鑑定意見書
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細菌戦被害の戦後への波及
―日本の侵略戦争と細菌作戦に起因する
湖南省と浙江省のペスト被害―
京都大学教授 江 田 憲 治
はじめに
第1章 湖南省常徳のペスト被害
1 日中戦争期の常徳におけるペスト被害 2 日中戦争後の防疫活動・衛生運動 3 今日になお残る危険
第2章 浙江省のペスト被害
1 日中戦争期の浙江におけるペスト被害
2 日中戦争後のペスト被害と防疫活動・衛生運動
3 今日になお残る危険
おわりに
脚 注
はじめに
中国の中央部、長江の中流域の南岸に位置する湖南省と、長江下流の浙江省は、「江浙熟すれば天下足る」「湖広熟すれば天下足る」の語を歴史に残すように、中国でも豊かな農業地帯に数えられる。また両省ともに域内に粤漢鉄道・浙?鉄道などの鉄道線や、船舶が航行可能な河川を有し、数多くの交通の要衝を擁すしている。そのゆえもあって、1937年にはじまる日中戦争では、日本軍は繰り返しこの二つの省に軍隊を送り込んだが、日本軍の攻撃の中でも、今日にいたるまで、悪影響を及ぼしているのが、関東軍第七三一部隊(以下、七三一部隊)が行った細菌作戦である。浙江省では、日本軍の進攻路線上に位置した寧波県(現寧波市)・衢県(現衢州市)・義烏県(現義烏市)・麗水県(現麗水市)・などが1940年から1942年にかけての空中投下と地上散布という二つの細菌作戦の被害をこうむり、近隣に波及した。また湖南省では同省から四川省への交通路上の要衝にあった常徳県と桃源県(ともに現常徳市)に細菌が投下され、大きな犠牲者を出すことになったのである。
なお、七三一部隊が細菌作戦に用いたチフス菌、コレラ菌、赤痢菌など多種多様なものであったが、本意見書がペストを中心に論じるのは、当時同病の死亡率がきわめて高かった(そのために七三一部隊もペスト菌兵器をもっとも重視し、開発した細菌爆弾もペスト菌用のものであった)からであり、同時にペストが中国の人々に与えた脅威が、他の疾病に比べても特に長期にわたったからである。日本軍が流行させたペストは、日中戦争終結後においても、湖南・浙江両省の人々の生活と健康を脅かし、政府機関の防疫活動や住民の衛生運動など制圧に向けての多大の労働を強い、しかもそうした努力の積み重ねにもかかわらず、今日においても、再発の可能性は否定できていない。
本意見書は、七三一部隊の実施した細菌作戦の結果としてのペストの蔓延が、中国湖南省の常徳県・桃源県など、および浙江省の衢県・義烏県・麗水県・義烏県などの住民に大きな被害をあたえ、しかもその被害が中国と日本が交戦していた日中戦争・第2次世界大戦時期にとどまらず、戦後にまで波及していることを指摘するものである。
第1章 湖南省常徳のペスト被害
1 日中戦争期の常徳におけるペスト被害
常徳県(現在は常徳市)は湖南省北部の洞庭湖西岸に位置する、日中戦争期、湖南省でも主要な県の一つであり、その政治的経済的重要性は、省都の長沙に次ぐものであった。同市が1941年に日本軍の細菌攻撃の対象とされたことは、旧日本軍関係者が残した記録によって明らかであり*1、七三一部隊による細菌攻撃の具体的状況や中国側の防疫活動に関しては、松村高夫や江田憲治が詳細な検討を行っている*2。
これらの研究によれば、1941年11月4日、常徳ではペストに感染したノミが日本軍機により空中投下され、その結果同月12日に最初の患者が発生した。14日までに4名が死亡し、いずれの遺体からもペスト菌に類似した桿菌が発見された。ペスト流行は11月から12月に7名、翌年1月1名の患者を出したのち、いったん患者の発生がやみ、終息を告げたかに見えた。
だが、防疫当局が見出していたペスト・ネズミの存在、すなわちネズミ類の間でのペスト流行は、ヒトペストの再流行を予測させるものであった。はたして42年3月、常徳ペストの第2次流行が始まり、県城地区では同年3月から6月までに28名の犠牲者を出し、5月には隣県の桃源県に波及、常徳で感染した農民の家族を中心に17名が肺ペストで死亡した。さらに同年10月から11月にかけて43名が常徳県石公橋・鎮徳郷でペストに倒れた。なお、当時の防疫当局の報告書は、この2年間にわたった常徳ペストの流行の死者を約100名前後としている*3が、伝染病の猛威に恐れをなした人々は郊外へと難を逃れた上、患者に対し隔離・解剖・火葬などを強制する防疫関係者には、発病者の存在が隠されたことは確かであり、公的記録に記された犠牲者の数はとても実情を反映したものとは言い難い。当時の医療関係者は自身の見聞に推測を交えて、ペストの犠牲者は600人を超えたのではないかと回想している*4。
さらに、1996年から2002年にかけて、常徳市の「細菌戦被害調査委員会」は常徳ペストの流行状況を再調査し、被害者の遺族の申告を集約して新たな調査結果を出した。それによれば、ペストの被害は少なくとも常徳県、桃源県、漢寿県、臨?県、益陽県、津市、南県など常徳周囲の7県、486カ村に波及し、1945年に終息するまでに死者は7643人に及んだ*5。前述の被害に付け加えるべき事例は、細菌投下による直接的なペストの被害と、二次的三次的流行による被害に分けられるが、その主なものだけでも、
@日本軍機からのペスト菌投下によって直接ペストが流行した被害者は、周家店の約1500名、石公橋で約1000名を数え、
