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日中間の戦争処理問題についての意見書
−戦後日中外交交渉史の研究から見る−

関東学院大学教授   殷    燕    軍



目 次

第1 中日賠償問題の研究状況
1 日本側の研究について
2 中国側の研究について
3 日中両政府の解釈の違いとコンセンサスの不在

第2 日華平和条約の位置付け
1 日華平和条約の性格――講和条約の性格を満たしていない
2 日華条約による戦争終結と戦争処理問題

第3 日中共同声明の位置付け
1 国交正常化三原則と日華条約の扱い
2 賠償問題の処理と請求権の問題について
3 日中共同声明の「瑕疵」
4 日中平和友好条約は、平和条約ではない
5 日中間の外交文書の問題点
6 戦争犯罪による被害請求権の時効問題と戦争遺留問題

第4 真の和解のため
                

作成者 殷燕軍(Yin Yanjun)

1990年日本留学、94年一橋大学博士後期課程修了、95年博士号(社会学)取得、一橋大学社会学部助手、日本学術振興会特別研究員(Post-Doctoral fellowship)を経て、1999年中国南開大学政治学部教授、2001年ハーバード大学客員研究員(Visiting Scholar)、2002年4月以後関東学院大学助教授。専攻 国際政治・中日米外交史・東北アジア地域研究

主要業績:著書『中日戦争賠償問題』(御茶ノ水書房、1996年)、関係論説「吉田書簡と台湾」(『国際政治』110号 1995年)、「戦後日中関係における日華平和条約の意味」(『歴史学研究』1998年5号)、「戦後台湾の安全保障における米国の政策の変遷と中国の対応」(『アジア研究』第45巻3号 1999年11月)など多数の論文を発表。

専攻:地域研究・国際政治・中日米関係史。
日華平和条約 (以下日華条約と略称)締結交渉、日中国交正常化交渉など戦後日中米外交史を中心に、研究を重ねてきた。

       
戦後日本と中国との間に、日中関係についての重要文書は四つある。
つまり、1952年4月日本と台湾政権*1との間に結ばれた日華平和条約*2、1972年9月29日日本国政府と中国政府との間で発表した日中共同声明、1978年8月23日日本国政府と中国政府との間で結ばれた日中平和友好条約、1998年11月発表された日中共同宣言である。
そのうち、日中間の戦争処理、賠償請求権問題などに関係している文書は、前の三つである。本意見書は、これらの文書が日中間の戦争処理をどのように規定しているか、日中間の戦争処理、賠償問題などは果たして解決済みになったのか、について検討するものである。


第1 中日賠償問題の研究状況

1 日本側の研究について
日中戦争処理問題に関する本格的な研究はそれほど多くはなかった。一番最近の研究として石井明等編『記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』(岩波書店、2003年)がある。その中の論文「日華平和条約締結から日中国交正常化回復へ」で石井明氏は、「日華条約締結交渉で『日本は賠償するといっているが、台湾側が善意で、賠償請求を放棄する』という趣旨の案文(台湾側案)さえ受け入れられないとして、東京からは再交渉を指示し、台湾側は譲歩を重ね、最終的にまとまった条約本文、議定書、交換公文には賠償という言葉は入っていない。「同意された議記録」の最後に、「中華民国は役務賠償を自発的に放棄した」と書かれるにとどまっている。
また「日本側は中華民国が中国大陸の主権を有する、と受け取られる表現を入れることは拒否した。適用範囲についても台湾側が譲歩した」(362‐63頁)。「日華平和条約がある限り、中国大陸での戦争状態を終結させ、中華人民共和国との関係正常化をはかることは不可能になる。吉田内閣は、同条約の締結時、適用範囲を限定し、中華人民共和国との関係においては白紙である」と指摘した(368頁)。
さらに「日華平和条約は平和条約という性格上、条約の更新・廃棄の手続きを定めた条文がない。そのため、外相の記者会見での声明という形式によっても条約を終了できる、と考えたわけだ」と日本政府の考えを論じた。
また田中明彦『日中関係 1945‐1990』(東京大学出版会、1991年)は「日華条約は一に台湾政権との間の関係において一致したのであり、中共政権についての関係はないのであります」と言及した。
日本国際法学会編『国際法辞典』(鹿島出版会、1975年版)の「日華平和条約」の項は、「最大の特徴は国民政府の“支配下に現にあり、及び今後入るべきすべての領域”に適用するという限定条項である。このために、日本と中国の戦争状態が完全に終わったか否かについても疑問が残された」(高野雄一、526頁)とある。同じく『国際関係法辞典』(三省堂、1995年)は日華条約について「日華条約によって41年12月9日の中国の開戦通告によって発生した日中間の戦争状態は法的に終了した」「ただし(条約は適用範囲条文で)同政府の支配下にない中国大陸に関して疑義を残した」(杉山茂雄)とあり、日本政府の解釈矛盾も明白にしている。また「講和条約」の項は「変態的な方式、手続C日本と中華民国間の講和条約は、中華人民共和国政府の統治下には及ばず(交換公文1号)、後に日本と後者との共同声明を機会に戦争状態終結、国交正常化」(入江啓四郎、239‐40頁)としている。
つまり、日華条約の適用範囲に含まれない中国大陸地域との戦争状態の終結を宣言することはできないことを指摘したのである。ただ「共同声明を機会に戦争状態の終結を行なった」という表現は曖昧であり、実際の共同声明には戦争状態終結の宣言はなかった。

2 中国側の研究について
呉学文『当代中日関係(1945‐1994)』(時事出版社、1995年)、孟国祥・喩徳文著『中国抗戦損失與戦後索賠始末』(安徽人民出版社、1995年)、高平等編著『血債:対日索賠紀実』(中国国際文化出版公司、1997年)、袁成毅『中日間的戦争賠償問題』(陝西人民出版社、1999年)、羅漢平『中国対日政策与中日邦交正常化(1945‐1972年)』(時事出版社、2000年)などはいずれも中日国家間の戦争処理問題は、1972年共同声明をもってはじめて解決されたとしている。
ただ、民間賠償請求権については、解決されていないというのが主な論調である。例えば管建強「中日共同声明等による対日賠償請求権放棄問題に関する研究」などである。また、一般民間人の間では、賠償等の戦争処理諸問題が未解決のままであるという認識は、一般的に存在している。

