鑑定意見書
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附属文書一:
常徳と石公橋の17名細菌戦原告に対する被害調査
中国・湖南文理学院歴史学部教授 陳 致 遠
目 次
1940年代の常徳市街地地図
1、 常徳城区細菌戦原告馬培成被害調査
2、 常徳城区細菌戦原告劉開国被害調査
3、 常徳城区細菌戦原告李明庭被害調査
4、 常徳城区細菌戦原告 張礼忠被害調査
5、 常徳城区細菌戦原告 何英珍被害調査
6、 常徳城区細菌戦原告 蔡正明被害調査
7、 常徳城区細菌戦原告 謝 被害調査
8、 常徳城区細菌戦原告楊志恵被害調査
9、 常徳城区細菌戦原告方運勝被害調査
10、 常徳城区細菌戦原告 高緒官被害調査
11、 常徳城区細菌戦原告 柯高茂被害調査
12、 常徳城区細菌戦原告黄炳輝被害調査
1942年石公橋市街地の地図、石公橋の店舗図
13、 常徳石公橋細菌戦原告黄岳峰被害調査
14、 常徳石公橋細菌戦原告王長生被害調査
15、 常徳石公橋細菌戦原告丁蓮青被害調査
16、 常徳石公橋細菌戦原告王開進被害調査
17、 常徳石公橋細菌戦原告石聖久被害調査
1940年代の常徳市街地地図
図1.1940年代の常徳市街地地図
出所:この図は、容啓栄中国国民政府衛生署防疫処処長が1942年9月に編著した『湖南西部におけるペストに対する予防と治療の経過に関するレポート』の附録にある図十二を参照しながら描かれた。湖南省档案館所蔵74−3−6.
常徳都市部細菌戦原告の馬培成氏被害調査
図2.常徳市街地原告(付録一の1乃至11) の被害当時の住居所在地一覧図
図3.常徳市街地原告(付録一の1乃至11) の被害当時の住居所在地に該当する現在の場所一覧図
常徳城区細菌戦原告馬培成被害調査
日付:2003年11月24日午前
場 所:馬培成氏の現住所
調 査 員:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
羅建忠(常徳市海外連絡・交渉部門日本語通訳)
原告略歴:馬培成氏。1955年2月16日生まれ。男性。学歴は初等教育レベル。常徳市環境衛生管理所の臨時社員。常徳城東賀八巷紅衛居委会環衛東所職員住宅1単元302号室在住。
馬培成氏の被害陳述書
父は生前、私に次のように話してくれた。私の祖父母は1942年4月、常徳ペストで死亡した。その時、私たちは常徳城東の五鋪街に住んでいた。祖父は馬宝林と言い、当時53歳で瓦匠(瓦を作る人)であった。祖母は黄雪梅と言い、主婦で、当時57歳であった。その年、常徳城内では「人瘟」(「人瘟」とは人が次々と死ぬこと。)が発生し、大勢の人が死亡した。4月の初め、祖母はペストに感染し、政府に隔離病院に入院させられ、数日後死亡した。当時隔離病院での患者は死亡すると必ず火葬された。祖父は祖母の遺体を火葬したくはなかったので、4塊銀元(銀元とは当時中国で使われたお金。)を払って密かに遺体を回収し、田舎の八闘湾で祖母を土葬した。祖母が死亡した約1週間後に祖父もペストに感染し、政府に広徳病院に送られ、入院した後急死した。当時父はまだ14歳であった。遺体は病院で処理されたので、父は、祖父の遺体を見ることすらできなかった。
父はまた次のように話してくれた。祖父と祖母が死んだ後、父は孤児になり、親しい人は1人もなく、毎日顔は涙で濡れていた。その後は、生活のために、魚を売る行商人になるしかなかった。父は家で年長なので、お金を貰って、他人に代わって兵役に就く「賣壮丁」にされたり、お金を貰って、他人に代わって刑務所に入る「賣坐牢」にされたりした。父は苦しみに耐え続けた。父にそのような苦しみを与えた根源は日本軍731部隊による非人道的で凶悪かつ罪深い細菌戦である。
記録者:陳 致遠
以上に記録した内容は本人の陳述と一致する 陳述人:馬 培成 ( 指 紋 )
馬培成氏被害陳述の鑑定
馬培成の祖父である馬宝林氏が常徳ペストで死亡したことは歴史的事実である。
1、1942年9月の中国国民政府衛生署防疫処所長である容啓栄が書いた『湘西鼠疫(ペスト)経過報告書』(湘とは湖南省の略称。)を調べて(彼は1942年5月から6月まで常徳で防疫作業を監督・指導していた)、その中に収録した『常徳鼠疫(ペスト)患者経過情況一覧表』では被害者「馬宝林」氏の名前と住所と病状、死亡日付などが記録されている。それらは、以下の通り。
名前:馬宝林
年齢:54歳
職業:労働者
住所:五鋪街
発病日付:1942.4.15
死亡日付:1942.4.17
病状診断:腺型(ペスト)
2、馬培成の祖父は1942年のペストで死亡した。今日もまだ事情を知っている証人がいる。筆者は調査で常徳東門外の1人の老人を見つけた。彼の話によると、彼の名前は劉春元と言い、常徳賀八巷紅衛居委会に住んでいる(居委会とは住民センターのこと。)。彼は1942年当時19歳で、五鋪街の馬宝林氏を知っている人物である。馬宝林氏は背が高く、人々に「馬瓦匠」と呼ばれていた(瓦匠とは瓦を作る人。)。彼らはみな回民族であるので、馬宝林氏がペストで死亡したら、遺体は火葬された。劉春元老人は、馬瓦匠がペストで死亡したことをもう1人の80歳余りの老人・銭証厚氏も知っていて、自分よりもっとはっきりと分かると話した。
鑑定:歴史学の実証方法から分析して、馬培成氏の被害陳述内容は真実である。
陳 致遠 2004年1月13日
馬培成家被害時位置図

出所:この図は、容啓栄中国国民政府衛生署防疫処処長が
1942年9月に編著した『湖南西部におけるペストに対する
予防と治療の経過に関するレポート』の附録にある図十二
を参照しながら描かれた。湖南省档案館所蔵74−3−6.