A常徳県城内からの付近への伝染(商人、農民、荷担ぎ、軍人などが常徳県で感染した事例や、城内の患者の看護、死者の埋葬・葬儀に従事した者が感染した事例で、感染者が居住地にもどったためてペストが伝播したもの)には、龍子崗の約30名、芦荻山の約230名、雷家坡の14名、聶家橋先鋒村の約230名、石門橋の556名、黄土店の75名、太平舗の23名、馬宗嶺の16名、易家湾の77名、長嶺崗の約1110名があり、
B石公橋からの伝播では 、韓公渡の約300名、
C韓公渡からの伝播では、漢寿県洲口の約140名の被害者が挙げられる*6。
戦後50年をへたのちの調査が、
2 日中戦争後の防疫活動・衛生運動
以下では、日中戦争後(第2次世界大戦後)、とりわけ中華人民共和国が成立したのち、常徳地域においてどのような防疫活動と衛生運動が実施され、ペスト制圧が目指されたかについて、述べてみよう。
日中戦争期の日本軍の細菌攻撃が白日のもとに曝されたのは、1949年12月のソ連ハバロフスクにおける軍事裁判が最初であった。それまで連合国軍側はさまざまな形で日本軍の細菌兵器使用に関する証拠は掴んでいたものの*7、東京裁判では審理の対象からははずされ、アメリカは細菌戦部隊(関東軍七三一部隊)関係者と戦犯免責を条件に取引し、彼らの研究「成果」を残らず手中に収めてしまった*8。そのため、ソ連は七三一部隊幹部への尋問ができないまま、ハバロフスク軍事法廷を開廷せざるをえなかったのである*9。
ハバロフスク軍事法廷では、旧日本軍で細菌兵器の準備と使用に関係した12名を被告としたが、その中には七三一部隊の川島清(第4部細菌製造部長)、柄沢十3夫(同部の細菌製造課長)、西俊英(教育部長兼孫呉支部長)、尾上正男(海林支部長)といった責任ある立場の者も含まれており、部隊の人体実験や細菌製造、細菌散布等、それまで極秘とされてきた活動が明らかにされた*10。常徳についても、川島清が「第2部長太田大佐」から七三一部隊派遣隊が飛行機からペスト蚤を投下したこと、その結果ペストが発生し、若干の患者が出たことを聞いたと証言し、1941年に常徳で流行したペストが日本軍の細菌攻撃の結果であったことが確認されたのである*11。
この裁判の進行状況は1949年12月28日〜50年1月8日、『人民日報』によって連日詳細に報道され、関連記事は16点に上った。さらに2月5日のソヴィエト政府の照会公表後、各地の反響や関連記事、社説などは同月末までに35点に達した。その後の1、2カ月間は新聞紙上を細菌戦を告発する記事が埋め尽くし、各界挙げての反細菌戦キャンペーンが展開されたといっても過言ではない。それらが濃厚な政治的色彩を伴っていたことは否定できないが、報道をきっかけにさまざまな現地取材や関係者の聞き取りなども行われ、初期の細菌部隊関係資料としての価値は確認されるべきである*12。
常徳においても日本軍の細菌攻撃を告発する数々の報道がなされた。1950年の『新湖南報』から関連記事の見出しを拾ってみると、以下のようなものがある。
2月 6日「蘇連照会我外交部 提議厳懲日寇細菌戦犯」
「侵華戦中日機在常徳上空 大量散布鼠疫桿菌
譚学華、呂静軒両医師追述当時検験情形」
「東北安達県鞠家窯居民 証実日寇製造細菌罪行」
2月11日「被細菌武器侵襲時的常徳」
2月12日「我帯着受難的回憶 要求厳懲日本細菌戦犯」
「細菌学家陳文貴 証実日寇細菌戦罪行」
2月13日「衛生部挙行座談会 証実日寇細菌戦犯罪行」
「日寇曽在豫西散布傷寒細菌」
2月16日「日赤旗報撰文掲発 東京是細菌戦中心」
2月20日「常徳人民追述当年日寇暴行 1致擁護蘇連建議 迅審細菌戦犯日皇
裕仁等」
たとえば、2月20日の記事では、常徳からの報告として被害者遺族や目撃者の生々しい証言が伝えられている。その1部を引用してみよう。
3区6保9甲の年老いた羅興夫妻は、愛娘羅玉珍を8年前のペストで失った。老人は悲痛な口調で愛娘の亡くなった悲惨な情景を回想した。「病気がひどくなると家の中でのたうち回った。食欲もなく、声も枯れて舌がもつれた。人の見分けもつかなかった」老人は涙なしに語ることができなかった。3区5保6甲の羅徳喬は実直な店員だったが、彼もペストにかかって治癒することなく亡くなった。姪の羅栄春は「当時お金がなく、伯父の遺体は国民党政府が火葬してしまい、遺骨さえ返してもらえなかった」と述べている。羅徳喬の家に身を寄せていた親類の羅中恒もペストに罹患し、わずか3日で死亡した。5保・6保の住民は「当時ペストが流行して、実に多くの人が感染して亡くなった」と語り、ある老人は「自分が知っているだけで(死者は――引用者)30人以上にはなるが、8〜9年もたって全員の名前はわからなくなってしまった」という。3区の5保や6保は常徳の中では、日本軍の投下した細菌媒介物が比較的少ない地域である(以下略)
このように、ソ連におけるハバロフスク裁判を契機として、中国では旧日本軍の細菌戦が再認識され、その被害があらためて発掘された。湖南省の常徳も例外ではなかったのである。成立後間もなかった共産党政権も事態を重視し、1950年、湖南省人民政府衛生処は調査のため、常徳のかつてのペスト汚染区に医療関係者を派遣した。幸いその時点ではペスト患者は発見されず、慎重を期して該当地域の住民に1000人分のワクチンが接種された*13。