3 日中両政府の解釈の違いとコンセンサスの不在
これまでに日本政府は、「一貫」して日華条約をもって日中間の戦争状態を終結し、戦争処理に関する諸問題は日華条約により解決済みであると主張してきた。一方、中国側は終始一貫して「日華条約」の無効を主張し、この日華条約の存在により中日関係は、20年間(1952―1972年)も、正常化できないまま推移してきた。
日本側の主張の根拠として大平外相は国交正常化交渉第一回目の首脳会談(1972年9月25日)で次のように発言した。
「中国側がこの(日華)条約を不法にして無効であるとの立場をとっていることも十分理解できる。しかし、この条約は国会の議決を得て政府が批准したものであり、日本政府が中国側の見解を同意した場合、日本政府は過去20年にわたって、国民と国会を騙し続けたという汚名をうけねばならない。そこで、日華平和条約は国交正常化の瞬間において、その任務を終了したということで、中国側の御理解を得たい」。
これに対し周恩来総理は「田中・大平両首脳は、中国側の提示した“復交三原則”*1を十分理解できると言った。これは友好的な態度である*2」と応じた。
第二回目の首脳会談で周恩来総理は「双方の外交関係樹立の問題に、日台条約や桑港条約(ママ)*3を入れると、問題が解決できなくなる。これを認めると、蒋介石が正統で我々が非合法になるからだ。そこで、中国の“三原則”を十分理解することを基礎に、日本政府が直面する困難に配慮を加えることにしたい」と日本側への配慮を見せた。
ここで最も重要なことは、日本政府の「復交三原則」への態度表明である。日本政府が中国側の三原則を否定せず十分理解することは、日中関係正常化の大前提であり、日中関係の基礎であった。
結局、日中共同声明は直接的に日華条約に言及せず、「日本側は、中華人民共和国政府が提起した“復交三原則”を十分理解する立場に立って国交正常化の実現をはかるという見解を再確認する。中国側は、これを歓迎するものであり(前文「戦争の反省・復交三原則」)」(『六法全書』より)、さらに1972年9月29日日中共同声明が発表された後、大平外相の記者会見で「日中国交正常化の結果として日華条約の存在意味は失い終了した」と日本側の一方的な措置として日華条約の終了を宣言した。
また日本外務省公開文書から明らかにされたように、中国側は、日中共同声明において日華条約に言及しないことに同意したのは、日本側が中国側の「復交三原則」を十分理解することを大前提としたためであり、逆に「中華人民共和国は、その趣旨を十分理解した上、日中共同声明に署名した」という被告の主張(日本政府の中国人民間賠償訴訟での主張)ではないことをはっきりさせなければならない。「中国側が十分理解した上」という被告の主張には、その根拠(文書)はないのである。
そして日本側の措置には以下の意味がある。
一、日華条約を終了させることにより、これまでに堅持した日華条約有効の原則を貫いた。だが、その有効性は、1952年8月5日(発効日)から1972年9月29日終了までしかないことも意味する。つまりその有効性は限定的である。
二、日華条約の終了により、中国側の復交三原則を十分理解する立場を示し、中国側の立場に反対、否定しないことも意味する。
三、日華条約のもう一つの当事者である台湾当局への配慮が少なく、一方的な措置として相手との外交関係を完全に断ったのである。日本側には、日華条約を終了させる法的手続が完備されておらず、法的根拠も乏しいと言わざるを得ないのである。
以上の分析で分かるように、日中双方には日華条約に対する基本的な認識に大きな隔たりがあり、最後まで見解の違いを補うことはできなかった。


第2 日華平和条約の位置付け

1 日華平和条約の性格――講和条約の性格を満たしていない

(1)「二国または数国間に発生した戦争状態を終局的に終止し、平和の正常関係を回復し、あわせてこれに関する基本的条件を定める条約が講和条約である」と定義される。講和条約の要件として、戦争状態終結の宣言、領土、賠償などの諸問題の処理は必要である。
しかし日中間の戦争は、日本と台湾との戦争ではなく、実際に戦争状態にあったのは中国大陸との間である。1949年10月の中華人民共和国の成立で、「中華民国」の消滅を宣言され、中国に関する「中華民国」のすべての主権、権限などが消滅してしまった。
一方、日中両国には講和条約というこれらの諸要件をすべて満たした文書は存在していないことは周知のとおりである。また、日華条約の条約適用範囲条項により、中国側との諸問題はなにも解決できない。日本側は「日華条約の締結それ自体は有効である」と主張しているが、最後自発的にこれを「終了」した。つまり事実上の破棄である。
しかし平和条約はその性格上、戦争の再開がない限り、有効性は無期限なものであり、その一方的な破棄は、戦争状態の再宣言に等しいものである。したがって、もし日本政府が本当に日華条約を平和条約と認めるならば、そう「軽率」に「平和条約」を破棄し、戦争再開に等しい行為を行なうことはできない。
そもそも「平和条約」を破棄する行為は、日本国憲法第九条「戦争放棄条項」にも明白に違反することになる。
したがって、日華条約については、日本側は一方的な終了により、みずから日華条約の「平和条約」という性格を否定したことになる。

