招請状さえ送られなかった。これは中華人民共和国政府を承認していた英国と中華民国政府を承認していた米国との意見対立のため中国抜きでの対日講和会議の開催になった。また朝鮮の代表も招請されなかった。
 そもそも連合国が第二次世界大戦中の1943年11月にカイロ宣言(米国、英国、中国による対日宣言)で明らかにした対日戦争の目的は「日本の侵略を制止し罰すること」であり、中国については日本が「盗取」した「満州・台湾および澎湖諸島」の返還が約束され、朝鮮についても、「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意」が表明されていた。カイロ宣言の条項の実施は、日本の降伏条件を定めたポツダム宣言の第8条でも規定されて、日本が無条件降伏の際に受諾したものである。
 こうした対日戦争の目的にもかかわらず、その講和会議に中国・朝鮮の代表が招請されないで開催されるという異例の事態になったのである。
 サン・フランシスコ講和会議は、1951年9月4日からサン・フランシスコにおいて開催され、9月8日、日本国とのサン・フランシスコ平和条約が調印された。
 ソ連、ポーランド、チェコの三国は会議に出席したが、調印に参加しなかった。インド、ミャンマーは招待されたが、会議に出席しなかった。その結果、連合国側の署名国は僅か48か国であり、それに戦敗国の日本国を加えて49か国であった。
 翌年、1952年4月28日、サン・フランシスコ平和条約が発効された。

 2 サン・フランシスコ平和条約は中国に対する拘束力を有しない
 サン・フランシスコ条約に照らし合わせると、中国は“連合国”ではなかった。但し、同条約第25条には「この条約の適用上、連合国とは、日本国と戦争していた国又は以前に第23条に列記する国の領域の一部をなしていたものをいう、但し、各場合に当該国がこの条約に署名し且つこれを批准したことを条件とする。」とある。中国の民国政府或いは人民共和国政府両方とも署名、批准しなかった。よって、中国はサン・フランシスコ条約の“連合国”ではないのである。
 同条約第25条の後段には、「この条約のいかなる規定によっても前記のとおり定義された連合国の一国ではない国の為に減損され、又は害さるものとみなしてはならない」と規定された。この規定はサン・フランシスコ条約が第三国に対しいかなる拘束も法律上の影響も与えられないことを表明したものである。
 サン・フランシスコ条約の第21条は中国及び朝鮮に関する特則であり、「中国は第十条及び第十四条(a)2の利益を受ける権利を有する」と規定した。
 よって、中国はサン・フランシスコ条約による全ての利益を受ける権利を有するのではなく、当該条約に規定された範囲内において利益を受ける権利を認められただけに過ぎない。

 3 中華人民共和国政府の態度
 1950年12月4日、周恩来首相兼外相は、対日講和問題について、中華人民共和国政府の立場を次のように公表した。@中華人民共和国政府こそが中国における唯一の合法政府であり、対日講和条約の参加権を有しているのである。それ故に、台湾の国民政府には中国の代表者たる権利はない。A講和条約の基礎となるのはカイロ宣言、ヤルタ協定、ポツダム宣言及び無条件降伏後の日本の基本政策である。Bカイロ宣言に基づくと、台湾及び澎湖(ポンス)列島は中華人民共和国政府に帰属する。そして、「対日講和条約は、その内容の如何に拘わらず、講和条項を擬定する準備過程に中国政府が参加し得ないと無効になる。」(石志夫主編、徐副主編「中華人民共和国対外関係史」北京大学出版社、1994年6月版、197頁)と指摘した。
 サン・フランシスコの対日講和会議が開催される前の1951年8月15日、周恩来総理は対日賠償請求権を保留する声明を発表した。1951年9月15日、サン・フランシスコ条約に対する反対声明を発表した。
 同年9月18日、中国政府総理周恩来は再度中国政府を代表して、講和条約については、「中国はその講和条約を絶対的に承認しない」との声明を発表した。1952年4月28日、講和条約が発効した時、周恩来総理は再び中国政府を代表して、以下のような声明を発表した。「対日講和条約は米国政府の操縦により作られたものにすぎず、決して日本の主権回復や、独立、占領された日本国の地位を改変するものではない。逆に、それは日本国が米国の軍事基地及び付属国として戦備を整えることを約束させられた条約である。」
 1952年5月5日、中国政府は再び「中国はサン・フランシスコ条約を絶対に承認しない。そして、中国国民を敵視する日華条約に対し徹底的に反対する」声明を発表した。

 4 中国は、サンフランシスコ平和条約により利益を得ていない
 サン・フランシスコ条約21条は、「この条約の第25条の規定に拘らず、中国は、第10条及び第14条(a)2の利益を受ける権利を有」するものと規定し、条約の当時国とならなかった中国が、中国領域内にある日本国及び日本国民の資産の処分をすることを認められた。
 すでに中国は、1945年10月、「日僑財産処理弁法」を公布して、その領域内にある日本人の財産を没収したのであるが、これを追認したにすぎない。

 5 サンフランシスコ平和条約の「請求権の放棄」は個人の請求権放棄を含 まない
 サン・フランシスコ条約第5章(14条から21条まで)に「請求権及び財産」の問題に関しての規定がある。その14(a)により、日本国が戦争中に与えた損害及び苦痛に対して、連合国に賠償を支払うべきことが承認された。しかし、また、存立可能な経済を維持すべきものであるならば、日本国の資源は、日本国が前述したすべての損害及び苦痛に対して完全な賠償を行い、且つ同時に他の債務を履行するためには、充分でないことが承認されている。
 よって、1、日本国は、現在の領域が日本国軍隊によって占領され、且つ、日本国によって損害を与えられた連合国が希望するときは、日本人を生産、沈没船引揚げその他の作業につかせることによって、その作業にかかる費用を被害国に対する補償費用に資するため、連合国における該当国と速やかに交渉を開始するものとする…。2、各連合国は次に掲げるもの(日本国又は日本国民が所有し、又は支配した団体等)のすべての財産、権利及び利益の中でこの条約の最初の効力発生時にその管轄の下にあるものを差し押え、留置し、清算し、その他何らかの方法で処分する権利を有する…。
 14条(b)は、「この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する。」と規定する。
 しかし、「その国民の他の請求権」という規定は、外交保護権の放棄に止まり、被害者個人の請求権まで放棄したものではない。

第7 戦争被害の実態に応じた賠償は全くなされていない

 1 植民地帝国日本のアジア・太平洋戦争
(1) 日清戦争で台湾を獲得して以来、日本は対外戦争をくりかえすごとに 新領土や勢力圏をひろげ、アジア唯一の植民地帝国として、諸民族の上に覇権をふるった。
 アジア・太平洋戦争の開始の時点で日本が支配していた領域は、次の5種類にわけられる。
 @領土=台湾、朝鮮、樺太(サハリン島南部)、A委任統治領=南洋群島(マリアナ、カロリン、マーシャル諸島)、B租借地=関東州(中国遼寧省南部)、C満州事変で中国から奪取した「満州国」(中国東北四省)、D日中戦争で占領した中国本土(内蒙古、海南島などをふくむ)。
 アジア・太平洋戦争期にはさらに、E軍隊の進駐を強要した独立国=タイ、F軍隊の進駐を強要した他国の植民地=フランス領インドシナ(仏印、現ベトナム、ラオス、カンボジア)、G太平洋戦争で占領した他国の植民地=米領フィリピン、英領マラヤ(現マレーシア、シンガポール)、ビルマ、オランダ領東インド(蘭印、現インドネシア)、オーストラリア領ニューギニア(現パプアニューギニア)などがこれに加わった。
 このうち@〜Bは欧米列強の承認をとりつけ、国際法がみとめた植民地であるが、十五年戦争期の膨脹政策にともなうC以下の地域は、日本が一方的に支配権をふるった非合法の存在であった。

  (2) 歴史的・文化的に長い伝統をもつ中国人や朝鮮人を支配することにな った日本は、台湾・朝鮮の獲得でそれぞれ住民の武装抵抗に直面したこともあって、本国の軍隊を駐屯させ、軍人を総督にするなど、きわめて軍事的な支配政策をとった。
 植民地には憲法は適用されず、議会も開設されなかった。住民の政治的・経済的・社会的権利は、日本国民にくらべて大きく制限された。民族運動、社会主義・共産主義運動、農民や労働者の社会運動はしばしば厳しく弾圧された。高圧的な差別主義の植民地統治であった。

(3) 1945年8月15日の敗戦時に、次頁地図の通り、日本軍は、中国 に約200万人(中国本土約112万人、「満州」約67万人、台湾約19万人)の兵力を配置していた。日本軍の総数が約788万人のうち、日本の約440万人を除く348万人の57%を中国に配置していたのである。
 これは、戦争の中心が日中戦争であったことを示している。

 2 中国の戦争被害
 日本が行った戦争でもっとも大きな被害を受けたのは中国であるが、日中戦争期の死者は軍人380万人以上、民間人1800万人以上というのが中国政府の見解である。この数字には、台湾、満州は含まれていない。
 財産被害は、直接の損失が約600億ドル、戦争消耗は400億ドルで、間接の経済損失は5000億ドルと中国政府では算定されている。
 1946年12月、国民政府は行政院に賠償委員会を設置し、この委員会は、戦時中に中国の被った損害は以下の通りであると計算した。1、中国・台湾、フィリピンを除く東南アジアの損害は20億ドル、台湾の損害は60億円である。2、日本の在華資産を3億8千万米ドルと評価し、その中75%は中国からの侵奪財産である。3、中国の直接的な損害は金銀・交通設備・道路・船舶・農林・商工・水利・発電・公共家屋・個人財産を合わせて313 .42億米ドルで、間接的な損失も200億米ドル以上ある。(殷燕軍著「中日戦争賠償問題」御茶水書房、115頁)
 1994年末に中国軍事科学院歴史研究部は「中国抗戦史」を発表し、その戦争被害について、再び調査し、その結果を次の通り公表した。「尚、近年の調査により、完全ではない統計で、抗日戦争中、中国軍隊死傷者は380万人余り、中国人民の犠牲者は2000万人余り、中国軍民死傷の総数は3500万人以上であった。中国の財産損失は600億米ドル余り(1937年米ドルとのレートで計算)、戦争消耗は400億米ドルで、間接の経済損失は5000億ドルにも達した。」(中国人民解放軍軍事科学院軍事歴史研究部著、王道平主編、羅?章、支紹曾副編、「中国抗日戦争史」、解放軍出版社、下卷625頁)
 これらの財産損失には、民間人の生命、財産の損害は含まれていない。

 3 戦争賠償
  (1) 中国内にある在外資産の接収
 15年にわたる侵略において日本の軍事に補充する為に中国東北に存在した工業基地、産業は、ソ連に押収されるか、又は破壊された。
 中国の華北、華中、及び華南地域は中日両国の軍事戦場であった。これらの地域における一部分の個人財産を除き、日本側の主な財産は軍事武器であった。
 また中国政府に押収された日本側の財産のうち、75パーセントが中国において中国国民の財産を略奪したものであった。

  (2) 中間賠償
ア ポツダム宣言に「実物賠償の取立」が明記されていた。大戦後にお ける対日賠償問題は、国際情勢によって大きく変化していった。まず最初のアメリカ対日賠償政策は、1945年12月7日の真珠湾記念日(アメリカ時間)に発表されたポーレー使節団の中間報告であった。
 賠償の目的は日本の軍国主義復活を不可能とすることであり、最低限の国民の需要をみたした以上の余剰の工場整備はすべて撤去することとされた。このため、陸海軍工廠・航空機・軽金属・ベアリング工場の全部と、鉄鋼・工作機械・造船所・火力発電所・硫酸・ソーダ工場の約半分を撤去し、とくに財閥企業の設備から優先的に撤去することとした。
 この撤去した産業設備は日本の侵略をうけたアジア諸国に分配して、その経済復興にやくだてようとした。このときの日本の民需充足とはアジア諸国民を上まわる生活水準であってはならず、日本の復興はその他のアジア諸国にくらべ最後になされるべきとした、たいへん厳しいものであった。
 ポーレー最終報告は1946年11月に公表されるが、それはいっそう厳しいものであった。鋼材や工作機械の残置能力はさらに削減され、逆に日本がアジア諸国から鉄鋼の供給をあおぐべきであるとした。
イ しかし、GHQは日本経済復興のためにはポーレーのこの早期大幅 撤去論は厳しすぎるとして批判的であり、ワシントンの国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)でも不合理であるとして、1947年4月にアメリカはマッカーサーにたいして、つぎのような中間指令を発した。
 「ポーレー中間報告にもとづき極東委員会(FEC)が先に賠償用に指定した産業施設の30%を退治撤去して、中国に15%、フィリピン、オランダ(蘭印)・イギリス(ビルマ、マレー、極東イギリス植民地)の三国に各5%をわりあて前渡しすることとした」この日本の産業施設撤去と四カ国への引き渡しは1950年5月までにすべて完了した。
   ウ ポーレー報告に不満なアメリカ陸軍省は1947年1月に再度スト ライクに調査を依頼した。ストライク報告はポーレー報告に反対した。
 1948年3月に公表した第二次ストライク報告では、1953年までに日本経済を戦前水準までに復興させ、撤去は軍需施設に限定し、ごくわずかなものにすべきと勧告した。
 また、アメリカは1948年3月にふたたびジョンストン=ドレーバー調査団を派遣し日本の経済能力を調査し、1948年4月に賠償撤去をポーレー報告の4分の1にきりさげる報告書をアメリカ陸軍長官に提出し、これをうけて5月には極東委員会でマッコイ・アメリカ代表は中間賠償とりたて停止と従来の賠償政策の破棄を表明した。すなわち、この二つの報告書はソ連や中国などアジアにおける共産主義国への対抗とアメリカの財政負担の軽減のために日本経済の自立政策をすすめ、賠償放棄の方針をとったのである。
   エ アメリカが無賠償原則に政策転換したからといって、日本の侵略の 犠牲となったアジア諸国が同意したわけではなかった。
 その後、連合国、インド、中華民国(台湾)がすべての賠償請求権を放棄したが、フィリピンが強力に反対しアメリカの無賠償原則は修正された。その後フィリピン、インドネシア、ビルマ、ベトナム、ラオス、カンボジアの6カ国にたいしてドルと現物支給で賠償がおこなわれた。また、ソ連、中国は国交回復時に請求権を放棄し、韓国にたいしては1965年の日韓条約で賠償をおこない、1967年には戦時下日本軍による中国系住民虐殺事件の補償(血債問題)でシンガポール、マレーシアに無償供与がおこなわれた。1972年にはモンゴルに工業建設の贈与がおこなわれた。
 日本が支払った賠償贈額は21年間に10億1200万ドル、無償経済協力は4億9600万ドル、合計15億800万ドルであった。国民一人あたり5000円の負担で、一般会計予算の1〜2%であった。
 日本の賠償は、冷戦激化によるアメリカの政策転換によって連合国は請求権を放棄し、アジア諸国も高度成長期まで賠償をひきのばされた。しかもアジア諸国の支配層の利権とむすびついた工場プラント・建設資材・各種機械の贈与や電源開発・鉄道・道路など日本資本による経済協力がかなりの額をしめたことによって、賠償はかえって日本の経済成長に利用された。

 4 アジア諸国への役務賠償
 東南アジアの賠償協定は、次頁表にみる通り実施された。ビルマは、さらに平和条約の賠償再検討条項(第5条)に従い、追加の借款供与をみた。フィリピン、インドネシアさらにベトナム(南ベトナム)で賠償が実施された。
 但し、カンボジアは1954年11月、ラオスは1956年12月それぞれサンフランシスコ条約の対日賠償請求権を放棄する意図の声明を行い、経済協力協定による援助が実施された。
 マレーシア・シンガポール両国はサンフランシスコ条約締結当時は英国植民地で、英国は同条約第14条aに基づき賠償請求を提起しないまま経過した。1962年2月シンガポール郊外で戦時中に日本軍により殺害された多数の華僑の遺骨が発見され、いわゆる血債問題が起こった。
 日本は、両国が賠償請求権を有していない(1957年8月マラヤ独立、1965年8月シンガポール独立)との前提で、日本は協力協定の形式で役務・生産物供与を行った。

 5 被害者個人への賠償
 戦争被害に比して、中国に対する賠償は全く行われていないと言わなければならない。在外資産の接収、中間賠償は被害の程度に比したら僅かに過ぎる。
 民間人被害は全く賠償されていない。本件細菌戦によって、家族を失い、孤児になったりした控訴人ら被害者は、いかなる形での賠償も受けていない。

第8 国家が国民個人の損害賠償請求権を放棄することはできない

 控訴人らの損害賠償請求権は、控訴人らが国籍を有する中華人民共和国と被控訴人国の合意によって放棄したり、剥奪したりすることのできない控訴人ら固有の私的請求権である。

 1 本件細菌戦の特徴と控訴人らの個人賠償請求権の存在

(1) 本件細菌戦が国際法上許されない非人道的で悪質な事案であること
 原判決が認定するとおり、本件細菌戦は、当時、細菌兵器の実戦使用を禁止したジュネーブ・ガス議定書を内容とする国際慣習法に違反した悪質な事案である。
  すなわち、旧日本軍731部隊などの細菌戦部隊は、細菌戦によって、明らかに軍事的拠点でもなく、また軍事的目標も存しない中国の普通の一地方都市や農村に対して、戦闘機からペスト感染蚤を投下せしめ、あるいは地上で謀略的な手口をもちいてコレラ菌入りの食物を食べさせるなどして、平穏に暮らす中国の民衆を大量に虐殺したのであった。
 このような集団殺害行為は、当時から国際法上の人道に対する罪に該当し、また現在の国際法上の概念ではジェノサイドにも該当するものである。
 細菌兵器は、少量が使用されても大きな破壊力を有する潜在力をもっている。その破壊作用は長期間にわたり、一度おさまっても、再び三度流行することもある。
 細菌兵器がこうした大量破壊兵器であるため、当時から、国際法上禁止されていたのである。

  (2) 国家の組織的関与による実行と証拠隠滅
 本件細菌戦は、陸軍中央の指令により行われた。しかも、極めて軍隊という組織的計画的行為として実行されたものである。
 すなわち、本件細菌戦を行った日本軍731部隊等の細菌戦部隊は、陸軍中央の指令により、軍医を集めて秘密部隊として中国各地に創設された。かつ、国家予算を与えられ、細菌兵器の製造施設を建設し、長期にわたり日本の憲兵隊が連行した中国人等を生体実験の材料とし細菌兵器を開発製造し、中国各地で細菌兵器を実戦使用した。
 こうした、一連の行為は、国家の組織的関与によって初めて実現したものである。
 細菌の大量培養による細菌兵器は、第一次世界大戦中、ドイツで開発が着手されたが、細菌兵器の本格的な開発、製造、実戦使用を行ったのは日本軍の731部隊などの細菌戦部隊がはじめてである。それだけ、被控訴人国の国家責任は重大である。
 しかも、被控訴人国が自ら作成した731部隊関係文書を廃棄処分して証拠と事実の隠蔽を図り、国会等公の場においても細菌戦の事実を認めない。細菌戦の生証拠である井本日誌も、裁判でも開示しないという徹底した証拠隠しを行った。

  (3) 本件細菌戦の被害の重大性
 細菌戦がもたらす被害の特徴は、その無差別性と致死率の高さにある。731部隊の用いた細菌兵器は、致死性の高いペスト菌またはコレラ菌である。これらの細菌が引き起こす病気は激しく、長期間流行する。一家族、一地域の大半が全滅する例が多い。
  さらに細菌戦のもたらす被害の特徴は、伝播により被害範囲がどんどん拡がるということにある。被害範囲は、人や鼠の蚤を介した病原菌の伝播により、直接の攻撃対象地区にとどまらず、周辺の地域にどんどん拡がり、戦闘とは全く無関係の一般住民をペストやコレラなどの疫病に感染させ、その地域一帯に疫病を大流行させた。

  (4) まとめ
 以上(1)ないし(3)のとおり、本件細菌戦が国際法に違反し、かつ人道上許されない悪質な事案であり、被控訴人国が組織的関与して細菌戦を行い、戦後は徹底的に証拠隠滅をはかった他に例をみない事案である。

2 基本的人権の侵害による損害賠償請求権の主体とその処分権の帰属
 生命と健康に生存する権利は人道上最も尊重されなければならない。国際法に違反し人道上許されない行為によって引き起こされた権利侵害の結果発生した損害賠償請求等の私的請求権は、侵害された個人に帰属し、侵害された個人の意思によってのみ私的請求権である損害賠償請求権の処分が認められ、侵害した者や第三者による処分は許されない。
 その請求権の処分については、侵害された個人の帰属する団体の多数決原理が働く余地がなく、また個人の帰属する国家がその構成員である国民個人の私権たる損害賠償請求権を放棄したり剥奪する等の処分することができるという余地もない。
 本来、外国人の加害行為によって被害を受けた国民が個人として加害者に対して損害賠償を求めることは、当該国民固有の権利であって、その加害者が被害者の属する国家とは別の国家であったとしても、その属する国家が他の国家との間で締結した条約をもって、被害者に加害者に対する損害賠償請求権を放棄させることは原則としてできないというべきである。

 3 ジュネーブ第4条条約【非人道的待遇(生物学的実験を含む)等の重大 違反行為の賠償請求の免責禁止】による解釈

 日本は、1953年に1949年ジュネーブ第4条条約に加入し、中華人民共和国も1956年に同条約を批准しているので、1972年の日中共同声明の当時には両国共に1949年ジュネーブ第4条条約の拘束を受けている。
 同条約第147条は、「殺人、拷問若しくは非人道的待遇(生物学的実験を含む)、身体若しくは健康に対して故意に重い苦痛を与え、若しくは重大な傷害を加えること」と重大な違反行為を規定し、同条約148条は、「締約国は前条に掲げる違反行為に関し、自国が負うべき責任を免れ、又は他の締約国をしてその国が負うべき責任から免れさせてはならない。」と規定して、生物学的実験を含む非人道的待遇等の重大な違反行為に対して、賠償請求の免責を禁止した。
 また、7条では、「いかなる特別協定も、この条約で定める被保護者の地位に不利益な影響を及ぼし、又はこの条約で定める被保護者に与える権利を制限するものであってはならない。」と規定する。
 よって、1949年ジュネーブ第4条条約の拘束を受け、本件細菌戦のような「重大な違反行為」については、請求権を放棄できないのである。
 したがって、日中共同声明が控訴人らの請求権を放棄する内容のものであれば、被保護者の地位に不利益な影響を及ぼし、被保護者に与える権利を制限することになり、1949年ジュネーブ第4条条約に違反するものとなるから、日中共同声明によって放棄されたのは、国家間の賠償請求権であると解するのが相当である。

 4 しかも、日中共同声明および日中平和友好条約によって、中国国民は戦 争被害について何らの補償、代償措置を受けていない。
 したがって、中国国民個人が被った損害についての被控訴人国に対する損害賠償請求権、特に、国際法違反でかつ非人道的待遇(生物学的実験を含む)等の重大違反行為に関する損害賠償請求権までが、日中共同声明によって放棄されたとは解することはできない。

5 まとめ
 控訴人らの被控訴人らに対する損害賠償請求権は、控訴人らの固有の私的請求権であり、控訴人らの属する中華人民共和国と被控訴人である日本国の政府の合意によって放棄したり、奪ったりすることのできない控訴人ら固有の権利である。

第9 被控訴人国の従前の主張(外交保護権の放棄)との食い違い

1 被控訴人国は、本件訴訟において、日華条約と日中共同声明、サンフラ ンシスコ平和条約等により、控訴人らの損害賠償請求権が放棄されたものであると主張している。

2 しかし、従前、被控訴人国は、以下のような答弁、主張等をしている。
(1) サンフランシスコ平和条約第14条(b)に関する吉田首相の書簡サ ンフランシスコ平和条約14条(b)について、当時の日本国の全権大使の吉田首相は、オランダの全権大使スティッカー外相に対し、「わが政府の見解としては、第14条b項は、正確なる解釈上、各連合政府が自国民の私的請求権を剥奪することを包含しておらず、従って本条約発効後、この種請求権が消滅することにはならないものと考えます」との書簡を送り(乙32号証)、個人の請求権が14条(b)によって放棄されていないことを表明していた。

(2) 2002年11月12日、参議院内閣委員会において、吉川春子議員 の質問に答えて、林景一外務省条約局長は、「御指摘の吉田・スティッカー書簡におきまして、当時の吉田全権が表明いたしましたこの請求権についての考え方というのは、これは単にオランダとの関係ということだけではございませんで、平和条約についての我が国の立場を表明したもの」であると答弁した(同委員会会議録20頁)。

(3) 1991年8月27日、外務省柳井俊二条約局長は、参議院予算委員 会において、清水澄子議員の質問に答えて、「いわゆる日韓請求権協定におきまして、両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。その意味するところでございますが、日韓両国間において存在しておりましたそれぞれの国民の請求権を含めて解決したということでございますけれども、これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。日韓両国間で政府としてこれを外交保護権の行使として取り上げることはできない、という意味でございます。」と答弁した(同委員会会議録10頁)。

(4) 1992年4月7日、加藤紘一内閣官房長官は、参議院内閣委員会で、 いとう正敏議員の質問に答えて、「1972年に日中共同声明によりまして、いわゆる政府対政府、国家間の請求権、国家間の賠償に関する請求権は中国側が放棄された。」「個人の訴権、訴える権利というものは存在するけれども、それを政府が外交保護権をもって日本側に要求する権利は中国側が放棄してくれたというふうに理解しております。」、「訴権は存在する。したがって、日本の司法当局にそれを訴える権利は有するけれども、しかしそれは日本国内法上によって処理されていく。」と答弁し、中国政府が放棄したのは、国家間の賠償だけであり、外交保護権は行為しないと理解していること、被害者個人が日本の裁判所に訴える権利を有していることを明言した(乙45の5頁)。
 加藤紘一内閣官房長官は、外務官僚出身であり、日中共同声明の前年の1971(昭和46)年12月に外務省アジア局中国課次席事務官を最後に外務省を退官して自民党代議士になったもので、政府答弁として重要な意味を有する。

(5) 被控訴人は、サンフランシスコ平和条約請求権放棄賠償請求訴訟第2 審(東京高等裁判所昭和34年4月8日判決)において、サンフランシスコ平和条約第19条(a)項によって放棄された請求権は、「日本国が国際法上外国に対して有する前示いわゆる外交保護権に関するものであり、被害者たる日本国民が本国政府を通じないで、これとは独立して直接に賠償を求める国際法上の請求権あるいは私法上の損害賠償請求権の如きはこれを含まないと解すべきである。即ち後者の権利は本来国家のもつ権利ではないから、国家が外国との条約によってどんな約束をしようとそれによって直接に個人がこの権利を失う結果を生ずるものではない。尤も日本国がその国民の連合国及びその国民に対して個人的請求権を行使することを禁止するため必要な立法的及び行政的措置をとることを連合国に対して約束することは、理論上可能なことであるが、対日平和条約は請求権の放棄条項を規定するに止まり、イタリアその他五カ国の平和条約に規定せられているような請求権の消滅条項と共に補償条項を何ら規定していないのであるから、右平和条項第19条により個人の請求権が消滅したものと論壇することは困難であり、また個人の請求権行使を禁止する約束をしたものとも解することはできない。」と主張した。

(6) 被控訴人は、原爆訴訟(東京地裁昭和38年12月7日判決)におい て、サンフランシスコ平和条約第19条(a)の規定によって、日本国はその国民個人の米国及びトルーマンに対する損害賠償請求権を放棄したことにはならないと主張し、その理由として、(1)国家が個人の国際法上の賠償請求権を基礎として外国と交渉するのは国家の権利であり、この権利を国家が外国との合意によって放棄できることは疑いないが、個人がその本国政府を通じないでこれとは独立して直接に賠償を求める権利は、国家の権利とは異なるから、国家が外国との条約によってどういう約束をしようと、それによって直接これに影響は及ばない。(2)従ってサンフランシスコ平和条約第19条(a)にいう「日本国民の権利」は、国民自身の請求権を基礎とする日本の賠償請求権、すなわちいわゆる外交的保護権のみを指すものと解すべきである。日本はその国民が連合国及び連合国国民に対し請求権を行使することを禁止するために、必要な立法、行政措置をとることを相手国との間で約束することは可能である。しかし、イタリアほか五カ国との平和条約に規定されているような請求権の消滅条項及びこれに対する補償条項は、対日平和条約には規定されていないから、このような個人の請求権まで放棄したものとはいえない。仮にこれを含む趣旨であると解されるとしても、それは放棄できないものを放棄したと記載しているにとどまり、国民自身の請求権はこれによって消滅しない。従って、仮に原告等に請求権があるものとすれば、対日兵務条約により放棄されたものではないから、何ら原告らが権利を侵害されたことにはならない。」と主張した。

3 禁反言の法理に違反
 被控訴人の一連の上記主張は、政府の正式見解に従って主張されたものであり、本件控訴人らの損害賠償請求権は、国民である個人に帰属し国家の有する権利ではないので、国家が条約等で外国とどのような合意をしても国民の私的な請求権を失わせることはできないこと、また仮に国が他の国との間で個人の私的な請求権を放棄する合意をしたとしても、それは放棄できないものを放棄したと合意しただけであり、国民個人の私的請求権は消滅しないことを主張していたものである。
 被控訴人の本件訴訟における日中共同声明、日華条約等で請求権が放棄されたとして控訴人らの被控訴人に対する損害賠償請求権が消滅したとの主張は、禁反言の法理に違反し、そのような主張をすることは正義・公平の観点から許されない。

第10 中国政府は、個人の被害賠償まで放棄したと認識していないこと

 1 被控訴人は、中国政府の見解について、「中国政府の認識も、先の戦争 に係る日中間の請求権の問題は、中国国民及びその財産に関するものも含めて、日中共同声明発出後存在していないという我が国攻府と同様のものであることは明らか」と主張する。
 しかしながら上記は、戦中・戦後を通じて一貫した被控訴人の中国に対する偏見に貫かれており、中国政府の考えをまったく正解していない主張というほかはない。
 中国政府の見解は、1972年の日中共同声明や1978年の日中平和条約によって解決したのは、戦争賠償問題の一部であって全部ではない、ということである。
 この事実は、被控訴人自身が提出した証拠によって中国政府高官らの一連の発言を確認すれば一目瞭然である。以下、被控訴人の記述に従って証拠を確認していく。

 2 被控訴人は、中国政府の見解を説明するに乙69の記載を引用して、1 995年(平成7年)5月3日、陳健中国外交部新聞司長が、記者から「国交正常化以来、中国政府は、日本に対する賠償請求を正式に放棄したが、最近民間組織が賠償請求を提起している。これに対する見解如何。」と問われたのに対し、「賠償問題は既に解決している。この問題におけるわれわれの立場に変化はない。」旨発言していると記載している。
 ところが、陳健中国外交部新聞司長の発言はまだこれに続いて、「もちろん日本の中国侵略戦争は未だ問題を残しており、これら問題は今に至っても関係する中国人に精神的損害を残している。これら問題について日本側は真剣に対応し、適切に処理し、必要なことを行うよう希望する。」旨述べた部分があるのである(乙69)。
 被控訴人は、この部分を意図的に無視し、あたかも陳健中国外交部新聞司長発言は「賠償問題は既に解決している。この問題におけるわれわれの立場に変化はない。」という言葉だけであったかのように歪曲的に紹介しているのである。
 陳健氏の発言の全体から明らかなように、「この問題におけるわれわれの立場」とは、戦争被害の賠償問題について、国家の戦争賠償請求権と戦争被害者である個々の中国人が持っている日本に対する賠償請求権を区別し、後者については何ら制限されないとの認識である。そしてこの立場をはっきり確認したものが日中共同声明なのである。したがって、「この問題におけるわれわれの立場に変化はない。」との結論は当然なのである。
 そして日中共同声明で処理されたのは、中国の国家としての戦争賠償問題だけであって、中国人戦争被害者が個人として持っている日本政府に対する損害賠償請求権は、日中共同声明によっても何ら影響を受けていないのである。

 3 被控訴人は、乙70を引用して、「銭其?外交部長自身、1992年 (平成4年)3月の記者会見において、記者より民間賠償請求の動きについての考え方を問われたのに対し、『戦争によってもたらされた幾つかの複雑な問題に対し、日本側は適切に処理を行うべきである。』と述べつつ、戦争賠償の問題については、『中国政府は、1972年の日中共同声明の中で明確に表明を行っており、かかる立場に変化はない。』と表明している」旨記載している。
 ところが被控訴人は、乙70の引用においても前記乙69と同様に、上記引用部分に続く以下の発言を欠落させている。すなわち、「人民代表は、議案と建議を提出する権利を有しており、人民代表大会書記局が議案に責任を有する機構であって、規定に従って議案と建議を処理することとなろう。」との部分である。
 この発言は、中国政府が手続に則って戦争賠償問題を議会の議案・建議として処理することを明らかにしたものと言える。
 被控訴人は、日本側には「適切に処理を行うべき」課題があることを引用しているが、前記陳健中国外交部新聞司長の「賠償問題は既に解決している。」との発言との整合性をどのように説明するのであろうか。

 4 なお被控訴人の主張には触れられていないものの、銭其?副首相兼外交 部長(当時)は、1995年3月9日、全国人民代表大会の開催期間中、各省別の討議での発言において、対日戦争賠償問題について、銭其?副首相兼外交部長は、日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって、個人の補償請求は含まれず、補償の請求は国民の権利であり政府は干渉できないとの見解を示した(甲501・新潟地裁判決及び福岡地裁1992年4月26日判決、判例時報1809号111頁)。
 当然の道理であるが、この銭其?副首相兼外交部長の発言によって、個人請求権がいささかも放棄されていないことは確定していると考えてよい。

 5 また被控訴人は、乙71を引用して、「1998年(平成10年)12 月の香港における報道によれば、唐家?外交部長が、記者から、中国政府の民間人の対日賠償請求について質問された際、『中国の対日賠償請求問題は、既に解決済みであり、国家と民間(国民)は一つの統一体であるので、民間(国民)の立場は、国家の立場と同じであるべきである。』と述べている」旨述べている。
 しかし、上記の記述は、乙71の一部分のみの引用にとどまるものできわめて不完全なものとなっている。実際の上記報道記事は、乙71の邦訳にもあるとおり、「しかし、日本における唐家?外交部長の発言は、江沢民の態度と一致していなかった。」として、前段の江沢民及び中国共産党中央指導部の歴史問題に対する毅然とした態度と対比させて唐家?外交部長の発言を紹介しているのである。
 以上にかんがみれば、日本の中国侵略戦争に係る日中間の請求権の問題についての日中間の認識は、まったく異なるものであると考えるべきである。

 6 結語
 以上のとおり、中国政府は、日中共同声明及び日中平和友好条約により、控訴人ら中国国民固有の私的請求権は放棄されていないという立場であることは明白である。

第11 最近の戦後補償をめぐる裁判所の判断

 1 最近の戦後補償をめぐる裁判において、日中共同声明により中国国民で ある被害者個人の損害賠償請求権まで放棄されたとは解することができないという裁判所の判断が多数なされている。これらの裁判所の判決は、充分説得力のあるものなので、紹介し検討する。

 2 福岡地裁平成14年4月26日判決(判時1809号111頁)は、三 井鉱山強制連行事件において中国人の炭鉱経営者に対する不法行為に基づく損害賠償を認めたが、その事案の中で、 「日中共同声明の第5においては、『中華人民共和国政府は、日中両国民の友好のために、日本国に対する損害(注・戦争の誤記)賠償の請求を放棄することを宣言する。』とされていること、日中平和友好条約においては、日中共同声明の第5の上記宣言が厳格に遵守されるべきことが確認された」と認定する一方、「サンフランシスコ平和条約締緒当時、中国は、中国国民が、日本政府に対して、日中戦争において被った損害の賠償を請求し得るとの立場を採っていたこと、また、昭和62年ころから、中国国内では、日本政府に対して上記損害の賠償を行い得るとの見解が支持されるようになり、当時の銭其?副首相兼外相は、平成7年3月9日、日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって、個人の賠償請求は含まれず、補償請求は国民の権利であり、政府は干渉すべきではない旨の見解を示したこと」などの中国政府の認識を根拠にして、「日中共同声明及び日中平和友好条約により、中国国民固有の損害賠償請求権が、中国政府によって放棄されたかについては、法的にも疑義が残されていたものといわざるを得ない。」と述べ、結論として「原告らの損害賠償請求権が、日中共同声明及び日中平和友好条約により、直ちに放棄されたものと認めることはできない。」と認定する。
 また、同判決は、国家と国民の請求権の関係について、「損害賠償について国家間での合意が成立した場合、これに基づき、国民に対して、何らかの措置が採られることにより、国民が直接相手国に対して、損害賠償を請求できなくなることは考えられるとしても、このことから直ちに、すべての場合に、国民個人が、相手国に対して、戦争において被った損害の賠償を請求し得ないと解することはできない」と述べて、国家間の合意が成立した場合でも代償措置なしに賠償請求を放棄させられることはないと判示する。

 3 東京地裁平成15年4月24日判決(判時1823号61頁)は、中国 山西省元慰安婦訴訟において、
「被告は、日中共同声明をもって、被害者個人の我が国に対する損害賠償請求権も放棄されたと主張するが、同声明も、国際法の基本的な枠組みのなかで解釈されるべきものであって、日中戦争における加害国である我が国に対し、その相手国である中華人民共和国(戦争当時は中華民国)が被害者個人の我が国に対する損害賠償請求、いわゆる『被害賠償』まで放棄したものではない。」と述べ、日中共同声明により賠償請求を放棄したものではないと認定する。
 同判決は、続けて、その根拠として、「被害を受けた国民が個人として加害者に対して損害賠償を求めることは、当該国民固有の権利であって、その加害者が被害者の属する国家とは別の国家であったとしても、その属する国家が他の国家との間で締結した条約をもって被害者の相手国に対する損害賠償請求権を放棄させ得るのは、自国民である被害者に自ら損害賠償義務を履行する場合など、その代償措置が講じられているときに限られる」と代償措置なしには放棄させることは出来ないと判示する。
 そして、「中華人民共和国においては、日中共同声明を調印することによって、自国民に対して日中戦争に係る被害を自ら賠償することとして、我が国に対する損害賠償請求権を放棄させたという形跡はなく」と代償措置は執られていないと認定して、被告の主張を排斥する。同判決は、「我が国においても、たとえば日ソ共同宣言についても、日韓請求権協定についても、政府見解は、国民である被害者の相手国に対する損害賠償請求権まで放棄したものではないとして、これを否定していることからも裏付けられるというべきである。」と述べ、政府見解で賠償請求権を放棄したものではないことを指摘する。

 4 新潟地裁2004年3月26日判決(甲501)は、強制連行強制労働 新潟訴訟において、 「安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権を含め、原告らの請求権は、日華平和条約11条、サンフランシスコ平和条約14条(b)及び日中共同声明5項によって、中華人民共和国により放棄され、消滅した」という被告国の主張について、「@中華人民共和国と中華民国との関係からして、両国との間の問題は、明確に分けて別個に検討されなければならないこと、A『日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する。』という日中共同声明5項の文言上、中華人民共和国が個人の被害賠償まで放棄したとは直ちには解し難いこと、B戦争による国民個人の被害についての損害賠償請求権という権利の性質上、当該個人が所属する国家がこれを放棄し得るかどうかにつき疑義が残る上、日中共同声明の署名にもかかわらず、中国国民は戦争被害について何らの補償、代償措置を受けていないこと、C前記認定事実9(2)のとおり、中国要人が、日中共同声明により中国が個人の被害賠償まで放棄したと認識しているとは必ずしもいえないこと(特に、認定事実9(2)オ(ア)bの銭外交部長〔当時〕の発言)などに鑑みれば、」と4点を指摘して、「日本政府の認識の如何にかかわらず、中国国民個人が被った損害についての被告国に対する損害賠償請求権、特に、安全配慮義務違反という債務不履行に基づく損害賠償請求権までが、日中共同声明によって放棄されたとは解し難い。」(104頁)と判示し、個人賠償請求権が日中共同声明により放棄されたという主張を明快に否定する。
 
 5 広島高等裁判所平成16年7月9日判決(甲519)は、西松建設強制 連行・強制労働控訴事件において、 「日中共同声明第5項は、サンフランシスコ平和条約14条(b)が『連合国は、連合国すべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事経費に関する連合国の請求権を放棄する。』と規定しているのと明らかに異なり、中国国民が請求権を放棄することは明記されていないし、中華人民共和国政府が放棄するとしたのは『戦争賠償の請求』のみである。」と述べ、サンフランシスコ平和条約の文言との比較から国民の請求権まで放棄されていないと判示する。
 また、同判決は、「本来、外国人の加害行為によって被害を受けた国民が個人として加害者に対して損害賠償を求めることは、当該国民固有の権利であって、その加害者が被害者の属する国家とは別の国家であったとしても、その属する国家が他の国家との間で締結した条約をもって、被害者に加害者に対する損害賠償請求権を放棄させることは原則としてできない」という基準からして、当時の日本政府側の意図はともかく、日中共同声明第5項に、明記されていない中国国民の加害者に対する損害(被害)賠償請求権の放棄までも当然に含まれているものと解することは困難である。」と述べて、条約を持って自国民の賠償請求を放棄させることはできないと判示する。
 また同判決は、「サンフランシスコ講和会議に中華人民共和国が招待されず、サンフランシスコ平和条約の締結当事者になっていないことに照らせば、なお一層明らかである」「日華平和条約は、日本と中華民国との間で締結された条約であって、これをそのまま中華人民共和国国民である控訴人らに適用できるのかもまた疑問である。」「日本は中華人民共和国との国交を回復し、政治的な判断から日中共同声明に署名し、同国と日中平和友好条約を締結している。ここにおける日本の立場はともかく、少なくとも、中華人民共和国政府が復交三原則で明らかにしている見解、すなわち、同国政府が中国を代表する唯一の合法政府であり、台湾は中華人民共和国の領土の一部であるとの見解を堅持していることは、現在の国際情勢においても明白なことである。」と述べて、日華条約の効力が及ぶことを否定する。
 さらに、同判決は、「同国政府高官の発言にしても、日中共同声明により国家の賠償請求権のみならず中国国民の損害賠償請求権も放棄したものとする見解や日中共同声明は国家間の戦争賠償請求権を放棄したもので個人の補償請求は含まれないとする見解(銭其茵外交部長の発言として報道されたものであるところ、被控訴人は中国政府により確認されていない旨主張するが、仮にそうであるからといって、直ちに同発言がなかったということにはならないのはいうまでもない。)などがあり、政府高官の発言がすべて一致しているわけでもない。」と述べて、中国政府高官の見解が一致していないと認定し、「日中共同声明第5項により、日本及び日本国民は、中国国民個人による損害賠償請求に応じる法律上の義務が消滅した旨の被控訴人の主張は採用することはできない。」と判示し、個人賠償請求権が中華人民共和国により放棄され、消滅したという被控訴人の主張を明快に否定する。

 6 東京高等裁判所第5民事部平成16年12月15日判決(乙115)は、 中国人「慰安婦」第1次訴訟において、 「日中共同声明5項が中国国民個人の賠償請求権をも放棄したと解することできない。」と判示し、その理由として、「日中共同声明5項の文言上、中華人民共和国が個人の被害賠償まで放棄したとは直ちには解し難いこと」をあげ、また、「戦争による国民個人の被害についての損害賠償請求権という権利の性質上、当該個人が所属する国家がこれを放棄し得るかどうかについては疑問が残る上、この声明によっても中国国民は戦争被害について何らの補償、代償措置を受けていないこと」を摘出して、「日本政府の認識がどうであるかにかかわらず、中国国民個人が被った損害についての被控訴人に対する損害賠償請求権が日中共同声明によって放棄されたとは解しがたいというべきである。」と結論づけ、個人賠償請求権が中華人民共和国により放棄され、消滅したという被控訴人の主張を否定する。

 7 平成17年3月18日、東京高等裁判所第1民事部において、中国山西 省「慰安婦」訴訟について判決がなされたが、全く不当なもので、判例の価値を有しない。

 8 まとめ
 本件細菌戦は、国際法に違反し、かつ人道上許されない悪質な事案であり、被控訴人国が組織的関与し、戦後は徹底的に証拠隠滅をはかったことに着目すると、上記判決の論旨にしたがえば、日中共同声明等によって個人賠償請求権まで放棄したとは考えられないことは明白である。

第12 結語

 以上、見てきたように、「日華平和条約11条及びサンフランシスコ平和条約14条(b)により、中国国民の日本国及びその国民に対する請求権は、国によって放棄されている。日中共同声明5項にいう『戦争賠償の請求』は、中国国民の日本国及びその国民に対する請求権も含むものとして、中華人民共和国政府がその『放棄』を宣言したものである」(被控訴人第1準備書面124頁)という被控訴人の主張は、いかなる意味でも成り立たない暴論である。
 日中共同声明自体によっては、中国国民の賠償請求権を否定するいかなる根拠も見いだすことはできず、中国国民の請求権が存在していることは明白である。
 また中国国民の請求権を否定する根拠をサンフランシスコ平和条約と日華条約に求める被控訴人国の立場は、1972年以降の日中友好関係の発展を逆行させかねない極めて危険なものであるといわなければならない。

第3章 ハーグ条約および国際人道法に基づく謝罪及び損害賠償請求権

第1 はじめに

 原判決は,ハーグ陸戦条約第3条は,ハーグ陸戦規則違反によって損害を被った個人が加害国家に対して直接損害賠償請求することまでを認めたものではないとした。
 原判決のこの解釈が,明らかに同条約の解釈を誤ったものであることは、既に控訴人らの第2準備書面において指摘したところである。
 そして,当審において取り調べられた新たな証拠を加えれば、さらに原判決の誤りは明かとなった。以下に,同条約第3条,およびこれを内容とする国際慣習法の権利の内実を再び明らかにし,控訴人らが同条約等に基づき被控訴人に対し損害賠償等を請求することができることを述べる(以下に述べるものは、重複を避けるため、控訴人の第2準備書面で主張した諸点についてはできるだけ省略したので、上記第2準備書面をも併せ参照されたい)。

第2 原判決について

1 原判決は、旧日本軍が中国各地で行ったと認定される細菌兵器の実戦使用(本件細菌戦)が1925年のジュネーブ・ガス議定書(「窒息性ガス、毒性ガス又はこれらに類するガス及び細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書」)にいう「細菌学的戦争手段の使用」にあたることは明らかであるとした上で、ジュネーブ・ガス議定書のような条約ないしそれを介して成立する慣習国際法による害敵手段の禁止もハーグ条約附属規則(以下、ハーグ規則)23条1項にいう「特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止」に該当し、よって国にはハーグ条約3条の規定を内容とする慣習国際法による国家責任が生じていたとした。
 2 しかるに,原判決は,ハーグ条約第3条は,個人に損害賠償請求の主体を認めたものではないとした。
   その理由とするところは,およそ次の通りである。
   @ 国際法上の法主体性を認められるのは原則として国家であり,個人は,国際法においてその権利義務について規定され,かつ,個人自身の名において国際的にその権利を主張し得る資格が与えられて初めて例外的に国際法上の法主体性が認められる。
A 個人が他国の国際違法行為によって損害を受けた場合には,当該個人は加害国の国際責任を追及するための国際請求を提出し得る主体としては認められず,その個人の属する本国が,当該個人の事件を取り上げ外交保護権を行使することによって,自らに対する法的な侵害として引き受け,国家間関係に切り替えて相手国(加害国)に国家責任を追及するものと解されている。
B ヘーグ陸戦条約3条は,附属規則(ヘーグ陸戦規則)に違反した締約国に損害賠償責任を課しているが,その相手方(損害賠償請求権を有する者)についての文言は存在しない。
C ヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則には,個人が国家に対して損害賠償を請求することを前提とした手続規定も存在しない。
D このように,ヘーグ陸戦条約が個人に請求権を認める明文規定を設けていないことは,前示のような国際法の基本的な性格に照らしてみるならば,同条約が国際法上の原則どおり国家と国家との間の権利義務を定め,個人の請求権を認めたものではないことを示していると理解するのが自然である。
E ヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則の趣旨・目的は,陸戦において軍隊の遵守すべき事項を定め,もって戦争の惨害を軽減しようとする点にあるものと解される。
F 以上の諸点に照らすと,文脈と条約の趣旨・目的とに照らして与えられる用語の通常の意味に従って解釈する限り,ヘーグ陸戦条約3条の規定は,ヘーグ陸戦規則の遵守を実効化するため,同規則に違反した交戦国の損害賠償責任を定めたものであり,同規則違反によって損害を被った個人が加害国家に対して直接損害賠償請求権を行使することまでを認めたものではないと解される。
G ヘーグ陸戦条約3条の作成過程において各国代表が意図していたのは,ヘーグ陸戦規則の実効性を確保するため,軍隊構成員が同規則違反行為を行った場合には,当該軍隊構成員の所属する国家の政府に主観的な有責性がなくても当該国家に被害者の属する国家に対する損害賠償責任を負わせることにあり,各国が,当時の伝統的な国際法の枠組みの例外として,個人の加害国家に対する損害賠償請求権を創設することまでを意図していたものとは認められない。
H ヘーグ陸戦規則52条3項は,徴発の相手方となった住民等になるべく即金で支払うことを求めているが,占領軍が金員の支払をしない場合に住民がその救済を求めるための国際法上の手段は設けられていないから,同条項所定の行為を国家間で合意したものと解するのが妥当である。これらの規定をもって,個人が相手国に対し直接何らかの請求をし得ることを認めたものと解することはできない。
I ヘーグ陸戦条約および同陸戦規則には,個人が加害国に対する直接の損害賠償請求権を有することを示唆する規定等は一切存在しない。
J ハーグ条約第3条に基づく個人請求権を認めるだけの実行例が存在しない。

3 しかしながら,原判決のあげるこれらの諸点は,いずれも法令の解釈を誤ったものである。
   そこで本稿では、申教授作成の意見書(甲503)に基づき、被控訴人準備書面(2)等で被控訴人が行っている主張に反論する形で、ハーグ条約3条の解釈について明らかにし、さらに国際人道法に基づいても本件細菌戦の被害者が被控訴人に対し損害賠償を請求する権利を有することを明らかにして、原判決の法令解釈の誤りを明らかにする。

第3 ハーグ条約3条の解釈

 1 ハーグ条約は、附属のハーグ規則において占領国の義務等について規定し、3条において以下のように定める。
La partie belligerante qui violerait les dispositions du Reglements sera tenue a indemnite s'il y a lieu. Elle sera responsable de tout actes commis par les personnes faisant partie de la force armee.(仏文、条約正文)
 A belligerent Party which violates the provisions of the said Regulations shall, if the case demands, be liable to compensation. It shall be responsible for all acts committed by persons forming part of its armed forces.
 「前記規則ノ条項ニ違反シタル交戦当事者ハ、損害アルトキハ、之カ賠償ノ責 ヲ負フヘキモノトス。交戦当事者ハ、其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ 行為ニ付責任ヲ負フ。」
   ここでの争点は、この規定により、控訴人は被控訴人に対し損害賠償請求が可能か否かである。
 2 「締約国間にのみ」条約を適用するとしたハーグ条約2条の趣旨
  (1) 被控訴人は、ハーグ条約2条が、「本条約ノ規定ハ...締約国間ニ
ノミ之ヲ適用ス」と規定している点が、同条約3条が国家間の国家責任を定めたものであって個人の損害賠償請求権を定めたものではないことの理由の一つとなると主張する(準備書面(2)2〜3頁。強調は同書面のまま。以下、被控訴人の主張として引用する頁数はすべて同準備書面の頁数)。

  (2) しかしながら、本条約2条は、交戦国が条約締約国である場合にのみ
締約国間に条約を適用することを定めた、いわゆる「総加入条項」である(国際法学会編『国際関係法辞典』三省堂、1995年、505頁)。総加入条項は19世紀後半から第一次大戦までの間に締結された戦争法規に関する条約の多くに含まれ、ハーグ条約も2条でこれを規定していた。 このように、本条はあくまで「非締約国」との関係で「締約国」としているにとどまり、人民との関係における適用の問題とはレベルの異なる内容の規定である。したがって、2条の規定は、3条によって個人が損害賠償請求権を有するかどうかの問題とは直接関係がなく、被控訴人の主張は根拠を欠くものである。

  (3) 本条約はむしろ、被控訴人も上記箇所でふれているように、前文第2
段落において「交戦相互間ノ関係及人民トノ関係ニ於テ、交戦者ノ行動ノ一般ノ準縄タルヘキモノトス」(these provisions, ... are intended to serve as a general rule of conduct for the belligerents in their mutual relations and in their relations with the inhabitants) としているのであり、全体として、締約国と他の交戦国のみならず締約国と人民との関係で適用があることが明らかに意図されている条約なのである。

 3 徴発にかかる住民等への金員の支払を規定した同条約52条3項は、住民等が支払請求を求める国際法上の手段を設けていないとの被控訴人の主張について
  (1) ハーグ条約は、占領軍による住民等からの現品徴発及び課役、並びに
押収について、同規則52条・53条で以下のように定めている。
52条 Requisitions in kind and services shall not be demanded from municipalities or inhabitants except for the needs of the army of occupation. They shall be in proportion to the resources of the country, and of such a nature as not to involve the inhabitants in the obligation of taking part in military operations against their own country.
Such requisitions and services shall only be demanded on the authority of the commander in the locality occupied.
Contributions in kind shall as far as possible be paid for in cash; if not, a receipt shall be given and the payment of the amount due shall be made as soon as possible.
「現品徴発及課役ハ、占領軍ノ需要ノ為ニスルニ非サレハ、市区町村又 ハ住民ニ対シテ之ヲ要求スルコトヲ得ス。徴発及課役ハ、地方ノ資力ニ 相応シ、且人民ヲシテ其ノ本国ニ対スル作戦動作ニ加ルノ義務ヲ負ハシ メサル性質ノモノタルコトヲ要ス。右徴発及課役ハ、占領地方ニ於ケル 指揮官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ、之ヲ要求スルコトヲ得ス。現品ノ供給 ニ対シテハ、成ルヘク即金ニテ支払ヒ、然ラサレハ領収証ヲ以テ之ヲ証明スヘク、且成ルヘク速ニ之ニ対スル金額ノ支払ヲ履行スヘキモノト ス。」
53条 An army of occupation can only take possession of cash, funds, and realizable securities which are strictly the property of the State, depots of arms, means of transport, stores and supplies, and, generally, all movable property belonging to the State which may be used for military operations.
All appliances, whether on land, at sea, or in the air, adapted for the transmission of news, or for the transport of persons or things, exclusive of cases of governed by naval law, depots of arms, and, generally, all kinds of munition of war, may be seized, even if they belong to private individuals, but they must be restored and compensation fixed when peace is made.
「一地方ヲ占領シタル軍ハ、国ノ所有ニ属スル現金、基金及有価証券、 貯蔵兵器、輸送材料、在庫品及糧抹其ノ他総テ作戦動作ニ供スルコトヲ 得ヘキ国有動産ノ外、之ヲ押収スルコトヲ得ス。海上法ニ依リ支配セラ ルル場合ヲ除クノ外、陸上、海上及空中ニ於テ報道ノ伝送又ハ人若ハ物 ノ輸送ノ用ニ供セラルル一切ノ機関、貯蔵兵器其ノ他各種ノ軍需品ハ、 私人ニ属スルモノト雖モ、之ヲ押収スル事ヲ得。但シ、平和克復ニ至リ、 之ヲ還付シ、且之カ賠償ヲ決定スヘキモノトス。

  (2) 原判決は、ハーグ規則52条・53条の規定の下では占領軍が金員の 支払をしない場合に住民がその救済を求めるための国際法の手段はなく、これらの規定は、同条所定の行為を国家間で合意したものと解するのが妥当であって、これらの規定をもって個人が相手国に対し直接何らかの請求をしうることを認めたものと解することはできないとした(17頁)。
 被控訴人も同様に、準備書面(2)において、占領時の徴発にかかる住民等への金員の支払を規定したハーグ規則52条の規定は、住民等への支払義務であるとしても住民等の支払請求権ではなく、住民がその利益を侵害されたとしても国際法上その救済を求める手段・制度が設けられていないと主張している(3頁)。

(3) しかしながら、「国際法上その救済を求める手段・制度が設けられて いない」との原判決及び被控訴人の主張は、国際法上の救済は、国際司法裁判所のような国際法上の争いのみを審理する裁判所においてしかなしえないとする誤った理解から主張されるものであって明らかに失当である。
 国際法上の紛争は、理論的にも国内の通常裁判所において審理、判断することは当然可能であり、通常の裁判所を通じて救済を求めることが許されるのである。また実際にも、戦時占領下の財産権等に関する訴訟は、国際法では伝統的に国内裁判所において行われてきたのであって、原判決や被控訴人の主張は、国内裁判所が国際法を解釈・適用してきた長い歴史を看過したものである。
(4) 占領下の徴発や押収に関する上記のハーグ規則52・53条に交戦国 が違反したとして財産所有者たる私人がその還付や賠償を求め、裁判所がこれを認めた主要国裁判所の事例は多数存在し、日本でも東京大学はじめ多数の大学が所蔵する国際法の代表的な判例集Annual Digest of Public International Law Cases(後に改名してInternational Law Reports.各国の国内裁判所が国際法を適用した判例を含む多数の国際法判例を毎年掲載する)に収録されている(なお、財産を徴発・押収した交戦国が後にこれを売却したこと等により、訴訟の形式が私人対私人ないし他国になっているものもある)。例として、以下のものが挙げられる。
 @ ドイツ軍により貨物自動車が押収され、対価の支払いも領収証の発行もなされなかった事案につき、フランスのルーアン控訴裁判所は1947年、次のように判示して、元の所有者であるローレへの返還を認めた。「ドイツの行為は徴発ではなく、ハーグ条約53条にいう押収であった。本条は、私人に属する輸送手段の押収は、戦争法によって認められる場合には、これらの個人から所有権を奪うものではなく、単に押収された財産の使用権を奪うのみであると定めている。当該財産は、交戦の終了後、還付されなければならない」(Mortier v. Lauret, H. Lauterpacht ed., Annual Digest of Public International Law Cases, Year 1947, 1951,pp.274-275)。
 A ドイツ占領軍のために貸した馬が、その後も返還されず、その後イギリス占領軍、次いでデンマーク政府へと引渡されたため、元の所有者が所有権を主張した事案で、デンマークの西控訴裁判所は1947年、訴えを認め馬の返還を命ずる判決を下した。「ハーグでの第2回国際平和会議で採択された陸戦規則は、53条第2段において、 占領軍は、私人に属するものであっても、とりわけ輸送手段を押収することができると定めている。しかし、本条は、そのように押収された財産は、和平の締結時には還付され、また損害賠償が定められなければならないと付け加えている。ドイツ占領軍による馬の処分が、上述の規則に従って行われた押収といえるかどうかは別にして、控訴人の所有権がそれによって失われたとみることはできない」(Andersen v. Christensen and the State Committee for Small Allotments, Annual Digest of Public International Law Cases, Year 1947,1951, pp.275-276.)。
B ドイツ軍がオランダを占領中、ドイツの国境税関監視員が、現金支払いも領収証の発行もせずに2台のオートバイを押収した事案につき、オランダの特別破毀院は1950年、たとえ輸送手段として押収の対象になるとしても、ハーグ条約53条第2段が遵守されなければならないとして、押収を違法と認める判決を下した(In re Hinrechsen, H.Lauterpacht ed., Annual Digest of Public International Law Cases,Year 1949,1955,pp.486-487)。
C ドイツ軍がノルウェーを占領中、ドイツ当局が原告所有の自動車を徴発し、領収証の発行も賠償の支払いもなされなかった事案につき、ノルウェーの控訴裁判所は1948年、ハーグ条約52条による徴発が有効であるためには現金の支払いか領収証の発行がなければならないとして、原告の所有権を認めた(Johansen v. Gross, Annual Digest of Public International Law Cases, Year1949, 1955, pp.481-482)。
D ドイツによるデンマークの占領中に代金の支払いなく徴発され、戦後イギリス軍からデンマーク政府の手に渡った2頭の馬につき、元の所有者が所有権を主張した事案で、デンマークのコペンハーゲン東地方裁判所は1947年、次のように述べて原告の主張を認めた。「第2回ハーグ平和会議で採択された陸戦規則の53条第2段は、他国を占領した軍隊はとりわけ、私人に属するものであっても、輸送手段を押収することができると定めている。しかし、同条は、押収された財産は『和平の締結時に還付され、賠償が決定されなければならない』と付け加えている。このことに照らせば、控訴人の所有権が消滅したと推定することはできない」(Statens Jordlovsudvalg v. Petersen, H.Lauterpacht ed., Annual Digest of Public International Law Cases, Year 1949,1955, pp.506-507.後にデンマーク最高裁もこれを支持)。
 E イギリス占領軍の命令により徴発されたオートバイがその後、以前に徴発を受けた者に対して賠償として渡され、元の持主がハーグ条約53条第2段を根拠に所有権を主張した事案で、オーストリア最高裁は1951年、1907年ハーグ条約とほぼ同内容の1899年ハーグ条約を援用して、原告の主張を認めた。「ハーグ規則の53条第1段によれば、占領軍は、被占領国の所有に属する一定の財産を徴発することができる。かかる財産はそれにより占領国の財産になる一方、同様の規則は、53条第2段に言及された人や物の輸送手段を含む私有財産にはあてはまらない。なぜならば、かかる私有財産は、和平の締結時に返還され、また賠償の問題も決定されなければならないからである。...オートバイは私人の財産であったから、占領国は、ハーグ規則に従い、徴発によってその所有権を取得してはいない...従って原告は、徴発及びその後の移転の結果として、オートバイに対する権利を失っていない」(Requisitioned Property (Austria)(No.1) Case, H. Lauterpacht ed., International Law Reports, Year 1951, 1957, pp.694-695)。
F 米国によるドイツの占領中、米軍によって徴発された自動車が、別の者の使用に割り当てられ、その者が使用している間に盗難にあい紛失したため、所有者が財産の逸失について損害賠償を求めた事案で、西ドイツ連邦最高裁は1952年、使用者が賠償責任を負うことを認める判決を下した。裁判所は、ハーグ規則53条に言及して以下のように述べている。「米軍のとった措置にもかかわらず原告がなお車の所有者であったかどうかの問題は、肯定的に答えられなければならない。...ハーグ規則の53条第2段に従い、私人の所有になる輸送手段で、占領軍により徴発されたものは、和平の締結時に還付されなければならない。従って、かかる財産の徴発は収用目的に供してはならず、使用者のためにのみ供しうるものであり、結果として、これにより影響を受けた個人はその所有権を失わない」。そして、車を使用していた被告はその保護のための措置を怠ったとして、賠償責任を認めた(Loss of Requisitioned Motor Car (Germany) Case, H. Lauterpacht ed., International Law Reports 1952,1957, pp.621-622)。
G ドイツ軍がフランスを占領中、フランスの会社である原告から、きわめて不十分な額の支払いをもって軍用物資が押収され、後にフランス政府機関により敵国財産として没収され売却されたため、原告が代金の払い戻しを求めた事案で、フランス破毀院は1957年、ドイツの行為は略奪として違法であり、原告は合法的な所有者として完全な賠償を得る権利があると判示した(Etablissements Bracq Laurent S.A. v. Service Central des Domaines, International Law Reports 1957, 1961, pp.978-979)。 

  (5) このような多数の国内裁判所の判例の存在に鑑みると、ハーグ規則 52条・53条は住民等の支払請求権を定めたものではなく住民等にはその侵害に対して国際法上その救済を求める手段がないとする原判決及び被控訴人の主張は根拠がないことが分かる。
 国家間の条約で仲裁裁判所を作りそこへの個人請求を認めた第一次大戦後のベルサイユ条約のような例を除けば、戦時国際法に違反する違法な徴発・押収に対する個人の返還・賠償請求は、伝統的に、ほとんど専ら国内裁判所において提起されてきたのである。そして現に各国の国内裁判所は、上記の判例のように、ハーグ規則52条・53条を適用して、所有者への財産の返還や賠償を命じる判決を下している。
 原判決及び被控訴人のような主張は、個人は「国際裁判所」において自ら権利主張を行い救済を受ける法主体性をもたないという趣旨の主張とも考えられるが、国際法の解釈・適用は、今日、国際司法裁判所のような「国際裁判所」のみが行うものでなくなって久しいことはいうまでもない。
 日本を含め多くの国では、国際法が国内法としての効力を認められ、国内裁判所でしばしば解釈・適用されてきているが、そこでは、個人の権利にかかわる内容を含む国際法を裁判所が解釈・適用して個人に権利救済を与えることも決して珍しくなくなっている。とするならば、国際法上の個人の法主体性を、「国際裁判所」における国際的手続が存在する場合にのみ限定することは明らかに妥当でない。
 山本草二教授(国際法学会元理事長、現在、国連海洋法裁判所判事)が述べるように、国際法上の問題に対する管轄権は「必ずしも国際裁判所その他の国際機関に専属するわけではな」く、「いずれかの国の国内裁判所であっても、その国内法により国際法上の問題(たとえば、戦争犯罪または集団殺害罪に対する刑事責任の追及)に対する管轄権が与えられ、かつ国際法に準拠してこの管轄権を行使している限りは、国際管轄権の行使を分担しているとみなすことができる」(山本草二『国際法(新版)』有斐閣、1994年、166頁)からである。「したがってこの場合には、国内裁判所によっても個人の国際法上の権利義務の実現と執行を担保できることとなり、個人の権利能力取得の条件を充たすのである」(同)。

(6) 上にみたハーグ規則52条・53条に関する国内裁判所の多くの判例 はまさに、国際法上の個人の権利が、国内裁判所によって実現され担保された典型的な例というべきだろう。ハーグ規則52条・53条を適用して個人の財産の返還・賠償を命じた上記の各国裁判所の判例は、ハーグ条約が個人の権利救済のために国内裁判所で援用されてきていることを明確に示しており、原判決及び被控訴人の主張は誤りである。

 4 ハーグ条約3条の起草当時の国際法理論について
  (1) 被控訴人は、ハーグ陸戦条約が締結された1907年当時の国際法に おける個人の位置づけは、「個人は国際法の客体である」という公理が支配していたのであって、個人が加害国家に対し損害賠償請求権を認められるということは考えられないことであったと主張する(9頁)。

  (2) しかしながら、ハーグ条約については上記のように同規則52条・5 3条を適用して個人に権利救済を与えた多くの国内判例が存在するほか、規則に違反した国家に賠償責任を負わせた3条の規定については、当時から、これが損害を受けた個人に賠償を与えることも認める趣旨の規定であるとする見解も有力であった。例として、3条についてフランスの戦前の著名な国際法学者であるメリニヤック及びフォーシーユが述べた見解を引く(以下、強調筆者)。

(3) 「原則として、訴えを起こす唯一の資格を有しているのは、損害を与 えた行為の被害者である」(A. Merignhac,"De la sanction des infractions au droit des gens commises, au cours de la guerre europeenne, par les empires du centre", 24 Revue general de droit international public (1917), pp.8-9)

(4) 「陸戦の法規慣例に違反した交戦当事国に対し、その不法行為の被害 者に対し賠償する(indemniser les victimes)義務を課した、1907年10月18日のハーグ条約3条の国際責任は、個人の財産に対して加えられた損害と同様、身体に対して加えられた損害にも適用される」(P. Fauchille, Traite de droit international public, tome II,1921,p.314)
 この点、日本の主要な国際法学者では、1931年の上海事変に関連して、信夫淳平は、「支那側及び第三国人の蒙りたる、又は蒙りたると称する、財産損害」につき次のように論じている。
 「1907年の陸戦法規慣例條約第3条には、『前記規則ノ條項ニ違反シタル交戦當事者ハ損害アルトキハ之ガ賠償ノ責ヲ負フベキモノトス。交戦當事者ハ其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付責任ヲ負フ』とある。前記規則とは同條約に附属する所の陸戦法規慣例規則を指す。故に損害あるに方りて賠償の責を負ひ、將た交戦國政府がその軍隊の組成員の行為に付責任を負ふのは、専ら陸戦法規慣例規則の規定する諸事項の違反行為である。けれども、その故を以て同規則以外の交戦法規の違反に就ては全然責任を負ふに及ばずして可なりといふ結論を伴ふものではない。凡そ國際法たると国内法たるとを問はず、苟も社會の掟則に違反すれば、之に就て責を負ふべきものたることは総ての場合を通じて一貫する原則である。交戦法規はその陸戦に係ると、海戦に係ると、將た空戦に係るとを問はず、総てその違反者に對して之が責任の負擔を要求する。たゝ゛陸戦法規慣例條約は、その凡例として同條約附属の陸戦法規慣例規則の違反に関し特に責任の帰着を明指したまでゝある」(信夫淳平『上海戦と国際法』1932年、丸善、357−358頁)。
 「交戦國の違法行為に由りて損害を受けたと認むる私人は、その交戦が如何なる原因に基して起つたものにもせよ、當然救済を求むるの権利がある。...殊に交戦國の違法行為(が暇にありとして)に因る損害賠償問題に関しては、如何に加害國が獨自の強硬なる見解を執るとした所で、賠償請求権者は不満足と思ふ場合には、自國政府に訴へて之を彼我政府間の外交問題と為し得るの道もある」(同、364頁)。

  (5) ハーグ条約が採択された当時から、いわゆる戦間期においてさえ、同 条約3条について、このような有力な見解が内外に存在していた。まして、個人の国際法主体性に関する国際法理論が整序され、国内裁判所において個人が国際法を援用して権利救済を受けることが「個人の国際法主体性」の一般的な実現形態であることが明確にされている今日、個人は国際法の客体であるという理解を前提とした判断を行うのは誤りである。

(6) ハーグ条約3条については、当時でさえ上記のように個人への賠償を 認める有力な見解があったばかりでなく、第二次大戦後から今日に至っては、そうした見方はより一般的になっている。
 例えば、国際法・国際人道法の世界的権威であり、現在は旧ユーゴ国際刑事裁判所判事であるメロンも、「[ハーグ条約]「3条は、賠償に関するいかなる議論にとっても非常に重要である。というのは、実際、この規定は、被害者に対し、直接に国家に対する原告適格を与えるように解釈されてきたからである」と言う見解を示している(Th.Meron,"Discussion",A. Randelzhofer and Ch.Tomuschat eds, State Responsibility and the Individual, 1999, p.142)。また、国際人道法の遵守を監視する機関である赤十字国際委員会も今日、明らかにそのような立場をとっている(後述)。
(7) 日本の判例でも、オランダ人捕虜の補償請求に関する1998(平成 10)年11月30日東京地裁判決(判タ991号262頁)は、ハーグ条約3条の起草過程を詳細に検討した結果、同条は被害者個人の救済をも目的とするものであったことは認められる、という認定を行っている。

 5 同条約3条の解釈に関する赤十字国際委員会の見解について
  (1) 被控訴人は、ハーグ条約3条に関して、これが個人の損害賠償請求権 を認めないものであるとの解釈は、1952年当時の赤十字国際委員会の見解によっても支持されているところであると主張している(11頁)。
 しかし、仮に、被控訴人主張の通り「1952年当時」の見解がそうであったとして、現在の状況は明らかに異なる。

  (2) すなわち、1977年に採択された、1949年ジュネーブ条約の第 一追加議定書91条は、ハーグ陸戦条約3条を踏襲した、これとほぼ同一の規定であり、次のように規定する。
 第一追加議定書91条
A Party to the conflict which violates the provisions of the Conventions or of this Protocol shall, if the case demands, be liable to pay compensation. It shall be responsible for all acts committed by persons forming part of its armed forces.
「諸条約又はこの議定書の規定に違反した紛争当事国は、必要な場合には、賠償を支払う義務を負う。紛争当事国は、自国の軍隊の一部を構成する者が行ったすべての行為について責任を負わなければならない。」
 そして、本条につき、この追加議定書について赤十字国際委員会が発行した注釈書は、以下のように記述している(以下、強調筆者)。
「賠償を受ける権利を有する者は、通常は、紛争当事国又はその国民である。...例外的な場合を除いて、紛争当事国の違法行為によって損害を受けた外国籍の者は、自ら自国政府に訴えを行うべきであり、それによって当該政府が、違反を行った当事国に対してそれらの者の申立てを提出することになろう。しかし、1945年以来、個人の権利行使を認める傾向が現れてきている」(Y. Sandoz, Ch. Swinarski et al. eds., Commentary on the Protocol Additional to the Geneva Conventions of 12 August 1949,and relating to the Protection of Victims of International Armed Conflicts (Protocol I), International Committee of the Red Cross, Geneva, 1987 [hereinafter: Commentary], pp.1056-1057)。
 また、同じ注釈書は、保護された者の状況に不利に影響するような別の取決めを締約国が締結することを禁止した1949年ジュネーブ4条約の規定(第一〜第四条約のそれぞれ6/6/6/7条)について、以下のように述べている。
「平和条約の締結にあたっては、当事国は原則として、戦争被害一般に関する問題及び戦争開始に対する責任に関する問題を、適当と考える方法で処理することができる。他方で、当事国は、戦争犯罪人の訴追を控えることや、ジュネーブ諸条約及びこの議定書の規則の違反の被害者が賠償を受ける権利を否定することはできない」(Commentary, p.1055)。
  (3) さらに、国連人権委員会では1990年代以降、国際人権法及び人道 法違反の被害者が救済を受ける権利について、特別報告者を任命して研究が続けられ、2000年には、「国際人権法及び人道法違反の被害者が救済及び補償を受ける権利についての基本原則及びガイドライン(Basic principles and guidelines on the right to a remedy and reparation for victims of violations of international rights and humanitarian law)」が人権委員会に提出されたが(E/CN.4/2000/62, Annex)、これについて国連人権高等弁務官事務所が開催した検討会議で、赤十字国際委員会の代表は、ハーグ条約3条は被害者への賠償を国家に要求するものである、との発言を行っている(E/CN.4/2003/63, paras.50,118)。

  (4) このようにみてくると、ハーグ条約3条が被害者個人の賠償請求を認 めない趣旨のものであることを1952年の時点で赤十字国際委員会が支持しているとの被控訴人の主張は、仮にその時点でそのように考えることができたとしても、少なくとも1980年代以降については、明らかに正しくないとみるべきである。
 1987年発行の前掲の注釈書は、締約国は平和条約の締結にあたってはジュネーブ諸条約及び追加議定書の違反の被害者が賠償を受ける権利を否定することはできないとするとともに、ハーグ条約3条とほぼ同内容の第一追加議定書91条について、賠償を受ける権利を有する者は当事国の国民でもありうること、個人にそのような権利を認める傾向が第二次大戦以降は強まっていることを述べている。
 また、より最近では、国際人権法及び人道法違反の被害者が救済を受ける権利に関連して、赤十字国際委員会の代表は国連の会議で、ハーグ条約3条は被害者への賠償を国家に要求するものであるとの明確な立場を示しているのである。
 従って、赤十字国際委員会の見解に関する被控訴人の主張は、現在の同委員会の見解を表したものとは到底いうことができない。
 そして、本件は、被害事実は第二次大戦中に発生したものであるにせよ、現時点において法を解釈・適用するものであるから、国際法の解釈・適用についても、現行の国際法について現在通用・妥当している法解釈こそを十分に踏まえた判断がなされるべきである。

第4 国際人道法違反の被害者の損害賠償請求権

 1 既に述べたとおり、原判決が本件細菌戦を1925年のジュネーブ・ガス議定書及び同内容の慣習国際法に違反すると認定していることに鑑み、ここでは、そのような国際人道法違反の被害者たる控訴人らがハーグ条約3条(前述の通り、ハーグ条約は総加入条項を含んでいたが、第二次大戦において同条約が慣習国際法として適用されたことは本件を含むいわゆる戦後補償裁判すべてにおいて所与の前提とされており、ここでも、慣習国際法としての同条約3条をさす)に基づいて、国際法違反の国家責任を負う被控訴人国に対し損害賠償をする権利を有していることについて明らかにする。