だが、旧日本軍による細菌戦研究の「成果」はアメリカに引き継がれ、その後間もなく再び中国人を恐怖に陥れることとなった。旧関東軍七三一部隊の幹部が戦争犯罪の訴追を免れるために、彼らの研究データをアメリカ軍に提供した経緯は、近藤昭2が詳細に明らかにしている*14。アメリカ軍は執拗な調査と追求を経て入手した「成果」をさらに「発展」させ、自家薬籠中の兵器として「有効利用」したといわれ、その最初の実践の場が1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争であったとされている*15。中国側が公表したところでは、1952年2月29日、米軍機が14回に渡って(のべ148機)中国の丹東、撫順、風城などの上空に侵入し、ウィルスや細菌を帯びた昆虫を散布し、細菌戦争をしかけたという*16。 これに対して同年3月14日、中国政府は「反細菌戦」活動を指揮するため中央防疫委員会を設置し(委員会主任は政務院総理周恩来)、「人々を動員し、衛生に注意し、疾病を減らして健康を増進し、敵の細菌戦を粉砕しよう」というスローガンのもと、全国レベルでの「愛国衛生運動」を展開した*17。
常徳においても市の衛生防疫委員会の指導のもと、米軍の細菌兵器使用に対して「5滅1捕」(カ、ハエ、ノミ、シラミ、南京虫を撲滅しネズミを捕らえる)活動を中心に、公共衛生の整備と疾病予防を目指す大衆運動が実施されたのである。たとえば、1952年6月には「愛国衛生運動宣伝突撃週間」が開催され、市内の各界の人々を動員して6つの宣伝隊を組織し、壁新聞や漫画、幻灯、漫才、歌舞、有線放送などを通じて宣伝を行った。宣伝隊は路地裏の奥まで入り込んで「周外相の米帝による細菌兵器使用に関する対外声明」「細菌は無視できないが恐ろしくない」「米国侵略者の細菌戦をどう防御するか」「防疫常識」などの文書を配布し、住民の防疫グループに学習を呼びかけた。宣伝隊は「告発班」を派遣し、かつての日本軍と当時の米軍が細菌兵器を使用している犯罪行為を告発させ*18、桃源県の防疫委員会は「米国侵略者の細菌戦をどう防御するか」というパンフレット900冊とその他のビラ6000枚を配布し、展示会を開催して2万7000人が見学したという*19。
その上で同年6月11日には各レベルの防疫委員会が大衆デモ行進を実施し、宣伝活動を盛り上げた。また、「5滅1捕」活動により、同年内に常徳市内でネズミ5万3618匹、ハエ932万2336匹、南京虫71万1150匹、カ125万7408匹、ノミ9万6324匹、シラミ1万9199匹、その他932匹を駆除した*20。周辺の慈利、桃源、臨?の3県でもネズミを74万匹を駆除したという記録がある*21。
こうした運動の中で、旧日本軍による細菌攻撃の被害が再認識され、湖南省衛生処は常徳のかつてのペスト汚染地域に、調査のため専門の衛生防疫要員を派遣した。大規模なネズミ駆除活動を利用してその生息密度や生態を観察し、ペスト菌の有無、原因不明の死亡の有無を調査した。幸い、この時もネズミ間のペストは発見されなかった。
この「愛国衛生運動」は1過性の運動に終わらなかった。1953年2月19日、湖南省愛国衛生運動委員会の規定に従って「常徳市愛国衛生運動委員会」が設立された。同委員会は副市長が主任委員となり、市の各機関が3加に名を連ね(主任以下4名の専従委員は市の衛生科の施設で執務)、それらの機関に支部や末端のグループを設置、大衆運動の形式が踏襲された。委員会は現在にいたるまで毎年ネズミ、ゴキブリ、ハエ、カ(いわゆる「4害」)の駆除を率先して行うなど、常徳市の衛生環境保全の中心として活動を継続しているのである*22。
また「米帝の細菌戦」を契機に1952年には、予防を主とする衛生工作方針を貫徹し、人々の衛生水準を向上させるため、湖南省においても1部の都市に最初の衛生防疫站が設置されることとなった。常徳もそのうちの一つで、同年8月10日、省衛生処の文書と常徳市人民政府の指示により、「常徳市衛生防疫站」が置かれた(所属は市の衛生局)*23。この後は伝染病に関する情報収集や予防関連の活動は同站が中心となり、ペストに対する監視も同站により継続された。
たとえば1963年4月から12月には、常徳市衛生防疫站は市内の4カ所でネズミ類の密度、種類、付着する寄生虫の調査を行い、この時もネズミ間にペストの発生がないことを確認している*24。また1973年、常徳市と近隣各県においてレプトスピラ症が発生し、翌74年から75年にかけて流行病学的研究に協力するため、常徳市衛生防疫站は発生地の体系的調査を行った。464種のネズミ類を捕獲して分類し、寄生虫を捜し、解剖、腎組織標本の顕微鏡検査、培養実験などを実施し、1部の標本は省に送ってペスト病原学の鑑定を依頼したが、ここでもネズミ間のペストは発見されなかった*25。さらに1984年から89年にかけて、湖南省衛生庁は湖南医学院、湖南農学院、衡陽医学院、湖南省衛生防疫站の専門家を集めてペスト監視班を結成し、常徳市衛生防疫站と協力してかつてのペスト流行地域でのネズミの種類、密度、ノミの付着状況、血清学、病原学、流行病学調査など、ペスト監視活動を実施した。この時もネズミ間、ヒト間のペストは発見されなかった*26。
3 今日になお残る危険