(2)日華条約の条約適用範囲条項
条約の交換公文第一号として、「この条約の条項が、中華民国に関しては、中華民国政府の支配下に現にあり、または今後入るすべての領域に適用がある」旨の了解があった。この条約適用範囲に関する意味、文書の作成過程は次のとおりであった。
日華条約締結交渉にあたり、日本側もアメリカ側も強く求めていたのは、この条約適用範囲の限定であった。最初蒋介石――台湾政権は、自分が全中国の「代表政府」である立場から強く拒否し、抵抗し続けたが、日本と条約を結ぶためには、このような「侮辱的」とも言える限定条項を受け入れざるを得なかった。
しかも筆者の研究では、この条約適用範囲条項は、蒋介石が自ら作成し、アメリカ側に提示したのである。また台湾側の条約適用範囲案を受けて、ダレス米国対日講和大使が日本側に見せて、最終的には「吉田書簡」(1951年12月24日付)の原稿となったのである。
日本政府はこの吉田書簡に書かれた「条約適用範囲」に基づき、台湾政権との条約締結交渉に臨んだ。締結交渉の中、日本側全権は、吉田書簡の内容、つまり後の条約交換公文第一号の内容について一文字の修正も応じないという強い姿勢を示し、最後まで日台間の大きな紛争点であった。
周知のように、条約適用範囲により制限されている通り、台湾政権は、その条約の発効から「終了」まで、台湾・澎湖地域しか支配しておらず、中国本土への支配はなかった。勿論、日華条約も中国本土には適用できないことは明白である。
また、前述のように、日華平和条約は限定的条約(条約適用範囲条項により)であり、中国大陸には及ばないことは日本側の国際学界でも認めている。ちなみにこの日華条約を基礎にして、全中国との戦争状態の終結や戦争処理などの諸問題を解決することも到底できないことも明らかである。
さらに被告側が主張しているように、日華条約を締結する吉田茂内閣−最も肝心な条約締結当初の日本政府は、「一貫」して台湾政権――「中華民国」を全中国の代表政府として承認したのではなく、台湾政権を全面的に承認したものではなく、日華条約はあくまでも中国との全面的関係のOne Stepと見て、台湾政権に対する全面承認はしない政策を取っていた。吉田内閣としては中国との関係を考慮し、それとの関係改善の余地を残そうとしたのである。そして後の鳩山一郎内閣も同じ政策を取っていたのである。
以上の諸問題に関する詳しい検証は、拙稿「吉田書簡と台湾」(『国際政治』第110号1995年10月)、「戦後日中関係における日華条約の意味」(『歴史学研究』1998年5月号)、著書『中日戦争賠償問題』(御茶ノ水書房、1996年)等を参照されたいが、主要なものとして次の例を挙げることとする。
1952年5月30日林百郎(共産)議員の「サンフランシスコ講和条約第14条に基づき日本国の提供する役務賠償は、これは放棄するとあなた方がいう中華民国はいっているのでありますが、これは中国大陸全部に対する役務賠償を放棄するということを言っているのですか」との質問に対し、石原幹市郎外務次官は「重ねて申し上げますが、この条約には林委員が言われたような予見と予定とかいうようなことは何らいたしておりません」と答え、倭島英二条約局長は「いまご指摘の議定書1の(b)の関係でございますが、これは中華民国に関する限りこういう合意にしたということでございます」と台湾地域に限定する発言をした。
6月18日、参議院外務委で、曽弥益(社会党右派)議員が「“日本と中華民国との間の戦争状態の終了がどれほどの効力をどの地域に対して持つかについて”もういっぺん全面的を包括したはっきりした説明をして頂きたい」と質問したのに対し、倭島局長は「例えば“日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生ずる日に終了する”ということでございますけれとも、実際問題として、そういうことを言い放しでは、甚だ現実の状態と離れてしまう。例えば中華民国政府の支配下にない地方において行なわれたこと、或は起こった事件ということについて中華民国政府が責任をとらなきゃならんというようなことが生ずるかもしれない。それは実は酷だという気持ちがするわけであります。従ってその支配下にない地域でおこったこと、やはりそういう問題については現実の事態に引き戻しておかなければならないということでありまして、適用範囲のところに、交換公文にありますように限定したというようなふうに解釈をしております」と答えた。
さらに岡崎勝男外相は「今回の条約におきましては、相手国はリパブリック オブ チャイナというもので、交換公文の第二段にあるのはチャイナである。こういう違いは我々も認めております。これがどういうふうに発展していくかは、これは一つの政治情勢によると思いますけれども、要するにこの吉田書簡の趣旨によりましてチャイナとの間には究極においては全面的な関係を打ち立てたい。そこで現在可能なのはリパブリック オブ チャイナとかかる関係に入ることである」と台湾政権への限定承認を認めた。
6月26日、曽弥議員の質問に対し、吉田茂総理は「日華条約の締結は将来中国との全面的な政治的、経済的関係を結ぶまでのワンステップである」と答弁し、日華条約の限界を認め、曽弥議員は「ただ一点です。この条約によって日本政府はこの中華民国国民政府というものを全面的な中国の主人として承認したものではない。その点は総理のはっきりしたお考えを、イエス・オア・ノーでお答え願います」と求め、吉田は「これは条約にもはっきり書いてありますが、現に中華民国政権の支配しておる土地をもつ中華民国との間に条約関係に入る。将来は将来であります。併して目的は終わりに一中国全体との条約に入ることを希望してやまないのであります」と答えた。曽弥は「総理、ずばりと言えば、全面的な承認ではないということでございましょう」と詰め、吉田「そういうことです」と「誤解の余地のない言葉」*1で台湾政権への限定承認を認めている。
つまり、日華条約調印当初から日本政府は台湾政権に対する全面承認ではなく、限定承認であることや日華条約の限定性も認めていたのである。また台湾政権(「中華民国」)は日本政府からみても最初から国際法上の当事者としても不合格であった。
当初から「中華民国」(台湾政権)を中国の国家として認めない日本政府は、どうしてこの政権との間で結ばれた「条約」をもって全中国との戦争問題を処理できるのであろう。当初全中国を代表できなくなった「中華民国」(日本政府も同認識だった)と結ばれた日華条約は、日本国政府と中国の一地方政権――台湾政権との間で「地域的な」性格しかないのである。日本政府は「戦争状態の終了、賠償、財産及び請求権の問題は一度限りの処分行為だ」と考え、「中華民国」との間でこれを処理したと主張する一方、当初からも「中華民国」を全中国の代表政府とは認めていなかった。また日華条約の適用範囲条項を加えて、日本国と中国との間で日華条約により、戦争処理諸問題の「一度限りの処理」はできるはずがなかったのである。
日華条約の適用範囲制定過程をみても分かるように、日本政府はまさにこの適用範囲の設定により「中華民国」を中国の一地方政府としか認めず、将来全中国との関係正常化を求めていく予定であった。いまさら「一貫して当初から」「中華民国」を全面承認していたと主張することは、これまでの日本政府の答弁及び史実とは全く違っており、虚構な主張であると言わざるを得ないのである。
「適用範囲」条項の内容を照らしても、当時の締結交渉のやり取りをみても、その範囲が日華条約のすべての条項に適用されることしか解釈できないのである。この条約適用範囲条項は、戦後日本の対中政策の「聖書」とも呼ばれる「吉田書簡」(1951年12月24日付)の核心的内容であり、日本政府が日華条約締結交渉過程において最も堅持した内容でもある。もし日本政府が当初「中華民国」を全面承認するつもりがあれば、この条約適用範囲条項の設定もなかったのである。