馬培成の家での聴取調査終了後、馬培成は彼らの家が被害にあったときの場所である常徳城東五鋪街の位置を示した。馬培成の祖父母が被害を受けた際の住居は常徳旧市街地改造工事のため解体されすでに存在しない。
>>被害当時の住居地に該当する現在の場所(PDF)
常徳都市部細菌戦原告の劉開国氏被害調査
日付:2003年11月24日の午前
場 所:劉開国氏現住所
調査員:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
羅建忠(常徳市海外連絡・交渉部門日本語通訳)
原告略歴:劉開国氏。1927年、旧暦10月27日生まれ。男性。常徳市建設委員会元幹部、常徳市城東紅衛街道住民委員会40組斗姆閣巷119号在住。
劉開国氏の被害陳述書
1941年12月、私の祖父である劉棟成(当時63歳)と弟である成美池(母の姓と同じ。当時6歳)は常徳のペストで死亡した。私は当時14歳で、自分の目で祖父と弟が死ぬのを見た。
当時、私たち家族は鶏鵝巷華厳庵30号に住んでいた。祖父と祖母と父と母と私と2人の弟の7人家族であった。家は裕福だった。祖父は徳豊祥と徳豊南という2つの醤園(醤園とは醤油、味噌、味噌漬けなどの製造販売店)の経営者であった。住まいは3千銀貨(銀貨とは当時の中国で使われたお金。)するとても立派な家であった。
しかし、1940年の前後から、日本軍戦闘機が殆ど毎日のように常徳市を爆撃するようになり、大勢の人が死亡した。祖父は、家の安全のために家族を常徳の田舎へ引っ越させた。しかし、祖父1人は何人かの店員と醤園を守るため残った。1941年の末、祖父は市内でペストにかかった。祖父の徳豊祥という醤園が、市内のペスト被害の中心地域「鶏?巷と関?街」にあったためだ。祖父は重い病気になったが、入院しようとはしなかった。当時病院で死んだ人は解剖され、火葬されたからである。そのため、人を雇って田舎の家(常徳北部白鶴山周家崗)に運ばせた。祖父は、高熱で顔が赤くなって、もう話せなかったので、話すときは私たちに手で合図した。その3日後、彼は死亡した。死の直後、口と鼻から血豆が溢れた。体には紫斑ができた。田舎の土医者(土医者とは免許のないその土地の医者。)によると「鬼打青」(鬼打青とは鬼に打たれて、青くなるのである)であった。祖父の死体は徳山湘陰会館(「老虎窩とも言う」)という墓地に埋葬した。
一番小さい弟、成美池を祖父は目に入れても痛くないほどかわいがっていた。普段からよく祖父と親しんでいた。祖父が感染してから家へ帰った。何も分からなかった弟は家族の人がいなかいうちに、祖父と親しく会って、彼も感染した。祖父が葬られた直後、彼は熱があって、喘息して、体が赤くなったり、青くなったりした。2日後、彼は死んだ。かれは、家の後ろの陳小山という山に葬られた。
店の帳簿はそれを付けた祖父にしかわからないものが大変多くあり、ほかの誰にもわからず、祖父の死後、二つの醤園は倒産し、家も破産した。その後、?新という中学校で教師をしていた父親の給料で生活を維持した。日本軍の行った細菌戦は私の家にとっての大きな災いの根源である。
記録者:陳致遠 以上の記録は本人の陳述と一致する
陳述人:劉 開国(指紋)
劉開国家被害時位置図

出所:この図は、容啓栄中国国民政府衛生署防疫処処長が1942年9月に編著した『湖南西部におけるペストに対する
予防と治療の経過に関するレポート』の附録にある図十二を参照しながら描かれた。湖南省档案館所蔵74−3−6.
劉開国の祖父が被害を受けた際の住所。

劉開国の家での口頭取調べが終わってから、劉さんは1941年被害時の場所を案内してくれた。その辺では大規模の改築のため、昔とは全然違うようになったが、劉さんは当時の家と華厳庵及び徳豊祥醤園の位置をまだ覚えている。
陳致遠
2003年11月24日午前
>>被害当時の住居地に該当する現在の場所(PDF)
常徳都市部細菌戦原告の李明庭氏被害調査
日付:2003年11月24日の午前
場所:李明庭氏現住所
調査員:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
羅建忠(常徳市海外連絡・交渉部門日本語通訳)
原告略歴:李明庭氏。1934年、旧暦7月8日生まれ。男性。専科大学卒。常徳市三中元教師。常徳市三中北院3棟1単元501室在住。
李明庭氏被害陳述書
1942年4月、私の祖母である陳満姑は常徳のペストによって56歳で死亡した。当時、私たちは常徳市城東の西圍牆岩巷子に住んでおり、私はそのとき9歳であった。当地の甲長は潘茂棋という人であった。当時、ペストはもう市内で流行っており、私たちの家は丁度疫病の流行している範囲にあった。政府は一軒一軒まわって住民を防疫注射した。家族は祖母と父と母と私と妹の6人で、祖母だけは注射されると聞いて、怖くて注射したがらなかった。そして、祖母は保長が人をつれて私の家へ来る前にこっそり家を出た。結果、我が家では祖母1人だけが予防注射を受けなかった。4月のある日、祖母は急に発熱と寒気をお覚え、脇の下のリンパが腫れて痛みを訴えた。体には紅紫斑が見られた。医者に診察を受けて薬を飲んだが効かなかった。それから3日目の午後、祖母は死んでしまった。しかし、死んでも、死んだことを公表できなかった。隣人に知られて政府に報告されると、死体を解剖して火葬しなければならなかったからである。そこで、その夜、こっそり祖母の遺体を東門河辺斗碼頭という所に運び、小船に乗せて徳山平江会館の墓地(現在の徳山永豊村7組。)へ葬った。
私は、日本の政府に対して、日本の非人道的罪悪的な細菌戦について、中国の人民に謝罪と損害賠償をすることを強く求める。
記録者:陳致遠
以上の記録は本人の陳述と一致する
陳述人:李 明庭(指紋)
李明庭家被害時位置図

出所:この図は、容啓栄中国国民政府衛生署防疫処処長が
1942年9月に編著した『湖南西部におけるペストに対する
予防と治療の経過に関するレポート』の附録にある図十二
を参照しながら描かれた。湖南省档案館所蔵74−3−6.

李明庭氏は私たちを連れて昔被害時の住所まで行った。
陳致遠 2003年11月24日午後
>>被害当時の住居地に該当する現在の場所(PDF)
常徳都市部細菌戦原告の張礼忠氏被害調査
日付:2003年11月24日の午前
場所:張礼忠氏現住所
調査員:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
羅建忠(常徳市海外連絡・交渉部門日本語通訳)
原告略歴:張礼忠氏。1932年、旧暦2月5日生まれ。男性。学歴は初等教育レベル。常徳工事会社元社員。常徳市武陵区西校場横街25号(賈家湖住民委員会2組)在住。
張礼忠氏の被害陳述書
1942年4月の常徳のペストで死亡した人が我が家に3人いる。私の4番目の弟の張国民氏(当時5歳)と5番目の弟の張国成氏(当時3歳)と雇い人である張国華(女性
当時18歳)である。
当時、私たちは常徳市内の常清街に住んでいた。父はそこで「張文化刻字店」という店を経営していた。1942年4月に、雇い人である張国華は4番目の弟と5番目の弟を高山という町へつれて遊びに行った。家に帰ると、3人は急に高熱、首が腫れて痛む、また、喉が渇くなどの症状を訴えた。さらに病状が重くなり、痙攣することもあった。父は医者に往診を依頼した。医者は、もし今流行っているペストにかかっていたら、おそらく治る見込みはないだろうと語った。父は非常に落ち着かなくなって、早速張国華氏を彼女の故郷(「蘇家渡」という)の実家に帰すことにした。彼女を実家に帰した2日後、2人の弟は死んでしまった。彼らの体は青くなってしまっていた。親と家族は彼らの死に、声を出して泣くことができなかった。人に知られて政府に報告されることを心配したからである。政府に知られると、死体は解剖され、火葬されるからである。翌日の早朝、父は防空警報にまぎれて、1つのかごに1人の死体を入れて服で死体を覆い隠し2人の弟の死体を担いで、こっそり町を出て、そそくさと小西門外乱葬岡という所に葬った。雇い人も家へ帰った後急死してしまった。彼女のお父さんは私の家族が娘を殺したのだ、と言った。日本の非人道的罪悪的な細菌戦は私の家に大きな損害を与えた。
私の祖父である張友元氏も1942年の後半、ペストで死亡した。彼は当時田舎の韓公渡竜閹という村に住んでいた。彼は親戚の家に行って、「石公橋」と「鎮徳橋」から遠くない牛?阪村についた。祖父は、田舎に帰ってから発病し、高熱を出し、下痢をして、血豆を吐いた。そして発病後3日もたたずに死んでしまった。死亡した時、死体は黒くなってしまった。日本の細菌戦は私の家の無辜の4人の命を奪った。日本政府は人民を殺害した罪行を必ず清算しなければならない。
記録者:陳致遠
以上の記録は本人の陳述と一致する 陳述人:張 礼忠(指紋)
張礼忠家被害時位置図

出所:この図は、容啓栄中国国民政府衛生署防疫処処長が
1942年9月に編著した『湖南西部におけるペストに対す
る予防と治療の経過に関するレポート』の附録にある図十二
を参照しながら描かれた。湖南省档案館所蔵74−3−6.