このようなペストによる被害は、常徳地域に大きな禍根を残し、1990年と1991年の抗体調査によって現地のネズミからペストの「F1抗体」が発見されている*27。すなわち、 1990年、湖南省と常徳市は衛生防疫要員を組織して湖南省ネズミ間ペスト監視研究グループを結成し、過去の3つの汚染地域(武陵区鶏鵝巷・常青街1帯、鼎城区石公橋鎮、桃源県城関鎮)に固定観測点を設置し、その半径5キロ範囲に籠をしかけてネズミを生け捕りにし、種類を調べ密度を計算した。5、6、9、10、11月の5カ月に1回ずつ、各地点でネズミを200匹捕らえて、その血清を集め、放射性免疫法によりペストの「F1抗体」を観測した。2003年までに捕獲した小型哺乳動物は28,008匹に昇っている*28。。これはとりもなおさずネズミ間でペストが発生したことを意味するものであり、日本軍の細菌攻撃後50年の年月を経てもなお現地にペストが存在し、ひとたびネズミ間で流行が生じれば、人間の生命をも脅かす危険をはらんでいるのである。幸い1950年代以降、常徳ではペストは発生しておらず、その犠牲者が生じることはなかったが、これは偶然と宿主になるネズミ類撲滅が有効に行われたために他ならなかった。
そして1990年末から91年1月、吉林省地方病第1防治研究所ペスト防治研究室は放射免疫沈殿試験法により、常徳市武陵区張家台村のドブネズミ2匹と桃源県城関鎮のドブネズミ1匹からペストF1抗体を発見した。これによって両地区が依然としてペスト汚染地域であり、ネズミ間にペストの存在する可能性が確認されたのである*29。
第2章 浙江省のペスト被害
1 日中戦争期の浙江におけるペスト被害
次に日本軍の細菌作戦の結果、大きな被害を被ったもう一つの省である、長江下流域の浙江省におけるペスト被害を検証したい。同省では日中戦争が始まってから数年を経過した1940年代、二つの経路からペストが流行し、住民の間に大きな被害を生んだ。
第1の流行経路の形成は、もともとのペスト流行地域であった福建省から1929年、浙江省南部に位置する慶元県にペストが伝播したことを背景としている(同年の患者は50名、死者40名)。ただし、この慶元県での事例は、1931年までの3年間と流行期間が短く、また1930年の患者が8名、死者が6名、1931年の患者・死者が各1名であったように、規模の点から見ても、比較的小さな流行であった。
たが、1937年に日中戦争が始まると、5年間の空白期を経て、ペストが前回をはるかに上回る規模で再発生した。すなわち慶元県では1938年2月から腺ペストが大流行して患者235名、死者198名を出し、1939年には患者188名、死者92名、そして40年には159名の患者、147名の死者を出すとともに、隣県の龍泉に広がって患者15名、死者12名(翌1941年には患者46名、死者36名、1942年には患者76名、死者69名)の発生を見、1942年にはさらに雲和県に広がった(患者7名、死者7名)。いったん終息していた慶元ペストが1938年2月になって再発生し、さらに周囲の県に波及していったことの背景には、日中戦争の結果、難民や物資の移動が激しくなったことがあり、このことがペストの再発生と流行地域の拡大をもたらした、と考えられる。
とりわけ、1942年冬季と43年5月に、日本軍が浙江省に向けて大規模な侵攻を行うと、中国側は同省の政治的経済的中心地を温州・雲和1帯に移転させざるを得なくなり、浙江全省の生活物資が温州を中心とする甌江流域以東に運ばれるようになった。このことが、以下に見るようなペスト被害の爆発的拡大をもたらしたのである。したがって、流行の原因が人や物資の移動という、疫病の伝染拡大にしばしば見られる1般的な社会要因であったとしても、5年間にわたって終息していた慶元ペストを再発させ、これを周囲の地域に波及させて大規模な流行としたのは、日本軍の戦闘行為なのであるから、これらの被害が日本の侵略戦争の結果であることは言を待たない。
なお、1943年から日中戦争が終結する1945年までのペスト拡大の状況を示すと以下のようになる。
1943年、ペストはそれまでの慶元・龍泉・雲和から松陽・青田・永嘉・温州・楽清・景寧に流行を拡大、各県の患者はそれぞれ209名、625名、346名、2名、5名、4名、4名、8名、1名(合計1194名)、死者は163名、133名、268名、2名、5名、1名、1名、7名、1名(合計581名)であった。
1944年には、これらの地域に縉和・瑞安の両県が加わり(景寧では未発生)、各県では患者335名、135名、146名、4名、3名、712名、976名、2名、2名、16名の発生を見(合計2331名)、死者は251名、73名、129名、2名、3名、257名、539名、2名、2名、15名であった(1273名)。
1945年には、ペストは慶元・龍泉・雲和・永嘉・楽清で発生、各県の患者はそれぞれ64名、99名、224名、9名、20名(合計416名)、死者は50名、47名、148名、7名、7名であった(合計259名)。
このような日本軍の侵攻によって広まった浙江省南部地区のペスト被害は、日中戦争終結後も続き、以下の諸県でペストが発生し続けた。すなわち、1946年には、慶元・雲和・永嘉・温州・瑞安・楽清・文城でそれぞれ、97名、25名、424名、410名、12名、4名、8名の患者が発生(合計980名)、このうち死者は、それぞれ70名、17名、140名、123名、12名、4名、8名であった(合計374名)。