(3)日華条約の「瑕疵」
日華条約の「瑕疵」は明白である。
第一、「中華民国」、すなわち「中国政府」という虚構の上に立つ政権と締結した日中関係を律しようとする条約である。この虚構性について、当初から多くの批判と疑問が呼び起こされていた。
第二、「中華民国」に対し、日米両国は、条約適用条項を強要し、日華条約の有効性を制限させようとしたのである。この限定条項により、日華条約は、「中華民国」に関しては、終始台湾・澎湖地域に限定され、中国本土への適用は不可能にした。この条約適用範囲条項は、台湾政権側が主張したものではなく、日本、アメリカが強く強調したものである。またここに特に強調しなければならないのは、日本側は、締結交渉のなかでも、国会の条約審議のなかでも、この条約適用範囲にこだわり、日華条約の限定性を重要視したのである。
第三、中国の代表政府である中華人民共和国政府は、この日華条約の有効性について最初から完全に否定し、これを認めたことがなかった。国際法の相互主義の原則に立ち、二国関係に関する条約は、一国だけが認め、一国が否定するものであれば、それは無効になり、少なくともこの一方だけが承認するものをもって日中関係を律することは不可能であり、法的根拠もないのである。
第四、百歩譲ってたとえ、日本政府が主張している日華条約の有効性が認められても、その適用範囲条項により、日本は、中国の一「反政府組織」、或いは一つの地方政権――台湾政権との間で結ばれた中国の一部分「地域協定」にすぎないことを意味すると言わざるを得ないのである。
第五、さらにこのような限定的な日華条約ではあるが、日本政府の一方的な措置により終了させられ、日本政府は自らその条約の「平和条約」という性格を否定したのである。

2 日華条約による戦争終結と戦争処理問題

(1)戦争状態の終結について
日華条約第一条には、「日本国と中華民国との間の戦争状態は、この条約が効力を生じる日に終了する」と規定されており、また1941年12月9日中華民国が対日宣戦布告を発した結果として、今回の戦争終結宣言がそれと関連しているかのように見え、一見それなりの「正統性」があるように見えるが、しかし、これが中国との戦争状態の終了宣言になれるかは疑問である。
前述のように1949年10月1日の段階で「中華民国」の中国代表性がすでになくなり、中華人民共和国はそのすべての主権、権限などを継承した。一国の主権は分割することはできないことが国際法上の重要な原理である。また日本によくある議論では、日本は中華民国と戦争状態にあり、中華人民共和国とではないということであるが、これも大きな問題がある。つまり、大日本帝国政府(1890年発効大日本帝国憲法による体制)も1952年の時点には存在しておらず、その権利、権限などそのすべては日本国政府により継承されている(1947年5月発効の日本国憲法による体制)。
それと同じように、中国の場合、中華民国から中華人民共和国へと政権の移行と法的継承(1949年10月)はあった。つまり政体の変化が、その代表する国家を変えることはなく、その継承政府は、日中双方とも発生しているのである。
さらにこの中華人民共和国の前身である中華ソビエト共和国政府(1931年中国江西省瑞金)が成立し、1932(昭和7)年4月26日に国民政府より9年も早く、大日本帝国政府に対し、宣戦布告を行なったことは周知の通りである。
これらの検証で分かるように、1952年8月(日華条約の発効)の時点で日本国と虚構になった「中華民国」との戦争状態終了宣言は中国大陸をカバーすることはできず、波及効果もないことは明白である。さらに全中国主権の継承政府である中華人民共和国政府との間に行なわれる戦争終結宣言こそ、はじめて日中間の戦争終結宣言となり、その有効性も全中国をカバーできるのである。残念なことにこのような戦争終結宣言は今日にいたるも日中両国の間には行われていないのである。
 
(2)賠償問題に関する表現について
日華条約議定書1bには「中華民国は、日本国民に対する寛厚と善意の表徴として、サンフランシスコ条約第十四条(a)1に基づき日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する」と規定されたが、賠償や請求権といった文字さえなかった。この放棄が、全中国の対日戦争賠償請求権放棄に当たれるかどうかが、また大きな問題である。
 先ず、前述のように「中華民国」はもはや、全中国を代表できない地方政権になり、また日華条約の適用範囲条項に規定されていない地域――台湾政権の支配下にない地域までその効力を発効できるとは認められない。その法的な根拠も大変乏しいといわざるを得ない。
第二、中国大陸を支配している中華人民共和国政府は当然、このような取決めを認めたことはない。
 もちろん、前述のように日華条約は、当事者である「中華民国」が全中国を代表できないという、日本政府も当初認めている事実と、日華条約の適用範囲により、そのすべての条項は、中国大陸に適用できないのであり、日中間の戦争処理諸問題を解決したとすることはできなかった。
即ち、日華条約の位置付けは、その条約適用範囲条項に制限された通り、あくまでも日本国と中国台湾地域の一地方政権との間で行なわれた「地域」的なものに過ぎず、日中間の講和条約――平和条約ではないことは明らかなのである。
また、戦後初期、日本の対中政策は、台湾政権との間で結ばれた日華条約で中国大陸との政治関係を絶ち、アメリカの対中封じ込め政策に荷担した形で、冷戦構造のなかに維持してきた。1970年代はじめ、アメリカの世界戦略、対中政策が大きく転換したことにより(ニクソン・ショック)、日本政府も速やかにそれまでの「虚構」であった対中政策を改め、すんなりと「日華条約」を終了させ、中国政府と国交正常化を求めたのである。日華条約の処理方法からもわかるように、この条約には平和条約の性格がなく、任意的に終了でき、破棄できるものに過ぎないこと、これにより、日本政府が自ら日華条約の「平和条約」という法的な性格を否定し、政治的な色合いの極めて強い文書であることを事実上認めたことになると言わざるを得ないのである。


第3 日中共同声明の位置付け

1 国交正常化三原則と日華条約の扱い
三原則の第三項には日台条約は非法であり、破棄しなければならないとなっているが、
中国政府は、日本政府の「困難」を考慮した形で、日本側の自発的な処理に任せた。
72年9月28日第四回目の首脳会談で田中角栄総理は「台湾は日中国交正常化後は戦争状
態に戻るといっているから、日本の総理としては困っている」と言った。周総理は「今回の共同声明につき、中国側で、戦争状態の問題につき、表現を考えたのは、その点に配慮したからである」と双方の妥協を説明した。
つまり、日本側は、日華条約の破棄による効果は十分覚悟しており、「平和条約」破棄なら戦争に等しいことであるのは、十分承知している。また中国側は、日本側の「困難」を配慮し、「不正常な状態」に換えたのである。
 結局、日本側は、言葉的には、日華条約を破棄したのではなく、終了したという言い方で日華条約の無効化をさせたことにより、三原則の第三項の要求に応じたのである。また三原則の第一項は、共同声明第二項「中華人民共和国政府は中国の唯一の合法政府であることを承認する」と、三原則第二項は、共同声明第三項、中華人民共和国政府は、台湾が中華人民共和国の領土の不可分の一部であることを重ねて表明する。
日本国政府は、この中華人民共和国政府の立場を十分理解し、尊重し、ポツダム宣言第八項に基づく立場を堅持する」(『六法全書』参照)と、それぞれ処理し、中国側の正常化三条件を満たしたのである。