 2 国際人道法における私権尊重の原則の確立
(1) ハーグ条約のような戦時国際法ないし交戦法規(jus in bello;侵略の 有無のように戦争・武力行使の開始における合法性にかかわるjus ad bellumと異なり、交戦当事国双方を等しく拘束する戦闘行為中の規則。なお近年は、戦争を含む武力行使の一般的違法化、及び個人の保護のための人道的規則の増加から、「戦時国際法」の代わりに「国際人道法」の語が用いられることが多い。)の歴史は古いが、中でも、陸戦における占領時の、住民の私権(私人の生命、身体及び財産)尊重については、18世紀、欧米諸国における自由主義経済の発展や啓蒙思想の登場を背景に、最も早期から国際法の規則が確立した(その経緯と内容については申教授の意見書【甲503】の10頁以下で詳細に明らかにされている。)
(2) そしてハーグ条約こそは、この国際人道法における私権尊重の原則が 明確に盛り込まれた条約なのである。
 すなわち、まず1899年ハーグ条約は次のような規定をおいている。
@ 規則46条 家(家族)の名誉及び権利、個人の生命及び財産、並びに個人の宗教的信念及び自由は、尊重されなければならない。私有財産は、没収され得ない。
A 52条 現品徴発及び課役は、占領軍の必要のためを除いては、市町村又は住 民に対して要求することができない。徴発及び課役は、地方の資力に相 応し、かつ人民にその本国に対する軍事作戦に加わる義務を負わせない 性質のものであることを要する。右の徴発及び課役は、占領地方におけ る指揮官の許可を得なければ、要求することができない。現品の供給に 対しては、なるべく即金で支払い、そうでなければ領収証が発行される ものとする。
B 53条 一地方を占領した軍は、国の所有に属する現金、基金及び有価証券、 貯蔵兵器、輸送材料、在庫品及び部品その他軍事作戦に用いられうる国 有動産以外は、押収することができない。
 海事法によって規律される場合を除き、鉄道施設、陸上電信、電話、 蒸気船その他の船、貯蔵兵器並びに、すべての種類の軍需品は、会社又 は私人に属するものであっても、軍事作戦のために用いられうる同様の 物資である。但し、和平の締結時に還付され、かつ賠償が支払われなけ ればならない。
 次に、1907年ハーグ条約 以下の通りの規定を設けている。
@ 規則46条 家[家族]ノ名誉及権利、個人ノ生命、私有財産並宗教ノ信仰及其 ノ遵行ハ、之ヲ尊重スヘシ。私有財産ハ、之ヲ没収スルコトヲ得ス。
A 52条 現品徴発及課役ハ、占領軍ノ需要ノ為ニスルニ非サレハ、市区町村 又ハ住民ニ対シテ之ヲ要求スルコトヲ得ス。徴発及課役ハ、地方ノ資力 ニ相応シ、且人民ヲシテ其ノ本国ニ対スル作戦動作ニ加ルノ義務ヲ負ハ シメサル性質ノモノタルコトヲ要ス。右徴発及課役ハ、占領地方ニ於ケ ル指揮官ノ許可ヲ得ルニ非サレハ、之ヲ要求スルコトヲ得ス。現品ノ供 給ニ対シテハ、成ルヘク即金ニテ支払ヒ、然ラサレハ領収証ヲ以テ之ヲ 証明スヘク、且成ルヘク速ニ之ニ対スル金額ノ支払ヲ履行スヘキモノト ス。
B 53条 一地方ヲ占領シタル軍ハ、国ノ所有ニ属スル現金、基金及有価証券、 貯蔵兵器、輸送材料、在庫品及糧抹其ノ他総テ作戦動作ニ供スルコトヲ 得ヘキ国有動産ノ外、之ヲ押収スルコトヲ得ス。海上法ニ依リ支配セラ ルル場合ヲ除クノ外、陸上、海上及空中ニ於テ報道ノ伝送又ハ人若ハ物 ノ輸送ノ用ニ供セラルル一切ノ機関、貯蔵兵器其ノ他各種ノ軍需品ハ、 私人ニ属スルモノトイエドモ、之ヲ押収スル事ヲ得。但シ、平和克復ニ 至リ、之ヲ還付シ、且之カ賠償ヲ決定スヘキモノトス。
 こうして、1907年ハーグ規則によれば、占領地の軍の権力は私権を尊重する義務を負い(46条)、略奪は厳禁される(47条)。報道の伝達又は人もしくは物の輸送の用に供される一切の交通機関、貯蔵兵器その他の軍需品は、私人に属する場合であっても押収することができるが、平和回復後に返還及び賠償がなされなければならない(53条第2段)。他方で、占領軍は、占領軍の需要のために現品徴発及び課役を住民に要求することができ、これに対してはなるべく即金で支払うとともに、不可能な場合には領収証を発行し速やかに対価を支払うものとされる(52条)。すなわち、この52条及び53条第2段による徴発・押収は、46条に定められた私権の不可侵の明示的な例外であり、46条を補完するものとして位置づけられる(G.Schwarzenberger, International Law as Applied by International Courts and Tribunals, vol.II, 1968, p.266)。
 このような、ハーグ条約に体現された私権尊重の原則は、前世紀末から今世紀初頭以降、主要国によって受け入れられ広く承認されるようになる。例えば、ギリシャは1830年の独立以来19・20世紀を通して周辺国との占領・被占領の関係を繰返してきた国であるが、ギリシャは慣習法としての1907年ハーグ条約に拘束され(ギリシャは1899年条約は批准したが1907年条約は批准していない)、同国裁判所も、慣習法たるハーグ条約の適用に躊躇してこなかったとされる(G.Tenekides, "L'occupation pour cause de guerre et la recente jurisprudence grecque", 81 Journal de droit international (1954)822, pp.828-831)。テネキデスによれば、違法な私有財産への侵害に対する補償については、ギリシャの裁判所は明示的に金銭賠償を認めている。テネキデスの引用するアテネ控訴裁判所判決によれば、もし戦争の必要上私有財産に損害を与えた場合には、占領国は十分な賠償を払わなければならない(ibid., pp.858-859, fn.72)。
 また、米国は1943年、米国が占領した地域における軍政及び民事管理に関して包括的な行動指針を採択し、その中で、占領地で軍事要員が住民に与えた損害に対して提起される賠償請求の処理についても詳細な規定をおいた。それによると、「賠償請求を迅速に調査、決定するため、軍政長官は彼の管轄地域に一人の士官が監査する損害賠償部を設置しなければなら」ず、その長は同調査部の運営に責任を負う(『米国陸海軍軍政/民事マニュアル 1943年12月22日 FM27−5 NAV50E−3』(竹前栄治・尾崎毅訳、みすず書房、1998年、65頁)。賠償請求の処理手続については、陸軍の場合、「陸軍規則25−90あるいは陸軍規則25−25の規定に基づいて審理される財産の損害、もしくは損失または破壊、個人の傷害または死亡に対する賠償請求のすべては、このような規則及び陸軍規則25−20の規定に従い完全に調査および処理されなければならない」とされた(同、67頁)。
 他ならぬ日本自身、19世紀末に開国し国際社会に参加するようになってからというもの、こうした私権尊重の原則を含む戦時国際法を当然のこととして受け入れてきた。特に、開国後の19世紀末から20世紀にかけては、文明国として欧米列強に伍することを意識して、戦時国際法の厳格な遵守を旨としていた時期である。日清戦争当時帝国海軍学校教授であり、海軍将官の法律顧問でもあった高橋作衛博士は、英文の著書『Cases of International Law during the Chino-Japanese War(日清戦争中の国際法事例)』(1899年)において、日本が日清戦争の際、ヨーロッパ諸国からの影響をも受けつつ、現地徴発について文明的な方法をとるよう努めた旨詳細に記述している。それによると、日本の遼東半島上陸後間もなく発布された徴発規則の基礎にある原則は、「敵国内の平和的住民は、侵攻軍の維持のため又は軍事能力の促進のため不可欠なもの以外の使役を要求されてはならず、また、かかる徴発のもとで人々によりなされた使役は正当に補償されねばならないこと」であった(S. Takahashi, Cases of International Law during the Chino-Japanese War, 1899, p.158)。
 1899年ハーグ条約の成立後となる1904年の日露戦争については、高橋博士(当時、東京帝国大学教授、外務省法律委員会委員)は、日本軍のサハリン占領時に同条約規則の47条から56条までが適用され(S.Takahashi, International Law Applied to the Russo- Japanese War, with the Decisions of the Japanese Prize Courts,1908, p.225 ff)、中国満州地方の占領についても、中立国領土であるための一定の例外を除いては日本はハーグ条約の規則に拘束されるとしている(ibid., pp.250-251)。
 また、今世紀前半の代表的な国際法学者の一人であった立作太郎博士は、「昔時に於て敵國の私有財産が没収し得べきを認められたることあるも、今日に於ては斬の如き説を唱ふる者は無いのである」として、1907年ハーグ条約の規則46条・47条にふれつつ、「私有財産の没収の行はれ得ざるの原則の慣習國際法上有効なることは、今日に於ては疑を容れざる所である」としていた(立作太郎『戦時国際法論』日本評論社、1944年、271頁)。
 このように、戦時における私権尊重の原則は各国により広く認められてきたが、例外としての押収や徴発を受ける際には対価の支払い(又は領収証の発行と事後の還付・補償)が不可欠であること、及びまた、それを受けるのは、財産の所有者たる個人(場合によっては市町村)だということもまた、広く認められてきた(以下、強調筆者)。立博士によれば、取立金及び徴発に関する制限は明確さを欠いていたところ、ハーグ条約によってその制限が明確に規定され、「取立金又は徴發の制度の濫用に因る私人の苦痛を減ぜんとし、特に徴發に関しては、補償を求むるの道を私人又は市町村に確むるの趣旨の規定を設けたるより、取立金及徴發の制度は其奮態を改めたのである」(立前掲書、279頁)。
 フェランは、ハーグ条約52条において領収証の発行が求められていることについて、その目的は、事後に賠償金の支払いを受ける住民の権利を確実にするためであるとしている(G. Ferrand, Des requisitions en matiere de droit international public, 1917,p.207)。シュバルツェンバーガーは徴発について、「完全な支払いがなされなければ、徴発される財産の私的所有者(private owner)は領収証を得る権利を有する」とし(Schwarzenberger,op.cit.,p.273)、違法な徴発は「補償を行う義務を伴い、これには、個々の事例の状況に従い、徴発された財産の所有者に対し原状回復を行う義務を含みうる」としている(ibid., p.282)。
 よって、徴発や押収の場合には、財産の所有者たる個人(ないし法人、場合によって市町村)に事後の還付や損害賠償を受ける権利があることは広く認められていたが、この決定は多くの場合、戦争の終結後、国内的手続(国内裁判所への出訴)によってなされてきた。比較的よく知られた事例としては、1912年にギリシャがトルコ領エピルス島の占領時に行った住民からの徴発をめぐるエピルス事件判決がある。住民がギリシャ政府を相手取り、徴発に対する損害賠償を求めたのに対し、アテネ控訴裁判所は、ギリシャ法の適用により請求が排除されると主張したギリシャの主張を退け、軍事占領の事実は占領国の法を占領地に及ぼすものではないとした。そして、国際法はギリシャ法の一部をなすという一般原則に則り、「私有財産の不可侵を認める国際法の原則すなわちハーグ第4条約[1907年のハーグ条約をさす]附属ハーグ規則46条及び53条に体現されている原則が適用されるべきである」として、ギリシャ政府を敗訴させ住民の請求を認めたのである(Requisitions in Epirus Case, A.McNair and H.Lauterpacht eds., Annual Digest of Public International Law Cases, Years 1925-1926,1929, pp.481-482)。
 このように国を直接に相手取った訴えのほかにも、押収や徴発に関するハーグ規則に交戦国が違反し、その結果、財産の所有者である私人への財産の還付や賠償を認めた国内裁判所の判例は、本稿ですでにみたように非常に多く存在している。
 こうして、国際人道法においてはすでに早期から、私権の尊重の原則が確立し、ハーグ条約によってさらに明確にその範囲や制限が明らかにされた。そこでは、徴発の際の領収証の発行や賠償において、財産の所有者個人を直接に権利主体とした扱いが広く承認されている。そして、これらの賠償の支払いの決定は、各国の国内裁判所において、現に頻繁に行われてきているのである。
 3 ハーグ条約3条の意義
(1) ハーグ条約3条は、附属のハーグ規則を受けて、「前記規則ノ条項ニ 違反シタル交戦当事者ハ、損害アルトキハ、之ガ賠償ノ責ヲ負フベキモノトス。交戦当事者ハ、其ノ軍隊ヲ組織スル人員ノ一切ノ行為ニツキ責任ヲ負フ」と定める。軍隊構成員による違法行為について国が国際的な責任を負うことは確立された国際法の原則であるが(Ch.Rousseau, Droit international public,1983, p.41)、ハーグ条約3条は交戦当事国が軍隊構成員の「一切の行為につき」責任を負うと無条件に規定し、構成員の資格、過失の存在等の要件なしに構成員のすべての行為の責任を国に負わしめている。
 そして、交戦法規すなわちハーグ規則の違反にあたる軍隊構成員の行為について、国家の責任及び、違反行為に由来する損害に対する金銭賠償を定める(藤田久一『国際人道法(新版)』有信堂、1993年、194頁)。戦勝国が一方的に要求する「償金」と異なり、違法行為による損害の発生を前提とする本来の「損害賠償」といえる規定である(入江啓四郎『国際法上の賠償補償問題』成文堂、1974年、27頁)。

(2) 本件を含む多くの戦後補償裁判における論点は、本条が、ハーグ規則 の違反の被害者たる個人への賠償を含みうるかという点に存する。
 この点について、まず、国際法の中でも国際人道法が、旧くから戦時における私人の権利を確立させてきたという特徴をもち、上にみたように、私権尊重の原則に基づく損害賠償や財産還付という実行が国際社会において綿々と行われてきたことに照らせば、違法行為による損害賠償の相手方は「被害者」であると言わなければならない。 戦時国際法に関する浩瀚な著書を多く残した前掲のフランスの国際法学者メリニヤックが、国内法における不法行為の損害賠償義務を想起しつつ、先に引用したようにハーグ条約3条について「原則として、訴えを起こす唯一の資格を有しているのは、損害を与えた行為の被害者である」(A. Merignhac, loc.cit.,強調筆者、以下同じ)と述べ、同じくフランスの著名な国際法学者フォーシーユも、「陸戦の法規慣例に違反した交戦当事国に対し、その不法行為の被害者に対し賠償する(indemniser les victimes)義務を課した、1907年10月18日のハーグ条約3条の国際責任は、個人の財産に対して加えられた損害と同様、身体に対して加えられた損害にも適用される」と解説している(P. Fauchille, loc.cit.)のは、国際人道法の解釈としてむしろ自然であるともいえよう。

  (3) さらに、条約解釈の補足的手段として、同条の起草過程を検討すれば、 その提案趣旨は本来、被害者個人に賠償を与えることであったことが明らかになる。
 本条は、第2回ハーグ平和会議において、ドイツの代表ギュンデルによって提案されたものであるが、当初のドイツ提案の条文は、以下の通りであった(E.Lemonon, La Seconde Conference de la Paix, La Haye (juin-octobre 1907), 1912, pp.299-300)。
 「第1条 本規則の規定に違反し、中立の者(personnes neutres)に損害を与えた交戦国は、彼らに生じさせた不法行為につき、彼らに賠償する(dedommager ces personnes)義務を負う。当該交戦国は、その軍隊を構成する人員によって行われたすべての行為について責任を負う。生じた損害及び支払われる賠償の決定は、即金による支払いがなされなければ、交戦国がその決定が当面の間軍事行動と両立しないと考える場合には、後日に延期することができる。」
 「第2条 敵対国の者(personne de la Partie adverse)に損害を与えた違反の場合は、賠償(indemnisation)の問題は和平の締結時に解決されるものとする。」
 この提案は、1907年7月31日に初めて会議で検討され、全体としては各国の支持を受けた。但しその際、イギリスやフランス等の代表から指摘されたのは、中立国国民と交戦国国民との間に区別をおいている点が容認できないということであった。そのため、当初のドイツ提案は、第1条の「中立の者」という部分を「いずれかの者(personnes quelconques)」とする修正を加えられた後、最終的に現在の形で採択に至ったのである(ibid.,pp.300-301)。こうしたハーグ条約3条の起草過程については、国際人道法の世界的権威であるオランダのカルスホーヴェン博士がその詳細な研究において明らかにしたところでもある。
 すなわち本条は、ハーグ条約の違反により損害を受けた個人が賠償を得られることを目的として提案され、これに対しては、中立国民と交戦国国民との間で扱いを異にしていた点以外は特に他国の批判はなかった。つまり、本条の提案趣旨は被害者個人に賠償を与えることであり、その基本的な趣旨自体については、他の代表からも疑念は提示されなかったのである(F. Kalshoven, "State Responsibility for Warlike Acts of the Armed Forces", 40 International and Comparative Law Quarterly (1991),pp.827-858)。
 カルスホーヴェン博士が詳細に明らかにしたハーグ条約3条の起草時の趣旨は、オランダ人捕虜による補償請求に関する事案で同博士が鑑定意見書を提出しまた証人として出廷したこと等を通じて、日本の判例においてもすでに一部受け入れられるところとなっている。先にもふれた通り、1998(平成10)年11月30日の東京地裁判決(判タ991号262頁)は、同博士の主張を受けてハーグ条約3条の起草過程を詳細に検討した結果、同条は被害者個人の救済「をも」目的とするものであったことは認められる、と認定するに至っている。

 4 ハーグ条約3条の適用―国際的手法と国内的手法
  (1) こうして、被害者に対する賠償も含める趣旨で違反国に賠償の責任を 課す一方で、ハーグ条約3条は、その履行について一定の手続を定めてはいない。国際法規範の大多数のものがそうであるように、国家に対して義務を課しつつ、義務の具体的な履行方法については、特に定めをおいていない。

  (2) この点について考えるに、ハーグ条約3条の場合、現実には、戦闘行 為が終結し講和条約が締結される際に、国家間で適当な取決めにより処理することが圧倒的に多くなるであろう。
 メリニヤックも認めているように、個人が戦時中に自ら責任追及の手続をとることは現実問題として難しく、それに比して国家が、事後に多数の個人の請求を一括して国家間で交渉すれば、一個人が行うよりははるかに効果的かつ経済的に補償問題を処理しうることになる(Merignhac, loc.cit.)。
 そのように国家間で個人の賠償問題も合わせて戦後処理がなされる場合、それは、国家が個人の請求を取り上げて国家間で交渉するという外交保護権の行使に類似した解決ということになろう(厳密には、外交保護権は、平時において自発的意思で外国に所在・居住している自国民が不当な扱いを受け効果的救済を得られなかった場合に行使される国家の権利であり、戦時において国民が外国軍から被った被害の請求を国家が取り上げるという場合に適合する概念ではない)。
 但し、多くの場合、国家間の賠償の算定は、違法行為に基づく損害の額というよりも、戦勝国が戦争のために被ったすべての損害に対する包括的支払いという形をとり、個人の救済のため十分な額が配分されるとは限らないのが実態である。また、しばしば指摘される問題点として、本条にいう責任は本来、勝敗にかかわらず交戦当事国それぞれが自国の規則違反について負うべきものであるにもかかわらず、戦争終結時の圧倒的な力関係から、事実上、敗戦国の責任のみが追及されてきたことも否定できない(藤田前掲書、194−195頁)。

  (3) ハーグ条約が採択された1907年以降の大規模な戦後処理として、 第一次大戦後のヴェルサイユ条約体制は、ハーグ条約3条が定める「損害賠償」の趣旨を取り込みつつ、国家間の条約で、国民の受けた損害に対する賠償請求のための国際的な手続を設けた例である。戦争の結果、戦勝国が敗戦国に要求する賠償の内容は、伝統的には「償金」(indemnite; indemnity)、すなわち、戦争にかかった戦費の償還であった(例えば、1870−1871年の普仏戦争後のフランクフルト条約。入江前掲書、12頁)。
 日本の例でいえば、日清戦争後の下関条約で清が日本に支払った償金がこれにあたる。これに対し、民間人の被害がかつてなく大規模になった第一次大戦においては、戦後処理にあたり、戦勝国が敗戦国に対し償金を求めるという旧来の戦争賠償の方法に加え、新たに、与えた損害に対する「損害賠償(reparation des dommages; compensation)」という考え方が取り入れられるようになる。それが、第一次大戦後のヴェルサイユ平和条約等の一連の平和条約である。 

(4) 第一次大戦後、ドイツとその同盟国が連合国と締結した平和条約では、 ドイツ及び同盟国は、その侵略によって強いた戦争の結果、「連合国及び協同国政府、並びにその国民が被った一切の損失及び損害」に対して責任があるとされた(ドイツとの間のヴェルサイユ条約231条、及びそれぞれの平和条約の該当規定)。そして、ドイツ等同盟国は、交戦中に陸、海、空からの侵略によって「連合及び協同国の民間人並びにその財産に対して加えられた一切の損害に対して、また一般に本[第8編第1]部への第一附属書に規定されるすべての損害に対して、賠償を行う」ことと定められた(ヴェルサイユ条約232条第2段、及びそれぞれの平和条約の該当規定。第一附属書とは、戦闘行為の直接的結果として、民間人の身体を傷害させた損害、又は、死亡させたときにはその扶養家族に与えた損害(1項)、民間人に対して行った残虐行為、暴力行為、虐待行為(2項)、占領ないし侵略地域における民間人の健康、労働能力、名誉に対する侵害行為(3項)、捕虜の虐待によって引き起こされた損害(4項)、強制労働を課された民間人の受けた損害(8項)、民間人に課した罰金、賦課金その他の強制徴収による損害(10項)等10項目の事項について、ドイツに対し請求できることと定めたものである)。さらに、連合国及び協同国の国民は、戦時中に敵国の領土内にあった各自の財産、権利又は利益につき受けた損害に対し、ドイツ等旧敵国政府を相手取って、条約で設ける混合仲裁裁判所に直接、損害賠償の訴えを提起する権利を認められた(ヴェルサイユ平和条約297条(e)及び他の平和条約の該当規定)。

  (5) ベルサイユ条約等の一連の平和条約でこうした規定が設けられたのは、 第一次大戦が、それまでの戦争と比較できない多大な犠牲を民間人に加えるものであったことによるところが大きい。ドイツがべルギーやフランスで大規模な破壊行為を展開し、民間人の財産にも甚大な被害を与えた事態を受けて、連合国首脳は、すでに1916年頃までには、民間人の 受けた被害に対する損害賠償をドイツに要求する政策を決定していたとされるが、当時のイギリス首相であったロイド・ジョージはこれにつき次のように述べている。「不法行為者によって与えられた損害について賠償(compensation)を支払う責任は...すべての文明化された社会における中核的な法原則の一つである。国家は、この基本的な法原理の適用から免れることはできない」(D.Lloyd George, The Truth about the Peace Treaties, vol.I,1938, pp.436-437)。「賠償は、ヴェルサイユ条約によって発明されたわけではない。...19世紀の初めには、和平条件として支払われた償金が、[略奪などの]粗野で野蛮な方法の代わりになった。...当時は、戦争には現代の戦争のような莫大な金額はかからず、被った被害も、世界大戦で行われた破壊に比較すればわずかなものであった」(ibid., pp.439-440)。「この時までの戦闘の歴史全体の中で、[第一次大戦が]伴った費用及びそれがもたらした破壊の程度と徹底性に比しうるものはなかった。...1916年までには、賠償の問題は、1914年には考えられていなかったほどの大きさをなしてきた(ibid., pp.29-30)。

  (6) ここに明らかにされているように、ヴェルサイユ条約で連合国の国民 への補償を定めたことの根本にあったのは、損害に対する賠償という一般原則であり、ハーグ条約3条の要求している損害賠償そのものといえる法理であった。 フォーシーユは、不法行為に対する損害賠償の原則がヴェルサイユ条約に適用された旨を次のように述べている。
 「戦争損害の被害者である個人は、又は彼らの利益を負っている国家は、損害を引き起こした交戦国に対して、救済を求めることができるのか、またどの範囲でできるのか。また、もし救済手段があるとすれば、その根拠は何か。−衡平に基づき、またいずれにせよすべての国の実定法に定められている争いえない自然法の規則は、『他人に損害を生じさせる人の行為はすべて、その者に対し、それを賠償する義務を負わせる』ということである(フランス民法1328条)。不法行為の観念を含意するこの規則は、個人と同様、共同体にもあてはまる。 ...1914−1918年の世界大戦の終わりの平和条約において中央の帝国[=ドイツ・オーストリア]に課したのは、連合国が上記の考えに示唆を得たことによる。かくして、1919年6月28日のドイツとのヴェルサイユ条約は、ドイツが行った戦争が不正なものであったという原則を述べた後、231条と232条において、ドイツ帝国は『連合国及びその国民が戦争の結果被ったすべての損失及び損害に対して』補償の義務を負うと宣言した...」(Fauchille,op.cit.,pp. 309-310)。
 さらに直截には、ガーナーは、ヴェルサイユ条約における個人補償とハーグ条約3条の関係について、以下のように評価している。
「第2回ハーグ会議は、陸戦の法規慣例に関するハーグ条約の禁止に違反して個人に与えられた損害に対し、個人に賠償する(indemnify individuals)交戦国の義務を確立することによって、民事制裁の一形態を規定した。...この責任は、損害を受けた個人直接にではなく、その本国に対してのものであるようにも見える。...この規定に従って、平和条約はドイツに対し、戦争法の違反によって行われた損害に対してのみでなく、「連合国の民間人とその財産に対して与えられたすべての損害」に対しても賠償(compensation)を要求した。...これは、上記のハーグ条約の規則を執行するための試みがなされた最初の例である」(J.W.,Garner, International Law and the World Order,vol.I,1920, pp.469-470)。

(7) こうしてヴェルサイユ条約により、被害を受けた個人には国際的手続 で賠償を求める道が開かれたが、同時に、各国ではこれに前後して、個人が賠償を得ることを確保するため、ドイツ人財産の清算による賠償への充当等に関する国内法の制定が行われた。
 フォーシーユは、「[第一次大戦の破壊的性格によって]陸海軍のために『賠償を受ける権利』を宣言するだけでは十分でなかった...完全な賠償を確保するためには、侵略又は占領された国において戦争により損害を受けた住民(habitants)に対し、彼ら個人自らに(dans leur personne meme)、救済を求める権利を認めなければならなかった」(強調原文)とし、これはとりわけフランスで、国内法を制定し個人の「権利」を明示して実施されたと述べている(Fauchille, op.cit., pp.312-313)。
 ヴェルサイユ条約における個人への賠償は、従来、個人に国際的な請求手続へのアクセスを認めたという点で注目されることがほとんどであった。しかし、ヴェルサイユ条約は、個人による直接的な請求を条約で認めた一例であるが、それは単に国際的手続の創設という面でのみ評価されるべきものではなく、その基礎として個人の実体的権利及び損害賠償の一般原則があることが忘れられてはならない。
 「損害あるところに賠償あり」という損害賠償の法理がハーグ条約3条の趣旨なのであり、国際的手続が創られて初めて、個人の実体的権利も同時に発生したわけではない。ヴェルサイユ条約は、ハーグ条約3条の趣旨を条約という形で実現させた一つの例であって、あくまでも個人の実体的権利を前提としていたとみるべきである。

(8) なお、第一次大戦後のヴェルサイユ条約体制のほか、第二次大戦後の 多くの諸平和条約においても、民間人の受けた被害について被害者個人への賠償が認められていることも付記すべきであろう。
 第一次世界大戦が初の世界的な全面戦争であったとすれば、第二次大戦はさらにそれを上回る規模の壊滅的な戦争であった。それゆえ、第二次大戦後の平和条約は、全面戦争としての性格、民間人に加えられた前代未聞の被害の大きさを反映して、それまでの条約よりもさらに広い権利を私人に与えている(Rousseau, Le droit des conflits armes, op.cit.,p.518)。すなわち、1947年に、イタリア、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニア、フィンランドと連合国との間に結ばれた平和条約は、それぞれの国(イタリア等)は、その領土内における連合国国民の財産への被害について、同等の財産を購入するのに必要な額の三分の二の賠償を支払う義務を負うと定めた。そしてこれに伴い、連合国各国は国内法で、現金支払い、財産の再建又は代替のための便益などの方法での賠償方式を規定した(A.Fraleigh,"Compensation for War Damages to American Property in Allied Countries", 41 American Journal of International Law 748 (1947), pp.748-749)。

  (9) 日本の場合は、サンフランシスコ平和条約において連合国側が賠償を 放棄し、賠償を求める国は個別に交渉することとされたが、このように政府間で賠償を放棄し、かつ私人への賠償措置も定めないという例は決して通例ではなかったことに注意しなければならない。
 日本は1931年から中国との戦闘を開始し、民間人にも甚大な被害を与えたが、すでに1931年の上海事変に関して、信夫淳平博士が、「支那側及び第三国人の蒙りたる、又は蒙りたると称する、財産損害」につき、先にも一部ふれた通り、次のように論じていたことも銘記されるべきであろう。
 「違法のものであってみれば、賠償の責任が當然之に伴ふことはこれ亦論なき所である。尤も戦時の賠償は妙なもので、必しも加害國が之を行ふべきものとは限らず、勝者は敗者たる敵の政府をして之が賠償の責に當らしむることもある。講和談判に於て戦勝者は戦敗者に向つて多くは償金を課するが、その償金額は戦敗國の私人の財産損害に對する戦勝國の賠償責任額を控除して要求することもある。この場合には、損害賠償は戦敗国の政府がその人民に向つてすればするといふことに結局なるのである。けれども、これは強者が銃剣の鋒先でやる所の特殊の責任転嫁法である。しかも斯かる異例あればとて、違法の行為には必然責任が伴ふといふ根本の原則は動かない」(信夫前掲書、357頁)。
 「1907年の陸戦法規慣例條約第3条には、『前記規則ノ條項ニ違反シタル交戦當事者ハ損害アルトキハ之ガ賠償ノ責ヲ負フベキモノトス。交戦當事者ハ其ノ軍隊ヲ組成スル人員ノ一切ノ行為ニ付責任ヲ負フ』とある。前記規則とは同條約に附属する所の陸戦法規慣例規則を指す。故に損害あるに方りて賠償の責を負ひ、將た交戦國政府がその軍隊の組成員の行為に付責任を負ふのは、専ら陸戦法規慣例規則の規定する諸事項の違反行為である。けれども、その故を以て同規則以外の交戦法規の違反に就ては全然責任を負ふに及ばずして可なりといふ結論を伴ふものではない。凡そ國際法たると国内法たるとを問はず、苟も社會の掟則に違反すれば、之に就て責を負ふべきものたることは総ての場合を通じて一貫する原則である。交戦法規はその陸戦に係ると、海戦に係ると、將た空戦に係るとを問はず、総てその違反者に對して之が責任の負擔を要求する。たゝ゛陸戦法規慣例條約は、その凡例として同條約附属の陸戦法規慣例規則の違反に関し特に責任の帰着を明指したまでゝある」(同、357−358頁)。
 「交戦國の違法行為に由りて損害を受けたと認むる私人は、その交戦が如何なる原因に基して起つたものにもせよ、當然救済を求むるの権利がある。...殊に交戦國の違法行為(が暇にありとして)に因る損害賠償問題に関しては、如何に加害國が獨自の強硬なる見解を執るとした所で、賠償請求権者は不満足と思ふ場合には、自國政府に訴へて之を彼我政府間の外交問題と為し得るの道もある」(同、364頁)。

(10) このように、第一次大戦の民間人の被害とその補償について当時の 政治指導者及び国際法学者が述べ、また第二次大戦の民間人の被害についてもサンフランシスコ条約以外の多くの条約で定められていたように、民間人の身体・財産への被害が甚大となった現代の戦争においては、民間人個人の受けた被害に対する損害賠償は戦後処理のきわめて重要な一環として取り扱われてきた。
 このような取扱いは、現代の戦争において民間人の被害が増大したということのほかに、そもそも、ルソーの思想の系譜を受け継ぐ18世紀末以来の国際人道法の発展において、私権尊重の原則が確固として確立してきたことを前提とするものであることはいうまでもない。
 現代の戦後処理は、ハーグ条約に体現されている私権尊重の原則を踏まえつつ、その侵害に対する損害賠償として、場合に応じ国際的及び国内的手法を重ね用いて対処してきているのである。ヴェルサイユ条約及びそれを受けたフランス国内法のような個人賠償の体制は、決して、それをもって初めて個人の実体的権利をも創設したものとみることはできない。それは、国際法上確立した私権尊重の原則を踏まえ、私権を侵害された個人に救済を受ける権利があることを前提として、その実現の手続として国際的及び国内的手続を設けたものとみるべきである。信夫博士も上に引用した最後の部分で、あくまで被害者個人が救済を受ける権利を前提としつつ、その実現手段として自国政府に訴えて外交問題とする道について述べている。

第5 二国間協定と個人請求権の関係

 1 そこで、次に検討されなければならない重要な論点は、個人が受けた損害に関して、個人の本国と加害国との間で協定が締結されており、そこで一定の解決が図られているかあるいは賠償が放棄されている場合に、個人がなお加害国に対する請求権を主張することができるかということである。

2 従来、日韓請求権協定や日中共同声明等との関係で日本政府がとってきた見解は、自国民が違法行為により損害を被った場合に本国国家が放棄できるのは外交保護権の行使だけであって、被害者個人の一身に専属する権利を消滅させるものではない、というものであった(「いわゆる日韓請求権協定におきまして両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。その意味するところでございますが...これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます」(1991年8月27日参議院予算委員会会議録第3号10頁)。
 しかし昨今の、本件のようないわゆる戦後補償裁判においては、政府は一転して、個人賠償の問題は国家間の協定ですべて解決ずみであるとの見解をとることが多くなった。これに対し、外国政府の側、例えば中国は1995年、日中共同宣言において中国が行った賠償放棄は個人の請求権の放棄を含むものでないとの見解を提示するに至っている。

 3 この点については、国家が外交的に解決を図ったことにより、結果的に被害者個人に十分な救済が与えられた場合を別として、救済が十分でないか、あるいは最初から賠償が放棄されてしまっている場合には、国際人道法で保護されている個人の権利が国家間の協定ですべて消滅したものとみることはできない、というべきである。
 第一に、ハーグ条約は個人の私権尊重を明確に規定し、またその3条は、違法な行為によって被害を受けた個人の救済を重要な目的の一つとして規定されたものであったことに鑑みれば、違反国が3条の趣旨に従った賠償を行わず、救済されない被害がある限り、3条の義務は履行されておらず、個人自らが加害国に請求する等の適当な方法でその履行を求める可能性は排除されないものと考えるべきである。
 ハーグ条約3条は、専ら個人の権利を定めたものとまではいえず、多くの場合は国家間で履行されることを予定したものであるとしても、少なくとも、3条の定める義務の履行が果たされていない限りは、国家と並んで個人にも、適当な手続による賠償賠償請求権が並行して存在すると考えられる。
  国家の権利と個人の権利の並存というこうした「請求権の並行性(Anspruchsparallelitat)」は、最近では、1996年5月13日のドイツ連邦憲法裁判所判決が、戦時中のユダヤ人の強制労働に関する事件をめぐるボン地方裁判所の審査要請に対して出した判断で明らかにしたところでもある。
   それによると、ポーランドの賠償放棄宣言やドイツ・イスラエル間の政府間協定によって個人の国内法上の請求権は消滅せず、個人の請求権は国際法上の請求権と並行して存在し、国家間の解決によって個人の請求権を認める国内手続の設定が妨げられるわけではない(BVersG,2BvL33/93, EuGRZ(1996)407, S.411.広渡清吾「近代主義・戦後補償・法化論」法律時報68巻11号、1997年も参照)。本判決は、国家間の賠償(Reparation)と、個人が求めうる賠償(Entschadigung)とを明確に区別し、国家間協定における賠償の放棄によって個人の請求権まで放棄されうるものではないと判示した。
 第二に、国際人道法違反の被害者の権利に関しては、今日、国際人道法自体が明示的な規定をおいている。1949年のジュネーブ4条約はそれぞれ6/6/6/7条で、保護された者の地位に不利な影響を及ぼしまたそれらの者の権利を制限するような別の特別協定を締結することを禁止している。そして、赤十字国際委員会発行書の注釈はこれらの条項につき、「平和条約の締結にあたっては、当事国は原則として、戦争被害一般に関する問題及び戦争開始に対する責任に関する問題を、適当と考える方法で処理することができる。他方で、当事国は、戦争犯罪人の訴追を控えることや、ジュネーブ諸条約及びこの議定書の規則の違反の被害者が賠償を受ける権利を否定することはできない」(Commentary, p.1055.強調筆者)としているのである。従って、国際人道法の規則の違反に対する賠償請求を放棄することは、現在では、このような国際人道法の明示的な禁止に反するものになっている(M.Sassoli,"State Responsibility for Violations of International Humanitarian Law", 84 International Review of the Red Cross 401(2002), p.419.)

4 日本の判例では、これまで例えば、オランダ人捕虜の損害賠償請求事件における前掲の東京地裁判決は、ハーグ条約3条が個人の救済「をも」目的としていたことは認められる、としつつ、その一方で、個人の請求には外交保護権が「前提とされていたと推測される」、と述べるにとどまっていた。しかし、これを論理的に考えれば、個人の請求は外交保護権を前提とするということはすなわち、外交保護権の行使が国によって放棄されたか現実に不可能な場合、又は外交保護権の行使によっても被害が救済されない場合には、個人が自ら請求できるはずだ、という論理が成り立つともいえる。
 しかし、より最近では、とりわけ、中国政府が上記のような見解を示している日中共同宣言(及び同宣言を確認した日中平和有効条約)をめぐって、それをもって個人の請求権をも放棄したものとはいえないとの見解を明確に示すものも増えてきている。例えば、福岡地方裁判所は、中国人の強制連行・強制労働をめぐる損害賠償請求事件における2002(平成14)年4月26日の判決で、「サンフランシスコ平和条約締結当時、中国は、中国国民が、日本政府に対して、日中戦争において被った損害の賠償を請求し得るとの立場を採っていたこと、また、昭和62年ころから、中国国内では、日本政府に対して上記損害の賠償を行い得るとの見解が支持されるようになり、当時の銭其深首相兼外相は、平成7年3月9日、日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって、個人の賠償請求は含まれず、補償請求は国民の権利であり、政府は干渉すべきでない旨の見解を示したことなどの事情を考慮すると、日中共同声明及び日中平和友好条約により、中国国民固有の損害賠償請求権が、中国政府によって放棄されたかについては、法的にも疑義が残されていたものといわざるを得ない。したがって、原告らの損害賠償請求権が、日中共同声明及び日中平和友好条約により、直ちに放棄されたものと認めることはできない。」としている。
 さらに、東京地裁は、性暴力を受けた中国人女性の損害賠償請求事件における2003(平成15)年4月24日の判決で、上記のドイツ連邦憲法裁判所の見解と実質的に同じ立場にたって、条約によって解決済みとの日本政府の主張を退けている。それによると、「被告[国]は、日中共同声明をもって、被害者個人の我が国に対する損害賠償請求権も放棄されたと主張するが、同声明も、国際法の基本的枠組みのなかで解釈されるべきであって、日中戦争における加害国である我が国に対し、その相手国である中華人民共和国(戦争当時は中華民国)が損害賠償請求、いわゆる『戦争賠償』を放棄したにとどまり、相手国の国民である被害者個人の我が国に対する損害賠償請求、いわゆる『被害賠償』まで放棄したものではない。被害を受けた国民が個人として加害者に対して損害賠償を求めることは、当該国民固有の権利であって、その加害者が被害者の属する国家とは別の国家であったとしても、その属する国家が他の国家との間で締結した条約をもって被害者の相手国に対する損害賠償請求権を放棄させ得るのは、自国民である被害者に自ら損害賠償義務を履行する場合など、その代償措置が講じられているときに限られるべきところ、中華人民共和国においては、日中共同声明を調印することによって、自国民に対して日中戦争に係る被害を自ら賠償することとして、我が国に対する損害賠償請求権を放棄させたという形跡はなく、被告の主張は採用し得ない。」と判示している。この判決では、「この点は、そもそも、我が国においても、例えば、日ソ共同宣言についても、日韓請求権協定についても、政府見解は、国民である被害者の相手国に対する損害賠償請求権まで放棄したものではないとして、これを否定していることからも裏付けられるというべきである。」として、日本政府の解釈の矛盾を指摘していることも重要である。

5 本件細菌戦の事案は、これらの事案と同様に日中共同声明及び日中平和友好条約における賠償放棄が関係してくるものであるが、この点については、上記の東京地裁判決が判示している通り、日中共同声明及び日中平和友好条約で放棄された賠償はあくまで国家間のものであって、被害者たる中国国民の固有の権利まで放棄したものではないとみるのが妥当である。
  そのような見方は、中国政府の見解とも、また、日本政府が従来とってきた見解とも一致し、かつ、現在の国際法の原則とも合致するものである。国家間で賠償が放棄されているとしても、被害者個人の損害が救済されずに残っている限り、個人自らが利用しうる国内的手段によって損害の救済を求めることは何ら妨げられず、国内裁判所がそうした個人の訴えを審理して個人に適切な救済を与えることには、何らの法的な問題も存在しないというべきである。

第6 国際人道法違反の被害者が救済を受ける権利

 1 最後に、本件で損害賠償を求めている被害者は国際人道法に違反する細菌戦によって重大な損害を被った者であることに鑑み、国際人道法違反の被害者が救済を受ける権利をめぐる国際法の展開について言及する。

 2 まず、国際法を含む法によって保護された権利の侵害に対して、個人が国内裁判所に救済を求める権利は、それ自体、第二次大戦後、慣習国際法として確立している。世界人権宣言は第8条で「すべての者は、憲法又は法律によって与えられた基本的権利を侵害する行為に対して、権限のある国内裁判所による実効的な救済を受ける権利を有する。」とし、市民的及び政治的権利に関する国際規約第2条3項、ヨーロッパ人権条約13条などの人権条約も効果的救済に関する規定をおいているが、今日、裁判所へのアクセス権と、それに付随する、効果的救済を受ける権利は、慣習国際法に基づく基本的人権であることが広く認められている(J.Paust, International Law as law of the United States,1996, p.199)

 3 さらに、近年、とりわけ1980年代末から1990年代以降の国際社会では、世界各国における体制変更(中南米諸国における軍制から民政への移行、旧社会主義国の体制崩壊と民主制への移行等)に伴い、過去の人権侵害への対処が問題となってきたことから、重大な人権侵害の被害者が救済を受ける権利について国際法上の原則を集大成する動きが急速に高まった。
   国連人権委員会の下部機関である人権小委員会は1989年、重大人権侵害の被害者の救済に関する問題について特別報告者ファン・ボーヴェンを任命して研究を行わせることとし、1993年には、ファン・ボーヴェンにより、人権及び基本的自由の重大な侵害の被害者が救済を受ける権利についての原則草案が提出された(1996、1997年改訂)。続いて、1998年には、人権小委員会は、ファン・ボーヴェンの原則草案について、国及び非政府団体からのコメント、並びに人権侵害の加害者の不処罰に関する特別報告者ジョワネの作業を考慮に入れて改訂する作業の任にバシオーニを任命した。その結果、2000年に、「国際人権法及び人道法違反の被害者が救済及び補償を受ける権利についての基本原則及びガイドライン」が人権委員会に提出されたが(E/CN.4/2000/62,Annex)、同原則・ガイドラインは、すべての国家は国際人権及び人道法規範を尊重、尊重を確保、執行する義務があり、それには違反の防止、違反の調査、被害者に対する適切な救済が含まれるとするとともに、被害者が補償(原状回復、賠償、サティスファクション及び再発防止(事実の公的開示、遺体の捜索・埋葬、被害者の尊厳を回復する公的宣言、謝罪、国際人権・人道法の訓練や教材における事実の正確な記述のような再発防止策を含む)を受ける権利を明示している。これは、条約ではないものの、各国から寄せられるコメントも取り込みつつ作成されており、この問題に関する現段階の国際法の発展を示す重要な文書である。
   そして、先にもふれたように、国連人権高等弁務官事務所が開催した本原則の検討会議で、赤十字国際委員会代表は、ハーグ条約3条は被害者への賠償を国家に要求するものであるとの立場を明確に発言しているのである(E/CN.4/2003/63,paras.50,118)。

 4 このように、重大な人権侵害の被害者が賠償を受けるべきであるという原則の国際法的な承認は、国際刑事裁判の側面にも影響を与えている。
   1998年に採択された国際刑事裁判所規程は75条で、被害者への賠償に関する諸原則を定めること、裁判所が有罪判決を受けた者に対して被害者への賠償を直接命じられることを定め、手続証拠規則では、被害者が直接に又は代理人を通して賠償を申立てる権利を認めているが、これらは、人権侵害の被害者の権利に関する国連人権委員会での議論を反映して挿入されたものである。
   また、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所の裁判官団は2000年、「被害者の賠償と参加」と題する報告書で、被害者が賠償を受ける権利は国際法上認められる傾向にあり、裁判所の管轄に属する人道に対する罪等の被害者には賠償を受ける権利があると述べ、国際請求委員会のような機構の設置を提言している(Victims' compensation and participation, Letter dated 2 November 2000 from the Secretary-General addressed to the President of the Security Council, Appendix,S/2000/1063)

5 本件事案における被害者は、細菌戦の被害自体は戦時中に発生したものであるが、加害国である日本が何ら被害者の救済を行わないまま数十年も放置し、現在において裁判所に救済を求めているものであるから、その救済は、国際人道法の違反による重大かつ継続的な人権侵害を救済するという観点から、今日の国際法における発展をも考慮に入れてなされるべきである。
  すなわち、当初の細菌戦による被害はさることながら、何ら措置をとることなくそれを放置してきたことによる被害者の苦しみも、合わせて救済の対象とされるべきであり、その具体的な内容は、損害賠償のほか、速やかな謝罪、事実の公的開示等、老齢の被害者にふさわしい適切な内容のものであるべきである。

第7 結び

 本件事案では、国が細菌戦によって国際人道法に違反して被害者に多大な損害を与えたこと自体は原判決でも認められており、その上で、被害者に対する損害賠償の可否が問題とされている。
 この点は以上に検討したとおり、ハーグ条約3条を内容とする慣習国際法を検討する限り、被害者個人が加害国から損害賠償を得ることを妨げる法理は何ら存在しない。
 ハーグ条約3条は、その履行のためにいかなる手続的な可能性も排除しておらず、被害者個人が相手国の裁判所において賠償請求を提起することをも排除していない。
 違反の場合の賠償と責任という条約の要求の実現に重きをおくならば、それが実現されておらず、かつ、将来の外交的解決に期待することも不可能である現在、被害者個人が加害国で権利救済を求めることは、事実上唯一の可能な手段である。
 また、日中共同声明及びこれを確認した日中平和友好条約における国家間での賠償の放棄は、被害者個人が有する固有の損害賠償請求権までを放棄したものとはいえない。
 さらに、国際人道法の違反によって重大な人権侵害を受けた者がその救済を受ける権利を有することは、近年の国際法で広く認められつつあり、とりわけ本件のように、重大な被害を戦後数十年も放置してきたことにより継続的な人権侵害が生じている場合には、それをも含めた被害に対して実効的な救済を与える必要性と正当性はきわめて高いといえる。
 裁判所においては、人権保障の砦たる司法府として、被害者に権利救済を与え、国際人道法の違反状態を解除する判断を下すことが強く求められている。


第4章 国際慣習法の過去の不法行為についての加害国に対する個人請求権に 基づく謝罪及び損害賠償請求権

 1 一審判決は、旧日本軍中央の司令に基づく細菌戦実行の事実を認めたう えで、その被害は「まことに悲惨かつ甚大で旧日本軍の戦闘行為は非人道的なものであった」と述べ、本件細菌戦がジュネーブ・ガス議定書に言う「細菌学的戦争手段の使用」にあたり、被害(国)にはハーグ条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていると解するのが相当と判示した。
 国家責任というからには、国家の法的責任であり、法的責任は何らかの形でこれを現実に果たさなければならない義務を負うということである。

 2 一方、細菌戦による個人個人の被害者は、当然にその手段方法の如何は 別として、加害者に対し責任追及をなし得るというのは、何人も争い難い万国共通の法理である。そして問題は、被害者個人が直接相手方加害国に対して、被害回復、損害賠償等の請求をなし得るかという点にある。

 3 一審判決は、ハーグ条約3条の解釈問題(この問題は別章で論ずる)の 中で、「国際法における伝統的な考え方」として、国際法上の法主体は原則として国家であり、個人に法主体性が認められるのは例外であるといい、現時点においても個人が相手国に損害賠償請求権を認める国際慣習法は成立していないと断じている。

 4 そして、ヴェルサイユ平和条約のように個人の請求権を認めた条約等に よってのみ例外的に個人の法主体性が認められるとするのである。1919年のヴェルサイユ平和条約は、戦勝国の市民被害者に対し、reparation(損害賠償)としてドイツに国家として支払義務を負わせているのであり、これはハーグ条約3条を個人請求権の根拠と解する立場からの影響によるものとも考えられ、当時、条約によるとはいえ第一次大戦後にこのような個人請求権が規定されたということは、国際間での個人の私権が尊重されなければならないという意識が既に高まっていたことの表れともいい得る。

 5 慣習法とは、立法機関の立法を待たずに、社会生活の中で慣行的に行わ れている法をいい、成文法の発達しない時代には、法の大部分は慣習法であった。成文法の発達とともに慣習法の領域は狭められたものの、どのような成文法も完全無欠なものではあり得ない以上、成文法と並んで慣習法の存立する余地はなくならないし、その重要性も決して減退するものではない。
 ところで国際法の分野は、言うまでもなく成文法の不完全な領域に属する。したがって国際法においては慣習法が特別に重要な重みを持っていると言わなければならない。むしろ国際社会における秩序に積極的に従おうとする平和愛好国にあっては、国際慣習法に対して常にその成立に前向きの姿勢を以て臨むべきである。
 したがって国際法領域の良き慣行や国連機関の決議等の積み重ねがあれば、それが正義・公平の原理に沿うものである限り、それらの慣行や決議等を肯定的に扱うべきであって、いやしくもこれらの権威づけに消極的な姿勢を示すことは許されない。
 実際、国際社会は日本政府に対し、度々、戦時中日本軍隊の行った非人道行為に対する謝罪と賠償を求める声を発している。日本は、このような国際社会の要求に従おうとしないのであるが、この点で日本は正に孤立状態に陥っているのである。孤立しているということは、言い換えれば国際慣習に逆らっているということである。

 6 また、1952年のサンフランシスコ条約を援用して日本の賠償責任を 否定する判決例もあるので、以下この点について検討する。
 これまで述べてきた我々の見解に立てば、この判決が不当であることは明らかである。更に言えば、同条約14条(b)項は、同条約26条の、「日本国が、いずれかの国との間でこの条約で定めるところよりも大きな利益をその国に与える平和処理又は戦争請求権処理を行ったときは、これと同一の利益は、この条約の当事国にも及ぼさなければならない。」との規定により既に修正され、連合国の「国民」の請求権は放棄されないことになったと解される。何となれば、その後に結ばれた日本国と中華人民共和国との共同声明(1972年)及び同国との平和友好条約(1978年)では、国民の請求権までは放棄されておらず、この声明と条約は、日本の相手国にとって、サンフランシスコ条約より有利だからである。(中国の銭其?外相が1995年の全人代で、中国が放棄したのは国家間の賠償であって、個人の賠償請求は含まれないと述べたことは、既に述べた)。サンフランシスコ条約が「連合国及びその国民の……請求権を放棄する。」とし、わざわざ、「国民の請求権」と記したのは、本来国民個人に請求権があることを認めたものにほかならない
 このように現在では、個人に対する国際法領域での賠償が慣習法化していることが十分認められるのである。

 7 国際慣習法は、対象となる行為が行われた時期において既に成立してい る慣習法の場合であれば、問題なく適用される。
 控訴人らは、ハーグ条約が締結された当時既に個人に対する国際賠償義務が、私権尊重の思想普及に伴い、慣習法化されていたことを主張するものである。さらに控訴人らは、仮にそこまで慣習法化が及んでいなかったとしても、ハーグ条約によって個人に対する国際賠償義務が創設されたことを主張すると同時に、仮に同条約は個人への賠償義務を確認又は創設したものではないとの立場に立つとしても、遅くとも本件細菌戦の実施時点では既に同義務が国際慣習法化していたと見るべきものと考えるものである。
 仮に本件細菌戦の実施当時において、個人賠償が慣習法化していなかったとしても、現在は慣習法化していることについては疑いない。被控訴人は、国際法をあくまで国と国との間の法であるとの古典的な扱いをしており、そこから一歩も出ない頑なな解釈に固執している。しかし現在では、人々は自己の属する国を通してしか国際的な行動、国際的な権利主張ができないなどという考えは通用しない。個人は国際人として外国人や外国政府に対し、自由にものをいうことができるし、法的義務の履行を請求できる。
 自国が外交保護権を行使してくれないかぎり何も出来ないなどという窮屈な立場に閉じ込められているとは到底考えられない。自国政府を乗り越えて私権を行使できる筈である。
 要するに、被控訴人の国際法理論は時代遅れであり、そのような立場をとらねばならない特別な、あるいは合理的な理由はどこにも見い出せない。

 8 このように、条約等による場合以外の個人の被害の賠償は、すべて被害 者の属する国の外交保護権によるか、または加害国の国内法の立法によらなければ実現できないという判決の説は、少なくとも現在では通用するとは考えられない。その数の多寡はともかく、現に1997年のギリシア・レイバディア地方裁判所の判決のような例もあり、またカナダ政府のように立法を経ずして、日系人に対する強制収容の責任を個人賠償した例も存在するのであって、これらは、正義の実現という普遍的な認識に基づく当然の確信のもとに行われたのである。

 9 また、立法そのものも、本来個人には内国外国を問わず、国家に対して は賠償請求する権利が無いという過去の原則を肯定した上で、これを例外的に排除して個人を救済しようという個々的な要請ごとに行われた立法であるとは到底考えられない。むしろ、時代が既に世界的にそこまで来ているという普遍認識に順応しようとして立法が行われたと考えるべきである。

 10 わが国の国家賠償法が、敗戦後いち早く国家無答責という不合理な制度 を廃止し、相互主義を原則としながらも外国人に対しても賠償請求権を認めたとしたものであって、決して例外的な特別措置として行われた立法ではない。そしてこの相互主義の原則も、現実的な捉え方としては、決して狭く限定されるいわれはなく、仮に相手国に同様の立法が無いからといって、わが国の公務員の不法行為が無答責で許される筈もないと考えられる。PKOのもとに派遣された日本の自衛隊員が車両事故によってカンボジアの国民に与えた損害を、国として賠償したのも、同法によるせよ、一種の地位協定によるにせよ、極めて当然の措置として万人が認める正義公平の原理に沿うものだからである。

 11 ドイツ連邦共和国は、2000年7月法律によって「記憶・責任・未 来」基金を設立した。これは、ドイツ国家のモラルとして、ナチス犯罪や強制労働の責任をこれ以上放置することはできず、それは正に「国益」に反するというドイツ国民と政府の深刻な反省に根ざして成立したものである。日本政府の「国益」の捉え方の姑息な姿勢と比べ、忸怩たらざるを得ない。同基金も立法によって加害者個人に対する賠償を実現する制度には違いないが、その基にある賠償責任そのものは、決して「立法」によってはじめて生じたものではなく、国及び企業の賠償責任を果たすための額と分担割合を定め、賠償金支払いのための組織活動の方法等を規定したのである。したがって、この基金が設けられるまでは個々人の請求権が発生していないといういことではない。このことについて、個人には相手国に対する請求権は無いとの「伝統的」国際法をかろうじて立法によって潜り抜けた一例に過ぎないなどという説明をすることは到底不可能である。

 12 1999年8月26日ジュネーブにおける国連小委員会は、マクドゥー ガル報告を受けて、武力斗争下での性暴力、性奴隷類似慣行に関してではあるが、17項目から成る決議案を採択した。
 一審における主張でも述べたが、国連小委員会が採決した同決議案は、その第4項目で「国家は『自国の軍隊構成員が行ったすべての行為に責任を有する』とし、侵害について『損害が生じた場合には、賠償を支払う義務がある』と述べた1907年の陸戦の法規慣例に関するハーグ第4条約の条項は慣習法であったと認め」といい、また第13項目で、「この決議で言及された被害に関して、国家と個人の、権利や責務は、国際法の問題としては、平和条約、平和協定、恩赦、その他の如何なる手段によっても消すことができないことに留意し」と述べている。そして、同小委員会のみならず、幾多の国際機関がいずれも日本政府に対し、被害者(これらの場合は「従軍慰安婦」に対してであるが)への謝罪と賠償を強く勧告しているのである。
 「国連中心外交」を建前とする日本政府がこれら国連勧告を無視してはばからないのは、不思議というほかない。日本は国際連合の権威ある決議案として、これを尊重すべきである。

 13 仮に、個人請求を認めるには立法によらなければならないとの前提に立 ったとして、「立法不作為」の是非を論ずるにあたり、一審判決は、それが法として制定されるためには、「政治的、外交的、社会的、財政的その他の見地からの総合的配慮に基づき、かつ様々な紆余曲折を経て」はじめてそれが実現するのだという(27頁)。しかし、立法によるにしても行政として実行するにしても、個人に対する回復措置は、立法さるべくして立法され、実施さるべくして実施されなければならないのである。「総合的配慮」や「紆余曲折」を経ようともその結論を導く絶対的な基準が存在するからこそ、それに沿うのが正しいからこそ、実施されるのである。その基準とは、国際的、国内的に認識を共有するに至っている正義公平の原則にほかならない。
 本件のように、被害の態様、程度が極端に深刻、重大で、これを加害国が放置して何らの回復措置もとらずに時を徒過することが人道に背き著しく正義に反するという認識に立てば、加害国がその為の行政措置や立法を怠り、また立法がないことを理由に司法が行政措置を命じる判決を怠ったりすることは、もはや許されないのである。三権がこぞって「不作為」を決め込んでいる現状は、国際社会の指弾を受けるに値する。

 14 数十年前の過去に犯した加害行為につき加害者が被害者に対して賠償義 務を果たすという慣習乃至慣習法が現時点で認められているかについて、控訴人らは、一審においても、前記のような国際機関による決議や勧告の存在、ドイツの例、アメリカ、カナダの日系人賠償等の例をあげ、これら過去の不法行為を現時点で償う事例が普遍化しつつある旨を主張した。このような国際的慣行が認められるのは、前述のように各国際機関、国際世論が日本の責任を追及しつづけている現状を見れば、このままでは、真の意味での過去の精算による正義の実現が図れないからである。慣習や慣習法は事例や判決の積み重ねによって成立するが、前述したように、正義の実現のための、良き事例、判決は積み上げるために重ねるべきで、これを崩す方への判決は慎むべきである。
 国際人道法的な普遍的な正義・公平の原則は、すべての国が現にそれを実現し、または実現すべく努力しているのであり、日本がその趨勢から取り残されているという現実を直視しなければならない。条約や立法がない限り、何もせずに済むといった時代ではないのである。
 国際法上個人請求権が認められるという現在時点で成立している国際慣習法が、直接に、本件細菌戦のような被控訴人の非人道的な戦争犯罪行為に対して適用されない筈はない。

 15 本件は数十年前の過去の行為を審理の対象とするものであるが、仮にこ れを今更対象とすることに対し、その障害となる制度があるとすれば、それは時効と除斥期間のみである。これらについては別章で論ずるところであるが、本件のような人道にもとる重大な犯罪について加害国が自ら制定した自己に有利な国内法を用いて自己の責任を免れるなどということは正義・公平の原則に反するから、時効・除斥期間の適用は許されない。
 そうだとすれば、もはや過去の行為を直接訴訟の対象とするについて何の障害もない。個人が相手国を直接訴えるということを許さないという過去の国際法が、過去の不法行為の当時には生きていたとしても、それは国際法上の手続面で許されないというに過ぎないのであって、冒頭に述べたとおり、加害者が誰であれ、これに対する個人の請求権そのものが実体的に存在しなかったという訳ではない。
 われわれは現在の裁判所において現在の手続で訴訟を遂行しているのであって、現在に通用する個人請求権に基づいて過去の不法行為が改めて裁かれているのである。

第5章 中国民法にもとづく謝罪及び損害賠償請求

第1 法例第11条1項が適用されないとの認定をした原判決の誤り

 1 原判決の誤り
  (1) まず原判決は、「国が違法な公権力の行使によって他人に損害を与 えたという法律関係は、行為地が外国であり、また被害者が外国籍又は外国に住所を有する者であって渉外的要素を有しているとしても、法例が対象としている渉外的私法関係には当たらないと解するのが相当である。そうすると、公権力の行使を原因とする国の損害賠償責任の問題は、法例の対象にはならないから、法例11条1項の「不法行為」という単位法律関係には当たらず、同条項の適用を受けるものではない。」(原判決21頁)として、国家賠償法が適用される事件は公法事件であり私法は適用されないので、国際私法も適用されず、外国法が適用されることはないとする。
 次に原判決は、「被告(国)が違法な公権力の行使により他人に損害を与えた場合の法律関係は、被害者から見れば、受けた被害の回復の必要性において対等当事者間の不法行為の場合と変わりはないが、加害者である被告から見れば、公権力行使が違法かどうかが大きな問題となり、その点が国家主権の在り方にも影響を及ぼすものである。
 このように、被告(国)の公権力の行使に起因する損害賠償責任に係る法律関係は、被害者の救済、損害の公平な分担という効果の面では法例11条1項の不法行為と同様の性格のものといえるが、我が国の公権力行使の適法違法(適否)が問題になる成立要件の面では異質な要素があり、この点で、このような法律関係は対等当事者間の純然たる私法関係とは異なり、公法的要素を含むものといわなければならない。」(原判決20頁)として、違法な公権力の行使によって生じた法律関係は、被害者の救済、損害の公平な分担という効果の面では法例11条1項の不法行為と同様の性格のものとしながら、原因行為の公法的色彩を云々する。

  (2) しかし、この判示は、国際私法に対する理解に欠ける。国際私法は、 実質法とは次元を異にする、異なった法体系であり、実質私法上の解釈によって国際私法の解釈が規定され、その結果として実質法の解釈が国際私法上の法性決定を左右するという考えは、誤りである。特に、数多くの法体系の中の1つにすぎない日本の実質法によって、国際私法の解釈が決定されるのは、誤りである。
 確かに、実質私法の解釈と国際私法の解釈が同一となることは多い。しかし、それは結果論であり、国際私法上の法性決定は、あくまでも国際私法独自の見地からなされるべきものである。

  (3) 例えば、氏の決定において、公法である戸籍法が国際私法によって 適用されることがある。
 婚姻によって夫婦の氏がどうなるかという問題については、各国実質法上、夫婦同姓と夫婦別姓制度がある。そして、日本法は、夫婦同姓を採用している。
 婚姻によって夫婦の姓がどうなるかについては、国際私法理論上、氏は個人の人格の問題であるとしてその属人法によるべきであるとする説と、婚姻の効力であるとして婚姻の効果を規律する法によるとする説とが存在しているが、いずれにせよ、日本人が外国人と婚姻して夫婦の常居所が日本にある場合には、日本人の氏については日本法が適用されるはずであり(婚姻の効力については法例14条)、従って日本民法が適用され、夫婦は同姓となるべきであるところ、日本戸籍法は日本人と外国人との婚姻においては当該日本人の氏は変わらないこととしており、したがって戸籍法上は夫婦別姓となることとなっている。
 これは、「戸籍法は公法であるから戸籍法が関わる分野には国際私法が適用されない」結果ではなく、国際私法により準拠法を決定しつつも、さらに一方当事者が日本国籍を有するという点を連結点として、特別に戸籍法が適用される結果なのである。
 このように、実際に、公法が関わる分野についても国際私法が適用されることは、十分にあり得る。

  (4) また、公法であるからといって、即、国際私法によって指定される 準拠法とならないわけではないと考えられている。現代では、いわゆる公法の私法化・私法の公法化が進み、そもそも公法と私法の区分が相対化しており、例えば労働法の分野等については、国際私法を適用しつつ、必要な範囲において、各種の連結理論を用いることにより、本来は準拠法とはならない法律をも適用するという手法を用いているのである。

  (5) 以上に見たとおり、日本の実質法上行政法とされる分野についても、 国際私法上当然に行政法であり、国際私法の適用範囲外であるとされるものではない。

2 公務員の権力行為に際して他人に与えた損害の賠償責任の法的性格   (1) 権力作用そのものが公法上の行為であり、公法の妥当する分野の問 題であったとしても、その権力作用によって他人の権利を侵害したときに、その他人の受けた損害を回復するための損害賠償の問題が公法の分野の問題か私法の分野の問題であるかは、また別論である。
 ここで大事なのは原因行為の問題ではなく、被害にあったのが私益であり、その賠償という極めて私法的色彩こそが問題となっている場面だということである。原因行為の公法的色彩故に、国際私法上の問題として法例の適用を排除すべき理由は全くないのであり、原判決の立場には全く理由がないものといわなければならない。
 戦前において、美濃部達吉博士は、「賠償義務ハ其ノ行為ノ直接ノ効果ニ非スシテ其ノ行為ノ結果ニ基キテ生スル第二次ノ効果タリ、随テ仮令其ノ原因タル不法行為カ公法上ノ行為タリトスルモ之カ為ニ当然ニ之ヲ公法的ノ関係ナリト曰フヲ得ス。而シテ個人ノ求償権ハ専ラ個人ノ私益ノ為ニ認メラレ、其ノ法律上ノ性質ニ於テ個人相互間ニ於ケル損害賠償ト全然同様ナルモノナルヲ以テ、之ヲ私法関係ト看做スヘキハ当然ナルヘシ」(美濃部達吉「日本行政法上巻」918頁)と、原因たる不法行為が公法上の行為であっても、その損害賠償関係は、私法関係であると、明快に述べておられる。

  (2) この問題は、戦後国家賠償法の制定によって、国賠法の性格如何と して論じられるようになった。
 国家賠償法は、公権力の行使について国・公共団体(以下「国等」という。)の責任を認めた法律であるので、行政法の1つであるとされている。
 たしかに、その意味においては行政法である。しかし、この法律は、国等の使用者責任について民法の適用を排除するものとしており、使用者責任においては民法の特別法である。私法の特別法であるのであるから、国家賠償法が本質においては私法たる性質を根本において有することは明らかである。
 行政法たる性質を一面においては有するとはいえ、根本においては私法たる性質を有する国家賠償法が適用されるべき場面は、根本においては私法が適用される領域であり、国際私法により準拠法が決定され、その準拠法が適用されることになるのは、当然である。
 このことは、コモンロー体系を考えれば、より明らかとなる。すなわち、コモンローにおいては、公務員の違法な行為はもはや公務の範疇には入らないものとされ、当該公務員が個人として不法行為責任を負うものとされている。このことからも、公務員が違法な行為を行った場合は、本質的には私法の不法行為の領域であり、ただ日本においては国等の責任を認めた特別法が存在しているため、行政法たる性質をも併せ持っているにすぎないのである。
 日本においても、裁判所が付する事件番号は、国家賠償請求事件は通常の私法上の事件と同様に、第1審においては(ワ)である。これは、裁判所自体も国家賠償請求事件を行政事件とは異なり、一般の私法上の訴訟と同様に扱っていることを示すものである。

  (3) この点について、有力な学説は一致して国賠法が私法に属すること
を認めて、次のように説明している。
 「国家や公共団体に対して不法行為による損害賠償請求の訴訟は、それが公権力の行使に起因し、国家賠償に基づく場合も、なお民事訴訟の性質を有し公法上の当事者訴訟ではない。行政行為の効果とは直接の関係はなく、私益の保護が問題となるに止まるからである」(雄川一郎「行政争訟法」法律学全集113頁)。
 「国の責任には、従来とは全く異なった角度から、その特殊性を見いだすことができる」「けれども、それは、一般不法行為理論の発展の中で見いだされる特殊性なのであって、公法に特有の責任理論と見るべきではない。従って、国家賠償法も、私法制度の中で、民法の特別法の地位にあるものと認むべく」(今村成和「国家補償法」法律学全集89頁)。
 「国家賠償責任は、伝統的に民事法の領域に属する。公務員の職務違反がたとえ国家の公法的または私法的な活動領域で行われているとしても、そのことに変わりはない。それは歴史的に公務員関係を私法的な委任関係と見る理論が起点にあるからである」(山内惟介「渉外判例百選3版」256頁)。
 裁判実務も、同様に私法説を採り、国家賠償請求事件を通常の民事訴訟事件としている。裁判例として、「国または公共団体が本法に基づき損害賠償責任を負う関係は、実質上、民法上の不法行為により損害を賠償すべき関係と性質を同じくするから、本法に基づく損害賠償請求権は私法上の金銭債権であって、公法上の金銭債権ではなく」(最判昭46・11・30、民集25・8・1389頁)と判示するものがある。
 このように、国家賠償訴訟は、対等の当事者間で損害賠償請求権の存否を争うものであり、その原因となる公法上の行為を争うのではないから、あくまで、私益の保護のためという性格を有し、私法の分野に属するものと考えるべきである。

  (4) 原判決は、「被告(国)の公権力の行使に起因する損害賠償責任の 存否が争いになる場合には、被告の公権力の行使の適否が問題になるが、当該公権力の行使はそれぞれの根拠となる我が国の法律に基づいて行われるものであるのに、その法律関係が法例11条1項によって他国の法律に従って判断されることになれば、ある国の法律では適法とされ他の国の法律では不適法とされる事態もあり得ないわけではない。しかし、このような事態が我が国の法制上予定されているとみることはできない。したがって、公権力の行使の場面は、国家が異なっても互換可能であるとの前提に立つ私法とは性格が異なるというべきである。」(原判決20頁)と述べて、公権力の行使による法律関係は他国の法律の批判にさらされてはならない旨判示する。
 しかし、この点は、法例11条2項により、日本法で違法とされない場合は、不法行為とならないとされており、そうした問題点にも法例は配慮しているのであるから、全く理由がないといわなければならない。
 また、仮に、国家賠償請求の問題が公法的法律関係であるとすると、極めて不合理なことになる。
 すなわち、公法的法律関係であるとすると、公法の属地的適用の原則が妥当することになり、@日本の国家賠償法は、原則として日本における日本の公務員の不法行為にのみ適用されることになるとともに、A外国の公法(国家賠償法)を適用しないということになる。そうすると、たとえば、日本の公務員が外国における公務中に交通事故を起こし、被害者が日本国に対する損害賠償請求訴訟を日本の裁判所に提起したとする。この場合、国家賠償請求の問題が公法上の問題であるとすれば、日本の裁判所は日本の国家賠償法を適用することはできない。なぜなら、事故地は外国であり、@の原則が問題になるからである。また、Aの原則から、当該外国の国家賠償法を適用することもできないことになる。しかしながら、この場合原告からすれば単なる交通事故にすぎず、たまたま加害者が日本の公務中の公務員であったにすぎないのである。このような場合に当該外国法に基づく請求を封じることになる結論は明らかに不当である。国家賠償責任の問題を公法的法律関係と考えるということは、このような不都合な結果を放置せざるを得なくなることを意味しているのである。
 
3 相互保証主義と国家賠償法の性格
 原判決は、「我が国の国家賠償法は、その6条で、外国人が被害者であるときは相互保証があるときに限って同法を適用するとしていて、同法が国家の利害に深く関係していることを示しているといえる。」(原判決21頁)と判示する。
 しかし、相互保証主義をとるということが、ただちに国の利害に直接関係する領域を構成し、民法の領域と異なることになるということには何の根拠もない。例えば、相互保証主義をとる立法例には、特許法25条、実用新案法2条の5第3項、意匠法68条3項、商標法77条3項等があるが、典型的な私法的権利の問題である。
 さらに、国賠法6条は「何人も」と定める憲法17条や憲法前文の国際主義の原則に抵触するのではないかという、有力な違憲論がある(有倉遼吉「逐条国家賠償法解説」25頁)。
 また、国家賠償制度が普及してきた現在の世界において、時代の趨勢として相互保証主義はもはや実際的ではないし、時代遅れではないかという指摘がなされるようになってきているのである。そうした国賠についての相互保証主義の現状を考えるとき、それを持ち出して、民法とは異なる国家の利害を強調するのは、筋違いの議論というべきであろう。
 その上、国賠法4条が「国又は公共団体の損害賠償の責任については、前3条の規定によるの外、民法の規定による。」と定め、国賠法の基本法がほかならぬ民法であることを明記しているのであるから、国賠法が予定する法律関係においても、あくまでその性質は私法関係を基本と考えるべきであり、そうである以上、法例11条にいう不法行為概念は、当然にこうした法律関係をも包摂しているというべきなのである。

4 国際私法の適用
 本件においては、加害者は、国際法に違反し何らの正当な根拠なく、被害者の身体・健康・生命を害する行為を行い、実際にそれらを害したのである。この法律関係は、国際私法上、不法行為と性質決定される。
 不法行為については、法例11条1項により、「原因タル事実の発生シタル地ノ法律」(不法行為地法)が適用される。
 原因事実の発生地という連結点については、その解釈には幅があり得るが、いずれにせよ、本件において日本軍が細菌を散布する等の行為をした地も、被害が発生した地も、いずれも中華民国内であり、かつ中華民国法が実効性を有していた地なのであるから、原因事実の発生地法は、中華民国法である。
 ところで不法行為については、法例11条2項により、日本法が重畳的に適用される。この、日本法が重畳的に適用されるというのは、不法行為というのは公序に関わるものであるので、法廷地の公序を考慮したためであるとされている。すなわち、これは、法廷地において違法であるとされている行為について不法行為ではないとすることは、法廷地の公序に抵触することになり、不適当であるので、法廷地法を重畳的に適用することにしたのである。そして、法例が適用されるということは、法廷地は日本であるので、日本法が重畳的に適用される旨が規定された。
 この法廷地法の重畳適用は、上記のとおり、法廷地の公序を尊重して設けられた規定である。この観点からするならば、ここで適用すべきは、裁判時の法廷地法である。なぜならば、裁判において抵触が問題となる法廷地の公序は、当然、裁判時の公序であり、裁判時の公序と関わるのは、裁判時の法廷地法だからである。
 以上のとおり、法例11条1項適用を否定する原判決は、全く根拠がないものといわなければならない。

5 被控訴人の主張
 これに対し、被控訴人は、「公権力行使を伴う国家賠償という法律関係については、我が国の国家利益が直接反映される法律関係ということができ、国際私法の適用とはならない」と主張する。
 しかし、本件細菌戦に国際私法(法例)が適用されるか否かを検討するに当たっては、何が私的法律関係であり、何が公的法律関係であるのかを抽象的に議論すべきではない。
 本件細菌戦のように法例11条の適用が問題になっているのであれば、同条がどのような法律関係を対象としているのかを考察するとともに、公法の属地的適用の原則がどのような法律関係を対象としているのかを考察すべきであり、両者は表裏の関係にあるということができる。

 6 法例11条が対象とする法律関係
 まず、法例11条がどのような法律関係を対象としているかについて検討する。
 そこで法例11条の立法経緯をみると、同条は、旧法例7条と同趣旨の規定であるため、その立法に際して特に説明がされていない。
 また、旧法例7条の制定過程は明らかとなっていないので、更にさかのぼり、旧民法草案人事編の中に規定されている不法行為の準拠法に関する法例12条3項の制定過程における説明をみると、同条項は、不法行為が単なる私益のためのものではなく、公益のためのものであり、契約と異なり双方の意思によらないで債権を発生させるものであることを考慮して、不法行為地法主義を採用したことが分かる。
 ここで、不法行為による損害賠償請求権が公益のためのものであるというのは、法廷地の公益ではなく、不法行為地の公益を意味している。
 そして、国家賠償責任もまた、個人に損害賠償請求権を与えるという点では、私益に関するものであるが、同時に公権力の行使を慎重ならしめるという点では、公益に関するものといえる。しかし、これは法廷地の公益でも、加害国の公益でもなく、まさに不法行為地の公益に関するものということになる。
このような検討からすれば、問題は、本件細菌戦が法例11条1項の「不法行為」といえるかということであるといえる。
 そこで、各国の実質法を比較法的にみた場合、法例11条1項の「不法行為」とは、「何らかの行為(作為・不作為)があり、他人に損害が起きて、損害賠償責任を負わせるか否かという問題」を意味すると考えることが出来る。とすると、当該行為(作為・不作為)が違法であるか否か、損害の発生との間に因果関係があるか否か、そして損害賠償責任を生ぜしめるか否かは、実質法レベルの問題であるといえる。
 そのため、国際私法は、何らかの行為(作為・不作為)があり、他人に損害が生じて、損害賠償責任を負わせるか否かという問題が発生した場合、それを解決するために、どの国の実質法を適用すべきかを決定することを、その任務とするのであって、行為の違法性、因果関係、そして損害賠償責任の存否を決定するわけではない。
 本件細菌戦では、日本軍による細菌兵器の実戦使用という行為があり、中国人市民に損害が発生したので、日本国に損害賠償責任を負わせるか否かという問題が生じているのである。よって、本件細菌戦は、法例11条1項の「不法行為」の定義に当てはまる。
 したがって、本件細菌戦は、法例11条の適用対象に当たるといえる。

 7 法例11条の適用対象から除外される公法的法律関係
 次に、本件細菌戦のような法律関係が、公法の属地的適用の原則が適用されるべき公法的法律関係であるか否かという観点から検討する。
 公法的法律関係においては、ある法規の場所的適用範囲の決定は、当該法規自体の明文の規定によるが、明文の規定がない場合には、当該法規の趣旨及び目的に照らし、条理によって、場所的適用範囲を決定する。
 上記の条理としては、一般に「公法の属地的適用」の原則が主張されている。ここで、公法の属地的適用の原則とは、公法の適用範囲は、主権の及ぶ範囲に限定され、その問題となった行為が自国の領域内でなされた場合にのみ適用されるべきであり、外国でされた行為には適用されないというものである。
我が国の国家賠償法については、戦前、戦後を通じて、上記のような明文の規定はないから、国家賠償法が公法であるとすると、「公法の属地的適用」の原則によって、場所的適用範囲を決することになる。
 国家賠償法が公法であるとして公法の属地的適用の原則を適用すると、日本の国家賠償法は、原則として日本における日本の公務員の不法行為にのみ適用されることになる。つまり、日本の在外公館の職員が自国民の保護を怠ったり、外国人からの査証の申請を不当に却下した場合、日本の国家賠償法が適用されないことになる。
 そして、公法の属地的適用の原則には、外国の公法を適用しないという意味もあることから、日本の裁判所は、自国の公法の適用範囲を超えた事件について、外国の公法を適用することはできないから、結局のところ、このような事件については、裁判管轄がないことになる。
 さらに、在外公館の職員が自国民の保護を怠ったり、外国人からの査証の申請を不当に却下した場合とは異なり、日本の公務員が外国における行為により、上記のような関係を持たない者に損害が発生した場合、例えば、日本の公務員が外国における公務の執行中に交通事故を起こした場合には、なおさら日本の国家賠償法を適用するわけにはいかないことになる。
 他方、日本に駐在する外国の大使館職員が自国民の保護を怠ったり、日本人からの査証の申請を不当に却下したとする。これは、日本における行為であるが、行為主体が外国の公務員であるから、日本の国家賠償法を適用することはできない。
 しかも、外国公法不適用の原則によるならば、外国の国家賠償に関する規定も適用することはできず、結局のところ、日本の裁判所において損害賠償請求訴訟を提起したとしても、裁判管轄が否定されることになる。
 しかし、以上のような裁判管轄の否定は、妥当とは思われない。
 これらの訴訟で求められているのは、刑罰や行政処分の取消ではなく、単なる金銭賠償にすぎない。このような金銭賠償を命じることは、たとえその準拠法が外国法であっても、日本の裁判所の管轄を否定すべきではない。これは、外国法の適用が必要であり、かつ、それが可能な法律関係であるというべきである。
以上のように、外国法の適用を必要かつ可能とする法律関係であるということは、まさにそれが国際私法の対象である渉外的私法関係であることを意味している。
 すなわち、本件において求められているのは、違法な行政処分の取消や刑罰権の行使ではなく、損害の賠償(金銭賠償など)であるが、これが具体的に認められるべきであるか否かは、実質法レベルの問題である。国際私法の観点からは、かような損害賠償の有無が問題となっている法律関係であることが重要なのである。

 8 国に対する外国法の適用
被控訴人は、「控訴人らの立論を前提とすると、公権力の行使に伴う損害賠償の問題について、法例11条1項が適用され、その結果、不法行為地である当該外国の民法が適用されることに帰着するが、このような結論は、我が国の国家権力の発動の違法性等について、我が国を単なる一私人と見立てた上、他国の私法がこれを裁くことを意味する」と批判する(被控訴人第1準備書面79頁)。
 被控訴人は、外国法の適用を、当該外国の主権の発動と理解して、国家が外国の主権に服することは妥当でないと考えるようである。
 しかしながら、外国法の適用を当該外国の主権の発動と考えるならば、主権独立の原則により、外国法の適用はすべて否定されることになるはずである。
 渉外事件においては、国際的な判決の調和という国際社会全体の利益のために、内外法は平等に適用されるべきであるというのが国際私法の基本である。
 日本の裁判所は、当該法律関係と最も密接な関連を有する法として、いずれの国の法が準拠法になるかを審理すべきであり、たとえそれが外国法であったからといって、その適用が、当該外国国家の主権の発動ということにはならない。
 以上のように、本件細菌戦は、外国法の適用も可能とする渉外的私法関係であり、これを否定すべき公法関係に当たらない。

