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附属文書二:

湖南省1984−2000年 鼠間ペスト監視測定報告
湖南省常徳市ペスト連合監視測定組
(415000)

中国・湖南文理学院歴史学部教授  陳  致 遠


 ペストの歴史的な起源地での鼠間ペストの発生状況を研究して、その実態と規則性を掌握するために、我が省は常徳市のペスト歴史起源地である桃源・県城・武陵の3ヶ所に固定監視測定点を設けた。鼠間ペストの監視測定は長年続けられた。現在の監視測定の結果を下記のように報告する。

1.概況と背景
1.1 監視測定区概況
 常徳市は東経111°29'−120°17'北緯28°04'−32°20'の湘北に位置している。面積は240平方kmである。北側は湖北省で西側は武陵雪峰山脈、そして東側は洞庭湖である。地勢は西から東まで傾斜している。最高峰は石門壷瓶山で海抜2099mである。境界には?、?という主な河流が二つある。常徳市は亜熱帯気風性湿潤気候に属し、年間の平均気温は16.5℃、平均降水量は1184mm、無霜期270である。
1.2 監視測定点の歴史背景
 史料の記載によると、1941年10月末、日本軍731部隊の隊長石井四郎は、遠征軍を引率して武漢まで逃げ、常徳細菌戦を陣頭指揮した。同年11月4日早朝、731部隊の実戦研究を担当する第二部部長大田登大佐が指揮した97式の爆撃機が一機、常徳の上空に飛来した。爆撃機は常徳市内と周囲36qの地帯に、ペスト桿菌の付いた穀物やぼろ布団や布きれや紙片などを撒布した。その7日後、常徳市内に初めてペスト患者が現われた。12歳の蔡桃児という女児は、広徳病院(現常徳市第一人民病院)でペストと診断された後、36時間の内に死亡した。
 その後、ペストが常徳市内で流行し始め、毎日新しいペスト患者が発見されるようになった。まもなく全都市は、細菌戦によってもたらされた恐怖に包まれた。常徳防疫所は厳重な防疫対策を講じた。長沙・慈利・?県などへ通じる要路には検疫所が設置され、交通規制を行った。西門外には火葬炉が作られた。ペスト患者の死体は防疫人員に解剖と消毒を施されてから、火葬されることになっていた。
 川面では、警察の巡回回数が増えた。船は接岸することを禁じられた。解剖と火葬の実行により、市内では恐怖と緊迫の状態が高まっていった。多くの市民は、病気になっても、そのことを他人に知られないようにしていた。死者がでた家庭でも、感染が公になって遺体が火葬されることを恐れ、遺体を自宅の庭にそっと埋葬した。
 1942年の3月から4月、常徳城はペスト大流行の趨勢を呈していた。鼠類がペストにかかる率は85%に達していた。住民の感染率も高まっており、毎日10人以上の感染者がでた。常徳城が危険な状態に陥った時、国民党中央衛生署は第二衛生工程隊を派遣して、鼠の駆除をその任とした。第六戦区の司令、陳誠は、可能な対策を全て講じて鼠の駆除に努め、必要な場合は疫区の家屋ごと焼却しても構わないという指示を電話で与えた。敵機による爆撃のため、防疫管制には問題が増えてゆくばかりだった。疫病の威力はとどまることなく、徐々に郊外へも蔓延していった。
 1942年の5月上旬、桃源の小売商人李佑生は、市内でペストに感染した後、密かに郊外の家へ戻った。それにより、彼の家があった桃源莫林郷李家湾にペストの流行を招いてしまった。20日の間に、相次いで16人が死亡した。10月27日、常徳県新徳郷石公橋鎮でペストが発生し、2ヶ月のうちに160人あまりが死亡した。防疫人員が橋北疫区と外とのあらゆる連絡を断ち、種種の防疫対策を講じたので、ペストは徐々に抑えられていった。
 日本軍731部隊によってもたらされたペスト大流行は、1943年上半期まで続いた。同年5月の鄂西会戦開戦頃から、防疫人員は続々と撤退していった。年末の常徳会戦中に、日本軍は常徳城に火を放った。大火は常徳を焦土と化した。それ以来、常徳で再びペストが流行することはなかった。
 この細菌戦によって、常徳でどれだけの死者が出たのか、確実な統計は困難である。近年、生き残った民間人と、当時防疫活動に参加した防疫人員の調査により、ペストによる死者の数は、少なくとも600人以上であることが明かになっている。だがその数字には、解剖や火葬されることを恐れて密葬された死者の数は含まれていない。