(1) 日中間の戦争状態終結宣言の「合意」はできていない。
戦争状態終結の宣言について、72年9月国交正常化交渉において、日本側は、日華条約を盾に、日中間の戦争状態終結の宣言に難色を示した。そのために、最終的には共同声明の前文に以下の文書を書き入れた。
「両国人民はこれまで存在した不正常な状態に、終止符を打つことを切望している。戦争状態の終結と日中国交の正常化という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう」ということで落ち着いたが、この「こととなろう」という表現は、推量形であり、願望と推測にすぎず、当然、戦争状態終結の宣言とはならなかった。
ただ、「戦争状態の終結…という両国国民の願望の実現は、両国関係の歴史に新たな一頁を開くこととなろう」という言い方は、この時点(共同声明が出された時点)で、両国国民は、このような戦争状態の終結はまだしていないことを意識し物語っており、日本側の戦争状態の終結済み主張への否定とも解釈されている(中国側の主張)。
もちろん日中双方の合意のない日華条約では、戦争状態の終結宣言の内容はあっても、日中両国の国家間戦争終結宣言にはならない。また日本側の一方的な解釈で日中間の戦争状態の終結を宣言したことにはならない。
さらに日本側が一方的に「正常化の結果として日本側は日華条約の存在意味を失い終了した」と1972年9月29日に日華条約の終了(失効)を宣言したことは、日華条約の所謂「戦争終結宣言」を否定する意味があると考えざるを得ない。逆にもし日華条約に「平和条約」という性格があれば、その終了宣言は、双方がまた戦争状態に戻る意味を含むと考えられる。
少なくとも日中間の戦争処理問題に関しては、必ずしも解決済みとはそう簡単に言えるものではないと指摘しておきたい。日中双方は、関連文書に対する共通したコンセンサスはなく、日中国家間の戦争状態の終結や賠償請求権問題については、日華条約締結交渉、国交正常化交渉からもみても、双方認識の違いは極めて大きく、解決済みとは認められない。その法的根拠も乏しい。
日本側は、(戦争終結の時期について)日中国交正常化交渉では「これまでの日中関係に対する法的認識についての双方の立場に関して決着をつけることは必要ではなく、また、可能でもない。それはそれとして、今後は、日中両国間に全面的に平和関係が存在するという意味で、戦争状態終了の時期を明示することなく、終了の事実を確認することによって、日中双方の立場の両立がはかられるとの考えである」(下線は筆者)と会談前でも用意した「対中説明」(公開資料別紙1)を明らかにした。つまり、日本政府としては、交渉前から戦争状態終結について、日中双方の「法的認識」立場に関する決着は必要ではなく可能でもないと認めた。また中国側もこれを重大な原則として譲るわけにはいかない。結果として、日本政府は、現在も1972年日中共同声明をもって戦争状態終結宣言を行なったという中国側の解釈に反対し、認めていないのである。しかも共同声明の文字を読んでも分かるように戦争状態終結宣言とは言えないし、また日中双方は戦争状態の終了の事実を確認したことを読み取れない。
日本政府はいまも、日華条約と日中共同声明を両立させ、その「法的整合性」を保つ立場をとっている。しかし問題は、このような両立論と法的な整合性は、不可能なことである。一方の当事者である中国(大陸)側としては、その日華条約の合法性を一度も認めたことはなかったために、日中双方には、日華条約と日中共同声明との両立ができないばかりではなく、両文書の整合性は存在しないと言わざるを得ないのである。

2 賠償問題の処理と請求権の問題について

(1)中国の戦争賠償請求放棄は法的表現ではなく、その請求「権」は放棄できなかった。
日中間の公式交渉会談で日本側が、賠償問題はすでに日華平和条約の段階で解決済みと主張し、「一国に二度の賠償放棄を認められない」と、中国側の賠償請求権放棄を「受け付けない」立場を表明した。共同声明での文言をめぐって、日本側は依然として日華条約が有効性をもつというこれまでの法律論を主張し、中国側からの「二度目」(台湾側が一回目)の賠償請求権の放棄に難色を示した。その結果、「戦争賠償請求の放棄、といった文言は、中国側の強い要求で共同声明に入れられたが、賠償請求権の「権」については、日本側の強い要望により文章から削除させられた*1。
ところで日本政府案と中国側の声明案とは、賠償条項の内容に違いが見られた。賠償条項について、日本政府案の第7項としながらも、全項に括弧をつけたのである。その括弧について日本の「対中説明」には次のように記している。「賠償の問題に関する第7項は、本来我が方から提案すべき性質の事項ではないので、…日本側提案のような法律的ではない表現であれば、日中双方の基本的立場を害することなく、問題を処理しうると考える」と。それにしたがって日本政府案には、「中華人民和国政府は、日中両国国民の友好のため、日本国に対して、両国間の戦争に関連したいかなる賠償の請求も行なわないことを宣言する」と書かれていた。ここに二つの問題が浮き彫りされている。
一つは、日本政府は、「解決済み」とする賠償問題についても、「いかなる」賠償の請求ということで戦争賠償問題の「完全」解決を求めようとしたのである。もう一つは、戦争賠償請求権の放棄ではなく、「賠償の請求を行なわないことを宣言する」という形で、中国側の戦争賠償請求権の存在を認めること自体を避けようとした。つまり日本側はそもそも中国側の賠償請求さえ認めようとしなかったのである。
結局、日中共同声明第五項には「中華人民共和国政府は、日中両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言する」と書かれた。「戦争賠償請求を放棄する」といった請求権の“権”をとったことにより、それが法的表現ではないことを意味した。そのため日中間においては、戦争処理や賠償問題が法的に解決される文書が存在しているのかどうかも問題になった。
つまり日本側が堅持した通り、この記述は法的表現ではない。「賠償請求は放棄したとはいっても、請求は放棄していない」。またその権利はまだあることはもちろん、今回は請求しない。その請求の権利を日本側の強い要請で、留保させられたか、中国側がその請求の権利を放棄できなかったか、と解釈するしかないのである。逆にもし「賠償請求を放棄する」と「賠償請求権を放棄する」とは同じことだと解釈するならば、なぜ当初「賠償請求」のをわざわざ日本政府が取らなければならないであろうか、と問わざるを得ないのである。
この経緯は、日本側にとって、“日華条約の整合性”のため、好都合のように見えるが、実際に新しい問題を発生させた。つまり、日本側の認識として「法律的ではない表現」しか賠償問題の言及を認めないという立場により、せっかく合意された共同声明にある戦争処理に関する文言は、いずれも「法律的ではない表現」になることを、日本政府が認めたことを意味するからである。言い換えれば、中国側が日華条約の法的合法性を否定し、日本側が日中共同声明の法的意味を否定する解釈をすることにより、日中間の戦争処理問題は、今日になっても依然として法的には未解決のままにあり、双方の合意ができていない状態なのである。
 この問題に関する毎度の政府見解のなかで、必ずといっていいほど、「中国が賠償請求権を放棄した」と断言しているのであるが、それは日本政府が「うっかり」したためかどうか、日本政府が自ら求めた結果として請求の「権」を文書から取ったことを忘れてしまったのである。その結果、中国側がその「権利」を放棄した法的な根拠は、日中共同声明を含め、何処にもないはずである。