 9 公務員所属国法説の不適用
 以上のとおり、国際私法が適用されるべき法律関係であるとしても、直ちに国家賠償責任について、法例11条1項により準拠法を決定すべきであるということにはならない。
 一般の不法行為においては、加害者と被害者とは、不法行為の発生によって初めて債権債務関係に入る。このような場合に不法行為地法を適用すれば、加害者にとっては、自己の行動から生じる責任の存否及び範囲を予測することができるし、また被害者にとっても、自己が期待することができる賠償の有無及び範囲を予測することができる。このような予測可能性ないし正当な期待保護の要請を満たすからこそ、一般の不法行為の場合には不法行為地法主義が採用されたのである。
 これに対して、不法行為の発生以前から、加害者と被害者との間に特別な法律関係があり、この法律関係と不法行為との間に密接な関連がある場合には、不法行為についても、むしろこの特別な法律関係を規律する準拠法を適用した方が、両当事者の予測可能性ないし正当な期待保護の要請を満たすことになる。
 例えば、法例11条1項の不法行為地法主義によるならば、外国における日本の公務員の不法行為には、常に当該不法行為地法である外国法が適用され、逆に日本における外国の公務員の不法行為には、つねに日本法が不法行為地法として適用されることになる。
 しかし、公務員の外国における不法行為には、例えば在外公館の職員が自国民の保護を怠ったり、又は外国人からの査証の申請を不当に却下した場合のように、加害者と被害者との間に特別な法律関係がある場合には、不法行為についても、その法律関係を規律する法を適用することが妥当であると思われる。
 この特別な法律関係の準拠法としては、当該公務員の所属する国の法、すなわち公務員所属国法が適用されるべきである。
本件細菌戦においても、控訴人の中国人は中国において日本の公務員に公権力の行使を求めたわけではない。日本軍にとっては公権力の行使であったとしても、控訴人の中国人は日本政府と公法的な関係になかった。
 本件は、被控訴人が細菌兵器の実戦使用をした行為が、当該外国の同意もなく、国際法上の根拠もない不法行為であり、このような場合には、不法行為地法以外に両当事者にとって中立的な法は存在しない。
したがって、本件細菌戦は、公務員所属国法説を適用すべき場合には該当せず、原則どおり法例11条1項が適用されるべきである。
 なお、本件細菌戦では、この不法行為地が中国であるから、結果的に控訴人である中国人に有利な法が準拠法になったかのような印象を与えるかもしれない。しかし、仮にタイやフィリピンにおいて中国の民間人が日本軍から被害を受けたとすれば、両当事者にとって最も中立的な法はタイ法ないしフィリピン法ということになる。

 10 国際私法上の公法・私法の区分に関する被控訴人の誤り
(1) 被控訴人の主張
 公権力行使を伴う国家賠償という法律関係について、これが国際私法の適用されない公法的法律関係に属するとする被控訴人の主張は、「現代の国際私法においては、国家と市民社会とは切り離すことが可能であり、市民社会には特定の国家法を超えた普遍的な価値に基づく私法が妥当しており、これはどこの国でも相互に適用可能なものである」との考えを前提とする。
 そして、「私法の領域では国家利益に直接関係しないことから、一般に法の互換性が高」いが、公法の領域はそうではないとして、「国際私法が対象とする法律関係は、一般に法の互換性が高く、国家の利益に直接関係しない領域に属する法律関係(以下、「私法的法律関係」という。)にとどまるといわなければならない。
 そして、国家の利益が直接反映される法律関係(以下、「公法的法律関係」という。)は、国際私法の関係からは、公法の領域に属するものとして取り扱われることとなり、その対象外におかれるものといわなければならない。」と主張する(被控訴人第1準備書面73ないし74頁)。
 すなわち、被控訴人は、国際私法上の公法、私法の区分は、国家利益との結び付き及びその程度から判断されるという基準を立てる。
国際私法上の公法、私法の区分について被控訴人採用する上記基準は、サヴィニーがこのような見解を表明しているということに基づくものと思われる。

  (2) 被控訴人の基本的誤り
しかし、被控訴人はサヴィニーの国際私法理論を正しく理解していない。
 すなわち、サヴィニーは、被控訴人が主張するような「国家と市民社会とは切り離すことが可能であり、市民社会には特定の国家法を超えた普遍的な価値に基づく私法がある」とは言っていない。
 従来の国際私法論が主権的発想に基づき個々の法規の性質から、その適用範囲を決定するという方法を採用していた。これに対し、サヴィニーは、人や物質の国境を越えた移動が多様かつ活発になるにつれて、内外人の平等原則に基づき、内国法と同様に外国法も適用すべきであり、それによって、いずれの国で裁判がされても同一の結果が得られるという国際的な判決の調和が達成され、国際社会の共通の利益が図られるという発想の下に、より普遍的な法律関係の側から、その本拠を探求するというアプローチを採用しているのである。
 このようなサヴィニーが、国家利益との結び付きの強弱によって私法と公法とを区別するという法規分類学説のような主張をするはずがない。以下で詳しく述べる。

  (3) サヴィニーの国際私法理論
 サヴィニーの『現代ローマ法体系第八巻』を参照すると、サヴィニーは、「実質法は、およそ人類全体にとって同じものではなく、民族および国家により様々である。しかし、これは個々の民族において、一部は普遍人類的な法形成力によるものであり、また一部は民族固有の法形成力によるものである。この実質法の多様性(Mannichfaltigkeit der positiven Rechte)こそが各実質法についてその適用範囲を確定すること、すなわち様々な実質法の相互の境界を定めることの必要性および重要性が生じる理由である。この境界画定によってのみ、ある具体的な法律関係の判断において様々な実質法の間で生じうる抵触をすべて解決することが可能となるのである」と述べている。
 さらにサヴィニーは、「多数の者は、この問題をもっぱら主権独立の原則によって解決しようと」するが、「様々な民族間の相互交流が多様かつ活発となるにつれ、かの主権独立の厳格な原則はもはや維持することができず、むしろこれと対照的な原則に代えるべきことが望ましいと考えられるようになるであろう。法律関係の処理において望ましい相互主義、およびそこから生じる内外人の平等原則がそれである。
 これは、一般に諸民族および個人の共通の利益から求められる。なぜなら、この平等原則により、次のような結果が完全に実現されるに違いないからである。
 すなわち、各国において、外国人が内国人よりも不利な扱いを受けないだけではなく(そこには人の平等的取扱の原則がある)、法抵触の事件において、法律関係も、どの国で判決が言い渡されるかにかかわりなく、同一の判断が期待されるのである」と述べている。

(4) 被控訴人の理解の誤り
 被控訴人は、「国家と市民社会とは切り離すことが可能」であると述べ、あたかも国家と市民社会の切り離しというものがあって、その結果、国際私法が従来の主権的発想から脱却できたかのようにいう。
 しかし、従来の国際私法理論は主権独立の原則から外国法の適用を否定していたが、それでは外国人の権利が無視されることになるため、内外人平等の原則にもとづき、内国法と同様に外国法も適用すべきであり、それによって、いずれの国で裁判がなされても同一の結果が得られるという「国際的な判決の調和」を達成しようとしたのである。
 これは、国際社会の共通の利益によるものであり、サヴィニーは、このような利益共同体を比喩的に「国際法的共同体」と称している。
 このようにサヴィニーは、国際社会の利益のために、内外法の平等を達成しようとし、また内外法の平等達成のために主権的発想からの脱却を主張したのである。そこでは、国家と市民社会の切り離しというようなことは一言も述べられておらず、むしろ内外法平等のために、積極的に主権的発想からの脱却を主張したのである。
 また被控訴人は、「市民社会には特定の国家法を超えた普遍的な価値に基づく私法が妥当しており、これはどこの国でも相互に適用可能なもの」であるというが、サヴィニーは、そうは言っていない。サヴィニーは、むしろ「実質法の多様性」を前提としており、たとえ実質法が国毎に多様であっても、国際私法が「国際法的共同体」の利益のために内外法を平等に適用するのであれば、「国際的な判決の調和」を達成することができると主張したのである。
 さらに被控訴人によると、私法と公法の区別は、法の国家利益との結び付きの強弱によることになり、「一般に法の互換性が高く、国家の利益に直接関係しない領域に属する法律関係」であれば私法であり、「国家の利益が直接反映される法律関係」であれば公法の領域に属するものとして取り扱われることとなるというが、これもサヴィニーの見解と大きくかけ離れている。
 サヴィニーによると、国家利益から切り離すべきであるのは、各国の私法(実質法)ではなくその適用であった。すなわち、サヴィニーは、従来の国際私法理論が主権的発想にもとづき、個々の法規の性質からその適用範囲を決定するという方法を採用していたのに対して、「国際法的共同体」の観念にもとづきより普遍的な法律関係の側から出発してその本拠を探究すべきであるとしたのである。このようなサヴィニーの理論によれば、個々の法規がどのような性質を有するのかは無関係になる。それゆえ、内外法は平等であり外国法の適用も国家の法的義務としたのである。
 これに対して、国家利益との結び付きの強弱によって私法と公法を区別するという被控訴人の主張は、むしろサヴィニーによって退けられた法規分類学説(条例理論)と同じ発想にもとづいているものと評価できる。国家利益との結び付きの強弱は、個々の法規を見なければ分からないことであり、より普遍的に法律関係の側からその本拠を探究しようとするサヴィニーの国際私法理論とは全く相いれない考え方であるといえる。
 また、サヴィニーの国際私法理論を理解するにはサヴィニーの抵触法論が登場した時代的な背景を検討することも重要である。
 当時、フランス革命を契機として、ヨーロッパでは、人や物の移動が極めて活発となり、それに伴い発生する法律問題も渉外的要素を含むものが増大しつつあった。
 しかし、従来の国際私法理論は、多様化する現案と多数の主権国家の独立に対応できるものではなかった。とりわけ、当時のドイツは、プロイセン一般ラント法の地域、フランス法(ナポレオン法典)の地域、普通法(ゲマイネス・レヒト)の地域に分かれ、普通法の地域はさらに様々な変種に分裂していた。
 そこでサヴィニーは、ドイツ国内においてすら各地域の法が分裂し、また諸外国においても、独自の「国家法」が生成しつつあったからこそ、新しい国際私法理論の必要性を感じたのであり、たとえ私法が「国家法」として分裂していても、普遍主義的な国際私法の観点から、法律関係の本拠を探究することによって、個々の事件については、どこの国で裁判がなされても同じ結果が得られるという「国際的な判決の調和」を求めたのである。
 以上のように、被控訴人は、サヴィニーの国際私法理論を正確に理解していない。サヴィニーは、そもそも「市民社会には特定の国家法を超えた普遍的な価値に基づく私法」があるとは述べていなかった。この大前提が崩れるのであれば、国家利益との結び付きの強弱による私法と公法の区別という結論も誤りということになる。

 11 公権力の行使に伴う国家賠償が公法的法律関係であるとして被控訴人が指摘する「根拠」の誤り
(1) 被控訴人の主張
 被控訴人は、上記の公法、私法の区分の基準を前提とした上で、公権 力の行使に伴う国家賠償という法律関係が公法的法律関係(我が国の国家利益が直接反映される法律関係)であるとする根拠として、
@ 国家賠償法の公務員個人への求償権制限、
A 相互保証主義、
B 戦前の国家無答責の原則
の3点を挙げる。
すなわち、被控訴人は、「我が国の国賠法をみても、公務員による公権力の行使を萎縮させないように公務員個人に対し求償できる場合を限定し(同法1条2項)、外国人が被害者である場合は、相互保証のあるときに限って賠償する(同法6条)とし、私法の領域とは異なる特別の法政策が採られている。これらは、国家賠償の問題が国家の利害そのものと深く関係していることの証左である」とし、また、「国の権力的作用について一般私法である民法の適用が否定されるとする当時の法制度をみても、公権力の行使に伴う不法行為については、我が国の法政策上、国家利益が直接反映され、一般私法と異なる領域に属する法律関係として理解されていたことが明らかである」としたうえで、これらを根拠として 「公権力行使に伴う国家賠償という法律関係については、我が国の国家利益が直接反映される法律関係ということができ、国際私法においては、公法の領域に属する法律関係として取り扱われることになり、国際私法の適用対象とはならないと解するのが正当である」と主張する(被控訴人第1準備書面74ないし75頁)。

  (2) 被控訴人の基本的誤り
 しかしながら、被控訴人は、自国の実質法の解釈を前提として、国際私法の適用の有無を議論している点において基本的な誤りを犯している。
 すなわち、国際私法とは、複数の国が関連する法律関係(渉外的法律関係)について、いずれの国の法を適用すべきかを決定するための法律である。国際私法それ自体は、当事者の法律関係を直接規律するのではなく、これを直接規律するいずれかの国の法を指定するための法律であって、適用規範ないし間接規範とも呼ばれる。これに対して、民商法や民事訴訟法など法律関係を直接規律する規範は「実質法」と呼ばれている。この国際私法と実質法とは、全く異なる次元の法律である。
 国際私法の次元において準拠法を決定する際に、実質法を前提として解釈を行うことは誤りである。例えば、準拠法決定の過程において、国家賠償法附則6項を適用し、同項に基づき戦前の日本の実質法が国家無答責を採用していたことを前提に国際私法の不適用とすることは、誤りである。
 また、日本の実質法だけを前提として、法例を解釈しようとすることも誤りである。国際私法は、内外法平等の原則に立っており、日本法と同様に、外国法も適用されるからこそ、その存在意義が認められるのである。
 以上の基本的立場を前提とすると、上記@ないしBが、国際私法の適用を否定する根拠とはなり得ないのである。

 (3) 国家賠償法の公務員個人への求償権制限について
 被控訴人は、国家賠償法が公務員個人への求償権を制限していることを、公権力の行使に伴う国家賠償という法律関係が公法的法律関係である根拠とする。
 しかし、日本の公務員の不法行為について、外国法が準拠法となり、公務員個人への求償権制限が適用されなかったとしても、どれほどの不都合を生じるというのであろうか。公務員個人への求償権制限は、およそいかなる国のいかなる時代の法によっても普遍的に認められなければならないというほどのルールではない。
 たしかに、国際私法を適用し外国法が準拠法となった場合においては、当該国の実質法の立法政策は必ずしも貫徹されるとは限らない。しかし、だからといって外国法の適用を否定したのでは、国際私法は全く無用ということになりかねない。たまたま日本の現行国家賠償法において、公務員個人への求償権制限が規定されているからといって、外国法の適用が排除されると主張するのは、およそ国際私法の基本を無視するものである。

  (4) 相互保証主義について
 被控訴人は、国家賠償法が相互保証主義を採用していることを、公権力の行使に伴う国家賠償という法律関係が公法的法律関係である根拠とする。
また、被控訴人は、比較法的な観点から各国の実質法等を検討したうえで、「諸外国の国家賠償制度を見ても、相互保証主義、行政機関への前置主義等各国独自の国家利益を反映した法制度が採用されていることがうかがわれ、一般の私法と異なる取扱いがされていること及びその結果として一般的な法の互換性が存在しないことが明らかである」として、「法律関係の性質決定として、公権力行使に伴う国家賠償の法律関係は、法例11条にいう「不法行為」概念に包摂されないものといわざるを得ず、本件では、法例11条が適用される余地はないというべきである」と主張する(被控訴人第1準備書面82ないし83頁)。
 しかし、法例11条の「不法行為」の概念は、違法な行為によって他人に損害を与えた者をしてその損害を賠償せしめる制度であって、社会共同生活において生じた損害の公平な分配を目的とするものである(山田鐐一「国際私法」317頁参照)。
 この場合の「損害の公平な分担」の内容は、実質法レベルでは各国によって異なることはもちろんである。それゆえ、過失責任、無過失責任、あるいは責任の免除をも含めた概念であるといえるところ、相互の保証による外国人の国家賠償請求の制限も、誰にどの程度の責任を分担させるのかという損害の公平な分担の一態様であるから、この不法行為概念から外れるものではない。
 国家賠償法における相互保証の規定は、国家に対する外国人の損害賠償請求権を一定の場合において制限するものであり、外国人の権利をいかなる場合に制限するかは、個々の法律の趣旨に基づいて決められるべき実質法上の問題である。外国人の権利を制限したからといって、当該権利が公法上の権利となるものではないのである。
 結局のところ、相互の保証は、外国法が日本国民に対して権利を認めていない限りは、日本においても当該外国の国民に権利を認めないとする立法主義のひとつにすぎないのである。
 したがって、国家賠償法が相互の保証を採用しているということは、公権力の行使に伴う賠償責任の存否が公法的法律関係であることを基礎付ける根拠となるものでない。

  (5) 戦前の国家無答責について
 被控訴人は、戦前において、国家無答責の法理が採用されていたこともまた公権力の行使に伴う国家賠償という法律関係が公法的法律関係である根拠になるとする。
 しかし、そもそも、戦前の国家無答責の法理が普遍的な法理として確立していたわけではないことはすでに詳しく述べたとおりである。
 また、法例11条の「不法行為」概念は、損害賠償責任の否定という国家無答責の法理をも含む広いものであり、実質法における立法政策の問題であり、国際私法の適用・不適用を決定づけるものではない。
(6) まとめ
 いずれにせよ、被控訴人国が指摘する前記@ないしBの点は、すべて実質法レベルの問題であり、そもそも実現しようとしている正義の観念が国際私法上のものとは異なるのであるから、そこでどのような議論がなされようが、あらゆる国のあらゆる時代の法を前提とする国際私法の適用、不適用を左右するものではないのである。

第2 法例11条1項に基づく準拠法の決定

1 本件細菌戦では、日本軍による細菌兵器の実戦使用という行為があり、 中国人市民に損害が発生したので、日本国に損害賠償責任を負わせるか否かという問題が生じているのであり、本件細菌戦は、法例11条1項の「不法行為」の定義に当てはまる。
 したがって、本件細菌戦は、法例11条の適用対象に当たるといえる。

 2 そして、不法行為については、法例11条1項により、「原因タル事実 の発生シタル地ノ法律」(不法行為地法)が適用される。
 原因事実の発生地という連結点については、その解釈には幅があり得るが、いずれにせよ、本件細菌戦において日本軍が細菌を散布する等の行為をした地も、被害が発生した地も、いずれも中華民国内であり、かつ中華民国法が実効性を有していた地なのであるから、原因事実の発生地法は、中華民国法である。

3 よって、本件不法行為時の1940年ないし42年当時の中華民国法 が適用されるべきである。

第3 法例11条2項の適用はない

 1 本件細菌戦は、原判決も認めるように、ジュネーブ・ガス議定書を内容とする国際慣習法に違反した違法行為であった。日本軍も違法性を認識し一貫して秘密裏にこれを準備し実行した。
 本件細菌戦は、被控訴人の適法な公権力行使とはいえず「保護すべき権力作用」にはあたらないことはいうまでもない。したがって日本法においても「不法ならざるとき」ということはできず、法例11条2項の適用はない。

2 法例11条2項は、「前項ノ規定ハ不法行為ニ付テハ外国ニ於テ発生シ タル事実カ日本ノ法律ニ依レハ不法ナラサルトキハ之ヲ適用セス」と規定しているが、本件加害行為は、その態様においても被害の程度においても、歴史上稀有なものであり、あらゆる価値基準からみても到底容認されえない違法行為であることは明らかである。また、加害者の故意があったことに疑いの余地はない。したがって、本件細菌戦が、客観的にも主観的にも、日本法の不法行為に該当するものであり、本件の場合、法例11条2項が適用される余地はない。

3(1) 「国際私法上、不法行為の準拠法については、不法行為に関する法
律が国際私法上のいわゆる公序法であるという理由から、古くは法廷地法主義が唱えられたが、今日最も広く認められている主義は不法行為地法である」(山田鐐一、沢木敬郎編「国際私法講義」青林書院新社150頁)。不法行為地法主義によれば、不法行為の行為者と被害者とがともにその責任や危険を予測ないし評価することができるというメリットがある。また、侵害行為の発生した地が、不法な侵害を防止し、侵害による損害を行為者に賠償せしめることに重大な利害関係を持つべきであるという理由も成り立つ。そうしたところから、不法行為地法が最も合理的であり、実際的であると考えられているのである。しかしながら、わが法例11条2項は、不法行為地法の適用を法廷地法によって制限する折衷主義を採用している。そこで、法廷地法がどの程度干渉するかが解釈上問題となるわけである。この法廷地法の干渉の程度については、立法例も様々であり、法例11条2項の解釈についても、いろいろな解釈論が展開されてきた。しかし、近年は、不法行為に関する準拠法決定の趣旨、目的に照らして合理的に解釈されなければならないとするのが有力な学説の方向である。 
 ここでは、法例11条2項の「不法」の解釈が問題になるのであるが、それについては、これまで、3つの説が主張されてきた。
 第1説は、不法行為の成立要件である@故意・過失、A権利侵害(違法性)、B損害の発生のうち、@の主観的違法性のみを求めるものである。同説は、法例11条2項の「不法」を「不法行為」と解するのは特別の理由もなく行き過ぎであり、文字どおり「不法」と解するときには、不当利得及び事務管理との関係から、これを主観的違法性、すなわち故意・過失と解すべきとする。すなわち、法例11条は3種類の法定債権の原因中、事務管理と不当利得については不法を云々せず、不法行為についてだけ不法につき日本法の干渉を認めているのであるが、この3種類の法定債権は本来の性質上は自己の権利範囲を踰越する不法(客観的違法性)という点では共通しており、不法行為だけさらに故意または過失(主観的違法性)が加重されているという構造をとっているのであるから、ここでの「不法」とは主観的違法性のみを意味すると解するべきとするのである。
 第2説は、右の@とAのみを求めるものである。それは、Bまで要求することになると、例えば、英国の不法行為法においては損害の発生が不法行為の要件になっていないため、英国における不法行為につき我が国で損害賠償請求がなされた場合には、請求棄却となり被害者の救済が図れなくなるし、英国で提訴すれば勝訴し、我が国で提訴すれば敗訴するということになって、被害者救済の可否が国際裁判管轄という手続法に左右されてしまうという不合理があるからである。
 第3説は、法例11条2項の規定の趣旨は法廷地法を累積的に適用するということであるから、不法行為地法の適用の上に法廷地法たる日本法の不法行為の要件をすべて満たすことが必要である、として、右の@、A、Bすべてを要求するものである。そして、この説が従前多数説とされてきた。
 しかしながら、このような解釈に立つならば、そもそも不法行為地法主義を採用した意義は全く失われてしまうことになる。前述のようにこの解釈では被害者救済に欠けてしまうことになるのであるから、不法行為法の基本的指導理念からは認めがたいところである。したがって、不法行為法の理念を尊重した上、折衷主義をとって法廷地法における公序を認めさせようとする法例の趣旨をふまえるならば、第2説が妥当であると解されなければならない。

  (2) 以上の3説のうち、11条2項の「不法」を主観的要件のみに限定 するという第1説の立場に立つならば、本件では行為者に権利侵害について故意があったことは明らかであるから、同条項により被控訴人の賠償責任を否定することはできない。
 また、「不法」を行為の違法性一般をさすものととらえる第2説に立つとしても、本件のような人類史上稀な国際法違反の極悪非道の行為が、客観的に違法であることは明らかである。原判決は、ここで、国家無答責の原則なるものを持ち出すのであるが、国家無答責の原則は、公務員の公権力行使に伴う不法行為について、主体によって特別に責任を負わないということであるから、それは違法性には全く関係のないことであることは明らかであり、責任阻却事由ないし免責事由と考えるべきである。戦前の判例、学説においても、公務員の公権力行使に伴う不法行為が違法性を有することは否定されてはいなかったのである。したがって、第2説に立つ場合も、同条項により被控訴人の賠償責任を否定することはできない。
 更に、百歩譲って、日本法の不法行為法が全面的に累積適用されると解する第3説に立って、法例11条2項により日本民法が累積適用されるとしても、この法廷地法の重畳適用は、法廷地の公序を尊重して設けられた規定であるから、適用されるのは、裁判時の法廷地法であり、国家無答責の原則なるものが適用されるものでないことは、別項で詳述したとおりである。

  (3) 結局、法例11条2項の「不法」をいかに解したとしても、本件の ような場合を「不法ナラサルトキ」ということはできないのであって、中国民法の適用を妨げる理由にはならないのである。

 4 被控訴人は、「法例11条2項により、不法行為の成立について不法行為地法と日本法とが累積的に適用されることとなる。本件細菌戦において控訴人らが主張する旧日本軍人ら公務員の行為は、国家の権力的作用であって、我が国の国賠法施行前においては、国の権力的作用については民法の不法行為法(709条以下)の適用は排除され、国の損害賠償責任は否定されていた(国家無答責の法理)。そして、その後、日本国憲法17条に基づき制定された国賠法附則6項は、「この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。」と定めたから、国賠法施行前の旧日本軍人の行為に関する損害賠償請求は国家無答責の法理により、その法的根拠を欠くものというほかない。」と主張する(被控訴人第1準備書面87頁)。

 5 しかし、前述したとおり、本件細菌戦のような場合を「不法ナラサルトキ」ということはできないのであるから、法例11条2項の適用はなく、中国民法の適用を妨げる理由にはならないのである。

第4 法例11条3項の適用はない

   法例11条3項による民法724条後段の累積適用について検討する。同項の「損害賠償其他ノ処分」の中に時効や除斥の問題が含まれるのかどうかの問題である。

 1 法例11条3項の規定の文言
 法例11条3項の規定による日本法の累積適用が不法行為債権の消滅時効にまでは及ばないのは、法例11条1項が「債権ノ成立及ヒ効力」という文言を使用しているのに対して、同条3項が「損害賠償其他ノ処分」という文言を使用していることをみれば明らかである。
 すなわち、法例11条1項は、不法行為債権の「効力」について、これを不法行為地法によらせると規定している。これによれば、不法行為債権の効力に関する問題は、消滅時効の問題も含めて、すべて不法行為地の実質法が適用されることになる。
 一方、法例11条3項による日本法の累積適用は、「損害賠償其他ノ処分」にまでしか及ばないと規定されているのであるから、その結果、同項は、不法行為の直接的な効力である損害賠償の額及び方法の問題にまでしか及ばないものと解するほかないのである。
 仮に、法例の立法者が日本法の累積適用を不法行為の効力のすべてに及ぼすつもりであったなら、わざわざ2項と3項を分けなかったであろう。例えば、2項において、「前項の規定にかかわらず、日本の法律が認めない不法行為の成立及び効力は認めない」と規定すれば足りたはずである。
 ところが、法例の立法者は、このような規定の仕方をしなかった。そして、11条2項と3項を別個に規定し、さらに3項においては、「損害賠償其他ノ処分」という文言を用いている。このことは、法例11条3項による日本法の累積適用の範囲を不法行為の効力の全体に及ぼす趣旨ではないことを意味しており、通説はこれを当然の前提として立論しているのである。

 2 立法経過からの考察
  (1) 立法経緯
 法例修正案理由書(皆木卜一郎編「再版・法例及国籍法附修正案理由書」29頁)によれば、11条2項の趣旨は、外国の法律によれば不法行為として債権の発生原因となる行為であっても、日本の法律によれば合法の行為であるときは、救済を与える理由がないということにある。また、3項の趣旨は、外国の法律が与える救済と日本の法律が与える救済との間で、その処分方法が異なるときは、日本の法律が認めない救済方法を与える理由がないということにある。これを素直に読めば、時効や除斥期間が含まれていると解することはできない。
 また、法例議事速記録(「法典調査会・法例議事速記録(日本近代立法資料叢書26)」125頁)において、穂積陳重が11条3項の提案理由を述べている。例えば、オランダ法では、名誉毀損の場合に、法廷で被害者に謝罪をするとか、以前に述べたこと、あるいは書いたことが誤りであったと公言することが救済方法として認められているが、たとえ不法行為地がオランダであったとしても、日本において、このような救済方法を認めることはできないとされている。これによると、法例11条3項は、日本法が認めた以外の損害賠償を認めないという趣旨である。
 以上によれば、法例11条3項は損害賠償の方法及び程度にのみ関する規定であり、時効や除斥期間は含まれていないと解するのが合理的な解釈である。

(2) 時効と公序に関する議論
 さらに、法例の立法過程において、時効と公序の関係についてなされた議論も参照すべきである。
 すなわち、寺尾亨が時効と公序の関係について、起草者の意見を質したところ、穂積陳重は、別段の規定を設ける必要なしと回答したのに対して、梅謙次郎は、外国法上の時効期間が日本法上の時効期間よりも長い場合には、その外国法の適用を排除して、日本法を適用すべきであるとする規定を提案した。しかし、この提案は、賛成が少なく、結局は採用されなかった(法例議事速記録192頁以下)。
 その後、大審院大正6年3月17日判決・民録23輯378頁は、準拠外国法が日本法よりも長い消滅時効期間を定めている場合には、国際私法上の公序に反するとして、日本法を適用したが、学説は、一斉にこれを批判し、準拠外国法が定める時効期間が極端に長い場合や、全く消滅時効を認めない場合は、具体的な事件における適用結果を考慮したうえで、法例33条の公序の発動も考えられるが、一般的に時効期間の長短により法例33条を適用すべきではないと主張し(山田鐐一「国際私法」332頁など)、戦後は、これに従った下級審判決も現れている(例えば、徳島地裁昭和44年12月16日判決・判例タイムズ254号209頁)。
 以上の経緯は、法例11条3項による日本法の累積適用に時効・除斥期間の問題が含まれないことを示している。仮に、法例11条3項にいう「損害賠償其他ノ処分」の中に時効・除斥の問題が含まれるとしたなら(そのような解釈は文言上無理であるが)、梅謙次郎の提案は、少なくとも不法行為債権の時効については重複することになる。
 確かに、法例の立法経緯における議論は、第1次的には契約債権の時効に関するものであるが、梅の提案は、契約債権と不法行為債権を区別しておらず、このような重複は指摘されていない。これは、まさしく法例11条3項による日本法の累積適用に時効・除斥の問題が含まれないことを示している。
 また、時効と公序の関係に関する判例は、いずれも契約債権と不法行為債権を区別しないで展開されており、外国法の適用については、単に日本法によった場合と比べて長い時効期間を認める結果になるからといって、その適用が排除されるわけでなく、具体的な事案との関連で法例33条の公序の発動が問題となるにすぎないとしている(なお、国際私法上の公序は、そもそも外国法の適用結果が日本法によった場合と異なることだけを理由とするわけではないから、公序の発動の可能性があるということは、本来は取り上げる必要のない議論である。)。
 ここでも、仮に法例11条3項による日本法の累積適用に時効・除斥の問題が含まれるとしたなら、不法行為債権の時効について、上記の議論は成り立ち得ないことになる。なぜなら、公序の発動以前に、日本法よりも長い時効期間を定めた外国法は、すべて日本法の累積適用により排除されることになるからである。しかし、上記の議論は、そのような事態を完全に否定しているのである。

(3) 法例11条3項に関する学説
 法例11条3項による日本法の累積適用に消滅時効の問題までは含まれないことは、国際私法に関するどの法律文献を見ても明らかである。すなわち、法例11条3項により消滅時効の問題にまで日本法の累積適用が及ぶとしている学説は、過去から現在に至るまで、どのような著書や論文をみても、ひとつとして存在していない。被控訴人国は、各見解の趣旨とするところを誤解しているとしかいいようがない。
 これは、日本の学説が上記の立法経緯を暗黙の前提としているからであろう。
 確かに、これらの学説では、丹念に立法経緯を紹介したり、ドイツの立法草案を検討したものは見当たらない。しかし、それは、法例11条3項の文言から、損害賠償の方法及び額についてのみ日本法を累積適用する趣旨であることがあまりにも明白であるために、改めて立法経緯を紹介するまでもないと考えられたからであろう。

 3 被控訴人の主張
 これに対し、被控訴人は、「法例11条の適用を考えてみても、同条3項の適用により、不法行為の効力について不法行為地法と法廷地法とが累積的に適用される。そして、控訴人らの請求は、その主張に係る不法行為の時から既に20年以上が経過した後にされたものであるから、法廷地法である我が国の民法724条後段によりその請求権が消滅している。」と主張する(被控訴人第1準備書面87頁)。

 4 被控訴人の主張の誤り
 しかし、これは、法例11条3項の解釈を完全に誤った主張であるというべきである。前述のとおり、「損害賠償其他ノ処分」という文言や、立法の経緯から見ても、法例11条3項に時効・除斥期間の問題は含まれておらず、同条1項により不法行為地法だけが適用され、同条3項による日本法の累積適用はないのである。

4 まとめ
 法例11条3項の日本法の累積適用によって控訴人らの損害賠償請求権が認められないとする被控訴人の主張は、完全なる誤りである。控訴人らの損害賠償請求権が、被控訴人のいうように、日本民法の除斥期間の経過によって消滅しているということは考えられない。

第5 中国民法の規定とその適用関係

 上述のとおり、本件に法例11条1項の規定が適用されることが明らかであるので中国民法の規定とその適用関係について論じる。

 1 法例第11条1項により準拠法となる中国法の適用
 本件の不法行為の原因たる事実の発生地は、被控訴人が本件細菌戦という不法行為を行った行動地も、控訴人らが被害にあった結果の発生地も、ともに中国であるので、本件不法行為の原因たる事実の発生地は中国である。
 したがって、本件については、1940年ないし1942年当時の中国の不法行為法が適用されなければならない。

 2 1940年ないし1942年当時、中国において効力を有していた民事 関係法は、1929年11月22日公布、1930年5月5日施行の中華民国民法である。
 その不法行為に関する規定は、第184条から第198条までの15カ条である。その具体的な条文は、控訴人ら第1審の第18準備書面223ページ以下に示した。

 3 このように、中華民国民法184条は一般的権利侵害の場合の賠償責任 を定め、同192条及び194条は他人を死亡させた場合の、また、同193条は身体の安全を侵害した場合の賠償責任を定め、さらに、同195条は加えて、身体、健康、名誉、自由等が侵害された場合の慰謝料、名誉回復措置の責任について定めている。そして、同188条は、以上の各不法行為を基本行為とした使用者責任を定めているのである。

 4 本件における不法行為は、被控訴人国の軍隊がその指揮系統にしたがって遂行した戦争行為であるから、個々の公務員の行為というよりも、被控訴人国そのもののなした行為と見るべきである。そして、いかなる意味でも正当性を有しない歴史的な違法行為(犯罪行為)なのであるから、中華民国民法184条によって、さらに同192条ないし195条によって、被控訴人国は控訴人らに対して損害賠償義務を負わなければならない。
 仮に国そのものとしての行為といえないとしても、少なくとも同188条の使用者責任によって、国は控訴人らに対して損害賠償義務を負うものである。

 5 さらに、中華民国民法の184条1項に言う「損害賠償」は、原状を回 復するための適当な手段を意味し、金銭賠償に限定されず、加害者たる国家に対する謝罪請求も認められる。さらに、本件細菌戦の被害者らは、いわれなき細菌攻撃により健康被害を受けたにもかかわらず、病気になったことで差別されるという名誉侵害の被害をも受けているのであって、195条に定める名誉回復に必要な処分が認められるものである。名誉回復に必要な処分として謝罪請求が認められることは当然である。

 6 中国民法に除斥期間の規定はなく、また控訴人らに時効は完成していない。
  (1) 前述したように、本件控訴人らの賠償請求の時間的な制限について は、法例11条1項により中華民国民法の時効の規定のみが働くことになる。
 中華民国民法は、197条1項で、「不法行為によって生じた損害賠償の請求権は、請求権者が損害及び賠償義務者を知った時から起算して2年間行使しないときは消滅する。不法行為の時から起算して10を経過したときもまた同じである。」と規定しているが、前段(2年)後段(10年)とも除斥期間ではなく時効を定めた規定であると解されている。それは、昭和8年4月に発行された我妻栄著・中華民国法制研究会発行「中華民国民法債権総則」140頁に、「第1項が時効なることは第2項から明らかである。」と明記されている。
 また、日本民法724条後段の20年が除斥期間と解される大きな理由として、通常の債権の消滅時効が10年であるのに対して、724条後段が20年と最大限長期の期間を定めていることがあげられているのであるが、このような理は中華民国民法197条1項の場合には当てはまらない。同法125条は、一般請求権の消滅時効について、「請求権は15年間行使しないことによって消滅する。但し法律に定める期間が、これより短いときは、その規定による。」と、15年を一般債権の消滅時効期間としているのである。同法197条1項後段の期間は、10年であり、一般債権の消滅時効よりもはるかに短いのであるから、これを除斥期間と解する余地はないものというべきである。
 結局、同法197条1項前段の2年の時効は、主観的な権利行使可能時点から進行を始める時効期間であり、後段の10年の時効は、客観的な権利行使可能時点から進行を始める時効期間であると解されているのである。

  (2) 本件控訴人らは、日本による侵略戦争のもとで、日本軍による残虐な侵害行為を受け、50年を超える長期間にわたって肉体的精神的痛苦を受けてきたのであるが、その間中国は日本と交戦状態にあり、戦後も長きにわたって、日本は中国を敵視し国交を断絶してきたため、客観的にも権利行使が不可能な状態が続いてきた。
 1978年にようやく日中平和友好条約が締結されたが、日中共同声明における戦争賠償放棄の問題もあり、中華人民共和国に居住する控訴人らにとって、客観的に権利行使が可能になったのは、早くとも、1995年3月9日の銭其深副首相兼外相の発言があった時点である。同副首相兼外相は、日中共同声明における戦争賠償請求の放棄には「個人の賠償までは含まれない」ことを明らかにし、それによって、ようやく中国に住む控訴人らの請求権の行使がはじめて可能になったわけである。この時点から提訴までは2年余りしか経過しておらず、197条1項後段の時効期間は経過していない。
 さらに、本件に関しては、被控訴人日本国が、自らの行った細菌戦の事実を隠蔽し続けてきたという問題もある。この被控訴人の隠蔽工作によって、控訴人らの権利行使も不可能な状態に放置されてきたのであり、事実が明らかになってきたのが1990年代に入ってからだったのである。そうした意味からも、197条1項後段の時効期間は経過してはいないのである。
 そして、控訴人らは、1995年末から1996年末にかけて、控訴人代理人らと出会うことにより、はじめて、日本国が賠償義務者であること及び賠償請求が可能であることを知ったのである。その時点からはいまだ長い者で7年半しか経過しておらず、197条1項前段の時効期間も経過してはいないわけである。

  (3) なお、時効完成の効果につき、同法144条1項は、「時効が完成 した後は、債務者は給付を拒絶することができる。」と定めている。この条項の意味について、昭和6年11月発行の中華民国法制研究会(代表松本烝治)「中華民国民法総則」250頁は、「本法は消滅時効の効力について独民法の主義を踏襲して抗弁権の発生となせる結果、日本民法の如く消滅時効の効果として権利自体の消滅を生ずるものとなすとは理論上大いに異なることになる。」としており、債権者が時効による消滅を抗弁として提示しない限り権利消滅の判断をすることができないと解されるのである。
 そして、同法148条は、権利の濫用を禁止しているのであり、細菌戦の事実を隠蔽して、控訴人らの提訴を妨害してきた被控訴人が、時効を抗弁として主張することなど到底許されるものではないといわなければならない。

 7 したがって、法例11条1項の適用により、控訴人らは、被控訴人に対 し、中華民国民法第184条、第185条、第188条、第194条に基づき、本件細菌戦による本件各被害につき損害賠償請求権を有する。
 また、細菌戦による損害は、生命身体等への直接的な侵害にとどまらず、現在に至るまで細菌の恐怖は収まらず、また、国が細菌戦の事実を速やかに認めて適切な立法等による被疑者救済を行うことを怠ってきたことにより、現在まで継続して、非常な精神的苦痛、人格権への侵害を受けてきたのであり、この人格権への侵害の重大性は、名誉権への侵害の場合と比肩しうる。
 そして、以上の侵害については、損害賠償のみならず、国の真摯な謝罪があってこそ、初めて慰藉されるものであることは、明白である。
 従って、控訴人らは、損害賠償のみならず、請求の趣旨記載のとおりの謝罪を請求する(中華民国民法第195条)。

第6章 「国家無答責の法理」は、本件細菌戦には適用されない

第1 「国家無答責の法理」の確立は認められない

 1 原判決の判示
 原判決は、「違法な公権力の行使を原因とする国の損害賠償責任の問題には、それが渉外的要素を有するものであっても、法例の規定を介さずに直接我が国の法律(現在においては国家賠償法)が適用されると解するのが相当である。我が国の国家賠償法(昭和22年〔1947年〕10月22日施行)は、附則6項で『この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。』としているから、同法施行前の行為に基づく損害に関する法律関係は同法施行前の法令によって判断すべきことになる。原告らの主張によれば、本件細菌戦は1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)までに実行されたものであるから、本件についても国家賠償法施行前の法令によって判断すべきことになる。」と判示し、国家賠償法施行前の関係法令について、つぎのとおり検討し認定する。
 すなわち、原判決は、「大日本帝国憲法61条は『行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノハ司法裁判所ニ於テ受理スルノ限ニ在ラス』と規定し、行政裁判法(明治23年6月30日公布)16条は『行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス』と規定していた。行政裁判法のこの規定によって、行政裁判所に国家責任訴訟を提起することはできなくなったが、同条は司法裁判所の管轄までを明文で否定したわけではないから、その限りでは、国の賠償責任は司法裁判所により民法その他の法律が認める範囲内で認められる可能性があることになる。
 そこで、司法裁判所における裁判規範となる民法についてみると、明治21年に起草されたボアソナードの民法草案393条は、『主人及ヒ棟梁、工業及ヒ運送ノ起作人又ハ其他ノ者、公ケ及ヒ私ノ管理所ハ彼レ等ノ僕婢、職工、傭員又ハ使用人ニ因リ引起サレタル損害ノ責ニ任スヘクアル、彼レ等ニ委託セラレテアル所ノ職務ノ執行ニ於テ又ハ其効果ニ於テ』と定めていた。ボアソナードによれば、同条は公権力の行使による損害についても国に責任を認める趣旨のものであった。ところが、このボアソナード民法草案393条の国家責任規定は、明治23年4月21日に公布された旧民法財産編(明治23年法律28号。ただし、周知のとおり、この旧民法は施行されないまま廃止された。)373条においては削除され、同条は『主人、親方又ハ工事、運送等ノ営業人若クハ総テノ委託者ハ其雇人、使用人、職工又ハ受任者カ受任ノ職務ヲ行フ為メ又ハ之ヲ行フニ際シテ加ヘタル損害ニ付キ其責ニ任ス』と規定するに至った。この間の経緯について、旧民法の立案過程に参加した井上毅は、旧民法公布の翌年に発表した論文『民法初稿第三七三条ニ対スル意見』で、公権力の行使による権利侵害について損害賠償を認めると行政機関の機能に支障が生じることを理由として、旧民法373条が行政権による公権力の行使に起因する損害賠償責任を否定する趣旨である旨を述べている。
 前記のとおりこの旧民法は施行されず、明治29年、新たに起草された草案に基づき現行民法(第一編から第三編まで)が公布され、明治31年7月16日から施行された。現行民法にも、旧民法と同様、国の公権力の行使により他に与えた損害の賠償責任を定めた規定はなく、この点に関する特別法も制定されなかった。
 この経過によると、旧民法373条から国家責任に関する字句が削除されたことは、少なくとも公権力の行使に基づく国家責任を否定する立法者意思の表れであるとみるのが相当であり、現行民法にもその立法者意思が継承されたといえるから、行政裁判法と旧民法(財産編)とが公布された明治23年の時点で公権力行使についての国家無答責の法理を採用するという基本的法政策が確立したというべきである。
 そして、戦前の大審院判例は、非権力的作用については民法の適用により国の損害賠償責任を認めてきたが、公権力の行使(権力的作用)による損害については一貫して国の賠償責任を否定していた。後者の点については、国家賠償法制定後においても、最高裁判例により確認されているところである(最高裁昭和25年4月11日第三小法廷判決・集民3号225ページ)。」と認定した上で、結論として「このように、戦前においては、公権力の行使による私人の損害については、国の損害賠償責任を認める法律上の根拠がなく、そのことは公権力行使についての国家無答責の法理を採用するという基本的法政策に基づくものであったから、公権力行使が違法であっても被告はこれによる損害の賠償責任を負わないものと解するのが相当である。原告らの主張する本件細菌戦も、国家賠償法制定前の被告の権力的行為であるから、当時の法令に従って、これによる民法709条、710条、711条に基づく損害賠償責任は否定せざるを得ないものというべきである。」(原判決24頁)と判示する。

 2 原判決の誤り
 原判決は、次のような論理から成り立っている。(i) 国家賠償法附則6項にいう「従前の例」とは同法施行前の法令を指す、(ii)大日本帝国憲法61条と行政裁判法16条によれば国の賠償責任は司法裁判所により民法等が認める範囲内で認められる可能性がある、(iii)旧民法373条から国家責任に関する字句が削除されたことは公権力の行使に基づく国家責任を否定する立法者意思の表れであり、現行民法にもそれは継承された、(iv)他方、国の賠償責任を認める法律は制定されなかった、(v)したがって行政裁判法と旧民法が公布された1890年(明治23年)の時点で国家無答責の法理を採用するという基本的法政策が確立した、(vi)それゆえこの法理は民法の損害賠償規定に含まれる実定法理であり、裁判規範として適用できる。
 以上のような実定法説すなわち1890年基本法政策確立説を採用する理由は、一つには、この法理が国賠法附則6項にいう「従前の例」に含まれることを示すためである。判例法理だとすると「従前の例」として扱うことができない可能性が出てくるので、そうした余地を残さないための方策である。二つめの理由は、実定法に根拠があるといえれば、大審院判例の検討という面倒な作業を省略できる点にある。
 しかし、このような実定法説には、次のような疑問を持たざるをえない。
 第一に、立法関係者の指針に過ぎない「基本的法政策」を実定法と同視して裁判規範として適用できるのかという疑問である。現代日本の裁判所は、明瞭な実定法である憲法規範でさえも「プログラムに過ぎない」として裁判規範性を否定しているのであるから、まして不文の「基本的法政策」を裁判規範とみなすことはできない。第二に、ある特定の人物の見解を立法者意思とみなすことができるのかという疑問である。とくに、「明文の規定を設けない」という消極的態度を立法者が選択した場合、通常、対立する多様な見解がまとまらなかった結果だと推測されること、現実に旧民法の立案を担当した法律取調委員会は最終的なまとめにおいて改訂案に対して多様な解釈を示していること、および現行民法の制定過程においても国の賠償責任に関する議論が継続されていることにかんがみれば、井上毅の解説をもって「明治23年の時点で」この法理が確立したというのはきわめて危険である。しかも、井上自身は法律取調委員会のメンバーではなかったのであるから、「旧民法の立案過程に参加した井上毅」という記述は事実誤認の可能性が高く、また同人の見解を立法者の見解と同一視することの根拠が問われざるをえない。第三に、仮に「明治23年の時点で基本的法政策が確立した」としても、それは政府の内部にとどまるものであって、裁判所を含む法制度全体の中で確立していたとはいえないのではないか、という疑問である。実際に、当時の裁判所は立法者意思をまったく忖度することなく判断を下していたし、また学説も立法者意思を援用するような議論を行っていない(もちろん井上毅の見解を用いて自説の正当化を行うような判決や学説は存在していなかった)。要するに、「従前の例」に従っているはずの戦前の判例・学説においては、立法者意思はまったく無視されていたのである。それゆえ、この程度の「確立」をもって「従前の例」とみなすことはできない。

 3 明治23年の時点で、国家の権力的作用についての国家無答責の法理を 採用するという基本的法政策は確立されていない
 以下で、大日本帝国憲法、行政裁判法、裁判所構成法、旧民法、現行民法の制定の経緯とその趣旨を検討し、明治23年の時点で、国家の権力的作用についての国家無答責の法理を採用するという基本的法政策が確立されていなかったことを論ずる。

  (1) 大日本帝国憲法(1889年)の制定
 大日本帝国憲法61条は「行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノハ司法裁判所ニ於テ受理スルノ限ニ在ラス」と定めたが、ここにいう「行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟」は、今日でいう損失補償を念頭に置いたものであった。
 それは、同憲法27条1項が「日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サル丶コトナシ」、第2項が「公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル」と定めていることに対応している。すなわち、財産の収容や公用制限に対して「正当な補償」は保障されず、「法律ノ定ムル所」に委ねられたのである。このため補償は個別法により立法政策的に配慮されるに過ぎないこととされた。

 (2) 行政裁判法(1890年)の制定と立法者意思 ア 行政裁判法の草案段階で、立法者は、第6条で、違法・適法を問わ ずすべての処分に関連する訴訟は行政裁判所で扱うこととし、第7条で、個別法によって国の賠償義務が定められている対象者と処分の変更ないし取消しにより補償の対象者とされている者に限って、行政裁判所での救済を与えることとした。
 ここで注意を要するのは、処分により生じる損害だけが取り扱われているのであって、官吏の違法な活動により生じる損害の問題はまったく度外視されている点である。ここでの規定の対象はあくまでも今日でいう損失補償の問題なのである。
 結局、1890年6月に成立した行政裁判法は、行政処分のうち法律勅令が許容した事件だけを行政裁判所が管轄するものとし、「損害要償ノ訴訟」については、16条で「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス」と規定し、結局、私法上の債権か公法上の債権かを問わずすべての訴訟を行政裁判所の管轄外とした。
 「損害要償ノ訴訟」のすべてを管轄外としたのは、補償額等の算定について行政裁判所が信頼されていなかったからであった(甲502岡田正則教授「鑑定書」9頁参照)。
イ しかし、法典調査会の行政裁判法改正案にもみられるように、その 後も一定の「損害要償ノ訴訟」を行政裁判所で処理させようという方向が追求された。他方、土地収用の損失補償額に関する裁判は民事裁判所で行われていた。
 以上のことから、損害要償の訴訟の排除は行政裁判の本質にかかわるものではないし、行政処分に関わる損害要償の訴訟を民事裁判所が管轄しないとすることも裁判制度の本質にかかわる事柄とは考えられていなかった。
行政裁判法16条は、このように、行政処分に関わる損失補償・損害賠償訴訟および公法上の債権に関する訴訟についての暫定的な裁判管轄配分の規定にすぎなかった。
ウ むしろ行政裁判法16条「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セ ス」の規定は、実体法上は、公権力の行使に違法があった場合に国に損害賠償請求権が成立することを前提としており、行政裁判法16条の存在は、逆に、国家無答責の法理が認められなかったことの表れと考えるべきである。
 もし、真に国家無答責の法理が存在していたのであれば、このような条規の存在は不要であるばかりか、このような規定を設けること自体が立法技術上、不適切である。
 国家無答責の法理が存在し確立していたのであるとすると、実体法上、国家に対する不法行為に基づく損害賠償請求権は存在しないことになる。そうであれば、行政裁判所の構成及び訴訟手続等を定めた行政裁判所法において、敢えて訴訟を受理しない旨を定めるまでもないし、定めることは立法技術上不適切である。
 逆に、実体法上は国家無答責の法理は認められず行政作用においても国が損害賠償責任を負うのであれば、組織法・手続法においてそれに触れ、行政裁判所が受理しない旨を定めることは、何ら不自然ではない。
エ 美濃部達吉は、「違法なる行政作用に因り、又は公物の設置若は保 存に瑕疵あるに因り、第三者の権利を侵害したる場合に於て、国家又は公法人の負うべき損害賠償の責任は、其の原因が行政権の行動に基づくものなることに於て行政事件の性質を有すると共に、専ら被害者の経済上の利益の為にし、民事上の賠償責任と法律上の性質を同じくするものなることに於て民事事件の性質を有す。之を行政裁判所又は民事裁判所の何れの権限に属せしむべきかは立法政策の問題なり。我が国法は総ての損害要償の訴を似て行政裁判所の権限外に置き之を民事事件として民事裁判所の管轄に属せしむ。法律が『行政裁判所は損害要償の訴訟を受理せず』(16条)と曰へるは此の意を示すものなり」(美濃部達吉『行政法撮要』上巻534頁、有斐閣。下線は引用者)と述べ、国家又は公法人の負うべき損害賠償に関しては司法裁判所の管轄とした意味であることを解説している。
 すなわち、美濃部達吉が論述するように、明治憲法61条の「行政官庁ノ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスルノ訴訟ニシテ別ニ法律ヲ以テ定メタル行政裁判所ノ裁判ニ属スヘキモノハ司法裁判所ニ於テ受理スルノ限ニ在ラス」という規定は、別に法律をもって定めた行政裁判所の裁判に属すべきものは、司法裁判所において受理しないことを定めたものであって、ここでは、行政裁判所に属することが法律で定められたものではない訴訟は、司法裁判所で受理することができるものとされている。
 行政裁判法16条の「行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス」という規定は、司法裁判所による私法的処理を否定したわけではないから、解釈上は、公権力による不法行為も民法の不法行為の規定により国の不法行為(709条ないし711条)及び使用者責任(715条)を問うものであったにすぎない。
 すなわち、行政裁判所が民事上の損害賠償請求訴訟を受け付けないからといっても、司法裁判所が、損害賠償請求訴訟を受理するのであって、行政裁判所法16条は、国家無答責の法理とは全く何の関係もなく、その存在をもって、国家無答責の法理の論拠とすることはそもそもできないのである。
オ よって、立法史的にも論理的にも、国家無答責の法理の実定法上の 根拠を行政裁判法16条に求めることはできない(甲502岡田鑑定書8頁以下、甲527岡田鑑定書(補充)12頁以下、甲545岡田鑑定書(補充2)8頁以下参照)。

  (3) 裁判所構成法の制定と立法者意思
ア 被控訴人は、「裁判所構成法制定の過程で、国家責任に関する訴訟 を受理する旨の明文の規定が草案から削除されたことは、国家無答責の法理が基本的法政策として採用された」と主張する  しかし、但書で特別裁判所の管轄が指示されていない事件は、民事事件である限り国や官吏を被告とする事件も含めて、司法裁判所の管轄に属すると考えられていた。
イ なぜ民事裁判所の管轄事項を裁判所構成法で定めるのかの目的は、 特別裁判所である行政裁判所と司法裁判所との間で権限紛争が起きないようにするためだった。この点は、法律取調委員会における関係条文の審議をみても、また井上が問題視した条文が帝国裁判所構成法案5条「通常裁判所ノ裁判権ハ官吏又ハ国ニ対スル訴訟ニ付テモ之ヲ行フ但特別法ニ依テ裁判スヘキモノハ此限ニ在ラス」であったことからも明らかである。
 同条は、枢密院での修正を経て、裁判所構成法第2条「通常裁判所ニ於テハ民事刑事ヲ裁判スルモノトス但シ法律ヲ以テ特別裁判所ノ管轄ニ属セシメタルモノハ此限ニ在ラス」という条文となった。
 ここでの立法者の考え方は、国に対する民事訴訟も原則として司法裁判所の管轄に属するが、法律で特別裁判所の管轄に属する旨を定めている事件については、例外的に司法裁判所の管轄から外れる、ということだった。
 したがって、裁判所構成法第2条については、「地方裁判所の民事訴訟についての管轄に属するものの中、国より為し又は国に対してなすすべての請求と官吏に対してなすすべての請求を除いたのであるが、これは、民事訴訟において特に国をその他の個人と区別する必要がないものとみたからであろう」(染野義信「司法制度(法体制確立期)」鵜飼信成ほか(編)『講座日本近代法発達史2』勁草書房、1958年、158頁。)。
ウ そして大審院も、裁判所構成法や行政裁判所法の制定直後の時期に は、特別の管轄規定がない事件はすべて司法裁判所の管轄に属するという解釈を採用していた。
 要するに、司法裁判所の権限に関する規定から「官吏又ハ国ニ対スル訴訟」という文言が削除された趣旨は、国や官吏に対する賠償請求訴訟を司法裁判所の管轄外とすることにあったのではなく、特別裁判所(とくに行政裁判所)との間の裁判管轄を明確にすることにあったのである。
 井上毅自身も、国や官吏に対する訴訟のすべてを司法裁判所から排除しようとしてはいなかった。井上も法律取調委員会も国の財産上の活動(郵便、鉄道等の事業活動)に関する賠償訴訟を司法裁判所が管轄することでは一致していた。井上は、この範囲での司法裁判所への国家賠償訴訟の提起を認めていたのであって、いっさいの国家賠償訴訟を司法裁判所は受理してはならないと主張してはいなかった。
 そして、後述の大審院判例の検討によって明らかなように、大審院は、国の権力的行為に関する損害賠償事件も含めてすべての民事事件を受理していた。立法者の意図はどうあれ、裁判所構成法はこのように運用されていた。
エ 以上のところから、裁判所構成法制定の過程で国に対する民事裁判 の包括的管轄規定が削除されたことは、国家無答責の法理が実定法上で確立されたということの根拠にはならない。
(甲502岡田鑑定書11頁以下、甲527岡田鑑定書(補充)13頁以下、甲545岡田鑑定書(補充2)14頁以下参照、)

  (4) 旧民法の制定過程と立法者意思
ア 原判決は、「旧民法373条から国家責任に関する字句が削除され たことは、少なくとも公権力の行使に基づく国家責任を否定する立法者意思の表れであるとみるのが相当であり、現行民法にもその立法者意思が継承されたといえるから、行政裁判法と旧民法(財産編)とが公布された明治23年の時点で公権力行使についての国家無答責の法理を採用するという基本的法政策が確立したというべきである。」と判示する。
しかし、旧民法373条において立法者が「公ノ事務所」規定を削除した趣旨は、国の賠償責任の範囲を実定法上で画定できないため、これを判例に委ねるということであり、公権力の行使に基づく国家責任を否定する立法者意思の表れであるとみることはできない。
イ この点についての立法者意思は、実はきわめて明確であり、原判決 の認定は誤りである。
 旧民法財産編の立案にあたった司法省法律取調委員会は、損害賠償の規定について、1888年10月の時点ではボアソナード草案に案を決定していた。
第393条 主人、親方又ハ工事、運送等ノ営業人若クハ公私ノ事務所ハ其使用人、職工、又ハ属員カ受任ノ職務ヲ行フ為メ又ハ之ヲ行フニ際シテ加ヘタル損害ニ付キ其責ニ任ス
 委員会の審議では「公私ノ事務所ノ責任」の意義についてかなりの議論が交わされた。「公ノ事務所」の責任について、起案者である今村報告委員は、「官吏ノ非行ヨリ生シタル損害ノ責」は国が負うべきだと主張した。このほか、官吏の非行について国家は責任を負わないとする見解をとる委員、特別法によって国家の賠償責任の範囲を確定すべきだとする委員、その詳細は学術上の問題に譲り、実際の事柄は裁判官の判断に委ねるべきだとする委員に分かれていた。
ウ 「公ノ事務所」という文言の削除を委員会で提案したのは、井上ら から批判された今村報告委員であった。
民法案第三百七十三条条中「公私ノ」ノ三字ヲ削除シ新タニ左ノ一項ヲ設ク可シ 国、府、県、町、村ニモ本条ノ規定ヲ適用ス但法律ヲ以テ特ニ責任ヲ免除スル場合ハ此限ニ在ラス
 修正案の根拠を説示した今村の「国家ノ責任ニ関スル意見」は、ボアソナードの説にも適宜批判を加えながら各国の学説・判例を示し、行政事務を分類して各事務について国の使用者責任を分析した上で、判検事のような例を除き原則としてすべての国の活動について国は賠償責任を負うべきものとした(今村の見解によれば、国家の公有・私有財産の管理、郵便・電信等の事業、官設工事、警察・衛生・兵卒の行為、租税徴収、官営の工業といった行政分野について国家は賠償責任を負い、尋常行政については、その中の「国権ヲ行フモノ」「行政ノ原力」について国家は責任を負わないという説もあるが、官吏に非行があった場合には人選において国に過失があったのであるから、原則として民法が適用される)。
 「公私ノ」という三文字を削除した理由は、国家も原則としてすべての活動について民法の適用を受けるのであるから、「公私ノ」と表示する必要がなくなったという点にあった。「公私」の区別ではなく、「公」の内部で実定法によって免責される場合に該当するか否かという区別が重要だと判断したわけである。
エ 今村の修正案に対して、各委員が意見書を提出した。西委員は、民 法では国家の責任を明示せずに特別法をもって明示すべきだとする意見、松岡委員は、「公私ノ事務所」という文言を掲げず、国の責任についての詳細は学術上の問題に譲り、実際には裁判官の判断に委ねるべきだという意見、磯部委員は、官吏の非行について国家に責任が生じない場合がありうるがその場合については特別法を定めて予告すべきであるから、今村修正案に賛成するという意見、井上報告委員は、官吏の非行について国家に責任は生じないという法理を見出すことはできないので、373条は原案のままにして「特ニ其責任ヲ免除スル場合は此限ニ在ラス」との但書を加えるべきだという意見であった。国の賠償責任を全面的に排除すべきだという意見がないことはもちろん、「国権」や「行政ノ原力」を根拠とする国の免責論も主張されてはいなかった。
オ これらを総括して、委員会は最終案を次のようにまとめた。
第373条 主人、親方又ハ工事、運送等ノ営業人若クハ総テノ委托者ハ其雇人、使用人、職工、又ハ受任者カ受任ノ職務ヲ行フ為メ又ハ之ヲ行フニ際シテ加ヘタル損害ニ付キ其責ニ任ス
 ここで「公ノ事務所」という文言が草案から正式に削除されたのである。そしてこの最終案がそのまま裁可され、1890年4月に公布された。
 同委員会自身は、「公ノ事務所」という文言の削除の趣旨を次のように説明している。
 民法報告委員ニ於テハ本条ノ「公私ノ事務所」ヲ削リ「総テノ委托者」ト改メ「属員」ヲ削リ「授[受?]任者」ト改メ公私ノ事務所ノ責任アルコトヲ明言セス単ニ法理上委托者ハ授[受?]任者ノ授[受?]任ノ職務ニ付キ責任アルコトヲ規定シテ足レリト思考ス即チ仏国民法ノ規定ニ因レルナリ……右ノ如ク本条ヲ修正スルニ於テハ政府官庁ノ責任ニ関スル問題ハ直接ニ断定セス然レトモ政府官庁カ官吏属員ニ対シ委托者タルノ資格ヲ有スル場合ニ於テハ官吏属員ノ過失ノ責ニ任ス……如何ナル場合ニ於テ政府官庁カ委托者ナルヤ否ノ問題ハ事実ノ問題トシテ司法官ノ判断ニ委ス
 つまり、(i)「公ノ事務所」の責任については明言せず、単に委託者は受託者の受託職務について責任を負うと規定するにとどめる、(ii)官吏が受託者として過失ある行為を行った場合には、政府・官庁は賠償責任を負う、(iii)いかなる場合に政府・官庁が委託者に該当するかという問題は裁判官の判断に委ねる、としたのである。
 すなわち、旧民法の立案者である法律取調委員会の中には、「官吏ノ非行」について原則として国が民法上の使用者責任(賠償責任)を負うべきだという見解から免責される場合がかなりあるという見解まで種々存在したが、免責の範囲について明確な基準を立てることができず、また、「公ノ事務所」という文言がそのために有効に機能するわけではないという共通認識の下で、この文言が削除された。
 したがって、「公ノ事務所」という文言を削除した趣旨は、立案者の意識に即していえば、官吏の不法行為について国は賠償責任を負わなくていい場合があるが、どのような場合がそれに該当するかは実定法では明示せずに、判例に委ねるという趣旨であって、けっして「公権力の行使」といった特定の行政活動が存在することを前提として当該活動について賠償責任を否定するという趣旨ではなかったのである。
カ 以上から、旧民法373条において立法者が「公ノ事務所」規定を 削除した趣旨は、国の賠償責任の範囲を実定法上で画定できないため、これを判例に委ねるということである(甲502岡田鑑定書14頁以下、甲527岡田鑑定書(補充)11頁以下、甲545岡田鑑定書(補充2)18頁以下参照)。

(5) 旧民法373条の立案過程における井上毅の役割  原判決は「旧民法の立案過程に参加した井上毅」と判示して、井上毅の役割について事実を誤認している。
 法律取調委員会で報告委員として旧民法の原案作成に当たっていたのは、井上正一報告委員であって井上毅ではない。
 一部に両者を同一視する誤解があるが、原判決もその例である。
 井上毅は当時、内閣法制局長官として外部から意見を述べていたに過ぎず、立案過程には参加していない。
 また、法律取調委員会が旧民法373条立案の過程で「公ノ事務所」規定を削除した趣旨は、上述のようにけっして井上の見解に沿ったものではなかった。
 したがって第1に、井上の見解をもって「立法者意思」ということはできず、むしろ委員会の見解こそが「立法者意思」とみなされるべきなのである。
 第2に、井上毅が国の賠償責任を否定する際には、今日私たちが結果責任として考えているような事例や損失補償に該当する事例をおもに念頭に置いていた。無論、国家賠償の例も含めて考えていたのであるが、要するにこれらすべてを包括して国家の責任の免除を考えていた。たとえば公用制限において補償がなされない場合、今日ではその根拠を国家無答責の法理に求める者は皆無であろうが、井上の見解によればそれは「行政権ノ原力ノ執行」であるがゆえに補償されないのである。それゆえ、井上毅の見解は国の損害賠償責任問題とは少々ずれたところで成り立っているものなのである。
 第3に、井上毅自身も国が私権に基づいて行動する場合には賠償責任を負うことを認めていたが、「職権アル官吏カ行政権ノ原力ヲ執行センカ為メ施行シタル事件」とそれ以外の事件とを区別する基準を示すことはなかった。仮に井上が国家無答責の法理を法制度の中に導入しようとしていたとしても、その適用範囲は必然的に判例に委ねられざるをえなかったのである。
 したがって、井上毅の見解を旧民法373条の立法者意思とみなすことはできない(甲502岡田鑑定書17頁以下、甲527岡田鑑定書(補充)13頁以下、甲528参照)。

  (6) 現行民法(715条)の制定と立法者意思について
ア 原判決は、「この旧民法は施行されず、明治29年、新たに起草さ れた草案に基づき現行民法(第一編から第三編まで)が公布され、明治31年7月16日から施行された。現行民法にも、旧民法と同様、国の公権力の行使により他に与えた損害の賠償責任を定めた規定はなく、この点に関する特別法も制定されなかった。この経過によると、旧民法373条から国家責任に関する字句が削除されたことは、少なくとも公権力の行使に基づく国家責任を否定する立法者意思の表れであるとみるのが相当であり、現行民法にもその立法者意思が継承された」と判示する。
しかし、国家無答責の法理に関わる問題は現行民法の制定作業の中でも継続して議論されていたが未決着のままであり、「公権力の行使に基づく国家責任を否定する立法者意思」といえるものは存在しなかった。
イ 旧民法は施行延期とされ、結局日の目を見なかった。1893年3 月には法典調査会が設置され、新規の民法編纂作業が始められることとなった。
 国の不法行為責任に関しては、まず、1894年(明治27年)1月の第8回総会審議で、法人の不法行為責任との関係が議論された。
第46条 法人ハ理事其他ノ代理人カ職務ヲ行フニ際シテ他人ニ加ヘタル損害ヲ賠償スル責 ニ任ス
 審議において、官吏が国家を代表して職務を行う際に犯罪を行った場合に国家が賠償責任を負うのかという質問に対して、原案作成者である穂積陳重は、特別法がない限りここにいう法人の中には国家を含めない趣旨だと答えた。つづいて、府県・郡・市町村・水利組合・区・部落なども本条の対象とならないのか、たとえば市制町村制2条によれば市町村は個人と同じように財産権の主体となるが、このような市町村は本条の法人に該当しないのか、また寄付行為によって成立した中学校や小学校の場合はどうかという質問が提起された。穂積は、それが公法人であればここに入らないが、市制町村制2条が市町村を通常の法人や自然人と同じように位置づけているということであれば、本条の法人に該当する可能性もある、と答えた。
 以上のように、国家や公共団体は自動的に民法上の法人には含まれないと位置づけられ、国の不法行為責任の問題は後述の使用者責任の条項に関連して検討されることとなった。とはいえ、後の大審院判決では、民法の類推適用という方法で公法人にも本条(後の44条)が適用されることになる。
ウ かくして国の不法行為責任の問題は、草案723条の審議において本 格的に検討されることになった。
第723条 或事業ノ為メニ他人ヲ使用スル者ハ被用者カ其事業ノ執行ニ付キ第三者ニ加ヘタ ル損害ヲ賠償スル責ニ任ス但使用者カ被用者ノ選任及ヒ其事業ノ監督ニ付キ相当ノ注意ヲ加フルモ損害カ生スヘカリシトキハ此限ニ在ラス 使用者ニ代ハリテ事業ヲ監督スル者モ亦前項ノ責ニ任ス 前二項ノ規定ハ使用者又ハ監督者ヨリ被用者ニ対スル求償権ノ行使ヲ妨ケス  翌1895年10月の法典調査会において、原案作成者の穂積陳重は、趣旨説明の中で、旧民法373条と本条との違いを次のように説明している。
「三百七十三条ニ於テハ……主人ガ……ナンデモ其責ニ任ズル總テ其例外ヲ認メナイ之ニ付テぼあそなーど氏ノ説明ヲ読ンデ見ルト矢張リ選任ノ義務ニ帰スルト思ヒマス……其之[受任ノ職務]ヲ行フニ際シテ損害ヲ生ジタラ悉ク其責ニ任ジナケレバナラヌト云フコトニナツテ居ル本案ニ於テハ苟モ其自分ノ為スベキ事業ヲ他人ニサセルトカ他人ニ頼ンデサセルト云フ者ハ其事業ガ適当ニセラルルト云フコトヲ注意スル義務ガアル其義務ヲ怠リ又選任ニ付テモ過失ト称スベキモノガアルトキハ其責ニ任ズルガ注意ヲ加ヘテ選任シタトキハ其責ニ任ジナイト云フ点ハ既成法典トハ余程其主義ヲ異ニシテ居ルノデアリマス」
 この説明によれば、旧民法373条との大きな違いは、使用者の免責事由を但書きで挿入した点にある。また、旧民法373条の立法者意思としてボアソナードが引用されていることにも注目すべきだろう。新民法作成者の意識においては、同条も含めて立法者の背後にいたのはボアソナードであって、井上毅ではなかったのである。
エ さて、穂積陳重による趣旨説明の直後に、穂積八束が「此使用人ト 使用者ニ代リテ監督スル人トノ関係ノ規則ト云フ者ハ政府ト政府ノ使ウ所ノ官吏其他ノ使用人ニモ此原則ガ当ルト云フ御考ヘデアリマスカドウカト云フコトヲ確カメテ置キタイ……解釈次第デ政府ト一己人トノ間デモ政府ヲ法人ト見レバ矢張リ民法ノ規則ヲ適用サレルト云フ議論モ出来ヤウト思フ」と質問し、さっそく本条によって政府も賠償責任を負うことになるのか否かという問題が俎上にのせられた。穂積陳重は次のように答えた。
「穂積陳重君 本条ニ付テ第一ニハ政府ノ官吏ガ其職務ヲ行フニ際シテ第三者ニ加ヘタ損害賠償ニ之ガ当ルヤ否ヤト云フコトガ第一ノ御質問デゴザイマスソレニ対シマシテハ一ノ明文ガアリマセネバ固ヨリ政府ノ事業ト雖私法的関係ニ付キマシテハ本案ハ当ラナケレバナリマセヌカラ他ニ特別法ガナイ場合ニ於テハ本案ハ当ルト御答ヘシナケレバナリマセヌガ併シ本案ガ当ルガ良イカ悪ルイカハ第二ノ問題デアリマスガ此案ヲ立テマストキニモ政府ノ官吏ガ其職務執行ニ付テ過失ガアツタトキニハ其責ニ任ズルヤ否ヤト云フ箇条ヲ置カウカト思ヒマシタガ併シ之ヲ民法ニ置キマスノハ不適当ノ場所デアルト考ヘマス一般ノ賠償ノ通則トシマスレバ公ケノコトデアルカラ夫故ニ一己人ニ其職務ノ執行ニ付テ非常ニ損害ガ生ジテモ是ハ御上ノコトデアルカラト言ツテソレハ償ナハヌ斯ウ云フノハ憲法ノ精神ニモ余程戻ルモノデアラウト思フ……官吏ノ職務上ノコトデアルカラ過失ガアツテモソレハ賠償ヲサセヌ方ガ宜イト云フコトハ是レハ例外デアツテ一ツノ特別法ヲ以テ定ムベキ事柄デアル……特別法……ガナケレバ本条ノ規定ガ当ルト云フコトデソレハ尚ホ勘考スベキコトデアル」
 すなわち、政府の賠償責任については現在明文の規定はないが、まず、特別法がない限り私法的関係については本条が適用になり、次に、政府の官吏が職務執行について過失があったときについては、賠償を免責するのはやはり例外であって、特別法(官吏個人の賠償責任法など)がなければ本条の規定が該当する、というのが提案者(穂積陳重)の考えであった。
オ この答えをめぐって若干の意見交換や賛成論があった後、次のよう な反対論が表明された。
「高木豊三君 ……穂積君ノ御説明ヲ承ハリマシタガ今ノ御答ニ依ルト政府ト官吏トノ間ノ関係即チ官吏ノ過失行為ハ政府ガ代ツテ賠償スルカドウカト云フ問題モ本条ニ含ムカノ如キ御答ニナツタヤウデアリマスガ私ハサウハ解シ兼ル……政府ノ官吏ト云フモノガ職務執行ニ付テ第三者即チ人民ニ対シテ損害ヲ加ヘタ場合ニ此原則ニ依テ政府ガ其賠償ノ責ニ任ズルヤ否ヤト云フ問題ヲ此条デ暗ニ極メタモノト云フコトデアルナラバ私共ノ解釈シテ居ルモノトハ大変趣意ガ違ヒマスノデ其問題ナラバ大ニ是ハ論ズベキ事モアリ研究スベキコトモアラウト思フ」
 高木は、官吏の職務執行に関わる政府の賠償責任は本条の対象外だという見解を表明した。これに対し穂積陳重は「若シ官吏ノ職務執行ニ対スル云々ト云フコトガ必要デアルナラバソレハ特別法ヲ出サレル方ガ宜カラウ本案デ是非サウシナケレバナラヌト云フコトデハナイ併シ特別法ガ出ナケレバ裁判官ハ本条ニ依テ裁判ナサレルデアラウト思フ」と述べて、特別法が制定されない限り官吏の職務執行上の過失についても本条が適用されるべきことを主張し、梅謙次郎も、特別法の必要性を指摘しながらも「若シ特別法ガナケレバ此七百二十三条ガ当ルノデアラウト思フ又当ラナケレバ不都合ト思フ……私モ穂積[陳重]君ト同意見デアリマス」と穂積に同調した。高木はこれらの議論に納得せず、次のような質問を続けた。
「高木豊三君 私ノ言ヒマシタノモ国ト云フ法人ガ民法上ノ事業ノ関係ニ付テ此条ガ当ルカ当ラヌカト云フコトニ付テ無論当ルト云フコトハ一点ノ疑ヒガナイ只私ノ先刻申シタ官吏ガ職務ヲ行フニ際シテ私法上ノ関係デナクシテ公権ノ作用ト云ヒマスカ詰リ裁判官ガ裁判ヲスル警察官ガ人ヲ捕ヘルト云フヤウナコトモ之ニ当ルト云フヤウナコトニ聞エテハ甚ダ困ル若シサウ云フ問題ガ之ニ籠ツテ居ルナラバ大問題ダト云フノデアリマシテ……日本ニハ是ハ極マツテ居ラヌノミナラズ欧羅巴ノ法律ニ於テモ未決ノ大問題ト言ツテモ宜イト思フ日本デハ判決例ガ僅ニ一二アルダケデソレモ大審院迄来テ政府ノ官吏ガ職務執行ノ場合ニ人民ニ損害ヲ及ボシタト云フトキハ政府ガ其責任ヲ負フト云フコトノ明カナ判決例ハナイ一般ノ場合ハ官吏ノ職務上ノ過失ハ政府ガ責ヲ負ハナイト云フヤウナ今日ハ傾キニナツテ居リマス只誤ツテ県令ガ人民ニ損害ヲ加ヘタ場合ニ賠償ヲシタト云フヤウナ一二取除ケノコトガアルニ過ギヌノデアリマス」  ここで高木は、はっきりと「公権ノ作用」について政府がその賠償責任を負うのか否かという問題に焦点を合わせ、これを否定すべきだと主張した。そしてこの問題についての結論は日本ではまだ出ていないし、ヨーロッパ諸国の法律でも未解決の大問題だとし、この点についての大審院判例は少ないが政府が賠償責任を負うと判断した判決例はなく、また政府の責任を否定するのが一般的傾向だと紹介した。議論は次のように続く。
「穂積陳重君 斯ウ云フノデアリマス官吏ノ職務執行ノ場合ニ是レガ当ルガ宜イト我々ハ極メテ 居ラヌノデ我々ガ研究シテ見ルト時トシテハ民法ニ書イテ居ル国モアリマスカラ是レモ書カウカト思フテ相談シテ見マシタガイヅレ特別法ガ出来ルダラウト思ヒマシタカラ止メタノデアリマス……特別法ガナイ以上ハ例ヘバ軍艦ガ一己人ノ商売船ト衝突シテ其船ヲ沈メタトカ云フサウ云フ様ナ場合ニ賠償ヲ求メルト云フニハ此条ガ当リハシナイカト云フ御相談ヲシタノデ特別法ヲ作ラナイデ是レデ押通シテ仕舞ウト云フ丈ケノ決心ハ我々三人共ナカツタノデアル併シ若シ特別法ガナカツタラバ是レガ当ルジヤラウト云フ考ヘハ三人共持ツテ居ル
高木豊三君 只今ノ御答デ能ク分リマシタ官吏ニ対シテ賠償ヲ求メルト云フコトヲ御書キニナラ ウカト云フコトデ独逸ノ様ニシヤウト云フ御趣意デアリマスカ
穂積陳重君 サウデス
高木豊三君 ソレナラバ宜イ、サウデハナイ此場合ハドウカト言ヘバ……巡査ガ誤ツテ人ヲ縛 ツテ損害ヲ加ヘタト云フノニ損害賠償ヲ与ヘルト云フコトニナツテハ大変デアルサウ云フコトハ言ハレヌト云フコトデアリマスレバ私ハ一向差支ナイノデアリマス」
 穂積は、どのような政府の事業が本条に該当するか否かは条文上明確にしていないが、該当しない場合を特別法(おそらくは官吏個人の賠償責任法)で定める方向が望ましいとしている。それがない段階では「軍艦ガ一己人ノ商売船ト衝突シテ其船ヲ沈メタトカ云フサウ云フ様ナ場合」も本条の適用対象になりうることを示唆している。
 この説明を受けて、高木は、ドイツでのように官吏の賠償責任に関する立法を行うことが国の「公権ノ作用」に関する賠償責任の免除につながるものと理解して、了解したわけである。
 しかし、穂積が示した軍艦の例のほか、土地収用に関連する損害賠償問題は従来明らかに「公権ノ作用」とされてきた問題であり、いかなる場合に国が免責されるのかという論点はペンディングにされたのである。
 審議の中では、「公権ノ作用」について国が免責される根拠として、「慣習法になっている」(都筑委員)、「判決例で公法上の職務執行の過失による損害の賠償は行わないという例になっている」(同)、「公法と私法の区別」(横田委員)、「政府の賠償責任を認めた大審院判例はなく、これを認めないのが一般的傾向」(高木委員)、「法律違反の行為は一個人の行為であって国の為にやる行為ではない」(同)などの点が挙げられている。けっして「明治23年の旧民法制定時に決着済み」という態度はとられていないし、誰もこれを援用していない。
オ 以上の審議経過から理解できるように、官吏の職務執行に関わる国 の賠償責任について、一方では本条の原則的な適用が主張され、他方では民法上の事業に限るべきだとする主張が行われ、一定の場合に国が免責される場合がありうることが想定されていたが、いずれにしても国家無答責の問題はまだ未決着のままであり、大審院の方針も不明確なままであり、将来的に特別法をもって対処すべき問題だという点では一致をみていた、といってよいだろう。
 したがって、国家無答責の法理に関わる問題は現行民法の制定作業の中でも継続して議論されていたが未決着のままであり、「公権力の行使に基づく国家責任を否定する立法者意思」といえるものは存在しなかった(甲502岡田鑑定書17頁以下、甲545岡田鑑定書(補充2)23頁以下参照)。
カ 被控訴人は、民法715条について、「現行民法715条(草案7 23条)の法典調査会における審議の結果は、国の権力的作用より広く、政府の官吏が職務を行うについて、その職務が「私法上の関係」でなく「公権の作用」である場合には、現行民法715条(草案723条)の適用がないことが確認されているのである。」と主張する。
 しかし、前述した被控訴人の引用する起草委員の穂積陳重、梅謙次郎、富井政章の法典調査会での答弁及びその後の著作を検討しても、起草委員は、政府の官吏がその職務執行による賠償責任について、その行為が私法上の行為である場合には、本条の適用があるものと考えていたが、それ以外の公法上の行為については、民法の715条を適用するのではなく、後日制定されるであろう特別法に委ねるという意思を有していたもので、国が損害賠償責任を有することを前提にしていたと思われる。
 しかも、すでに引用したが、穂積陳重は、「官吏の職務執行の場合に、本条が適用されるのがよいと我々は決めていない。我々が研究してみると、時として民法に書いている国もありますから、これも書こうかと思って相談してみましたが、特別法ができるだろうと思いましたから止めたのであります。特別法が出来ぬということを予想してこれで突き通すというのではない。もし、特別法が出来なかったら、本条がどう解釈されるかということを問われますから、特別法がない以上、例えば軍艦が一個人の商売船と衝突してその船を沈めたとかいうような場合に、賠償を求めるというには本条があたりはしないかというご相談をしたので、特別法を作らないでこれで押し通してしまうというだけの決心は我々3人ともなかったのである。しかしもし特別法がなかったならば、本条が当たるだろうという考えは3人とも持っている。」と答弁しているように、起草者らは、特別法が制定されない場合には民法715条を国にも適用すべきであると考えていたことが明白である。