さらに、1947年には永嘉・温州・瑞安・楽清の4県でそれぞれ117名、116名、60名、4名の患者(合計297名)、42名、42名、27名、3名の死者(合計114名)、1948年には温州・瑞安・楽清・文城で21名、6名、23名、13名の患者(合計63名)、11名、4名、10名、13名の死者(合計38名)、1949年には温州・瑞安・文城で6名、1名、37名の患者(合計44名)、2名、1名、29名の死者(合計32名)、1950年には温州・瑞安・楽清・文城で50名、1名、1名、2名の患者(合計54名)、温州で12名、楽清で1名の死者が発生した。戦後の流行期(1946〜50年)に発生したペスト患者は、公的資料によれば、合計1438名であり、死者は571名に及ぶ*30。
日本軍の侵略戦争が引き起こしたペストの再発・拡大とは異なる、第2の浙江省でのペスト流行の原因が、日本軍の細菌作戦であった。
李力「浙江・江西細菌作戦――1940〜1944年」(『戦争と疫病』所収)などの研究がすでに明らかしているように、日本軍の細菌戦部隊である七三一部隊は、1940年9月18日から10月7日まで6回にわたる細菌攻撃を寧波、金華、玉山、温州、麗水などに実施し、その中でペストノミの投下という攻撃方法に重点を置くようになり、日本軍の飛行機は、10月4日衢県に、10月22日と27日の両日寧波に、11月27日には金華にペストノミを含んだ穀物や綿花、紙包み、ぼろ布などを投下した。また、こうした空中投下以外に、日本軍は、1942年の浙?作戦(浙江省から江西省に向けての進攻作戦)後、浙?鉄道沿線の衢県・金華・龍游・玉山・麗水(以上、浙江省)、上饒(江西省)などでペスト菌などの細菌を地上散布した。
空中投下と地上散布という二種類の方式の細菌攻撃は、浙江省の人々に大きな被害をもたらした。1940年の空中投下のうち、金華ではペストは発生せず、また寧波のペストは、患者105名、死者103名という大きな被害を出したものの、県政府当局と防疫機構がすばやく対応し、患者の隔離や汚染地区焼却、流行地区から逃亡した住民の捜索などの措置を徹底して行った結果、他地域には波及しなかった。だが、衢県で発生したペストは、同県で大きな被害を出したばかりか、近隣の義烏・江山・東陽・浦江に波及することになった。また1942年の地上散布も、麗水を中心にペストを発生させた。1940年以降、日中戦争時期の被害状況を示せば以下の通りである。
1940年11月、最初のペストが衢県で発生し、患者25名・死者24名の被害を出した。翌1941年、ペストは衢県から江山・義烏・東陽に波及して、患者がそれぞれ281名、3名、255名、101名(合計640名)、このうち死者が274名、3名、223名、97名にも及んだ(合計597名)。義烏のペストは、衢県から鉄道員が帰宅したことで県城内で伝染がはじまり、県城から崇山村などの農村に次々に波及していったものであり*31、東陽県には、この義烏で感染した左官が県境に近い8担頭村に帰って死亡したことから流行が始まった*32。すなわち、衢県→義烏→東陽へと流行が拡大したのである。
1942年には、義烏・東陽・浦江で患者が342名、54名、3名、死者が325名、52名、3名の被害がもたらされ(同年に麗水と衢県でどれだけの被害があったのかは、公的統計には現れていない)、1943年には、麗水・衢県・義烏で患者60名、6名、122名(合計188名)、死者34名、6名、111名(合計151名)、1944年には麗水・衢県・江山・義烏で患者926名、1名、49名、20名(合計996名)、死者784名、1名、44名、13名(合計842名)の被害となった。1945年にはペスト発生地は麗水・衢県に限られ、患者19名、2名(合計21名)、死者12名、2名(合計14名)であった。
さらに強調しておかねばならないのは、前節で述べた日本軍の浙江侵攻の結果としてのペスト流行が、日中戦争終結以後にも被害を拡大したのと同様に、日本軍の細菌作戦がもたらしたペスト流行も、1946年以後も継続したことである。1945年のペスト被害は、麗水・衢県2県に限られ、1944年以前と比較すれば患者・死者数ともに少なく、流行は終息に向かうかに見えた。が、1946年にはふたたび麗水・衢県のほか常山・江山・龍游でペストが発生し、各地の患者は170名、12名、1名、20名、2名(合計205名)、死者57名、11名、0名、20名、2名(江山では死者なし、合計90名)にのぼったのである。1947年になって流行はようやくピークを越え、麗水・衢県・蘭渓・龍游の患者はそれぞれ5名、18名、36名、3名(合計62名)、死者は3名、16名、17名、3名(合計39名)であった*33。48年ではペスト患者は、公的には龍游県の3名(全員死亡)しか報告されていないが、江山県患者20名が出た(全員死亡)とする資料もある*34ほか、蘭渓でもペストが流行したとの報道がある*35。なお、47年(もしくは47年と48年)の蘭渓のペストは、江西省の上饒からの人・貨物の移動によって伝染が波及したものであるが、この上饒は、日本軍が1942年にペスト菌を地上散布した地域であった*36。
2 日中戦争後のペスト被害と防疫活動・衛生運動