(2)民間請求権の放棄を含むかどうかについて
サンフランシスコ対日講和条約を含め、日本がその他の国との間で成立したすべての賠償問題に関する条約や協定には、必ずといっていいほど、政府及び国民という文言が入れられ、また賠償請求権問題の完全解決、再請求できないなどを定めている。
しかし、日中共同声明には、よく知られているように、「中華人民共和国政府」だけがあり、「人民」や「国民」の文言はなかったのである。この表現は決して無意味ではなく、大きな意味合いがあることは自明である。
つまり、中国政府の意思表明は、民間賠償請求権の放棄までなかったものであるとしか解釈できないのである。中国側の多くの学者も同じ認識を持っている。さらに前述のように、中国側の請求「権」を放棄できなかった経緯を考慮すれば、なおさらである。
ちなみに日本側の被害側の民間賠償請求権までを放棄したという説は、そもそもその法的根拠が乏しいものであるといわざるを得ない。

3 日中共同声明の「瑕疵」

(1) 日中共同声明は講和条約ではない。日中共同声明は政府協定として、日中両国の国交正常化のため締結された文書である。
この性格上の理由で、当初から日中間の諸問題の法的解決を求めたものではなかった。政治的妥協により成立した日中共同声明は、戦争処理の諸問題をほとんど先送りにした形で片づけた。
 
(2)日中共同声明には、戦争終結宣言はなかった。
上述のように、日本側の強い反対で、共同声明には、戦争状態の終結宣言は入れられず、「不正常な状態」という表現で片づけたが、それは当然、戦争状態の終結とは全く違うものであることは自明なことである。
ちなみに大変残念なことに、今日に至るまで、日中間には、戦争状態の終結宣言は出されていないままになっている。もちろん、前述の通り、当初日本政府の政策と日華条約の瑕疵により、日本側が主張している日華条約第一条に規定されている戦争状態の終結は、直に日中間の戦争状態終結宣言にはならないのである。中国側は、最初から最後まで日華条約の否定により、日本側の一方的な宣言か、条約適用範囲条項により、中国大陸との関係には、波及できないことは当然の結果である。

(3)戦争賠償請求権の放棄は、日本側の反対でその「権」が抜けた結果、もともと放棄の意思があった中国側は妥協として、請求「権」の留保、または請求の「権利」を放棄できなかったと解釈しかできないのである。もちろんこれにより日中間の戦争賠償請求権問題の解決は、最終的にはできないままになってしまったのである。共同声明は、政府間協定の性格であるため、もともと法的な意味は薄く、あくまでも日中国交正常化ための文書として取り扱った。

(4)日本政府は、日華条約との法的整合性にこだわり、共同声明に対する解釈と認識も、曖昧である。すでに検証したように、正常化交渉のなか、日本側は、日華条約の「正統性」を守るために、共同声明の表現をできる限り、法的表現ではなく、政治的表現に限定させようとした。
それによって、中国側の日華条約の否定と併せて、結果的には、条約適用範囲と締結直後の日本政府の見解により、日華条約の法的整合性を否定され、共同声明もこのような重大な法的文書にならず、いまでも日中間には、今日にいたって戦争状態の終結宣言や講和条約など最も肝心な平和条件が不完備のままになったのである。

4 日中平和友好条約は、平和条約ではない

平和友好条約の性格に関して、外務省史料公開文書とこれまでの研究成果と合わせて分析すると、中国側は、日華条約に対して、最初から無効であり、破棄しなければならないと主張してきた。それと関連して日中間の戦争状態や戦争処理などの諸問題も1972年の国交正常化まで依然として存在していると考えてきた。
一方、72年7月の段階では「自民党日中協で初歩的な一致を見た二つの段取りがある。一つは共同声明で国交回復し、その後、平和条約を締結する」というものであった(王暁雲、中国外務省アジア局次長報告、竹入メモにより)。つまり、日本側も日華条約の有効性を主張しながらも、中国大陸とも平和条約を結ぶ覚悟はあったのである。日本は中国側の「日華平和条約が不法であり、破棄しなければならない」という原則的立場について十分理解し、尊重することはその正常化の前提にもなる。だが共同声明は講和条約にはならない。
しかし第一回目の首脳会談では、周恩来総理は「共同声明で国交正常化を行ない、条約の形を取らぬという方式に賛成する」と発言し、妥協した。また日中双方は、共同声明の段階ですでに平和友好条約は「講和条約」ではないという認識を前提に、それを締結しようとした。周恩来総理は「これ(平和友好条約)には、平和五原則に基づき長期の平和友好関係、相互不可侵、相互の信義を尊重する項目を入れたい」と説明し、平和条約の性格を否定した。
つまり、日中間の重要文書である日華平和条約、日中共同声明、日中平和友好条約、そのいずれも日中双方とも同時に認めている、厳密な平和条約(the Peace Treaty)ではないことは、明らかである*1。今日になっても、日中間においては、双方とも認めている戦争処理に関する平和条約は、存在しないことを意味する。平和条約の不在は、日中双方にとって決していいことではなく、戦争遺留問題の全面解決にとっても極めて大きな障害になっている。
また日中平和友好条約(前文)は、「日中共同声明の諸原則を厳重に尊重すべきである」と規定し、戦争処理の根拠となったが、その諸原則には、当然共同声明第五条の賠償放棄がある。しかし前述のように、この第五条は、日本政府の強い要望で賠償請求権の「権」を抜かれ、中国政府の賠償請求の権利を留保させたのか、放棄できなかった結果となり、それも尊重しなければならないことになる。