  (7) まとめ
 以上の通りであるから、明治23年の時点で、国家の権力的作用についての国家無答責の法理を採用するという基本的法政策は確立されていたとはいえず、原判決の認定は誤りである。

4 判例理論として、国家無答責の法理の確立は認められない  国家無答責の法理は、法律の規定ではないし、確定的な法理ではない。
 この点、原判決は、「戦前の大審院判例は、非権力的作用については民法の適用により国の損害賠償責任を認めてきたが、公権力の行使(権力的作用)による損害については一貫して国の賠償責任を否定していた」(原判決22頁)と、判例理論として国家無答責が成立していたかのように判示する。
 しかし、判例は個別の事例に即した解釈に過ぎない。そもそも、国家責任を肯定した判例の中で、本件細菌戦のような国際法違反の権力作用に関する個別事例は存在しないのである。
 そもそも国家無答責の根拠は、明治憲法61条で権力行政については司法裁判所の管轄を否定し、行政裁判法16条で損害賠償事件を受理できないとしたことによる。
 しかし、民法の規定中に、国の賠償責任を否定した規定はどこにもないし、実定法上は、国家無答責の法理を明記した成文法(実定法)は存在していない。そして、実際にも、国の賠償責任について司法裁判所の管轄権は否定されなかった。戦前においても国家無答責が確定した法理として成立していたわけではないのである。
 行政上の不法行為責任に関する裁判例は、明治22年に明治憲法が制 定されてから、裁判所の判例を積み重ねる中で、様々な分野で国及び公共団体の損害賠償責任を認めてきた。
 以下、裁判例の概要を述べるが、判例は行政上の不法行為責任を認める分野を拡大し、公権力の行使(権力的作用)による損害についても、民法を適用して損害賠償責任を認める判決があり、国及び公共団体の賠償責任を否定する国家無答責の法理が確立されていたとは到底言えない。
 またそもそも、行政上の不法行為責任を認めない判例において、国家無答責の法理で損害賠償を否定する根拠が曖昧である。国家無答責の法理は、公権力の行使が天皇の主権の行使で神聖にして侵すべからずというところから論拠づけられた解釈理論の一つにすぎず、その正当性、合理性は見いだしがたい。
 裁判例についての詳細は、当時の判例分析の論文である「判例より見たる行政上の不法行為責任」(昭和12年発表。田中二郎『行政上の損害賠償及び損失補償』29頁、酒井書店)及び「行政上の損害賠償責任」(昭和21年発表。前同書87頁)並びに岡田鑑定書(甲502岡田鑑定書24頁以下、甲545岡田鑑定書(補充2)27頁以下参照)を参照されたい。

(1) 明治期から、国等の私経済的活動に関する賠償責任を認めていた  明治憲法成立後の早い段階から、国の私経済的活動である鉄道、電車、自動車については、営利事業としてとらえ、国または公共団体の不法行為責任を認めていた。
 鉄道工事の瑕疵に基づく責任については、大審院明治31年5月27日判決(民録4輯5巻91頁)等で、多数認められている。
河川改修工事(大審院明治29年4月30日判決、民録2輯4巻117頁)、道路改修工事(大審院明治40年2月22日判決、民録13巻148頁)については、国が公共の利益と安全のためにする権力行為であるから不法行為にはならないとしていたが、必ずしも一致していたわけではない。
 水利組合が隧道を設けた際に、その工事が完全ではなかったため寺院本堂の地盤を亀裂させ損害を与えた事案につき損害賠償責任を認めた(大審院明治39年7月9日判決、民録12輯1096頁)。

(2) 大正5年判決以降、国等の施設の設置管理等に関する賠償責任を認め た
 大正5年、徳島市立小学校の腐朽した遊動円棒で遊戯中の児童が墜落して死亡したことに関する小学校の管理作用について、大審院判決(大審院大正5年6月1日判決、民録1088頁)は、従来の「公法上の行為」を権力的作用と非権力的作用に分類し、非権力的作用には民法を類推適用するという新しい方向を示した。
 その後、鹿児島市の水道工事に関する大審院大正7年6月29日判決(民録1306頁)、鹿児島市の下水道設備の瑕疵に基づく損害に関する大審院大正13年6月19日判決(民集3巻295頁)、国の築港工事において人工石に汽船が乗り上げて破壊沈没する事件に関する大審院大正7年10月25日判決(民録2062頁)、税関倉庫の設置の瑕疵による死亡事件に関する東京控訴院大正5年2月28日判決(評論6巻民467頁)、水利組合の灌漑排水の設備が個人の水利権を侵害した事件に関する大審院大正14年12月11日判決(民集4巻706頁)は、国又は公共団体に対する賠償責任を肯定した。
 これらの判例の積み重ねにより、公の工作物の設置または保存の瑕疵に基づく損害については、大審院は民法の賠償責任を肯定するようになる。

(3) 大正末から昭和の初め、軍施設、学校等に関する賠償または賠償責任 等を認めた
 軍艦の修復工事中に職工の墜落工事につき工事監督者の重大な過失を理由として遺族が国に対して損害賠償を請求した事件に関する広島地裁呉支部大正13年6月5日判決(新聞2282号)、国策会社の満鉄附属地の小学校のスケート指導の過失により死亡した事件につき満鉄に対して損害賠償を請求した関東高院上告部昭和7年7月20日判決(新聞3539号)は、満鉄の使用者責任を認めた。
 このように、軍施設軍艦修復工事監督者、小学校の指導者等の使用者責任を認めた。
 また、陸軍傷病兵療養所用鑿井工事により温泉の利用権侵害されたことを理由に妨害排除仮処分を申請し認容され、国が、鑿井工事は国家の公法的行為であり、かつ正常の権利行使であり不法行為を構成しないとして上告した事件につき、大審院昭和7年8月10日判決(新聞3453号)は、「違法なる行政作用により第三者の権利を侵害したる場合なるとにより異なる所なし。蓋し不法行為の責任は其の行為者の何人なるやにより之を区別せざるを以てなり」と判示し上告を排斥した。
 これは、不法行為者が国家であろうが私人であろうが区別されないとして、民法の不法行為責任を認め妨害排除請求処分を認容したものである。
 軍施設、学校等に関する行為は、当時は公権力の行使(権力的作用)といえるものであり、公権力の行使(権力的作用)による損害についても、民法を適用して損害賠償責任を認めるようになった。

(4) 昭和10年代、権力的作用に関する賠償責任を認めた
 昭和10年代になると、財政権の公権力行使である出納事務に関する賠償責任を認める判決が出てくる。
 すなわち、町村収入役が水利組合の金銭出納事務中、権限なくして借用証書を作成し金員を受領し銀行に損害を与えた事件に関する大審院昭和11年4月15日判決(新聞3979号)、収入役が村長名義の借用証書等を偽造して金銭を詐取した事件に関する大審院昭和12年10月5日判決(全集4輯19号5頁)、町長のなした不正借入に関する大審院昭和15年2月27日判決(民集19巻6号441頁)は、水利組合または町村の賠償責任を認めた。

(5) 昭和15年及び16年、千住町流しタクシー差押事件大審院判決
 a こうした中で、公権力の行使(権力的作用)そのものである徴税滞 納処分についても、大審院判決は、千住町流しタクシー差押事件において損害賠償責任を認めている。
 滞納処分として自動車を差押え安値で処分したところ、その自動車は第三者の自動車であり損害を与えたとして、自動車の所有者が東京市及び担当吏員、元町長を被告にして損害賠償を請求した事件につき、第二審裁判所は、「徴税滞納処分が公法上の国権行為なる以上民法不法行為の規定の適用なく、しかもかかる行為に因る損害につき当該吏員に賠償責任を負担せしめたる法規なきをもって」請求を失当とした。
 しかし、昭和15年1月、大審院は、「差押並びに公売は滞納税金の徴収に必要なる限度に於て之を実施すべく、特別の理由なくして其の必要以上に出で著しく多額の財産を差押え並びに公売するが如きは、徒に滞納者に苦痛を与えんが為めの行為と目するの外なく、滞納処分として之を許容すべき理由を発見せず。故に町村吏員が滞納処分の際之等の行為に出でたりとせば、名は滞納処分なれども実は職権濫用にして寧ろ職権行為に非ざるものと謂うべく、従って不法行為上の責任を免れざるもの」(大審院昭和15年1月16日判決、民集19巻1号20頁。下線は引用者)と判示して破棄差戻の判決をした。
 これは、権力的作用について、損害賠償責任を認めたものである。
 b 差戻しを受けた第二審裁判所は、大審院の判例に沿って被告3名の 責任を肯定した。すなわち、吏員に対し、「名は滞納処分なるも実は不法行為と認むるに妨げなし」と判示し、東京市及び元町長に対し、吏員の「本行為は外形上町税滞納処分の形式をもって為されたるのみならず主観的にも町税徴収の目的を似て為されたるが故に、本件損害は民法715条に所謂事業の執行に付第三者に加えたる損害と謂うに何等妨げなし」(下線は引用者)と判示し、権力的作用における市、元町長の損害賠償責任を認めた。
 これに対し、東京市は、本件滞納処分は権力的公権行為であり、かかる公権行為に対しては民法不法行為法の規定の適用がないことは従来の大審院判例とするところと主張して上告した。
 c 大審院は、吏員の上告を棄却し賠償責任を認める一方、原判決中、 東京市、元町長敗訴の部分を破棄し、東京市、元町長に対する賠償請求を棄却した。
 すなわち判決は、「官吏又は公吏が国家又は公共団体の機関として職務を執行するに当たり不法に私人の権利を侵害し之に損害を蒙らしめたる場合に於て」(大審院昭和16年2月27日判決、大民集20巻2号118頁)、担当吏員には不法行為責任が認定されるとして、吏員の上告を棄却し損害賠償を認容した。
 一方、同判決は、「吏員に不法行為上の責任あればとて、公共団体たる千住町には不法行為上の責任を生ずることなく」と判示し、公共団体に民法715条を適用しない理由を述べることなく、原判決中、東京市及び元町長に敗訴を命じた部分を破棄し両名に対する原告請求を棄却した。
 このように、権力的作用について官吏の賠償責任を認めながら、公共団体には民法を適用しない合理的理由は、判決は「その職務行為が統治権に基づく権力行動に属するものなるときは、国家又は公共団体として被害者に対し民法不法行為上の責任を負うことなきものと解せざるべからず」と述べるだけで具体的には明らかにされなかった。このように、国家無答責の法理で損害賠償を否定する判決は、その根拠が極めて曖昧である。
d これに対し、上記差戻し大審院判決につき、学会からの強い批判が あった。すなわち、三宅正男は、「判旨は……その結果は必ずしも我々の法感情を満足せしむるものではない。」「私権の侵害が違法に為された場合に私法規定に従って公法人に対する賠償請求を許すことが権力的作用の本質をどれだけ害するものであろうか」「権力的作用に依る公法人の賠償責任を−非権力的な公行政の場合と区別して−私法の範囲から排斥せねばならぬ実質的理由は存しない」(民法判例研究会『判例民事法(昭和16年度)』37頁)と批判した。
 e このように、徴税滞納処分という権力的作用についても、第二審裁 判所→大審院→差戻後第二審裁判所→大審院と、公法人の損害賠償責任を認め、また否定するなど、判例の姿勢は、「一貫して国の賠償責任を否定」しているとは到底言えない。しかも、最終の大審院判決においても、吏員に対する損害賠償責任は認めているのである。

(6) 以上の判例を概観したが、次の諸点を大審院の「判例」とみなすこと ができる。
 第1に、損害賠償事件については、たとえ権力的行為に起因する場合であっても司法裁判所がこれを管轄する、ということである。司法裁判所が行政行為の効力について審理することができ、無効の判断を下すことができる。
 第2に、国の使用者責任(民法715条)や不法行為責任(同44条)を認めている点である。そして、この責任が成立するのは、純粋な私法上の関係にとどまらず、従前は「公法関係」とみられていた領域にまで広がっていた。
 第3に、大審院がいくつかの解釈方法の変更を通して、権力的行為の範囲を限定してきたこと、逆にいえば国の行為に対する民法の適用範囲を広げてきたことも理解できたであろう。すなわち、(a)大審院は、権力的行為を統治権(主権ないし支配権)に由来する権限の行使および講学上の行政行為ないし行政処分に限定するようになった。国の免責される範囲が国賠法1条1項にいう「公権力の行使」よりもかなり狭いことは明らかである。(b)判断基準を行為の目的から法的根拠(とくに権限規範)へと移すことによって「権力」性の認定を厳格に審査するようになったことである。職権濫用に該当するか否かについても、権限規範に基づいて判断されていた。(c)全体としての法関係が「公法関係」だとされる場合でも損害の原因となった個別的法関係を析出し、これが対等当事者間の関係と同質だとみなせる場合には民法を適用するという方法を採用した。(d)工作物の場合だけでなく官吏等の行為に起因する損害についても国の賠償責任を認めるようになってきた。
 第4に、いずれの事件においても国・公共団体の行為態様および被害事実等に関する事実認定は省略されていない。
 第5に、大審院の自己認識によれば、「国の権力的行為に係る損害について国は賠償責任を負わない」という意味の国の免責法理が「従前の例」と位置づけることのできる程度にまで概念的に確立されたのはせいぜい昭和16年2月27日判決以降である。この点は、昭和18年9月30日判決が、このような法理が「当院ノ判例トスル所」としたうえで、その変更可能性を認めながらも「其ノ必要ナキモノト認ム」と、この法理を判例法として維持すべきものと判断している。
 また、この法理の適用対象とされるべき行為が「統治権ニ基ク権力行動」と定まった用語で表現されるようになったことも、この法理の「確立」を示す指標だといえる。
 ここから次のことを確認できる。大審院自身は、国家無答責の法理について、判例法説を採用している。判例の内容は、(i)国や公共団体の権力的行為に関する損害賠償事件も司法裁判所の管轄に属する、(ii)非権力的な関係においては国の不法行為責任(民法715条、同44条等の適用)が認められる、(iii)国が免責される活動は「統治権ニ基ク権力行動」ないし「行政行為」に限定され、しかもこれに該当するか否かは実定法規定を基準として審査される、(iv)国家無答責の法理を適用する場合であっても事実認定は不可欠である。

 (6) 以上のとおり、明治憲法下の判例は、判例の集積の中で、様々な分野 で国及び公共団体の損害賠償責任を拡大してきたのであり、原判決が述べるような「戦前の大審院判例は、非権力的作用については民法の適用により国の損害賠償責任を認めてきたが、公権力の行使(権力的作用)による損害については一貫して国の賠償責任を否定していた。」(原判決23頁)とは全くいえないのである。
 むしろ、権力的作用も含め、国家無答責の適用の基準は曖昧であり、公権力の行使による損害について明確な基準をもって国及び公共団体の賠償責任を否定する国家無答責の法理が確立されていたとは到底言えない状況であった。
 国家無答責の法理は、天皇主権の明治憲法下での一法解釈にすぎない。そもそも判例は、国家無答責の法理の根拠を明確に示したことはなく、判例にその正当性、合理性は全く見いだしがたい。

(7) 上記の主張に対し、被控訴人は、「権力的作用について国が賠償責任 を負わないことは、裁判例をまつまでもなく確立されており、裁判例により形成された法理ではなく、むしろ、それまで国が賠償責任を負わないとされていた非権力的公行政について、大審院判例によって国が賠償責任を負うとされ、いうなれば「非権力的公行政有責任原則」が判例法理として形成されたとでもいうべきである。」(被控訴人第1準備書面14頁)と主張する。
 しかし、国家無答責の法理は、天皇主権の明治憲法下での一法解釈にすぎず、明治23年の時点において、「裁判例をまつまでもなく確立されて」いたと断定できるような状況は全く存在していなかった。よって、被控訴人の主張は失当である。
もっとも、大審院時代の判例は、当初は、私経済活動を除く行政作用、すなわち権力的公行政及び非権力的公行政のすべての領域について、国家賠償責任を否定していた。よって、国家無答責の法理なるものが、明治期において、民法の適用範囲をめぐる裁判例の集積途上の法理であったことは認めざるをえない。
 だとしても、既に述べたとおり、大審院時代の判例は、大正・昭和に至る判例の集積の中で、様々な分野で国及び公共団体の損害賠償責任を拡大することにより、国の責任を肯定してきたのであり、昭和10年代には、国家無答責の法理なるものは、否定されつつあったのである。
 
(8) これに対し、被控訴人は、「公務員が職務に関してなした不法行為は、 大きく分類すれば、権力的作用についてなされた場合と、それ以外の作用についてなされた場合とに分かれる。後者には、@非権力的・非強制的な公行政の作用(例えば、国・公立学校における教育活動の作用や生活保護などのいわゆる給付行政の分野における作用など)、A公の営造物の設置・管理の作用、B工事の施行(国の道路建設など)や事業の経営(鉄道・バス・水道・電気・ガスなどの事業の経営)の作用、C純然たる私経済的作用(たとえば官庁事務用品の購入・官庁建物の賃借など)などが含まれる。」と述べたうえで、「このうち判例は、権力的作用の場合については、一貫して、法律に特別の規定がない限り民法の不法行為法の適用がない(民法は対等な私人間の法律関係に関する法であり、国と私人との権力的関係に本来適用されるものではない)ものとして、国の賠償責任を否定していた。」として、「権力的作用については、民法の不法行為法の適用がないという国家無答責の法理は、判例上も当然の前提とされていたものである。」と主張する(被控訴人第1準備書面13頁)。
 しかし、上記主張は、@国家無答責の法理を「権力的作用については、民法の不法行為法の適用がないという・・・法理」と定義している点と、A判例が、権力的作用の場合については、一貫して、国の賠償責任を認めていないとする点で、不適切である。

  (9) 被控訴人が、国家無答責の法理を「権力的作用については、民法の不 法行為法の適用がないという・・・法理」と定義している点について
 明治期における大審院判例は、私経済活動を除く行政作用、すなわち権力的公行政及び非権力的公行政のすべての領域について国家賠償責任を否定していた。 
 この点に鑑みれば、裁判例の集積途上にあった国家無答責の法理なるものが、「権力的作用については、民法の不法行為法の適用がない」というような狭い範囲を対象とした法理であったとは考えにくい。よって、被控訴人の定義の仕方は失当である。
 むしろ、権力的作用についてなされた場合であると、それ以外の作用についてなされた場合であるとを問わず、公務員が職務に関してした不法行為につき国は賠償責任を負わないという法理であったものと考えられる。
 しかも、かかる広い範囲を対象とした国家無答責の法理は、司法裁判所の裁判例の集積によって徐々にその範囲を縮小し、昭和10年頃にはほぼ否定されつつあったのである。すなわち、司法裁判所の裁判例の集積を経て、昭和10年代の判例、学説では、権力的作用に関する行政の不法行為について、民法を適用し損害賠償責任を認める方向に来ていたのである。
 被控訴人は、このような判例・学説の流れを、国家無答責の法理を縮小・消滅させる流れであるとは認めずに、そもそも、権力的作用についてなされた公務員の不法行為のみが国家無答責の法理の対象だったのであると考えているようである。
しかし、国家無答責の法理を縮小させる判例の流れのなかでも、判例が一貫して国の賠償責任を否定してきたと被控訴人が考える部分(権力的作用についてなされ不法行為)のみを捉えて、はじめからその部分のみが国家無答責の法理の対象だったのであるということは、不当である。

(10) 被控訴人は、「判例は、(1)権力的作用の場合については、一貫して、 法律に特別の規定がない限り民法の不法行為法の適用がない(民法は対等な私人間の法律関係に関する法であり、国と私人との権力的関係に本来適用されるものではない)ものとして、国の賠償責任を否定していた。」と主張する。
 しかし、すでに述べたとおり、国家無答責の法理を縮小・消滅させていく判例の流れの中で、大正末から昭和の初めには、軍施設、学校等に関する賠償または賠償責任等が認められ、 昭和10年代には、権力的作用に関する賠償責任が認められたのである。

a 大正末から昭和の初めに、軍施設、学校等に関する賠償または賠償 責任等が認められたことについて
 被控訴人は、@軍艦の修復工事中の職人の墜落事故に関する広島地方裁判所呉支部大正13年6月5日判決(法律新聞第2282号5290頁)について、国が職工等の私人を使用して工事を行う場合は、その行為の性質上私法的行為であるから賠償責任があるとしたものであり、A関東庁高等法院上告部昭和7年7月20日判決(法律新聞第3539号8675頁)について、当該小学校の教育事業は、国の教育事業ではなく南満州鐵道株式会杜の事業である旨判示し、同株式会杜に賠償責任を認めたものであり、陸軍傷病兵療養所の井戸堀り工事に関する大審院昭和7年8月10日判決(法律新聞第3453号10983頁) について、そもそも井戸堀工事が国の権力的作用に当たらないことからすると、上記「行政作用」とは井戸堀工事という非権力的作用をいうものと解されるので、同判決が、国の権力的作用について、民法の不法行為責任を認めたものとはいえないと主張する(被控訴人第1準備書面15頁、16頁)。
 しかし、軍施設、学校等に関する行為は、当時は公権力の行使(権力的作用)といえるものであり、不法行為者が国家であろうが私人であろうが区別されないとして、公権力の行使(権力的作用)による損害についても、民法を適用して損害賠償責任を認めるようになったのであり、被控訴人の主張は失当である。
b 昭和10年代には、権力的作用に関する賠償責任が認められたこと について
 被控訴人は、大審院昭和11年4月15日判決(新聞3979号)、大審院昭和15年2月27日判決(民集19巻6号441頁)は、金員の借入行為に関する事案であり、国の権力作用ではないと主張する。
 しかし、出納事務は、財政権の公権力行使であり、いずれも民法44条を適用して賠償責任を認めた。
 また、被控訴人は、千住町流しタクシー差押事件について、差戻し後大審院は、最終的には、東京市に対する賠償責任を否定していると主張する。
 しかし、公権力の行使(権力的作用)そのものである徴税滞納処分に関する事件について、第二審裁判所→大審院→差戻後第二審裁判所→大審院と、公法人の損害賠償責任を認め、また否定するなど、判例の姿勢は、一貫して国の賠償責任を否定しているとは到底言えない。{大審院昭和15年1月16日判決(大審院民事判例集19巻20頁)、大審院昭和16年2月27日判決(大審院民事判例集20巻118頁)}
大審院は、昭和15年1月16日に第二審に差し戻した際には、滞納税金の徴収のための差押及び公売といえども、それが限度を超えてなされた場合には「名は滞納処分なれども実は職権濫用にして寧ろ職権行為にあらざるもの」として、不法行為法の責任を負う可能性を認めている。しかも、その結論として、東京市の賠償責任を否定した原審を破棄したのである。
 被控訴人が主張するとおりに、公権力の行使については国家無答責の法理が適用されることが確定的な解釈であったのであれば、大審院はこの時点で、東京市は不法行為上の責任は負わないものとすればよく、東京市に対する請求については原判決を破棄する必要はなかったのである。
 にもかかわらず、大審院は、上記のとおりの理由で、東京市に対する請求についても、それを認めなかった原判決を破棄しているのである。すなわち、昭和15年1月16日の大審院判決は、東京市の不法行為上の責任を認める(あるいは、少なくとも認める可能性がある)ことを前提としているのである。
 被控訴人は、昭和15年1月16日判決について、「「公務員個人」の賠償責任について、…これを認めたものであり、国や公法人の責任について判示したものではなく」と評価する(被控訴人第1準備書面18頁)が、これは、上記のとおり、東京市の責任を否定した原判決を破棄したという点を看過するものであり、同判決を適切に評価しているとは言い難い。
 また、同事件において、最終的に東京市の賠償責任は否定されたものの、そこには、戦前の訴訟構造として、行政裁判とその他の裁判が分けられていたことが、影響を及ぼしていると見るべきである。
 すなわち、手続法的に、行政作用に関する損害賠償は、通常事件と行政事件の双方に関わるため、民事裁判手続きにおいて審理することが適切であるか否か、疑問がないわけではなかった。この観点から、実体法上の権利義務の存否とは別の次元の問題として、手続法上、民事事件として扱うことを否定するとの考えはあり得た。大審院は、同事件において、最終的にはその観点から、東京市の責任を民事訴訟においては否定したと理解することができる。
 このことから、「戦前の大審院判例は、…公権力の行使(権力的作用)による損害については一貫して国の賠償責任を否定していた。」との被控訴人の主張は、大審院判例の評価を明らかに誤っている。

(11) 最高裁昭和25年4月11日判決は判例にはならない
原判決は、「後者の点(引用者・公権力の行使(権力的作用)による損害については一貫して国の賠償責任を否定していたこと)については、国家賠償法制定後においても、最高裁判例により確認されているところである(最高裁昭和25年4月11日第三小法廷判決・集民3号225ページ)。」と判示し、国家無答責の法理が最高裁判例でも確認されていると判示する。
 しかし、警察官の防空法に基づく家屋破壊の不法を理由とする国家賠償請求事件に関し、引用する最判1950(昭和25)・4・11は「本件家屋の破壊行為が、国の私人と同様の関係に立つ経済的活動の性質を帯びるものでないことは言うまでもない。而して公権力の行使に関しては、当然には民法の適用のないこと原判決の説明するとおりであって、旧憲法下においては、一般に国の賠償責任を認めた法律はなかったのであるから、本件破壊行為について国が賠償責任を負う理由はない」と判示した。このような判断は戦前の判例をふまえていない。
 まず、家屋の破壊行為の法的性質(権力性)が根拠法規に基づいて審査されていない点、次に、「公権力の行使に関しては、当然には民法の適用のないこと」はその通りだとしても、国賠法1条にいう「公権力の行使」にあたる行為のすべてが「民法の適用のないこと」とされていたわけではなく、判例ではこのうちの権力的行為が「民法の適用のないこと」とされていたにすぎない点、さらに、「経済的活動」以外の国の行為も民法の適用対象とされていたわけであり、「経済的活動の性質を帯びるものでないこと」(事業活動)のゆえに「民法の適用のないこと」となるわけではない点(いうまでもないが、経済的活動だけでなく非権力的公行政についても国の賠償責任を認めるのが判例であった)、などである。
 したがって、「大審院も公務員の違法な公権力の行使に関して、常に国に賠償責任がないことを判示して来た」(同最判)というのは、明らかに誤った一般化であり、恣意的な論断だといわざるをえない。

 5 当時の学説としても国家無答責の法理の確立は認められない
  (1) 美濃部達吉説
 戦前の学説の状況をみると、行政の不法行為責任に関して、私法で ある民法の適用がないという見解を採っていなかった。
 民権学派の美濃部達吉は、国民の権利救済を確保するためには、私法の領域を拡張しようと主張していた。
 大正13年発行の『行政法撮要』で、「公益の為にする事業に付ては公益上の必要ある限度に於て民法の適用を排除すと雖も、少くとも不法行為に基く損害賠償の問題に関しては国家又は公法人の事業に付ても之を私人の事業と区別して其の適用の法律を異にすべき理由なく、此等の事業の施行に関し不法に他人に損害を加へたる場合に於ては国家又は公法人は当然民法に依り損害賠償の責に任ずべきものなり」(美濃部達吉『行政法撮要』上巻150頁、有斐閣。下線は引用者)と述べ、国家の事業についても、経済的関係を主眼とするものについて、損害賠償を認めることを主張していた。
 前述した徳島市遊動円棒事件の大審院大正5年6月1日判決は、かねてからの民権学派の主張が取り入れられたものであった(鵜飼信成『行政法の歴史的展開』有斐閣114頁)。

  (2) 田中二郎説
 田中二郎は、昭和8年に、国家賠償責任について、「惟ふに、従来、国家の名に於て又は公共の利益の名に於て、法律上国家責任に付て特殊の理論構成を与へんとする傾向は一応理由ある所ではあらう。併しながら問題は、結局国民全体の負担に於て具体的の個人の特別の犠牲を償ふべきか、それとも個人の特別の犠牲を国民全体の利益の為めに、已むを得ざる犠牲として之を甘受せしむべきかの選択の問題であり、その何れがより正義なるかの利益衡量の問題に帰することを考へねばならぬのである。」「その損害が公権力の作用に基くものなりとする理由のみを以て、国家の賠償義務を否定し去ることが果して正当なりや疑はざるを得ない。」「其の損害が権力的作用に基づくか、非権力的作用に基づくかは公平負担の原則からは、特に区別する必要を見ないのである。」「私は、公法上の特別の規定なき限り、経済生活に関する基礎規律たる民法に於ける原則が、公法の領域にも類推適用さるべきものと解するのが正当ではないかと憶測する。」(法事時報5巻7号、田中二郎『行政上の損害賠償及び損失補償』酒井書店24、25頁。下線は引用者)と述べ、個人の損害が公権力の作用に基づくものとする理由だけで、国家の賠償義務を否定することを批判していた。

  (3) 渡邊宗太郎説
 京都帝国大学教授の渡邊宗太郎は、昭和10年発行の『日本行政法』上で、「公務上の過失は公務の性質上その存在を否認し得ないものであるとすれば、国家行為が自然人の行為以外に存し得ない限り、かかる過失に因る違法行為は尚機関行為としての品質を否認せらるべきものでなく、従ってその行為の効果が国家に帰属せられるべきものであることは違法なる機関行為における場合と異なるところはない。」「国家が自己の違法行為に依って私人に財産上の損害を加えたる場合には固より国家はそれを賠償する義務を負担する。私人の利益が法に依って権利として保護される以上、それの違法の侵害あるときにはその行為者の何びとであるを問わず原則として私人はその損害の賠償を請求し得べく、行為者は之を賠償すべき義務を負う。特別の法の規定なき限り国家と雖も当然にこの義務から免除せられると為すを得ないのである。而してこのことは国家の違法行為が公法行為たると私法行為たるとに依って、また権力行為たると対等行為たるとに依って異なるところはない。唯かかる違法行為が国家の公法行為に属するときには、当該行為主体たる行政官庁が国家の賠償義務を履行しない場合に現行法上尚之に対して義務の履行を強制する救済手段が存しない。併しかかる救済手段の存しないことは理論上賠償義務の存在を否認することの根拠となり得るものではない。」「私人が官吏の個人的行為に依って権利を侵害せられる関係は私法関係に属するが故に、官吏たる個人が義務を履行しない場合には、私人は民事訴訟手続に依ってその救済を求むることを得る。私人は官吏自身の資力を以てしては完全にその損害を賠償せられ得ないことがあり得る。かかる場合には私人は虞らく当該官吏の監督官庁を通じて国家に対してその不足額の賠償を請求することを得る。而してこの場合の国家の賠償義務の根拠は当該官吏の行為が国家自身の行為と看做されることに在るのではなくして、かかる違法行為を行う者を国家が官吏として選任したること、及びかかる官吏の執務の監督を国家が怠りたることに在るのである。而かも右の国家の賠償義務が不足額を限度とする補充的性質のものであること、及び国家と官吏との関係そのものは常に公法関係を構成するものであることから、右の理論が民法第715条の適用であり得ないことはいうを俟たない。又国家が右の補充的賠償義務を履行したる場合に官吏自身に対して求償権を行使し得るものではないことは、これが自己の行為に対する責任であることから明らかである。」(渡邊宗太郎『日本行政法』158〜162頁。下線は引用者)と述べて、国民の損害が権力的作用に基づくか、非権力作用に基づくかは区別する必要がないので損害賠償を認めるべきと論じた。

 (4) 三宅正男説
 三宅正男は、「私権の侵害が違法になされた場合に私法規定に従って公法人に対する損害賠償を許すことが権力的作用の本質をどれだけ害するものであろうか。」「国家の賠償責任を認めることは損害を国民に分配する結果となり、通常の場合の不法行為による損害賠償と異る性質をもつが、だからといって、不法行為による国家の責任を排斥する必要は存しない。要するに権力的作用による公法人の賠償責任を−非権力的な公行政の場合と区別して−私法の範囲から排斥せねばならぬ実質的理由は存しないと思う。」「以上述べたように官公吏の行為が公法人の権力的作用である場合にも、公法人が違法な権力的作用により私法上の損害賠償責任を負うことを正面から認めたいと思うが、もしそれが許されぬとしても私法上の責任が全然考えられぬわけではない。」「違法な権力作用により、官公吏が不法行為責任を負うのはそれが同時に彼の個人としての有責違法であるからである。…………従って、それは私法的性質のものである。而して公法人は彼の行為としての法律上の効果をもつ機関の行為によって責任を負わぬとしても、官公吏が個人として不法行為を為したことにつき使用者として私法上の責任を負わせねばならぬ。そこでは公法人の権力的作用としての法律上の効果は問題ではなく私法上の不法行為者たる官公吏の使用者であることによって715条の適用を受けるのである。公法人と官公吏との関係が715条にいう使用関係に該らぬならば、営利的事業や非権力公行政における官公吏の職務行為につき使用者として公法人が責任を負うことも否定される結果になる」(民事判例研究会『判例民事法(昭和16年度)』37頁以下。下線は引用者)と述べ、権力的作用による公法人の賠償責任を排斥する理由はないと批判した。

(5) 上記の主張に対し、被控訴人は、渡邊宗太郎教授、三宅正男教授が国 家無答責の法理を否定する学説を展開していたことを認めながら、異説であって、美濃部達吉、佐々木惣一、田中二郎の各博士は、国家の権力的作用について国家の損害賠償責任が否定されるとしていると主張する。
 しかし、上記の美濃部達吉、田中二郎を含め、学説は、判例を指導する形で、明治期、大正期、昭和期の時代の進行と共に、国民の権利救済を拡張する理論を展開してきた。
 大正期には、非権力作用及び工作物の設置、管理に関する行政の不法行為については、民法不法行為法により損害賠償責任を認めるのが通説になった。これらの学説は、判例の検討を踏まえ、あるいは憲法や国家理論として成立してきた「機関理論」の視点から、さらには「使用者責任論」等を踏まえて、その考察の上に理論化されている。
 さらに昭和10年代には、権力的作用に関する行政の不法行為について、非権力作用と区別する必要がなく、民法不法行為法を適用し損害賠償責任を認めるべきとするのが通説になりつつあったと思料される。
 しかも、昭和10年代という治安維持法下の学問、思想に対する弾圧が最も激しかった時期に、実社会における市民感情(法的正義の実現)や具体的衡平性、損害の社会経済的衡平分担などの視点をも十分に踏まえて発表されたことを考慮に入れると、渡邊宗太郎、三宅正男の各学説は、学会の通説になっていたと思料され、被控訴人の主張は失当である。
 こうした学説の存在をみれば、国家無答責の法理は確立されていないことは明らかである。

6 まとめ
 以上に述べたとおり、第1に、当時の立法者は、国の賠償責任については司法裁判所の判断にゆだねていたこと、実際にも、国の賠償責任について、司法裁判所の管轄権が否定されることはなかったこと、第2に、司法裁判所は国の賠償責任について、動揺を重ねながら民法の適用範囲を拡大する方向で変遷し、昭和10年代には権力的行為についても民法の適用を肯定する裁判例が存在していたし、逆に権力的行為について民法の適用を否定する裁判例においてその実質的根拠は全く示されていなかったこと、第3に学説上でも、権力的行為について民法の適用ないし類推適用を認める見解が採られていたこと、がそもそも明白である。
 したがって、国家無答責の法理なるものの実体は、要するに民法の適用範囲をめぐる裁判例の集積途上の法理ではあっても、昭和10年代には否定されつつあったのであり、「判例法」というほど法的安定性を有してはいないし、確立された法理とは全く言えない。
 少なくとも、原判決の「戦前においては、公権力の行使による私人の損害については、国の損害賠償責任を認める法律上の根拠がなく、そのことは公権力行使についての国家無答責の法理を採用するという基本的法政策に基づくものであったから、公権力行使が違法であっても被告はこれによる損害の賠償責任を負わない」(原判決24頁)と断定できるような状況は全く存在していなかったのである。
 むしろ、明治憲法下の裁判所は、具体的事案を通じ、国ないし公共団体に賠償責任を認めないことの不合理を自覚せざるを得なかったと思われる。そのため、「損害の公平な分担」という不法行為制度の大原則を遵守すべく、様々な論理立てをして公法・私法二元論を排除しようとしてきたのである。
 このようにみてくると、「明治憲法時代でさえ、公権力の行使について民法を適用する解釈があったことに照らすと、理論的には、今日の裁判所としては、当時の判例に従えば足りるのではなく、当時の法例の解釈を現時点でやりなおすべきであろう。」(阿部泰隆『国家補償法』41頁)との指摘が妥当であることが一層明らかである。

第2 本件細菌戦は、国際慣習法に違反した違法行為であり、「適法な公権力 行使権限」に基づかず「国家無答責の法理」は適用されない

 1 原判決は、本件細菌戦に対し、国家無答責を適用しうるものであるとい う判断を下すにあたって、本件細菌戦は、「旧日本軍がその存在目的そのものである戦闘行為として行ったものであるというのであるから、その行為は公権力の行使(国の統治権に基づく優越的な意思の発動としての強制的・命令的行為)そのものであり、当時民法の適用対象となっていた非権力的作用に分類されるということはできない」と判示する。
 原判決は、公権力の行使であれば例外なしに国家無答責が適用されるという見解にたち、本件細菌戦は「戦闘行為として行ったもの」であるから、国家無答責の適用される公権力の行使であるとしている。

2 しかし、仮に国の公権力の行使について国家無答責の法理が認められる としても、本件細菌戦は、国家無答責の原則が前提とする「公権力の行使」には該当しないから、この原則は適用されない。
 国家無答責の法理は、そこで問題とされる国家の行為が公務のための権力作用である場合に、当該公務を保護するためのものであって、当該行為が公務のための権力作用にあたらない場合には、国の行為についても民法上の不法行為責任が成立することを当然のこととしているものである。国家が行う行為が不法行為である場合には、保護すべき権力作用ではなく、国家無答責は適用されない。
 本件細菌戦が、国家無答責の原則が適用されるための要件としての「公権力の行使」に該当するためには、原判決の判示する「国の統治権に基づく優越的な意思の発動としての強制的・命令的行為」であることに加えて、本件細菌戦が、「適法な公権力の行使」と評価されるような権限によって行われた行為であることが必要である。
 なぜなら、本件当時においても、国が国民に対し一定の行為を命令又は禁止し強制を加えるという一方的な優越的支配が合法化されるためには、法律によって制定された権限に基づくことが必要とされたからである。
 原判決は、「旧民法の立案に深く関与した井上毅が、前記のとおり国家無答責の法理の根拠を行政権の円滑な運用に求めていた」と指摘している。「行政権の円滑な運用」とは、法に基づいた行政を意味することは、法治主義の原理から当然に導かれることである。法に基づいた行政権の円滑な運用が、国家無答責の法理の根拠であるとするならば、「適法な公権力行使権限」を欠いた国家の行為は、国家無答責を適用しうる根拠を失うのである。

 3 これを本件細菌戦について見ると、戦争行為による相手国の人間に対す る殺傷が公法関係として認められたとしても、それは「適法な公権力を行使する権限」の範囲内に限定されるのであり、戦争行為だから何をやってもよいということではない。「適法な公権力を行使する権限」を欠いた行為は、公務としての戦争行為にはならないのである。
 本件細菌戦は、原判決が認定するように、ジュネーブ・ガス議定書を内容とする国際慣習法に違反した違法行為であり、かつ、被控訴人に、細菌戦被害者が受けた損害を賠償するというハーグ陸戦条約第3条を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていたのである。
 したがって、このような強度の違法性を帯びた本件細菌戦は、「適法な公権力を行使する権限」を欠いた行為であることは明白であり、国家無答責を適用する根拠がない。

4 本件細菌戦の違法性の強さ、悪質さを示す第1点は、本件細菌戦は、被 控訴人自身が違法な戦争行為であることを充分に自覚し、承知しながら、被控訴人による組織的、計画的行為として行われた大規模な戦争行為だという点にある。本件細菌戦当時から、被控訴人は、細菌戦がジュネーブ・ガス議定書に違反し、同議定書を内容とする国際慣習法に違反し、かつ賠償責任を定めたハーグ陸戦条約第3条に違反することを熟知していた。
 そのため、日本軍は細菌戦部隊の創設にあたって、表向きは軍隊における「防疫」や「給水」、すなわち伝染病の予防と浄水の供給を掲げる「関東軍防疫部」として創設し、その実態は、細菌兵器の開発と実用化をめざす秘密部隊を創った。また実際に細菌戦を実行するにあたっては、徹底した秘密作戦として行った。
 また、被控訴人は、ソ連参戦に直面し敗色が濃厚となった時点で直ちに平房の731部隊の建物を爆破し、捕虜を全員虐殺する等の証拠隠滅を図った。この証拠隠滅は、陸軍中央の指示により行われた。
 さらに、被控訴人は、戦後もこの違法行為を反省もせず、今日にいたるまで、事実を隠蔽し続けている。

 5 本件細菌戦の違法性の強さ、悪質さを示す第2点は、本件細菌戦が、大 量破壊兵器による非戦闘員たる一般住民に対する無差別な殺傷だという点にある。細菌戦がジュネーブ・ガス議定書及びハーグ陸戦条約第3条に違反する理由はこの点にある。
 日本軍による本件細菌戦が行われている最中、1942年3月に関東軍軍医・牧譲軍医中佐は、「細菌戦について」という講演の中で次のように語っている。
 「全般的には兵站に絡んでいることになる都市を攻撃して、都市をひどい目に遭わす。これは将来相当やられる問題であります。軍隊関係のものには、直接しないで大きな都市に伝染病を流行らしてゆく」「細菌戦の狙い所の1つは、後方を混乱せしめて精神上に困ったことになったと言うような観念を敵に与えることで、大きな都市をうんとひどい目に遭わすということがある訳であります」(満州帝国軍医団『軍医団雑誌』。甲29の198頁)。
 このように、被控訴人が、最初から一般住民の大量殺戮を目的として細菌兵器を開発したことは明らかである。
 実際、本件細菌戦は、1940年浙江省各都市へのコレラ菌、チフス菌、ペスト菌の菌液撒布、ペスト感染ノミの投下、1941年湖南省常徳へのペストノミの投下、1942年江西省、浙江省での、ペスト菌付着の米、ペストノミ、鼠の地上からの散布、井戸や食物へのコレラ菌注入など、その実行態様は、相手国の軍事施設や軍隊とはまったく関係のない一般住民の殺傷を目的としたものであった。本件控訴人らも、市民、農民など非戦闘員の住民である。

 6 本件細菌戦の違法性の強さ、悪質さを示す第3点は、本件細菌兵器の研 究、開発が生体実験等の違法行為を伴うことによって、世界で初めて本格的な細菌兵器の開発を可能とし、実戦使用したことである。
 731部隊は、平房の本部でチフス、コレラ、赤痢、ペスト、炭疽、凍傷などの研究・培養を行ったが、その際、常時200人から400人の捕虜を生体実験に用いた。捕虜は「マルタ(丸太)」と呼ばれ、1本、2本と数えられた。彼らは、「ロ号棟」の中の解剖室や野外の実験場で、人体実験に使われ次々に殺されていった。
 また、本件被害地である崇山村などでは、日本軍が、細菌戦を実施した地域に「防疫隊」として入り、罹患した被害者を生体解剖して細菌戦の「成果」を検証する活動を行うなど、細菌戦の実行による被害者をも研究材料として大量殺戮兵器をつくりあげたのである。

 7 以上のように、本件細菌戦は、国際法に違反するうえに、その違法性は 極めて強く、悪質であり、いかなる意味でも正当化されない残虐行為である。本件細菌戦は、「適法な公権力行使権限」に基づく行為ということはできず、国家無答責の法理は適用されない。

第3 本件細菌戦は非権力的な公法上の行為(事業活動)なので、「国家無答 責の法理」は適用されない

 1 本件細菌戦において損害の原因となった行為の性格
 本件細菌戦において損害の原因となった行為を実施した主体は、関東軍防疫給水部(通称731部隊)である。原判決が認定するとおり、731部隊は、表看板としては防疫や給水を掲げていたが、実態は細菌兵器の開発と実用化を目指す秘密機関であった。
 731部隊がペスト菌・コレラ菌等を兵器として製造し、@浙江省衢州市(1940年10月)、A浙江省寧波市(1940年10月)、B湖南省常徳市(1941年11月)、C浙江省江山市(1942年8月)において散布したこと、および、これらの地域またはその周辺地域に住んでいた控訴人らが上記の散布行為によって被害を受けた。
 また、この機関の主たる目的が細菌兵器の研究・開発・製造にあったこと、および細菌兵器の投下後にこの機関が感染地域を封鎖し、兵器の威力を確かめるために感染者の一部を人体実験の犠牲にし、標本やデータを収集したことについても認定されており、控訴審において被控訴人国は争っていない。
 以上の事実を前提にすれば、第1に、この機関による上記の細菌散布等の行為(本件細菌戦)の基本的性質は兵器製造のための開発・実験行為であったということができる。この機関の設置趣旨からみても、このようにいうことは妥当である。また、本件行為が日中戦争における軍事行動の一環として行われたとしても、それが兵器製造のための開発・実験という性質を併有していたことは否定できない。
 第2に、この機関が上記各地およびその周辺地域の住民を疫病に罹患させ死亡させる意図をもって本件細菌戦を遂行したことについても、当事者間に争いがない。したがって、本件細菌戦は国の機関の故意に基づく行為だということができる。
 第3に、本件細菌戦が大本営陸軍部の命令に基づいて行われたことについても、原判決で認定されているとおりであり、かつ控訴審でも当事者間に争いがない。したがって、本件細菌戦は国の機関の組織的行為であって、個人にその責任を負わせることのできない行為だということができる。

 2 本件行為の法的性質と責任の帰属主体
  (1) 兵器製造のための開発・実験行為の法的性質
 国の機関が行う兵器製造のための開発・実験行為は、大審院判例によれば事業活動であった。このことは、大判1910(明治43)・3・2(民録16輯174頁、板橋火薬製造所賠償請求事件)をみれば明らかである。
 この事件において、原審(東京控訴院)は、火薬製造が「権力ノ主体トシテ行動スヘキモノ」に該当するという理由で、工場爆発による被害に対して民法の適用を否定した。
 しかし、大審院はこのような原審の理由づけを排斥して、次のように判示した。
「国家ノ行為ニシテ主トシテ国家ノ財産上ノ利益ノ為メニスルモノハ乃チ国家ノ私経済的動作ニシテ私法的行為トシテ私法ノ適用ヲ受クヘク之ニ反シテ国家ノ行為ニシテ主トシテ公共ノ利益ノ為メニスルモノハ公法上ノ行為トシテ公法ノ適用ヲ受クヘキモノト謂フヘキナリ彼ノ煙草官営、藍専売ノ如キハ前者ニ属シ郵便電信ノ事業ノ如キハ後者ニ属ス是等ノ事業ハ皆孰モ国家ノ専業ニ属シ国家カ独占スルノ点ニ於テハ彼是同一ナリトスルモ前者ハ主トシテ国家財政上ノ収利ヲ目的トシ国家ノ私経済的利益ノ為メニスルモノニシテ後者ハ直接ニ公益ノ為メニスルモノナレハ之ヲ同一視スヘキニ非サルナリ」「火薬製造ノ如キハ……所謂軍事的行動ノ一部ニ属スルモノト認ムヘク之ヲ以テ公共ノ利益ノ為メニスルモノト看做スヘクシテ単ニ国家カ財政上ノ利益ノ為メニスルモノニ非サルヤ明ケシ」
 大審院は、まず、郵便・電信事業などと同様に、火薬製造(軍事的行動の一部に属するもの)も権力的作用ではないものと位置づけた。被害者たる周辺の住民に対して命令や強制の契機が存在しないのだから当然であろう。その上で、大審院は、行為が「国家ノ財産上ノ利益ノ為ニスルモノ」か「公共ノ利益ノ為ニスルモノ」かという行為の目的を基準として私法的行為か公法的行為かを区別すべきだという判断基準を示し、郵便・電信事業や火薬製造が公共の利益を目的とする国家独占事業であるという理由で、これを私法の適用を受けない行為(民法に基づく損害賠償責任を負わない行為)だと判断したのである。
 このような解釈、つまり兵器の製造を非権力的な行為とみなす解釈は、この後の判例によって否定されることはなかったし、学説もこれを支持していた。それゆえ、同判決のこの部分については判例とみなすことができる(なお、後の判例と学説は、板橋火薬製造所事件判決の結論??公共事業に関わる行為は公法上の行為であるという理由で民法を適用しないという結論??は支持せず、これを是正した)。
 本件行為の基本的性質は、兵器製造のための開発・実験行為であった。したがって、大審院の見解に基づけば、本件行為は非権力的な公法上の行為(事業活動)だということができる。

  (2) 本件細菌戦において不法行為責任を負うべき者
 本件細菌戦が国の機関の故意に基づくこと、控訴人らに損害をもたらした行為であること、行為当時においても民法および国際法上で違法な行為であったことは原判決の通り明白である。
 本件行為が違法行為に該当するという認識を国の機関自身も持っていたことは、敗戦前後の時期に、本件行為の発覚を阻止する為に組織的な証拠隠滅・隠蔽行為を国の機関が行ったことからして、疑問の余地はない。
 したがって、本件行為が不法行為に該当することは間違いない。また、本件の行為が大本営陸軍部の命令に基づく組織的行為であったことは明らかである。
 以上のことから、本件の行為は国の機関による組織的な不法行為だということができる。
 では、誰がこのような組織的な不法行為の責任を負うべきなのか。実行者個人か、命令を出した陸軍の幹部か、それとも行為を実施した機関の帰属主体である国か。
 大審院判例によれば、国や公共団体の代表者が権限行使を装って違法な行為をおこなった場合には、民法44条を類推適用して当該公法人が不法行為責任を負うものとされている。
 本件の場合は、幹部個人の違法行為ではなく組織的な違法行為であるので、法人そのものの行為として、民法709条を公法人に適用するのが妥当である。
 今日においても、後述のように、国公立病院の医療活動に関する不法行為事件については、当該病院が属する公法人の不法行為として民法709条が適用されている。

  (3) 小括
 以上のとおり、大審院判例によれば、本件行為が非権力的作用に該当し、これに起因する損害賠償責任は民法に基づいて国が負うべきことになる。

 3 本件行為についての国の責任と免責可能性
  (1) 大審院判例
 大判1916(大正5)・6・1(民録22輯1088頁、徳島市立小学校遊動円棒事故賠償請求事件)以降の大審院は、国や公共団体の活動全般によってではなく、被害を直接に及ぼした行為の性質を分析して権力性の有無を判定している。
 この事件では、小学校の管理を「行政[権]ノ発動」としながらも、その管理権に包含される設備の占有権を公法上の権力関係ではなく、私法上の占有権と同様のものだと位置づけることによって、当該設備に起因する損害について民法717条を適用した。
 この後、学校の備品(梯子)の管理も、注意標識掲示の懈怠も、水門の閉鎖も、同様の解釈方法によって民法が適用される行為とみなされることになった。上記大判が「損害の原因を為す事実又は法律関係の認定に付て、見解の変遷を来したもの」と評価される所以である。
 以上のようにみてくれば、原判決が戦争行為全般を「公権力の行使」と認定したことは誤りであったといわなければならない。
 このことは、現代の国家賠償法にいう「公権力の行使」に自衛隊の活動一般をあてはめることができないのと同様である。
 当然のことながら、そこには、私法上の活動(各種の契約など)も、広義の「公権力の行使」(自衛隊施設の管理など)も、狭義の「公権力の行使」(防衛出動時の権限行使など)も含まれる。
 要するに、裁判所が行為の性質を特定するためには、被害者らに損害を及ぼした個別具体的な行為の性質を分析しなければならないのである。
 本件行為が非権力的行為であることは、すでに分析したとおりである。
 一方、本件行為は戦争行為の一環であるから公法上の行為であって、それゆえ非権力的行為であっても国家無答責の法理の援用が可能だ、という主張がなされうるかも知れない。
 その例として、前述の大判1910・3・2(板橋火薬製造所賠償請求事件)を挙げることができる。しかし、このような主張が成り立たないことは、前述の大判1916・6・1(徳島市立小学校遊動円棒事故賠償請求事件)以降の判例で明確にされた。
 大審院は、学校の備品管理、標識掲示の懈怠、水門閉鎖といった行為を私法上の行為ではなく、むしろ公法上の行為とみなしたにもかかわらず、これらの行為に起因する損害の賠償請求を認容することとしたのである。
 したがって、仮に本件行為が公法上の行為とみなされることになるとしても、そのことは、民法の適用を排除する理由にも、国の賠償責任を免除する理由にもなりえないのであって、本件行為が兵器製造のための開発・実験行為である限り、国は民法上の責任を免れないのである。

  (2) 学説
 学説は、上記のような判例の動向を肯定的に評価していた。たとえば、美濃部達吉は、前述の大判1910・3・2(板橋火薬製造所賠償請求事件)の解釈方法を次のように批判している。
「併しながら、此の如き判決の甚だ不当であることは、論ずる迄も無く明瞭である。其の根本的の誤謬は或る事業の全体を公法的のものと私法的のものとに区別し、公法的の事業には全然民法の適用の無いものとして居ることに在る。国家の行為に公法的行為と私法的行為とを区別するのは、唯法律的行為言ひ換ふれば意思表示又は之に準ずべき精神作用の発現を主たる構成要素となし之に依りて或る法律的効果を発生するものに付いてのみ、適用あるもので、之に依って行政処分又は司法判決と民法上の法律行為との区別を生ずるのである。事業の全体に関しては公法的と私法的との区別は全く存在しないもので、況んや公益事業に関して全然民法の適用の無いものと解するが如きは甚だしき誤謬である」。
 つまり、一定の国家の活動全体について公法的・私法的といった区別を行うことはできず、その全体を公法的なものとみなして民法の適用ができないものとして扱うことは「甚だしき誤謬」なのである。さらに美濃部は、前述の大判1916・6・1(徳島市立小学校遊動円棒事故賠償請求事件)の評釈で次のように述べる。
「法律が国家又は公法人に権威を認め、其の権威に対しては人民は訴願行政訴訟等の手段に依って之を争ひ得るの外之に服従しなければならぬものとせられて居る場合に於いては、其の権威の及ぶ限りは、仮令誤って人民の権利を侵害することが有っても、民法の意義に於いての不法行為と見るべきものではないが、此の如き権威の認められて居らぬ作用に在りては、公の行政権の作用と雖も、若し之に依って人民の権利を侵害することが有れば、民法に依り一般に不法行為として賠償責任を負はねばならぬのである」。
 美濃部によれば、法律が国等に対して権力行使を認めている場合については訴願や行政訴訟によって争うべきのもとされ、国民に対する権利侵害が有ってもそれは民法の不法行為には該当しないが、法律がこのような権力行使を認めていない場合には、行政権の作用であっても、国等は民法上の不法行為として損害賠償責任を負わなければならないのである。
 田中二郎も、国等の行為を安易に権力行使とみなすことを戒め、大判1916・6・1(徳島市立小学校遊動円棒事故賠償請求事件)以降の判例の動向を次のように論評している。
「右の諸判例にいって居るやうに市の小学校の管理とか水利組合の工作物の管理作用の中に権力的行為と民法上の占有権とを分別して理解することは恐らく正当な法の解釈方法ではない。寧ろそれ等の工作物は一個の公の管理権の対象となって居るものと解すべきである……。而も之に付て不法行為責任の認められることの正当なる所以は、仮令公の管理権の対象となって居るものであっても、実質的には私の工作物の設置管理と格別の差異なく、類似の法律関係には同一の規定を類推適用することが法の精神に合し、衡平の原理に副ふ所以であるからに外ならぬ」。
 田中によれば、公の管理権の下で行われる行為も、広く非権力的作用とみなされるべきであり、不法行為責任を認めることが法の精神に合致し、衡平の理念に沿うとされているのである。

  (3) 本件行為の場合
 以上のとおり、戦前の判例と通説によれば、戦争行為のような国家活動を包括的に権力的作用・非権力的作用、あるいは公法上の行為・私法上の行為といった分類にあてはめることは許されず、裁判所は、被害者らに損害を及ぼした個別具体的な行為の性質を究明しなければならないのである。
 本件行為の基本的性質は兵器製造のための開発・実験行為なのであるから、本件行為は、兵器製造という事業活動の一種として把握されるべきであって、「統治権ニ基ク権力行動」とは本質的に異なる行為である。
 したがって、国賠法附則6項にいう「従前の例」に判例法理も含まれるとし、かつ、国家無答責の法理の適用を肯定する説を採用したとしても、本件行為に国家無答責の法理を適用することは判例法違反となるので、現代の裁判所はこれを適用できないのである。
 付言すると、国公立病院の医療活動に関する事件には、今日でも、国家賠償法ではなく民法が適用されている。裁判実務において、この種の活動は「公権力の行使」に該当しないと解されているからである。
 そして、いわゆる人体実験とみなされうるような行為についても「公権力の行使」に該当しないものとして扱われている。たとえば、国立大学病院の医師らによる人体実験的治療は、国の不法行為として、709条が適用され、損害賠償請求が認められるのである(金沢地判平成15・2・17。判時1841号123頁など)。

第4 「国家無答責の法理」は外国での外国人に対する権力作用には適用され
ない
    
 1 原判決の誤り
 原判決は、「我が国に国家無答責の法理が確立した明治23年以降において、当時の我が国の法体系が、権力的作用の被害者が外国人である場合にその外国人に損害賠償請求権を付与していたことを示す事実は何ら認められず、日本人も外国人も等しく国家無答責の法理の適用を受けていたものと考えられる」(原判決25頁)とする。
 しかし、国家無答責の法理は、本件細菌戦の行われた日中戦争の最中においてさえ、既に破綻を来している。
 即ち、1937年日本軍の南京攻略戦に際し、揚子江下流に碇泊中の米砲艦パナイ号と米スタンダードオイル社商船3隻に対し、日本の軍機が誤爆を加え、3名の死者、数十名の負傷者を出した事件(パナイ号事件)に当り、日本政府はこれら被害者各人の受けた損害につき、直ちに謝罪し、それぞれ厳密な計算によって算出した金額の賠償をその翌年に行ったのである。
 原判決はこの件につき、国と国との間で解釈された事例であって被害者の個人請求権が認められた例に当らないというが、少なくとも個人の国際法上の主体性が認められたというべく、それ以上に、先ず、国家無答責の法理などは彼我共に一顧だにされなかったことを明らかに示している。凡そ、米国人被害者(うち5名は中国人)に対しては主張しない国家無答責の法理を、中国人に対しては主張するという矛盾、差別を如何に説明するというのか。
 実際には個人ごとに民事的な損害賠償請求の手順とやり方で補償額を算定し決定していることが分かる。
 また算定にあたっては「利用できる先例」として各種の判例が参照されているが、参照された54例はすべて個人の被害(戦争、内乱、官憲の不法行為などによる)に対し、加害外国政府に損害賠償を求めたケースである。以下、詳述する。

2 パナイ号事件では、個人賠償請求に応じている
  (1) パナイ号事件に対し事件発生から2日後の12月14日、日本の広田 外相は、アメリカのグルー駐日大使に対し、事件の責任を陳謝し、「一切の損害にたいする補償」、責任者の処罰、再発防止措置を申し入れ、26日アメリカ政府もこれを受け入れて一応の決着をみた(「グルー米国大使宛広田外相公文」1937年12月14日付、外務省調査局『米国軍艦パナイ号事件』昭和21年1月、41〜43頁)。
 パナイ号事件の損害賠償について、翌1938年3月21日付に、アメリカ大使を通じて総額221万4007ドル36セントが要求され、日本政府は4月22日、この賠償額を小切手で支払った。

  (2) 賠償額の内訳は、財産損害額、194万5670ドル1セント、死傷 事件賠償額、26万8337ドル36セントである。
 賠償の対象となった損害として日本の外務省が確認したのは、 @ 沈没艦船(砲艦「パナイ」号、「スタンダード・ヴァキューム」会 社船5隻)、
A 損壊船舶(「 スタンダード・ヴァキューム」会社船2隻)、 B 死者(「パナイ号」乗組員2名他1名)、傷者(艦船乗船者74 名)、
C 他(郵政省及び国務省並びに個人財産被害)である。
 被害者個人だけでなく個人財産被害まで賠償の対象になった(前出『米国軍艦パナイ号事件』、31〜32頁)。
 当時どのように補償額を算定したかは、アメリカの国立公文書館所 蔵の資料(「1937年12月12日、日本による合衆国軍艦パナイ号及びスタンダード・ヴァキューム・オイル社船の攻撃と沈没から発生した損失と損害」と題する「法律顧問覚書」(文書番号394.115 PANAY/408)で末尾に国務長官代理の署名があることから、国務省に提出されたものと思われる。日付は1938年2月16日付である)によって賠償額の算出がどのようにおこなわれたかをみることができる。

(3) まず海軍の部では、損害は、
a 艦船の損失(45万5727ドル87セント)
b 装備及び供給品の損失(9万7766ドル48セント)、
c 個人
に分けて考察されている。
 覚書の大部分が「c個人」に宛てられていて、被害者個人に対する損害賠償が中心になっている。
 「c個人」はさらに死者(2人)、負傷者(重傷11名、軽傷32名)、ショックおよび放置に依る被害(14人)に分けて算定され、総額14万2000ドルである。
 査定にあたっては被害者一人ずつについて「利用できる事実」(障害の態様、負傷の場合には事後の経過、医療に要した経費、後遺症の有無、給与、家族の生計維持に果たす役割など)、「利用できる先例」、「海軍省の勧告」、「結論」の順に詳細に算定の根拠が示され、賠償額が決定されている。
 海軍の次に郵政省の損失が計算されているが、之は切手、秤、日付印などの物損ばかりである。
 パナイ号に乗船していて被害を受けて大使館員(負傷4名)についても同様に個別に詳しく検討されて補償額が決定された。そしてそれとは別個に被害を受けた個人の所持品についても検討の対象とされ、補償額が算定された。

  (4) スタンダード・オイル社の商船の被害についても同様な手順で算定が おこなわれた。乗組員の人的被害は8人であったが、そのうちは軽傷を負った5人の中国人が含まれている。軍人の場合と比べて検討は簡略におこなわれたが、中国人5人(月給は最高15ドル、最低8ドル25セント)には一人あたり100ドルの補償額が決定された。さらにスタンダード社は乗組員、社員の所持品や家庭用品についても弁償として3万6034ドルを請求した。
 その他のケースでは、民間人、民間企業に対する13件の補償が算定されているが、そのなかには乗船中の中国民間企業(中国輸出入公社、Yee Tsoong煙草配給社)の社員も含まれている。
 取材中の通信社、映画会社の社員も被害にあったが、彼らの持ち物、映写機、レンズ、ネガフィルムなどに付いてもいちいち損害額が算出されている。

  (5) 先例とし参照されたもののうち民間人の戦争被害に対する請求権処理 に関わるものを一例だけ紹介しておこう。事例としては前に述べたが、第一次大戦中の1916年3月23日、乗船中のイギリス汽船サセックスがドイツの潜水艦の魚雷攻撃を受けた際、数人のアメリカ人乗客が負傷し、戦後ドイツから損害賠償を受けたケースである。
 若い医者(インターン)ワイルダー・グレイブス・ペンフィールドの受けた障害は、持続的な神経障害と膝関節を含む左脛骨骨折及び右くるぶしの捻挫である。入院1ヶ月、松葉杖での歩行3ヶ月、杖による歩行約4ヶ月、独米による混合請求権委員会が1万5000ドルの付与を裁定したときにまだ膝の機能は回復していなかった。
 未婚で24歳であったが、一人前にピアニストであったエリザベス・フォード・スチムソンは数週間昏睡状態におちいった。肩に永久的な損傷、左の臀部関節は慢性的破砕状態("mushroom fracture")でそのため障害をうけ職業の遂行が不可能になった。4万ドルを付与された(荒井信一「日本の加害行為被害者の個人賠償請求権についての歴史的考察」参照)。

 3 日本国の管轄に服さない外国人に対する国家無答責の不適用  控訴人らは、原審において、国家無答責の法理論的根拠として、2つの論理をあげた。第1に、主権者は何ものにも拘束されずに法を作成することができるのであるから、主権者は常に法に違反することはない、という主権無答責の考え方が、近代国家においては、主権者である国民=国家は法を侵犯し得ないし、法を侵犯することは考えられないとされ、国家の不法行為責任が否定される「支配者と被支配者の自同性」の論理である。
 第2に、違法な国家機関の行為は、国家意思たる法規に違反するが故に法律上国家を代表する機関行為とは認められず、国家機関を構成する個人の個人的責任の問題を生ずるのに止まり、国家の法的責任は生じないという、違法行為の国家帰属を否認する「国家と法秩序の自同性」の論理である。
 そして、これらの国家無答責の法理論上根拠から、国家無答責の適用には明らかに場所的限界があることを主張した。
 「支配者と被支配者の自同性」は、その国家の管轄(統治権)に服する者の範囲での議論であって、統治権の及ばない外国での外国人との関係において成立しえないものであることは当然である。当該国家は自国の管轄外にある他国の国民の意思により行動するのではないから、その関係に「支配者と被支配者の自同性」など存在するはずもないのである。
 また、「国家と法秩序の自同性」についても、国家の行為を適法化する法は、主権の及ぶ自国の管轄内に限られるのであるから、自国の管轄範囲内においてのみ妥当するものであり、適法化の及ばない外国での外国人に対する行為において成立しないのは当然である。
 本件細菌戦は、被控訴人の統治権が及ばない外国での外国人に対する行為であり、国家無答責が適用されうる範囲からはずれているのである。 ところが、原判決は、「確かに、欧米で主権無答責の法理が受け継がれていく過程において、原告らのいう『支配者と被支配者の自同性』や『国家と法秩序の自同性』の論理が同法理を支えるものとして唱えられたことがあったと解される」(原判決23頁)と、『支配者と被支配者の自同性』や『国家と法秩序の自同性』が国家無答責の法理論的根拠になっていることを認めながら、これらの法理論的根拠から必然的に国家無答責には場所的限界性があることについては言及せず、論点をずらして、「当時の我が国の法体系が、権力的作用の被害者が外国人である場合にその外国人に損害賠償請求権を付与していたことを示す事実は何ら認められ」ないことをもって、「日本人も外国人も等しく国家無答責の法理の適用を受けていたものと考えられる」という誤った結論を導き出してしまっている。
 しかしそもそも、前述した「パナイ号事件」では、国家無答責は適用されず、被控訴人は、損害賠償を行っているのであるから、原判決の判示は、事実と異なっている。

 4 前例のない本件細菌戦
 原判決は、「日本人も外国人も等しく国家無答責の法理の適用を受けていた」ことの根拠として、「旧民法の立案に深く関与した井上毅が、前記のとおり国家無答責の法理の根拠を行政権の円滑な運用に求めていたことによっても裏付けられる」と判示する。
 本件細菌戦は、「日本の統治権の及ばない外国での外国人に対する行為」であるが、それにとどまらず、戦争行為であり、また違法な戦争犯罪行為である。仮に「行政権の円滑の運用」が、外国での外国人に対する行為として存在したとしても、それは何らかの統治行為としてのみありうるのであって、本件細菌戦のような戦争行為、まして敵国の住民を無差別に殺傷するという前例のない戦争犯罪行為が、「行政権の円滑な運用」と呼べるものではないことは明白である。原判決の論拠に従ったとしても、本件細菌戦に国家無答責を適用しうる余地はまったくないのである。

 5 日本における立法者意思
 ところで、原判決は、『支配者と被支配者の自同性』や『国家と法秩序の自同性』の法理論が、欧米において国家無答責の理論的根拠となっていることを認めながら、日本においては、「行政権の円滑な運用」という立法者意思が国家無答責の根拠となったと判示している。
しかし、これも事実と異なっている。
 「法律取調委員会・民法草案財産編第373条に関する意見」によれば、法律取調委員の今村委員は、国家が「人民ノ権利」を侵害した場合に、賠償責任を負うかという問題を取り上げて、次のように述べている。
「按するに国家の性質を講する者は説種々ありと雖も要するに其の主たる目的は人民の権利を保護し及び幸福を増進するに在りて人民に害を加うる者に非ず故に或る学者は曰く国家は悪を為すこと能はすと誠に然り是を似て国家が責に任ずる場合なし」(日本近代立法叢書29頁以下)。
この考えは他の委員にも共通であった。このように、国家無答責の根拠は、旧民法制定当時の立法者の見解によっても、「国家とは人民の権利を保護し、幸福を増進させるものである」という前提のもとに、国家無答責が論じられているのであり、国家無答責の根拠は、やはり、「支配者と被支配者の自同性」「国家と法秩序の自同性」ないし利害の一致に求められていたのである。
 ここで言う「人民」とは、国家がその権利を保護し、その幸福を増進する対象となる者であり、それは自国の管轄に服する「人民」であって、外国の管轄に服する人民を含まない。外国の管轄に服する人民に対しては、国家がその権利を保護したり、その幸福を増進することは想定されていないからである。
 本件細菌戦において、被控訴人である日本国と、控訴人ら中国人民との関係においては、国家が「人民の権利を保護し及び幸福を増進する」という関係にないどころか、被控訴人は、無差別大量殺戮という巨大な悪、害を控訴人らに加えているのであり、国家無答責の前提を欠いているのである。
以上のように、国家無答責の法理論上の根拠からも、日本の立法者意思 からも、日本国の管轄に服さない外国人に対して国家無答責は適用されない。
 前述のとおり、国の権力作用によって生じた被害に対しては国は賠償責任を負わないというのが国家無答責論であるが、権力作用とは、国家が個人に対して命令し服従を強制する作用である。そうであれば、命令、強制権の及ばない他国に在住する他国民、しかも、占領、支配下にあるともいえない他国民にまで、無答責の抗弁が通用するなどということがありよう筈がない。

6 被控訴人の主張に対する反論
 上記の主張に関して、被控訴人は、「外国における軍人の行為も、国家 主権に基づく行為であることに変わりはなく、外国における外国人に対する行為であるからといって、民法が軍人の行為を私人の行為と同様に取り扱うことを予定しているものとは考え難い。(中略)国の権力的作用による以上、民法の不法行為規定は適用されず、国家無答責の法理によるべきである。」と主張する(被控訴人第1準備書面36頁)。
 しかし、命令、強制権の及ばない他国に在住する他国民、しかも、占領、支配下にあるともいえない他国民にまで、無答責の抗弁が通用するなどということがありよう筈がない。
 原判決も、「本件細菌戦による被害は誠に悲惨かつ甚大であり、旧日本軍による当該戦闘行為は非人道的なものであった」と評価し、「ヘーグ(ハーグ)陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていると解するのが相当」と断じている。
 本件を含み凡そどのような残虐、非道な行為でも権力作用の名において全て責任を問われないなどという理不尽が古今東西に通用する筈もない。日本の司法だけが、このように国際社会に通用しない「切り捨て御免」の愚論を今に至ってなお後生大事に維持している現状は、まことに恥ずべく嘆かわしい限りである。日本を国際人権社会から孤立せしめる所以である。
たとえ、国家無答責の法理が確立していたとしても、本件のような外国での外国人に対する権力作用殊に本件のごとく、戦争の相手国国民との間で、戦争行為による損害賠償請求に関しては、適用されるものではない。これは、被控訴人が引用する、国家無答責の法理の根拠に照らして、明らかである。
 被控訴人は、「我が国の代表的な公法学者」の見解として、美濃部達吉博士、佐々木惣一博士及び田中二郎博士の見解を引用している(準備書面(1)19〜21頁)。このうち、佐々木博士の見解は国家無答責の法理の根拠を示した上での論ではない。美濃部博士及び田中博士の見解については前述したとおりであるが、統治権に関するその見解は、「統治權の作用は私人の行爲とは性質を異にし…國家はそれに付き損害賠償の責に任ずるものではない。…それが統治權に基づく強制權の作用である限り…國家に對して損害賠償を請求し得べきものではない。」(美濃部)、あるいは「權力的作用とは國家が個人に對して命令し服從を強制する作用であり、…此の權力的作用によって違法に他人の權利を侵害することがあったとしても−特別の規定のない限り−國家としては一々責任を問わるべきではないと解する外はない。」(田中)というものである。
 これらの見解を一読して理解できることは、ここで問題とされているのは、統治権の作用によって損害が発生したとしても、賠償義務は発生しないという点であり、すなわち、統治権の範囲であれば国家は無答責であるということである。
 これは、国家の統治権が及ぶ範囲内の者との間の関係においてのみ、妥当しうる理論である。しかし、国家と外国に存在する外国人との関係においては、原則として国家の統治権が及んでおらず、これらの見解に拠っても、国家無答責の法理が適用される根拠がないことになる。
 いわんや、戦争において、戦争相手国の国民に対する戦闘行為が、その被害者に対する関係で統治権による行為であると説明することは不可能である。
 控訴人らは、日本人ではなく、大日本帝国の統治権に服していた者ではない。
 したがって、たとえ国家無答責の法理が確立していたとしても、本件では、同法理が適用される余地はない。

第5 ハーグ条約の国内法化によって「国家無答責の法理」は排除され適用さ れない。

 1 ハーグ条約は、1907年オランダのハーグにおいて開かれた第2回ハ ーグ平和会議で採択された。同条約には、同会議に参加した44ヶ国が署名し、その効力は1910年1月に発生した。日本は1911年に批准している。
 一方、1925年6月に成立した「ジュネーヴ・ガス議定書」において細菌戦は禁止され、遅くともそれが発効した1928年ころには、国際慣習法としても確立していた。日本政府も、同議定書に制定直後に署名しており(ただし、批准したのは1970年)、同議定書が国際慣習法の成立していることを充分に認識していた。
 国際法の国内法化及び国内法に及ぼす影響については異説はなく、国際条約に抵触する国内法は、条約に適合するように解釈されなければならないことについては、明治憲法下の日本においても受容されていた。
 国際法に違反する不法行為が国家責任を生じさせることは一般国際法の原理からして当然であるが、本件細菌戦について、原判決は、ジュネーブ・ガス議定書に違反する不法行為であり、被控訴人には、ハーグ条約3条に基づく国家責任が生じていたと認定した。

 2 ところで、国際慣習法として成立していたハーグ条約及びジュネーブ・ ガス議定書が国内法化している法制下にあっては、国家無答責の法理は主張しえない。
 なぜなら、ハーグ条約及びジュネーブ・ガス議定書が国内法化したということは、その実体規定が国内法的効力を有するだけでなく、その違法行為に伴って生まれる国家責任解除に関する権利義務関係も当然国内法化しているのである。被控訴人に発生したハーグ条約3条に基づく国家責任は、国際法的平面においてと共に、国内法的平面においても発生しているのである。
 仮に国家無答責の法理が存在していたとしても、本件に適用されうるか否かは、「国内法は国際法に適合するように解釈されなければならない」という確立した法原理によって解釈されなければならないのである。それは、国際法を国内法化し、しかも法律よりも上位に位置づける日本の法秩序内での当然の法的要請である。日本政府自らが自由権規約委員会の場で明言したように、「裁判所が国内法と条約とが矛盾すると判断した場合には、後者が優先し、関連国内法は無効とされるか修正されなければならない」(阿部浩己『国際人権の地平』264頁、現代人文社)。これは、明治憲法下においても妥当していた。
いずれかの国内法の解釈により国際義務違反が是正される余地があるのであれば、司法には、国際法適合的な解釈を採用することが求められている。民法の不法行為規定を、国際法違反によって生じた国家責任・損害賠償を請求する法令上の根拠として解釈することは、まったく可能である。戦前の判例においては、学説と異なり、国際法と国内法を等位に位置づけていたようだが、その場合には後法が優先するのであり、本件では1898年に成立した民法に対し、1910年に発効したハーグ条約が後法として優位に立つ。