張忠礼氏は私たちに被害時の住所を案内してくれた。それに、当時常清街に面していた店を覚えているかぎり教えてくれた。
陳致遠 2003年11月24日午後
>>被害当時の住居地に該当する現在の場所(PDF)
常徳都市部細菌戦原告の何英珍氏被害調査
時 間:2003年11月25日午前
場 所:常徳金海ホテル1505室
調 査 人:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
羅建忠(常徳市外事弁日本語翻訳)
原告人概況:何英珍・女・1934年4月26日生まれ。学歴は高等学校卒業。現在は常徳市鼎城区血防弁の退職幹部で、鼎城区教員研修学校在住(彼女の夫の会社)。
何英珍氏の被害陳述書
1941年秋の末か冬の初め、私の家では6名の親族が常徳ペストで死亡した。
当時、私たちは常徳東門外の水巷口に住んでいた(四鋪街の南側、源江の辺りである)。家は面積が300平方メートルほどの木造で、屋根が平らの家屋であった。街路に近い所で、「保元堂」と言う名の漢方薬屋を営業し、酒類と唐辛子も販売していて、売上はよかった。その頃の暮らし向きはよく、家族は18人であった(両親、伯父、叔父、伯母、叔母、姉2人、下の姉の夫、兄、嫂、弟、2人の姪、3人の甥と私)。家族は幸せであった。
その年の11月下旬頃、兄の妻・熊喜仔氏が突然病気になり(29歳)、御手洗いに行くとき倒れた。助け起こしたときには、もう高熱が出て呼吸は困難、話はできず、首のリンパが腫れて、身体には赤紫の斑点が出ていた。私の父と兄はその数日前に県城に入るとき、城門の入口で防疫注射をされていたので、常徳で瘟病が流行していて(瘟病とはある生き物が次々と病気に感染し死亡すること)、患者が必ず隔離病院に収容され、死亡した遺体は解剖され、火葬されると知っていた。父は非常に焦っていた。翌日の夕飯の時、姉は死亡した。姉が死亡した後、家族は敢えて声を出さず、隣人と保長と甲長に知られることを恐れていた。だから、夜中に小舟を頼んで遺体を徳山まで運び、そこで埋葬した。その三日後に下の姉の夫も発病した。唐辛子を干すとき倒れて、症状は姉と同じであった。その次の日に死亡した。また小舟を頼んで徳山で埋葬した。天には風を通す壁がないことはない。隣人は私の家で数日間に2人が死亡したと知り、甲長と保長に報告した。
結局、政府が防疫隊を派遣して、検査を行いペストと確認した。その後すぐ、竹の添え木で私の家を囲んで隔離し、家を燻し、薬で消毒した。その後すぐに、下の弟・何毛氏もペストに感染し(あと一ヶ月で三歳)、二日間で死亡した。それからまた二日間が過ぎた頃、姪(二歳半)も同じ病気に感染し、二日間で死亡した。
父は私たち子供と残りの親族を、急いで田舎の祖母の家に避難させた。父は常徳で家財を守っていた。当時江西省にいた伯父と叔父は、私の家が災難に遭ったと聞いて、我が家に駆けつけて来たが、誰も予想しなかったことに、わずか数日間で彼らも病気に感染し、相次いで死亡した(伯父の何洪発氏は52歳、叔父の何洪源氏は43歳)。
日本が常徳に対して行った細菌戦は、私の家に酷い被害を与えた!家ではわずか18日間で、6名の親族が死亡した。店の経営も中断し、生活費用の経済ルートもなくなり、下の姉が再婚するしかなかった。平穏無事であった家庭はこのように家をなくし、肉親も失った。
記録人:陳 致遠
本記録は私の陳述と一致する 陳述人:何 英珍 ( 指 紋 )
何英珍家被害時位置図

出所:この図は、容啓栄中国国民政府衛生署防疫処処長が
1942年9月に編著した『湖南西部におけるペストに対する
予防と治療の経過に関するレポート』の附録にある図十二
を参照しながら描かれた。湖南省档案館所蔵74−3−6.

何英珍は私たちに被害時の住所とその周りのお店を紹介してくれた。
陳致遠 2003年11月25日
>>被害当時の住居地に該当する現在の場所(PDF)
常徳都市部細菌戦原告の蔡正明氏被害調査
時 間:2003年11月25日午前
場 所:金海ホテル1505室
調 査 人:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
羅建忠(常徳市外事弁日本語翻訳)
原告人概況:蔡正明氏は男性で、1934年の旧暦2月25日に生まれた。学歴は小学卒業レベルである。現在は個体戸商業経営者であり、鼎城区武陵鎮常源居委会2組123室に住んでいる。
蔡正明氏の被害陳述書
私の姉は常徳細菌戦の第一被害者である蔡桃児である。
私の家族は代々常徳に住んでいる。1941年当時、私の家は常徳城中心地の関廟街にあった。その時、家族は4人であった。父の蔡徳松(48歳)、母の高金秀(38歳)、姉の蔡桃児(12歳)、兄の蔡正法である(8歳)。当時私はまだ生まれていなかった。父は関廟街で炭店を経営し(木炭または石炭店)、店名は「蔡宏盛炭号」といった。
1941年11月4日に日本軍飛行機は関廟街と鶏鵝巷の辺りに大量のペスト毒物を投下した。父母の話によると、11月4日以降の某日、父は下南門埠頭で炭を入荷しており、12歳の姉は裸足で父に御飯を届けに行った。そのため、日本飛行機が投下した毒に感染してしまった。11月11日に姉は発病し始め、夕方になると、症状が重くなり、高熱で精神状態がはっきりせず、ぼんやりして、全身が赤くなった。母は急いで姉を広徳病院に背負って行き入院させた。しかし、姉はその翌朝、病院で死亡した。姉が死んだ後、病院は姉の遺体を家に運ぶことを許さず、東門外の駝古堤で遺体を火葬した。そのため、母は身も世もなく泣いていた。多くの資料で姉は常徳細菌戦での第一被害死亡者であると記載している。私は憤怒している。悪魔の731部隊はなぜ姉のようなわずか12歳の無辜の少女に毒手を伸ばしたのか!