以上、第1章の2つの節で述べたところの、日中戦争のために流行を拡大した福建省からの流入ペストと、日本軍の細菌作戦の結果としてのペストは、李力論文によれば全浙江省で1938年から1950年までのペスト被害は、患者9149名、死者5838名を数える。しかし、李力氏自身が留意しているように、公的な統計では農村地区の被害を全面的に捉えたとは言い難く、被害実態はこの数字をはるかに上回ると想定させる。
たとえば、1945年から1946年にかけて、常山や衢県(衢州)農村部でのペストなどの疫病被害の拡大を報じる次のような新聞記事は、上記の想定の正しさを確認させるものであろうし、当時の被害の実態と人々が持った恐怖感を表している。
「常山の黒い恐怖」
何千何万もの病人が大量の緊急薬品を欲している。全県の死者はすでに1万人を突破した。稲は田に捨てられて収穫する人もなく、疫病は燎原の火の如く広がっており、これ以上放置することはできない。現在、恐るべき悪性伝染病が全県の21の郷〔村〕・鎮〔町〕のうち十数の郷・鎮で蔓延しており、声教・宣風の2郷だけで4000人以上になっている。最近の非公式な統計によれば、全県の死者は1万人を突破し、治癒したもの及び患者はおよそ5万人の多きに達している。各郷では全家族が罹患したものもしばしば聞くところであり、人々の命は旦夕を保ちがたい。棺桶屋だけでは夜通し作り続けても必要を満たすことができないので、大工をやっていた者が商売替えをし、大量に棺桶を作っている*37。
「悪性の伝染病が蔓延を続け、大州や柯山でも10家のうち9までが罹患し、 死者はすでに二百四十余名に達している」
衢県の大州鎮・柯山郷1帯で悪性伝染病が発生しており、記者が昨日潘院長から聞いたところによれば、目下のところ流行地区での伝染病はなお蔓延の勢いがあり、流行地区では10戸のうち9戸までは発病している。とくに柯山郷がひどく、家々からもれる呻吟の声は惨として聞くに堪えない。*38
「田野に人跡無く、昼夜に哭声あり。道すがら見える棺桶を担ぐ人のみ、 開化の境内に疫病が蔓延」
常山から開化まで川を遡ると、九つの郷・鎮で伝染病が猖獗をきわめ、空前の状況にある。農村ではいたるところ、恐怖のどん底に落ちている。村民で悪性伝染病にかかって1カ月にうちに1000余人になり、現在も病勢が収まる気配はない。灰埠から開化に至るまで、病人は10人に5人を数え、開化県から先では、儒廉、7賢、集寧郷などがとくにひどく、郷ごとに千数百人ほどが死んでいる。〔流行〕地区に立ち入って見ると、男も女も老いも若きも10人に8、9人が病人の様子であり、老人と子供が多く死んでいる。*39
したがって、日中戦争後にあっても、国民政府にせよ中華人民共和国政府にせよ、防疫機構を整備し、大規模な防疫活動や衛生運動の実施を迫られ、大きな人的物的資源を投入して、犠牲を乗り越えつつ、この災厄と立ち向かわねばならなかった。このうち国民政府は、すでにに日中戦争期、地方に県衛生院や防疫医院を配置する以外、中央政府衛生署に医療防疫隊を、軍政部に防疫隊を設立し、省政府も医療隊防疫隊を組織、これらの機構と赤十字の防疫隊からの伝染病情報を中央の戦時防疫連合弁事処に集約した上で、伝染病発生知に防疫部隊を派遣する戦時防疫ネットワークを構築していた*40。
このため、日中戦争後の流行期にあって、国民政府はペスト防疫の中心となった衢州には以下のような防疫部隊を配置し、防疫活動に当たらせた*41。
1945年 1月 浙江省医療防疫大隊第2分隊 (〜1948年1月)
1946年11月 福建省防疫大隊駐衢防疫分隊 (〜1947年5月)
1947年 1月 衛生署医療防疫総隊第4大隊第6分隊(〜1948年3月)
1947年 1月 浙江省医療防疫大隊第2防疫站 (〜1948年1月)
(1950年2月〜9月)
1948年 1月 浙江省医療防疫大隊第1分隊 (〜1949年4月)
1948年 3月 衛生部医療防疫総隊第3大隊第1分隊・付属第1防疫医院
(〜1949年4月)
1948年 5月 衛生部医療防防疫総隊第3大隊第9、14、24分隊、衛生工程隊、
細菌検験隊 (〜1949年4月)
1949年10月、中華人民共和国政府が成立すると、同政府は国民政府の防疫機構の1部を接収するとともに、ペスト対策のため、防疫部隊の派遣ではなく、以下のような固定的な防疫機構の設立を開始する。
1949年12月 華東区鼠疫防治所麗水第2防疫站*42
1942年12月 華東区鼠疫防治所龍泉第3防疫站*43
1950年 2月 華東区浙東鼠疫防治所(53年1月浙江省鼠疫防治所に改称)*44
1952年 1月 浙江省鼠疫防治所、衢州に成立*45。
1952年 4月 衢州専署防疫総指揮部成立、5県に防疫委員会成立*46。
1953年 衢州の各県の衛生院に防疫股〔課〕成立*47
1954年11月 浙江省鼠疫防治所、衢州から杭州に移転。代わりに麗水から 浙江省鼠疫防治所第2防治站が移転し衢州鼠疫防疫站成立*48。
1955年 7月 衢州鼠疫防疫站が金華に移転し金華地区鼠疫防治站となる*49。
1956年 3月 衢州5県(衢県、江山県、常山県、開化県、龍游県に防疫站 成立*50。