3 ところが、原判決は、被控訴人にハーグ条約に基づく国家責任が発生し ていることを認定しながら、国家無答責という国内法の法理をもって、被控訴人の賠償責任を否定し、「国内法は国際法に適合するように解釈されなければならない」という法の解釈原理に反してしまっている。
 国家無答責という国内の法理と、ハーグ条約という国際法が抵触したとき、国家無答責は、国際法に適合するように解釈されなければならないのであり、本件に適用することはできないのである。まして、明文化された規定がなく、単なる一解釈である国家無答責の法理を国際法に優先して適用し、被控訴人に発生した国家責任を否定することはできない。

 4 被控訴人は、「ヘーグ陸戦条約の規定が、そもそも被害者個人の加害国 に対する損害賠償請求権をその内容として保障していない以上、ヘーグ陸戦条約の規定が国内法的効力を有するとしても、それにより当該規定が保障していない個人の損害賠償請求権が国内法的に創設されるということはあり得ず、国家無答責の法理と何ら抵触を生ずるものではない。したがって、本件についてヘーグ陸戦条約の国内法的効力を論じてみても、これをもって、国家無答責の法理が排斥され、控訴人らの請求が法的に根拠づけられるものでもない。」と主張する(被控訴人第1準備書面40頁)。

 5 しかし、ハーグ条約が、日本国内において、法律などと同様に適用され るためには、国内法による補完・具体化がなくとも条約の内容上そのままの形で国内法として直接に実施され、私人の法律関係について国内の裁判所と行政機関の法規範として適用できること、すなわち、「自動執行力」が認められなければならない(なお、条約規定の自動執行性と直接適用可能性については、両者を同義のものとして互換的に用いる用法が多いため、ここでは一般的な用法に従う)。

 6 この点につき、条約規定が裁判所でそのまま適用できるためには、「主 観的要件」と「客観的要件」とを充足していなければならないとする主張がある。
 すなわち、主観的な要件として条約の作成・実施の過程の事情により、私人の権利義務を定め直接に国内裁判所で執行可能な内容のものにするという、締約国の意思が確認できることが必要であり、客観的要件として、私人の権利義務が明白かつ確定的、完全かつ詳細に定められていて、その内容を具体化する法令にまつまでもなく国内的に執行可能な条約規定であることが必要、という主張であり、被控訴人も同様の主張をする。
 しかし、このうち主観的要件、すなわち国家が条約作成当時にそれが国 内裁判所で直接適用できることを意図していたことという要件は不要というべきである。
 国際法たる条約は元来、実現すべき結果を国家間で合意し、それを各国が実現する具体的な手法は、それぞれの国に委ねるという方式をとるものが普通である。従って、条約の締結にあたっても、条約の当事国は、条約が国内で実現されるという結果に最も関心をもち、実現方法については関心をもたないのが通常であるから、条約が直接適用可能であるとの当事国の積極的な意思が条約中に明示されることはほとんどない(甲221号証 岩沢雄司『条約の国内適用可能性』有斐閣、1985年、153頁)。条約の直接適用可能性の問題について詳細な研究を行っている岩沢教授によれば、直接適用可能性についての当事国の意思とされるものは、たいていは「全くの擬制的な意思」(同)にすぎない。条約起草時の当事国の主観的な意図を要件とすることは、端的に言って不適切である(甲219、甲222号証)。

 7 また、客観的要件として、私人の権利義務が「明白、確定的、完全かつ 詳細に」定められていることが挙げられるがあるが、そのような厳格な条件が必要かどうかは疑問である。条約を含め、法規定は本来的に、後に解釈により意味内容が発展せられることを予定して、ある程度一般的な用語で規定されているものである。国内実施を予定している条約であれば、その規定中の法概念がいかなる意味内容をもつかは、それぞれの締約国における国内判例の蓄積や学説の発展に応じて、確定されていくのである。
したがって国内裁判所は、条約の解釈・適用にあたっては、国際法上認められた条約の解釈原則(ウイーン条約法条約)に従い、条約の趣旨目的に照らして条約の文言を誠実に解釈し、求められている司法判断を行う目的からみて十分な明確性をもつと考えられる場合には、それに基づいて結論を下すことができる。条約が個人の権利を認めており、それが国家の作為によって侵害されたと考えられる場合には、その違法認定と救済は比較的容易なはずであり、条約の自動執行性の客観的要件に高い壁を設けることは不必要である。

8 そしてそもそも、条約は憲法上、国家による批准と交付を以て、国内的 効力を有するのであるから、その条約が内容上明確に締約国に対して条約の実現のための立法または行政措置が必要であると明記している場合、又は規定の文言上その実施について国内立法又は行政措置を明らかに予定している場合、若しくは条約の文言上に現れた締約国の意思から直接適用が否定されていると考えられる場合以外は、原則として他の法令と同様に、裁判所において直接適用が可能であると解するべきである。

9 仮に、条約に自動執行力が認められるためには、主観的な要件と客観的 要件が必要であるとしても、ハーグ条約3条はそのいずれをも充足しているというべきである。
 すなわち、まず、締約国の意思については、前述した同条の制定過程、特にその提案理由をみれば、同条が加害国に対する被害者個人の損害賠償請求権を定め、かつ直接に加害国に損害賠償を求めることを締約国が承認して締結したことは疑いの余地はない。
 次に、同条約3条の規定の内容も、極めて明確であるといえる。そもそも明確性が要求される根拠は、それが国内的に執行されることにより国内の法的安定性を害してはならないという要請からである。したがって、明確性の程度は、同種の国内法と同程度であれば足り、それ以上である必要はない。
 わが国の不法行為の一般原則を定める民法709条は「故意又ハ過失ニ因リテ他人ノ権利ヲ侵害シタ」と極めて一般的に不法行為の発生要件を定めているに過ぎないし、また、国の不法行為賠償責任を定める国家賠償法1条も、「公権力の行使に当る公務員が、その職務を行うについて、故意又は過失によって違法に他人に損害を加えたときは」と極めて抽象的文言で規定されている。これらの条文中の各要件の具体的内容は、裁判所の判例の積み重ねによって決められている。
 このようなわが国の制度に照らしてみるならば、ハーグ条約3条の規定の方がより具体的かつ詳細な要件を規定していることは一見して明らかである。ハーグ条約3条は、日本の国内法として充分な明確性を有している。

 10 以上の検討から、ハーグ条約3条が自動執行力を有することは疑問の余 地がない。

第6 「国家無答責の法理」は一法解釈にすぎず、現在の法解釈に基づき裁判 すべき

 1 国家無答責は適用されず民法の不法行為規定の適用によって被控訴人 の損害賠償責任は成立する。
 上記第1乃至第5において、本件細菌戦に国家無答責が適用されないことを論じてきた。すなわち、第1に、国家無答責の法理は、いわゆる「判例法」によっても、当時の学説によっても、また立法者意思によっても、確立してはおらず、適用理由も曖昧であった。また第2に、本件細菌戦のような国際法違反の残虐な戦争行為は、「適法な権力行使権限」に基づかないこと、第3に、大審院の見解に基づけば非権力的な公法上の行為(事業活動)に分類できること、第4に、国家無答責の法理の場所的限界性(外国での外国人に対する行為には適用されない)、第5に、ハーグ条約の国内法化による、国際法に適合した国内法の解釈等によって、本件細菌戦に国家無答責の法理は適用されないのである。
 国家無答責が適用されない場合、現行民法の不法行為規定によって、被控訴人の賠償責任が成立することは、戦前の判例からも明らかである。
 さらに、上記第1から第5の本件細菌戦への国家無答責不適用の根拠は、本件細菌戦が、日本国憲法下の現時点での法解釈に従って裁かれるべきであることを導くものである。
 「過去の法律の解釈は、過去の時点での解釈に従うべきか、現時点での当時の法令の解釈をすべきかが論点であるが、明治憲法時代でさえ、公権力の行使について民法を適用する解釈があったことに照らすと、理論的には、今日の裁判所としては、当時の判例に従えば足りるのではなく、当時の法令の解釈を現時点でやりなおすべき」(阿部康隆『国家賠償法』有斐閣41頁)なのである。

 2 訴訟法上の救済手続の欠如としての国家無答責
 被控訴人は、「明治憲法下において合理性のあつた国家無答責の法理を日本国憲法を前提とする現在の価値観によって否定して、特別の規定がないのに、無答責であつた行為につき、賠償責任を認めることは法の解釈として許されない」と主張する(被控訴人第1準備書面43頁)。
 しかし、国家無答責の法理は、訴訟法上の救済手続が欠如していることを意味する訴訟上の一説にすぎない。明文(行政裁判所法16条)をもって否定されていたのは行政事件としての訴訟要件という点においてのみであり、行政作用に関しては別途行政裁判所が設けられているという事情から、民事訴訟の手続きにおいて判断することが差し控えられただけである。
 そうであるならば、行政裁判所が廃止され、全ての事件を司法裁判所が審理することとなった現在の手続法の下においては、行政作用に関する損害賠償請求訴訟も司法裁判所が審理することになんの障害もなく、もともと実体法上は国家無答責の法理なるものは認められていなかったのであるから、戦前における行政作用に関する損害賠償請求訴訟について、現在、司法裁判所が現在の手続法の下で審理することには、なんの問題もない。

 3 「正義公平の原則」により国家無答責を否定した最近の諸判例
 日本国憲法17条は、国の賠償責任を明記し、国家無答責の法理を否定した。現在の裁判所は日本国憲法の価値原理に則って法令の解釈適用をすべきであり、過去の法令の解釈についても、現時点で当時の法令の解釈をし直すべきである。
 現行の憲法や裁判制度の下ではこの法理には正当性・合理性を見出し難いという理由や、この法理は正義・公平の理念に反するので適用できないといった理由を挙げて、この法理の判例法としての妥当性を否定する説を採る裁判例が、最近では増えている。以下、引用する。

(1) 東京地方裁判所民事第25部2003年3月11日判決
 東京地方裁判所民事第25部2003年3月11日判決は、中国人強制連行第二次東京訴訟判決に関して、「国家賠償法附則6条において、『この法律施行前の行為に基づく損害については、なお従前の例による。』と規定され、同法の規定の遡及適用が否定された以上、同法施行前の公務員の公権力の行使の違法を理由とする国の損害賠償責任に関しては、民法の不法行為に関する規定が公務員の公権力の行使についても適用があるか否かという民法の解釈にゆだねられていたと解するよりほかはない」としたうえで、「戦前の裁判例及び学説に照らすと、『国家無答責』なる不文の『法理』が確立しているとの理解を背景として、上記のような解釈が採られていたことがうかがわれるものの、現時点においては、『国家無答責の法理』に正当性ないし合理性を見いだし難いことも、原告らが主張するとおりである。当裁判所が国家賠償法が施行される以前の法体系の下における民法の不法行為の規定の解釈を行うに当たり、実定法上明文の根拠を有するものではない上記不文の法理によって実定法によるのと同様の拘束を受け、その拘束の下に民法の解釈を行わなければならない理由は見いだし難い」と、「従前の例による」ことが、国家無答責を適用しうる根拠とならないことを鮮明に判示し、「そして、民法715条の文言上は、公務員の公権力の行使が同条の適用から排除されているとはいえないこと、行政裁判所法16条が『行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス』と規定しており、同条の規定は、実体法上は、公権力の行使に違法があった場合に国に対する損害賠償請求権が成立することを前提としながら、行政裁判所が損害賠償請求訴訟を受理しないという訴訟法上の定めを置いたものと解する余地もあることを考慮すると、国家賠償法施行前における、公務員の公権力の行使の違法を理由とする国の責任についても、民法715条の規律にゆだねられていたものと解する余地がないとはいえない。」と判示する(判決37頁)。

(2) 東京高等裁判所民事第16民事部2003年7月22日判決
 東京高等裁判所民事第16民事部2003年7月22日判決は、アジア太平洋戦争韓国人犠牲者補償請求控訴事件に関して、「戦前において、上記のような解釈が採られていた根拠は必ずしも明らかではなく、結局、国の権力作用に伴う不法行為に基づく損害賠償請求訴訟については司法裁判所において民事裁判事項と認めず行政裁判所においても行政裁判事項として認めず、ともにその訴訟を受理しなかったため、その種の損害賠償請求を法的に実現する方法が閉ざされていただけのことであり、国の権力作用による加害行為が実体的に違法性を欠くとか有責性を免除されているものではなかったと解すべきである。いわゆる『国家無答責の法理』は、上記のような訴訟要件としての権利保護適格を否定する解釈が採られていたことによるものにすぎず、行政裁判所が廃止され、公法、私法関係の訴訟を司法裁判所において審理されることが認められる現行憲法及び裁判所法の下においては『国家無答責の原理』に正当性ないし合理性を見い出し難い。もともと国家賠償法は民法709条以下の不法行為法の特別法である性格も有し、国家賠償法の制定がなければ賠償請求権の実定法上の根拠がなかったと解すべきではなく、一般法としての民法709条以下の不法行為法が原則として適用されると解すべき余地が十分にあり得たものであり、民法715条の文言上は、公務員の公権力の行使が同条の適用から排除されているとはいえないこと、行政裁判法16条が『行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス』と規定しており、同条の規定は、実体法上は、公権力の行使に違法があった場合に国に損害賠償請求権が成立することを前提としながら、行政裁判所が損害賠償請求訴訟を受理しないという訴訟法上の規定を置いたにすぎないものと解され、他方、司法裁判所も前提問題として行政処分等公権力の行使の適否、瑕疵を判断しなければならない時は、行政裁判所による行政裁判手続きを設けた趣旨にかんがみ、結局司法裁判所が判断し得る司法上の民事裁判事項ではないとして権利保護適格を認めなかったにすぎないと解されるから、現行憲法及び裁判所法の下において裁判所が国家賠償法が施行される以前の法体系の下における民法の不法行為の規定の解釈・適用を行うに当たっては、訴訟手続き上の制約が解止されたものと考えるのが相当である」と、戦前における行政作用に関する損害賠償請求訴訟について、民法による損害賠償法理の適用があることを判示している(判決79頁)。

(3) 新潟地方裁判所2004年3月26日判決
 新潟地裁2004年3月26日判決(甲501)は、新潟強制連行事件に関して、「戦前においては、行政裁判所法が『行政裁判所ハ損害要償ノ訴訟ヲ受理セス』と定め(同法16条)、司法裁判所も国による公権力の行使に関連する行為については民法の不法行為に関する規定を適用しないとしており、司法裁判所及び行政裁判所ともに国の公権力の行使に関連する不法行為に基づく損害賠償請求を受理しなかったため、そのような請求を行うことはできなかった。しかし、このようにして、国に対する損害賠償請求を否定する考え方自体が、行政裁判所が廃止され、公法関係及び私法関係の訴訟の全てが司法裁判所で審理されることとなった現行法下においては、合理性・正当性を見出し難い。また、国の公権力の行使が、人間性を無視するような方法(例えば、奴隷的扱い)で行われ、それによって損害が生じたような場合にまで、日本国憲法施行前、国家賠償法施行前の損害であるという一事をもって、国に対して民事責任を追及できないとする解釈・運用は、著しく正義・公平に反するものといわなければならない。」と国家無答責の適用が著しく正義・公平に反すると指摘した。
 さらに、同判決は、「本件は、被告国が政策として、法律上・人道上およそ許されない強制連行・強制労働を実施したという悪質な事案であり、これに従事した日本兵らの行為については微塵の要保護性も存在しない。また、前記認定事実8のとおり、被告国は、強制連行・強制労働の事実を隠蔽するために、外務省報告書等を焼却するなど極めて悪質な行為を行っているのである。
 このような事情を総合すると、現行の憲法及び法律下において、本件強制連行・強制労働のような重大な人権侵害が行われた事案について、裁判所が国家賠償法施行前の法体系下における民法の不法行為の規定の解釈・適用を行うにあたって、公権力の行使には民法の適用がないという戦前の法理を適用することは、正義・公平の観点から著しく相当性を欠くといわなければならない。」と判示し、強制連行・強制労働のような重大な人権侵害が行われた事案について、正義・公平の観点から、国家無答責の適用を否定した(甲501判決87頁以下)。

(4) 福岡高等裁判所2004年5月24日判決
 福岡高等裁判所2004年5月24日判決は、福岡三井鉱山強制連行控訴事件に関して、「旧憲法下における事例であっても、すべての権力的作用に基づく行為について民法が適用されないとする法理があったというのは相当でなく、戦前の判例法理を前提としても、特段の事情がある場合には、国は不法行為責任を負わなければならないと解釈する余地は残されていたと解するのが相当である。」と国家無答責の法理が全てに適用されたわけではないと判示し、「平穏な暮らしをしている日本国の主権に服しない中国人を、いわば故意に暴力や欺罔を用いて家族のもとから切り離し、敵国に連行して強制的に労働に従事させることは、個人の尊厳、人間的価値を否定する、甚だしく人倫にもとる行為である。旧憲法の基礎をなす自然法に違背し、著しく正義・公平に反している。
 してみると、本件強制連行・強制労働は、公務員の権力的作用に基づく行為ではあるが、正義・公平の理念に著しく反し、行為当時の法令と公序に照らしても許されない違法行為である。国家無答責の法理を適用して責任がないというのは不当であり、民法により不法行為責任が認められるべきものである。」と判示して、強制連行・強制労働は正義・公平の理念に著しく反した違法行為であるから、民法により不法行為責任が認められるべきであると認定する。
 さらに、同判決は、大審院判例を分析して、「判例といっても、同種の事実、事件に対して事実上拘束力を持つにすぎないことに想到すれば、民法715条が公務員の権力的作用に基づく行為を文理上排斥せず、ほかにこれを否定する実定法がない以上、いわゆる国家無答責の法理は、実定法上の根拠に基づくものではなく、同法理を採用した判例も、国賠法施行前の当該事案限りの解決を示した事例判決であったと解するのが相当である。
 しかして、本件事案は、過去の国家無答責の法理の適用事例とされた事案とは全く異なっている。」と判示し、過去の国家無答責の法理の適用事例と事案を異にするとして、国家無答責の法理の適用を否定した(判決118頁以下)。

(5) 広島高等裁判所2005年1月19日判決
 広島高等裁判所2005年1月19日判決(甲549)は、三菱広島元徴用工控訴事件に関して、「実定法上、国家無答責といった法理が明文で規定されていたわけではない。また、権力的作用に伴う行為による損害について、国の賠償責任を否定する法規も、反対に現在の国家賠償法のようにこれを認める旨の特別な法規も存在しなかった。そして、行政裁判所では損害賠償請求訴訟を受理しないことが行政裁判法の明文で定められていたことから、問題は、司法裁判所において、このような権力的作用に伴う行為に関する損害賠償請求が受容されるかどうかの判断にかかることとなった。しかるに、上記のとおり、このような損害賠償請求については、肯定、否定、いずれの法規も存在しなかったのであるから、その判断は、このような行為について民法の不法行為規定の適用を認め得るかどうかによることとなり、司法裁判所は、その多くの裁判例においてこれを否定して、損害賠償請求を棄却する判断を重ねていたということなのである。したがって、実定法上、国に損害賠償責任が存在しないことが確定していたわけではなく、単に、損害賠償請求を実現する法的な手段が認められていなかったにすぎないものということができる。」と判示し、国家無答責の法理が実定法上確定したわけではないと認定する。
 そして、同判決は、「明治憲法下での裁判例においても、当初は国に対する損害賠償請求は全く認められていなかったものが、私経済作用に伴う不法行為については民法の不法行為規定の適用が認められるようになり、次いで非権力的作用に伴う不法行為についても拡げられていったのである。したがって、上記の国家賠償法の附則6項にいう従前の例というのも、司法裁判所における民法の不法行為規定適用の有無の判断にかかっているという状態を指すものと解するのが相当であり、同項が、同法施行前の行為に関して国家無答責の法理が適用されることまでも明らかにしたものということはできない。」と明治憲法下での裁判例の変遷から、国家賠償法の附則6項にいう従前の例が国家無答責の法理を意味するとはいえないと判示する。
 そして、同判決は、「当裁判所は、このような意味合いにおいて、本件強制連行にかかる国の行為に関して民法の不法行為規定の適用が認められるかどうかを判断すべきものと考える。そして、行政裁判所が廃止されて司法裁判所に一元化されたことや、国家賠償法のような特別法が存在しない状態においては、民法の不法行為規定は、公務員の公権力の行使に伴う不法行為をも含めて不法行為に関する一般法ともいえる存在であると解すべきこと、明治憲法下においても限定された範囲内ではあっても個人の尊厳は尊重されていたものであり、少なくともこれを否定することは許されないこと、そして、国家無答責という考え方に一般的な正当性を認めることはできないこと等からすれば、本件強制連行にかかる国の不法行為については、民法に基づいて不法行為による損害賠償責任が認められるべきものと判断する。よって、被控訴人国の国家無答責を内容とする上記主張は採用することができない。」と判示し、強制連行にかかる国の不法行為については、国家無答責の法理を排斥した(甲549判決133〜136頁)。

 4 現憲法下における「正義公平の原則」の本件細菌戦への適用
 本件細菌戦は、原判決が認定するように、ジュネーブ・ガス議定書に違反し、同議定書を内容とする国際慣習法に違反し、かつ賠償責任を定めたハーグ陸戦条約第3条に違反する戦争犯罪の中でも特別な残虐性をもっている。
 細菌兵器の特徴は、その被害の範囲を予測することも限定することもできないこと、非戦闘員である一般市民の大量殺戮を狙うものであること、戦闘行為終了後においてもその潜在的破壊力ゆえに2次流行、3次流行を引き起こし、長期間にわたって地域社会全体が伝染病の発生・蔓延の危険にさらされることにある。
 本件細菌戦の被害地の内、浙江省の義烏市、東陽市、義烏市の崇山村、義烏市塔下洲は、日本軍が衢州市に投下した細菌によって発生したペストが伝播し、多大の犠牲者を生んだものである。衢州市では戦後にいたるまでペストの流行が続いたのである。
 このような前例のない残虐な非人道的行為が、国家無答責の法理をによってその責任が問われず、被害者が救済されないことは、「正義公平の原則」に著しく違背する。
 戦前の法的、時代的制約の下でも、法の正義の見地から民法の適用範囲を拡大して、「国、公共団体の損害賠償責任追求の道」を切り開いた戦前判決例の努力の過程があることは、すでに述べた。原判決が国家賠償法の「従前の例」という規定をもって、国家無答責を適用し、控訴人らの賠償請求の道を閉ざしてしまうことは、上記戦前からの努力の過程に逆行するものであり、これもまた正義公平の原則に反するものである。
 本件細菌戦のように、加害行為時と裁判時で、国の賠償責任についての価値原理は大きく転換しており、しかも、加害行為時において、国の賠償責任を否定する国家無答責の法理が、確定した法理として確立していたわけではなく、一法解釈にすぎないものでしかない場合、さらに、その加害行為が史上類例のない残虐な戦争犯罪である場合、結果として日本国憲法の価値原理と真っ向から反する結論を導くことは、法の解釈適用として許されることではない。裁判所は、現在の日本国憲法の価値原理に基づいて法解釈を為し、現時点の法原理に適合する結論を導かなければならない。

第7 まとめ

 控訴人ら及びその代理人らは、本件について日本政府が被害者に謝罪、賠償することが、日本の国際的信頼を高め、諸国との真の友好、平和を築くことに直結し、従って金銭に替え難い国益となると確信するのであるが、被控訴人は必ずしもそのように考えてはいないようである。
 しかし、裁判所は、何れが国益に沿うかなどという政治的配慮をする必要もなく、むしろ配慮すべきではない。裁判所に望むことは、国益如何に拘らず、あくまで純粋に、正義を実現していただきたいということに尽きるのである。
 これこそ大審院長・児嶋維謙以来の司法のあるべき姿である。


第7章 時効・除斥の不適用

第1 時効は未だ完成していない

 1 民法724条後段の法的性格について
 被控訴人は、最高裁判所平成元年12月21日第一小法廷判決(民集43巻12号2209ページ,以下「最高裁平成元年判決」という。)および最高裁判所平成10年6月12日第二小法廷判決(民集52巻4号1087ページ,以下「最高裁平成10年判決」という。)を引用し,「民法724条後段の規定は,不法行為によって発生した損害賠償請求権の除斥期間を定めたものと解するのが相当である旨主張する。
 しかしながら、724条後段は,いわゆる除斥期間を定めたものではなく,消滅時効を定めたものと考えるべきである。
 すなわち、民法724条後段の20年の期間の法的性格は、その立法の沿革、立法趣旨、法文の文言、不法行為責任について時効として二重の期間制限を設けている諸外国の立法例、及び被害者の権利行使は予期しない外部的事情により妨げられることが多いことを考慮すると、時効期間を定めたものと解すべきである。
 そして、民法724条前段に定める3年の時効期間は、権利者の権利行使の現実かつ具体的な可能性の存在という特殊な状況に対応する特殊な短期時効であるのに対して、同条後段に定める20年の時効期間は、そのような特殊な事情の有無とは無関係に、請求権の成立時から進行を開始し、20年の経過により完成する通常の時効であって、不法行為責任は、原則として通常20年の時効にかかり、特に被害者において損害及び加害者を知り、権利行使の現実的可能性がある場合に限って、通常の20年の時効の完成を待たずに3年の時効の完成を認めるということにすぎないと解すべきである。
 そもそも,除斥期間という概念は,実定法上明らかなものではなく,講学上の概念に過ぎない。法律の規定を,そのように実定法に定められていない概念を前提として解釈することは,そうする必要がある場合を除いては,するべきではない。
 724条後段について考えると,これを除斥期間を定めたものと解する必要性は全くない。
 同条の趣旨が,短期間で法律関係を確定することにあることは,明らかである。その趣旨から,前段においては3年という短期消滅時効を規定した。しかし,その起算点は「被害者又ハ其法定代理人カ損害及ヒ加害者ヲ知リタル時」である。これは,損害及び加害者を知らなければ損害賠償請求権を行使することが事実上不可能であるためである。しかし,その結果として,そもそも,時効期間が長期間にわたって進行を開始しないことが考えられる。そのために,時効の起算点を別途定めた消滅時効を設けて,これによって法律関係を確定することを図ったのである。ここでは,724条後段を,消滅時効とは異なる除斥期間を定めたものと解する必要性はないのである。
 したがって,724条後段は,消滅時効を定めたと理解するのが,民法の解釈として合理的で自然である。
 よって、後に述べる事情のもとでは、時効は未だ完成していないというべきである。

 2 民法724条の定める除斥期間の起算点について
(1) 総論
 被控訴人は、民法724条後段の定める除斥期間の起算点は、その文言上不法行為の時であることは明らかとし,法の趣旨からしても,「権利行使可能性の観点から、同条後段の『不法行為ノ時』を解釈する余地はない。」として、「除斥期間の性質とその法意に照らせば,原告らの法意識,経済状況,中国国内における政策的な事情はもとより,国交正常化がされていなかった等の事情についても,除斥期間の進行を妨げる理由になるものではない」と主張する。
 しかしながら消滅時効の起算点は,「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」(民法166条1項)であり,不法行為についてはそれを「被害者又ハ其法定代理人カ損害及ヒ加害者ヲ知リタル時」及び「不法行為ノ時」と規定する。
 損害及び加害者を知りたる時とは,「加害者に対する賠償が事実上可能な状況のもとに,その可能な程度にこれを知ったときを意味する」と解されている(最二小判昭48.11.16)。
 この解釈が出される以前,民法166条1項の「権利ヲ行使スルコトヲ得ル時」という用件の解釈について,最高裁は,従前取られていた,「法律上の障害がないとき」という解釈を捨て,「債権者において権利を行使しない必要性がなくなったとき」という解釈を採用した(最大判昭和45年7月15日)。そして,この解釈は,最三小判平成13年11月27日においても維持されている。
 この一連の最高裁判例からすれば,最高裁が,消滅時効の起算点として,債権者において事実上債権を行使することができたか否かという点に注目していることは明らかである。
 判例解説においても,最高裁の考えは,権利行使の可能性を現実に知りながら請求しなかった加害者の態度に対する賠償義務者の正当な信頼を保護することにその本旨があると説明されている(柴田保幸・昭48最判解説(民)136頁)。
 このような判例を受け,債務不履行ないしは不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点について,下級審裁判所においても,債権者が事実上権利を行使することが可能であったかという観点から,同様の判断がなされている。
@ まず,静岡地浜松支判昭和61年6月30日(遠州じん肺訴訟・判時1196号20頁)は,安全配慮義務違反に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点について,訴訟代理人となった弁護士らによる損害賠償請求訴訟の説明会が開かれた日であるとした。その理由として同判決は,じん肺の特殊性を上げると同時に,「従業員又は従業員であった者から会社に対して損害賠償請求権を行使するようなことは全く思いも及ばない環境にあった」ことを上げている。
A 次に,東京高判平成8年9月30日(報徳会宇都宮病院訴訟・判時1589号32頁)は,不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点について,不法行為が精神障害者である原告らと精神病院との間の事件であること,原告らは損害賠償請求等の手続きを執ったときには病院に再び連れ戻されるものと信じていたこと等を理由として,原告らが退院した後である,新聞で同病院で生じたいわゆるリンチ殺人事件が一斉に報道されるに至った時点をもって,起算点とした。
B さらに,東京高判平成16年7月21日(水戸事件)は,不法行為に基づく損害賠償請求権の消滅時効の起算点について,不法行為が原告を雇用していた会社の社長によるものであること,原告らが知的障害者であることを考慮して,原告らが会社を退社した時点を以て起算点とした原審判決を是認した。

 「不法行為ノ時」に関しても,同様に解釈するべきである。すなわち,常に不法行為時より直ちに時効期間が進行を開始するのではなく,被害者らが権利を行使することが実質的に可能な状況になった時点から,時効期間は進行を開始すると解するべきである。

  (2) 本件における民法724条前段の時効期間の起算点
 本件においては,控訴人らは,中華人民共和国の国民であり,元来は日本と国交のない国の国民であった。国交回復後も,中華人民共和国民が外国人と私的に交流を持つことは困難であり,日本に来訪することも資力的に困難であった。このため,中華人民共和国人が日本国に対して訴訟を提起することは,事実上あり得ない状況であった。
 早くとも1997(平成9)年7月頃までは,控訴人らが損害賠償請求権を行使することは事実上不可能な状況であったのであるから,20年間の期間の起算点は,この頃と考えるべきである。
   ア 中華人民共和国は、1949(昭和24)年に成立し、中国本土を 実効的に支配していたにもかかわらず、1952(昭和27)年に締結されたサンフランシスコ平和条約の締約国から外されたため、日本と中国は、国交断絶の状態が続いた。
 その後、1972(昭和47)年の日本政府と中国政府の共同声明(以下「日中共同声明」という。)によって、国交が正常化され、さらに、1978(昭和53)年10月23日、日中平和友好条約の締結によって、初めて本格的かつ正常な国家関係の基礎が確立された。
 日本に対する中国民間人の損害賠償請求の問題は、1991(平成3)年3月、第7期全国人民代表大会第4回会議において、国家間の戦争賠償と民間の被害賠償を区別し、前者は日中共同声明で放棄されたものの、後者は、中国の民間人被害者及びその遺族は、日本に対して損害賠償請求ができる旨の科学工業部幹部管理学院法学部教員の意見書により、初めて公の場で取り上げられた。
 その後、江沢民国家主席は、1992(平成4)年4月、日中戦争時の民間被害については、相互に協議して条理にかなう形で妥当に解決すべきであることを主張してきた旨の発言を行った。さらに、銭其?外相は、1995(平成7)年3月9日、対日戦争賠償問題について、日中共同声明で放棄したのは国家間の賠償であって、個人の賠償請求は含まれず、賠償の請求は国民の権利であり、中国政府は干渉すべきでない旨発言した。
 このように、控訴人らが、被控訴人に対し、本訴を提起することが政治的社会的に可能となったのは、上記銭其?外相の1995(平成7)年3月の発言以降であり、それ以前に控訴人らが本訴を提起することは不可能であったというべきである。
   イ 控訴人らが本訴を提起するには、更に本件細菌戦の具体的な事実関 係を明らかにし、これを裏付ける資料が必要であったが、被控訴人は戦後一貫して細菌戦の事実を隠蔽してきた。専ら加害者である被控訴人の責により、控訴人らは本件提訴を阻害されていたのである。
 1993年に、吉見義明教授らが防衛庁防衛研究所図書館が公開した井本日誌など、陸軍中央の中堅将校の井本熊男大佐等の業務日誌から、細菌兵器の実戦使用が陸軍中央の指導で行われたことが判明し、その内容が1995(平成7)年12月に岩波ブックレット『731部隊と天皇・陸軍中央』として出版され、細菌兵器の実戦使用が明らかになった。
 それまでは、日本国内では、731部隊が細菌兵器の研究を生体実験で行っていることは周知の事実になっていたが、細菌戦は周知の事実になっていなかった。被控訴人は、細菌戦の事実が日本国民に知られるようになってからも、事実が確認できないとして、その責任を否定し続けた。
 そのような被控訴人の態度に疑問を呈した日本人弁護士らが、1995(平成7)年12月以降、僅かな手がかりをもとに本件細菌戦の被害者らを訪ね、事実の有無を確かめるため聞き込みなど現地調査を繰り返した。その結果、本件細菌戦の事実を確認した。
 細菌戦被害者らから本件訴訟について協力を求められた日本の弁護士らは、本件訴訟に伴う法的な問題点や諸費用の負担等を検討した上、1997(平成9)年ころ本件訴訟を受任することを決め、正式な委任を受け、1997(平成9)年8月11日に第一次提訴を提起した。その後、中国各地に調査委員会が設置され、細菌戦被害の実態調査が行われ、1999(平成11)年12月9日に第2次提訴を提起するに至った。
   ウ このような経過に照らせば、細菌戦被害者らが、本件細菌戦の具体 的事実に基づいて細菌戦被害者らに対する被控訴人の不法行為を特定することができ、被控訴人に対する損害賠償請求権の行使が可能となったのは、中国と日本の弁護士の支援、協力を取り付けることができた1997(平成9)年の時点である。
 したがって、民法724条前段の3年の時効期間の起算点は、1997(平成9)年の時点であり、本件第1次訴訟の提起は同年8月11日、第2次訴訟の提起は1999(平成11)年12月9日であるから、いずれにおいても時効は完成していないというべきである。

  (3) 本件における民法724条後段の時効期間の起算点
   ア 1978(昭和53)年10月23日の日中平和友好条約締結まで 日中両国は法的に戦争状態にあった。
 サンフランシスコ平和条約の付属議定書「B 時効期間」の第1項には「人又は財産に影響する関係で、戦争状態のために自己の権利を保全するのに必要な訴訟行為又は手続をすることができなかったこの議定書の署名国の国民に係るものについて訴の提起又は保存措置をする権利に関するすべての時効期間又は制限期間は、この期間が戦争の発生の前に進行し始めたか又は後に進行したかを問わず、一方日本国の領域において、戦争の継続中その進行を停止されたものとみなす。これらの期間は、本日署名された平和条約の効力発生の日から再び進行し始める。」と規定されている。
 これは、戦争状態にある間は、その当事国の国民が相手国側に対し自己の請求権を行使することは不可能なので、戦争の継続中(即ち平和条約発効までの間)は時効又は制限期間が進行しないという法理を確認的に規定したものである。中国はサンフランシスコ講和条約の当事者ではないが、この時効規定の法理は、中国との平和条約締結においても援用されうるのであり、少なくとも日中両国が法的に戦争継続状態にあった1978(昭和53)年10月23日までは、時効は進行しなかった。
   イ また、前述したように、20年の期間の起算点は、不法行為の構成 要件が充足されたとき、すなわち、加害行為のみならず、損害が発生して被害者の権利行使が客観的、一般的に期待できる状況になったときと解すべきである。
 その点で、控訴人らは自分らの責に帰さない理由により、本件提訴が不可能な状況におかれていた。すなわち、被控訴人の隠蔽行為によって、前記井本日誌の発見される1993年までは、控訴人らは本件提訴の可能性を阻害されており、また、前記上記銭其?外相の1995(平成7)年3月の発言までは、控訴人らが本訴を提起することは政治的社会的に不可能であった。したがって、20年の期間の起算点は、控訴人らの権利行使が客観的に可能になった1995年におくべきである。
   ウ さらに、本件細菌戦は、国際法に違反する戦争犯罪行為であり、加 害者たる被控訴人は、控訴人ら被害者に対し、被害の継続・拡大を防ぐべき保護義務を負っていたのであり、本件細菌戦により生じた被害の回復を図る措置を採るべきであった。しかし、被控訴人は、これらの保護義務を果たさなかったばかりか、戦後、自ら作成した731部隊関係文書を廃棄処分して証拠と事実の隠蔽を図り、国会等公の場においても細菌戦の事実を認めず、中国に対する戦争責任も否定し続けてきたのであって、控訴人らに対し、一切の賠償、謝罪も行っていない。
 被控訴人のこれらの行為により、細菌戦被害者らは多くの家族を失い、戦後において幸い生き残った細菌戦被害者らも差別、偏見や、精神的ないし身体的苦痛に苦しめられ、その被害はいまだ継続している。
 したがって、控訴人らの主張する被控訴人の加害行為は、現在も継続しているのであって、被控訴人に対する損害賠償請求権については、未だ時効は進行していないということができる。

第2 本件細菌戦において時効・除斥期間の適用を制限すべきである

 1 被控訴人の権利濫用
 不法行為について,消滅時効の特則が定められ,消滅時効に関する本則よりも早期に消滅することが規定されているのは,不法行為というのはそれまでは接触がなかった当事者間で突然債権債務関係を発生させるものであり,契約等の当事者間に元来接触があった場合よりも,証拠が散逸しやすく,ある程度の期間が経過することにより当事者が最早賠償を請求されることがないと信頼する可能性が高いからである。
 しかし,本件においては,控訴人らは,中華人民共和国籍を有する一私人に過ぎない。これに対して被控訴人は,日本国であり,証拠収集能力においては圧倒的な差がある。また,本件細菌戦は日本国の軍隊が作戦行動として行ったものであり,その全てを日本国が把握していたと言える。そして,日本国は終戦後に,戦史の編纂等を通じて,その資料を可能な限り収集して,実情を把握していた。したがって,上記のような立法趣旨からすれば,短期での権利消滅を認める理由は存在しない。また,認めないことが,正義公平の観点にかなうものである。
 控訴人らが早期に損害賠償を請求しなかったのは,控訴人らに責任があるのではなく,国交等の控訴人らには如何ともしがたかった理由から請求できなかったからである。そして,被控訴人は,控訴人らがそのような状況におかれていたことを熟知していた。
 したがって,本件において被控訴人が,時効・除斥期間による債権消滅の抗弁を主張することは,権利濫用であり許されないと解する。
 なお,被控訴人は,724条後段を除斥期間を定めたものと解し,除斥期間については債務者による援用の必要はないので,権利濫用の余地はないと主張するが,たとえこれがいわゆる除斥期間を定めたものとしても,そのような主張には理由がない。そもそも,除斥期間については援用が必要ではないとする実定法上の根拠はない。消滅時効と類似するという性質からすれば,可能な限りその規定が類推適用されると解するべきであり,そうであれば,実体法上も援用が必要であると理解する余地もある。また,たとえ実体法上は援用の必要はないとしても,訴訟上の主張として,被控訴人により除斥期間の抗弁の主張が必要であるはずである。これを不要と解する根拠は,まったくない。被控訴人が訴訟上の主張として,除斥期間による債務消滅の抗弁を主張することが権利濫用であるとすることは,可能である。

 2 時効・除斥期間の制度における正義と公平の要請
 加害者による民法724条の時効援用及びその結果が、著しく正義、公平に反するときは、その時効援用は権利の濫用に当たるものとして排斥されるべきである。
 また、仮に、同条後段所定の20年の期間が除斥期間であるとしても、その適用が著しく正義、公平に反し、条理にもとるときは、同条後段の規定は適用されるべきではない。
 そして、民法724条の適用が著しく正義、公平に反するか否かは、具体的には、@被害者の権利不行使に対する加害者の加担、A権利者の権利不行使に対する非難性の欠如、B時効による加害者保護の不適格性、C時効・除斥期間がもたらす結果の著しい不正義・不公正といった諸事情を考慮して判断すべきである。

 3 本件における時効・除斥期間の適用の制限
  (1) 被害者の権利不行使に対する加害者の加担について
 被控訴人の本件不法行為は、日本の中国侵略戦争における細菌戦の実行という、史上類例のない残虐な行為である。このことは、民法724条後段の適用に当たって十分斟酌されなければならない要素である。
 被控訴人の本件不法行為は、非戦闘員たる一般住民を無差別大量に殺戮することを狙った違法性の極度に高い残虐行為である。細菌戦がもたらした感染症によって犠牲者、被害者となった控訴人らには何の落度もなく、ある日突然原因不明の疫病によって苦しめられ、犠牲となったのである。その被害者がなんら救済されずに数十年間放置され、一方、その加害者である被控訴人が何の責任も果たさずに今日に至っているという現状において、時の経過は、被害者の権利消滅をもたらすものではなく、一刻も早く被控訴人が被害を償い、控訴人ら被害者を救済すべきことを迫るものである。
 さらに本件細菌戦の違法行為において、極めて顕著な特徴は、被控訴人が、戦後において細菌戦の事実を隠蔽し、国際的国内的に日本軍の細菌戦が周知の事実となっている現在においても、その事実すら認めていないという点である。
 被控訴人は、敗戦直前に、中国では731部隊本部等の施設を破壊し、人体実験のために収容していた捕虜の「マルタ」を全員殺害し、731部隊をいち早く撤退させた。日本では、敗戦と同時に、陸軍省軍事課等の命令により細菌戦関係等の日本軍公式文書の焼却・隠匿した。
 また、1947年、被控訴人は、隠匿していた731部隊関係の文書を免責と引き換えに米国政府に交付し、戦争犯罪の責任追及を逃れた。
 1980年代に入り、細菌戦の事実が暴露され始めると、被控訴人は、本件細菌戦に対する責任を追及されることを恐れ、井本日誌などの防衛庁及び米国からの返還資料の保管資料を隠匿し、本件細菌戦の事実確認と証明を困難にした。
 1993年、吉見義明教授らが防衛庁防衛研究所図書館が公開した井本日誌などから細菌戦の記述を発見し、1995年12月に岩波ブックレットとして発表し、細菌戦の事実が社会的に明らかになると、被控訴人は、井本日誌を非公開にする措置をとった。
 井本日誌は、井本熊男が大本営参謀本部員などの立場で、731部隊からの直接の連絡を業務日誌として、本件細菌戦の計画、準備、実行及びその効果について詳細に記載したもので、例えば常徳細菌戦の実行の日時、場所、実行メンバー、使用細菌の種別等の内容は正確であり、この井本日誌などの被控訴人が保管する文書を用いれば、本件細菌戦の実態は、より一層解明されるはずである。
 しかし、被控訴人は、原審においても、井本日誌が井本熊男個人の防備録にすぎないなどと認めるにとどまり、事実解明を行うことを全くしない。
 また、被控訴人は、1950(昭和25)年3月の衆議院法務委員会における聴濤議員の質問、1982年4月の衆議院内閣委員会の榊原議員の質問、1997年から1998年の参議院決算委員会等での栗原君子議員の質問、1999年2月の衆議院予算委員会での田中甲議員の質問で、再三、事実調査につき促されているにもかかわらず、かかる調査を一切怠っている。
 未だに、被控訴人は、「資料が存在しない」等と事実と異なる答弁で、本件細菌戦の事実を正式に認めていない。
 このような被控訴人の隠蔽行為は、控訴人らの権利行使を著しく妨害してきた。実際に存在している資料を開示せず、井本日誌等の存在をつきつけられても、なお「資料が存在しない」等と言い逃れようとする本件細菌戦の隠蔽行為は、極めて悪質で、控訴人らの権利行使を意図的に妨害する新たな不法行為である。
 本件控訴人らの権利不行使は、被控訴人が一国の権力をもって控訴人らの権利行使を妨害し、不可能にしてきた結果なのである。

  (2) 控訴人らの権利不行使に対する非難性の欠如
 控訴人らの戦後の生活は、非常に苦しいものであった。日本の侵略戦争と、その後の内戦による都市、農村の荒廃に加えて、控訴人らは、細菌戦の被害者であることによる苦しみを受けねばならなかった。本件細菌戦被害地において、控訴人らの多くは、一般流行の疫病にかかった者として扱われ、戦争の被害者としての正当な評価を受けることができなかった。
 本件細菌戦による被害地住民は、戦後も長期にわたって疫病の恐怖から逃れることができず、地域社会としての復興は困難となった。また、疫病発生地として社会的な差別を受け、経済的かつ社会的不利益を蒙らざるえなかった。
 このように、前記被控訴人による隠蔽行為、1972年まで断絶していた日中関係、日中共同声明における中国政府の賠償問題への対応などの客観的社会的状況に加え、控訴人らのおかれた生活状況からも、1995年頃までは、被控訴人に対する損害賠償請求権を行使することは事実上不可能であった。
 さらに、控訴人らが本件訴訟を提起するためには、中国と日本に、これを支援し、代理人となって活動する弁護士が必要不可欠であったのであり、そのような弁護士の活動が日本で具体化したのは第1次訴訟の控訴人らは1995年12月以降であり、第2次訴訟の控訴人らにとっては第1次訴訟を提起した1997年8月以降である。
 以上のとおり、控訴人らが本件提訴に至るまで権利行使ができなかたことについて、控訴人らには全く責がなく、控訴人らが権利の上に眠ってその権利行使を長期間怠っていたという事実はない。控訴人らは、訴訟提起が可能となるや、速やかに本件訴訟の提起に及んだのである。

  (3) 時効による被控訴人保護の不適格性
 原判決が認定するように、本件裁判の被害地8ヶ所全体の細菌戦による死亡者の数は1万人を超える。しかしこの数字は、細菌戦による犠牲者の一部にすぎない。
 細菌兵器は、戦闘の目的と比較して不相当な性格のものであるとの共通認識を前提にジュネーブ・ガス議定書で明示的に使用が禁止された国際法違反の兵器である。現在では、1972年4月10日に署名され1982年6月に日本が批准し効力が発生した細菌兵器禁止条約により、使用のみならず開発、生産、貯蔵も、国際法上も禁止されている。
 細菌戦は、本来命を救う目的を持つ医学的手段を、無差別大量の殺戮手段として使うという、いかなる意味でも許されざる行為である。それは、生命の尊厳に対する侮辱であり、その根底には、中国の人たちを人間として見ない被控訴人の民族差別があった。
 このことは、被控訴人が、中国ハルピン市平房に創設された731部隊等の細菌戦部隊において、陸軍中央の計画、指揮の下で、抗日運動の関係者等に対し各種の人体実験を行うなどして、細菌兵器の研究、開発、製造を行ったことにも示されている。
 こうして人体実験によって開発された細菌兵器を使い、被控訴人は、中国住民に対し、史上初めて本格的な細菌戦を実行したのである。
 したがって、本件細菌戦が、当時の国際法はもちろん日本の法規に照らしても違法なものであることは明白である。また、被控訴人は、ポツダム宣言受諾によって、本件細菌戦について調査及び救済義務を負ったが、これを履行することなく現在に至っている。
 また、本件訴訟において、控訴人らは、井本日誌及び井本熊男の証拠保全を申立て吉見義明教授の人証及び同教授の著作の岩波ブックレットを書証として提出した。主張立証が困難な事情は存しないにもかかわらず、被控訴人は、控訴人らの主張にかかる事実に対して認否及び具体的な主張を一切行わない。
 本件違法行為は、比較しうる類例がないほど悪質な違法行為である。時効による被控訴人保護の理由はまったくない。また、時効制度の存在理由を、真の権利者を保護し、弁済者の二重弁済を避けるための制度と解したとしても、また、証拠散逸による証明困難を救済するための制度と解したとしても、被控訴人の責任は明白であり、被控訴人が損害賠償責任を果たしていないことが明白である本件においては、時効又は除斥期間により被控訴人を保護する理由は全くないというべきである。

  (4) 時効・除斥期間がもたらす結果の著しい不正義・不公正
 本件細菌戦は、長期にわたって控訴人らの人間としての尊厳を踏みにじり、心身にわたる苦痛と被害を与えた悪質極まりない加害行為である。
 しかも、被控訴人は、戦後においても控訴人らに対して一切の謝罪も補償もせず、本件細菌戦の事実さえ認めようとせず、控訴人らの感情を著しく傷つけ、苦痛を増大させている。
 控訴人らは、いずれも年老いており、残された人生は短い。被控訴人が控訴人ら被害者に謝罪し、その損害を償い、被害者を救済する必要は火急の課題となっている。
 これらの事情を考慮すると、時効又は除斥期間により、被控訴人がその責任を免れることは、著しく正義、公平に反し、その結果は条理にも反するものである。

4 以上のとおり、時効によって被控訴人が賠償責任を免れることは、著し く正義、公平に反し、条理にもとることは明らかである。
 本件細菌戦の違法行為が、時効の適用によってその責任を免れることは、日本国憲法の国際協調主義、平和主義にも反するものである。国際法によって生じた国家責任には、時効も除斥もない。被控訴人の国際的義務の不履行は消えることがないのである。
 「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」(日本国憲法前文)と誓った日本国憲法の法意に照らすならば、被控訴人が、一刻も早く謝罪し償い、国際義務を履行することが必要なのであり、本件不法行為に、民法724条は適用されるべきではない。
 また、本件細菌戦による被害は、時の経過と共に忘れられ、癒されるものではない。むしろ時の経過は、恐怖と苦しみの継続であり、控訴人らの損害は甚大なものになっていくのである。
 原判決も認めるように、戦争の惨害は最終的には個人に帰するものであるから、ハーグ条約及び同規則の究極の趣旨・目的は、陸戦の過程における非戦闘員を含めた個人の保護にある。本件細菌戦のような一般住民を大量殺戮する戦争犯罪が、時効の適用によってその責任を免れることは、戦争の惨害から個人を守る国際法の意図に反するものであり、個人の尊厳、人権の尊重を根源的な価値原理とする日本国憲法の法意に照らし、本件への民法724条の適用は排除されるべきである。

第3 除斥期間を適用しない近時の判例

 1 最高裁平成10年判決について
  (1) 最高裁平成10年判決(いわゆる予防接種事故の国家賠償請求訴訟)
は,除斥期間についても,客観的な期間経過後にも権利を主張することを認めた。
 すなわち同判決は、「その心神喪失の常況が当該不法行為に起因する場合であっても、被害者は、およそ権利行使が不可能であるのに、単に20年が経過したということのみをもって一切の権利行使が許されないこととなる反面、心神喪失の原因を与えた加害者は、20年の経過によって損害賠償義務を免れる結果となり、著しく正義・公平の理念に反するものといわざるを得ない。そうすると、少なくとも右のような場合にあっては、当該被害者を保護する必要があることは、前記時効の場合と同様であり、その限度で民法724条後段の効果を制限することは条理にもかなうというべきである。」と判示している。
 上記最高裁平成10年判決は、国の過失によって被害者が心神喪失に陥り権利行使が不可能であったことを奇貨として、国が法的責任を免れるものとすれば、それは著しく正義公平の原則に反するという考え方に立脚するものと解される。

(2) この判例について,被控訴人は,適用制限が認められるが、最高裁 平成10年判決の具体的事例に限定する趣旨と解するとして、本件控訴人らにとって「権利行使が不可能」だったとはいえない。訴訟代理人の協力が得られなかったとか、訴訟準備が整わなかったとかいうことは、権利行使が不可能という理由にはならないことから、本件には当てはまらないと主張する。
 しかしながら被控訴人の上記主張は、次の理由により誤りであると言わねばならない。
   ア その理由の第1は、東京地裁平成15年9月29日判決が除斥期間 の画一的・機械的適用において「著しく正義・公平の理念に反する」場合にその適用を「制限することは条理にもかなう」と述べ、さらに「特段の事情があるときは・・・724条後段の効果は生じないものと解するのが相当である。」と述べていることである。
 すなわち、「正義・公平」「条理」「特段の事情がある場合」といった一般原則が要請する限り、除斥期間の適用を制限する趣旨と解すべきだからである。
   イ その理由の第2は、民法158条が類推適用できる場合あるいは権 利行使不能の原因を作ったのが加害者自身である場合に限定する趣旨だとすると、従来型の硬直的な除斥論がかかえていた欠陥を是正するという、平成10年判決の目的は達し得ないからである。すなわち、様々な複雑な構造を有する現代の不法行為に柔軟に対応して、事件の特性に適合した具体的妥当性を有する解決を追求してこそ、従来型の判決が露呈していた欠陥・不合理性を解消することができるからである。その場合に初めて正義・公平という法の基本理念が実現されるのである。
   ウ その理由の第3は、文言上にも「少なくとも右のような場合にあっ ては、……その限度で民法724条後段の効果を制限することは条理にもかなうというべきである」と述べており、「少なくとも右のような場合に限って」とは明示していないのであるから、除斥期間の適用制限の例示をしたのであって、限定した趣旨と解すべきではない。
 平成10年判決の多数意見は、「除斥期間の主張が信義則違反又は権利濫用であるという主張」を排斥し、それに代えて「著しく正義・公平則の理念に反するもの」や「条理」にかなう解釈を唱えている。「著しく正義・公平の理念」違反・「条理」にしても、さほどの懸隔があるとは考えられないからである。
 具体的な考慮要素については、以上のような裁判例を踏まえ、かつ時効・除斥期間制度の存在理由とされる@権利の上に眠る者は保護に値しない、A時の経過による立証・採証の困難、B法的安定性という公益、を考慮して時効の援用ないし除斥期間の適用制限の一般的要件論を示せば次のとおりである。
 すなわち、権利不行使につき権利の上に眠る者との評価が妥当せず、義務の不履行が明白で時の経過による攻撃防御・採証上の困難がなく、権利の性質や加害者と被害者の関係などから、時の経過の一事によって権利を消滅させる公益性に乏しい場合には、むしろ積極的に時効援用、除斥期聞の適用制限をすべきということになる。
 この判例は,民法158条の法意にも照らし724条後段の適用を否定したものであり,その趣旨は,たとえ形式的には724条後段が適用されるべき場合であっても,正義公平の見地から,その適用が不適当である場合には適用せず,権利行使が可能になった後に適正な期間内に権利行使することを認めるというものであると解される。
 本件控訴人らにとっては正に客観的に「権利行使が不可能」であった。訴訟代理人不在とか訴訟準備困難とかは、権利行使不可能の理由の主なものではない。被害者らはいずれも中国に住む中国人(外国人)なのであり、中国の国内事情や国際的な諸事情の推移を考えれば、到底権利行使が不可能であったことは明白である。被控訴人が、被害発生後20年以内に行使が可能であったというのであれば、どのような方法があったのか明らかにされたい。
 なお、東京地裁平成15年9月29日判決(甲491)は、中国遺棄毒ガス被害事件に関して、「原告ら中国の国民は、1986年2月に中華人民共和国公民出国入国管理法が施行されるまでは、私事で出国することは制度的に不可能であった(甲203)。原告らが被告に対して権利行使をすることは、1974年10月の事故の時から法の施行までの11年余りの間は、客観的に不可能であったといえる。」として、1986年2月に中華人民共和国公民出国入国管理法が施行されるまでは、自ら訴状を携えて日本国の裁判所を訪れることは制度的に不可能であったとし、被害者らが権利行使することは客観的に不可能であったと判示している。極めて貴重な見解である。
 さらに上記東京地裁判決は、「原告らが訴えを提起したのは、事故から20年が経過した時点から、約2年後である。それにもかかわらず20年が経過したということだけで権利行使を許さないとすることは、衡平を欠く(外国にいるために客観的に権利が行使できない期間という意味では、その期間について時効の停止を認める公訴時効の停止の考え方(刑事訴訟法255条1項)に合理性があり、参考になる)。」とし、正義公平の理念を法理に貫くものとして、刑事訴訟法255条1項の公訴時効停止の考え方を示している。
 また被控訴人は、不法行為の悪質性や被害の重大さを理由とする除斥期間適用制限は最高裁平成10年判決の射程を超えると主張するが、不法行為の悪質性・被害の重大性こそが本件において最大に重視されるべきであり、これが正義公平の理念に関する判断にとって決定的な要因になることはいうを待たない。本件は人類史上類を見ない悪質・残虐な国家行為であり、そのために奪われた無数の罪なき人々の生命、人間の尊厳、名誉の重大性は、測り知れないのである。自己が作った法で自己を守ることは、恰も「家法」を他人に強制するに等しい。

 2 東京地方裁判所平成15年9月29日判決
東京地裁平成15年9月判決は、民法724条後段の規定を、除斥期間を定めたものとしながら、前記のように、除斥期間制度の適用の結果が、著しく正義、公平の理念に反し、その適用を制限することが条理にもかなうと認められる場合には、除斥期間の適用を制限することができると解して、原告らの請求について除斥期間の適用を制限したものである。
 これに対し被控訴人は、東京地裁平成15年9月判決は、民法724条後段の適用を制限することを例外的に許容した最高裁平成10年判決の射程を超え、最高裁平成元年判決及び最高裁平成10年判決に反し、実定法の解釈を超えるものであって失当である旨主張する。
 しかしながら、除斥期間の適用制限について、前記東京地裁判決は、  「ア この除斥期間の適用の有無は、不法行為をめぐる法律関係を一定期間の経過によって確定させるという趣旨から考えれば、20年の経過という明確な基準で決すべきものではある。
 しかし、このような除斥期間制度の趣旨を前提としても、その適用によって被害者の損害賠償請求権が消滅することになる反面で、加害者は損害賠償義務を免れる結果となるのであるから、そのような結果が著しく正義、公平の理念に反し、その適用を制限することが条理にもかなうと認められる場合には、除斥期間の適用を制限することができると考えるべきである。
 イ 本件においては、除斥期間の対象とされるのは国家賠償法上の請求権であって、その効果を受けるのは除斥期間の制度を創設した被告自身である。ところが、被告が行った行為は、国際法的に禁止されていた毒ガス兵器を中国に配備して使用していた旧日本軍が、国際的非難を避けるためポツダム宣言にも違反して、終戦前後に組織的にそれを遺棄・隠匿したという違法な行為につき、戦後になっても被害の発生を防止するための情報収集や中国への情報提供をせず、1972年に中国との国交が回復された後も積極的な対応をしないで遺棄された毒ガス兵器を放置していたというものである。その行為には、わずかの正当性も認めることができない。」と被告国の違法行為を断罪している。さらに「これらの事情を考慮すると、本件において被告が除斥期間の適用によって損害賠償義務を免れるという利益を受けることは、著しく正義、公平の理念に反し、その適用を制限することが条理にかなうというべきである。」として除斥期間の適用制限を相当と判示している。
 まさに上記判示の法理は、本件細菌戦にこそあてはまるものであるといわねばならない。

 3 福岡地方裁判所平成14年4月26日判決(三井鉱山強制連行・強制労 働事件)
 福岡地方裁判所平成14年4月26日判決(判例タイムズ1098号267頁)は、「本件に除斥期間の適用を認めた場合,本件損害賠償請求権の消滅という効果を導くものであることからも明らかなとおり,本件における除斥期間の制度の適用が,直接,いったん発生した訴訟上認定できる権利の消滅と言う効果に結びつくのであり,取引安全の要請が存しない本件においては,加害者である被告会社に本件損害賠償責任を免れさせ,ひいては,正義に反した法律関係を早期に安定させるのみの結果に帰着しかねない点を考慮すると,その適用に当たっては,正義,衡平の理念を念頭において判断する必要があるというべきである。
 すなわち,除斥期間制度の趣旨を前提としても,なお,除斥期間制度の適用の結果が,著しく正義,衡平の理念に反し,その適用を制限することが条理にもかなうと認められる場合には,除斥期間の適用を制限することができると解すべきである。」と判示した。
 除斥制度の適用が、「加害者である被告会社に本件損害賠償責任を免れさせ,ひいては,正義に反した法律関係を早期に安定させるのみの結果に帰着しかねない」と認定し、除斥制度の適用を制限したのである。

 4 東京地方裁判所平成13年7月12日判決
 東京地方裁判所平成13年7月12日判決(判例タイムズ1067号119ページ,以下「東京地裁平成13年判決」という。)は、いわゆる劉連仁事件判決である。まさしく、正義公平の原則に反するとして、除斥期間の適用を制限する判断を下した。
 すなわち上記判決は、「このような除斥期間制度の趣旨の存在を前提としても、本件に除斥期間の適用を認めた場合、すでに認定した劉連仁の被告に対する国家賠償法上の損害賠償請求権の消滅という効果を導くものであることからも明らかなとおり、本件における除斥期間の制度の適用が、いったん発生したと訴訟上認定できる権利の消滅という効果に直接結び付くものであり、しかも消滅の対象とされるのが国家賠償法上の請求権であって、その効果を受けるのが除斥期間の制度創設の主体である国であるという点も考慮すると、その適用に当たっては、国家賠償法及び民法を貫く法の大原則である正義、公平の理念を念頭に置いた検討をする必要があるというべきである。すなわち、除斥期間制度の趣旨を前提としてもなお、除斥期間制度の適用の結果が、著しく正義、公平の理念に反し、その適用を制限することが条理にもかなうと認められる場合には、除斥期間の適用を制限することができると解すべきである。」
 「そのような被告に対し、国家制度としての除斥期間の制度を適用して、その責任を免れさせることは、劉連仁の被った被害の重大さを考慮すると、正義公平の理念に著しく反していると言わざるを得ないし、また、このような重大な被害を被った劉連仁に対し、国家として損害の賠償に応じることは、条理にもかなうというべきである。よって、本件損害賠償請求権の行使に対する民法724条後段の除斥期間の適用はこれを制限するのが相当である。」と判示した。

第4 まとめ

 このように、近時の判決の流れは除斥期間の適用排除の方向へと大きく風向きを変えていることは明らかである。
 したがって、裁判所は本件事案においても除斥期間の適用を排除し、速やかに控訴人らの損害賠償請求を認めるべきである。

第8章 条理に基づく謝罪及び損害賠償請求

第1 原判決は社会的正義に反する

 原判決は、本件細菌戦被害者らに重大な被害の事実が存在すること、さらに細菌戦の行為が、行為当時すでに国際法違反であったことを認めたにもかかわらず、また、賠償立法が戦後50有余年を経た今日に至るも存在せず、被害の救済が全く為されていない現状をふまえた上でもなお、条理に基づく控訴人らの損害賠償請求および補償請求を、以下に詳述するような理由によって認めようとしない。
 このことは、細菌戦の被害の事実を認定しながらも、裁判所がこれを救済せず無責任に放置するものであり、このような原判決は、社会的正義に照らして到底是認されるものではない。 
 よって、裁判所は、迅速な救済の高度の必要性に鑑み、端的に条理に基づいて裁判すべきである。

第2 条理の法源性
  
 1 条理とは、実定法体系の基礎となっている基本的な価値体系を意味すること、これが単に裁判官の主観の中にだけ存在するものではなく、客観的に社会一般に存在しているものであることは、原判決も認めるところである。
 明治8年太政官布告103号裁判事務心得3条の「民事ノ裁判ニ成文ノ法律ナキモノハ習慣ニ依リ習慣ナキモノハ条理ヲ推考シテ裁判スベシ」という規定、また、スイス民法1条の「文字上または解釈上この法律に規定の存する法律問題に関しては、すべてこの法律を適用する。この法律に規定がないときは、裁判官は慣習法に従い、慣習法もまた存しない場合には、自分が立法者ならば法規として設定したであろうところに従って裁判すべきである」という規定等に定められているのと同様の意味だと解される。
 しかしながら、原判決は、「一般には、具体的な事件の法的価値判断に適するような具体的な判断基準の形をとるものではない(26頁9行目)。」とする。つまり、原判決は、条理は抽象的、多義的、相対的観念であり、条理のみを根拠として個々人に具体的な請求権が生じることはないとするのである。
 しかし、制定法や慣習法のない場合にも、裁判官は裁判を拒むことはできない(憲法32条参照)。そのような場合、裁判官は「条理ヲ推考シテ裁判」すべきものとされる。
 そして、裁判官が具体的事件の解決に際して具体化した条理にしても、当該裁判の既判力は当該事件にしか及ばないから、直ちに法規範になるとはいえないけれども、それでもなお、条理は、裁判官が裁判に際して拠るべき基準の源泉であり、その意味で法源であるということができる(四宮和夫「民法総則」7ページ参照)。
 つまり、制定法や慣習法が当該事件のための判断基準を提供していない場合には、裁判官は条理に従って裁判することを要請されており、従ってまた条理を根拠として裁判の正当性の論証をすることが許されている。
 ドイツでは、裁判所はしばしば率直に「条理によれば」、「健全な国民感情によれば」、「われわれの法的感情によれば」、あるいは「正義の観念によれば」といった表現で裁判していることはきわめて注目に値する、とある法社会学者は評価している。
 この点、裁判は必ず法によるべしという前提に固執すれば、条理は最後の規準としての法律だといわねばならないことになる。
 しかし、むしろ事態を直視して、条理は法ではないが、裁判は最後の規準として法でない条理に根拠を求めることを許される。三権分立の思想もその限りでは制限されるというのが至当だと思うという指摘もある(我妻栄「法源」民事法学辞典1826ページ)。
 また、私法法規ないし慣習法が存在しない場合に補充的に条理裁判をするべきという次のような指摘もある。「条理裁判の本質は新自然法であるが、どうして新自然法を発見し、いかに適用するか、条理裁判をして主観の危険なく社会適応・進歩の課題を実現せしめるか、法の静状・動状の二大要請の調節をいかにして可能ならしめるかの方法の確定が肝要である。統一条約法、世界慣習法、各国共通の傾向を示す立法、判例、学説、法規行為などの現実所与を含む世界的因子が他の因子と融合して第三法源たる自然法を形成するから、他の諸因子と不調和にならぬかぎりなるべく世界的因子を尊重し、国法内容の世界法内容への同化を助長する方向へ各国法の犠牲的精神を発揮するべき」「財産法分野においては『文明国の認めた法の一般原則』が他の実定規範なき場合に適用されるべきである」(杉山直治郎「法源と解釈」103〜105ページ、新版注釈民法 6〜7ページ)。
 原判決は、「条理の名の下に裁判官が自らの主観的な信念に基づき判断をしてしまうおそれがある。」などと判示するが、原判決が認定した本件細菌戦の事実関係の下で被害者らに賠償を行うことは、まさに自然法にかなったものであり「主観の危険なく社会適応・進歩の課題を実現せしめ」「世界的因子を尊重し、国法内容の世界法内容への同化」を進めることになるのである。

 2 また、率直に「条理」に基づいて裁判した例がある。
 日本国内に営業所を有するマレーシア連邦の航空会社が運行する航空機の墜落事故によって死亡した日本人の遺族が、右航空会社を被告として、わが国の裁判所に損害賠償請求の訴えを提起した事件において、同事案につきわが国が裁判権を有するか否かが争われた。最高裁判所は「直接規定する法規もなく、また、よるべき条約も一般に承認された明確な国際法上の原則も未だ確定していない現状のもとにおいては、当事者間の公平・裁判の適正・迅速を期するという理念により条理に従って決定するのが相当」であり、「これらに関する訴訟事件につき、被告をわが国の裁判権に服させるのが右条理に適うものというべきである」と判示した(最高裁第2小法廷1981年10月16日判決・民集35巻7号、判例時報1020号9ページ)。
 また、「条理」を根拠として個々人に具体的な請求権が生じるとした裁判例が存在する。株式会社の取締役を辞任した者からの会社に対する取締役辞任登記申請手続について、千葉地裁1984年8月31日判決(判例時報1131号144ページ)は、条理上登記義務を認めて次のように判示している。「原告は、被告の取締役を辞任したのであるから、被告は、その旨の登記手続をなすべき義務があるのであって、被告がこれを任意に履行しない場合においては、条理上、原告は、被告に対し、その旨の登記手続をすることを強制することができるものと解するのが相当である」としている。

 3 制定法は、たとえ慣習法によって補充されたとしても、少なからぬすきま(欠缺)をもっている。
 たとえば、立法者がきわめて抽象的な概念を使用し、その具体化を裁判官に一任している場合(たとえば、民法1条の「公共ノ福祉」「信義誠実」「権利ノ濫用」など)、立法者が意識的にか無意識的にか規定を置かなかった場合、あるいは制定後新しい生活関係を生じた場合など、要するに制定法が沈黙している場合、立法者は規定を設けたけれど、それをそのまま適用すると多かれ少なかれ不当な結果を生じ、もし立法者がそのことを知っていたならば、そのようには規定しなかったであろうと考えられる場合には、裁判官は制定法をそのまま適用することができない。
 右の場合には、国家の組織規範が法の適用を裁判官に委任したとき、すでに、裁判官による裁判基準の発見を明示的または黙示的に認めたものと考えられる。右の場合にはそのようには考えられないが、しかし、委任の法理に従って、制定法の指示を修正することが許されるであろう。委任の法理に従えば、当事者の予見しない場面や結果が発生した場合には、たとえ委任者の指図に反しても、委任の目的と委任者の思考方法に適合し、そしてこの事態を知ったならば委任者はかく命じたであろうと推認されるところを遂行することこそ、受任者の権限かつ義務であると考えられるからである。そもそも、国家の法制定権自体が社会の意思に基づくものであり、制定法が存在しなかったり、社会の現実を妥当に規律できなくなった場合には、裁判官が社会に妥当する規範に従って裁判すべきことは、法の目的を達成するゆえんである。
 要するに、裁判官が裁判に際して制定法・慣習法のほかに拠るべき基準を自ら発見しなければならないことは、憲法76条3項の表現にもかかわらず(むしろ「法律」の語は客観的法規範という意味に広義に解するべきなので「法源」とされる自然法や条理も含まれる)、すでに立法と司法との分化という国家組織のうちに予定されていると考えられるのである。

第3 条理に基づく補償請求について

 1 原判決は、控訴人らの条理に基づく損害賠償請求に対し、「国家無答責 の法理」を根拠にして斥けた。
 すなわち、当時においては、国の当該権力的行為が違法であっても損害賠償責任を負わないという「法」が確立していた。このように、本件細菌戦による損害の賠償責任に係る裁判規範として「法」が欠けていたわけではないから、本件において条理によって違法な公権力の行使に起因する損害賠償請求権を認めることはできないとする。
 また、原判決は、条理に基づく損失補償又は特殊な補償請求についても「国家無答責の法理」を根拠にして斥けた。
 すなわち、細菌戦が行われた当時、我が国においては「国家無答責の法理」により国の公権力行使による損害賠償責任は否定されていたのであるから、当時の法体系中にこれについて損失補償その他の特別な補償をすべきであるという条理が存在していたと認めることはできないとする。

 2 「国家無答責の法理」を主張することの不当性については、別項で詳細 に論じているので譲るとして、ここでは念のためにつぎの点を指摘しておく。
 「国家無答責の法理」は、権利の発生を阻止するものではなく、発生した権利を国家に対して行使することを許さないという抗弁である。したがって、仮に本件細菌戦が行われた当時、「国家無答責の法理」が存在したとしても、戦後憲法及び国家賠償法が施行され、「国家無答責の法理」が消滅して以降は、発生した権利を国家に対して行使することを妨げる法律上の障害はなくなったのであるから、原判決のように今日の段階で、「国家無答責の法理」を抗弁として認めることは許されない。
 2003年3月11日に判決のあった強制連行訴訟(東京地方裁判所平成9年泊謔P9625号)において、裁判所は、以下のとおり判示した。
 「戦前の裁判例及び学説に照らすと、『国家無答責』なる不文の『法理』が確立しているとの理解を背景として、上記のような解釈が採られていたことがうかがわれるものの、現時点においては、『国家無答責の法理』に正当性ないし合理性が見出しがたいことも、控訴人らが主張するとおりである」
 この判決も、戦前・戦中はともかくとして、戦後の現時点において「国家無答責の法理」を主張することに正当性ないし合理性がない旨判示しており、上記と同様の考え方に基づくものと思われる。
 よって、原判決が、控訴人らの条理に基づく補償請求を、「国家無答責の法理」をもって斥けたことは、全く誤っていると言わなければならない。

 3 そもそも条理に基づく補償請求に対して、「国家無答責の法理」は抗弁 たりえないのである。なぜなら、条理に基づく補償請求は、国家に対しその不法行為に基づく損害賠償を求めるのとは法的性格が異なるからである。原審における2001年7月18日付の控訴人らの準備書面で詳細に述べたとおり、現行法上の国家補償の範疇を考察すると、@不法な公権力の行使により生ずる損害に対する国家賠償、A適法な公権力の行使により生ずる法の予想していた財産的損失に対する損失補償、B単に結果的現状に着目して行われる社会保障、C上記@ないしBと異なる特殊な国家補償制度がある。
 「国家無答責の法理」が抗弁として意味を持ちうるのは、上記@ないしCのうち@のみである。すなわち、不法な公権力の行使により生ずる損害に対する国家賠償責任を免責するというのが「国家無答責の法理」の趣旨である。したがって、上記AないしCの補償の場面では、「国家無答責の法理」は働かないのである。
 以下、上記Cの特殊な国家補償制度について、再論をおそれず説明しておく。

(1) 予防接種法の救済制度の法的性格
 予防接種法は、同法が国に義務づけた種痘などの予防接種をうけたことに因って、疾病にかかり、障害の状態となり、又は死亡した者に対して所定の給付を行うものとしている(同法11条〜18条)。
 上記制度の給付の法的性格は次のように説かれている(炭谷茂・堀之内敬『逐条解説予防接種法』156〜7頁・ぎょうせい)。
「予防接種を受けたことによる健康被害は適法な公権力の行使による結果と考えられるので、不法行為に基づくものではない点で国家賠償と異なり、法が当然に予想する財産的損失ではない点で損失補償とも異なり、更に、単に結果に着目するのではなく国が原因である予防接種を義務づけているという点で社会保障とも異なる。結局、予防接種法による予防接種は、社会防衛のために国家に義務づけたものであり、関係者がいかに注意を払っても極微少の確率で不可避的に健康被害の起こり得ることは現代医学をもってしても否定できない事実であり、そうでありながら、あえてこれを実施しなければならないという特殊性を有しているので、このような社会的に特別の意味を有する健康被害に対して、社会的公正の理念に立ちつつ、国家補償的精神をも加味して予防接種による健康被害に対する救済制度が設けられたものである。」
  国会においても、この点について厚生省公衆衛生局長佐分利輝彦は次のような趣旨説明を行っている。
「(佐分利政府委員)   新制度の名称は、あくまでも救済制度でございます。そこで、その内容の性格でございますが、はっきり申し上げまして、損害賠償制度ではございません。また、いわゆる社会保障制度でもございません。このような国や地方公共団体の行政行為に基づく被害につきまして、特に生命とか身体の被害につきまして、しかもしかも無過失の場合に救済をするというような制度は全く新しい制度でございます。そのような関係から、従来の判例も、定説もないわけで、諸説が粉々としておるわけでございますけれども、私どもといたしましては、公的補償の精神に基づいた救済制度であると考えております」(第77回・国会昭和51年5月14日衆議院社会労働委員会議録第9号20頁)
 また、次のような指摘もある。
「このような制度は、既存の伝統的二元論体系のいずれにも属しない第3範疇に位置づけられるべきものであるがゆえに、立法者は『国家補償的精神に基づき救済を行い、社会的公正をはかる』特殊な補償制度として位置づけたのである」。(成田頼明「予防接種健康救済制度の法的性格について」『公法の基本問題(田上穣治先生喜寿記念)』480頁・有斐閣)

(2) 刑事補償の救済制度の法的性格  犯罪の被疑者として抑留、拘禁された後、無罪の裁判を受けたものに対する刑事補償も、不法行為に基づくものではない点で国家賠償と異なる。憲法は17条に規定する公務員の不法行為による国等の損害賠償責任のほかに、刑事補償を40条において認めているのであって、刑事補償は過失を要件とせず、むしろ無過失であり、少なくとも国家行為のその時点における判断としては適法行為に基づいているのである。しかしながら、法が当然に予想する生命・身体への侵害ではない点で損失補償とも異なり、また社会保障とも異なる。結局、刑事補償は、科学的捜査方法が万全でない現実で、刑事司法の運営上やむを得ないものとして、一定の嫌疑が認定されたときは、自由を拘束することを適法とする現行制度のもとで、後になって当該拘束が客観的には違法となった場合においてもなおこの拘束を適法視し、自由を拘束されたものの権利侵害を何ら救済せず放置することは人権尊重の精神から見過ごすわけにはいかないところから設けられた権利救済制度である。同制度も既存の体系のいずれにも属しない国家起因性の犠牲に対する国家補償制度として位置づけられるであろう。
 国家補償(広義)には、以上のような国家賠償、損失補償および社会保障のほかに特殊な国家補償(狭義)制度が存するのである。

 4 戦争犠牲に対する日本の補償立法  「政府の行為」による「戦争の惨禍」の犠牲者に対する国家補償についても、人道的目的に基づいた国家賠償および損失補償とは異なる特殊な国家補償制度が存する。