記録人:陳 致遠
この記録は私の陳述内容と一致する 陳述人:蔡 正明 ( 指 紋 )
調査人注釈: 多くの歴史的書類にも蔡桃児氏が常徳ペストの一人目の犠牲者であると記録された。そして、彼女の遺体も解剖された。
蔡正明家被害時位置図

出店:この図は、容啓栄中国国民政府衛生署防疫処処長が1942年9月に編著した『湖南西部におけるペストに対する予防と治療の経過に関するレポート』の付録にある図十二を参照しながら描かれた。湖南省档案館所蔵74−3−6

原告の蔡正明氏が私たちを被害時の住所に
連れて行った。それは現在の武陵区公安局
正門の側にある。当時、家の左側は米粉坊
のようで、右側は劉義茂線舗だと氏は記憶
している。その住居は1949年に売られた
ので、その後いつ取り壊されたのかについ
ては知らないという。
陳致遠 2003年11月25
>>被害当時の住居地に該当する現在の場所(PDF)
常徳都市部細菌戦原告の謝 氏被害調査
時 間:2003年11月25日
場 所:謝 氏の現住所
調 査 人:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
羅建忠(常徳市外事弁日本語翻訳)
原告人概況:謝 氏は男性で、1928年の旧暦11月23日に生まれ、学歴は中学卒業レベルで、常徳に常住している。現在は常徳市建装公司の離職幹部であり、常徳市武陵区湘北一村D区3棟4階1号室に住んでいる。
謝 氏の被害陳述書
1941年に私の家族は5人のうち4人が常徳ペストで死亡し、私一人だけが生き残った。
当時、私の家は常徳城北の長巷子の入口にあった。私の父はそこで南方雑貨店を経営していた。店名は「興盛祥南貨鋪」と言い、近所に当時比較的有名な旅館があった。旅館の名前は「明日楼旅店」といった。その年、私は城外の清平郷中心小学校で勉強していて(今の七里橋である)、家にはいなかった。家族は4人で、父は(謝行鈞・40歳)家で商売が忙しく、母は(陳香英・36歳)家事をし、兄は(謝春初・18歳)父の商売を助け、妹は(謝大妹・8歳)父母に付いて家にいた。
1941年11月4日に日本軍は常徳にペストを投下した。11月中旬に母の姉妹の夫が学校に来て私に次のように話した。「この時期家に帰らないでください。今城内では人瘟が起きている(人瘟とは人が次々と病気を感染し死亡すること)。帰宅が可能になったとき、改めてあなたに連絡します」。それから二週間後、おじがまた学校に来て、私を連れて家に帰ろうとした。その時、彼は「貴女の家族は瘟疫に感染し死亡した。あなたは外で勉強していたおかげで、幸いに生き残った」と言った。
おじの話によると、父は毎日入荷のため外出しなければならない。日本軍が投下した毒が最も多かった地域の関廟街、鶏鵝巷、大河街の辺りを通るので、ペストに感染した。家では彼が最初に発病し、熱が出て、咳をし、皮膚には赤い斑点が出た。漢方医が診断したが効は無く、三日で死亡した。次いで兄も発病し、妹も、最後に母が発病した。病状は父と同じで、発熱、咳、皮膚に赤い斑点が出た。兄は二、三日のうちに死亡した。妹と母も相次いで死亡したと分かった。おじはまた次のように言った。
私の家族4人は7日の内に死亡した。死後、敢えて他人に知らせず、政府に解剖され火葬されるのを恐れて、おじが人を頼んで夜中密かに遺体を城外に運び、北門外の乱葬崗で(今の柳堤の辺りである)埋葬した。
私は当時13歳だったが、家族全員が死亡して孤児になり、心には深い痛みを残している。それからの生活で苦しみに耐えてきた。田舎に家の7石の畑があったので、遠縁の叔父を頼って寂しい苦難の少年時代を送った(石とは容量単位であり、1石は100升に等する)。
記録人:陳 致遠
本記録は私の陳述と一致する
陳述人:謝 ( 指 紋 )
謝 家被害時位置図

出典:この図は、容啓栄中国国民政府衛生署防疫処処長が1942年9月に編著した『湖南西部におけるペストに対する予防と治療の経過に関するレポート』の付録にある図十二を参照しながら描かれた。湖南省档案館所蔵74−3−6

原告謝 氏は口頭調査の後に、調査者を連れて被害当時の住所に連れて行った。その住所の南側にある路地は今も存在している。
陳致遠 2003年12月25日
>>被害当時の住居地に該当する現在の場所(PDF)
常徳都市部細菌戦原告の楊志恵氏被害調査
時 間:2003年11月25日
場 所:楊志恵氏の現住所
調 査 人:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
羅建忠(常徳市外事弁日本語翻訳)
原告人概況:楊志恵氏は女性で、1922年の旧暦1月12日に生まれ、常徳に常住している。現在は常徳市第一人民病院の退職した看護婦であり、常徳市第一人民病院の住宅区に住んでいる。
楊志恵氏の被害陳述書
私は1942年春、日本軍が常徳で投下したペストに感染したが、災難を乗り越えて生きてきた。
当時、私の家族は教会病院である広徳病院の向こうに住んでいた。私の家は床が付いていない木造建の屋根が平らな家屋であった。家族は3人で、母、私と弟である。父はその二年前に日本軍の爆撃で死亡した。家は街路に近い所にあった。母は家の入口でタバコなどの雑貨を売り(小売り経営)、家族の生活費用を維持していた。母は誠実なキリスト教徒であった。当時教会では一つの教会学校を設置していた(懿徳中学)。信者の子女は無料で入学できたので、私と弟もその学校に通っていた。
1942年4月のある日、私と弟は同時に発病し、病状も同じであった。高熱、痙攣、リンパに塊が集積するなどし、病状は急で重かった。当時常徳で瘟疫が流行していて(瘟疫とはある生き物が次々と病気に感染し死亡すること)、病状が急で重い患者はすべて病院に入れられた。私の家の左隣に住んでいた崔氏と言う人(棕索繃子鋪を経営していた)と、右隣の羅氏と言う人(ソーセージ店舗を経営していた)が、私と弟を隔離病院に担ぎこんだ。母は瘟疫で大勢の人が死亡したことや、患者がいったん隔離病院に入ったら、生きて出るのは難しいことを知っていたので、同じ教会信者である友人の広徳病院の譚学華院長を捜し、頼んだところ、譚院長は私たちに同情し、私と弟を広徳病院に転院させて治療した。幸い、最終的に私も弟も治癒された。私の足には今でも膿液を流すためにリンパ手術を受けた傷跡が残っている。弟は今貴州省にいる。
日本鬼子は私の家に莫大な災難を与えた。私は今83歳で、全身とも病気で(泣く)、私も廃人になり、生きていられるのはあと何日間しかない。日本での訴訟は何故まだ終わらないのか、私もその日を迎えられなくなる!(泣く)私の父は日本鬼子の飛行機に爆撃された。……(泣く)。
調査人注釈:楊志恵老人は体がとても虚弱で、目も見えなくなった。私たちは調査する時間を長くしないよう要求された。彼女の気分は激動していた。心を悩ますことを話したら、時々泣き出した。だから、本記録には彼女の署名を貰わなかった。
記録人:陳 致遠
楊智慧家被害時位置図
出所:この図は、容啓栄中国国民政府衛生署防疫処処長が
1942年9月に編著した『湖南西部におけるペストに対する
予防と治療の経過に関するレポート』の附録にある図十二を
参照しながら描かれた。湖南省档案館所蔵74−3−6.