5 日中間の外交文書の問題点

 上述のように、現存している日中両国の外交文書には、戦争処理に関していえば、それぞれの問題と「瑕疵」があったために、日中両国には、法的に日中関係を律するものは存在しないか、完備されていないに等しい状態にある。それらの大きな問題点をまとめると、以下の通りである。
1、 日中双方には、戦争終結宣言の文書は存在していないこと。
2、 日中間の戦争処理諸問題を律する「平和条約」(the Peace Treaty)が存在しないこと。
3、 戦争賠償請求「権」(国家と国民とも)を抜かれ、賠償の請求権は放棄できなかったこと、しかもその「権利」を放棄した根拠はないこと。
4、 このような共同声明による戦争処理の粗末さにより国民レベルの不信感が根強く存在すること。
5、 戦争処理の不完全により戦争遺留諸問題が山積し、まだまだ続出していること、
などが挙げられる。

6 戦争犯罪による被害請求権の時効問題と戦争遺留問題

 「十五年戦争」とも呼ばれている日中間の長期的戦争は、日中両国に、特に被害者側の中国と国民に多大な損失を与え、侵略された中国とその国民に深い傷跡を生じさせられている。戦争は60年も経とうとしている今日、戦争遺留問題は、依然として数多く残り、またチチハル市の毒ガス漏れ事件のように、日本の対中侵略戦争による被害と損失は、歴史問題ばかりではなく、現実問題としても現在でも発生している。

(1)本件――731部隊の細菌戦による被害訴訟は、まさに一般的な民事事件ではなく、戦争犯罪による被害――細菌などの使用は戦時法と国際法に禁じられている犯罪行為である。国際法原則から考える時、戦争犯罪に関する時効制限はなく、今日に至って、ドイツやイスラエルなどは、ナチスドイツの戦争犯罪人を追及している。1970年代国連も戦争犯罪に対する追及には時効なしという決議が出されている。
したがってこのような戦争犯罪による被害請求権案件の特殊性を考慮しても、一般的な民事事件と同じように取り扱うことは明らかに国際法的原理、原則に背き、国際社会の常識からも離脱している。中国人民大学教授邵沙平氏は、戦争犯罪と関連している特殊状況を考慮して、「福岡高裁が除斥期間を理由に強制労働者賠償請求の訴えを退けたことは、そもそも法的な根拠のないことである」と強く批判している*1。

(2)民間損失賠償請求権については、一国の政府が明白な意思表示もなく(前述のように日中共同声明には、中国政府及び国民という表現はない)これを放棄することはできない。中国政府は対日戦争賠償請求を放棄したものの、前述のように、その請求「」の放棄はなく、民間賠償請求権までの放棄は、なおさら言えないのである。
中国政府は、日中戦争に関連する事件の起こる度に、日本側の誠実かつ適切な対応を求め、民間賠償請求事件に対する関心の高さがうかがえる。もちろん、中国政府は、対日民間賠償請求権を放棄したという正式な発表は一度もなく、仮にある高官が個人的にこのような意味のことをほのめかしたとしても、中国政府の公式見解にはならないし、またこれを証拠に中国政府と人民は、対日民間賠償請求権を放棄したとは、とても言えないのである。
また中国側の一般的な認識として、民間被害者としての対日賠償請求権の放棄はなく、民間対日賠償請求権は依然として存在している。本件の731部隊細菌戦による被害訴訟も、戦時中に発生していたことであると同時に、被害者側が細菌戦による心身苦痛は、今日になっても癒されていない。
被害者救済と原状回復、そして戦争犯罪への追及など、多くの意味において過去の事ではなく、極めて現実性の高い問題である。日本政府は、国際的信義「国際法の遵守」と人権尊重という見地からも自国の犯罪行為による被害を救助し、原状回復と日本国への国際的信頼性を取り戻すために真剣に取り組むべきである。

(3)日中間において戦争遺留問題は、その現実性がますます高まってきている。これはかつて戦後27年間(1945‐1972年)の無外交関係の状態という「空白」があり、さらに日本政府による証拠隠蔽、責任回避、救済放棄などの政策が、中国民間被害者の損害賠償請求権の行使を大幅に遅らせ、妨げてきたことに原因がある。
また中国側の事情として、被害者の多くが、比較的閉鎖的な状態におり、かつては自由に出国などもできるものではなかったことも原因である。彼等は、自分にはこのような民間賠償請求権のあることさえ知らない者が多い。しかしこれは被害者側には、被害賠償請求の意思がないということではなく、その知識と能力(財政的、法的)が足りないということなのである。
中国の改革・開放と情報化、また教育と豊かになるにつれて、さらに法的意識と人権意識の向上にしたがい、中国民間の対日戦争賠償請求の行動は減少するところか、むしろさらに多くなると考えられる。また中国の民主化と開放度合いの向上にしたがい、民間人の意思表示はますます明白に表れ、政府もこれらの意志にしたがって行動しなければならない。
「十五年戦争」という長い年月の戦争はそれなりに遺留問題が多く、被害者本人の死去などとは関係なく、その遺族により引き継がれ、引続き日中間の社会問題として残る。例えば、「慰安婦問題」で、韓国やフィリピンなどの被害者には、日本政府の主催でできた「アジア女性基金」による救済がある程度実行されたが、中国の被害者は、一切これを受けていない。放置されたままになっている。しかしこういった「慰安婦」は中国には決して少なくはない。 国連人権委員会の「慰安婦問題」に関する日本政府に対する勧告からみても、日本政府の中国「慰安婦」に対する対応は、その誠実性が欠けているといわざるを得ない。
また拉致された強制労働者、細菌戦などの戦争被害者、毒ガス漏れ事件の被害者、その他の予想できない関連事件の新規発生も必ずといっていいほど、これからもある。加害者側の日本政府の良識と誠実が問われつつある。また必ずと言っていいほど、被害事件が起こるたび、新たな日本の戦争責任問題が発生し、中国側民間による損害賠償請求権の行使が行なわれる。これらはいつも日中関係が揺るがされ、また過去を含む日本政府の対応の粗末さが明るみになり、日本の国際的信用とイメージを大きく傷つけ、日本の国益に背くことになる。このような悪循環は、実際の日中関係に繰り返されているのである。