(1) 原子爆弾被爆者の医療等に関する法律の国家補償の法的性格
 原爆医療法は、広島市及び長崎市に投下された原子爆弾の被爆者がその居住地(居住地を有しないときはその現在地−同法3条1項)の都道府県知事に申請して被爆者健康手帳の交付を受けたときは所定の医療給付を受けるものとしている。
 この救済制度の性格について、不法入国した韓国人被爆者からの被爆者健康手帳の交付申請を認容した最高裁判決は次のように判示している。
「原爆医療法は、被爆者の健康面に着目して公費により必要な医療の給付をすることを中心とするものであって、その点からみると、いわゆる社会保障法としての他の公的医療給付立法と同様の性格を持つものであるということができる。しかしながら、被爆者のみを対象として特に上記立法がされた所以を理解するについては、原子爆弾の被爆による健康上の障害がかつて例をみない特異かつ深刻なものであることと並んで、かかる障害が遡れば戦争という国の行為によってもたらされたものであり、しかも、被爆者の多くが今なお生活上一般の戦争被害者よりも不安定な状態におかれているという事実を見逃すことはできない。原爆医療法は、このような特殊の戦争被害について戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかるという一面をも有するものであり、その点では実質的に国家補償的配慮が制度の根底にあることは、これを否定することができないのである。例えば、同法が被爆者の収入ないし資産の状態のいかんをとわず常に全額公費負担と定めていることなどは、単なる社会保障としては合理的に説明しがたいところであり、上記の国家補償的配慮の一端を示すものであると認められる」(第一小法廷昭53・3・30判決最高民集32竄Q号435頁・判例時報886号3頁)
また、同判決は 「同法が被爆者のおかれている特別の健康状態に着目してこれを救済するという人道的目的の立法」
であるとし、次のように判示している。
「同法3条1項にはわが国に居住地を有しない被爆者をも適用対象者として予定した規定があることなどから考えると、被爆者であってわが国内に現在する者である限りは、その現在する理由等のいかんを問うことなく、広く同法の適用を認めて救済をはかることが、同法のもつ国家補償の趣旨にも適合するものというべきである。」
 判決は、被爆者に対する給付の法的性格を上記のように説示したうえ、当該事案について、 「不法入国者であるがゆえにこれをかえりみないことは、原爆医療法の人道的目的を没却するものといわなければならない。」
として、不法入国した被爆者についても同法の適用を認めているのである。
 その判示するところから明らかなとおり、被爆者が被った「戦争の惨禍」の犠牲は「政府の行為」によってもたらされたものであり、戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済をはかるべきであるという国家補償の精神に基づいて、同法は立法されたものである。
(2) 戦傷病者遺族等援護法(援護法)の国家補償の法的性格
 上記援護法1条は、同法の目的を次のように定めている。
第1条 この法律は、軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病または死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属等であった者又はこれらの者の遺族を援護することを目的とする。
 同法は、1952年4月、平和条約の発効により日本が主権を回復するのを待つようにして制定されたものであるが、上記条項の「国家補償の精神」に基づく援護の趣旨について厚生大臣吉武恵市は次のように説明している。
「(吉武国務大臣)   これらの戦傷病者、戦没者遺族等は、過去における戦争において国に殉じた者でありまして、これらの者を国が手厚く処遇するのは、元来国としての当然の責務でございます。敗戦によるやむを得ざる事情に基づき、国が当然になすべき責務を果たし得なかったのは、まことに遺憾のきわみと申さなければなりません。しかしながらすでに平和条約は締結せられ、その効力発生の時期は、目睫の間に迫ってきたのであります。この講和独立の機会に際しまして、これらの戦傷病者、戦没者遺族等に対し、国家補償の観念に立脚して、これらの者を援護することは、平和国家建設の途にあるわが国といたしまして、最も緊要時であることは言をまたないところであります。これがこの法律により戦傷病者戦没者遺族等の援護を行おうとする根本的趣旨であります」(第13回国会・昭和27年3月13日衆議院厚生委員会議録第12号8頁)
 また次のような解説がある。
「公務に起因する負傷、疾病又は死亡に関して、公務員又はその遺族に対し、その経済的及び精神的損失について補償を与えることは、国の当然果たすべき責務である。然るに本法の対象となっている軍人軍属やその遺族は戦務の為あるいはその他の軍務のために犠牲となった人々であるにもかかわらず、終戦後の特殊の国際環境のために、殆ど何らの処遇をうけるところもなく、わずかに、傷病旧軍人について恩給法による極めて少額の増加恩給が支給され、未復員者に対して未復員者給与法による療養の給付等がなされて来たに過ぎなかった。過去における軍国主義的な日本の姿は、批判されなければならず又軍国主義的な日本が行った戦争も非難されなければならないものであったとしても、それは要するに国として又軍全体として責を問われるべきものであって、その機構の中にあって、当時の国家権力により軍務に服せしめられた個々の人々にのみその責を負わせて、軍務のため犠牲となった人々に対して補償を行うことなくこれを漫然と放置することは、国民として到底黙視し難いところであろう。本法の立案されたのもかような不当な事実を講和成立とともに排除することを意図したものであって、その趣旨は、まさしく公務災害に対する補償を行おうとするところにあるのである。ただ、補償というからには、その名に値し、その経済的、精神的損失を補てんするに十分なもの、少なくとも他の業務上の災害に対する補償の諸制度と十分に均衡のとれたものでなければならない。然るに、厖大な数にのぼる対象に対してその名に値する国家補償の責を完うすることは、今日の我国の財政力あるいは国民所得から考えて遺憾ながら望み難いところである。そこで本法は、国力に見合う限度において、補償を受くべき人々に応急的な援護措置を講ずることによって、国が補償の責を自覚しているという誠意をひ歴し、あわせてこの措置がこれらの人々の生計の一助ともなることを期待したものである。本条において『国家補償の精神に基づき……援護することを目的とする。』とうたっているのは、以上のような趣旨を表現したものに他ならない」(厚生事務官小池欣一、首尾木一『戦傷病者戦没者遺族等援護法の解説と運用』18〜9頁・中央法規出版)
 上記趣旨説明によると「軍国主義的な日本の機構の中にあって、当時の国家権力により軍務に服せしめられた個々の人々」である戦傷病者、戦没者は「政府の行為」による「戦争の惨禍」の犠牲者であるがゆえに、戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその援護をなすという国家補償の精神に基づいて、同法は立法されたものと受け取れる。そうであるとすれば、同じ「政府の行為」による」「戦争の惨禍」の被害者として、本件細菌戦により原判決も認めたような悲惨で残虐な被害を被った控訴人らに対しても、国家補償の精神に基づいて補償がなされて然るべきである。

(3) 台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律の国家補償の法的性格
 同法1条によると、この法律の趣旨は次の通りである。
第1条 この法律は、人道的精神に基づき、台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関し必要な事項を定めるものとする。
 同法は、与野党一致の議員立法(昭和62年9月29日法律第105号)であったが議院内閣委員会委員長石川要三は同法の起草案について次のような趣旨説明を行っている。
「(石川委員長) 
 ご承知のように、第2次世界大戦において多数の台湾の人々が日本の軍人軍属として動員され、戦死されたり負傷されたりした方も少なくないのでありますが、日本人の軍人軍属であった戦没者の遺族及び戦傷病者に対しては、戦後、戦傷病者戦没者遺族等援護法等の制定や軍人恩給の復活により、年金または一時金等が支給されております。
 しかるに、台湾の人々は、戦後、日本国籍を失った結果、援護法または恩給法が適用されないこととなったのであります。
 しかしながら、第2次世界大戦中、日本人の軍人軍属として動員された台湾の人々、特に戦没者の遺族や重度の戦傷病者の方々に対し、現状のままで推移することは、人道的観点からも許されることではないと存じます。
 したがいまして、この際、これらの方々に対し、弔慰等の意を表する趣旨で弔慰金または見舞金を支給するための法律を制定することが急務であると考え、ここに本起草案を作成した次第であります」(第109回国会・昭和62年9月10日衆議院内閣委員会議録第7号3頁)
 日本人の軍人軍属であった戦没者の遺族及び戦傷病者と同様に「政府の行為」による「戦争の惨禍」の犠牲者として、台湾住民たる戦没者の遺族および戦傷病者に対して、戦争遂行主体であった国家が人道的観点から所定の給付をすることとしているのである。
 以上のとおり「政府の行為」による「戦争の惨禍」の犠牲者について国家賠償および損失補償とは異なる特殊な国家補償法が存するのである。

 5 条理に基づく国家補償請求
 控訴人らに対する補償立法が欠缺していることはそのとおりであるが、上記各事実を合わせ考えると、控訴人らに対し条理に基づく特殊な国家補償が認められるべきであることは自明である。
 前記戦後補償の諸法の根底には、生命、身体の安全、精神的自由、民族的アイデンティティーや尊厳など人道的に保護されるべき人間の最も基本的な諸価値を侵害された戦争被害について、戦争遂行主体であった当該国家が自らの責任により補償すべきであるとする条理が厳存することは明らかである。
 さらに、控訴人らに対しては、明治憲法及び日本国憲法の伝統的の損失補償制度の根底にある正義公平の原理、すなわち条理に基づき正当な補償がなされるべきである。にもかかわらず、原判決が「国家無答責の法理」という見当違いの抗弁を持ち出して、控訴人らの補償請求を斥けたことは条理に関する解釈適用を誤ったものである。

第4 本件における条理の存在

1 原判決は、条理に基づく補償立法として控訴人らが原審で主張したとこ ろの@原子爆弾被爆者の医療等に関する法律、A戦傷病者戦没者遺族等援護法、B台湾住民である戦没者の遺族等に対する弔慰金等に関する法律、Cドイツ、アメリカ、カナダ、オーストリアの第2次世界大戦後における各補償立法について、これらの補償立法が人道的配慮ないし国家補償的配慮に基づくものであることは認めつつも、政治的、外交的、社会的、財政的その他の見地からの総合的配慮に基づき、かつ、様々な紆余曲折を経て制定されるに至ったのものであるという理由から、原判決は「我が国又は国際社会における法体系中に、立法を待たずに当然に違法な国家権力の行使によって被害を受けた人々が加害国に対し補償を請求できるという価値体系が確立しているということはできない。(28頁1行目)」とした。また、「現時点においても、原告らの主張する本件細菌戦のような違法な公権力行使によって損害を受けた被害者が立法を待たずに当然に戦争遂行主体であった国に対し補償を請求することができるという条理はいまだ存在しない(28頁6行目)」と判示する。

2 しかしながら、それではどのような時ならば条理が存在すると言えるの か。
 この点につき、一体どこまで価値体系が高められたら条理が存在すると言えるのかという基準については、原判決はなんら明らかにしていない。
 この点については、控訴人らは原審において次の要件を主張した。
@ 戦争遂行主体である国の責任において、戦争犠牲・被害に対し一定の 賠償・補償をするべきであるという認識が、国際的にも国内的にも相当程度に一般的認識になっているとともに、その一般的認識に基づいて現実に一定の補償が行なわれている例(それが立法に基づくものであれ、事実上のものであれ)が現に存在すること。
A 戦争犠牲・被害が、深刻かつ重大であり救済の高度の必要性が認めら れ、なんらの救済措置もとらずに放置することが著しく正義に反すること。
B 賠償・補償給付の内容が、相当程度に具体的であり、かつ、相当程度 に一義的に定まること。
 これらの3要件について、以下に検討する。

 3 まず、要件@については、原判決も「我が国及び諸外国における戦後補 償に関する立法は、第2次世界大戦において国家の権力により犠牲を強いられ被害を受けた人々、特に違法な国家権力の行使によって被害を受けた人々に対しては、国家の責任においてその犠牲・被害について一定の補償をすべきであるという人道的配慮ないし国家補償的配慮に基づくものと解される。」(27頁16行目)と判示して認めるところである。
 したがって、すでに現時点において被控訴人国は戦後補償をすべきという価値体系が条理になっているといえる。

 4 次に要件Aについては、原判決は、細菌戦の事実を全面的に認定してお り、その認定は、控訴人側が主張した細菌戦の事実全般に及んでいる。
 事実については、簡潔に述べると、まず第一に、日本軍の加害行為を認めた。「1940年から1942年にかけて、731部隊や1644部隊等によって(30頁13行目)」、衢県(衢州)、寧波、常徳にはペスト菌を投下し、江山にはコレラ菌を使用して直接攻撃し、「細菌兵器の実戦使用(細菌戦)が行われた」(30頁15行目)と認めた。
 第2に、伝播による細菌戦被害を認めた。「衢県でのペストは、義烏、東陽、崇山村、塔下洲のようにその周辺の地域にも伝播し、大きな犠牲をもたらした」(31頁9行目)と認定した。また「1942年3月以降、常徳市街地のペストが農村部に伝播していき、各地で多数の犠牲者を出した。」(34頁3行目)と認定した。このように伝播による被害の拡大が認定され細菌戦の残虐さが一層明確になった。
 第3に、細菌戦の命令指揮系統について、「細菌兵器の実戦使用は、日本軍の戦闘行為の一環として行われたもので、陸軍中央の指令により行われた」(34頁23行目)ことを認めた。
 第4に、細菌戦の犠牲者について、本件裁判の被害地8ヶ所全体の細菌戦による死亡者の数が1万人を超えることを認定した。中国全体の細菌戦の犠牲者数は数10万人にのぼるであろうと考えられる。
 第5に、原判決は細菌戦の残虐性を認めた。「ペストは社会形態を介して伝播し、人々を次々に死に追いやることから、差別とお互いの疑心暗鬼を招き、地域社会の崩壊をもたらすとともに、人々の心理に深刻な傷跡を残す。」(35頁13行目)「ヒト間の流行が治まった後も、病原体が自然の生物界で保存され、ヒトの間に感染する可能性が長く残存する。その意味で、ペストは、地域社会を崩壊させるだけではなく、環境をも長期間に渡って汚染する病気である」(35頁17行目)と認定した。またコレラは、「伝染力が強く、次々と死者が出ると地域社会において差別やお互いの疑心暗鬼を招くことも多い。」(36頁2行目)と認定した。
 したがって、戦争犠牲・被害が、深刻かつ重大であり救済の高度の必要性が認められ、なんらの救済措置もとらずに放置することが著しく正義に反することという、要件Aは、当然に満たされているといえる。

 5 最後に要件Bについては、控訴人らの請求の内容が、具体的かつ一義的
に定まっていることは多言を要しない。
 以上述べたとおり、本件においては、条理として認められるべき要件の@ないしBが既に充足されていることは明らかである。裁判所は、端的に条理に基づいて判決し、控訴人らの請求を認めるべきである。

第5 条理に基づいた裁判例

 1 平成14年7月12日、東京地方裁判所民事第14部で、条理に基づい てなされたと考えられる画期的判決があった。これは、中国山東省の住民であった劉連仁が、1944年9月、日本政府によって北海道に強制連行された上で過酷な労働を強制され、さらにはそれに耐えかねて太平洋戦争敗戦直前の1945年7月に作業場から逃走し、その後13年間の長期にわたって北海道の山中で逃走生活を余儀なくされ、これによって耐え難い精神的苦痛を被ったとして国に対しその損害の賠償を求めた戦後補償裁判のひとつである(平成8年(ワ)第5435号損害賠償請求事件)。

 2 この訴訟の最大の争点は、劉連仁が北海道内で13年間もの長期にわた り逃走生活を余儀なくされたことに関し、被告国に救済義務が認められるかということと、そのような救済義務違反に基づく損害賠償請求権が認められるとしても、これが国家賠償法で準用される民法724条後段の除斥期間の適用により消滅したと言えるかであった。裁判所は、この二つの争点について認定し、被告国が救済義務を怠った不作為の違法を理由とする損害賠償請求権を認め、さらに、事案の特殊性を考慮して民法724条後段の規定の適用を制限する判断を示した。

 3 条理論との関連で特に注目すべきは、この後者の争点に関する裁判所の 判断である。以下に当該争点に関する判示部分を引用する。
「・・・被告は、自らの行った強制連行・強制労働に由来し、しかも自らが救済義務を怠った結果生じた劉連仁の13年間にわたる逃走という事態につき、自らの手でそのことを明らかにする資料を作成し、いったんは劉連仁に対する賠償請求に応じる機会があったにもかかわらず、結果的にその資料の存在を無視し、調査すら行わずに放置して、これを怠ったものと認めざるを得ないのであり、そのような被告に対し、国家制度としての除斥期間の制度を適用してその責任を免れさせることは、劉連仁の被った被害の重大さを考慮すると、正義公平の理念に著しく反していると言わざるを得ないし、また、このような重大な被害を被った劉連仁に対し、国家として損害の賠償に応ずることは、条理にもかなうというべきである。よって、本件損害賠償請求権の行使に対する民法724条後段の除斥期間の適用はこれを制限するのが相当である。」

 4 原判決が認定したように、本件細菌戦の被害は、上記劉連仁の事案に比 しても、その規模、悲惨さ、残虐さにおいてより一層深刻である。これに対して、明文の補償立法がないことを理由に補償を拒否することはまさに正義公平の理念に著しく反しているといわなければならない。


第2部 戦後の不法行為と損害賠償責任

第1章 被控訴人国による細菌戦の隠蔽及び行政不作為、立法不作為の事実

第1 被控訴人国の国家意志による証拠隠滅と隠蔽行為の継続

1 被控訴人国は、ポツダム宣言が発表され、日本の敗戦が時間の問題とな った1945年7月下旬以降、中国人などに対し生体実験などの残虐な行為を行った証拠及び国際法に違反して細菌兵器を製造し細菌戦を行った証拠を隠滅しようと画策し、実行した。
 日本軍による細菌戦は、天皇の命令たる「大陸命〔大本営陸軍部作戦命令〕」にもとづき、陸軍参謀総長が出す作戦の具体的な指示である「大陸指〔大本営陸軍部作戦指令〕」の発令によって行われた。細菌戦は、日本軍中枢、天皇、被控訴人国そのものによって行われた戦争犯罪である。
 被控訴人国は、対中国戦争において、国際法に違反することを知りながら、731部隊を中心にして細菌兵器を開発し、中国大陸において実戦使用した。これらの研究開発、製造、作戦実行は、秘密裡のうちに行われた。日本の敗戦が濃厚になると、被控訴人国は、細菌戦の実行という国際法違反の戦争犯罪の事実を隠蔽し、戦争犯罪として裁かれることを防ごうとした。
 無条件降伏した被控訴人国にとって、天皇の戦争責任を免れることは焦眉の課題であった。細菌戦の事実が明らかになれば、中国の被害者はもとより、国際社会の非難は高まり、細菌戦が戦争犯罪として裁かれることはもちろん、日本の戦争犯罪に対する国際裁判全体に多大の影響を及ぼし、天皇に対する戦争責任追求も厳しくなることが予想された。
 本来、被控訴人国は、自ら積極的に中国における細菌戦の事実を明らかにし、関係者、責任者を処罰し、被害者に対する賠償を早期に行わなければならなかった。ところが、戦争の敗北という現実に直面した被控訴人国は、国際法違反の細菌戦の事実が明らかになることによって責任追及の手が天皇に及ぶということに危機意識をいだき、国家意志として、細菌戦の戦争犯罪の隠蔽を図ったのである。
 この点について、証人近藤昭二は、本法廷に提出した鑑定書(甲106の1)において、次のように指摘している。
 「アメリカ軍進駐後まもなく、9月6日にトルーマン米大統領がマッカ ーサーに送付した『降伏後における米国の初期対日方針』などの戦争犯罪人の処罰に関する指針にしたがって、9月10日以降次々にアメリカ側から戦犯逮捕指令が出されていた。
 9月18日に行われた東久邇稔彦首相の外国記者団との会見では、質問が天皇の戦争責任と捕虜虐待問題に集中した。この時明確に回答できなかったこともあって、政府は戦争犯罪問題の対策を講じ始め(9月21日『外人記者会見後ノ要措置事項』通達)、天皇に責任がないとの説明を各部局に作成させた。
 10月2日には連合国軍総司令部に法務局が設置されて、戦争犯罪の証拠収集、捜査活動に動き出す。
 天皇の戦争責任問題への波及をなんとしてもくいとめたい内閣は翌10月3日に各部局からの回答をまとめて『戦争責任等に関する応答要領(案)』を作成した。
 こうした情勢の中で、国体護持を第一の要諦、最重要の命題とする政府、旧軍上層部にとって、大陸命に基く大陸指によって遂行された七三一部隊の中国への細菌攻撃の事実はもちろんのこと、国際法違反の人体実験による細菌戦研究は絶対隠蔽しなければならない事実のひとつであった。」(甲106の1、36頁)
 被控訴人国は敗戦の前後を通して、徹底した証拠隠滅を図った。1945年の敗戦から、サンフランシスコ講和条約の発効までの米軍占領下、とりわけ東京裁判の過程においては、天皇が戦争犯罪裁判にかけられることを免れるために、必至の隠蔽工作を行った。
「日本のばあい、イタリアのような有力なレジスタンス勢力が存在せず、 間接統治という形式からも、旧勢力が存続する条件をのこすことになった。
 このため日本の支配層は、『国体護持』を最大のスローガンにして、天皇制の政治、社会秩序を保持することを最大の課題とした。占領軍が進駐して、しだいに占領政策を実施するようになると、日本政府はなんとか、『国体護持』を実現しようとして、執拗な抵抗を続けるのである。」(甲106の1、35頁)
 米軍占領下において、細菌戦を隠蔽した被控訴人国は、その後も今日に到るまで、国家方針として行政権力を発動し、細菌戦の事実の一切を隠蔽し続け、被害者の救済を妨害してきた。
 これらのすべては、被控訴人国の国家意志に基づき、公務員によってなされた証拠隠滅、隠蔽行為であり、細菌戦という戦争犯罪を行った被控訴人国の新たな国家犯罪である。

 2 歴史的経過として被控訴人国は3つの時期、段階において隠蔽行為を おこなってきた。
 第1の隠蔽は、1945年8月15日の敗戦を前後する証拠隠滅である。
 8月10日ポツダム宣言受諾が決定されると、すぐに、内閣の閣議決定で公文書の焼却が決定された。それはポツダム宣言にあった「あらゆる戦争犯罪の処罰」という一節に対する被控訴人国の対応であった。敗戦に際して日本国家がおこなった第1の行為は、証拠の隠滅だったのである。とりわけ軍関係の証拠隠滅は徹底しておこなわれた。
中国のハルビン郊外の平房にあった731部隊の施設に対しては、ポツダム宣言以前の8月9日にソ連が参戦した段階で証拠隠滅が始まった。施設、物資、書類はことごとく破壊焼却され、「マルタ」と呼ばれていた中国人やロシア人などの捕虜は、全員、「証拠隠滅」のため殺害されたのである。
 第2の隠蔽は、1945年8月から1952年までの米軍占領期における隠蔽行為である。この隠蔽行為は行われた犯罪行為の事実を隠蔽し、戦争犯罪の処罰を免れるためにおこなわれた。
 この戦争犯罪の隠蔽は、直接の当事者の利害にもとづいておこなわれただけではない。国家ぐるみの隠蔽行為として、被控訴人国の積極的行為としておこなわれたのである。さらにこの隠蔽は、日本政府がアメリカ政府・占領軍と取り引きをすることによって成立した。
 日本の政府および細菌戦関係者は、米軍に対し細菌戦兵器研究・開発の物資・資料を全面的に提供し、米軍による細菌戦兵器の開発に協力したのである。それとひきかえに、戦犯としての訴追を免責されたのである。
 第3の隠蔽は、1952年の講和条約発効、占領期の終結から今日に至るまでの隠蔽行為である。
 特に1980年代に入ってから、細菌戦・731部隊の実態の解明は進んできた。だが、その実態解明は、被控訴人国によっておこなわれたものではない。被控訴人国は一貫して隠蔽し続けているが、元731部隊であった人々が証言し始めたこと、中国の被害現地における調査の進展、アメリカが保有している占領期文書の公開、旧日本軍上層部にいた人々が保存していた文書や、医学界の文献の発見などによって解明が急速に進んだのである。
 それから既に20年の歳月が経過している。今日では細菌戦部隊の犯罪行為は国際的にも国内的にも常識となっているにもかかわらず、被控訴人国はこれを認めず、真相を隠蔽し続けている。

第2 被控訴人国による敗戦前後の証拠隠滅

1 平房の731部隊本部の破壊・「マルタ」の殺害等の証拠隠滅
 被控訴人国は、1945年8月9日にソ連が参戦した段階で、ハルビン郊外の平房にあった731部隊の施設を、徹底的に破壊した。
 この証拠隠滅は、陸軍中央の指示により行われた。731部隊本部施設の破壊作業は、8月9日午前7時に命令され、終わったのは12日正午であった。
 これを裏付ける朝枝繁春(参謀本部作戦課の対ソ作戦担当参謀・中佐)がなした731部隊長石井四郎への伝達がある。すなわち、8月10日正午前、石井四郎は、「満州国」の首都新京(現在の長春)にある軍用飛行場で、東京の河辺虎四郎(参謀次長)が派遣した朝枝から、次のような特命を伝えられた。
 「参謀次長に代わって参謀次長のご意向をお伝えします。永久にこの地球上からいっさいの証拠物件を隠滅してください。貴部隊は用意した満鉄の特別急行列車で全員、大連まで退却してください」「証拠はいっさいがっさい、地球上から永久に隠滅してください」(甲53、太田昌克著『731免責の系譜』35頁。甲82朝枝繁春「陳述書」15頁)
 朝枝は、石井に対し、完全な証拠隠滅を厳命したのである。
 また、同じ頃、関東軍の司令部でも管下の七三一部隊の処置について検討がなされており、全ての実験室と細菌培養設備が破壊されることに決していた。
 そのことは当時の関東軍参謀副長松村知勝が、ハバロフスク裁判の法廷で検事に対して証言している。
   「第一ニ、之等部隊ノスベテノ設備ハ秘密ニサレテイテ、之ヲ敵軍ノ手 ニ残スコトハ出来ナカッタカラデス。ノミナラズ、之等部隊デ行ワレテイタ業務自體モ亦秘密デアッタ爲、之等ノ業務ガ行ワレタト言ウ事實ヲ隠蔽スル爲、對策ヲ講ジナケレバナラナカッタノデアリマス。換言スレバ、細菌戦準備ニ關シテ部隊デ行ワレテイタ業務及生キタ人間ヲ使用スル寳験ノ痕跡ヲ湮滅スル事ガ必要ダッタノデス。」(甲20『公判記録731部隊』189頁)
 こうして被控訴人国は、731部隊本部の施設や物資や実験器具、さらに陶器製のウジ型爆弾などの各種細菌爆弾を、徹底的に破壊し、書類やレントゲン写真はことごとく破壊焼却した。同時に、「マルタ」と呼ばれていた中国人やロシア人などの捕虜を、全員、殺害した(甲31の14頁以下)。
 この点について、731部隊であった大竹康二、溝渕俊美が体験したことを証言している(甲108の113頁ないし115頁、122頁ないし125頁)。
 こうした証拠隠滅がなければ、平房にあった施設はそれ自体が細菌戦実施の動かし難い証拠であるから、敗戦と同時に直ちに731部隊の細菌戦を行った事実が中国政府及びソ連政府によって暴露され、国際法に違反した戦争犯罪として裁かれ、また被害者への謝罪と賠償は不可欠なものとされたであろう。

2 日本軍公式記録の焼却、隠匿
 1945年8月10日、ポツダム宣言受諾が決定されると、すぐに、内閣の閣議決定で公文書の焼却が決定された。それはポツダム宣言にあった「あらゆる戦争犯罪の処罰」という一節に対する被控訴人国の対応であった。敗戦に際して日本国家がおこなった第1の行為は、証拠の隠滅だったのである。とりわけ軍関係の証拠隠滅は徹底しておこなわれた。
公文書の焼却は、閣議決定の上、組織的に徹底的に行われた。
「鈴木貫太郎内閣の蔵相であった広瀬豊作が、『私もご承知のとおり終戦直後、資料は焼いてしまえという方針に従って焼きました。これはわれわれが閣議で決めたことですから、われわれの共同責任のわけです』と回想しているし、元陸軍法務中将の大山文雄が、法務省の調査に対して、『書類の湮滅は政府の命令に基づいてなされた』回答しているのも、このことを裏づけている。この焼却命令は、広瀬と大山の回想が示唆しているように、明らかに戦後に予想される戦犯裁判を強く意識しての措置であった。」(甲294『現代歴史学と戦争責任』127頁)
 次にこの閣議決定に基づいて、各省庁で公文書の焼却が行われた。
 ポツダム宣言の受諾が決定し、天皇の「玉音放送」のある8月15日、陸軍省では連絡会議が開かれ、そこで阿南惟幾陸軍大臣からの証拠湮滅の指示が出された。
 後にそのことを明かした田村浩俘虜情報局長の記録が残っている。
1946年3月7日、極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)の国際検察局(IPS)のG・S・ウールワースの尋問に答えて、田村局長は、  「連合国側に見せてつごうの悪いような軍の文書は全て焼却せよ」(甲 106の1、38頁)
という命令を副官から口答で伝えられ、その命令に従ったと述べている。
 ポツダム宣言受諾の閣議決定が行われた頃、陸軍中央官庁の位置する市ケ谷台上においては機密書類の焼却が開始されていた。終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から全陸軍部隊に対し、機密書類焼却の依命通牒が発せられ、市ケ谷台上における焚書の黒煙は8月14日午後から16日まで続いた(甲294『現代歴史学と戦争責任』128頁)。
 上記のような公文書の徹底した焼却により、戦犯裁判を統轄する立場にあったGHQも、めぼしい公文書が存在しないという状況に苦慮したようで、再三にわたって公文書の提供を日本政府に要求した。
「46年1月3日付覚書では、他の場所に移動させた公文書の原保管場所への復帰、公文書を焼却した場合の写しの作成を命じ、続いて7月24日付指令では、『昭和16年6月1日から同年12月8日までの間に開催されたすべての閣議、連絡会議及び御前会議の議事録の確証された写しを一通』提出するよう命令があった。さらに、10月3日付指令では、『1941年7月1日以降同年12月31日に至るまでの期間における閣議決定事項全部に関する報告書をGHQ国際検事局(IPS)に提出するやう』命令があり、『右報告書提出不可能の場合はその理由を附してその旨報告し、また関係書類がすでに焼棄済の場合は焼棄の日付及び焼棄を命じた責任者の氏名を報告しなければならぬ』と釘をさしている。」(同135頁)
証拠隠滅は、電話による口頭連絡、あるいは電報等により秘匿して行われた。
「47年1月9日の東京裁判の法廷に提出された第一復員局文書課長・美山要蔵の『証明書』(法廷証2000番)にも、「本官は茲に昭和20年8月14日陸軍大臣の命令に依り高級副官の名を以て全陸軍部隊に対し『各部隊の保有する機密書類は速やかに焼却』すべき旨を指令されたことを証明する。右は在京部隊に対しては電話に依り其の他に対しては電報を以て伝達された此の電報及原稿は共に焼却された」とあり、電話による口頭連絡、あるいは電報等の焼却といった湮滅工作が碓認できる。」(同136頁)
また、公文書の最重要書類については、焼却指示にもかかわらず、所轄の軍将校が、隠匿し、GHQの追求から逃れた。
 天皇の陸軍に対する最高統帥命令である『大陸命』およびこれに基づいて参謀総長が発する指示である『大陸指』に関しても同様の隠匿が行われた。これについて、現在、防衛庁防衛研究所戦史部が保管している『大陸命』、『大陸指』の原本に付せられた『経歴票』には、次のように記されている。
「昭和20年8月14日大東亜戦争終戦に方り陸軍一般に保管書類焼却 の指令が出されたが、第二課〔参謀本部作戦課〕においては本大陸命(指)綴のみは焼却せず、庶務将校椎名典義中尉が都内某所に隠匿し、第一復員省(局)史実調査部(資料整理部)編成に伴い、占領米軍の公私に亘る一般資料追及の監視を避けて部長宮崎周一中将が自宅に保管した。〔中略〕
 昭和21年12月宮崎中将退職に伴い後任部長服部卓四郎大佐が保管を継承し、同大佐は占領時代終了を待って正統戦争史の本格的編纂にあたるためこれを自宅に保管した。同大佐の『大東亜戦争全史』の著述にあたりてはこれが利用された。
 ここでも、『大陸指、大陸命』綴が戦史室に移管されたのは1960年のことだった。」(同132頁)
 
3 731部隊関係文書の焼却
 1945年8月14日、天皇を含む御前会議でポツダム宣言受諾が決定されると、被控訴人国は、閣議決定で公文書の焼却を決定した。それはポツダム宣言の「あらゆる戦争犯罪の処罰」という一節に対する被控訴人国の対応であった。
 このように敗戦に際して日本国家がおこなった第1の行為は、細菌戦をはじめとする戦争犯罪に関する証拠隠滅だったのである。
1945年8月15日敗戦と同時に、陸軍省軍事課は、731部隊などの戦犯に問われる「特殊研究」について証拠隠滅の指示を、「敵ニ証拠ヲ得ラルゝ事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ隠滅スル如ク至急処置ス」として陸軍省防疫研究室など関係機関に通達で発している(甲138。木下健蔵『消された秘密戦研究所』380頁参照)。
 731部隊へは、陸軍省軍事課員新妻清一中佐の判断でいち早く、同じ8月15日の午前8時半に証拠湮滅の指示が出された。新妻は午前中に連絡した先と時間、担当者を忘れないように「特殊研究処理要綱」の表題をつけてメモにした。B5版の便箋の表・裏に鉛筆で記されたこのメモは現在遺族の手元に残されており、それは次のとおり記されていた。
 「特殊研究処理要綱         二〇・八・一五
  軍事課
一、方針
 敵ニ証拠ヲ得ラルゝ事ヲ不利トスル特殊研究ハ全テ証拠ヲ陰滅スル如ク至急処置ス
二、実施要領
 1、ふ号、及登戸関係ハ兵本草刈中佐ニ要旨ヲ伝達直ニ処置ス(一 五日八時三〇分)
 2、関東軍、七三一部隊及一〇〇部隊ノ件関東軍藤井参謀ニ電話ニ テ連絡処置ス(本川参謀不在)
 3、糧秣本廠1号ハ衣糧課主任者(渡辺大尉)ニ連絡処理セシム。(一 五日九時三〇分)
4、医事関係主任者を招置直ニ要旨ヲ伝達処置、小野寺少佐及小出 中佐ニ連絡ス(九、三〇分)
 5、獣医関係、関係主任者を招置、直ニ要旨ヲ伝達ス、出江中佐ニ 連絡済(内地は書類ノミ)一〇時」(甲138の380頁)

 4 撤退時の箝口令による隠蔽
被控訴人国は、平房の施設を破壊する一方、731部隊員が捕虜になって、細菌戦の事実が暴露されることを恐れ、他の関東軍や民間人に先駆けて、大量の部隊員とその家族を、飛行機、鉄道を利用して敗戦までに撤退させた。
 撤退の際、石井四郎部隊長は、部隊員に対し、「絶対に731部隊で見たり聞いたりした事実を誰にもしゃべってはいけない。冥土に持っていくように。731部隊員であったことも隠せ」と命じた。
 多数の細菌戦部隊員は、幹部だけでなく末端の部隊員も含めて、この箝口令に従って、731部隊に所属したこと、また細菌戦部隊員として体験した事実を家族を含めて一切口外しなかった(甲106の1、45頁)。

 5 敗戦後の元部隊員に対する箝口令の徹底
敗戦後、被控訴人国は、旧日本軍幹部及び731部隊幹部を中心にして、国際法違反の細菌戦の一連の事実を隠蔽するため、石井四郎等の幹部隊員に下部隊員宅を定期的に訪問させ、部隊長指示として箝口令を執拗に再確認し、生活の苦しい下部隊員には、援助金を与えるなどしていた(甲106の1、46頁)。
 とくに、1945年8月から1947年12月の米軍生物戦部隊のサンダース、トンプソン、フェル、ヒルによる調査、尋問に対する隠蔽工作の時期は、石井四郎部隊長等の幹部が戦犯追及を逃れようとして、下部隊員から731部隊と細菌戦の事実が暴露されることを極度におそれて、箝口令の徹底をはかることに必死となった。
 「帰国した731隊員も落ちつくと、別の不安に襲われた。入れかわりに進駐してきた米軍から、戦犯として追及される可能性が大きかったからだ。復員、帰郷に際し、彼らは上官から『731の秘密を漏らすな』と厳命されていた。郷土別に連絡・監視系統が作られ、人によっては潜伏を命じられていた者もいる。」(秦郁彦『昭和史の謎を追う』上巻、文芸春秋392頁)
 1948年1月、帝銀事件が発生し、731部隊関係者が犯人と想定され、警察による731部隊関係者に対する徹底的な聞き込みが行われた。その際も731部隊と細菌戦の事実が暴露されることをおそれ、幹部隊員が下部隊員宅を回りくりかえし箝口令を再確認した。
 このようにして被控訴人国は、731部隊を構成した約3000人の口を封じた。
 こうして被控訴人国は、物的にも組織的にも、731部隊そのものが存在しなかったかのように装い、細菌戦の事実が露見することを妨害し、隠蔽したのであった。

第3 連合国の占領下における被控訴人国の隠蔽工作

 1 戦犯裁判と細菌戦の隠蔽
 1945年8月15日、ポツダム宣言を受諾した被控訴人国は、いわゆる「終戦の詔勅」をもって日本国民に戦争の終結を明らかにした。
 ポツダム宣言には「すべての戦争犯罪人を厳格に処罰する」という一節がある。
 米軍は、連合軍最高司令官マッカーサーが来日した8月30日から2週間もたたない9月11日、東条英機を直接逮捕するなど39人の戦犯に逮捕令状をだした。
 こうして戦争犯罪の処罰は始まったが、被控訴人国は、国際法に違反する細菌戦に関しては、徹底的に隠蔽することによって、戦争犯罪に問われることを逃れようとした。
 結果として、細菌戦に関してはいかなる意味でも罪に問われることはなかった。米軍占領下、1946年5月3日から始まった東京裁判の全過程を通して、被控訴人国は、国際社会に対して細菌戦の事実を隠蔽し続けたのである。
 この細菌戦の隠蔽は、被控訴人国の政府機関としては終戦連絡委員会・有末機関が、そして非公式の政府機関として旧陸軍全体に影響力を行使していた服部機関が隠蔽工作の中心となり、国家ぐるみの隠蔽行為としておこなわれた(甲47)。さらにこの隠蔽は、被控訴人国がアメリカ政府・占領軍と取り引きをすることによって成立した。

 2 米軍調査団に対する虚偽の供述
(1) 日本側がアメリカ政府・占領軍と取り引きすることによって成立した 隠蔽工作は、1945年8月から1947年の終わりにかけて行われたが、この約2年半の過程は、大きく2つの時期に分けられる。この2つの期間中に米軍は、米陸軍生物戦部隊(キャンプ・デトリック)から4人の調査官を派遣している。その時期は以下の通りである。
 第1期 1945年8月から1946年末まで
  占領下の米軍による調査開始からソ連の尋問要求まで
     @サンダース調査期 1945年8月から12月
     Aトムプソン調査期 1946年1月から4月
 第2期 1947年1月から12月まで
  ソ連の尋問要求から最終報告まで
     @フェル調査期   1947年4月から6月
     Aヒル調査期    1947年10月から12月

(2) 上記の第1期において、日本側は、米軍調査官に対し、731部隊の 組織構成等を一定程度明らかにする一方、細菌兵器の実戦使用および人体実験については隠し通した。
 調査官サンダースのレポート(甲116、甲117)及びトムプソン のレポート(甲118)には、日本側が隠蔽のために虚偽の供述をしていることが次のように記載されている。
@ 出月三郎(軍医学校防疫研究室長)、井上隆朝(軍医学校細菌学教 室長)に対する尋問記録 「問 軍医学校では生物戦の攻撃面についてどんな研究をやっていた
か。
答 なにもやっていなかった。生物戦の攻撃的側面については何も 研究していなかった。
問 生物戦の攻撃面の研究はいっさい行われていなかったと理解す べきなのか。
答 攻撃に関する研究は何もしていなかった。敵の攻撃をさける研 究だけをやっていた。これらの研究は軍医学校で行っていた。
問 生物戦用爆撃について何か知ってるのか。
答 何も知らない。」
    (サンダース・レポート、甲24『標的イシイ』243頁)
A 神林浩(陸軍省医務局長)に対する尋問記録
「攻撃についての日本の研究について質問したところ、医務局長は彼 の知るかぎり攻撃の研究は行われていない、と述べた。しかしまた、彼はいくつかの攻撃の研究が防御策との関連で行われていたかもしれず、この種の情報の入手に努めよう、と述べた。」
     (サンダース・レポート、甲24『標的イシイ』255頁)
 B 新妻清一(陸軍省軍事課科学技術担当)に対する尋問記録
「問 日本の参謀本部は武器としての生物兵器をどう考えていたか。
答 我われはその可能性については見当もつかない。というのは我 われはその分野の研究をほどんどやってなかったのだから。
問 独自の部隊、たとえば関東軍といった部門で独自に生物戦研究 を行うことは可能か。
答 我われは研究の全般的指示に責任を負っており、私は全部門の 予算を査定していた。生物戦はそこに含まれていなかった。
問 それらの指示と査定の記録文書を見たい。
答 それらは米軍が日本に上陸する前に燃やされた。このことはマ ッカーサー将軍に報告ずみである。」
  (サンダース・レポート、甲24『標的イシイ』253頁)
C 増田知貞(元731部隊員)に対する尋問記録
 「四、増田大佐は生物戦に関する活動の全貌を知っているのは2人だ け、石井と自分自身だと述べている。彼は兵器を作り出そうとした目的は、適切な防御法を開発するためであったと強調している。
  五、増田大佐は、個人的意見として実用的な細菌爆弾を開発できな かったと述べている。彼はこの原因として組織上の欠点、狭量な嫉妬心、粗末な装置をあげている。彼は科学的活動を再編成しなかった組織の弱さを痛感しており、また適切な支持が得られていれば、生物兵器は確実に実用的な武器となりえただろうと感じている。」(サンダース・レポート、甲24『標的イシイ』270頁。なお、以上のサンダース・レポートに関しては、甲106近藤「鑑定書」47頁ないし53頁に詳述されている)
D 石井四郎(731部隊長)に対する尋問記録
「彼はくり返し、攻撃的武器として生物兵器を開発することは日本の 目的ではなかったし、そうした戦法を取ろうと考えたこともなかった、と強調した。」
    (トムプソン・レポート、甲24『標的イシイ』331頁)
「彼がくり返し強調したのは、生物戦の攻撃面の研究は生物戦の可能性を判定することが唯一の目的で、それは防疫給水の観点からどんな防御措置が必要かみきわめるためであったということだった。」
    (トムプソン・レポート、甲24『標的イシイ』333頁)
「戦術的使用が可能となるほどの量の細菌を生産したことも、また貯蔵したことも全くなかった。砲弾を改造したものおよび飛行機からの噴霧」
    (トムプソン・レポート、甲24『標的イシイ』366頁)
「石井は、爆弾は実用に、その実用性をみきわめ、そして同様の爆弾に対して必要な防御措置を決定するのに十分な量しか製作しなかった、と強調している。」
    (トムプソン・レポート、甲24『標的イシイ』337頁)
E 北野政次(元731部隊長)に対する尋問記録
「私自身の医学知識に基づいて私は細菌兵器を軍事目的に使っても、労多くして効少なし、ということになると考えている、実際、我われがそれを完成していたとしても、それを使う機会はなかったであろう。すなわち戦争に勝っている人はそれを使用して、国際的問題をひきおこす危険を冒す必要はない。敗けそうな人がそれを使用すれば、結果は不名誉なものでしかありえない。戦争開始当初のまだどっちに転ぶかわからないころ、私は細菌兵器は決戦兵器とはなりえない、と強く確信した。」(トムプソン・レポート、甲24『標的イシイ』365頁。なお、以上のトムプソン・レポートに関しては、甲106近藤「鑑定書」47頁ないし53頁に詳述されている)

(3) 上記の@ないしEの各供述者は、いずれも日本軍が行った細菌戦に深 く関わっていた人物であり、細菌戦の実行、人体実験についても知っていた。実際、その後の1947年のフェルの尋問に対して、増田や石井らは、細菌兵器の実戦使用や細菌を用いた人体実験の事実を認めている。
 しかし、上記の各供述者は、この段階、すなわちサンダースおよびトムプソンが行った尋問の段階では、アメリカ側に対し、しらを切り通したのである。
 被控訴人国は、アメリカ側の尋問に対して、完全に何も喋らないというわけにはいかないから、組織構成等一定程度のことは明らかにしながら、他方、細菌兵器開発の一環としての人体実験と中国各地での実戦としての細菌戦を行った事実については、虚偽の供述をして隠し通した。このような隠蔽工作を多数の被尋問者の間で食い違いがないように成立させることは容易なことではない。当然、被尋問者間での口裏合わせの意志一致が必要である。
 米軍調査官トムプソンは、レポート(甲118)の中で、「日本の生物戦研究・準備について、おのおの別個とされる情報源から得られた情報は見事に首尾一貫しており、情報提供者は尋問において明らかにしてよい情報の量と質を指示されていたように思える」と述べている。

3 日本側隠蔽工作の組織的構造
(1) 敗戦時の日本政府及び旧軍部関係者は、できることなら細菌戦に関す ることはすべて隠蔽したい、という点において、完全に一致していた。
 それは、敗戦時の日本政府の最大の課題であった「国体の護持」すなわち天皇の戦犯訴追を免れ、天皇制を維持するためにも必要なことであった。細菌戦や人体実験の事実が明らかになった場合、国際世論の非難が沸騰すること、そして東京裁判に重大な影響を及ぼすことは、火を見るよりも明らかなことであった。
 しかし、その細菌戦に関する隠蔽工作をどのような方法によって行えばよいのかを知るためには、まず米軍側の出方を知る必要があった。さらに動揺する元細菌戦部隊員に対する箝口令を徹底させることも難しい問題だが不可欠であった。当時の日本側は知らなかったが、すでに敗戦直後から、GHQには石井四郎ら細菌戦部隊幹部を告発する手紙が寄せられていた。
 結局、サンダースの調査開始に対する日本側の対応は、@米軍の出頭要求には応ずる、A細菌戦の実戦使用と人体実験は隠し通す、Bそれ以外は積極的に開陳する、ということになった。
 上記のような対応方針で、組織的な一致がおこなわれたのである。

(2) 占領軍と日本政府のパイプとしての終戦連絡委員会・有末機関につい て
 ポツダム宣言の受諾によって、日本は連合国軍の占領下におかれ、総司令官マッカーサーは最高権力者となる。しかしその統治はいわゆる間接統治であり、日本政府は継続して存在し、占領下において、普通選挙法による総選挙がおこなわれ、新憲法が制定されることとなった。
 このような統治形態において、占領軍(米軍)と日本政府の間の連絡調整機関として「終戦連絡委員会」が設置された。日本側の米軍に対する窓口である。米軍から日本政府に対する要求や指令、通告はすべて終戦連絡委員会を通しておこなわれた。占領下の政治においてこの機関は特殊に重要な役割を担うものであった。
 初め、終戦連絡委員会は、米軍の受け入れ機関として軍部の機関として作られた。その委員長となったのが大本営陸軍第二部長として国際情報を担当していた有末精三であり、この機関は「有末機関」と呼ばれた。占領軍受け入れ後にこの連絡委員会は各分野、各都道府県に設置され、外務省の外局として終戦連絡中央事務局が設置される。この外務省管轄の政府機関である有末機関が隠蔽工作に重要な役割をはたすのである。有末は著作のなかで次のように言っている。
「占領軍との連絡の多くは戦犯容疑者の出頭要求であったし、来訪する 復員軍人連絡の内容は、復員や部隊状況の通報もさることながら、皆 目見当のつかない各自の置かれている占領軍に関係のある情報、内情 についての質問が主要な問題であった」(甲47、有末精三著『終戦秘史 有末機関長の手記』180頁)
 細菌戦に関しても、米軍からの尋問出頭要求はこの有末機関を通しておこなわれた。
 また、ちりぢりになった元部隊員が情報を得るために訪れた際、情報を与え、組織的な隠蔽工作を徹底させるために対応策を指示することができたのも有末機関である。
 1946年1月に復員し、トムプソンの尋問要求に出頭した元731部隊長北野政次は、有末に「米軍とは戦犯免責で話しがついているから心配する必要はない」と告げられたので翌日出頭した、と述べている。
 さらに米軍と旧軍部との関係では、大本営陸軍部作戦課長だった服部卓四郎の服部機関が指摘される。服部は、戦後、陸軍省(軍部解体後は第一復員省)の戦史室に入ると同時に、GHQに戦史編纂のため雇われ役割を兼務することになる。この服部機関はいわば非公式の日本政府の対米協力機関であった。石井四郎の娘石井春美は「父は服部の指示に従って出頭した」と述べている。

  (3) 細菌戦部隊当事者としての隠蔽工作の中心人物・内藤良一の動向につ いて
 サンダースの調査が始まった時、英語のできる軍医として最初に出頭を命じられたのが内藤良一である。
内藤は、陸軍軍医学校防疫研究室の責任者として、細菌戦部隊・石井機関の要にいた人物である。また後に朝鮮戦争の開始時、「ミドリ十字」の前身である「ブラッド・バンク」を設立した。
 内藤が七三一部隊等の中国大陸における細菌戦部隊と陸軍軍医学校、さらには日本医学界をつなぐ要に位置する重要人物であることをアメリカ側が把握していたかどうかはわからない。しかし日本側にとっては、内藤が最初にサンダースに接したことによって隠蔽工作がすべりだしたといえる。
 現在では明らかになっているが、内藤は、サンダースの対応からアメリカ側の思惑を読みとり、前記の日本側の対策・方針を考えぬいたのである。
後年内藤を尋問した米軍調査官サンダースは、朝日新聞のインタビューに答えて次のように語っている。
「調査開始直後、通訳としてドクター・ナイトウがやってきた。私は 最初、ナイトウが七三一部隊幹部とは知らなかった。今から考えると、誰が彼をよこしたのか不思議だ。ドクター・ナイトウはその後、ミドリ十字の社長になった。彼とは、その後も非常に親しく付き合った。(昨年七月死去した内藤良一・ミドリ十字会長のこと。同氏は陸軍軍医学校教官として、満州七三一部隊と東京を行き来していたほか、南方軍防疫給水部長なども務め、七三一の石井四郎部隊長の参謀格だったといわれる。)」
「ナイトウたちは私に『誓って人体実験はやらなかった』と繰り返し 言い、私はそれを信じていた。ところが、最近になってそのことを知り、大変、ショックを受けた。ナイトウは故人になったが、私としては彼に裏切られた気持ちだ」
         (甲42、1983年8月14日『朝日新聞』)
 内藤は米軍調査官の反応を見ながら、米軍の出頭要求には応ずるが、細菌戦の実戦使用と人体実験は隠し通す、それ以外は積極的に開陳する、という被控訴人国の方針を策定したのである。
近年になって、先にサンダースの尋問を受け、虚偽の供述をしていた新妻清一が保存していた重要な文書が発見された。新妻は、元陸軍省の科学技術担当という立場から尋問者間の連絡網をつくっていった人物である。
 次に引用する増田が新妻に宛てた手紙の中から、内藤良一が、細菌戦と人体実験について隠し通すという根本方針を策定したことが示されている。
「部隊幹部直筆の書簡は、1945年(昭和20)11月9日付きで、 731部隊で部長職を歴任した増田知貞軍医大佐(故人)が潜伏先の千葉県内から陸軍省軍事課で科学情報を統括した新妻清一中佐にあてたもの」
「右書簡で増田大佐は米国調査への考え方を説明し、『タとホ以外は 一切を積極的に開陳すべき』と内藤の『持論』を紹介。『タ』は人体実験用の捕虜『マルタ』を、『ホ』は細菌作戦をそれぞれ指す部隊関係者間の隠語で、内藤は人体実験と中国での細菌作戦や未遂に終わった米国への攻撃計画だけは秘匿するように主張していた」
     (甲44の1、1998年8月15日『信濃毎日新聞』)

(4) 政治家・亀井貫一郎の隠蔽工作について
 政治家としてこの隠蔽工作の中心に存在したのが、亀井貫一郎である。亀井は戦前外交官としてアメリカ留学の経験があり、1928年衆議院初当選以来合計4回当選している。その後大政翼賛会東亜部長を経て、戦争末期には「聖戦技術協会」を設立し、軍との共同研究・開発にたずさわった。
 「陸海軍の秘密兵器乃至は新兵器の実験と生産の面において之を熟知し居る立場」(甲45『上申書』亀井貫一郎作成108頁)にあり、細菌戦とも密接に関わっていた人物である。
 また亀井は政治的には近衛文磨派に属し、戦争中に反東条演説をおこなった件で執行猶予付の有罪判決を受けている。アメリカ留学の経験をもつ亀井は通訳として米軍の細菌戦調査に最初から関わり、隠蔽工作の中心人物となったのである。
 後に亀井は、「占領開始と同時に次の役割を担った」と述べている。
 「(1) 進駐軍側に於ける日本陸海軍の新兵器乃至秘密兵器の研究生産 我国の陸海軍の繊維資材並に食料の保有量並に陸海軍機構の調査に当り、米国側と有末機関及鎌田機関を通ずる日本陸海軍省部との間の当初の日本側より推薦せられたる最高通訳として、後に米国側の日本人通訳筆頭として右調査業務及折衝業務に従う事になりました。
(2) 更にA級戦犯即ち市ヶ谷法廷に於ける検察側の為めキーナン検 事総長の下にモルガン検察事務局長の依頼により日本戦争責任追及の為め米国側の必要とする証人及証拠蒐集の事務に協力せしめらるる事になりました。蓋し満州事件以来日本の政治的経済的及び軍事的なる歴史経過を知る一人であったからであります。
(3) 次に我陸海軍のB級戦犯の裁判事務の緒につくまでの折衝と通 訳であります。
(4) 次に日本側秘密兵器の米国への完全引き渡し業務であります。
(5) 次に対ソ及対共産党の対日方策に関連する米側について意見を 具申する立場と相成りましたことは別紙【>>別紙資料はこちら(PDF:2MB)】関閲歴に詳述いたしてあります。」
      (甲45『上申書』亀井貫一郎作成、109〜110頁)

(5) 連絡係・新妻清一の隠蔽工作について
 もう一人旧軍部で隠蔽工作に動いたのが、陸軍省軍事課で科学技術担当だった新妻清一である。
 新妻は、科学技術担当として細菌戦関係者や亀井とも接点をもっていたが、彼の専門はロケット及び核兵器開発であった。
 米軍の科学技術調査団は、日本の核兵器、科学兵器、細菌兵器の開発に関する調査団であった。新妻は、核兵器開発については、基本的に当初から米軍にレポートを提出するなど全面的に協力していたが、他方、細菌戦については、終始、隠蔽工作に動いたのである。
 新妻は、米軍からの尋問要求者に対して口裏合わせのための連絡をとり、前記の日本側対応方針のもとに一致させる役割を果たした。
 先に内藤良一のところで引用した新聞記事記載の書簡と同様、新妻の保存していた文書の中には、次のとおり、新妻自身が口裏合わせのための部隊間の連絡のために動いていたことを意味する文書が存在している。
 「北野中将ヘ連絡事項
一、○及『保作』ハ絶対ニ出サズ
二、開防給ハ石井隊長以下尚在満シアリ
三、増田大佐ハ萬難ヲ排シテ単独帰還シ「マ」司令部へ出願セリ
四、開防給ハ總務部長兼第四部長大田、第一部長菊池、第二部長碇、 第三部長兼資料部長増田大佐トナリ其他ハ転出又ハ解隊シアリ
五、第一部研究、第二部防疫実施並ニ指導
第三部給実施並ニ指導及資材修理
第四部製造、資材部、資材保管補給ヲ担当シタリ
六、七、八棟ー中央倉庫、田中班ーP研究、八本澤班ー自営農場ニ 使用シアリ
七、『保研』ニ開シテハ石井隊長、増田大佐以外ハ総合的ニ知レル モノナシ
研究ハ細分シテ常ニ人ヲ代ヘテ之ニ当ラシメアルヲ以テ他ノ者ハ部分的ニ之ヲ知レルノミナリ 而モ其ノ目的ハ知得シアラザルナラン
八、北野中将在職中『保研』ハ前任者ノ実験ヲ若干追試セル外積極
的ニ研究セズ中止ノ状態ナリ
九、『保研』ハ上司ノ指示ニアラズ防御研究ノ必要上一部ノモノガ 研究セルモノナリ
一〇、北野中将ハ在職中専ラ流行性出血熱ノ研究ニ没頭セリ」
(甲139「写真」。甲43、1997年1月7日「大分合同新聞」)
 上記文書は、陸軍の印が入ったB4判便せんの1枚の手書きで、1942年ないし1945年3月の期間、2代目の731部隊長であった北野政次軍医中将あての10項目の「連絡事項」が記された文書であり、終戦直後に同部隊幹部と連絡をとっていた旧陸軍省軍事課中佐新妻清一が戦後、自宅に保存していたものであるが、GHQの尋問に備え、人体実験や細菌作戦実施などの事実を隠滅するため、幹部間で徹底した口裏合わせをしていたことを示している。
すなわち、上記文書は、筆者、日付は不明だが、「増田大佐ハ(中略)司令部ヘ出頭セリ」との記述から神奈川大の常石敬一教授は、部隊創設者の石井四郎中将の「片腕」とされた増田知貞大佐に対するGHQの尋問が始まる1945年10月ごろに部隊関係者が書いた、と分析している。
 「○及び『保作』ハ絶対ニ出サズ」と記載(これまでの研究により、○はマルタを、「保作」は細菌作戦を指す暗号と判明している)し、これから尋問される北野中将に、人体実験や中国での細菌戦などの秘密を守るよう連絡していた。
捕虜を収容していた同部隊の7、8号棟を「中央倉庫」、兵器用にペストに感染させたノミを培養していた田中班を単に「P(ペスト)研究」、穀物用細菌兵器を研究していた八木沢班の実験場を「自営農業」と言い換え、細菌戦研究は「上司ノ指示ニアラズ防御研究ノ必要上一部ノモノガ研究セルモノ」とするよう指示している。(甲43、1997年1月7日『大分合同新聞』参照)

  (6) 国家的行為としての隠蔽工作
 上記の関係者によって、敗戦直後から細菌戦の隠蔽工作は、被控訴人国の国家的な行為としておこなわれた。
 まず政府機関としては終戦連絡委員会・有末機関が、そして非公式の政府機関として旧陸軍全体に影響力を行使していた服部機関が隠蔽工作の中心となった。
 一方、米軍の通訳という立場から隠蔽工作の中心に座ったのが内藤良一と亀井貫一郎である。
 内藤は、軍医学校防疫研究室の責任者として細菌戦部隊の要にいた人物であるが、中国現地の細菌戦部隊、東京の軍医学校、軍中枢部、さらに日本医学界をも含む細菌戦機関のネットワークを熟知していた内藤が隠蔽工作においても要の位置を占め、米軍の動向を伺い、日本側の対応を策定していったのである。
 亀井は、政治家としての立場で、敗戦直後の内閣副総理であった近衛文磨と連絡をとりつつ内藤とともに隠蔽工作に関わった。 
内藤と亀井が通訳として米軍サイドに身をおきながら隠蔽工作の方針を策定する一方、元陸軍省の科学技術担当という立場から尋問者間の連絡網をつくっていったのが新妻清一である。
 以上の敗戦直後に形成された隠蔽工作の組織的構造は、この時期の隠蔽が最終的に成立する1947年末まで基本的に続く。前記の第2期、すなわちソ連の暴露と尋問要求が出されてからの隠蔽工作には、これに加えて731部隊長であった石井四郎自身が米軍との密接な接点をもち、細菌戦兵器開発のため米軍への全面的協力をおこなうことによって隠蔽工作を成立させるのである。

(7) 虚偽供述を証拠づけるトムプソン・レポート
米軍の調査官トムプソンは、1946年5月にレポートを提出し帰国した。トムプソン・レポートは、731部隊長であった石井四郎および北野政次に対する尋問で得た情報を中心に作成されているが、その結論として、
「日本は生物戦の攻撃面の研究・開発で大きな進歩を達成しているが、結局実用的な武器として生物兵器を使用するまでにはいたらなかった」(甲24『標的イシイ』327頁「1946年5月31日「日本の生物戦研究・準備についてのレポート」)と書かれている。
 結局、サンダースおよびトムプソンの調査を通して、尋問を受けた者は、731部隊の組織実態、細菌戦の研究内容をかなりの程度まで明らかにし、攻撃用の兵器の研究・開発をおこなっていたところまでは供述した。しかし細菌戦を実行したこと、および人体実験については、虚偽の供述により隠し通したのである。
 ちょうどトムプソンがレポートを提出した5月31日、東京裁判が開始されたが、細菌戦関係者は訴追されず、一切訴状にのぼることはなかった。こうして1946年末までには日本側の隠蔽工作は成立するかに見えたのである。
 ところが1947年に入って、日米双方にとって予想外の事態が起きた。

 3 アメリカ政府・占領軍との免責取引による隠蔽

(1) 細菌戦の実戦使用と人体実験を把握していたソ連
1947年1月、ソ連は極東国際軍事裁判(東京裁判)の国際検事局を通じて、ソ連側による尋問をおこなうため石井四郎等細菌戦当事者の身柄引き渡しを要求してきた。ソ連はシベリアに抑留していた731部隊員の供述や押収文書から、日本軍の細菌戦の実戦使用および人体実験についての情報を得ていたのである。

  (2) 連合軍総司令部(GHQ)法務局の戦犯訴追へ向けての動向
 1月15日にソ連側とアメリカ側担当者の会合がおこなわれた。ここでソ連側はシベリア抑留中の731部隊第四部長の川島清、その部下であった柄沢十三夫等の供述書を提出し、中国における日本軍による細菌戦の実行と、平房の731部隊での人体実験の事実をアメリカ側に暴露し、同時に、石井四郎ら731部隊幹部の尋問要求をつきつけてきた(甲125)。
 この事態を受けて米軍側で積極的に動いたのは、GHQ法務局である。アメリカ側のこれまでの調査、サンダース、トムプソンによる尋問は、米陸軍生物戦部隊派遣の調査官による調査であり、GHQ参謀部G2(情報担当)の管轄下においておこなわれてきた。この調査は1946年5月にトムプソンがレポートを提出しいったん終了していたのである。
これとは別に、GHQ法務局も独自の調査をおこなっていた。すでに占領直後から元部隊員と思われる人から、石井四郎等を告発する手紙がGHQに届いていた。これに基づいて最初に調査を開始したのは、検察局のモローであった。モローは毒ガス戦と併せて細菌戦の調査のために中国を視察し成果をあげた。しかし1946年3月にモローの石井四郎に対する尋問要求はG2によって拒否され、調査は壁にぶつかった。
 1947年の新たな事態の展開の中で今度は法務局が調査を開始した。法務局の調査は細菌戦関係者を戦犯訴追することを目的としておこなわれた。
 1月24日、法務局の担当者スミスは内藤良一を尋問した。内藤はスミスの追求の前に初めて人体実験をおこなっていたことを供述した。法務局はさらに増田知貞等を尋問し、4月4日付でスミス・レポートを提出した(甲119)。このレポートの結論として、「本レポートはこれまでの調査を概観しており、またそれによって法務部が連合国の人間に対する不法な実験および残虐行為をおこなった罪のある人物を調べ、彼らを戦犯とすべく努め、裁判にかけるように努力していることがわかるようになっている」(甲24『標的イシイ』390頁)と記載されている。

(3) 窮地に陥った日本側の新たな隠蔽工作
 ソ連による暴露とGHQ法務局の戦犯訴追の追求によって、一挙に被控訴人国は、窮地に陥った。これまでの細菌戦はやっていない、また人体実験も行っていないという嘘が通用しない危機にたたされた。
 この時、東京裁判は、開始以来半年以上を経過し、検察側立証の最終段階として、日本軍の捕虜虐待や残虐行為の立証が続けられているところであった。被控訴人国は、東京裁判において天皇が訴追されなかったことにひとまず胸をなでおろしていたが、ここで日本軍の細菌戦や人体実験があからさまになったばあい、東京裁判がどう展開していくかは予断を許さないものがあった。
 日本における戦犯裁判は連合国がおこなうことが、すでに占領直後の指令で定められていた。日本政府自らが戦犯裁判をおこなうことは、占領期が終了する1952年まではできなかった。
 しかし被控訴人国は、この段階で、GHQ法務局に全面的に協力し、細菌戦の実態を明らかにし、戦争犯罪として裁くことに積極的に協力することはできたのである。
 しかも1947年5月3日には新憲法が施行された。被控訴人国には新憲法の理念のもとに行動することが求められたのである。しかし被控訴人国はそうしなかった。被控訴人国は、政府・旧軍部・細菌戦関係者一体となった新たな隠蔽工作に走ったのである。
 窮地に陥った被控訴人国のとった方策は、人体実験や実戦で得たデータをはじめ、細菌戦研究の全成果を米軍に提供し、さらに米軍による細菌戦兵器開発プロジェクトに参加し全面的に協力する、それと引き替えに石井四郎をはじめとする731部隊等の細菌戦部隊幹部は戦犯訴追を免れ、細菌戦の隠蔽を貫き通すというものであった。これによって天皇の戦犯訴追も封じることができると被控訴人国は考えた。
 細菌戦関係の当事者として最初に米軍と接した内藤良一は、すでに1945年9月のサンダースによる尋問開始の時点で、米軍の調査目的が細菌戦に関する情報や研究成果の入手にあり、それを米軍の細菌戦兵器開発に利用しようとしていることを察知した。ここに日本側の隠蔽工作が成立する条件を見いだしたのである。
 一方、サンダースの側も、マッカーサーの承認のもとに、最初から戦犯免責と引き替えに情報を得るという手段をとった。1983年の朝日新聞のインタビューに対して、サンダースは次のように答えている。
「 ─── 戦犯免責の取引は関知していたか。
イエス。四五年の秋だった。GHQの私の上司だったウィロビー少将に相談し、二人で総司令室に行った。マッカーサーをはさんで私たちが座った。その時のやりとりは、今でもよく覚えているが、次のようだった。
ウィロビー「731部隊の解明は、彼らを戦犯に問わないという 保証をしてやらないとうまく進まない。サンダース中佐がその保証をしてやっていいですか」
マッカーサー「それでよろしい」 ウ「サンダース中佐が、あなたの言葉として使っていいですか」マ(黙ってうなずく)」
        (甲42、1983年8月14日『朝日新聞』)
サンダースは免責を内藤に告げ、2日後まず内藤本人から尋問を始めた。次に731部隊に詳しい陸軍省の新妻清一中佐、細菌爆弾の設計と制作にあたっていた金子順一少佐、石井四郎の右腕であり、細菌戦攻撃を計画し、方法論まで発表していた増田知貞大佐へと調査を進めていった。
 しかし、免責の条件を持ち出されても内藤たちは、警戒をゆるめず、隠蔽した事実を明かそうとはしなかった。この当時731部隊の予算についての答弁に苦慮していた新妻清一のところへ、増田知貞から届いた書簡が残っている。サンダースが調査の結果をレポートにまとめ、補足的な尋問をしている時期に当たるが、その文面からは増田たちが隠蔽工作にいかに腐心しているかがよく分かる。
 「原則論としてハ、日本軍ハ攻撃を企画せし事無之故、予算に於いても攻 撃用として予算を組みし事ハ無之候筈に御座候はずや。唯々攻撃研究として予算を組みし事ハ可有之候はんも、これハ731部隊の使用範囲内に止り 部隊令達研究費予算内の極一少部分に過ぎず と云ふ事に可相候(小生等の説明を基礎として論ず)実際問題として731にて攻撃として使用仕候予算の大部分はPx関係にて、之ハ事実上の数字ハ秘匿して置かざれば、当方の攻撃意図が暴露致候事と可相成候」(甲53『免責の系譜』24頁)
 サンダースおよびトムプソンの調査期における隠蔽は、アメリカ側に対し、細菌兵器の開発までを明らかにする一方、その実戦使用と人体実験は隠し通したわけであるが、ソ連による暴露という新しい状況下において、もはや米軍に対して隠し通すことは不可能となった。
 しかし米軍の目的が、細菌戦を戦争犯罪として裁くことではなく、米軍自身が細菌戦兵器開発のために利用しようというものであることを内藤等はすでに十分に認識していた。そうであるならば、細菌戦の隠蔽はアメリカ側の目的でもあると内藤等は読みとったのである。そこに極めて危機的状況に陥りながら、なおかつ隠蔽を貫き通す条件は存続していた。もはやアメリカ側に対して隠し通すことは不可能であると判断した被控訴人国は、米軍への全面協力を申し出ることによって、破綻しかけた隠蔽工作をなんとしても成立させようとしたのである。

  (4) 隠蔽工作と石井四郎
 この新たな隠蔽工作においては、731部隊長であり、また細菌戦関係の全部隊、陸軍軍医学校、さらには日本医学界をまきこんだいわゆる石井機関をつくりあげた石井四郎自身が、内藤良一や亀井貫一郎等とともに、積極的役割を果たした。
 米軍の占領直後のサンダース調査期において、内藤良一が通訳として最初から米軍と接点をもち、隠蔽工作の中心を担っていったのに対し、石井四郎の場合、尋問に応じたのは1946年に入ってからトムプソンの調査に対してである。
 その前の1945年12月に石井は密かに米軍担当者と会っている。これは亀井貫一郎がセットした鎌倉会談である。日本側は石井が尋問に出頭するにあたって、すでに内藤等が感触を得ていた戦犯免責について、改めて確約することを必要としたのである。
 石井が出頭し尋問に応ずるということは、他の人物とは異なる意味をもっていた。石井は731部隊長として、撤退の際、部隊員を前にして「絶対に喋ってはならない」という指示を出したのである。旧日本軍隊において上官の命令は絶対的なものであった。敗戦直後のこの時期そうした意識が直ちに払拭できるものではなく、石井の命令は復員した隊員の意識を強く縛っていた。その石井が出頭に応ずるとはどういうことか、部隊員の中に動揺が深まるのは当然のことであった。
 米軍に対しては、こうした下部の隊員の尋問をおこなわせない必要があった。一方、隠蔽工作の進行という状況のなかで、改めて部隊員に対し箝口令をしき、下部隊員が勝手な行動をとらないよう組織的に統制する必要があった。
 有末機関や新妻清一等が米軍からの尋問要求者の間での口裏合わせのために動いた一方で、石井は731部隊長の権威を利用し、細菌戦部隊員全体に対して隠蔽工作を徹底させるために動いたのである。
 1945年8月15日の敗戦直後に日本に戻ってきていた石井は、一時金沢にいたが、千葉県山武郡芝山町の実家を経て、10月頃には新宿若松町の自宅に戻っている。遅くともこの10月頃から内藤、亀井等と連絡をとりあい、アメリカ側の動向、サンダース調査・尋問の様子などを把握していた。その一方で石井は、部隊員や陸軍省上層部とも連絡をとりあっていた。
 731部隊から戦後のこの時期にいたるまで石井の秘書的な役割を果たしていた郡司陽子は次のように言っている。
 「自宅の二階に隊長が『潜伏』している間も、いろんな人間が訪ね て来た。・・・
 七三一関係者では、ほかに少佐待遇の高等官だったと思われる中肉中背の軍医と陸軍医学校『三研』で見たことのある軍医が来たのを覚えている。元隊員以外の人も、ときどき現れた。わたしは彼らが、旧陸軍省関係の人だと聞かされた」
  (甲46、郡司陽子著『証言・731石井部隊』236頁)
 上記の「旧陸軍省関係の人」が誰かは不明であるが、当時軍部解体に伴い、当然陸軍省も解体されたが、旧陸軍省や参謀本部の軍人は第一復員省に組織的に横すべりしていた。その中心は作戦課長だった服部卓四郎である。服部をはじめ、政府機関としての第一復員省が、隠蔽工作に深く関与していたことは明白である。
 1946年1月22日に石井の初尋問がおこなわれたが、石井の尋問は病気を理由に若松町の自宅でおこなわれた。石井は、この時点では、上述したような隠蔽方針で望んだのである。
 石井は、尋問に対して事実を隠し、捕虜を使った実験や攻撃用の大規模な細菌兵器の開発に関わったことを否認し、平房での研究は小規模なもので、小動物だけが使われたと主張した(甲106の1、54頁)。
 石井は、トムプソンの尋問に応ずる一方で、下北沢の日本特殊工業社長宮本茂宅を連絡場所として部隊員・石井機関の関係者を組織し、米軍との非公式の接点をもっていた。日本特殊工業は、石井の発明した石井式濾過器の製造を引き受けていた会社で、石井機関の一環である。戦後のこの時期、宮本社長宅を拠点として社員も含めて石井の手足となって動いたのである。
 この時期宮本宅に派遣された郡司陽子は次のように言っている。
 「この屋敷にも、七三一の元隊員や軍医たちがよくやってきた。あき らかに地方から上京してきたと思われる人もいた。彼らは屋敷に泊まった。・・・
 彼らが屋敷に来ると、まるで符帳を合わせたように、マッカーサー司令部から将校たちがやってきた」
  (甲46、郡司陽子著『証言・731石井部隊』242頁)
この時期は、第2期の隠蔽行為の時期にあたるが、この時期の隠蔽工作には、731部隊長である石井四郎自身が積極的な役割を担っていたことを裏付けている。
 米軍調査官フェルのレポート(甲120)には、石井四郎の供述調書が添付されているが、そこには次のような石井四郎の言葉がある。
「平房には全責任を負う。私はそのことで私の部下および上官を面倒 に巻き込みたくない。私、私の上官、それに部下に対して文書による免責を与えてくれるなら、全ての情報を提供する用意がある」
「アメリカは私を細菌戦の専門家として雇ってくれないだろうか。ソ 連との戦争に備えて、私は20年に及ぶ研究と経験を提供できる」 「私は色々な地域において、また寒冷期において最も有効的な病原体 の研究をしてきた。細菌戦について、その戦略的および戦術的使用についての考えを含んだ本を書くことが出来る」(甲121)
 この石井の提案に対するフェルの回答はフェル・レポートに示されている。フェル・レポートでは次のように書かれている。
 「細菌計画の中心人物である石井将軍は、その全計画について論稿を 執筆中である。このレポートは細菌兵器の戦略的および戦術的使用についての石井の考え、様々な地理的領域での(特に寒冷地における)これらの兵器の使用法、さらに細菌戦についての石井の『DO』理論のすべての記述が含まれるだろう。この論稿は、細菌戦研究における石井将軍の二〇年にわたる経験の概要を示すことになろう。それは七月一〇日頃に入手可能となろう」
(甲122。甲33『増補<論争>731部隊』286頁)
 石井の提案に対してアメリカ側がのったことを、上記の記述は示している。また、上述した石井の提案は石井の個人的提案ではない。1945、46年段階での隠蔽工作が、被控訴人国の国家ぐるみの組織的行為としておこなわれたのと同様、この提案も政府、旧軍部、細菌戦部隊当事者が一体となった被控訴人国の組織的な隠蔽方策としておこなわれたのである。
 また、フェルの尋問に対し、増田知貞も、次のように述べている。
 「もしあなたが戦犯免責を保証する文書を発行してくれるなら、我々 はおそらく全ての情報を揃えることができるであろう。隊長は言うまでもなく、部下も詳細を知っている」(甲106の1、62頁)
 フェルは2ヶ月間の調査で、石井の論稿の他、細菌戦の中心的研究者19名の書いた60頁のレポート、200人以上の人体実験による8000枚の病理標本等を入手した。これらのレポートや物資はいったんアメリカに送られ検討された後、その説明やさらに詳しい調査のため、ヒルとヴィクターが調査官として派遣される。
 1947年末に提出されたヒル・レポートをもって、米軍調査団による調査は終了した。
フェル・レポートに記されたレポート類は現在未発見だが、731部隊の資料がアメリカに渡ったことを示す証拠がある。
 アメリカ・ユタ州ダグウェイの実験場に「Qレポート」と題する解剖レポートがある。もとはフォート・デトリックに保管されていたもので、1940年の農安・新京でペストが発生した時の患者57名を病理解剖したレポートである。全744頁にのぼる大部のものである。
 レポートの「まえがき」には、「高橋(正彦と思われる)医師と他の人たち共同で、疫学と細菌学の調査を行った。日本語で印刷されたそれらのレポートは1948年7月、すでにアメリカ軍に提出している。私と他のメンバーは、9月29日から11月5日の間にこの二つの地域で死亡した全てのケースを病理解剖学的に調査した」と述べられている。
 最近、農安・新京ペストを分析した高橋正彦の論文が松村教授によって発見された(甲200)。それは、増田大佐が主任で、石井四郎軍医少将の担任指導のもとに陸軍防疫学校防疫研究報告として作成された「昭和15年農安及新京ニ發生セル『ペスト』流行ニ就イテ」と題する論文である。
 この中にまた「藤田君香」を含む患者たちの解剖検査の結果と分析が述べられている。しかも、731部隊の業務室保管のペスト菌との比較、毒力検査までがされている。
 このことから、731部隊の高橋正彦が分析していたデータを、1948年になって高橋のチームでレポートにまとめて、アメリカ側に渡したのが「Qレポート」であるということは明白である(甲106の1、70頁)。