崔という姓の店;被害者楊智慧家;羅という姓のソーセージ店
楊智慧氏に連れられて被害当時の旧居に行かなかったが、「その急遽は元広徳医院の向こう側にある」という陳述を基づいて、現場を見に行き、この絵を書いたのである。
陳致遠 2003年11月25
>>被害当時の住居地に該当する現在の場所(PDF)
常徳都市部細菌戦原告の方運勝氏被害調査
時 間:2003年11月26日
場 所:方運勝の住宅
調 査 人:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
羅建忠(常徳市外事弁日本語通訳)
原告の略歴:方運勝、1945年生れ。原籍常徳、学歴は高校中退レベル。現在自営業者、常徳市武陵区城北柏子園居委会3組に住んでいる。
方運勝の被害陳述
私の兄方運登は1941年に常徳でのペスト細菌戦によって命を奪われました。
兄の被害状況は私の両親から聞いたものです。兄が死んだ時、私はまだ生まれていなかったのです。1941年に私の家族は常徳市の北にある霊官廟街に住んでおり、6人の家族で、父、母、祖母、叔母、姉と兄でした。その当時、兄はたった8歳の子供でした。
その晩秋、11月下旬の頃。我が家は米粉屋なので、みんなとても忙しくて、兄の面倒を見る人がいませんでした。それで、兄は誤って鼠が触れた冷飯を食べてしまいました。暫くして、兄は病気になり、発熱、呼吸困難、顔が黒くなる等の症状が出てきて、翌日死んでしまいました。市外のチョウ家山(今の気象局の近く)に埋葬されました。
兄はその当時の我が家族で唯一の男の子でした。祖母は彼の死を非常に悲しんで、精神を病んでしまいました。時々独りで孫の名前を口にしながら、一日中あちらこちら歩きまわっていました。私がまだ子供の時に、祖母はよく私を連れて町のなかで兄の名前を呼んでいたことを覚えています。
記録人:陳致遠
以上の記録内容は本人の陳述と一致している
陳述人:方 運勝(指紋)
方運勝家被害時位置図
方運勝家が被害を
受けた際の住所
方運勝は私たち調査人を被害時の旧居に連れていた。そのところは現在の常徳一中のキャンパス内にある
陳致遠
2003年11月16日
常徳都市部細菌戦原告の高緒官氏被害調査
時 間:2003年11月26日午前
場 所:常徳金海ホテル1505部屋
調 査 人:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
羅建忠(常徳市外事弁日本語通訳)
原告の略歴:高緒官、男、1944年10月5日(旧暦)生れ。学歴は専門学校卒業。現在津市市三洲駅事務所幹部、津市市澹津路72番に住んでいる。
高緒官の被害陳述
私の二人の兄は1941年に常徳鶏鵞巷でのペストに命を奪われました。
私の家族の原籍は漢寿県の新興嘴でしたが、1941年に親戚の関係で常徳市の鶏鵞巷に引越して、簡易な家を建てて住居としました。その当時、我が家は5人家族で、父、母、姉、そして二人の兄でした。その時の生活は非常に苦しいものでした。父は川の水を汲んで売り出し、また果物の小売もやって家族の生活費を稼いでいました。たまに、母は姉と兄を連れて乞食に出ました。
その年の11月に、二人の兄は突然発病して倒れ、高熱を出しました。上の兄の病状は深刻で、口から白い泡を吐き、意識がもうろうとしていました。痙攣もたまにしました。母は焦って泣き出しました。父はその夜、小さな船を借りて二人の兄を故郷の漢寿新興嘴八角村へ運んでいきました。翌日の午前、上の兄高緒武(当時13歳)が死亡、午後2時過ぎ、下の兄高緒文(当時11歳)も亡くなりました。二人の死体は共に紫色でした。父は二つの簡易な棺を作って、彼らを自家の近くの山に埋葬しました。
二人の兄が亡くなって、父母はひどく悲しんでいました。特に母は2ヶ月意識がなくなったこともありました。目も失明するほど泣いていました。それから、父母は常徳に住むことをやめ、姉を連れて漢寿の囲堤湖に移住し、そこで荒地を開拓して生活しました。
記録人:陳致遠
以上の記録内容は本人の陳述と一致している
陳述人:高 緒官(指紋)
高緒官家被害時位置図
高緒官家が被害を
受けた際の住所
高緒官家が被害を
受けた際の住所
当時、ここに一つの
劇場があった、と
高緒官は指摘した。
現在は「天声劇場」である。
高緒官氏は私たちを被害時の旧居に連れて行った。
その住居の南側には劇場であり、この街は当時の麻石街だったと
氏は記憶している。
陳致遠
2003年11月26日
常徳都市部細菌戦原告の柯高茂氏被害調査
時 間:2004年1月6日午前
場 所:柯高茂の住宅
調 査 人:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
柳 毅(湖南文理学院歴史学部講師)
徐万智(常徳細菌戦被害調査会会員)
原告の略歴:柯高茂、男、1925年12月24日(旧暦)生れ。原籍湖北洪安、1934年に養父(肉親の叔父)について常徳に移籍。高校中退学歴。現在常徳市港航監督所退職員、常徳市供水公司職員宿舎6―2―1号に住んでいる。
柯高茂の被害陳述
約1941年11月中下旬、私の養父である柯先福(当時56歳)がペストで亡くなりました。
その当時、我が家は常徳町の関廟街劉義茂線屋の筋向かいにあり、木造で、地面に木の床が敷かれていました。そこで金物屋を経営していました。7人の家族で、養父、養母、私、3人の弟、姉。当時私は16歳で、田舎の中学校へ通っていました。家族みんなは田舎の芦狄山へ引っ越して(その時日本の戦闘機がしばしば常徳町を目標として空爆を行い、町の中に住むのが非常に危険だったので)、養父一人は金物屋を守るために、町に残りました。11月中旬の土曜日の午後、養父を見たくて、そして彼に小遣いをもらいたいため町へ戻りました。
養父は私を見ると、「どうして帰ってくる。この前、日本の飛行機はこの辺に毒物を投下して、政府は我が家の筋向かいの胡家巷も封鎖したんだ。お前はここで一晩だけ過ごして、明日早く学校へ帰りなさい」と私に言いました。家の角で死んでいた二匹の鼠が今でも記憶に残っています。私は翌日未明5、6時に家を出て学校へ向かいました。しかし、6、7日経って、弟が学校に来て、父が亡くなったので、至急帰るよう告げました。
先週私とあった後、養父はすぐ病気に罹って、高熱を出し、首に塊が出てそれが腫れて痛み、病状が急速に悪化したということを、私は帰ってから知りました。家の人が彼を田舎の芦狄山へ運んで、二日後に亡くなりました。私は養父の死体を見ました。首がもの凄く腫れて、体の皮膚が赤かったり、紫だったりしていました。私は長男なので、家族のみんなと喪に服して、養父を徳山湖北会館の墓地へ運んで埋葬しました。
養父が死んでから、家の金物屋も倒産して、生活の経済出所もなくなり、家族は苦しい窮地に落ち込みました。私は学校をやめ、他の兄弟はバラバラになって、恵まれた家はこのように日本鬼に壊されてしまいました。
記録人:陳致遠
以上の記録内容は本人の陳述と一致している
陳述人:柯 高茂(指紋)
柯高茂家被害時位置図