第4 真の和解のため

 一般的には、戦争状態にあった両国の関係再開は、平和条約の締結に伴うもので、そのような長い戦争状態を存続させていた日中両国においては、なおさらこのような講和条約が必要であろう。しかし、現実問題として、日中間の現存文書をもう一度、確認すれば、以下の結果になる。
第一 日華条約については、その瑕疵の多さと条約適用範囲問題から、日中間の基本文書にはならないのである。また当事者一方の中国がそれを完全否定したものであるため、二国間関係を律するものにはならないことが外交上の一般常識である。
第二 日中共同声明は、平和条約のような重大な機能を持たなかったものである。以上
の検証からも分かるように、「日中共同声明」という文書はあくまでも両国の国交正常化のための政府間協定であり、条約ではなく、双方の国会の審議にもかけられていなかったことはその現れである。
第三 「日中平和友好条約」については、日中双方とも共同声明を交渉する段階ですで
に合意されたように、これは講和条約ではなく、未来志向的な友好条約であると認めている。
以上の分析により、本意見書は、第一に、こうして日中双方には、これまでに、「日華平和条約」「日中共同声明」「日中平和友好条約」といった重要な文書があったにもかかわらず、実際に日中双方とも認めているように講和条約という戦争処理に関する決定的な取決めはなかったことを指摘しなければならない。
そして「日華平和条約」について、日本政府でさえ当初(吉田内閣)、これが中国との全面的講和条約であることを認めなかったのである。1957年の岸内閣以後、ようやく台湾政権を全中国の代表政権として認めたとみられているが、条約の適用範囲条項など一向に変わることなく、その中国大陸までの適用範囲が不可能のままである。また、歴代の日本政府は、日華条約締結当初の吉田内閣による日華条約に関する国会答弁を無効だと明言されたことはない。
中国側は最初から日華条約の合法性さえも否定し、この条約の「終了」にいたるまで一回も認めたことはなかった。しかも同条約の適用範囲*1もその法的効力を、中国大陸への適用を厳しく制限していたことは検証した通りである。日本側が日華条約で日中間の戦争処理を行なったと主張しても一方的なものにすぎず、日中外交上のコンセンサスにはならないし、そもそもこのようなコンセンサスは存在していないのである。
したがって、本意見書は、日中両国には真の意味での講和条約は存在していないと認識せざるを得ない。日中関係にこの重大な欠陥により、これまでに日中両国間に多くの問題が繰り返し発生しており、絶えず両国関係を揺さぶっている。日中関係の不正常はこのような講和条約の不在と、決して無関係ではなく、まさにその主な原因であろう。
本意見書は、日中双方には、日中双方のコンセンサスとなる新文書、条約の速やかな成立を勧め、無講和条約の状態の終止符を一日も早く打たなければならないという結論に至った。

第二に、前項と関連して、平和条約のないなか、日中双方は、戦争状態の終結も宣言しなかったのである。つまり「日華条約」は日本と「中華民国」(中国台湾地域の一反政府勢力)との間の戦争状態の終結を宣言したが、日本側が自ら求めた日華条約適用範囲条項により中国大陸への適用はできなくて、事実上日中間の戦争状態は継続している。共同声明は「不正常な状態の終結」だけを宣言したが、戦争状態の終結はなかったのである。また不正常な状態という表現は曖昧であり、どうしても戦争状態の終結という解釈にはならない。現在のように小泉総理の度重ねた靖国神社の参拝問題により日中両国間の首脳相互訪問も途絶え、両国関係は一種の「不正常な状態」にあるとも言えよう。
ちなみに日中には1941(昭和16)年12月9日国民政府が対日宣戦布告をもって戦争状態に入ったという解釈は、日本では一般的な「通説」になっているが、それより九年も早く、1932(昭和7)年4月26日中華ソビエト共和国臨時政府は対日宣戦布告を行なった。しかもこの臨時政府は結局、1949年10月1日に成立した中華人民共和国とつながり、対日宣戦布告はそれなりの重みがあることを指摘しておきたい。さらに1949年10月中華人民共和国中央人民政府の成立をもって、中央人民政府は、中国に関するかつての中華民国のすべての権利、権限を継承し、中国の唯一の正統政府であることは、国際社会にも認められている。また1971年10月25日国連で可決された「国連における中華人民共和国の合法権利を回復し、蒋介石一味を追放する決議」はその根拠である。また1972年9月29日に発表された日中共同声明でも日本政府は、この認識に反対しないことにした。
前述の通り、戦後の激動のなか、日中両国の政体は共に変化してきた。大日本帝国は日本国に変わり、中華民国は中華人民共和国に変わった。このような政体の変化は継承政府の責任を変える事はなく、日中両政府は、かつての戦争諸問題への処理も責任があり、直視しなければならない。日中両国国民の真の和解と真の友好のために速やかになされることを期待している。

第三に、賠償問題に関しては、日華条約では、「サン・フランシスコ条約第十四条(a)1に基づき日本国が提供すべき役務の利益を自発的に放棄する」と書かれたが、賠償という文字さえなかった。また条約適用範囲条項により大陸への有効性は認められない。また共同声明の段階では、日本側の強い要望により「戦争賠償請求権」の「権」が抜かれた。その結果、戦争賠償の「請求権」を放棄したか、しなかったかさえ、法的には未確定な状態にあるままになっているのである。日本側が、いまさらその中国側の請求「権」を放棄したといってもその法的根拠はないのである。また今日になっても戦争被害者側への救済は、日本側の誠実な態度と誠意のある対応が求められている。

第四に、日中国交正常化以後、戦争処理の諸問題――強制連行、慰安婦、遺留化学武器など遺留問題が続出している。日本政府は「慰安婦」問題(アジア女性基金ための事務費など)や遺留化学武器の処理問題及び遺留化学武器による被害者への「医療費」、「処理費」などからみても分かるように、これらの戦争遺留問題に対し、日本政府の処理方法と出費など名目の違いがあったとはいえ、日本政府は事実上民間人や被害者に賠償を支払わざるを得ず、また戦争処理の一環としてこれらの諸問題を今日でも片づけつつあるのである。

以上の状況から綜合的に考慮すれば、日中間の戦争賠償請求権問題は「すでに解決ずみ」、または「存在しない」とは、法的には言いがたいものであり、また現実問題としてもその事実とは大きく異なっている。したがって被告側の賠償請求権問題の解決済みという主張の法的根拠は、不充分であると言わざるを得ないのである。

以上