これらの防疫機構が行ったペスト流行対策は、大きく分けてペスト・ワクチンの注射など予防接種と、鼠類分布やペスト感染の有無の調査など疫学調査の2つとなる。前者については、たとえば江山県では、1951年の1年間に1万8028人にペスト・コレラ・チフスの混合ワクチンを無料注射し*51、衢県では1953年、ペスト予防注射をのべ5万2000人に対して行ない(1950年から63年までの総延べ人数は87万7579人)*52、年代別の統計が公表されている蘭渓県では、50年代に44万3773名、60年代10万8651名、70年代2万7058名*53となる。後者のネズミ検査については、浙江省の原発ペスト地域というべき慶元県では、1951年、ネズミ類2964匹が解剖され、実際に疑似ペストネズミ265匹が検出され(8・94%)*54、温州市では1950年、ネズミ類1万5411匹が解剖されて、疑似ペスト407匹が検出され(2・6%)*55龍游県でも、51年から57年にかけてネズミ6315匹を解剖、51年と52年に2匹から疑似ペスト桿菌を発見した*56。衢州市では1950年〜52年、解剖された4万4489匹のネズミのうち222匹に疑似ペストが発見された(0・5%)*57。同市では、1950年から63年まで491万5906匹のネズミが捕獲され、64年以降も2年ないし3年に1度、ネズミ密度および帯菌調査が継続された*58。
もちろん、このような疫学調査のためのネズミ捕獲やあわせて行われたノミの駆除などは、防疫站などの衛生機構だけでなしとげられることではなかった。そこには、都市と農村の住民が自らの生活を犠牲にしつつ、多くの時間を注ぎ込んで労働力を投入することが必要とされた。たとえば、51年7月、衢州専署が組織した「反細菌作戦大演習」というキャンペーンは、役所、工場、学校、住民・商業の4大隊に分かれ1万400人が3加したし、52年8月からは、県・区・郷の3級の行政単位をもとに愛国衛生運動が始まり、4害の除去に大きな努力が傾注された。衢州で1950年から防疫機構の活動と住民3加の運動の結果、1950年から63年にかけて、衢州の都市部と農村部で、前述のように約491万65千匹のノミが駆除され(年平均37万8千匹)、ノミ駆除のため消毒された家屋が8万8547戸(年平均6811戸)、予防注射のべ87万7千人(年平均6万7506人、旧流行地区の住民は13年間で5回以上の注射を受ける)。
以下、現地の公文書にもとづき、細菌戦被害地である義烏の事例について見てみよう。
現在確認できる文書記録によれば、義烏の防疫機構は、1954年から55年にかけて延べ1万1013戸、総計7万7523部屋の蚤駆除を行い、予防注射を延べ11万5535人に、1万2329匹のネズミの解剖を行った。1956年10月には、金華地区ペスト防疫站と義烏県衛生防疫站は共同で義烏県ペスト予防組をつくり、ペスト予防に当たる要員17名を配備するとともに、ペスト流行地区に衛生要員の中核となるメンバー216名を訓練、ネズミとノミの駆除運動を展開するとともに、1941年から44年までの流行の経緯を基本的に明らかにした*59。
1957年には以下のような計画が立案されている。すなわち、@ペスト汚染地区の流行史を、稠城鎮→江湾郷→東河郷・蘇渓郷の順で調査する(伝染経路、患者・死者の概数、範囲および流行の程度、ヒトペスト発生以前に鼠やその他の動物が大量に死んでいなかったかどうかなど)、A媒介動物の種類と分布を、稠城鎮の農協・皇元村とその周囲1キロ→江港郷の下柳・崇山村とその周囲1キロについて調べ、齧歯類とその対外寄生虫およびペスト媒介動物の種類分布状況を明らかにする(室内では調査地点毎に1000個のねずみ取りと25個の鼠かごをおく。15平方メートル毎にねずみ取り1個、20平米をこえると2個おき、山坡では100個のねずみ取りを1定間隔に配置する)、B殺鼠剤についての検証実験をおこなう*60。(「義烏県1957年鼠防工作計画」)
これらの調査の結果明らかになったのは、かつてペストが発生した地区は、江湾、稠城鎮およびその周囲、東河、蘇渓の5地区にわたる、13郷鎮の31カ村であること、その発生帰還は1941年9月から1944年3月までのであること、患者数は662名、うち614名が死亡したことが判明し、伝染は細菌投下を受けた衢県からであること、稠城鎮とその周囲1キロの地区からは、6種類の鼠類が確認された*61。このほか、1957年には3月から7月のノミ繁殖期に、DDTなどによって4250戸の1万1471部屋、および3503のネズミ穴が消毒され、ネズミ6643匹が駆除された。また、このほか、8カ所の診療所で3万7752名に対する予防注射が行われた*62。
1961年、義烏県の江湾人民公社は県の「大面積滅鼠」活動に沿って、崇山で鼠密度とノミ指数の調査を行った上で、殺鼠剤を用いた鼠撲滅運動を行い、そのうえで再び鼠密度の調査を行う、計画をたてる*63。1963年にも、義烏衛生防疫站は、1940年代のペスト発生地区である稠城鎮と崇山村と中心にネズミとノミの駆除を中心とする愛国衛生運動を展開し、同時にネズミとノミの解剖検査、細菌培養などのペスト疫源調査を行った(このとき解剖された891匹のネズミと細菌培養では、ペスト菌は発見されなかった)*64。
3 今日になお残る危険
だが、防疫の専門家と一般の都市と農村の住民が、前述したような努力と犠牲をはらっても、浙江省のペストは、根絶された訳ではなかった。