柯高茂家が被害を
受けた際の住所
関帝廟;
柯高茂の父親が経営していた
金物屋である「柯利記」。
柯高茂の父親(養父)はここで
感染された
劉義茂線舗
原告の家での調査が終わった後、老人は彼の養父の被害当時の住居に案内してくれた。彼の旧居は左斜めに「胡家巷」と面し、右斜めに「劉義茂線舗」と面していた。関廟街と呼ばれたのは、当時の関廟街の北端に関帝廟があるからである。家の金物屋の名前は「柯利記」だと老人は記憶している。その住居は1943年の常徳戦で破壊された。
陳致遠
2004年1月6日
調査員注:
これは柯高茂老人自ら書いた関廟街における
「柯利記」の位置図である。その左側は「打金店」、
右側は「柯復興洋鉄店」、向こうの左斜めに「劉義
茂線舗」があり、向こうの右斜めに「胡家巷」が
ある。当時の胡家巷は軍人と警察によって柵で
封鎖されていた。胡家院子に死んだものは少なく
ないと老人は聞いた。
2004年1月14日
柯利記の間取図
木造の二階建ての建物である
横は七メートル
長さは十二メートル
調査員注:
これは柯高茂老人自ら
書いた1942年の自宅の
間取図である。
2004年1月14日
常徳都市部細菌戦原告の黄炳輝氏被害調査
時 間:2004年1月7日午前
場 所:常徳細菌戦被害受付所
調 査 人:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
柳 毅(湖南文理学院歴史学部講師)
徐万智(常徳細菌戦被害調査会会員)
原告の略歴:黄炳輝、男、1945年3月6日(旧暦)生れ。原籍常徳、学歴は専科卒業。現在常徳市武陵区検査院幹部、常徳市立図書館職員宿舎に住んでいる。
黄炳輝の被害陳述
1942年の3、4月に、私の2人の兄である黄奕秋(4歳余り)と黄元武(2歳余り)が常徳のペストでなくなりました。
1938年の前に、我が家は常徳市の中心部にある小梳子巷に住んでおり、2軒の200平方メートル余りの木造一階建てでした。父はそこで「茶室」を開き、暮らし向きは豊かでした。しかし、1938年12月に、日本の飛行機が常徳を空爆して、我が家も日本戦闘機が投下した焼夷弾によって全焼しました。そこで、我が家はそれから赤貧に落ち込んで、難民になりました。家族は仕方なく常徳東門外の「紅廟」という寺に身を寄せました。父が人の手伝いをするほかには家計を維持することができませんでした。(父は両手とも算盤ができるので、店の手伝いさんに雇われました。)「紅廟」に寄寓している時、家族は5人でした:父黄金海、母李愛清、姉黄泳桃、上の兄黄奕秋、下の兄黄元武。
1942年3、4月頃、我が家が住んでいた紅廟はペストの流行で多くの死者を出した五?街の近くにありました。ある日、上の兄黄奕秋と下の兄黄元武が突然発病し、寒さを恐れ、高熱を出し、痙攣、嘔吐という症状が出ました。首が腫れて話もできませんでした。両親は非常に驚き、五?街で流行っている「人瘟」に罹ったかも知れないと心配しました。(その当時、ペストが知られていなかったため、「人瘟」と言われました。)診断も恐ろしくて、また診断を受けるお金もなかったし、人に知られるのも避けたかったのです。政府が「人瘟」で死んだ人を解剖し、火葬するといわれていたからです。間もなく、2人の兄は3日の内に相次いで死亡しました。死体の皮膚は黒い色をしていました。私の2人のおじ李仲誠と李元冬が手助けにきてくれ、2つの木箱を作って彼らを紅廟近くの丘に埋めました。これらの事は76歳のおば李芳清(母の妹)が今でも話してくれます。
我が家は1938年に日本機の空爆によって、豊かな家庭から難民に落ち込み、1942年に2人の幼い兄は日本機が撒布したペストに毒殺されました。日本軍の侵略は我が家を潰し肉親を奪いました。2人の兄が死んでから、母は毎日涙で顔を洗い、精神に異常をきたしましたが、1945年に私を生んでから精神状態が少し回復しました。1960年の上元に父は「今日はお前の下の兄ちゃん元武の誕生日だ。元武は上元に生れたから、元武という名をつけたんだ。もしまだ生きているとしたら、今年は22歳になるはずだな」と、突然私に言いました。これから見ると、兄の死が父の心に与えた傷は今でも治っていません。
記録人:陳致遠
以上の記録内容は本人の陳述と一致している
陳述人:黄 炳輝(指紋)
黄炳輝家被害時位置図
一九四〇年代の常徳市街地地図
出所:この図は、容啓栄中国国民政府衛生署防疫処処長が1942年9月に編著した『湖南西部におけるペストに対する予防と治療の経過に関するレポート』の附録にある図十二を参照しながら描かれた。湖南省档案館所蔵74−3−6.
黄炳輝家が被害を
受けた際の住所
一九四二年石公橋市街地図
石公橋老人黄岳峰作成
一九四二年石公橋市街平面地図
常徳石公橋細菌戦被害者の黄岳峰氏被害調査
時 間:2004年1月9日午前
場 所:黄岳峰の現住所
調 査 人:陳致遠氏(湖南文理学院歴史学部教授)
柳 毅氏(湖南文理学院歴史学部講師)
劉体云氏(常徳細菌戦被害調査会会員)
原告の略歴:黄岳峰・男・1924年1月16日生まれ・学歴は小学校卒業。現在は石公橋供鎖社を定年、住所は石公橋橋頭住民委員会1組
黄岳峰の被害陳述
私は1942年11月中旬に、石公橋でペストに感染し、隔離病院で防疫隊に治療され、治癒された。
当時、我が家は石公橋北正街に住み、母、兄、義理の姉、私と妻の5人家族で、北正街で百貨店を営んでいた。店名は黄天順で、兄が主人で、私は手伝いをしていた。店は一家の住まいを兼ねていた。暮らし向きはまあまあ良かった。
その年の秋、石公橋鎮では急性伝染病で死人が出始めた。常徳城からはポーリッツァー先生を始め、10数名の医者と20数名の軍人を含む防疫隊が派遣され、橋北側の北正街と北横街が閉鎖された。この2つの街では死者も、死んだネズミも多かったために、感染地域と認定されたので、各家庭には薬が配られ、注射をされた。我が家も全員薬を飲み、注射をされた。
私は若かったので、医療隊に呼ばれて、荷物の運搬、雑用の手伝いをさせられた。仕事をするときに防疫隊に長靴をはかされた。ポーリッツァー先生は、蚤は5寸しか跳ばないので、この靴を履けば、蚤に噛まれることを防げると言った。防疫隊は橋南の小学校に泊まり、隔離病院を建て、解剖室、遺体焼却場、検査室、消毒室、注射室を設置し、石公橋を閉鎖するため、3つの深い溝を掘った。1つは北横街の裏端、柳堤にあり、1つは北正街と北横街の結合部、傅家拐にあり、もう1つは橋南側南正街の裏端にあった。石公橋も切断してはずし、吊り橋を設置し、軍人が感染地域の出入り口を守備し、注射証明書を持っているかどうかをチェックした。実際は住民が夜に船で水路を通って出入りをしていたので、閉鎖はあまり効果がなかった。
私はこのように感染した。我が家の右隣は黄保山の黄興隆肉屋で、彼の家族は10数人いたが、ペストを恐れて山舎に避難した。結局、妹の黄金枝が発病し(彼らの家に死んだネズミがたくさんいた)高熱、痙攣、リンパに瘤が出た。解剖や、焼却されるのが心配で、防疫隊には通報しなかった。彼女は1日後、亡くなった。彼女の兄が遺体を埋めるのに、私に手伝いを頼んできた。黄という大家族の成員なので断りづらく、すぐに手伝いに行った。ちょうどそのとき、私の家に、妻の姉と妻の弟が遊びに来たので、3人で手伝いに行った。