  (5) 日本側の隠蔽工作に対するアメリカ側の対応
 日本側の新たな隠蔽工作に対して、アメリカ側が応じることによって、結果として新たな隠蔽工作は成立した。しかしアメリカ側にとっても、この秘密裡の政策は危険を含むものであった。
第1に、GHQ法務局の戦犯訴追へ向けての動きを止める必要があった。
 第2に、日本側の文書での戦犯免責の確約要求に対してどうするかという問題があった。文書にした場合にはどうしても証拠が残ることになる。アメリカ側にとっては、証拠を残さないようにすることが望ましかった。
 こうした米軍内部の確執、および日本側との取り引き上における駆け引きは、大体この年の秋くらいまで続く。最終的には年末までには決着がつき、日本側の隠蔽工作は成立するのである。以下、詳述する。
@ GHQ法務局の調査打ち切りについて
 法務局は細菌戦の戦犯訴追を追求していた。先に述べた4月4日付法務局スミス・レポートはそのことを示している。
 これに対してGHQ・G2(参謀部・情報担当)から4月17日、次のような指示が法務局に送られている。
 「本調査は統合参謀部の直接指揮下で行われるべきもので、G2の 指揮の下で行われる。各措置、尋問あるいは接触は当部と共同で行われなくてはならない。アメリカの利益を守り、困難を未然に防ぐために最大限の秘密保持が不可欠である。
 次のように要求する―
a、本件についての訴追あるいはなんらかの刊行物の発表といっ た活動は、G2の同意なしに行われないこと。
b、前記レポートおよび告発の手紙を秘密に指定し、本件にかか わったアメリカ側の全員にこのことを周知すること。
c、新しく得られた情報は、G2に提出すること。
d、さらに文書あるいは写真の入手に努めること。
e、今後の尋問は連合国軍尋問部の尋問センターの指示の下で行 うこと。」(甲24『標的イシイ』391頁)
 この指令によって法務局の調査は打ち切りとなった。しかし戦犯訴追問題をどうするか、最終的な決定権は連合軍最高司令官(SCAP)の権限を超えていた。当時、アメリカ政府における日本占領政策の最高決定機関として、陸軍省・海軍省・国務省三省調整委員会(SWNCC)が設置されていた。
 日本現地にはその極東小委員会(SFE)が存在した。最終的には夏から秋の過程で、SWNCCの決定で細菌戦関係の戦犯訴追をしないことが決定されたのである。
A 日本側の文書での戦犯免責要求に対するアメリカの動きについて
 この問題に対しては、日本現地の占領軍側が「文書で免責を与えることによって情報を得られる」と主張しているのに対し、アメリカ本国では懸念を表している。戦犯訴追問題と合わせて、占領軍とアメリカ本国の間で何度も書簡がかわされている。
 5月6日付SCAPから米陸軍省宛電報では、GHQ・G2は次のように言っている。
 「B 石井のいくつかの言明を含め、これ以上のデータを入手する ためには、当該の日本人に情報は情報チャンネル内に留め置かれ、「戦犯」の証拠とはしないと知らせる必要があるだろう。
  C 石井や陸軍上層部の計画や理論も含めた全容は石井や彼の協 力者の文書による免責を与えれば入手可能であろう。また石井は彼のかつての部下の完全な協力をとりつけるうえで役に立つ。
 前記Bの方法の採用は極東軍最高司令官の勧めによる。早急な返事を求む。」(甲24『標的イシイ』406頁)
 三省調整委員会では、陸・海軍省は文書で戦犯免責を与えることに同意したが、国務省が反対した。国務省委員から極東軍最高司令官へのメッセージとして次の文書がある。
 「極東軍最高司令官へのメッセージ
 以下の電報は2部からなっている。
第1部。必要な情報を石井と彼の協力者から入手することは、情報は情報チャンネルに留め置かれ「戦犯」の証拠とはしないという言質をアメリカが与えなくても可能であろう。また危険な言質は後日アメリカを深刻な事態に追いこむ原因となりかねない。そうした言質を与えることは得策ではない。しかし安全保障のために、貴下は石井と彼の協力者に対する戦犯訴追はするべきでなく、そして言質を与えずに、これまでの通りのやり方ですべての情報をひとつ残さず入手する作業を続けるべきである。
第2部。前記問題についての全通信文を最高秘密に指定する。」
               (甲24『標的イシイ』421頁)
 戦犯訴追問題に関する包括的な決定を示す文書としては、8月1日付SE審議の文書で「結論」とされている次の文書である。
 「四、次のように結論された―
a、日本の生物戦研究の情報はアメリカの生物戦研究プログラ ムにとって大きな価値があるだろう。
b、入手したデータは付録〔A〕の三節にその概要が示されて いるが、現在のところ石井および彼の協力者を戦犯として訴追するに足る十分な証拠とはならないように思える。
c、アメリカにとって日本の生物戦データの価値は国家の安全 にとって非常に重要で、「戦犯」訴追よりはるかに重要である。
d、国家の安全のためには、日本の生物戦専門家を「戦犯」裁 判にかけて、その情報を他国が入手できるようにすることは、得策でない。
e、日本人から得られた生物戦の情報は情報チャンネルに留め 置くべきであり、「戦犯」の証拠をして使用すべきではない。」(甲24『標的イシイ』416頁、甲125)
 SFEは、上記の「結論」を採用するように本国の三省調整委員会に勧告している。
 最終的には、この8月1日、SFEの後、夏から秋の過程でアメリカ本国の最高レベルでの決定がなされたのであろう。戦犯免責を文書で与えるかどうかについて、最終的にどうなったかはわからない。おそらく文書では与えないということで日本側が妥協した可能性が大きい。
 10月に来日し調査を開始したヒルのレポートでは、「面接調査において、戦犯訴追に対する免責は全く問題とならなかった」(甲126)と書かれている。この時点では決着がついていたのである。
 いずれにせよ、1947年末までの段階で、日本側の隠蔽工作はひとまず成功した。この隠蔽は、被控訴人国が731部隊等で蓄積された、細菌戦に関する人体実験データを含めた情報を米軍に全面的に提供し、さらにそれにとどまらず、米軍の細菌戦兵器開発に全面的に協力するという新たな犯罪行為に踏み込むことによって実現したのである。

  (6) 新たな犯罪としての被控訴人国の隠蔽行為
 以上見てきたように、1945年から1947年にいたる戦争終結直後の隠蔽行為によって、細菌戦は戦争犯罪として裁かれることなく今日に至っている。その後サンフランシスコ講和条約が締結され、占領期が終わった段階で、被控訴人国は自らの手で細菌戦の事実を明らかにし、戦争犯罪として裁くこともできる立場に立ったが、それを為すことなく今日に至っている。
 細菌戦に関する様々な事実が明らかになっている今日においても、日本政府は、細菌戦を行った事実を認めず、あくまで隠蔽行為を続けている。
 こうした被控訴人国の姿勢は、前述した敗戦直後の隠蔽工作を継続しようとするものである。これは単に「隠した」とか、「明らかにしない」というだけの問題ではない。極めて高度な違法性をもった組織的行為として行われた隠蔽、証拠隠滅行為である。

4 ハバロフスク裁判の細菌戦暴露と1950年国会答弁における被控訴人 国の隠蔽
 1949年12月、ソヴィエト連邦は独自に、ハバロフスクで細菌兵器の準備と使用に関わった日本軍捕虜12名を裁判にかけ(甲140)、731部隊の本部・支部の責任ある立場のものとして、川島清、柄沢十三夫、西俊英、尾上正男が裁かれた。証人尋問では12名が証言し、古都良雄が中国における細菌撒布や人体実験について、堀田が安達における野外人体実験について証言した(甲20。甲141)。
 細菌戦に関する多くの事実が明らかにされた公判記録は、翌1950年に日本語版も出版されたが、これに対しアメリカ合衆国対日理事会は、この裁判を日本人のソ連抑留問題から目を逸らすためのフレーム・アップであるとの声明を出して、細菌戦の諸事実が明らかになることを妨害した。被控訴人国は、このアメリカ合衆国の政策を奇貨として、細菌戦の事実を国際社会に対して明らかにすることなく、隠蔽し続けた。
 なお、ハバロフスクにおける裁判と同時期に、中国は、独自の調査や中国側の証言者にもとづいて、反細菌戦のキャンペーンを行い、日本軍による細菌戦を非難した。しかし、日本側の隠蔽により充分な証拠を得ることはできなかった(甲105の1、証人松村高夫作成「鑑定書」31頁)。
 この裁判に関する報道を基にして行われた1950年3月の国会質問の中で、被控訴人国は、「日本人の戦争犯罪人に対する裁判は、ポツダム宣言の受諾により連合国によって行われるから、政府は戦争犯罪人の問題に関与すべきではない。政府は調査する権能も持たず、また調査する必要もない。」(殖田俊吉法務総裁。甲37)というものであった。
 「政府は戦争犯罪問題に関与すべきではない」というのは、全くの言い逃れにすぎない。ポツダム宣言には、「われわれの捕虜を虐待した者を含むすべての戦争犯罪人を厳格に処罰する。日本政府は、日本国民のうちに民主的傾向が復活され強化されるよう、それに対する一切の障害を除去せねばならない」と書かれている。したがって、日本政府に課された「一切の障害の除去」ということの中には、当然戦争犯罪を明らかにし、処罰することに対する障害の除去ということも含まれている。たとえ連合軍の占領下にあっても、細菌戦という非人道的戦争犯罪行為を自ら明らかにすることは、ポツダム宣言を受諾した被控訴人国にとっては、国際社会に対して果たすべき崇高な義務であった。
 以上に述べたように、被控訴人国は、アメリカ占領下において、必死の隠蔽工作によって、細菌戦の事実を隠蔽し通したのであるが、その後も被控訴人国は、一貫して細菌戦の事実が暴露されないように隠蔽行為を継続して行ってきた。1952年の公職追放に関連して国会答弁がなされている(甲506兒嶋助教授「鑑定書」8頁以下)。
 以下では、そのような被控訴人国による執拗な細菌戦事実の隠蔽行為を、最近の1980年代と1990年代について述べることにする。

第4 1980年代の被控訴人国の隠蔽行為

1 731部隊の真実暴露が急速に進む
 1980年代に入り、731部隊の活動の残虐な実態の暴露が急速に進んだ。
 まず1980年に入ると、ジョン・パウエルによって、アメリカの公文書記録から、戦後の占領期におけるGHQの資料が発見・公表され(甲52)、731部隊の戦争犯罪と、戦後の隠蔽工作が明るみに出された(甲29の12頁。甲48の1、2)。
1981年には、森村誠一の「悪魔の飽食」(甲30ないし甲32)がベストセラーになり、731部隊の衝撃的な事実が、広く世に知られるようになった。右の背景には、1978年8月に日中平和友好条約が調印され、日中間の交流が全面的に開始された事情がある。
 1972年には、日中共同声明により日中の国交が樹立されたが、この72年から78年にかけての期間は、本来、被控訴人国が細菌戦の事実を明らかにし、被害者に対する謝罪と賠償を行わなければならない時期であった。しかし被控訴人国はそれをなさなかった。被控訴人国の隠蔽行為は継続したが、日中平和友好条約が調印され、日中戦争の最終的終結がうたわれたことによって、731部隊の旧部隊員による実態の暴露が進んだのである。
 1981年、常石敬一が『消えた細菌戦部隊』(海鳴社。甲25)を刊行した。
 ここでは731部隊の2代目の部隊長北野政次が学会誌に発表した論文から、流行性出血熱の研究に使われた「猿」が実は人間であったことが明らかにされ、731部隊の人体実験の事実が暴露された(甲105の1、31頁)。

 2 1982年国会答弁における隠蔽
 前記のような731部隊の真実の暴露が進む中で、1982年4月6日、衆議院内閣委員会で、731部隊に関する質疑が行われた。榊利夫議員は、1981年に第1巻が発行された、森村誠一の「悪魔の飽食」がベストセラーになっていること、731部隊幹部と米占領軍との間の密約を示したGHQ文書がアメリカで公開されていることなどをあげ、731部隊が衆知の事実になっていることを示して、731部隊に関する日本政府としての全面調査を要求した(甲506兒嶋助教授「鑑定書」20頁以下)。
 これに対して被控訴人国は、731部隊の存在を示す資料として、厚生省が保管している「留守部隊名簿」(甲555)と「部隊略歴」を示し、留守名簿に「関東軍防疫給水部、通称石井部隊」があり、将校133名等の軍人の合計が1550名、軍属(雇傭人)が2009名であること、また「部隊略歴」には、本部がハルビンにあり、ハイラル、牡丹、孫呉、林口、大連各支部への配置状況が記載されていると答弁した。細菌戦の研究や人体実験については、「留守部隊名簿や部隊略歴には、記載がなく、他に資料がない」とした。
 ところが、外務省は、731部隊について、「30年以上前の占領下の話であり」「記録があるかどうか、承知していない」「個々の小説であるとか、論文ないしは伝聞に基づく報道といったようなものについて、その内容をいちいち対米照会をするという立場はとっていない」と答え、全面調査を拒否し隠蔽し続けている。

 3 1982年防衛庁防衛研究所の細菌戦記録の非公開取り扱い
 戦後、旧軍関係の資料は、防衛庁防衛研究所戦史部に集められ、1950年代後半から、一般に公開されていた。
 1982年12月被控訴人国(防衛庁防衛研究所)は、「戦史資料の一般公開に関する内規」を定めた。これは1980年5月27日付の「情報提供に関する改善措置について」という閣議決定を受け、「防衛庁本庁における情報提供に関する改善措置等について」(昭和55年9月18日防官総第4518号)と題した通達に基づいて定められたものである。
 この内規第4条で、対象資料のうち、審査の結果、@プライバシーの保護を要するもの、A国益を損なうもの、B好ましくない社会的反響を惹起するおそれのあるもの、Cその他公開が不適当なもの、と判定した場合、公開しないことを定めた。
 防衛庁は同日の日付で、「公文書の公開審査実施計画」を作成し、審査の実施要領を細かく規定した。そのなかで、A「国益を損なうもの」として「外国人(捕虜を含む)の虐待」「略奪及び虐殺など」「有毒ガスの使用」、B「好ましくない社会的反響を惹起するおそれのあるもの」として、「細菌兵器の実験についての報告・記録」「細菌兵器使用の疑いを抱かせるもの」が「摘出」の対象とされている。「摘出」とは、審査会議の審査にかけることを意味するが、膨大な資料のなかから、該当する部分をチェックするのである。
 被控訴人国は、この措置によって、防衛研究所戦史部に戦後集められた資料のなかに存在する731部隊・細菌戦の資料をチェックして、非公開にし、細菌戦の事実を隠蔽したのである。

 4 1983年家永教科書検定での731部隊記述削除
 1983年9月家永三郎は、文部大臣に対して、1980年度に検定済みとなった教科書の記述中、84ヶ所に改訂を加える改訂検定の申請をした。
 この改訂の1つに、脚注として、「またハルビン郊外に731部隊と称する細菌戦部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国人を捕らえて生体実験を加えて殺すような作業をソ連の開戦にいたるまで数年にわたってつづけた」と書き加える改訂があった。
 これに対して文部大臣は、「731部隊のことは現時点ではまだ信用に堪え得る学問的研究、論文ないし著書が発表されていないので、これを教科書に取りあげることは時期尚早である」という理由で、全部削除の修正意見を付した。そのため、家永氏はこの部分を全部削除せざるをえなかった。
 第3次家永教科書訴訟で、最高裁判所は、「関東軍の中に細菌戦を行うことを目的とした『731部隊』と称する軍隊が存在し、生体実験をして多数の中国人等を殺害したとの大筋は、既に本件検定当時の学界において否定するものはいないほど定説化していた」と認定し、文部大臣の全部削除の修正意見を違法とした。
 1983年の検定当時までに、731部隊に関する文献、資料は36点に及んでおり、とくに1981年から1983年にかけて、森村誠一が発表した「悪魔の飽食」全3巻は、@旧731部隊員の供述、A旧731部隊幹部に対する尋問資料を含むアメリカ軍の資料、Bハバロフスク軍事裁判記録、C旧731部隊幹部による医学学術論文、D中国における取材などにより、731部隊の実態を詳細に描いたもので、731部隊の存在は、広く世に知るところとなった。他の学術書や外国の文献の紹介もあり、1981年から1983年にかけては、731部隊の実態解明は大きく前進し、その存在は定説となっていた。
 にもかかわらず、被控訴人国は、731部隊の記述を教科書から削除し、731部隊の存在とその戦争犯罪行為を隠蔽したのである。
 1984年4月14日の参議院外務委員会において、蓑輪議員が、「七三一にかかわるすべての資料が、厚生省だけではなくてあるいは防衛庁その他関係のところにいろいろとあるだろうと思うのですね。それらを責任を持って取りまとめ公表すべきであるということを申し上げているわけです。それで、各省庁の問題じゃなくて、総理にその辺でどのようにお考えかお聞かせいただきたいわけです。」との質問に対し、鈴木内閣総理大臣は、「政府としては、こういう問題を隠蔽しようなどという考え方は毛頭ございません。何分古い、そして終戦のああいう混乱の中でございますから、どの程度の資料が集められますか、やらしてみたい、こう思っております。」と答弁したにもかかわらず、全く調べることをしなかった。隠蔽したと言わざるを得ない(甲506兒嶋俊郎助教授「鑑定書」28頁参照)。

第5 1990年代の被控訴人国の隠蔽

1 細菌戦の真実暴露が急速に進む
 中国においては、1989年に、中国側が保有していた資料をまとめた『細菌戦与毒気戦』が刊行された。ここでは、撫順戦犯管理所の日本人戦犯の供述書や、細菌攻撃の被害にあった当時の住民の証言などによって、日本軍の細菌撒布と中国各地におけるペスト等の流行の因果関係が実証的に明らかにされている(甲105の1、33頁)。
 90年代に入って、ソ連崩壊に伴う情報公開で、ロシアの国立公文書館(旧共産党資料館)と特別公文書館(旧KGB資料館)から、ハバロフスク裁判の起訴準備書面、及び旧日本軍牡丹江憲兵隊の報告書が発見された。この報告書から731部隊による人体実験の犠牲者の氏名が判明した。犠牲者の遺族たちは1995年8月に、日本政府を相手に賠償を求める裁判を起こした。
 日本では、1989年7月、東京都新宿区戸山の旧日本軍軍医学校跡地から、100体以上の人骨が発見されたが、人骨と731部隊との関係が疑われ、新宿区民が「人骨問題を究明する会」を結成して人骨保存の監査請求を区に提出した。
 1993年7月から、731部隊展が企画され、全国を巡回、開催された。
 入場者は1995年3月までで23万人に達した。その中には元隊員の人たちも大勢いた。そのほとんどは少年隊員など下級の隊員だったが、多くの人たちが、部隊展を見て過去の事実を語り始め、真相の解明が大きく進んだ。1996年には元部隊員の証言集『細菌戦部隊』(晩聲社)が刊行された。

 2 井本業務日誌の発見・公表と被控訴人国による非公開措置
 1993年、吉見義明中央大学教授らによって、防衛庁の防衛研究所図書館において、戦争当時、参謀本部作戦課員として、細菌戦実施について連絡調整に関与し、その作戦の経緯を詳しく記した井本熊男大佐の業務日誌等4つの業務日誌が発見された。その内容は、1993年12月に『季刊・戦争責任研究』2号(甲1)に「日本軍の細菌戦」と題する論文として発表され、さらに、1995年12月には、岩波ブックレットから『731部隊と天皇・陸軍中央』(甲2)として刊行されている。
 本件細菌戦を井本日誌が認めていることについては、前記第4章に詳しく述べたとおりであるが、いずれにしても、この井本日誌等の発見によって、もはや日本軍の行った細菌戦は動かしがたい事実として確定し、また被控訴人国が731部隊及び細菌戦に関する資料を保有していることも、否定することのできない事実となった。
 しかし、被控訴人国は、井本日誌を吉見教授らが発見した後、驚くべきことに同日誌を非公開措置とし、もって細菌戦の事実の隠蔽を継続した。

3 従軍慰安婦、毒ガス等の戦争犯罪に対する謝罪・賠償に逆行する細菌戦  隠蔽
 被控訴人国(政府)は、1990年代に入ると、軍隊慰安婦問題、遺棄毒ガス兵器問題の戦争犯罪に対する調査を行うようになる。
 軍隊慰安婦問題については、政府は当初、「民間業者が行っていたもので、軍の関与を示すような資料はない」と言っていた(90年6月政府答弁)。
 1991年8月、韓国で元慰安婦が名乗りをあげ、同年12月には韓国の元軍隊慰安婦3名が、初めて日本政府に謝罪と賠償を求めて東京地裁に提訴した。こうした事態を受け、提訴の2日後に日本政府は、軍・政府の関与に関する調査を開始した。
 一方、吉見義明は独自の調査で発見した資料を1992年1月に公表した。その数日後に加藤官房長官は「軍の関与は否定できない」と述べ、同月訪韓した宮沢首相は、日韓首脳会談において、「お詫びと反省の気持ち」を表明したのである。
 1992年7月6日、政府の第1次調査結果が発表され、127件の資料が公表された。
 さらに1993年8月4日、第2次調査結果が発表され、河野官房長官談話が発表された。
 同日付官房長官談話では、「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設置されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」と述べられている。これまでの政府見解を完全に覆し、軍の関与を認めたのである。
 なおこの調査では、関係省庁の他、アメリカの公文書館への担当官の派遣、沖縄での現地調査、元軍隊慰安婦や、元軍人等関係者、歴史研究家からの聞き取り、韓国政府作成の調査報告書、元慰安婦の証言集を初めとする国内外の文書及び出版物のほぼすべてを調査対象としている。
 また、毒ガス兵器問題についても、政府は対応を一変させている。毒ガス兵器も細菌兵器と同様に東京裁判では裁かれず、戦後長い間問題とされることもなかった。80年代の終わりになって中国が、旧日本軍が中国大陸に遺棄してきた毒ガス兵器の処理を日本政府に要請し、90年から2国間交渉が行われた。だが、日本側は曖昧な態度に終始し、おざなりな調査しか行っていなかった。
 しかし1992年2月のジュネーブ軍縮会議での化学兵器禁止条約の交渉中、中国がこの問題を提示し、遺棄化学兵器の処理義務を条約に盛り込むよう提案した。1993年に化学兵器禁止条約が締結され(1995年に批准)、1997年に発効、その中で遺棄毒ガス兵器の処理義務が明記されたことから、日本政府は中国大陸に遺棄した大量の毒ガス兵器の処理を行わなければならないことになり、中国現地における本格的調査を開始したのである。
このように、被控訴人国が他の戦争犯罪についての調査、各種の原状回復、被害補償等を開始しつつある中でも、ことさらに細菌戦の隠蔽を継続した。

 4 731部隊の活動を認定した最高裁判決を無視した隠蔽行為

(1) 1997年8月、最高裁判所は、1983年の検定処分を争った家永
教科書裁判で、731部隊の活動に関する記述を削除した文部省検定を違法とする判決を下した。
 教科書検定で全面削除された家永氏の執筆内容は、「ハルビン郊外に731部隊と称する細菌戦部隊を設け、数千人の中国人を主とする外国人を捕らえて生体実験を加えて殺すような残虐な作業をソ連の開戦にいたるまで数年にわたってつづけた。」というものであった。
 最高裁判所は、まず、原審が認定した事実に基づき、「本件検定当時までに公刊されていた731部隊に関する文献、資料は、従前公刊されたものの復刻版2点及び改訂版を含め36点に及んでおり、新聞、テレビ等でも数多く報道されていたが、中でも昭和56年から昭和58年にかけて作家森村誠一が発表した「悪魔の飽食」全3巻は、@旧731部隊員の供述、A旧731部隊幹部に対する尋問調書を含むアメリカ軍の資料、Bハバロフスク軍事裁判記録、C旧731部隊幹部による医学学術論文、D中国における取材などにより、731部隊の実態を詳細に描いたもので、大きな反響を呼び、世人の注目を集めた。また、731部隊の存在について、本件検定当時発表されていた学術書としては、上告人著「太平洋戦争」(昭和43年)、長崎大学助教授常石敬一著「消えた細菌戦部隊−関東軍731部隊−」(昭和五六年)、右常石敬一、ジャーナリスト朝野富三共著「細菌戦部隊と自決した二人の医学者」(昭和57年)があり、外国の文献としてはジョン・パウエルの「歴史の隠された一章」があった。」と判断した。
 この事実を踏まえて、最高裁判所は、「関東軍の中に細菌戦を行うことを目的とした「731部隊」と称する軍隊が存在し、生体実験をして多数の中国人等を殺害したとの大筋は、既に本件検定当時の学界において否定するものはないほどに定説化していたものというべきであり、これに本件検定時までには終戦から既に38年も経過していることをも併せ考えれば、文部大臣が、731部隊に関する事柄を教科書に記述することは時期尚早として、原稿記述を全面削除する必要がある旨の修正意見を付したことには、その判断の過程に、検定当時の学説状況の認識及び旧検定基準に違反するとの評価に看過し難い過誤があり、裁量権の範囲を逸脱した違法があるというべきである。」と判示したものである。
このように、1997年8月の最高裁判決は、細菌戦を目的にしていた731部隊の存在を認定したものであり、行政府、立法府に対し、細菌戦の調査を義務づけたものであると言える。

(2) 最高裁判決の前後における検定済の日本史教科書(複数)には、中国 に侵略した旧日本軍の中に731部隊などの細菌戦部隊が存在していたこと、731部隊などが中国人やロシア人などを生体実験の材料にして殺害したこと、中国各地で実際に細菌戦が行われたことなどが、歴史記述として書かれている。
 例えば、三省堂版『日本史A』、日本書籍版『日本史B』、東京書籍版『日本史A』、実教出版版『日本史B』『高校日本史A・B』、桐原書店版『新日本史B』『日本の歴史』などの日本史教科書に、731部隊などの細菌戦部隊の具体的活動の内容が記載されている。
 右のような文部省検定済み教科書の一例を紹介すると、1998年度使用の東京書籍版『日本史A』(1997年3月検定)の内容は、次のとおりである。
 「日本陸軍は、細菌戦準備のため1932年関東軍防疫班を設立し、 38年から39年に中国ハルビン郊外にその本部と実験施設を移転した。ノモンハン事件ではじめて細菌戦を実施し、規模を拡張して40年から関東軍防疫給水部と改称した。この細菌戦部隊の秘匿名を731部隊といい、中国5か所に支部がおかれた。731部隊は、ペスト、腸チフス、コレラなどの病原菌を兵器にし、42年8月から中国戦線で細菌戦を実施した。また中国人などを「マルタ」とよんで、実験材料にして死亡させた。敗戦後、731部隊の幹部の大部分は日本に脱出し、公的な責任を問われることはなかった。部隊が開発した生物化学兵器の技術は、アメリカにうけつがれた。」(東京書籍版『日本史A』1997年3月検定、同書109頁)
などと記述され、731部隊が存在し、中国人やロシア人などを生体実験の材料にして殺害したこと、中国各地で実際に細菌戦が行ったことが、歴史記述として書かれている。

(3) このように、日本軍の細菌戦の実施は、最高裁判決及び教科書に書か れるまでに定説化し確定している。しかし、被控訴人国は、ことさらに細菌戦の隠蔽を継続した。

 5 1997年国会答弁での被控訴人国の隠蔽行為
 731部隊の細菌戦の事実解明が進み、戦争被害への事実調査が行われる中で、1997年12月ないし1999年2月、4回の国会質疑が行われた(甲37ないし甲39、甲129)。
 このように国会で頻繁にとりあげられるようになったこと自体、731部隊に関してもはや「知らない」では済まされないことのあらわれである。
 被控訴人国の対応は、「資料がないからわからない」等、一見言い逃れに終始しているのであるが、同時に国会質疑で明らかになったことは、被控訴人国が新たな加害行為として隠蔽を続けているという事実である。

 (1) 「731部隊の活動状況を示す資料はない」という被控訴人国の答弁
 731部隊に関する資料について、「これまでの政府部内の調査では政府保存の文書中にいわゆる731部隊の活動状況を示す資料は見つかっていない」(1998年4月2日村岡官房長官答弁、甲40)、「具体的な活動状況やご指摘の生体実験に関する事実を確認できる資料は確認されていない」(1999年2月18日野呂田防衛庁長官、甲129)というのが、被控訴人国の回答である。
 731部隊関連の資料として、これまで政府が確認しているのは次の2点である。@前述したように、1982年の国会質疑において、政府は、厚生省が保管していた「部隊略歴」を提出した。A1997年12月17日の国会質疑において、米軍からの返還資料に関連して、関東軍の部隊改編等を示す資料の中に関東軍防疫給水部に係わる記述がなされているものが合計4件あることが確認されている(甲39)。しかしこれは部隊の活動状況や細菌戦との関連を示すものではないとしている。
 すなわち、関東軍防疫給水部という部隊が存在していたことを示す資料は何点かあり、その存在は認めるが、その活動状況や細菌戦との関連を示す資料は存在していない、したがってわからない、これが現時点の被控訴人国の立場である。1982年時の回答と何ら変わっていない。
 しかし、被控訴人国のこの回答が嘘であることは明らかである。井本日誌等4つの業務日誌の存在が、「731部隊の活動状況についての資料はない」と言ってきた被控訴人国の国会答弁が嘘であったことを暴露したのである。

 (2) 井本日誌に関する「一切ノーコメント」という被控訴人国の答弁
 この井本日誌の存在については、98年4月7日の国会質疑でとりあげられたが、そこでの被控訴人国の答弁は、質問の趣旨を意図的にはぐらかすものであった。以下、質疑の内容を引用する。
 栗原「この井本日誌には731部隊の中国中部地方への細菌戦攻撃が計 画から実行まで詳しく述べられております。(略)このような記載が井本日誌にあることは政府は認識をしていらっしゃいますか。」
説明員(大古)「ご指摘の井本日誌につきましては、いわゆる公文書に 該当するものではなくて個人の日誌であるということで理解しております。(略)現在プライバシーにかかわるという観点から公開しておりません。いずれにいたしましても、防衛庁の立場からその内容についてコメントする立場にはございません。」(甲41)
 同日誌は、国の行政機関が所有権を取得しているか否かにかかわらず、国が組織的に管理・利用している以上、「公文書」に該当するものというべきである。このように「公文書」か否かの判断基準を、形式的な所有権の有無に求めるのでなく、実際に当該文書を誰がどのように管理・利用しているか、に求めるという考え方は、さきに成立を見た国の情報公開法(「行政機関の保有する情報の公開に関する法律」)も第2条において採用したところである。すなわち同条は、情報公開の対象となる行政文書を「行政機関の職員が職務上作成し、又は取得した文書・・・であって、当該行政機関の職員が組織的に用いるものとして、当該行政機関が保有しているものをいう」と定義づけているのである。
 被控訴人国が井本日誌の存在を知っていたことは明らかであるが、「知っている」とも「知らない」とも答えず、1959年以来自らが保持し『戦史叢書』編纂に活用してきた文書を「個人の日誌」等と強弁し、「コメントはしない」と回答を拒否しているのである。
 被控訴人国は、「資料はない」と言ってきたものが、井本日誌の細菌戦記載について、資料はあるではないかとつきつけられて、「一切ノーコメント」という。まさに1国の政府として恥ずべき態度というほかにない。
 このような被控訴人国の態度が、細菌戦の被害者である死者を冒涜し、生存者や遺族に新たな精神的苦痛を与えているのである。
 すでに本件の第1次提訴が行われ、争われている中で、このような対応を被控訴人国が示したということは、これまでの加害行為に加えて、また新たな加害行為が加わったというべきである。

 (3) ハッチャー証言(アメリカからの返還記録)否定の被控訴人国の答弁
 この井本日誌等4つの業務日誌の他にも、97年からの国会質疑の中で、被控訴人国が隠蔽している資料の存在が明らかになっている。1986年アメリカの下院公聴会で明らかになった、「731関連文書は1950年代末か1960年代初めに箱詰めにして日本に送り返した」というハッチャー証言である。1992年5月14日の国会審議でも取り上げられた(甲506兒嶋助教授「鑑定書」37頁以下)。
 97年12月17日の国会質疑での「この資料は現在どこに保存しているのか」という栗原議員の質問に対して、被控訴人国は、次のように回答している。
説明員(佐藤)「昭和33年に米国が押収した旧軍資料の返還を受けま して、(略)約4万件の資料を保存しておりますが、この中には(略)活動状況や当該部隊と細菌戦の関連を示すような資料は存在しないと承知しております」
「(ハッチャー証言について)同証言では米国が731部隊に関する資料であることを確認したうえで日本側に返還した旨を述べているわけではないものと私どもは承知しております。」(甲39)
 また先に、米国からの返還資料の中に、部隊の編成関係の資料で4件あるとされているが、これがハッチャー証言にある資料の1部なのかどうかについて、「その関係については承知していない」という回答をしている。
 これも回答になっていない。質問は、ハッチャーが送り返したと言っている731関連の資料は現在どこにあるのかということである。これを「米国が返還した4万件の資料」一般の話しにすりかえ、さらに、ハッチャー証言自体を否定してしまっているのである。ハッチャー証言にある「日本に送り返した」という731関連の文書の行方は不明のままである。日本政府の回答は、事実上、そのような文書が返還されたことはないと言っているに等しい。当時のアメリカの陸軍記録管理部長ハッチャーが嘘をついているか、日本政府が嘘をついているか、そのどちらかしかない。

 (4) 731部隊の活動内容断定は困難という被控訴人国の答弁
 731部隊の戦争犯罪の事実について、被控訴人国(政府)は、「現時点で政府としていわゆる731部隊の具体的な活動内容について断定することは困難と考えている」(98年4月7日村岡官房長官答弁、甲41)と言う。
 被控訴人国は、右答弁と同趣旨の立場を一貫してとり続けてきているが、そうであれば、731部隊の細菌使用による一連の残虐行為がなかったということについて、それが真実であることを立証しうるか、あるいは少なくとも、十分な調査により、真実と誤認したのもやむを得ないほどの確実な資料、根拠を提示することが出来る必要がある。被控訴人国は、本件についての従前の姿勢表明において、本件控訴人らを含む被害を公表した者らを嘘つきよばわりしたに等しい。
 しかしその中で、井本日誌に関しては、現に被控訴人国が保有している文書であり、これに関する判断を拒否することはできないはずである。これに関する質疑を以下に引用する。
栗原「それでは、先ほど申しましたこの井本日誌の中に書いてあること
は事実としてお認めになりますか。」
説明員(大古)「防衛庁としては、自衛隊に役立てるという観点から、 一般的な戦史の研究調査をしてございます。一般に、防衛庁が保管している資料について客観的にそれが事実であるか事実でないかということを判断する立場にはございません」
栗原「それでは、どこが判断する立場にあるんでしょうか、官房長官、 お答えください。」
村岡「今いろいろやりとり聞いておりまして、井本さんの日誌とか何か でどこが調査するのかというのは、私も今返答に困っているところであります。これは防衛庁の話しのとおりだろうと思います。」
(甲41)
 井本日誌の記載内容を事実として認めるのか否かは、決して「一般的な戦史研究」の話しではなく、事は戦争犯罪の問題である。村岡官房長官は、「返答に困った」と誤魔化したが、実際は、もはや「資料がない」などと言い逃れができなくなったのである。被控訴人国は、これまで「資料がないから判断できない」と言ってきた。しかし、問題は、731部隊が細菌戦を行ったことを示す明白な資料があっても、事実を認定しないことが問題なのであり、その被控訴人国の態度は、まさに細菌戦の隠蔽行為以外のなにものでもない。

 6 被控訴人国の細菌戦被害賠償立法の不作為
 1990年代に入り、細菌戦の真実暴露が急速に進んだ。すなわち731部隊が細菌戦を行ったことの証拠である井本日誌が発見されたこと、家永教科書裁判最高裁判決において、731部隊が細菌戦を行っていたことが動かしがたい事実として認定されたこと、これらの飛躍的進展が、細菌戦被害者の被った損害を回復するための特別の賠償立法をなすべき日本国憲法上の要請に転化し、被控訴人国(国会)に対し立法課題を提起したというべきである。
 にもかかわらず、被控訴人国(国会議員)は、右特別の賠償立法を現在まで実現していない。

第2章 立法不作為による謝罪及び損害賠償請求

 控訴人らは、主位的に、前記第1部の第2章から第8章の請求原因を主張し、これらが認められない場合、予備的に第2部第2章から第4章記載の各請求原因を主張する。

第1 問題の所在

1 被控訴人国の国家責任は未だ存続している
 本章で控訴人は、被控訴人国の細菌戦被害の救済に関する立法不作為が控訴人に対する新たな不法行為となることを主張する。この立法不作為論の中心的論点は、被控訴人国(国会)に細菌戦被害救済の立法義務が認められるか否かである。
 原判決によると、被控訴人国には、本件細菌戦に関してヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていたのであるから、仮に、昭和60年最高裁判決の立場にたっても、立法義務が認められる。
 また、原審は、日中共同声明、日中平和友好条約によって、国際法上は被控訴人国の国家責任について決着していると判示したうえで、そのことも考慮して、立法義務を否定しているが、そもそも、日中共同声明、日中平和友好条約についてのこのような理解は誤りであることは、第1部第2章で、指摘した通りである。
 この立法義務の成否を判断するにあたっては、本件細菌戦が明白な国際法違反(ジュネーブ・ガス議定書違反)行為であり、国際法(ハーグ条約第3条。同条約3条を内容とする国際慣習法を含む。以下同じ)によって定められた損害賠償責任が被控訴人国に生じていたことが検討の核心にすえられるべきである。
本件細菌戦被害に対するハーグ条約3条に基づく被控訴人国の国家責任(損害賠償責任)は、法的にはすでに本件細菌戦が行われた1940年乃至1942年の時点で発生していた。被控訴人国の国家責任は、それ以来現在まで実に60年以上にわたって不履行状態が続いているのである。
 このような被控訴人国の国家責任不履行という異常な状態のゆえに、控訴人らは、現在心身ともに癒すことのできない深刻な苦痛を受け続けている。

2 「倍加された苦痛」に対する法的責任
 控訴人らがあじわっている苦しみは、もちろん根底においては本件細菌戦という加害行為に起因するものである。しかし、控訴人らの現在の苦痛は、それに加えて、被控訴人国がハーグ条約3条に基づく損害賠償義務を課せられているにも拘わらず、自ら実行した細菌戦の事実を認めず、謝罪も賠償もしないで、戦後も半世紀以上にわたって細菌戦被害を被った控訴人らを全く救済せず放置してきたことによって生じた「倍加された苦痛」である。
 本章の立法不作為論及び次章の行政不作為論は、控訴人らが現在受けている「倍加された苦痛」の法的責任を問うものである。
 この点、原判決は、本件細菌戦に関する被控訴人国の国家責任を認定しながら、その国家責任は1972年の日中共同声明で中国が放棄したので「決着がついた」という。
 しかし、以下で詳細に述べるように、被控訴人国の国家責任が日中共同声明によって「決着した」という原判決の解釈は誤っている。日中共同声明から30年が経過した現在においても、被控訴人国の国際法(ハーグ条約第3条)に基づく国家責任は存続している。

3 「倍加された苦痛」を強制した事実は決して消えない
 なお、ここで敢えて付言するが、被控訴人国は、中国人が被った本件細菌戦被害への損害賠償義務という自らの国家責任について、本来最大限誠意を尽くしてかつ敏感に対応するべきであるにもかかわらず、その姿勢を完全に欠落させてきた。このような被控訴人国の対応(不作為)は、仮に原判決の「決着論」の立場に立つとしても、控訴人らの人格を深く傷つけるものであり、甚だ遺憾である。
 すなわち仮に原判決の解釈に従ったとしても、細菌戦の実行された1940年乃至1942年から日中共同声明が出された1972年までの30年間、被控訴人国が国家責任不履行を続けてきたことは、日本の内閣にとっても国会にとっても深刻な汚点であり、自らに課せられた法的な作為義務に背いてきたものと言わざるを得ない。
 この30年間という長期間、控訴人らは細菌戦被害の救済を全く受けられず放置されてきた。この被控訴人国の不作為によって控訴人らが取り返しのつかないほど深刻な苦痛を被ったことはまぎれもない事実である。
 以上のとおり、仮に原判決が判示する1972年の日中共同声明の時点で決着したという「決着論」の立場に立ったとしても、控訴人が本件細菌戦被害から30年間も(講和独立からでも20年間である)、被控訴人国が細菌戦被害者の被害について損害賠償すべき義務を放置し、その結果、控訴人らの細菌戦によって傷つけられた人格の尊厳を、本来救済によって速やかに回復するべきであるにもかかわらず、逆に根底から傷つけて控訴人らに「倍加された苦痛」を強制し、人格の尊厳をさらに深く傷つけた事実は決して消えないのである。
 控訴人らは、後に詳述するように、1972年の日中共同声明以降も、被控訴人国のハーグ条約3条に基づく損害賠償義務は現在まで存続していると主張するものであるが、少なくとも日中共同声明で被控訴人国の国家責任が遡及的に消滅することはないし、また仮に原判決の立場に立っても被害者本人である控訴人に対する国家責任は決して「決着された」わけではないのである。

4 また原判決は、立法不作為による損害賠償はいかなる場合に認められる
かという点について、最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決(民集39巻7号1521頁)を引いたうえで、「国会の立法不作為が国家賠償法上違法と評価されるのは、憲法上一義的に国会に特定内容の立法をする義務が課されているにもかかわらず、国会がその立法を懈怠したというような例外的な場合に限られる」という。
しかし、そもそも本件細菌戦は、残酷で非人道的な戦争手段であるゆえに、加害行為の違法性の強さ、控訴人らが蒙った被害の甚大さにおいて他に類例を見ない事案である。しかも、前述したとおり被控訴人国の国家責任の不履行が続き、控訴人ら被害者個人に対して新たな苦しみを与えている。
 さらに、中国の細菌戦被害者への救済措置が放置されていることが、日本と中国の国家関係の友好的な発展を著しく阻害し、日本国民と中国民の友好関係を根底から危機にさらし続けているという「友好をはばむ新たな火種」となっている。
 したがって結論から言えば、被控訴人国の細菌戦被害の救済に関する立法不作為は、上記最高裁判例の判断基準に照らしても、まさに最高裁判例のいう「例外的な場合」に該当するものと判断すべきである。
 そこで、以下では、まず被控訴人国にハーグ条約第3条に基づく国家責任が成立したことを議論の出発点にすえた上で、@ハーグ条約3条の国家責任の性質論、A日中共同声明の適用範囲論、B立法義務の成立要件論などについて検討する。

第2 ハーグ条約第3条に基づく被控訴人国の国家責任の成立とその性質論

 1 被控訴人国による本件細菌戦の実行と被害の発生
 1940年から1942年にかけて、731部隊等を実行部隊とする日本軍は、ペスト菌やコレラ菌などを用いた細菌戦により、控訴人らが居住する中国各地において、ペスト等の疫病を発生流行させ、さらに周辺地域にもその疫病を伝播させた。その結果、控訴人ら及びその親族らは、ペスト等に罹患し、いずれも筆舌に尽くしがたい重篤な症状に襲われ、死亡ないし長期間病床に伏すことを余儀なくさせられた。
 さらに控訴人らは、長期間に渡って感染症の恐怖のもとに生活することを強いられてきた。
 以上の本件細菌戦の事実については、原判決が全面的に認定したものである。

 2 被控訴人国に細菌戦被害につき賠償すべき国家責任が発生
 本件細菌戦は、ジュネーブ・ガス議定書で禁止されていた「細菌学的戦争手段の使用」にあたり、明白な国際戦争法規に対する違反行為である。
 ハーグ条約第3条は、国際戦争法規に違反する行為によって損害を蒙った個人を救済するために、損害賠償の責任を定めたものであり、本件細菌戦によって、被控訴人国には、控訴人ら被害者に対する賠償責任が発生した。
 この点は、原判決も、「被控訴人国には本件細菌戦に関しヘーグ陸戦条約第3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていた」(原判決39頁)と、本件細菌戦が国際法違反の行為であり、被控訴人国には細菌戦によって生じた被害に対する賠償責任が発生したことを認定した。

 3 ハーグ条約第3条に基づく国家責任の性質と賠償請求権の主体について
 ハーグ条約第3条は、同条約が1899年制定の旧ハーグ条約及びその附属規則を修正して制定された際に、新たに創設された規定である。1907年の第2回ハーグ平和会議で、ドイツ代表が、占領地域内外において自国軍隊の構成員がハーグ条約の附属規則違反行為をなした場合、その国が有責であることを認め、その規則違反行為により損害を受けた個人に対して当該交戦国が賠償をすることを要求して提案された条文を基に制定された。
 この条約の作成過程に照らしても明らかなように、ハーグ条約第3条の目的趣旨は、違法な戦争行為によって個人が受けた損害を救済することにあった。
この点は原判決も、「ヘーグ陸戦条約及びヘーグ陸戦規則の趣旨・目的は、同条約及び同規則の規定に照らすと、陸戦において軍隊の遵守すべき事項を定め、もって戦争の惨害を軽減しようとする点にあるものと解される。もとより、戦争の惨害は最終的には個人に帰するものであるから、同条約及び同規則の究極の趣旨・目的は、陸戦の過程における非戦闘員を含めた個人の保護にあると解することができる」(原判決6頁)と認めるところである。
 ところで、ハーグ条約第3条に基づく賠償責任に対して、賠償請求しうる主体が、個人にあるのか、国家にあるのかという問題が存在している。
 控訴人らが原審で主張したように、ハーグ条約第3条は、軍隊構成員が戦争法規に違反する行為をした場合に、その被害者個人が、加害国に直接に損害賠償を請求する権利を定めたものである。
 しかし、原判決は、「国際法における伝統的な考え方によれば、国際法上の法主体性を認められるのは原則として国家であり」「ヘーグ陸戦条約が個人に請求権を認める明文規定を設けていない」(原判決5頁)などの理由をあげ、「被害者個人の加害者の属する国家に対する損害賠償請求権を認めたものではなく、被害者の属する国と加害者の属する国との間の権利義務関係について定めたものと解すべきである」(原判決17頁)と判示し、個人の請求権を否定した。
 しかしながら、控訴人らが原審で主張したように、ハーグ条約第3条に基づく賠償請求権は個人にあり、被控訴人国が控訴人ら被害者に対して、何らの救済措置も履行していないのであるから、本件細菌戦に関して生じた被控訴人国の賠償責任は果たされていない。
 また、仮に原判決が判示するように、ハーグ条約第3条に基づく賠償請求権が国家にあるとしても、被控訴人国の国家責任はいまだ果たされていない。

第3 ハーグ条約第3条に基づく賠償請求権と日中共同声明における「賠償請 求の放棄」について

 原判決は、細菌戦の事実とハーグ条約第3条に基づく被控訴人国の国家責任を認めながら、「本件細菌戦に関わる被告の国家責任は、我が国と中国との国家間でその処理が決定されるべきものである」としたうえで、1972年の日中共同声明において、中華人民共和国政府が、「日本国政府に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言」(同声明5条)し、1978年の日中平和友好条約も「(日中)共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認」していることをもって、「国際法上はこれをもって被告の国家責任については決着した」と判示した。
 しかし、「被告の国家責任は日中共同声明で決着済み」という原判決の解釈は誤りであり、本件細菌戦に対する被控訴人国の国家責任は決着していない。
 この問題を考察するにあたっては、2つの論点が存在する。第1は、ハーグ条約第3条の性質、すなわち、ハーグ条約第3条のもつ目的・趣旨と、賠償請求権が個人にあるのか、国家にあるのか、という問題であり、第2は、日中共同声明における「賠償請求の放棄」の意味、すなわち、そこで放棄された賠償請求権の性格、範囲等の問題である。
 原判決は、第1の論点のハーグ条約第3条の解釈において、請求権は国家のみが有するという立場に立ち、第2の論点の日中共同声明の「賠償の請求を放棄」という文言の意味内容についてはふれずに、本件細菌戦に関する被控訴人国の国家責任は、「日中共同声明によって決着がついた」と解釈してしまっている。
 そこで以下、上記問題の所在を認識したうえで、個人に請求権がある場合(第4)と、国家(中国)に請求権がある場合(第5)に分けて、論述する。そして後者(第5)については、さらにいくつかの場合に分けて、いずれの場合も、被控訴人国の国家責任は果たされておらず、現在まで存続していることを述べる。
 
第4 ハーグ条約第3条に基づく個人の損害賠償請求権と日中共同声明

 第1部第3章で詳述したように、ハーグ条約第3条は、被害者個人が、加害国に直接に損害賠償を請求する権利を定めたものである。
 国家の賠償請求権と個人の賠償請求権は、本来別個のものである。したがって、日中共同声明(第5項)で放棄されたのは、中国の国家としての賠償請求権であり、個人の賠償請求権はこれとは別に存続しているのである。  条約の当事国である中国政府は、前記第2章の第4の2で詳述したように、繰り返し、被害者個人の賠償請求権を放棄したわけではない旨述べている。 すなわち、1992年4月、江沢民国家主席は、日中戦争時の民間被害については、相互に協議して条理にかなう形で妥当に解決すべきであることを主張してきた旨発言した。さらに、1995年3月9日、銭外相は、全国人民代表者大会の席上で、日中共同声明における戦争賠償請求の放棄には、「個人の賠償までは含まれない」、賠償の請求は個人の権利であり、中国政府は干渉すべきでないと明言した。
 このような条約当事国(中国)が公式に表明している解釈は尊重されるべきである。なお、この点については、後記第5で詳述する。
 実際のところ、本件細菌戦に関して、被控訴人国が被害救済措置を果たした事実はない。
 したがって、本件細菌戦に関して生じた被控訴人国のハーグ条約第3条に基づく国家責任は現在まで存続している。

第5 ハーグ条約第3条に基づく中国の損害賠償請求権と日中共同声明

 仮に、ハーグ条約第3条に基づく国家責任について請求権の主体が国にあるとしても、日中共同声明において、本件被控訴人国の国家責任は果たされておらず、決着はついていない。
 この点については、日中共同声明によって放棄された賠償請求権の範囲を次の異なる3つの見解に則しながら検討する。
 第1は、放棄したのは戦費等の賠償請求権であり、ハーグ条約第3条に基づく賠償請求権は含まれていないとする見解である。
 この場合は、ハーグ条約第3条に基づく賠償請求権は中国政府に残っている。
 第2は、ハーグ条約第3条に基づく賠償請求権も含めて中国が放棄したとする見解である。
 この場合は、中国が放棄しうるのは外交保護権だけであり、本来の被害者個人の損害賠償請求権は存続する。
 第3は、日中共同声明第5項の「戦争賠償」の中に、本件細菌戦に関する賠償請求権は含まれていないとする見解である。
 この場合は、本件細菌戦に関する賠償請求権は現在も存続していることになる。
 このように、上記3つのどの見解に立っても、被控訴人国の国家責任は現在まで存続しているのである。上記第1、第2、第3の見解について、以下、1、2、3で詳述する。

 1 日中共同声明でハーグ条約第3条に基づく賠償請求権は放棄されていな い(前記第1の見解に立つ場合)

(1) 日中共同声明第5項は、中国政府が、「中日両国民の友好のために、 日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」という条項である。
 この条項によって、中国は日本に対する「戦争賠償の請求を放棄」したが、ここで放棄された「戦争賠償」の範囲は、戦費調達等の戦争賠償にほかならない。したがって、ハーグ条約第3条に基づく戦争賠償請求のような、戦争法規に違反する違法行為によって生じた個人の被害に関する損害賠償請求は含まれていない。
 ここで戦争に伴う賠償問題の変化の流れについて若干指摘しておく。
 もともと戦争後に、戦勝国が敗戦国に要求する賠償は、戦争にかかった費用(戦費)の償還であった。ハーグ条約第3条(1907年第2回ハーグ平和会議)が締結され、その後、第一次世界大戦において、民間人の被害が大規模になったことから、従来の戦争賠償に加えて、新たに「損害賠償」という考え方が導入されるようになった。
 実際、ハーグ条約第3条が成立した後のヴェルサイユ平和条約(1919年)では、戦勝国の請求権のほかに、戦勝国民の請求権、敗戦国(ドイツ)の請求権(同439条)、さらに敗戦国民の「財産、権利または利益」に関する条項も明文で規定されている(同298条付属書二)。
 例えば、同条付属書二は、「独逸国又は独逸国民は(中略)同盟国若は連合国を相手方として又は其の行政官若は司法官憲の為に又はその命令の下に行動したる者を相手方として請求又は訴訟を提起することを得ず」と規定している。これは、連合国などによって行われた作為または不作為によってドイツ国民に権利等が発生し存在したこと、その権利等は本来訴訟等によって請求することができたことを前提として、上記条約によって訴訟の提起をできなくしたものである。
この事実は、ハーグ条約第3条が、戦争の勝敗に関係なく国及び国民の権利を創設したこと、そのために平和条約によってこれら請求権を消滅させる旨の具体的規定が必要になったことを意味する。
 
(2) このような国民の権利をも規定した平和条約は、第二次世界大戦にお けるイタリアと連合国の平和条約にも見られる。同条76条では、1項で「イタリア国は連合国に対するいかなる種類の請求権をもイタリア国政府又はイタリア国民のために一切放棄する」として請求権放棄を規定したうえで、2項で「この条の規定は、ここに上げられている種類の一切の請求権を完全かつ最終的に打ち切る。この請求権は利害関係者が何人であるかを問わず今後これを消滅させる」と規定する。ここでも、国民の請求権が存在することを前提に、これを将来に向かって消滅させる規定になっているのである。

(3) 以上のように、1907年のハーグ条約第3条創設以降は、国民個人 の請求権が認められるようになり、その権利は裁判上で行使可能と考えられていたのであり、これを消滅させるためには、条約にその旨明記されなければならないことになり、さらに、1949年ジュネーブ条約以降は、「重大な違反行為」につき、加害国の責任を免れさせてはならないこととなったのである。
 したがって、日中共同声明では、ハーグ条約第3条に基づく中国民個人の請求権は放棄されていないのである。
 なお、サンフランシスコ平和条約(1951年9月8日締結)でも、やはり国の請求権と国民の請求権が明記されているが、同平和条約については次の2で詳述する。

 2 日中共同声明で放棄されたのは外交保護権であり個人の請求権は放棄さ れない(前記第2の見解に立つ場合)

  (1) 仮に、日中共同声明でいう「賠償の請求の放棄」が、ハーグ条約第 3条に基づく損害賠償請求権を含むものだとしても、ここで放棄されたのは、中国の国家としての外交保護権であり、個人の請求権は国家によっては放棄されない。
 原判決は、ハーグ条約第3条の権利の帰属主体について、「個人が他国の国際違法行為によって損害を受けた場合には、当該個人は加害国の国際責任を追及するための国際請求を提出し得る主体としては認められず、その個人の属する本国が、当該個人の事件を取り上げ外交保護権を行使することによって、自らに対する法的な侵害として引き受け、国家間関係に切り替えて相手国(加害国)に国家責任を追及するものと解されている」と判示している。
 この解釈に立つとしても、ハーグ条約第3条の本来の目的が、被害者個人に対する賠償にあり、国家は外交保護権を行使してそれを実現しようとするのであるから、国家が放棄できるのは、外交保護権であって、加害国に対する被害者個人の損害賠償請求権まで放棄することはできないのである。
 本件細菌戦においては、控訴人ら被害者に対する被控訴人国の賠償義務がまったく履行されないうちに、中国が国家として外交保護権を放棄したことになる。
 しかし、中国が外交保護権を放棄しても、被害者の救済という問題は残るのであり、被害者個人の賠償請求権が消えるものではない。ハーグ条約3条の上記性質論から、国家が外交保護権を放棄した場合には、個人が損害賠償請求権の主体となると解するのが自然である。

  (2) 個人の請求権は放棄されていないという中国政府の見解について
 1992年4月、江沢民国家主席は、日中戦争時の民間被害については、相互に協議して条理にかなう形で妥当に解決すべきであることを主張してきた旨発言した。さらに、1995年3月9日、銭外相は、全国人民代表者大会の席上で、日中共同声明における戦争賠償請求の放棄には、「個人の賠償までは含まれない」、賠償請求は個人の権利であり、中国政府は干渉すべきでないと明言した。
 これら一連の発言によって、中国政府が個人請求権を放棄の対象としていないことは明らかである。これにより中国政府が日中共同声明で放棄したのは外交保護権であると理解することができる。
 中国政府は、実際に救済されていない被害者個人が「残された問題」(中国側の表現は「遺留問題」)として存在していること、被控訴人国の国家責任が存続していること、被害者個人が被控訴人国に対して損害賠償を請求できることを、正式に認めているのである。

  (3) サンフランシスコ平和条約における外交保護権の放棄
 ハーグ条約第3条に基づく(したがって戦争法規に違反する行為によって個人が被害を受けた場合の)賠償責任に対して、国が放棄できるのは外交保護権であることの例として、サンフランシスコ平和条約の賠償放棄条項がある。
 同条約第14条b項は次のような条文である。
「この条約に別段の定がある場合を除き、連合国は、連合国のすべての賠償請求権、戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権並びに占領の直接軍事費に関する連合国の請求権を放棄する」
 上記条項は、賠償請求権に3つの種類があることを示している。すなわち、@連合国のすべての賠償請求権 A戦争の遂行中に日本国及びその国民がとった行動から生じた連合国及びその国民の他の請求権 B占領の直接軍事費に関する連合国の請求権、である。
 すなわち戦費などの償還として国家が直接受け取る賠償(@)とは明確に区別して、「連合国及びその国民の他の請求権」(A)を規定しているのである。このAの規定は、ハーグ条約第3条に基づくような、加害国の違法行為によって個人の受けた損害に対する賠償請求権を想定しているといえる。
 そのうえで、同条約では、一括して放棄する規定になっている。
 一括して放棄されているとはいえ、同条約で「国民の請求権」が規定されたことの意味は大きい。つまり、もともと国そのものが有している請求権(@)とは別に、ハーグ条約第3条に基づくような戦争法規に対する違反行為によって個人が損害を受けた場合は、個人の請求権が存在しており、国は外交保護権を行使して加害国に対して賠償を請求する権利をもつということになるのである。
 さらに、前記ヴェルサイユ条約及びイタリアと連合国との平和条約では、国民の損害賠償請求権についても将来にわたって消滅することが明記されたが、サンフランシスコ平和条約では、この点は明記されなかった。
 したがって、サンフランシスコ平和条約が「国民の請求権」を明記したうえで、これをも放棄するとしたのは、外交保護権を放棄するという意味をもつもので、国民の権利自体を消滅させるものではないのである。

  (4) サンフランシスコ平和条約締結時に個人の請求権が放棄されないことを認めた日本政府
 外交保護権の放棄によっても、被害者個人の請求権は放棄されていないこと、加害国の側の国家責任が果たされていないことを示した例として、サンフランシスコ平和条約におけるオランダの例がある。
オランダはサンフランシスコ平和条約に調印したが、その際、日本側に対し、オランダ憲法は政府に私権没収の権限を与えていないので、請求権放棄条項は国民の私権を消滅させるものではなく、国民は日本の裁判所で日本政府または日本国民を訴追できるという解釈を示し、また、条約の効果が政府の外交保護権の放棄に限られることも明らかにしたうえで同条約に調印した。
 オランダの外相は、「…日本国政府が、良心ないし良識ある便宜手段の問題として、自発的に自らの方法で処置することを望むものと思われる連合国民のある種の私的請求権があります」と述べ、サンフランシスコ平和条約によっても解決されない国民の個人請求権を「自発的に」処理する事を求めた。これに対し、吉田首相は、1951年9月8日付オランダ外相宛書簡で、「オランダ国政府が示唆する如く、日本国政府が自発的に処置する事を希望するであろう連合国民のある種の私的請求権が存在することをここに指摘します」と述べ、サンフランシスコ平和条約の賠償請求放棄条項によっても、個人の請求権は残ることを認めたのである。
 その後、日本はオランダと1956年に「オランダ国民のある種の私的請求権に関する問題の解決に関する日本国政府とオランダ政府との間の議定書」を結び、「第二次世界大戦の間に日本国政府の機関がオランダ国民に与えた苦痛に対する同情と遺憾の意を表するため」、民間抑留者の請求権の処理として、1000万ドルを提供した。
 以上の経過から明らかなように、日本政府は、個人の被害に対する賠償の問題はサンフランシスコ平和条約によっても最終的に解決したわけではなく、「ある種の私的請求権」が残ることを認めていたのである(荒井信一『日本の加害行為被害者の個人賠償請求権についての歴史的考察』中国社会科学院日本研究所『近代日本の内外政策1931〜1945』提出資料参照)。

(5) 被控訴人国の日韓条約に関する「放棄したのは外交保護権」との明言
 自国民が他の国の違法行為により損害を被った場合、本国家が放棄できるのは外交保護権の行使だけであって、被害者個人の一身に専属する権利を消滅させるわけではないことは、例えば日韓請求権協定との関連でも、以下の答弁に見られるように、日本政府でさえ認めているところである。
「(柳井俊二外務省条約局長)いわゆる日韓請求権協定におきまして両国間の請求権の問題は最終かつ完全に解決したわけでございます。その意味するところでございますが、(中略)これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます」(1991年8月27日参議院予算委員会会議録第3号10頁)。

 3 本件細菌戦は日中共同声明が放棄した「戦争賠償の請求」から除外され ている(前記第3の見解に立つ場合)

 日中共同声明においては、以下に詳述する理由から、本件細菌戦被害の問題は放棄の対象に含まれていなかった。

  (1) 細菌戦は国際法に違反する残虐行為であり「賠償請求の放棄」に入 らない
 本件細菌戦は、明白な国際法違反であるうえ、被控訴人国が意図的に計画し組織的に実行された戦争犯罪である。さらに、細菌戦の実行は、最初から非戦闘員たる一般住民を無差別大量に殺戮することを目的としており、いかなる意味でも正当化されえない行為である。
 本件細菌戦のような違法行為によって控訴人ら中国の一般住民が被った損害については、いわゆる戦後処理として、国家間で取り決められる通常の「戦争賠償」の処理の中には含まれない。日中共同声明において中国政府が放棄した「戦争賠償」は、通常の意味での戦争賠償に限られるのであり、本件細菌戦のような国際法違反の残虐な行為については、慰安婦問題と同じく、含まれないと解するべきである。

(2) ところで、1949年8月12日成立したジュネーブ諸条約とくに、 「戦時における文民の保護に関する1949年8月12日のジュネーブ条約(第4条約)」(1953年日本国加入。以下、「第4ジュネーブ条約」という)は、上記国民の権利、請求権の国による放棄、消滅に重大な影響を与える規定を創設した。
 すなわち、第4ジュネーブ条約では、第147条で、「この条約が保護する人又は物に対して行われる次の行為、すなわち、殺人、拷問若しくは非人道的待遇(生物学的実験を含む)、身体若しくは健康に対して故意に重い苦痛を与え、若しくは重大な傷害を加えること………をいう。」と重大な違反行為を規定し、第148条で、「締結国は、前条に掲げる違反行為に関し、自国が負うべき責任を免れ、又は他の締結国をしてその国が負うべき責任から免れさせてはならない。」と規定し、生物学的実験を含む非人道的待遇等の重大な違反行為に対して、賠償請求の免責を禁止した。
 これ以降、講和条約のあり方が大きく変更されたといえる。
 この第4ジュネーブ条約で一層明確化された個人請求権を容認する考え方が、前記サンフランシスコ平和条約に強い影響を与え反映されていることは明らかである。
 日中共同声明は、上記第4ジュネーブ条約の締結以降であるから、本件細菌戦のような「重大な違反行為」については、請求権を放棄できないのである。

  (3) 日中共同声明の交渉過程で細菌戦の事実は隠蔽されていた
 もともと外交保護権が成立するためには、自国の国民が他の国の違法行為によって損害を受け、被害者が自国政府に訴えることが必要である。
 しかし、日中共同声明当時、本件細菌戦については、被控訴人国の徹底した隠蔽行為によって、控訴人らは自らの蒙った被害が日本軍の細菌戦によるものであることについて真実を知ることができなかった。したがって控訴人らは、自国(中国)政府に自らの細菌戦被害を訴えることもできなかった。
 本件細菌戦に関する損害賠償請求は、日中共同声明時点では外交交渉の前提たる事実として認識されていなかったことから、放棄された「戦争賠償」からも除外されていた。なお、中国側のいう「遺留問題」の中に細菌戦被害も含められている。

  (4) 日中共同声明の「責任を痛感し反省する」に反する被控訴人国の行 為
 日中共同声明は、その前文で日本側が「過去において日本国が戦争を通じて中国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」ことを前提として、第5条で中国側が「戦争賠償の請求を放棄することを宣言」したものである。
 ところで、本件細菌戦に関する被控訴人国の対応は、日中共同声明における「責任を痛感し深く反省する」という前文に著しく反するものである。細菌戦の事実すら認めず、意図的な隠蔽行為を繰り返してきた被控訴人国の態度は、「責任を痛感し深く反省する」ことと矛盾するものである。つまり日本国がとってきた実際の態度は、自らの責任を否定し、まったく反省せず、控訴人ら被害者をはじめ、中国の人々を深く傷つけるものである。この被控訴人国の本件細菌戦に対する態度は、日中関係の進展を阻害する大きな要因となっている。
 日中共同声明における中国政府の「賠償請求の放棄」は、日本側が「責任を痛感し深く反省」することを前提として宣言されたのであるから、本件細菌戦に関する被控訴人国の態度は、日中共同声明の前提を崩す行為であり、少なくとも本件細菌戦に関しては、「賠償請求の放棄」は成立せず、除外されるといわなければならない。

4 以上、ハーグ条約第3条に基づく損害賠償請求権は国家にあるという原判決の立場に立って、3つの見解を見てきたが、いずれの場合も、被控訴人国の国家責任は存続しており、賠償請求権は、個人の場合にせよ、国家の場合にせよ、いずれにせよ存続している。原判決の、本件細菌戦に関する被控訴人国の国家責任が、「日中共同声明によって決着」したという解釈は成り立たないのである。

第6 被控訴人国には被害者個人に対して立法上の救済義務が発生する

 1 被控訴人国の国家責任が存続している以上、被害者救済は立法義務とし て課せられる
 以上、第4、第5で述べたように、ハーグ条約第3条に基づく被控訴人国の国家責任に対する請求権が、控訴人ら被害者個人にあるにせよ、あるいは、原判決が判示するように、国家にあるにせよ、いずれにせよ被控訴人国の国家責任は存続しており、被控訴人国の賠償義務は不履行のまま続いている。
 一方、被控訴人国による何らかの手段による控訴人ら被害者の救済は行われていない。それどころか、被控訴人国による加害事実の認定すら行われていない。
 控訴人ら被害者の救済措置が必要であることは、原判決も「本件細菌戦による被害は誠に悲惨かつ甚大であり、旧日本軍による当該戦闘行為は非人道的なものであったとの評価を免れないと解される」「本件細菌戦被害に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される」と認めるところである。
 何らかの救済措置がとられる必要があり、その方法が国会において決せられるべきものであることは、妥当な判断である。
 ところが、原判決は、国会が「高次の裁量により決すべき」とし、立法義務まで負うものではないという判断を示している。
 しかし、この原判決の判断は、被控訴人国のハーグ条約第3条に基づく国家責任がすでに決着がついているという前提でのことであり、被控訴人国の国家責任が存続している状態のもとでは、控訴人ら被害者の救済は、立法義務として課せられるといえる。

 2 国際法の義務違反の解消は国会の責務
本件細菌戦に関するハーグ条約第3条に基づく賠償問題は、前述したとおり、@ハーグ条約第3条の目的は個人の救済にある。A被控訴人国はハーグ条約第3条に基づく国家責任を果たしておらず、控訴人ら被害者の救済はいまだに実行されていない。
ハーグ条約3条は、同条に基づく加害国の国家責任の履行のためにいかなる手続的な可能性も排除していない。したがって、加害国が、救済措置を実現するための新たな立法によって救済を実現することは可能であり、また適切な方法である。
 一方に、被控訴人国の側の国際義務の不履行状態の継続があり、他方に、被害者の側の救済されない状態の継続があり、外交によってはその解決が図れない場合、現状を解消する唯一の方法は、被控訴人国の国会が何らかの立法措置によって、被害者個人に対する賠償責任を果たすことである。
 そして、それがなされない以上、被控訴人国における国際義務の不履行は解消されないのであるから、国会には立法義務が生じているといわなければならない。

 3 中国民固有の損害賠償請求権の存在と被控訴人国の被害者救済の立法義

 原判決によれば本件細菌戦の被害は誠に悲惨かつ甚大であり、旧日本軍による当該戦闘行為は非人間的なものだったとの評価は免れず、かつ日本にはハーグ陸戦条約第3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が成立したというのである。したがって、原判決の言う判断基準に従ったとしても、基本的人権の尊重を旨とし、かつ国際協調主義に立つ日本国憲法においては、このような重大な人権侵害により国家責任を負うような状態を放置することは到底許されないのであるから、本件において、立法行為の国家賠償法上の違法性が認められるべき「容易に想定し難いような例外的な場合」であると評価できることは明白である。
 しかしながら、原判決は、細菌戦は国際慣習法に違反し、被控訴人国が国家責任を負うと認めながら、被控訴人国の国家責任は、日中共同声明(1972年)及び日中平和友好条約(1978年)によって既に決着しているとの理解を前提に、立法不作為の違法性について消極的に判断している。これは、日中共同声明及び日中平和友好条約によって中国及び中国民の損害賠償請求権が共に放棄されていると理解したものと解される。
 しかし、この原判決の理解は誤っている。すなわち、すでに第5で述べたとおり、中国政府が放棄したのは、国家間の賠償であり、中国民固有の損害賠償請求権は、中国政府によって放棄されたものではない。したがって、被控訴人国には、被害者個人に対して立法上の救済義務が発生する。
 また、原判決は、日本にはハーグ陸戦条約第3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が成立したというのであるが、そもそもこのような国家責任は、細菌戦という、通常の戦争において想定できない異常な行為に関する国家責任である。日中共同声明等において放棄されたのは、通常の賠償請求であると考えられるから、このような異常な行為による国家責任に関する中国国民が有する賠償請求権については、中国政府においても、日中共同声明等によって放棄したということはできない。
したがって、仮に原判決が判断するように、本件被控訴人国の国家責任が「国家間関係において処理されるべき」ものだとしても、被控訴人国の国家責任は何ら履行されておらず、決着はついていないのである。
 加えて、ハーグ陸戦条約第3条の規定の究極の趣旨・目的は、原判決の言うように個人の保護にあるから、仮に被控訴人国による立法が、国家間関係を通じた処理の形をとるとしても、その目的は被害者個人の救済であり、この中国国民が有する賠償請求権を実行する為の適切な立法がなされないことにより、控訴人ら被害者が新たな苦痛を受けることもまた明らかである。

 4 最高裁判例(昭和60年11月21日)の基準について
  (1) 原判決の判示する判断基準
 原判決は、立法不作為による損害賠償はいかなる場合に認められるかという点について最高裁昭和60年11月21日第一小法廷判決(民集39巻7号1521ページ)を引いたうえで、「国会の立法不作為が国家賠償法上違法と評価されるのは、憲法上一義的に国会に特定内容の立法をする義務が課されているにもかかわらず、国会がその立法を懈怠したというような例外的な場合に限られる」としている。
 そして原判決は、「日本国憲法が採用する議会制民主主義の下での国会議員の立法過程における行動は、国会議員各自の政治判断に任され、その当否は最終的に国民の自由な言論や選挙による政治的評価に委ねられるのが相当であるから、国会議員は、立法に関しては、原則として、国民全体に対する関係で政治的責任を負うにとどまり、個別の国民その他の者の権利に対応した関係での法的義務を負うものではないというべきである」と判示し、この基準を本件にあてはめて立法不作為の違法性を否定した。

(2) 本件細菌戦の被害は「容易に想定し難いような例外的な場合」に相当 する
   ア そもそも原判決が引用する上記の最高裁昭和60年11月21日判 決は、もともと立法裁量にゆだねられているところの国会議員の選挙の投票方法に関するものであり、細菌兵器の使用という明らかに違法でかつ他に比類のないような極めて重大な生命身体等への侵害に関する本件とは、全く事案を異にする。また、その後の最高裁判決の事案も、一般民間人戦災者を対象とする擁護立法をしないことに関するもの(昭和62年6月26日第2小法廷判決・裁判集民事151号147頁)、生糸の輸入制限に関するもの(平成2年2月6日第3小法廷判決・訟務月報36巻12号2242頁)、民法733条の再婚禁止期間に関するもの(平成7年12月5日第3小法廷判決・裁判集民集177号243頁)等であり、本件に匹敵するようなものは全く見当たらない。
   イ もっとも、上記一連の最高裁判決は、立法行為が国家賠償法上違憲 と評価されるのは、容易に想定し難いような例外的な場合に限られるべきである旨判示している。ただ、最高裁判所昭和60年11月21日判決等の上記一連の最高裁判決の文言からも明からなように、「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反している」ことは、立法行為の国家賠償法上の違法性を認めるための絶対条件とは解されない。上記一連の最高裁判決が「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反している」との表現を用いたのも、立法行為が国家賠償法上違法と評価されるのが、極めて特殊で例外的な場合に限られるべきであることを強調しようとしたにすぎないものというべきである(上記についてはハンセン病に関する熊本地方裁判所平成13年5月11日判決を参照)。
   ウ また、最高裁判所昭和60年11月21日判決は、単純に議会制民 主主義を理由とするのみならず、選挙権に関する立法府の裁量を強調していることから分かるように、「立法の内容が憲法の一義的な文言に違反している」場合を一つの例として、「容易に想定し難いような例外的な場合」には、立法行為の国家賠償法上の違法性を認める趣旨であることは、明らかである。
 この点、原判決が、最高裁昭和60年11月21日判決を引いた上で、「憲法上一義的に国会に特定内容の立法をする義務が課されているにもかかわらず、国会がその立法を懈怠したというような」「例外的な場合」には、国会の立法不作為が国家賠償法上違法と評価されると判示しているのは、「憲法上一義的に国会に特定内容の立法をする義務が課されているにもかかわらず、国会がその立法を懈怠したというような」場合を一つの例として「例外的な場合」には立法不作為が国家賠償法上違法と評価されるとしているのであり、上記最高裁昭和60年11月21日判決の理解として、控訴人の理解と同様であると解される。

  (3) 先行法益侵害に基づく救済義務
 本件細菌戦のように、明白な国際法違反行為によって、控訴人らにおいて憲法秩序の根源に関わる人権侵害が現に起きており、さらに国際法に基づく国際義務の不履行状態が現に続いているような場合は、国会議員の政治的責任に解消できない領域において、立法不作為を理由とする国家賠償の問題が生ずる。
 そして、重大な人権侵害と救済の高度の必要性が認められ、そのうえで、国会や内閣がその必要性を十分に認識し、立法可能であったにもかかわらず、一定の合理的期間を経過してもなおこれを放置した等の場合には、広く立法不作為による国家賠償が認められるべきである。
 この点、法の解釈原理として、あるいは条理として、先行法益侵害に基づくその後の保護義務を右法益侵害者に課すべきことが一般に許容されていると考えるべきである。日本国憲法制定前の帝国日本の国家行為によるものであっても、これと同一性ある国家である被控訴人国には、その法益侵害が真に重大である限り、被害者に対し、より以上の被害の増大をもたらさないよう配慮、保証すべき条理上の法的義務が課せられているというべきであり、特に、個人の尊重、人格の尊厳に根幹的価値をおき、かつ、帝国日本の軍国主義等に関して否定的認識と反省を有する日本国憲法制定後は、ますますその義務が重くなり、被害者に対する何らかの損害回復措置を採らなければならないはずである。
 すなわち「先行法益侵害」が憲法的秩序の根源に関わる侵害として行われた場合、「保護義務」が発生する。被害者がその後も際限のない苦しみに陥っていること、加害者側の救済作為義務が果たされず不作為のまま放置したことによって、立法不作為は被害者の人間としての尊厳を傷つける新たな侵害行為になるのである。
 本件細菌戦に関しては、「先行法益侵害」である細菌戦の実行による損害が、まさに憲法秩序の根源に関わる侵害であると共に、先行法益侵害における加害行為の違法性が極めて顕著であること、国際法に基づく義務の不履行が続いていることが加わるのであって、立法不作為の違法性は明らかである。

  (4) 本件細菌戦における救済立法義務
 本件細菌戦において、控訴人らが被った肉体的・精神的苦痛は極めて過酷なものであったが、戦後においても、被控訴人国によって、なんら被害の救済措置を受けることなく放置されてきたため、控訴人らは今もなお心身ともに癒すことのできない苦痛のうちにある。
 さらに、細菌兵器は、細菌のもつ強力な毒力と感染性により、広範かつ長期にわたって悪質な伝染病を蔓延させて苦痛をもたらすものであるため、控訴人らは現在においても、これら細菌による疾病の流行を恐れている。本件細菌戦は、その残虐性、被害の広範さ等から考えて、到底想像し難い特別なものといえる。
 本件細菌戦が国際法に違反する行為であることは、すでに原判決も認定しているところであるが、そのうえで、本件細菌戦は、一般住民を無差別大量に殺傷する目的をもって実行された犯罪行為であり、控訴人の親族ら多くの非戦闘員の命が奪われた。また控訴人ら生き残った人々に対しても、細菌戦の与えた恐怖は、想像を絶するものがある。
 控訴人らが細菌戦によって強いられた恐怖は、まず、ペストおよびコレラに感染した人間が非常に高い比率で死亡するという恐怖である。また、ひとたび感染者が発生するとその家族や近親者、さらにその地域に強い伝染をもって急速に流行することが恐怖を倍加させた。
 さらに、ペストやコレラに感染した人間や地域は、他から隔離されたり偏見を持ってみられ、総じて徹底した社会的な差別を受ける。社会の中で生きる人間にとって、ペストやコレラのゆえに受ける差別の恐怖は、死の恐怖と等しいか、それ以上に残酷なものである。そのうえ、再発、再流行の恐ろしさがある。特にペストは、野生の齧歯類の中での流行が何十年も続いた後で、昆虫のノミを介して人間に感染する危険性を持っている。したがってペストはひとたび流行すると、その流行地域と周辺地区に対して、防疫活動として何十年もペスト菌が生き続けているか否かを観察しなければならないのである。
 日本軍による細菌戦は、ペストやコレラが、まさに以上に述べたような脅威を中国の住民や地域社会に及ぼすことを狙って、実行されたものである。細菌戦の実行は、控訴人らに甚大な被害を与えたばかりか、控訴人らのその後の人生に多大な影響を与え、言い知れぬ恐怖と不安、屈辱の中で生きることを強いたのである。
 このような控訴人らの苦痛は、一刻も早く立法によって救済が図られるべき性質のものであって、その必要性は高度である。
 また、本件細菌戦は極めて特異な違法行為である。医学という本来、命を救うために用いられる方法が、大量の人間を殺傷するために用いられたのである。感染症が日本軍によって人為的に引き起こされたものであることを知った時の控訴人ら被害者の受けた衝撃、恐怖もまた、想像を絶するものがある。加害者である被控訴人国が、加害事実すら認めず、謝罪せず、賠償せず、何の救済措置をとることもせず被害者を放置し続けていることによって、控訴人らは未だに闇の中にいる。
 被控訴人国による救済義務の不履行は、日本国憲法の根源的価値に関わる基本的な人権侵害をもたらす、新たな不法行為として、控訴人らの人間としての尊厳を傷つけているのである。
 従って、本件は、明らかに違法かつ想像し難い極めて重大な侵害行為による被害が長期間放置されてきた事案で、人権侵害の重大性とその救済の高度の必要性が明らかに認められるから、立法不作為が国家賠償法上違法と評価される「容易に想定し難いような例外的な場合」(最高裁昭和60年11月21日判決)に該当するのであり、原判決に言うところの「例外的な場合」に該当する。

  (5) 原判決の誤り
 ところが、原判決は、立法不作為が国家賠償法上違法と評価されるところの「例外的な場合」に該当しないと判示している。しかし、これは、常識的な判断として全く理解できない。
 原判決は、本件細菌戦の被害は誠に悲惨かつ甚大であり、旧日本軍による当該戦闘行為は非人間的なものだったとの評価は免れないと判示し、加えて日本にはハーグ陸戦条約第3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が成立したとまで判示しているのであるから、人権侵害の重大性とその救済の高度の必要性が明らかに認められる。加えて、先に検討したように、このようなハーグ条約第3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任に関して中国家及び中国民の日本国に対する賠償請求権は放棄されていないのであるから、憲法の国際協調主義の規定(憲法98条2項)から考えて、国が国際慣習法上の国家責任を負う以上その是正の立法義務を負うことは一義的に明らかであるから、立法不作為が国家賠償法上違法と評価されるところの「例外的な場合」に該当することは明らかである。
 このような場合でさえも、右立法不作為が国家賠償法上違法と評価されるところの「例外的な場合」に該当しないとするのであれば、原判決が言う「例外的な場合」というケースは存在しないと言うべきであり、原判決は、論理が破綻しているといわざるを得ない。