2.監視測定の内容と方法
 三ヶ所の固定監視測定点から5km以内に、鼠を捕らえるための檻を設置した。鼠の種類を鑑定したり、鼠の棲息密度を計算したりするためである。捕らえられた鼠は、生きたまま実験室に送られ、番号をつけて登録される。それから板に打ち込んで消毒してから解剖し、腹部の動脈血を取って、血清を分離して零下20℃で保存しておく。集中的に放射免疫沈殿試験をして、(方法については全国分布の放射免疫測定説明参照)ペストF1抗体があるかどうかを検査する。

3.監視測定の結果
 3.1 鼠種の構成と密度
 三ヶ所の固定監視測定点に、10年の間に合計で212387回、鼠用の檻を設置した。小動物は計17790匹捕獲された。総捕獲率は8.38%で、捕獲した鼠は5種類だった。その中で褐家鼠は94.94%を占め、最も多かった種類である。小家鼠・黄胸鼠・黒線姫鼠・羅賽鼠はそれぞれに2.82%、1.65%、0.47%、0.02%で、句青は0.1%である(表1参照)。
 3.2 洪水災難区の鼠間のペスト監視測定の結果
 1990年と2000年は3ヶ所の固定監視測定点のうち、洪水にあった村落を選択して、野外に檻を3600回置いた。生きた鼠は164匹捕らえた。総捕獲率は4.56%である。(表2参照)
 3.3 血清学の監視測定
 鼠の血清は17790匹分、健康な大人と病人の抗体からの血清は336人分を収集した。血凝試験、血凝SPA試験、?連免疫吸着試験をして、全て陰性だった。放免検査測定を行い、鼠の血清から褐家鼠の陽性血清を1体分検出した。比率は1:160で、その他は全て陰性だった。

4.討論と分析
 4.1 1990年と1991年、私たちは放射免疫法を使って、ペストF1抗体陽性の褐家鼠を3匹検出した。比率は比較的高かった。それは我が省で、1942年のペスト流行以来、初めて鼠から検出したペストF1抗体であり、ペストが我が常徳で流行する可能性があった事実を提示した。
 4.2 ペストは噛歯類動物の間で流行する自然疫源性の疾病である。古生物学者の考証によると、ペストは約5000万年前に既に存在していた動物の間で流行し、ある条件がそろうと人も感染する。するとペストが流行することになる。ペストは誰もが知っている重い伝染病で、ペストが人に与えた災害は他の疫病よりもひどいものである。
 4.3 ペスト流行の周期問題は、未だに世界中で論争されている。ペスト自然疫病源地は、客観的に存在する。動物ペストの活動と静止は、人間の意志で変化することはない。鼠の間でペストがあれば、人間もペストにかかる可能性があるのだ。
 1982年、雲南徳宏で30年が経過した後、再び鼠間(黄胸鼠)ペストが流行した。1983年には、モンゴル某地区で沙鼠ペストが大流行し、一時は都市にまで伝播したことがあった。1984年、雲南保山では、28年ぶりの鼠間ペストが、以前発生した場所と同じ疫区で再発した。1985年にモンゴル木盟と吉林の草原地帯、同地では25年間監視測定が行えず、何の情報も得られないという状況下で鼠間ペストが発生した。今まで発生したことがなかった雲南と内モンゴルでペストが発生したのである。
 ペストの流行リズムは複雑なため、歴史疫病源地を密接に監視すべきである。再び死者が出ないよう、厳重に防ぐ必要がある。改革開放、商品の流通、人員の往来につれて、特に輸入性ペストの発生を警戒しなければいけない。
 WHO顧問の発言の通り、近年、世界の各疫病源地は保存状態から流行状態に入っており、残すは公衆衛生問題である。発生・流行に至らないよう、監視測定を強めなければならない。しかしペスト保存体系について、明確な解明がなされていないため、私たちは疫病源地を除去する条件を整えることはできない。そのため、ペストの監視測定を続けるとともに、歴史疫病源地に対する監視測定を行わなければならないのである。
(監視測定作業に協力してくださった人:羅先樵、鐘発勝、劉吉星、楊徳秀、関学芳、李美霞、楊宇林、李丕才、何秋菊、金則平他(敬称略)。本文は湖南省疫病予防コントロールセンターの郭綬衡主任医師に御指導頂いた。右御礼まで。)

2002年12月18日

資料整理単位:湖南省常徳市衛生検疫所
資料整理執筆:鐘発勝・郭志忠