埋葬しにいったときはちょうど深夜で、妻の姉は死者に服を着させた。私と妻の弟は、まず、小さな船まで遺体を運んだ。そして、夜の暗闇にまぎれて烽火王家の丘の上まで運んで葬った。私と死者の兄である黄華清は、一緒に埋葬するための穴を掘った。棺がないので、死体の上には、席子(竹を編んで作った茣蓙のようなもの)をかけて埋葬した。私は帰宅してから体調を崩したので、ペストに感染したのではないか、と疑いを持った。
そこで、防疫隊に行き、知人のポーリッツァー先生に診察してもらった。まず、体温を測ってもらい、リンパを検査してもらった。太股の付け根(そけい部)のリンパを診察した結果、腫れがあったので、そこから血液を抽出してさらに検査した。最終的な検査の結果、私はペストに感染していることがわかった。ポーリッツァー氏は、私に対して、隔離病院で治療をしよう、と言った。
毎日3回錠剤を飲み、3回注射をした。その錠剤は黄色いものであった。7日後、ポーリッツァーに再び診察してもらって、もう治ったことを告げられた。ポーリッツァーは、私に、「あなたは、はやく来たので幸いに治った」と言った。しかし、彼は私に医療施設から出ないように言い、半月後まで帰らせなかった。
妻の姉と弟は、韓公渡牛褪晉にある自分の家に帰ってから4,5日後に発病して亡くなっていた。妻の姉は、当時、妊娠数ヶ月だったので、非常に悲惨である。
上述の記録が私の陳述と一致している。
陳述人:黄岳峰(指紋)
1942石公橋街区簡略平面図
常徳石公橋細菌戦被害者の王長生氏被害調査
日 時:2004年1月9日午後
場 所:王長生氏の現住所
調 査 人:陳致遠氏(湖南文理学院歴史学部教授)
柳 毅氏(湖南文理学院歴史学部講師)
劉体云氏(常徳細菌戦被害調査会会員)
原告の略歴:王長生・女・1931年9月8日生まれ(旧暦)・学歴は学校2年中退・専業主婦で現在は石公橋鎮橋北街住民委員会326号に住んでいる。
王長生氏の被害陳述
1942年、私の父王春初と叔母王苗子が石公橋ペストの感染によって、死んでしまった。我が家は元々石公橋郊外の北極村にあったが、商売をするため鎮内に移った。1942年、我が家は石公橋鎮北横街で石米記家の家を借りて、2階に住んだ。1階では、"徳裕和"という店名の雑貨屋を開いた。家族は、祖母、父、母、大叔父、小叔父、叔母、妹、弟と私の9人家族だった。当時は景気が良く、経済的に豊かだった。我が家の向こう側は"石米記肉屋、"右側は"丁国豪魚屋、"左側は石右海の住宅だった。
その年の秋、石公橋鎮ではネズミがたくさん死んで、急死する者も出てきたので、県から防疫隊が派遣された。防疫隊のポーリッツァー先生が、鎮内にペストが発生したと皆に知らせた。一部の人は、これを恐れて避難したが、我が家はそうしなかった。
我が家には賀常青という弟子(お手伝いさん)が1人いた。彼は、15,6歳くらいで、仕事が終わった後、あちこち遊びに行くのが好きだった。ある日、帰ってきて、彼は頭痛と高熱におそわれた。翌日、父は船で彼を賀家障にある彼の実家に送った。彼は、到着後、煙草が一本終わらない内に死んでしまった。父は彼の実家に泊まり、次の日、土葬を手伝ってから家に帰ってきた。父は帰宅してすぐに口の渇きを訴え、水を飲んだ。さらに頭痛、高熱もあり、首には瘤が出て、両手で首を掻いた。郎中(中国の医者)に診てもらって、薬をもらって飲んだが効かず、病気は重くなる一方だった。咳で血を吐いて、3日経たないうちに死んでしまった。死後皮膚が黒くなった。父は防疫隊に解剖、焼却されるのが心配で、治療には行かなかった。
夜中に家族が船で父の遺体を北極村の地元に運んで、祖父と一緒に埋めた。棺を手に入れることができなかったので、そのまま遺体を埋めた。父の死後、我が家は全員蜂起して地元の北極村に行ったが、父の死から4日後、叔母の王苗子が発病した。父が死んだ後、叔母が服を着させた。叔母の病状は父と同じで、高熱、口の渇き、首の腫れ、瘤、咳とともに血が出るという症状だった。そして3日後に死んでしまった。死んだときに手で首を掻いたせいで、皮膚が黒くなってしまった。その様子は、今思い出しても、非常に悲惨なものだった。叔母は死後、我が家の裏にある丘の上に埋められた。父が亡くなったので、経営していた店は倒産し、収入がなくなって、生計が立てられなくなった。母も、悲しみのあまり、翌年の正月に亡くなった。11歳の私と、弟と妹は孤児になった。その後は、おばあさんと、叔父とともに貧しい生活を送った。
1942石公橋街区簡略平面図
常徳都市部細菌戦原告の丁蓮青氏被害調査
時 間:2004年1月11日午前
場 所:丁蓮青の住宅
調 査 人:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
朱清如(湖南文理学院歴史学部副教授)
劉体云(常徳細菌戦被害調査会会員)
原告の略歴:丁蓮青、女、1920年4月7日(旧暦)生れ。原籍石公橋、文盲。現在石公橋の住居民、橋北居委会に住んでいる。
丁蓮青の被害陳述
1942年に私の妹丁柏青は石公橋でのペストに命を奪われました。
私は石公橋で生れ育って、今年83歳です。民国31年(1942年)、私の家は石公橋の北正街にあり、「魚屋」を経営していました。「魚屋」というのは漁民の魚製品を購入して外地の商人に転売することです。その当時我が家は5人家族で、母、兄、兄の妻、妹と私でした。兄は「魚屋」の社長にあたり、妹、義理の姉と私は手伝いをして、商売はなかなか順調でした。
1942年の秋から、石公橋の町で鼠が死に始めました。鼠が体を弓形に曲げて、人にあっても逃げようとしないのです。死んだ鼠が多く、あちこちにいました。橋北が一番ひどかったようです。そして人が死に始めました。速かったです。丁長発の家では11人が死んでしまいました。張春国の家では5人、丁国豪の家では2人、羅楚江の家、黄伯枝の家でも2人が亡くなりました。住民はみんな恐怖を感じていました。多くの人は田舎へ避難しました。私の家族も全員、田舎の黄花障へ逃げ込みました。妹丁柏青だけ留守に残りました。(彼女は家を離れたくなかったので。)
その後、県から医療防疫チームが来ました。防疫措置を実施してから、町の死亡速度は緩和されました。そこで、母が妹を見に戻ってきました。妹は、町の多くの人がもう戻って来たので、母さんたちにも帰ってきてほしいと母に言いました。母が田舎へ行って町に引越ししようとしたその晩、町から妹が家で病気に罹ったという伝言が入ってきました。翌日、母、兄と私が慌てて家に戻って妹と会った時、彼女の病状はもう深刻で話しができないほどでした。彼女は高熱を出し、体に塊と紫色の斑点が出てきました。夜、彼女は死んでしまいました。母と私たちは大きな泣き声も出せませんでした。防疫隊に発見されたら、死体解剖されることになるからです。夜11時過ぎ、私と兄が万周という人の船を借りて、妹の死体を北極宮の付近に運んで埋葬しました。