  (6) 本件立法不作為は憲法98条2項に反する
 仮に、立法不作為が、原判決の判示する「憲法上一義的に国会に特定内容の立法をする義務が課されているにもかかわらず、国会がその立法を懈怠したというような例外的な場合」に違法となるとしても、本件立法不作為の違法性は明白である。
 被控訴人国が、本件細菌戦に関するハーグ条約第3条に基づく国家責任をはたさず、国際義務の不履行を続けていることは、憲法98条2項の「条約及び確立された国際法規」の遵守義務に違反している。
 ハーグ条約が憲法98条2項の規定する「条約及び確立された国際法規」に入ることは明白である。そして、この憲法98条2項は、日本国が締結した「条約」や「確立された国際法規」は、国の機関および国民が遵守すべき国内法上の義務を負うことを定めたものである。また、国際法を遵守し、その実をあげるために、必要ならば国内において実施に必要な措置が講じられなければならないことを定めたものである。この条項によって、国会には、ハーグ条約第3条を遵守するために必要な立法等措置を行うことが義務づけられているのである。
 また被控訴人国の本件細菌戦に関する国際義務の不履行は、日中共同声明の「過去において日本国が戦争を通じて中国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」(前文)に反するものである。たしかに日中共同声明における「責任を痛感し、深く反省する」という文言には、賠償義務は含まれていない。しかし、本件細菌戦に関するハーグ条約第3条に基づく国家責任の遂行には、当然の前提として被控訴人国が加害事実を認め、謝罪するということが含まれている。被控訴人国は、事実を認めることさえしないのであるから、「責任を痛感し、深く反省する」に反する行為を行っていることは明白である。
 また1978年の日中平和友好条約では、「共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認」しているのだから、被控訴人国の国際義務不履行は、日中平和友好条約の遵守義務にも違反していることになる。国会は、日中共同声明及び日中平和友好条約を遵守するために、本件細菌戦に関する国家責任を果たすべく立法等措置を行う義務を負っているのである。
 以上のように、国会が本件細菌戦に関する国家責任を果たすべく何らかの立法措置をとらなかったことにより、条約及び国際法の遵守義務に反する状態が長きにわたって続いたことは、原判決の判示する基準に従っても、立法不作為の違法と評価されるものである。

第7 立法義務の不履行による立法不作為の成立

 1 本件細菌戦において、控訴人らが被った肉体的・精神的苦痛は極めて過 酷なものであったが、戦後においても、被控訴人国によって、なんら被害の救済措置を受けることなく放置されてきたため、控訴人らは今もなお心身ともに癒すことのできない苦痛のうちにある。
 このような控訴人らの苦痛は、一刻も早く立法によって解決すべき性質のものであって、その必要性は高度であり、これを放置することは、さらに、日本国憲法が保障する根幹的な控訴人らの人権を侵害しつづけることになる。

 2 国会で細菌戦の問題が初めて取り上げられたのは、1950年の3月で ある。
 1949年12月、ソ連・ハバロフスクで行われた裁判は、日本兵捕虜の中で、細菌兵器の準備と使用に関わった12名に対する細菌戦裁判として行われた。731部隊の本部・支部の責任ある立場にあった者として、川島清、柄沢十三夫、西俊英、尾上正男等が裁かれ、証人尋問では12名が証言した。
 細菌戦に関する多くの事実が明らかにされた公判記録は、翌1950年に日本語版も出版された。このハバロフスク裁判で明らかになった細菌戦の事実を基に、国会質問が行われた。
1950年3月1日衆議院外務委員会で、聴濤議員が細菌戦の事実について問いただしたのに対し被控訴人国(政府)は、「日本人の戦争犯罪人に対する裁判は、ポツダム宣言の受諾により連合国によって行われるから、政府は戦争犯罪人の問題に関与すべきではない。政府は調査する権能も持たず、また調査する必要もない。」(殖田俊吉法務総裁。甲37)等と答弁した。
 国会は、この時点で細菌戦の事実を知り、被害者に対する救済義務が発生することを知り得たのである。仮に、政府の答弁に従って、占領下において政府が、戦争犯罪について「調査する権能をもたない」としても、国会が何らかの立法措置をとりうる余地は存在したし、仮に国会においても占領下であることの制約が存在したとしても、1952年のサンフランシスコ平和条約の発効によって、その制約はまったくなくなったのである。国会が立法措置をとりうる合理的期間を2年間とすると、1954年以後は、被控訴人国の立法不作為は国家賠償法上も違法となったといえる。

 3 さらに、1993年からの井本日誌の発見とその内容の公表、及びこれ と時期的に前後する細菌戦部隊の旧部隊員や中国人被害者らの体験供述などや1994年及び95年のいくつかの教科書の中で細菌兵器の実戦使用が明らかになり、その後1997年8月の家永教科書裁判における最高裁判決において、細菌戦の事実について国会でもより明確に認識されることになった。
 1995年6月9日、国会は「戦後50年国会決議」を採択した。この決議は、「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、わが国が過去におこなったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する」と述べている。
 また同年8月15日、「戦後50周年の終戦記念日にあたって」の村山総理大臣の談話が発表され、この中で村山首相は、「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」「疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます」と述べ、「現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります」と述べている。
 この国会決議及び村山談話によって「戦後処理問題への誠実な対応」の一環としての細菌戦被害者に対する救済は、国会においても明確に認識されたはずであると考えられる。

4 以上の経過によって、遅くとも上記最高裁判決から2年を経過した19 99年8月には合理的期間も経過していたといえるから、立法不作為が国家賠償法上も違法となったといえる。

第8 結論

 上記理由により、国会が控訴人ら細菌戦被害者に対する救済措置立法を怠ってきたことは違法な不作為に当たり、被控訴人国は国家賠償法の規定に基づき控訴人に対して謝罪(同法4条、民法723条)と慰謝料支払(同法1条1項)の義務を負う。
 したがって、原判決の判断は失当である。


第3章 行政不作為による事実調査・救済義務違反の不法行為

第1 問題の所在 

 1 被控訴人国による国家責任と行政不作為
   すでに本書面でくり返し述べているとおり、日本軍が1940年から1 942年の間に中国各地で行った本件細菌戦は、ジュネーブ・ガス議定書あるいは同議定書を内容とする国際慣習法に違反する。したがって被控訴人国には、「本件細菌戦に関しハーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていた」(原判決35頁)。
 本件細菌戦は、日本軍が行った史上類例のない戦争犯罪行為である。細菌兵器は、最初から非戦闘員である一般住民を無差別に殺傷することを目的とした大量破壊兵器であり、その被害は実行者も予測がつかない恐るべきものである。細菌戦を戦争行為として正当化しうるいかなる理由もなく、細菌兵器は、決して使用されてはならない兵器である。
 本件細菌戦は、日本軍による史上初めての本格的な細菌兵器の使用によって遂行された。細菌兵器の使用は、もとより国際法(ジュネーブ・ガス議定書)によって禁止されていたが、国際法に違反して細菌兵器を実戦使用した被控訴人国の違法性・犯罪性は、他の戦争犯罪に比しても極めて大きいものであり、他方でその被害者に対する救済の必要性もまた、極めて大きいものがあるといわなければならない。細菌戦を実行した被控訴人国は、自らの犯した戦争犯罪を真に反省し、戦後直ちに事実調査をなし被害者らを救済する措置をとらねばならなかった。

 2 行政不作為による新たな被害(倍加された精神的苦痛)の発生
 この被控訴人国の国家責任から生じた不法行為は、立法・行政の両面において問題となるが、本件においては両者の不作為が不法行為となる。そこで、その前提となる作為義務の内容や作為義務の履行手段は、立法・行政の両者でそれぞれ異なることに注意しなければならない。行政府における作為義務には、予備費から損害賠償金を支出して細菌戦被害者の損害を償うだけことだけでなく、事実調査や謝罪を行い細菌戦被害者の精神的苦痛を慰藉すること等の救済義務も含まれるのである。
 そこで、両者を別々に論じることとし、被控訴人国の立法の不作為については、すでに詳述した。
 では、行政においてはどうであったかについて以下詳述する。被控訴人国の行政機関である内閣(以下「被控訴人内閣」という)は、とりうる救済措置があった(戦後直後においても少なくとも事実を調査し解明することは可能であった)にもかかわらず、何の救済措置もとらなかったばかりか、自ら犯した細菌戦の戦争犯罪を隠蔽し続けたのである。
 本件細菌戦は、戦争犯罪一般には解消できない残虐性をもち、その被害もまた、戦争被害一般には解消できない深刻なものである。
 本件控訴人ら被害者の早急な救済が必要であったこと、救済は旧日本軍を引き継ぎ事実を知る立場にあった被控訴人内閣によってしかなしえないこと、細菌戦被害という極めて特殊な戦争犯罪被害に対する救済措置は、まず細菌兵器を撒布した場所や細菌兵器に用いた細菌の種別(ペスト菌等)、量、撒布方法の特定をし、かつ把握している被害の場所、程度を知らせて、被害の拡大を防止し、不安を解消することなど、単なる金銭的な賠償だけではなく、多角的な側面からの救済措置を必要としたこと等から、救済義務は、まず被控訴人内閣に発生したというべきである。
 被控訴人内閣の上記作為義務の不履行により、控訴人らには、1940年代の本件細菌戦による被害のほかに二次被害ともいうべき別個の新たな被害(精神的苦痛の倍加)が発生している。
 控訴人らは、本件細菌戦という直接の加害行為をうけて肉親を無惨に殺されあるいは自らも罹患して生死の境をさまよいかろうじて一命を取り留めた者たちであるが、それに加えて被控訴人が今日に至るも本件細菌戦の事実を認めず、謝罪も賠償もしないで戦後の半世紀以上にわたって控訴人ら細菌戦被害者たちを救済することなく放置してきたことによって、控訴人らの苦痛は倍加しているのである。こうした国際慣習法に基づく国家責任による賠償義務が発生しているにもかかわらず、今日に至るまで履行されず、なすべき救済義務を行っていない事実に対しては、被控訴人国の新たな加害行為として法律構成すべきであり、被控訴人国は直ちに救済措置をとるべきであった。
 この点につき、救済措置をとるか否かは、行政府の裁量に委ねられており、救済措置をとることは行政府には義務づけられていないとする見解もある。
 しかしながら、このような解釈は、いかなる重大な法益侵害や行政府による懈怠が行われたとしても行政府は救済措置をとらなくてもいいことになってしまい、正義に反する。そこで、行政裁量の幅は決して固定されたものではなく、状況に応じて変化するものであり、一定の状況のもとでは、その裁量権はゼロに収縮して作為義務が生ずると解するのが妥当である。
 あるいは、不作為が著しく不合理な場合には、行政権の限界を逸脱しており、もはや行政裁量の範囲の問題ではなく、違法であると解するのが妥当である。問題は、どのような状況下で作為義務が生ずるかにつき、明文で定められているわけではない点にあり、作為義務が生ずる要件を解釈によって確定していく必要がある。
 そこで、以下最高裁判例を検討しつつ、作為義務の発生要件を挙げていく。 

第2 作為義務の発生要件

 1 まず、先行行為に基づく作為義務のケースで、行政不作為の成立を認定 した「新島漂着砲弾爆発事件」に関する最高裁昭和59年3月23日判決を検討する。
 「新島漂着砲弾爆発事件」は、海中に投棄された日本国陸軍の砲弾が海岸に漂着していたのを拾って焚き火に投じたため爆発し、中学生ら2人が死傷したという事件である。一審、二審、最高裁とも、警察官に危険防止措置の懈怠があるとして、東京都の損害賠償義務を認めた。

 2 上記最高裁判決は、「島民が居住している地区からさほど遠からず、か つ海水浴場として一般公衆に利用されている海浜やその付近の海底に砲弾類が投棄されたまま放置され、その海底にある砲弾類が毎年のように海浜に打ち上げられ、島民が砲弾類の危険性についての知識の欠如から不用意に取り扱うことによってこれが爆発して人身事故等の発生する危険があり、しかも、このような危険は毎年のように海浜に打ち上げられることによって継続して存在し(中略)島民等としてはこの危険を通常の手段では除去することができないため、これを放置するときは、島民等の生命、身体の安全が確保されないことが相当の蓋然性をもって予測されうる状況において、かかる状況を警察官が容易に知りうる場合には、警察官において右権限を適切に行使し、自ら又はこれを処分する権限・能力を有する機関に要請するなどして積極的に砲弾類を回収するなどの措置を講じ、もって砲弾類の爆発による人身事故等の発生を未然に防止することは、その職務上の義務であると解するのが相当である」と判示する。
 同事件においては、砲弾爆発により1名が死亡、他の1名も眼球破裂等の重大な身体被害を受けている。
 上記最高裁判決は、@被侵害法益の大きさに加えて、A住民に人身事故等の発生する危険が継続して存在していたこと(危険の継続的存在)、B住民等がこの危険を通常の手段では除去することができないこと(通常手段による危険除去の不可能性)、Cその状況を警察官が容易に知りうること(予見可能性)を、危険防止措置義務の発生する要件としたうえで、警察官が「砲弾類の危険性についての警告や砲弾類を発見した場合の届出の催告などの措置をとるだけではたりず」と、当該公務員の能力の限界が、作為義務を免責することにはならず、「権限・能力を有する機関に要請するなどして積極的に」危険防止措置を講ずるべきであった(積極的措置の必要)と判示している。

3 この点、上記事件の控訴審で、国は「砲弾類を完全に除去する方法がないから危険防止義務はない」と主張していた。
 しかし、東京高裁昭和55年10月23日判決は、国の主張を排斥し、「かかる作業の実施により、同海岸における爆発による人の死傷の危険の蓋然性は減少させうるのであり、この措置が危険を皆無にするものでないことを前提として危険防止の義務はないかにいう国の主張は採用の限りでない」として、「危険の蓋然性を減少させうる」限り、危険防止義務が成立するものであると判示している。
 同事件では、国による砲弾の回収義務の不作為も認めている。
 東京地裁昭49年12月8日判決は、「危険性発生の根本的な原因は、もと被告国の機関であった日本国陸軍が、連合国軍の指令に基づく武装解除の一環として実施した砲弾類の海中投棄の際、潮流等の作用により容易に海岸に打ち上げられることが充分に予想される海岸に極めて近接した場所に大量かつ危険な砲弾類を投棄して、その後これを放置していたことにあるというべきであるから、このように大量かつ危険な砲弾類を右のような場所に投棄して危険性発生の原因をつくりだした当事者としての被告国は、その後、海中に放置されている砲弾類が海岸に打ち上げられることのないように、また打ち上げられたとしてもそれによる爆発事故が起こらないように、これらの砲弾類を早急に回収して、事故の発生を未然に防止すべき法律上の作為義務を負っていたというべきである」と、明解に、放置した砲弾の回収による危険防止義務を判示している。

4 以上の判例分析から、本件細菌戦被害者に対する救済義務に関して行政不作為が成立するためには、@被侵害法益の重大性、A住民の被害の拡大継続、B住民自身による被害除去の不可能性、C行政による被害拡大の予見可能性の4点が検討されなければならない。
 そこで、以下、本件細菌戦の被害について、被控訴人内閣に事実調査・救済義務の行政不作為が成立したかどうか検討する。

第3 本件細菌戦における被控訴人内閣の事実調査・救済義務の不作為

 1 本件被侵害法益(倍加する精神的苦痛)の重大性
(1) 細菌兵器は、1925年ジュネーブ・ガス議定書でその使用が禁止さ れていた大量破壊兵器である。しかも、細菌兵器はもっぱら一般住民に対して向けられ、その被害がどこまで拡大するかは、実行者も予測することができない恐ろしい兵器である。
 非戦闘員である一般住民が、空爆等他の戦争行為によって受ける損害に比べても、控訴人ら細菌戦被害者が受ける損害は特殊な深刻性をもっている。
 控訴人ら被害者にとって、細菌戦による疫病の発生は、戦争中の敵の攻撃として予測がつかない事態であった。また当時の民衆のなかではペスト等疫病に関する知識はそれほど高くなかった。本件控訴人ら細菌戦被害者は、ある日突然原因不明の病気に襲われ、発病すると数日間のうちに次々に死亡していくという事態に直面させられたのである。
 一般に犯罪等の被害者にとって、その原因が分からないことほど苦しいことはない。本件細菌戦は、被害当時から日本軍によるものではないかと予測はされていたが、細菌戦が秘密作戦として行われたこと、戦後の被控訴人内閣による隠蔽工作と同時に被控訴人内閣が事実を認めないことによって、本件控訴人ら被害者は、自らが受けた被害について、真の原因を知らされることなく放置されてきた。
 戦争敵国とはいえ、一般住民を無差別に大量殺傷する細菌兵器を使用することは、人間社会の常識からは想像もつかない残虐な非人道的行為である。日本軍がこれをなしえたのは、なによりも中国の民衆を人間としてみない民族差別が根底にあったことによる。
 ところで、本件行政不作為における被侵害法益は、被控訴人国の調査・救済義務の不履行によって生ずる倍加した精神的苦痛にあるが、「無差別大量殺戮」の根底にある民族差別は、控訴人らを戦後も深く傷つけるものとなった。加害者である被控訴人国が、戦争終結後においても、自らが細菌戦を行った事実を隠して謝罪せず、何らの救済措置もとらなかったことは、細菌戦の実行が、戦争という状況の中で生まれた特殊なものではなく、より根の深い非人間的、民族差別に基づくものであったことを示している。
 被控訴人国の中にある「中国人は皆殺しにしてもかまわない」という姿勢は、本件控訴人ら被害者の人間としての尊厳を根底から傷つけるものである。戦後における被控訴人内閣の不作為は、こうした非人間的、民族差別的姿勢として変わることなく、控訴人らの人格を蹂躙し続けたのである。被控訴人内閣の不作為は、絶えず控訴人らに精神的な重しとしてのしかかり、控訴人らが人間として生きていくうえで、多大な困難を強い、「倍加する精神的苦痛」を与えた。

(2) 控訴人らに対する先行法益侵害はとてつもなく大きくその被害は重大 で容易に回復しえないものであり、早急な救済が必要とされていたことは明白である。
 被控訴人内閣による被害者に対する救済措置がまったくとられなかったこと、加害者である被控訴人内閣が謝罪しないこと、事実を認めないことは、被害者の生命・身体を危険にさらし、被害者を恐怖と不安に陥れ、地域社会で生存するうえで多大な困難を強いるものであった。そして、被控訴人国の救済義務の不履行は、次のような重層的構造をもつ。(甲508聶莉莉教授「鑑定書」の29頁)
 第1に細菌戦によって広範な地域に疫病を引き起こすという事態は前代未聞であり、伝播及び再発の危険性がどの程度あったかは予測不可能な面があるが、少なくとも戦後も一定期間は継続した危険が存在したことは明白であり、控訴人らをはじめ広範な地域の住民全体が、生命、身体の差し迫った危険にさらされていたのである。その恐怖と不安は想像を絶するものがあり、先行法益侵害と共に、被控訴人内閣の不作為による法益侵害がある。
 さらに、第2に被控訴人内閣の不作為が、半世紀以上にわたって続いたことにより、控訴人らに対する基本的人権の蹂躙の継続ないし控訴人らに強いる社会的差別の忍従等精神的苦痛は増大し、その被法益侵害は甚大なものとなっている(甲508聶莉莉教授「鑑定書」の31頁)。
 このように本件細菌戦の被害に対する被控訴人内閣の不作為によって控訴人らの精神的苦痛は倍加し、いやがうえにも高まっているといわざるを得ない。

(3) 被控訴人内閣の半世紀以上にわたる不作為の経過の中で、1972年の日中共同声明、及び1978年の日中平和友好条約によって、日中国交が回復し、長きにわたる2国間の戦争状態は終結した。日中共同声明の前文で被控訴人国は、「過去において日本国が戦争を通じて中国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する」ことを表明した。この言葉を真に実行するためには、被控訴人国は救済義務を果たさねばならなかった。
 しかし、被控訴人内閣は、本件細菌戦の事実について何ら明らかにせず、また事実調査や救済のための方策もとらなかった。

  (4) 本件裁判の開始以後も中国内の各地で被害調査が行われて次々と新 たな被害事実が確認されている。
 しかし、控訴人らをはじめとする細菌戦被害者らは、本件裁判を通して被控訴人内閣の姿を目の当たりにすることとなった。裁判が回を重ねるごとに、被控訴人内閣の、細菌戦の事実も認めない、謝罪も賠償もしないという不誠実きわまりない対応に、こらえきれない怒りが充満し爆発寸前である(甲508聶莉莉教授「鑑定書」の61頁)。
 このように被控訴人内閣が、控訴人らに対し、作為義務を履行しないことによって戦後の新たな加害行為を引き起こし控訴人らの精神的苦痛を倍加せしめているのである。
 
 2 住民の被害の拡大継続
(1) 本件細菌戦による被害の特徴は、爆弾等による被害と異なり、控訴人 ら被害者、住民の生命、身体に対する危険が、時間の経過と共に継続・拡大することにある。疫病感染の恐怖は、被害が発生した地域だけでなく周辺地域をもパニック状態に陥れる。また一度疫病が発生したのちは、いったん流行が収まってもいつ再発するかわからないという危険と恐怖の中で生活することを強いられた。それゆえ、疫病が発生し流行したときに体験した恐怖は、過去のものとして忘れ去ることは困難であり、絶えず現在の恐怖として再生されるのである(甲508聶莉莉教授「鑑定書」の45頁)。

(2) 実際、本件細菌戦の結果、衢州市の各県のほぼすべての町村で194 8年末まで、ペスト、コレラなどの疫病の流行が続いた。衢州各県防疫委員会の統計によると、1940年から1948年の8年間で、衢州市全域でペスト、コレラ、腸チフスとパラチフス、赤痢、炭疽等の伝染病にかかった人は30万人以上に達した。
 このように、日本軍の細菌戦による疫病再発生の危険が継続的に存在していることによって、衢州市当局及び住民は、今もなお防疫活動を強いられている。衢州市では1940年以来毎年、民衆を動員して鼠、ノミ、蠅、ゴキブリの駆除を行っている。また、生活環境と飲用水の消毒、糞尿の管理、ペストワクチン、コレラワクチンなどの予防注射、疫病患者の隔離治療、患者の家族の収容検査などの防疫治療の措置が、現在まで継続して行われている。これらの費用は莫大であり、本来被控訴人国が補償すべきものである(甲507江田憲治教授「鑑定書」18頁)。

(3) 常徳市においても、1950年から2000年までネズミ調査などが毎年行っている。
 ペストによる被害は、常徳地域に大きな禍根を残し、1990年と1991年の抗体調査によって現地のネズミからペストの「F1抗体」が発見されている。すなわち、1990年、湖南省と常徳市は衛生防疫要員を組織して湖南省ネズミ間ペスト監視研究グループを結成し、過去の3つの汚染地域(武陵区鶏鵝巷・常青街1帯、鼎城区石公橋鎮、桃源県城関鎮)に固定観測点を設置し、その半径5キロ範囲に籠をしかけてネズミを生け捕りにし、種類を調べ密度を計算した。5、6、9、10、11月の5カ月に1回ずつ、各地点でネズミを200匹捕らえて、その血清を集め、放射性免疫法によりペストの「F1抗体」を観測した。
 2003年までに捕獲した小型哺乳動物は28,008匹に昇っている。これはとりもなおさずネズミ間でペストが発生したことを意味するものであり、日本軍の細菌攻撃後50年の年月を経てもなお現地にペストが存在し、ひとたびネズミ間で流行が生じれば、人間の生命をも脅かす危険をはらんでいるのである。
 1950年代以降、常徳ではペストは発生しておらず、その犠牲者が生じることはなかったが、これは偶然と宿主になるネズミ類撲滅が有効に行われたために他ならなかった。
 1990年末から91年1月、吉林省地方病第1防治研究所ペスト防治研究室は放射免疫沈殿試験法により、常徳市武陵区張家台村のドブネズミ2匹と桃源県城関鎮のドブネズミ1匹からペストF1抗体を発見した。これによって両地区が依然としてペスト汚染地域であり、ネズミ間にペストの存在する可能性が確認されたのである。63年を経過した今日でも危険が残っている(甲507江田憲治教授「鑑定書」8頁、甲536の2陳教授「鑑定書」32頁、同付属文書二「湖南省1984年−2000年鼠間ペスト監視測定報告」)。

(3) したがって、前記1の(2)で触れたことと重複する面もあるが、改めて被害の継続拡大の重大性を指摘するならば、本件細菌戦被害に対する被控訴人国の救済義務は、第一義的には、被害の継続と拡大の防止、被害地及び周辺地域住民の生命、身体の安全の確保、恐怖と不安の除去として生ずるものである。
 さらに第二義的には、被控訴人国が細菌戦被害者の被害について謝罪・損害賠償すべき義務を放置し、その結果、控訴人らの細菌戦によって傷つけられた人格の尊厳を、本来救済によって速やかに回復するべきであるにもかかわらず、逆に根底から傷つけて控訴人らに「倍加された苦痛」を強制しているのであるから、この「倍加された苦痛」を除去すべき義務がある。

 3 住民自身による被害除去の不可能性
(1) 疫病の発生という事態に対して、一般住民はなすすべがなく、通常の 手段によっては危険除去が不可能であることは明白である。
 危険の除去は、控訴人らにとっては当面中国の現地政府等行政機関による防疫活動が唯一の手段であるが、その際、細菌戦を実行した当事者からのどのような細菌をどこで使ったのか等の情報提供が決定的に重要な要素であった。
 本件細菌戦被害に対する救済措置の一環として、事実調査、事実の解明は極めて大きな意義をもっているのである。
 被控訴人内閣は、本来自ら防疫活動に積極的に協力しなければならなかった。少なくとも事実調査をして、細菌を撒布した時期、場所、撒布した細菌の種類等の情報を現地に伝える必要があった。

(2) ところが、被控訴人内閣は、事実調査をし情報を提供すべき立場に ありながら、逆に事実を隠蔽した。この不作為は、現地の防疫活動を困難に陥れ、、戦後も長期にわたって、控訴人ら被害地及びその周辺地域の人々の生命、身体を危険にさらし、不安と恐怖を強いたのである。
 事実を解明し、現地住民に疫病の原因を伝達することは、被害者らの蒙った被害を回復していくうえで極めて重要な要素であった。
 本件控訴人ら被害者の救済は、加害者たる被控訴人内閣の事実認定と謝罪が前提であり、その不作為によってもたらされる損害の除去は、被控訴人内閣のみがなしえるものであることは明白である。
江田憲治京都大学教授の鑑定書(甲507)その他の証拠によれば、湖南省常徳、浙江省における細菌戦によるペスト被害について、現在も細菌戦によるペスト菌によって、ペストが流行する恐れが存在することが明らかになっている。

(3) 控訴人らは、裁判という形を通してあるいは政府関係省庁への申し入 れ行動などを通して、被控訴人内閣に対し、本件細菌戦の被害について訴え、事実調査を要求して被控訴人内閣の作為義務の履行を促すなど、控訴人ら自身による最大限の努力を積み重ねてきたのである。
 しかしながら、被控訴人内閣は、何ら誠意ある対応をなさず、法廷においても事実認否すらしなかった。
 控訴人らの精神的苦痛がこれ以上倍加されないようにするためには、唯一被控訴人内閣の作為義務が尽くされることより他にないのである。

 4 行政による被害拡大の予見可能性

(1) 先行行為の重大な法益侵害と被害拡大の予見可能性  控訴人らの精神的苦痛の倍加として発生している重大な損害は、くり 返し述べているように、被控訴人内閣が事実調査と救済という作為義務をつくさなかったことによって発生したものである。
 控訴人らの精神的苦痛が慰藉されるために、被控訴人内閣は、最低限事実を調査し、現地住民に真実を伝える義務があった。
 本件細菌戦は、陸軍中央の指揮・統制の下で秘密作戦として遂行されたものである。もとよりその目的そのものが、地域住民を無差別大量に殺傷し、人々を長期にわたって恐怖に落としめることを狙ったものであり、本件被害地をはじめ細菌戦を実施した地域に継続した危険が存在している状況は、容易に予見できることであった。被控訴人内閣は、細菌戦を実行した帝国日本の内閣を引き継ぐものとして、日本軍の細菌戦の実行を知りうる立場にあり、また、事実調査を含めた救済措置をとらないことにより、本件細菌戦被害地を含むすべての細菌戦実行地域及び周辺地域の多数の住民が、上記の重大な法益侵害を受けることを予見しうる立場にあったものとして、当然その作為義務を尽くすべきであった。

(2) ハバロフスク裁判と被害拡大の予見可能性  被控訴人内閣に対する救済義務発生の要件は、いずれも極めて高く、 被控訴人内閣がポツダム宣言を受諾し、降伏文書に署名した1945年9月2日には、被控訴人内閣の救済義務が発生していた。
 降伏文書によって、被控訴人国は連合軍の占領下におかれるのであるが、それは間接統治という形で被控訴人内閣は継続して存在したのであり、占領軍の許可なしに政策を実行しうる余地がなかったとしても、被控訴人内閣に本件細菌戦被害者に対する救済義務が免除されるわけではない。むしろ、事実調査と救済措置は連合軍の占領政策とも合致するものであり、占領下における被控訴人内閣の救済義務は当然発生しうる。
 ところで、1949年12月、ソヴィエト連邦は独自に、ハバロフスクで細菌兵器の準備と使用に関わった日本軍捕虜12名を裁判にかけ(甲140)、731部隊の本部・支部の責任ある立場のものとして、川島清、柄沢十三夫、西俊英、尾上正男が裁かれた。証人尋問では12名が証言し、古都良雄が中国における細菌撒布や人体実験について、堀田が安達における野外人体実験について証言した(甲20。甲141)。
 すなわち、このハバロフスク裁判によって、被控訴人内閣は、本件細菌戦の被害の重大さと被害が拡大していることを十分に予見しえたし、予見していたといえる。
 ところが、被控訴人国は、1950年3月日本の国会でハバロフスク裁判で明らかになった細菌戦についての質疑の答弁で、「日本人の戦争犯罪人に対する裁判は、ポツダム宣言の受諾により連合国によって行われるから、政府は戦争犯罪人の問題に関与すべきではない。政府は調査する権能も持たず、また調査する必要もない。」(殖田俊吉法務総裁)と述べた。実際には、このような答弁の裏で、被控訴人内閣は米軍との間で免責取引を行い、隠蔽工作を行っていたのである。

  (3) 1980年代以降の真実暴露と被害拡大の予見可能性  被控訴人内閣は、国際法に基づく賠償義務を果たさず、戦後一貫して、本件細菌戦に関する調査、救済義務を怠ってきた。
 1980年代に入って、731部隊の存在に関する研究が急速に進み、 多くの学術書・関連図書が出版された。
 まず1980年に入ると、ジョン・パウエルによって、アメリカの公文書記録から、戦後の占領期におけるGHQの資料が発見・公表され(甲52)、731部隊の戦争犯罪と、戦後の隠蔽工作が明るみに出された(甲29の12頁。甲48の1、2)。
 1981年には、森村誠一の「悪魔の飽食」(甲30ないし甲32)がベストセラーになり、731部隊の衝撃的な事実が、広く世に知られるようになった。
 中国においては、1989年に、中国側が保有していた資料をまとめた『細菌戦与毒気戦』が刊行された。ここでは、撫順戦犯管理所の日本人戦犯の供述書や、細菌攻撃の被害にあった当時の住民の証言などによって、日本軍の細菌撒布と中国各地におけるペスト等の流行の因果関係が実証的に明らかにされている(甲105の1、33頁)。
 90年代に入って、ソ連崩壊に伴う情報公開で、ロシアの国立公文書館(旧共産党資料館)と特別公文書館(旧KGB資料館)から、ハバロフスク裁判の起訴準備書面、及び旧日本軍牡丹江憲兵隊の報告書が発見された。この報告書から731部隊による人体実験の犠牲者の氏名が判明した。犠牲者の遺族たちは1995年8月に、日本政府を相手に賠償を求める裁判を起こした。
日本では、1989年7月、東京都新宿区戸山の旧日本軍軍医学校跡地から100体以上の人骨が発見されたことから、人骨と731部隊との関係が疑われ、新宿区民が「人骨問題を究明する会」を結成して人骨保存の監査請求を区に提出した。
 1993年7月からは、731部隊展示会が企画され、日本全国で巡回・開催された。入場者は1995年3月までで23万人に達した。その中には元隊員の人たちも大勢いた。そのほとんどは少年隊員など下級の隊員だったが、多くの人たちが、部隊展を見て過去の事実を語り始め、真相の解明が大きく進んだ。1996年には元部隊員の証言集『細菌戦部隊』(晩聲社)が刊行されるなど加害当事者からの真実暴露によって731部隊の事実はさらに深く広汎に知られることとなった。
 したがって、被控訴人内閣は、1980年代以降は、本件細菌戦の被害の重大さと被害が拡大していることを十分に予見しえたし、また予見していたといえる。

  (4) 軍隊慰安婦、遺棄毒ガス兵器の調査開始と被害拡大の予見可能性
 被控訴人内閣は、1990年代に入ると、軍隊慰安婦、遺棄毒ガス兵器等の戦争犯罪に対する調査を開始した。
 軍隊慰安婦問題については、政府は当初、「民間業者が行っていたもので、軍の関与を示すような資料はない」と言っていた(90年6月政府答弁)。
 1991年8月、韓国で元慰安婦が名乗りをあげ、同年12月には韓国の元軍隊慰安婦3名が、初めて日本政府に謝罪と賠償を求めて東京地裁に提訴した。こうした事態を受け、提訴の2日後に日本政府は、軍・政府の関与に関する調査を開始した。
 一方、1992年1月、吉見義明は独自の調査で発見した資料を公表した。その数日後に加藤官房長官は「軍の関与は否定できない」と述べるに至り、同月訪韓した宮沢首相が日韓首脳会談において「お詫びと反省の気持ち」を表明したのである。
 1992年7月6日、政府の第1次調査結果が発表され、127件の資料が公表された。さらに1993年8月4日、第2次調査結果が発表され、河野官房長官談話が発表された。
 同日付官房長官談話では、「今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設置されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」と述べられている。すなわち、これまでの政府見解を完全に覆し、軍の関与を認めたのである。
 また、毒ガス兵器問題についても、政府は対応を一変させている。毒ガス兵器も細菌兵器と同様に極東国際軍事裁判では裁かれず、戦後長い間不問に付されていた。
 しかしながら1980年代の終わりになって、中国が、旧日本軍が中国大陸に遺棄してきた毒ガス兵器の処理を日本政府に要請し、1990年から2国間交渉が行われた。だが、日本側は曖昧な態度に終始し、不誠実な調査しか行っていなかった。
 1992年2月のジュネーブ軍縮会議での化学兵器禁止条約の交渉中、中国がこの問題を提示し、遺棄化学兵器の処理義務を条約に盛り込むよう提案した。これを受けて1993年に化学兵器禁止条約が締結され(1995年に批准)、1997年に発効、その中で遺棄毒ガス兵器の処理義務が明記されたことから、日本政府は中国大陸に遺棄した大量の毒ガス兵器の処理を行わなければならないことになり、中国現地における本格的調査を開始した。
 上記のように、被控訴人国の戦争犯罪に関する事実調査、各種の原状回復、被害補償等が開始されつつあることは、本件細菌戦についても、その事実が特にきわだって残虐であること、被害の規模が大きく、侵害態様が深刻であることから、当然に被控訴人内閣は、被控訴人国の調査・救済義務の不履行によって、控訴人ら被害者の被害が拡大し、「倍加された精神的苦痛」が生じていることを、十分に予見しえたし、予見していた。

  (5) 井本日誌の発見・公表による被害拡大の予見可能性
 1993年、吉見義明中央大学教授らによって、防衛庁の防衛研究所図書館において、戦争当時、参謀本部作戦課員として細菌戦実施にかかる連絡調整に関与し、その作戦の経緯を詳しく記した井本熊男大佐の業務日誌等4つの業務日誌が発見された。
 その内容は、1993年12月に『季刊・戦争責任研究』2号(甲1)に「日本軍の細菌戦」と題する論文として発表され、さらに、1995年12月には、岩波ブックレットから『731部隊と天皇・陸軍中央』(甲2)として出版された。
 本件細菌戦に関する井本日誌記載の事実は、この井本日誌等の発見によって、もはや日本軍の行った細菌戦は動かし難い事実として確定し、また被控訴人国が731部隊及び細菌戦に関する資料を保有していることも、否定することのできない事実となった。
 これにより、被控訴人内閣は、本件細菌戦の被害の重大さと被害が拡大していることを十分に予見しえたし、予見していたといえる。

 5 本件における事実調査・救済義務の発生と行政不作為の成立

(1) 本件は、前記1ないし4の要件にいずれも当てはまる。よって、被控訴人内閣には、被控訴人国による細菌戦を先行行為とする事実調査および救済義務が、遅くとも1995年12月の井本日誌の発見・公表の時期には発生していたのであり、この義務の遂行を怠ったことにより、被控訴人内閣には行政不作為が成立したといえる。

(2) さらに、1997年8月、最高裁判所は、1983年の検定処分を争 った家永教科書裁判で、731部隊の活動に関する記述を削除した文部省検定を違法とする判決を下した。
 最高裁判所は、「関東軍の中に細菌戦を行うことを目的とした『731部隊』と称する軍隊が存在し、生体実験をして多数の中国人等を殺害したとの大筋は、既に本件検定当時の学界において否定するものはないほどに定説化していたものというべきであり、これに本件検定時までには終戦から既に38年も経過していることをも併せ考えれば、文部大臣が、731部隊に関する事柄を教科書に記述することは時期尚早として、原稿記述を全面削除する必要がある旨の修正意見を付したことには、その判断の過程に、検定当時の学説状況の認識及び旧検定基準に違反するとの評価に看過し難い過誤があり、裁量権の範囲を逸脱した違法があるというべきである。」と判示した。
 このように、1997年8月の時点においてすでに、最高裁判所は「細菌戦を行うことを目的とした731部隊」の存在を認定していたのであり、最高裁判所は、被控訴人国の内閣及び国会に対し、細菌戦の事実調査、被害者救済を重層的に義務づけたといえる。

(3) このように被控訴人内閣の調査、救済義務の不作為にもかかわらず、 731部隊の細菌戦の事実解明が様々な形で進み、また本件訴訟が提起され、現地での被害調査も行われる中で、1997年12月ないし1999年2月、4回の国会質疑が行われた(甲37ないし甲39、甲129)。
   @ 1997年12月17日の国会質疑
 1997年12月17日、栗原君子議員は、同年8月の家永教科書裁判における最高裁判決を踏まえて、細菌戦被害につき質問した。橋本龍太郎首相(当時)は、これに対し、「いわゆる731部隊、正確には関東軍防疫給水部というものにつきましては、従来からさまざまな報道がなされておることは承知をいたしております。」「過去の戦争における我が国の行為が多くの人々に対し耐えがたい苦しみと悲しみをもたらしたという深い反省の上に立っておわびを申し上げる」と答弁し、未解決の問題の処理に取り組むことを約束した。
 A 1998年4月2日の国会質疑 
栗原君子議員は、井本日誌等の存在を踏まえて、調査、確認、開示の義務につき質問した。村岡兼造官房長官(当時)は、「これまでの政府部内の調査では政府保存の文書中にいわゆる731部隊の活動状況を示す資料は見つかっていない」と答弁する一方、「新たな事実が発見される場合には歴史の事実として厳粛に受けとめていきたい」と答えた。
 B 1998年4月7日の国会質疑
 しかし、栗原君子議員は、井本日誌の細菌戦の記載があることを具体的に質問すると、防衛庁説明員は、「ご指摘の井本日誌につきましては、いわゆる公文書に該当するものではなくて個人の日誌であるということで理解しております。(略)現在プライバシーにかかわるという観点から公開しておりません。いずれにいたしましても、防衛庁の立場からその内容についてコメントする立場にはございません。」と答弁し、ノーコメントを繰り返した。
 村岡官房長官(当時)は、「返答に困った」と誤魔化したが、実際は、もはや「資料がない」などと言い逃れができなくなったのである。被控訴人国は、これまで「資料がないから判断できない」と言ってきた。
 C 1999年2月18日の国会質疑
 田中甲議員は、隠蔽され情報が公開されていないと問いただした。野呂田防衛庁長官は、これに対し、「具体的な活動状況や御指摘の生体実験に関する事実を確認できる資料は確認されていない」と答弁し、事実調査を行う意思がないことを述べた。
 上記のとおり、井本日誌等のように、731部隊が細菌戦を行ったことを示す明白な資料があっても、事実を認定しないことが問題なのであり、その被控訴人国の態度は、事実調査、救済義務に違反したものに他ならない。このように国会で頻繁にとりあげられるようになったこと自体、731部隊に関してもはや「知らない」では済まされないことの証左であり、被控訴人国に重層的に事実調査、救済義務が発生していたことを示すものである。

(4) 被控訴人内閣が日中共同声明から30年を経た今日に至っても、細 菌戦実行の事実すら認めないことは、日中共同声明に違反し、日中共同声明の成立の前提を突き崩す行為であると言わなければならない。
 以上のとおり、本件細菌戦における被控訴人国の調査、救済義務の不作為が成立していることは明らかである。

第4 本件細菌戦の被害発生と被控訴人国の作為義務の成立

1 被控訴人国の主張
 被控訴人国は、「先行行為に基づき作為義務が生じ、不作為の違法行為が認められる場合」について、レールの置き石行為に関する最高裁昭和62年1月22日第一小法廷判決(民集41巻1号17頁。以下、「最高裁昭和62年判決」という)を判断基準として示し、控訴人らの行政不作為義務違反の主張に反論しているが、事案が異なり全く失当である。
 以下、控訴人の反論を詳述する。

2 反論(1)ー細菌戦による疫病発生の危険は継続的危険である
 レールの置き石行為に関する最高裁昭和62年1月22日第一小法廷判決(判例時報1236号66頁)の事案は、中学生のいたずらによって、レール上に置き石がされたために生じた電車の脱線転覆事故について、自らは置き石をしなかった仲間の不法行為責任が問われたものである。
 上記最高裁判決は、当該置き石事案における不作為義務の根拠について、「重大な事故を生ぜしめる蓋然性の高い置石行為がされた場合には、その実行行為者と右行為をするにつき共同の認識ないし共謀がない者であっても、この者が、仲間の関係にある実行行為者と共に事前に右行為の動機となった話合いをしたのみでなく、これに引き続いてされた実行行為の現場において、右行為を現に知り、事故の発生についても予見可能であったといえるときには、右の者は、実行行為と関連する自己の右のような先行行為に基づく義務として、当該置石の存否を点検確認し、これがあるときにはその除去等事故回避のための措置を講ずることが可能である限り、その措置を講じて事故の発生を未然に防止すべき義務を負うものというべきであり、これを尽くさなかったため事故が発生したときは、右事故により生じた損害を賠償すべき責任を負うものというべきである。」と判示している。
 しかし、本件細菌戦の事案は、上記の最高裁置き石事件のように結果(脱線等)が発生すれば危険が現実化し、あとは結果との相当因果関係だけが問題になるケースとは、全く事実関係を異にする。
 すなわち本件細菌戦の事案では、ペスト等への罹患やそれによる死亡の結果がある被害者に発生しても、それで結果発生の危険は消滅するものではなく、その後も半永久的に細菌による疫病発生の具体的な危険が継続する。現に、現在でも、本件細菌戦被害地では、自然界に残った細菌兵器として用いられたペスト菌などの細菌により、疫病発生の危険は続いている。
 このように本件細菌戦の事案は、被控訴人国が援用するレールの置き石行為に関する最高裁判決とは全く事案を異にするものであり、被控訴人国の上記は事実関係の理解を誤ったものであり全く失当である。

3 反論(2)ー被控訴人国は細菌戦被害者に対し「細菌戦の加害事実を調 査し真相を公表する被害救済措置義務」を負っている
 控訴人らが本件細菌戦に関して主張している行政上の作為義務の根拠は、 次のような細菌戦における被害の特質に根ざすものであり、被控訴人国の主張は控訴人らの主張を曲解したものである。
 本件細菌戦は、そもそも疫病の流行を利用し非戦闘員である中国住民に被害を及ぼすことを意図して実行されたものであるが、被害者側が当該疫病が細菌戦によるものであることを知らされない点で、他の通常の戦争行為とは著しく異なる特質を持っている。
 このために細菌戦の被害者は、細菌戦による被害であるという事実すら知らないままでいることが通常である。
 本件控訴人らは、研究者の細菌戦に関する研究や元731部隊の隊員であった者らの真相告白などの証拠によって本件裁判を提訴したのであるが、肝心の加害者の立場にある被控訴人国が細菌戦の事実を今日まで隠蔽してきたため、控訴人らは現在でも国際法違反の細菌戦によって無惨に殺されたという事実すら公式には認められない状態に放置されている。
 本件細菌戦が国際法違反の史上類例のない残虐な非人道的的戦争犯罪行為であるという性質に照らせば、被控訴人国は、「細菌戦の加害事実を調査し真相を公表する被害救済措置義務」を負っているというべきである。
 被控訴人国が上記の行政上の作為義務違反は、控訴人らの人間としての尊厳を新たに侵害するものであり、控訴人らはかかる被控訴人国の行政不作為という二次的不法行為によって苦しみを倍化されるという新たな被害を被っている。
 控訴人らは、このような意味で被控訴人国(内閣)が、行政権を行使して、先行行為による被疑者の真の救済をはかるべき行政上の作為義務を負いながらこの作為義務に違反していることを新たな不法行為として主張しているのである。
 以上に述べたとおり、控訴人らが主張している被控訴人国の「細菌戦の加害事実を調査し真相を公表する被害救済措置義務」違反の主張に照らせば、被控訴人国が引用する最高裁昭和62年1月22日第一小法廷判決の事案は、控訴人らが主張する本件細菌戦の事案とは全く異なるものであり、被控訴人国の主張が失当であることは明らかである。

 4 念のため付加すれば、控訴人らがら主張している被控訴人国(内閣)の行政不作為責任は、細菌戦当時に限定したものではないから、国家無問責論を論じる余地はなく、国家賠償法が適用されることは明かである。
 なお被控訴人国は「控訴人らの先行行為による作為義務を基礎とする国家賠償責任の主張は、国家無答責の時代における権力的行為による不法行為責任を形を変えて主張しているにすぎない」と主張しているが、かかる主張は本細菌戦の事案の特質を理解しない浅薄な言い分である。このような被控訴人国の言葉の中にも、被控訴人国が自らの細菌戦の本質への無理解や理解の浅薄さと根源における不誠実さが露呈されている。

第5 公務員の職務上の義務規定のない本件細菌戦被害救済義務と条理に基づ く作為義務の成立

 1 被控訴人国の主張
 被控訴人国は、「国賠法1条1項は国又は公共団体の代位責任を規定したものであるから、公務員の行為を検討することなく、国自身が先行的に義務を負担することはあり得ない」(被控訴人国準備書面(1)91頁)と主張し、「これは確立した判例の立場であ(最高裁昭和60年11月21日判決・民集39巻7号1512ページ等)」るという。
 上記被控訴人国の主張によれば、公務員個人や加害行為を特定できない場合には、国家賠償請求を認容する前提に欠けることになる。
 しかし、公務運営上の瑕疵に起因して損害が発生していることが明らかであるにもかかわらず、かかる特定ができないことを理由として国家賠償を否定することは妥当でなく、国賠法の立法趣旨、目的に反するものである。

2 公務員の個別具体的な法的義務が特定できない場合の賠償責任
 公務員の個別具体的な法的義務が特定できない場合でも、国の最高行政機関たる内閣の瑕疵が明確な時には、当然国がその責任を負うべきであり、被害者は国賠法によって救済されるべきである。
 この点につき、最判昭57年4月1日(民集36・4・519、判例時報1048号99頁)は、「国又は公共団体の公務員による一連の職務上の行為の過程において他人に被害を生ぜしめた場合において、それが具体的にどの公務員のどのような違法行為によるものであるかを特定することができなくても、右の一連の行為のうちのいずれかに行為者の故意又は過失による違法行為があったのでなければ右の被害が生ずることはなかったであろうと認められ、かつ、それがどの行為であるにせよこれによる被害につき行為者の属する国又は公共団体が法律上賠償の責任を負うべき関係が存在するときは、国又は公共団体は、加害行為不特定の故をもって国家賠償法又は民法上の損害賠償責任を免れることはできない」と判示し、どの公務員のどのような違法行為によるものであるかを特定することができなくても、国又は公共団体は、国家賠償法又は民法上の損害賠償責任を免れることはできないとされる。
  また、同旨の判例は、東京地判昭39・6・19下民15・6・1438、東京地判昭45・1・28下民21・1=2・32、岡山地津山支判昭48・4・24判時757・100、札幌高判昭53・5・24高民31・2・231など多数あり、確立された判例となっているという被控訴人国の主張は全く失当である。
なお、被控訴人国が判例として確立されたとして引用する最高裁昭和60年11月21日判決(民集39巻7号1512頁、判例時報1177号3頁)は、国会議員の立法行為と国家賠償責任に関する判例であって、被控訴人国の「公務員の行為を検討することなく、国自身が先行的に義務を負担することはあり得ない」との主張を裏付ける判例ではない。

3 国賠法1条に基づく責任の法的性格
 被控訴人国は、国賠法1条に基づく責任の法的性格について、「当該作為義務が、公務員が当該国民に対して負う個別具体的な職務上の法的義務と評価できるものでなければならず、行政の内部的作為義務であったり、単なる抽象的一般的なものでは足りない」と主張し、いわゆる「代位責任説」の立場をとる古崎慶長「国家賠償法の理論」(79頁)を参照文献としてあげている。
 ところで、国賠法1条の責任の性格については、学説として代位責任説、自己責任説が対立している。代位責任説の立場では、違法性は「行為者である公務員の職務上の義務違反」となるのに対して、自己責任説では、「公権力がその限界をこえて行使されること」であるとされる。すなわち、公務員は、国又は公共団体の手足として行動したにすぎず、不法行為を行ったのは国又は公共団体自身であり、損害賠償責任も第一次的に国又は公共団体に帰属する。
 国賠法の立法過程の研究においては、ドイツの職務責任制度を参考にしたといわれており、国賠法の立法過程に参加した田中二郎博士も代位責任説をとっていた。
 もっとも、国家賠償法案の司法法制審議会における立法過程で、ドイツの職務責任の場合と同様に「公務員に代わって」という規定の仕方をすることにより、代位責任であることを明示することが検討されたが、結局、それが見送られ学説に委ねられることとされたという経緯があり、起草に携わった委員の間で、代位責任制度を採用することにつきコンセンサスが成立していたというわけでは必ずしもなかった。
 今日の国家賠償請求の多くが組織的決定を争うものである以上、自己責任説の方が実態に適合した理論構成であるということができるし、国家賠償法2条が自己責任説に立脚していることとの整合性も確保できる。
 また代位責任説の欠陥に対する批判に対しては、自己責任説のほか、折衷的な立場に立つ説も唱えられている。
1970年代には、そもそも「代位責任」という言葉自体が疑義の多いものであるから、代位責任説と自己責任説を対立させるという従来の方法が反省されなければならないという考え方が有力になっているのである。
 国賠法の制定に関わり、代位責任説をとっていた田中二郎博士も、こうした議論をふまえて、次のように述べている。
「本条による国の責任の性質については、最近では、国の自己責任だとする説の方が有力である。たしかに、国は公務員を使用して各種の国家活動をし、社会的利益をあげている反面、時には、その活動にあたって特定の者に損害を生ぜしめる危険を内在しているのであるから、このような国家活動に伴う損害については、国が当然責任を負うべきである(自己責任又は危険責任という)ということもできるであろう。国の責任を認めた究極の根拠は、ここにあるといってよい。(中略)国にこういう責任を課している実質的な根拠は、自己責任説のあげているところのほか、国にその責任を負わせることが被害者の救済を図るうえからいって遙かに有効であるという政策的理由にこれを求めることができる。」(田中二郎『新版行政法上巻〔全訂第二版〕』208頁、昭和49年)

4 諸外国、判例の動向
  (1) ところで、国賠法の立法過程においては、ドイツの職務責任制度が参 考にされたと言われているが、近年、ドイツでもこの職務責任制度が、第一次的には、公務員個人に責任が帰属することが国家責任の理論的前提となるため、主観的帰責要件も必要とされることに対し、代位責任制度の限界として強い批判を浴びている。
 国家賠償請求がなされる場合の多くは、個々の公務員の個人的な故意過失により損害が惹起されたというよりは、組織的過失とみるべき場合が少なくない。そのため、理論的には、自己責任説の方が妥当であるとする見方が有力になっている。
 その結果、1981年旧西ドイツ国家賠償法は、代位責任制度に立脚する職務責任制度を廃止して、自己責任としての国家責任制度を創設したのである。
  (2) 代位責任・過失主義を採る判例においても、救済の機会をできるだけ 確保するために、公務の執行に当たっての注意義務を強く認め、それによって過失の範囲を拡げるとか(いわゆる過失の客観化)、事実の推定により、原告の挙証責任を著しく軽減するとかの試みが広く行われている。その典型的な例として、最高裁平成3年4月19日判決は、「予防接種によって後遺障害が発生した場合には、特段の事情が認められない限り、被接種者は禁忌者に該当していたと推定するのが相当である」と説いて接種実施者の過失を認めなかった原判決(札幌高裁昭和61年7月31日判決)を破棄差戻し、差戻後の札幌高裁平成6年12月6日判決は国と市の敗訴を認め、国らは上告を断念した。
 なお、これに先立ち、東京予防接種集団訴訟事件第一審東京地裁昭和59年5月18日判決は、国の賠償責任は否定したが、この場合に憲法29条3項の類推適用を認め、国に対し、「正当な補償」を請求することを認めた。しかし控訴審東京高裁平成4年12月18日判決は、一審の賠償責任否定の見解を誤りとするとともに、厚生大臣が禁忌該当者に予防接種を実施させないための充分な措置をとることを怠った過失を認めて国の不法行為責任を肯定した。これは組織過失の法理によるものであるが、この判決に対しても国は上告しなかった。
 こうして現在では、自己責任説と代位責任説との違いは、結果においてはほとんどなくなっているともいわれているが、これは後者については名存実亡を認めたものといってよいのではなかろうか。
 不作為の違法に当たる場合として、地方公共団体において建築確認を違法に遅延(留保)したことにより建築業者に損害を与えた場合(最高裁昭和60年7月16日判決)などの例がある。また、土地区画整理事業の施行者が、仮換地上の建物の移転または除却を怠った違法な不作為により、土地所有者に損害を与えた場合にも国の責任が認められた(最高裁昭和46年11月30日判決)。
 また、最高裁は、公害健康被害補償法(現在の公害健康被害の補償等に関する法律)に基づく水俣病の認定遅延による損害の賠償請求事件において、精神的被害についても賠償責任が生ずることを認めている(最高裁平成3年4月26日判決)。
  (3) こうした学説の動向、ドイツでの動向、また判例の動向にもあるよう に、国賠法1条の解釈において、被控訴人国が主張するような、代位責任説を硬直的に適用し、公務員の個別具体的な法的義務が特定されない限り、国の違法性判断はなしえないという主張は全く妥当性を欠くものである。

 5 作為義務が認められる要件
  (1) 国家賠償法1条は、違法な公権力の行使による損害の賠償責任を認め ている。公権力の行使は、公務員がその職務を行うについて遵守すべき法規範に違反したときに違法とされるから、不作為が違法な公権力の行使に当たるというためには、公務員に職務上の法的義務として一定の作為義務が認められることが必要である。
 公務員の職務上の義務や権限は、法律やその委任を受けた省令などの法令によって定められているから、この法的義務としての作為義務も、法令によって定められているのが原則である。
 しかし、法令上に具体的な根拠規定がない場合であっても、条理により法的義務としての作為義務を認めなければならないことがある。
  (2) 本件細菌戦は、国の公権力の行使として実行されたものであり、これ によって人の生命や身体に対して危険な状態を作り出したものである。このような先行行為があるにもかかわらず、公務員の職務上の義務を定めた根拠規定がないという理由で、国にはその危険な状態を解消するための作為義務はないと考えることは、正義、公平にかなうものではない。
 したがって、このような場合には、国に対し、一定の要件の下に、危険な状態を解消するための作為義務を認めなければならない。
 条理により法的義務としての作為義務を認めるということは、その作為義務が履行されない場合に、その不作為を違法と評価するのが物事の道理であると考えることである。
  (3) したがって、国の公権力の行使によって危険な状態が作り出されたと> いう先行行為がある場合に、国に法的義務としての作為義務を認めるためには、具体的な事案において、@人の生命や身体などに対する差し迫った重大な危険があり(危険の存在)、A国としてその結果の発生を具体的に予見することができ(予見可能性)、かつ、B作為に出ることにより結果の発生を防止することが可能であること(結果回避可能性)が要件になるものと考えられる。このような場合には、その不作為は違法なものと評価されなければならない。
本件細菌戦による被害が上記@ないしBの要件に該当することは、詳述したとおりである。
 この場合、被控訴人国としては、その作為義務につき具体的な担当機関が定められていないことを理由に、義務を免れることはできない。
 この作為義務は条理を根拠とする義務であるから、そもそも法令上の担当機関の定めは想定できないものである。国としての作為義務が認められる以上は、国のいずれかの機関がその義務を履行すべきことは当然であって、個々的な担当機関の特定は要件にはならない。

6 本件細菌戦被害の救済義務の不作為は、国賠法上の違法にあたる 本件細菌戦の二次被害(精神的苦痛の倍加)は、そもそも被控訴人国自身の不作為によって惹起されたものであって、被控訴人国自身の責任である。
 まして、被控訴人内閣の本件調査救済義務は、日本軍が中国において1940年代に組織的に行った本件細菌戦に起因するものである。その後、日本軍の軍事組織は全面的に解体されて今日に至っているのであるから、実戦使用された細菌兵器について、調査をして、細菌を撒布した時期、場所、撒布した細菌の種類等の情報を現地に伝える義務を負うべき国家組織やその公務員を特定することは不可能といってもよい。
 しかし、このような場合に、公務員や行政機関の特定ができないことを理由として責任を否定することは、著しく正義に反する。
 しかも、国家行政組織法上、被控訴人国が負っている義務を履行すべき機関が存在しないということはあり得ない。現に管理すべき機関を被控訴人国が定めていない場合には、内閣府が管理すべきことになる。
 したがって、被控訴人国の主張は失当である。

第6 結語

 したがって、被控訴人国の行政不作為は、看過することができない違法行為である。ここに控訴人らは、本件訴訟において、被控訴人国内閣の行政不作為に基づく国家賠償請求として、国家賠償法1条1項に基づき、被控訴人国に対し、損害賠償を求める。また国家賠償法4条が準用する民法724条により謝罪を求める。

第4章 隠蔽による不法行為

第1 問題の所在について

1 被控訴人国が本件細菌戦の証拠を隠滅したり細菌戦は行われていないなどの虚偽の供述を行うなどして、国家ぐるみで組織的に細菌戦の事実を隠蔽した行為が、控訴人らの正当な権利ないし利益を侵害し精神的損害を与えており、被控訴人国には控訴人に対する国家賠償法上の賠償責任が成立する。
 この点については、以下、主張する。

2 被控訴人国が本件細菌戦の証拠を隠滅したり細菌戦は行われていないなどの虚偽の供述を行うなどして、国家ぐるみで組織的に細菌戦の事実を隠蔽した行為が存在している点については、原審、控訴審での控訴人本人尋問、各証人尋問、各書証から、明らかである。この点、控訴審では、児嶋俊郎長岡大学助教授の鑑定書(甲506)で、被控訴人国が、七三一部隊の調査を懈怠し、旧七三一部隊関係者の復権がもたらす危険を放置してきたことなどが明らかになったことを指摘しておく。

3 原判決は、「被告の細菌戦隠蔽による損害賠償請求」について、 裁判所独自の判断で、その時期、及び内容を分けたうえで、被控訴人国の隠蔽行為を、@国家賠償法施行以前の行為についてとA国家賠償法施行以後の行為についてに分け、それぞれについて、被控訴人の隠蔽行為そのものにはまったく触れることなく、控訴人らの損害賠償請求を退けている。
 すなわち、
 第1に、国家賠償法施行以前について「国家無答責の法理」を適用し、控訴人らの損害賠償請求を否定した。
 第2に、国家賠償法施行以後の被控訴人の行為について、「国家賠償法上の違法が認められるためには、法律上保護された利益が侵害されたことが必要である」(原判決44頁)としたうえで、損害賠償・補償請求権については、「原告らは被控訴人に対しそれらの法的権利を有しないから、原告らのいう隠蔽行為が原告らの権利を侵害したという関係にはないといわざるを得ない」(原判決44頁)と判示する。ハーグ条約3条は個人に損害賠償請求権を与えたものでないという裁判所の解釈を根拠にして、隠蔽による損害に対する賠償請求権をも否定するのである。
 また「その他のもの、すなわち、原告らの被害に関する社会的・政治的な要求や責任者の処罰要求等が侵害されたとする点」(原判決44頁)についても、「仮に原告らのいう隠蔽行為によって原告らがこれらの諸要求をすることに何らかの支障が生じたとしても、これが法律上保護された利益の侵害に当たるということはできない」(原判決44頁)と、控訴人らの損害賠償請求を否定した。

4 これらの原判決の判示は、誤りに満ちている。原判決の誤りについて、 以下、明らかにする。

第2 国家無答責論の破綻

1 原判決は、国家賠償法施行前の被控訴人の行為について、「国家無答 責の法理」によって被控訴人は損害賠償責任を負わない旨判示するが、本件の損害に対して「国家無答責の法理」は適用されることはない。

 2 この点は、既に第1部第6章において明らかにしたが、ここでは、多く の裁判例も、「国家無答責の法理」の適用を認めない正しい判断がなされるようになっていることを、指摘しておく。

第3 控訴人らは、被控訴人に対する損害賠償・補償請求権を有する。

1 原判決は、控訴人らの損害賠償・補償請求権について、そもそも「原告 らはそれらの法的権利を有しない」ことをもって、権利侵害が成立しないと判示している。

2 しかし、控訴人らが、被控訴人に対する損害賠償・補償請求権を有す ることは、既に、第1部の第2章ないし第8章において明らかにしてきたとおりであり、原判決のこの判示は誤っている。したがって、この損害賠償・補償請求権に対する侵害があることは明らかである。

第4 本件隠蔽による権利行使妨害の重大性
   
 1 精神的苦痛の倍加
 控訴人らは、本件隠蔽行為によって、第一次的な加害行為である本件細菌戦によって受けた精神的な苦痛を長期間に渡り強いられただけでなく、さらに本件隠蔽によって被控訴人に対する様々な権利行使を著しく妨害ないし不可能にされたことによる新たな苦痛を強いられたものである。
   この点、原判決は、控訴人らの損害賠償請求権等について、そもそも「原告らはそれらの法的権利を有しない」ことをもって、権利侵害が成立しないと判示した。すなわち、原判決は、被控訴人らに生じた精神的苦痛は、いまだ法的保護に値するものではなく、受忍限度範囲内の精神的苦痛であると判断したのである。原判決は、本件細菌戦につき、細菌戦の事実を認め、ハーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていたと認定したにもかかわらず、この事実を隠蔽することで生ずる損害については受忍限度内の損害であるとするのである。
   しかしながら、細菌戦の事実を認めながら、一方で隠蔽による損害を認めないことは、すなわち細菌戦被害者に泣き寝入りを強いていることと同義であり、真の意味で細菌戦の甚大な被害を認めたことにはならない。このような原判決の判断は、細菌戦被害者らをさらに傷つけることになった。

 2 隠蔽による国家間関係を通した補償請求権の妨害
 すでに原判決が認定しているとおり、被控訴人が行った細菌戦に関しては、ハーグ条約第3条を内容とする損害賠償責任を履行すべき被控訴人の国家としての義務が成立したことは疑いない。
 この場合に被控訴人が負う国家責任の相手が被害者個人か、又は被害国かは見解が分かれる。しかし、いずれにしても被控訴人がかかる国家責任を負ったことは明らかである。
 原判決は、「もとより、戦争の惨害は最終的には個人に帰するものであるから、同条約及び同規則の究極の趣旨・目的は、陸戦の過程における非戦闘員を含めた個人の保護にあると解することができる」と認め、「個人が他国の国際違法行為によって損害を受けた場合には、当該個人は加害国の国際責任を追及するための国際請求を提出し得る主体としては認められず、その個人の属する本国が、当該個人の事件を取り上げ外交保護権を行使することによって、自らに対する法的な侵害として引き受け、国家間関係に切り替えて相手国(加害国)に国家責任を追及するものと解されている」という見解を示している。
 この原審の判断に従えば、違法な戦争犯罪の被害者は、自国政府を通して損害の補償を受ける権利、少なくとも、自国政府に損害を訴える権利を有している。
 本件控訴人らは、1972年の日中共同声明及び1978年の日中平和友好条約の際にその機会があった。
 「個人の属する本国が、当該個人の事件を取り上げ」「自らに対する法的な侵害として引き受け」るためには、まず被害者が自らの被った被害の原因を知り、自国政府に訴えることができなければならない。
 ところが、被控訴人の隠蔽行為により、控訴人らは自らの被害が本件細菌戦により被った事実を知ることができず、日中共同声明及び日中平和友好条約の交渉過程で、自国の中国政府に被害を訴える権利を侵害された。

 3 隠蔽による損害賠償請求の提訴の権利行使の妨害
ハーグ条約3条は、違法な戦争行為によって被害を受けた個人に損害賠償請求権を付与していると解されるから、控訴人らは、直接に加害国に対して損害賠償請求権を行使することができたのであるが、被控訴人の隠蔽行為により権利行使を妨害された。
 とくに1980年代から1990年代にかけて、被控訴人の隠蔽行為は、資料を保有しているにもかかわらず非公開にして隠蔽したり、事実を突きつけられてもしらを切る等、非常に悪質で一国の政府として恥ずべき態度を示している。
 1990年代に入り、冷戦の終焉によって、戦争被害、戦争犯罪に対する補償問題が世界的に論議され、日本においても、1991年12月に韓国の元軍隊慰安婦が東京地裁に提訴するなど、被控訴人の戦争犯罪に対する損害賠償を求める動きが新たな展開を見せた。被控訴人が細菌戦の事実を認めれば、当然にも、多くの被害者が損害賠償を求めることは必至であった。被控訴人はこのような事態を恐れ、未然に防止するためより悪質な隠蔽行為を継続したのである。
 上記の1980年代から1990年代にかけての個々の隠蔽行為は、そのひとつひとつが控訴人ら細菌戦被害者の権利行使を妨害する意図をもった行為である。
 ところで、遅くても1978年の日中平和友好条約締結後は、日中間の国交が完全に回復され、被控訴人の隠蔽行為がなければ、控訴人らは、被控訴人を相手に謝罪と損害賠償を請求する裁判を提起することが可能となるはずであった。
 被控訴人は、日中共同声明及び日中平和友好条約以後、先に見た国会答弁や、戦史資料の非公開措置など悪質な隠蔽行為を強めたのである。その結果、控訴人ら細菌戦被害者は提訴する権利を著しく妨害され、本件提訴の1997年にいたるまで、裁判を受ける権利を侵害され続けてきた。
 控訴人ら細菌戦の被害者が個人として加害国を相手に損害賠償を求める権利があるか否かにかかわらず、控訴人らが被控訴人を相手に提訴し、その判断を裁判所に求める権利までを否定することはできない。被控訴人の隠蔽行為は、その最も基本的な権利を侵害し続けたのである。
 また、控訴人らは、事実上細菌戦の責任追及の機会、特に細菌戦の加害行為の中心人物だった日本人らの刑事責任追及の機会を奪われた。控訴人らは、元731部隊幹部では石井四郎や北野政次らの部隊長や部長クラスの刑事責任が問われることを望んでいた。また陸軍省や陸軍参謀本部の細菌戦に関わった将校の刑事責任が問われることを強く望んでいた。
 しかし、細菌戦については、被控訴人の隠蔽行為によって、いわゆる東京裁判では全く裁かれなかった。これは南京大虐殺が同裁判で裁かれたことと対比して著しく不公平と言える。

第5 被控訴人による隠蔽という作為は、控訴人らに重大な精神的損害を与 えているものであり、それらの隠蔽行為は、控訴人らに対する新たな加害行為をなす。

1 被控訴人による隠蔽という作為は、以下に検討するように、控訴人ら に重大な精神的損害を与えているものであり、それらの個々の隠蔽行為は、控訴人らに対する新たな加害行為をなすものであり、原判決には、控訴人らが蒙った権利侵害の内容についての重大な誤りがある。

2 この点、すでに前記第4で述べたが、原判決は、(「ハーグ条約に基づ く賠償・補償請求権等の法的権利はない」と判断した上で、)「その他のもの、すなわち、原告らの被害に関する社会的・政治的な要求や責任者の処罰要求等が侵害されたとする点」(原判決44頁)についても、「仮に原告らのいう隠蔽行為によって原告らがこれらの諸要求をすることに何らかの支障が生じたとしても、これが法律上保護された利益の侵害に当たるということはできない」(原判決44頁)と、控訴人らの損害賠償請求を否定している。
 しかしながら、原判決は、細菌戦による被害の特質を全く理解していない。「その他のもの、すなわち、原告らの被害に関する社会的・政治的な要求や責任者の処罰要求等が侵害されたとする点」(原判決44頁)に関しても、細菌戦の被害は、その被害の甚大さ、広範さ、残虐性、非人道性、国際法に対する明白な違反性、また、聶莉莉教授の鑑定書(甲508)でも明らかなように、当時の中国の文化的風土との関係などから、控訴人らにさらに重大な精神的苦痛を与えていることなど、その特質を考えれば、被控訴人において、自ら積極的に細菌戦の真相を明らかにし、被害に対する賠償がなされ、現在に続く再流行の危険を除去され、責任者が処罰されるなどは、法律上当然なされなくてはならないのであり、控訴人らはこれらの措置を求める法的な利益を有している。
 にもかかわらず、被控訴人が逆に細菌戦を隠蔽することは、言語道断であり、信義に悖り、その行為は、控訴人らのこの法的な利益を違法に侵害するものであることは、明らかである。

3 また、以下に検討するように、細菌戦による被害は、現在においてもそ の被害が継続し、日々新たに精神的その他の損害が発生していることを、そして被控訴人が、そのことを認識し、少なくとも認識可能であるにもかかわらず、敢えて細菌戦の事実を隠蔽することによって、控訴人らの精神的損害を、さらに、現在も日々発生させ、かつ、倍加させていることを直視しなくてはならない。

4 聶莉莉東京女子大学教授の鑑定書(甲508の15頁〜16頁)によれ ば、細菌戦によりペストに罹患し、死の渦に巻き込まれた経験を持つ「幸存者」は、数十年を経た今日でも、生と死の縁を彷徨った過去の悪夢に悩まされていることが明らかになっている。このように生死の縁を彷徨った強烈な記憶は、現在も控訴人らに大きな精神的な損害を与えている。
また、聶莉莉教授の鑑定書(甲508の45頁以下)によれば、その記憶は、外傷性記憶の特徴を示している。例えば、静止的映像で異様に鮮明であり、不変性、反復出現性を有しており、何年、何十年他っても昨日の如く再現される。さらに、想起は、非自発的、受動的、しばしば侵入的で、類似の感覚刺激によって誘発される。
 さらに、しばしば強い情動(多くは、嫌悪、驚愕、羞恥心)と結合し、過去の辛い経験に触れるたびに、思わず身体が震えたり、涙が止まらなくなったりし、また、数日間食欲もなくなり、眠れない日が続くなどの精神的損害を受けている。

 5 また、聶莉莉教授の鑑定書(甲508の11頁以下)によれば、細菌戦 の結果としてのペストによる死は、被害者らにとって、原因不明の死であった故に、様々な猜疑が生れた。それは、例えば、「人瘟」(ペストなど疫病による多数の死者の発生をさす)の流行が三つの理由から引き起こされたしとし、その三つに関して、被害者の一族に対して「三怨」として深い怨みを持たれた。即ち、被害者には何の落ち度もないのに、中国の風水などの思想から、細菌戦の被害者が、周りの人々から、災厄の原因とみなされ、怨まれることにより、名誉を侵害され、深い精神的損害を受けた。この名誉侵害は、被控訴人により事実が明らかにされない現在も継続しており、日々、精神的損害が発生している。

6 また、江田憲治京都大学教授の鑑定書(甲507)その他の証拠によれ ば、湖南省常徳、浙江省における細菌戦によるペスト被害について、現在も細菌戦によるペスト菌によって、ペストが流行する恐れが存在することが明らかになっている。
 このことは、即ち、控訴人らが、現在も、ペストによる生命・身体に対する恐怖の中で、日々暮らしていかざるを得ないことを意味する。控訴人らには、このようなペストによる生命・身体に対する恐怖による精神的損害が、現在も、日々発生しているのである。

7 これらの精神的損害の発生は、第一に、細菌戦行為によって発生してい る。ここで注意すべきは、この精神的損害は、細菌戦の被害の甚大さ、広範さ、残虐性、非人道性、国際法に対する明白な違反性など、その特質と、損害の継続的発生を放置し、更には、積極的に隠蔽をしていることを考えれば、細菌戦実施から現在に至る隠蔽行為は、現在まで継続した一連の不法行為と、評価できることである。
 したがって、現在の不法行為でもあるのだから、国家無答責論や除斥期間論などは、その是非自体が問題であるにしても、そもそも全く適用の余地がないといえるのである。
 第二に、被控訴人は、現在におけるこのような精神的損害の発生を認識しており、少なくとも認識しうるのにもかかわらず、細菌戦の事実を隠蔽している。これらの精神的損害の新たな発生をくい止め、かつ、既に発生した精神的損害を取り除くためには、被控訴人が自ら積極的に細菌戦の真相を明らかにし、被害に対する賠償を行い、現在に続く再流行の危険を除去し、責任者を処罰するなどを行うことが、必須であることは明らかであるにもかかわらず、被控訴人が、このような行為を行わず、逆に細菌戦の事実を隠蔽するということは、現在日々精神的損害が発生している状況を積極的に利用して、控訴人らに精神的損害を与えようとしていると認識せざるを得ない。このような不法行為によって、被控訴人は、控訴人の精神的損害を、さらに、現在も日々発生させ、かつ、倍加させているのである。

8 このように、細菌戦による被害は、現在においてもその被害が継続し、 日々新たに精神的損害が発生していること、そして、被控訴人国による、細菌戦の事実隠蔽によって、控訴人らの精神的損害が、現在も日々発生し、倍加されていることを、被控訴人国は直視しなくてはならない。
これらの精神的損害は、具体的損害であり、生命・身体・名誉に対する損害として典型的に精神的な損害を発生させているケースである(「身体や名誉などの侵害には、精神的損害が伴うのが普通である。」我妻栄・有泉亨著、水本浩補訂、『新版民法2』66ページ、一粒社)。この具体的かつ典型的な精神的損害を、被控訴人が、隠蔽行為を行うことにより、現在も、日々発生させ、かつ、倍加させているのであるから、被控訴人の隠蔽行為は、第一に、細菌戦実施から現在に至る隠蔽行為であり、現在まで継続した一連の不法行為として、第二に、隠蔽行為それ自体として、国家賠償法上の違法な行為であることは、火を見るより明らかである。

第6 結語

 以上の検討から明らかなように、被控訴人が本件細菌戦の証拠を隠滅したり細菌戦は行われていないなどの虚偽の供述を行うなどして、国家ぐるみで組織的に細菌戦の事実を隠蔽した行為は、第一に、細菌戦実施から現在に至る隠蔽行為が現在まで継続した一連の不法行為として、第二に、隠蔽行為それ自体として、控訴人らの正当な権利ないし利益を侵害し精神的損害を与えており、被控訴人には控訴人に対する国家賠償法上の賠償責任が成立する。
第3部 控訴人らの請求

第1 謝罪請求

 細菌戦による損害は、生命身体等への直接的な侵害にとどまらない。現在に至るまで細菌の恐怖は収まらず、また、国が適切な立法等による被疑者救済を怠ってきたことにより、原告らは現在まで継続して非常な精神的苦痛、人格権への侵害を受けてきたのである。
 また、細菌戦被害者は、様々な社会的評価の低下という名誉侵害を被った。この名誉侵害という被害は、他の抗日戦争による戦死者や負傷者とは異なる特別な不利益である。このような名誉侵害の被害は、被控訴人が戦後速やかに真相を明らかにし、適切な謝罪と賠償等を行えば回復がされたものであるが、被控訴人が細菌戦の事実を隠蔽したことによって、名誉侵害は継続され、むしろ逆に控訴人らの苦痛は倍加した。以上のような控訴人らの被った名誉侵害は、損害賠償のみならず、真摯な謝罪があってこそ、初めて慰謝されるものである。
 したがって、控訴人らは被控訴人に対し、謝罪を請求する(民法723条または国家賠償法4条または中華民国民法195条)。

第2 損害賠償請求

 控訴人らは、戦時中の被控訴人の細菌戦によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各1000万円を下らない。
 また、控訴人らが被控訴人の立法不作為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各500万円を下らない。控訴人らが被控訴人の行政不作為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各500万円を下らない。さらに、控訴人らが被控訴人の隠蔽行為によって被った精神的苦痛を金銭に評価すると、それぞれ各500万円を下らない。
 そこで、控訴人らは、主位的に、第1部のハーグ陸戦条約第3条、国際慣習法、中国法、日本民法に基づく請求をし、予備的に第2部の第2章から第4章記載の各請求をし、第2部の第2章から第4章の各請求は並列的に主張する。
 よって、控訴人らは、控訴人らが被った損害について、第1部のハーグ陸戦条約第3条、国際慣習法、中国法、日本民法による請求に基づき各金1000万円をそれぞれ請求し、また予備的に、第2部の第2章記載の請求に基づく金500万円と第3章記載の請求に基づく金500万円と第4章記載の請求に基づく金500万円との合計の内各金1000万円を、それぞれ請求する(民法709条ないし711条または715条、または国家賠償法1条または中華民国民法184条、185条、188条、194条)。

第3 結語

 正義の判決や良き慣習は積み重ねるべきであり、人権と平和を基調とする憲法下にある裁判所はその積み重ねに協力するのが使命である。積み重ねによって慣習法が成立する以上、積み重ねを崩す側に廻るべきではない。
 裁判所が徒らに旧来の法解釈に固執したり法の欠けていることを理由にしたりして正義の判決を拒むとすれば、それはまさに「司法不作為」である。行政、立法、司法の三権が、恰も拳るように不作為を続け、権力間の庇い合いによって正義から目を背けるような現状を、決して国際社会はいつまでも許しはしない。
                                以 上