1989年に実施されたペストのペスト菌宿主動物に対する検査の結果、血清標本1万3789のうちから18のものに(湖南省常徳と同様に)、ペストに感染したことを示すF1抗体陽性反応が見られた。宿主動物は麗水、義烏、慶元、龍泉、蘭渓、温州、楽清の7県・市に分布しており、いうまでもなく、これらは1940年代にペストが流行した地域である*65。かつて慶元県屏都郷の8都村にあって、1950年から53年にかけて、顕微鏡検査で鼠類から疑似ペスト菌が発見され、雲和県の二つの村(貴渓村、前村)で顕微鏡検査による疑似ペスト菌が発見されていたが、これらのネズミ類でのペスト流行は、1953年に終わったと考えられていた。だが、流行は終わってはいなかったのである。当時、ネズミの密度が普遍的に増大し、室内で発見される遊離ノミのうちインドケオプスの指数が増大していることも懸念された。
事態を重く見た浙江省の防疫当局は、引き続きネズミ類やノミの収集、検査を実行した。その結果、1990年には、全浙江省の旧ペスト流行地区20カ所で検査が行われ、このうち17カ所のネズミ類1万9692血清標本のうちから21の陽性反応が見られた(義烏11、麗水5、慶元2、永嘉2、蘭渓1)*66。
1991年には、血清検査でもネズミ類の血清標本6463のうち、14のものに陽性が見られた(義烏10、慶元2、鹿城1、寧波1*67)。1992年には同様に、1万6661標本のうちネズミ類の22が陽性(義烏7、麗水5、東陽5、寧波2、蘭渓1、龍游1、雲和1)*68であったが、1993年には陽性検出は5010標本のうち2例にとどまり(麗水1、寧波1)*69(、1995年も6842標本のうち陽性は9例(景寧、松陽、青田、義烏)*70)、1996年の陽性検出も1例にとどまり、1998年には4364標本のうち陽性は2例だけであった。浙江省が重視した3つの重要観察地点である麗水では1995年以降、寧波では1994年から、義烏では1997年以降、陽性の標本は発見されていない。したがって、動物間のペストは、活発な段階から落ち着きはじめている可能性も指摘されている。ただし、いまから5年前の1999年の報告によれば、ヒトペストの主要な媒介動物であるインドケオプスノミの指数は急に増大を始めていることが注目されている。麗水では40年代以来はじめて、大量のインドケオプスが発見されたのである。ペストが静息から流行D段階に入るには、インドケオプス指数の増加は重要な役割を果たしていると考えられており、このことは浙江省におけるペスト対策(ネズミやノミの監測の継続強化、ペスト発生模擬訓練、検査施設の充実)が必要だとされている*71。。ペストの危機は去ったわけではないのである。
おわりに
このようにペスト流行時およびその制圧運動の時期の公文書、新聞報道、人々の証言、そして今日の防疫関係者・微生物学者の検証によれば、1940年に浙江省衢県に投下され、また42年に同省の各地に地上散布されたペスト菌が、そして1941年に湖南省常徳に投下されたペスト菌が、日中戦争期から戦後にかけて1万人を越える大きな被害を生み出したことは確かであり、さらに50年を経た今日に至るまで現地に根を下ろしてネズミ類の間で流行を続けていることは確かな事実である。
ペストがネズミ間の流行に発展し、人間までも脅かす危険は常に存在していた。が、それを戦後に回避できたのは、日中戦争中とその後に設立された防疫機関の活動と、中華人民共和国成立後に何度も繰り返された、都市と農村の住民を大量に動員してのノミ・ネズミ駆除、家屋の消毒、ネズミの種類や密度の調査などの衛生運動が有効に作用したからに他ならない。しかし、そのためには精神的な負担は別にしても、薬品や衛生材料に多額の費用を要した。人々の労働日が奪われ、大きな経済的損失が生まれたことは、邱明軒氏の意見書が指摘するとおりである。
旧日本軍の細菌攻撃によるペストは、浙江省衢県・義烏・麗水や湖南省常徳県・桃源県などにおいて多数の犠牲者を生み、人々はその後も長期に渡って、再発防止のため大きな努力と損失を強いられてきたのである。
前述のネズミ類におけるF1抗体の発見について、2002年12月18日の日付を有する、湖南省常徳市の微生物学者が作成した湖南省常徳市鼠疫連合監測小委員会の報告は、次のように述べている*72。
1990年と1991年にわれわれが放射免疫法を用いて検出したF1抗体陽性の褐色イエネズミは、滴度も高く、本省が1942年に見舞われたヒトペスト大流行以後、始めたネズミ類の間で見出されたペスト抗体であり、このことはペストが依然としてわが省の常徳市において、ネズミの間で流行している可能性を示すものである。ペストとは、げっし類の動物の間に流行する自然疫源を持つ疾病であり、一定の条件のもとで人間に感染し、ヒトペストの流行をもたらす。ペストは誰もが知る激しい伝染病であり、それがもたらす被害は、いかなる疾病に類似するものではない。ペストがどのような周期で流行するかについては、世界的になお論争状態にあるが、ペストの自然疫源地は現実に存在するものであり、動物ペストの活性化と沈静化は人為的に転移できるものではない。そして、ネズミペストが存在するかぎり、ヒトペストが発生する可能性は存在する。
そして、今日なお、微生物学者たちが指摘する「ヒトペストが発生する可能性」とは、湖南省においてはもちろん、浙江省においても、否定しがたい日本軍の七三一部隊の細菌作戦の結果なのである。
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