これらの事情は義理の姉段?雪梅も知っています。彼女は今年83歳で、私より半年分、年下です。石公橋でのペストの影響で、我が家の魚屋もだめになってしまいました。兄は別家の手伝いに行き、私は行商人となりました。我が家は急激に零落しました。
記録人:陳致遠
以上の記録内容は本人の陳述と一致している
陳述人:丁 蓮青(指紋)
1942石公橋街区簡略平面図
常徳都市部細菌戦原告の王開進氏被害調査
時 間:2004年1月7日午前
場 所:常徳細菌戦被害受付所
調 査 人:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
柳 毅(湖南文理学院歴史学部講師)
徐万智(常徳細菌戦被害調査会会員)
原告の略歴:王開進、男、1934年6月19日(旧暦)生れ。原籍石公橋。現在石公橋の住居民、農民、石公橋鎮五堰村11組に住んでいる。
王開進の被害陳述
1942年に、私の父王煥斌(当時39歳)と母?大美(当時30歳)は石公橋でペストに感染し、父は死亡、母は回復しました。
当時、私の家族は石公橋南正街街尾西辺連五堰にある大屋場に住んでいました。その大屋場は多くの家庭が集まる村落であり、3、40の家庭が入っており、南正街尾から0.5キロ離れています。その当時、我が家は5人家族で、祖母、父、母、そして私と弟でした。父は学校の先生で、赤塘庵の小学校(北極宮の横)で教えていました。母は家で家事を切り盛りしていました。家は6?の田圃と4軒の木造部屋(約160平方メートル)を持っていました。家族生活費の出所は2つあり、1つは父が学校からもらった給料で、もう1つは6?の田圃の貸出料としての糧食でした。家の状況はやや貧しいものでした。
おおよそ1942年9月(旧暦)頃、常徳町の医療防疫チームが石公橋に来る前、私たちの屋場に死亡者が出始めました。常徳から石公橋の間で川運輸をやっている印老幺という人が常徳でペストに罹って、村に帰って間もなく死んでしまいました。死体が紫色をしているのを私は見ました。その当時私は8、9歳でした。彼は独りで、苗代の棚の中で死んでいました。村人はみんな見に行き、葬式をやって、埋葬しました。
それから、屋場には相次いで死亡者が出ました。最初は陳克志の家からでした。彼の祖父陳用学が水を担いで、苗代を通った時印老幺の死んでいるのを発見しました。それで、彼の祖父は最初に病気で死に、そして伯母、妹も発病して死亡しました。その後、陳華金の家は3人(母、姉と兄)、陳海燕の家は1人(母)、元化章の家は2人(祖母、兄弟)、?梅林の家でも2人(祖母、妹)が亡くなり、私の隣の叔父の義理の姉である周寅生も死にました。彼らの症状は大体同じで、高熱、塊が出て痙攣、急に発病、二、三日後に死亡し、死体の皮膚が黒いというものでした。
当時、石公橋鎮では少なくない死者を出し、防疫チームが県から派遣されてきて、白衣を着て、警察も来ました。彼らは石公橋を封鎖しました。防疫チームは石公橋小学校に駐在し、隔離病院も屋場に近い?家庄に設置していました。
その頃、私の母は発病し、朝起きてから気分が悪くなり、食欲がなく、熱を出しました。おば(母の妹)の勧めで母は防疫チームの治療を受けに行きました。そこでは、西洋人の医者がおり、医療費も要りませんでした。隔離病院で何日か薬を飲み、注射を受けていました。治って家に帰ってからも、薬を飲み続けました。母は今年亡くなり、90歳でした。
母が隔離病院に入院中のある日の夕方、父は赤塘庵の小学校から帰宅して、発病しました。体の調子が悪くなり、夜になって高熱を出し、体中が痛くなり、塊が起こり、痙攣しました。翌日に容体は深刻になりました。隣の人は彼を病院へ運ぶことも恐ろしがってしなかったのです。梨を食べたがったので、私は買ってやって、半分ぐらい食べさせました。午後、家の中で意識がなくなり、死亡しました。近くの?家庄に埋葬されました。
防疫チームは石公橋に入ってから、すぐ私たちの村には来ませんでした。後になって、村から20人あまりの死亡者が出てからチームはやっと来てくれました。彼らは村の各家で人々に注射をしたり、薬とマスクを配ったりしました。また、死者が出た家を消毒したり、人を外へ疎開させたりしました。しかし、多くの人は行く先がありませんでした。その冬に、私たちの屋場の300人の中から、30人余りの死者が出ました。
日本のペストは我が家にひどい被害を与えました。父が死んだ後、母は仕方が無く再婚しました。祖母もおいのところへ去って行きました。残された9歳の私と6歳の弟は身寄りのない浮浪児になってしまいました。
記録人:陳致遠
以上の記録内容は本人の陳述と一致している
陳述人:王 開進(指紋)
1942石公橋街区簡略平面図
常徳都市部細菌戦原告の石聖久氏被害調査
時 間:2004年1月11日午後
場 所:石聖久の住宅
調 査 人:陳致遠(湖南文理学院歴史学部教授)
朱清如(湖南文理学院歴史学部副教授)
劉体云(常徳細菌戦被害調査会会員)
原告の略歴:石聖久、女、1940年9月11日(旧暦)生れ。原籍石公橋北横街、小学校学歴。現在石公橋の住居民、橋南居委会に住んでいる。
石聖久の被害陳述
1942年に私の母親劉冬枝(当時32歳)は石公橋のペストで亡くなりました。
その当時、我が家は石公橋北横街に住んでおり、豚屋を経営していました。我が家の左隣も豚屋でした。右隣は王丕棣という乾物屋でした。私の家族は4人家族で、父、母、姉と2歳の私でした。
家族の話によりますと、その年の下半期から、石公橋鎮では最初に原因が分らずにたくさんの鼠が死にました。その後、人も死に始めました。急に病気に罹って、1、2日のうちに死んでしまいました。死体は黒い色をしていました。情報が県に伝わり、県は医療チームを派遣しました。溝を掘って封鎖したり、予防注射をしたり、鼠を排除したりしました。死者の死体は解剖されて、火葬されました。医療チームがきてから暫くし経ったある日、母は突然病気になりました。高熱を出し、体に塊が出てきました。病状はひどかったです。その当時、死体解剖と火葬を恐れて、医療チームへ治療には行きませんでした。結局、母は2日後に亡くなりました。死体の皮膚は紫色でした。防疫隊の検査を避けるため、夜になって船で土硝湖を渡って、死体を南岸の南極官の丘へ運んで埋蔵しました。それ以後、毎年姉と母の墓へ墓参りに行きました。しかし、1958年の「大??」の最中に破壊されてしまいました。
母が亡くなった後、父は継母を迎えました。私たち子供は継母によく虐待され、生活は大変苦しくなりました。もし日本のペストが母を死亡させなかったら、私から母の愛情を奪わなかったら、子供時代にはそんなに苦しまなかったでしょう。
記録人:陳 致遠
以上の記録内容は本人の陳述と一致している
陳述人:石 聖久(指紋)
1942石公橋街区簡略平面図
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