鑑定意見書
>鑑定意見書のメニューに戻る
侵華日本軍が1940年10月4日に浙江省の衢県に
ペスト菌を空中投下して住民死亡を引き起こした
事実について
杭州商学院科技哲学研究所 副所長 楼 献
1 衢県は西暦紀元192年から県を設立して1940年まで1748年の歴史がある。今までペストが発生したという記載はなかった。
衢県は西暦紀元192年(東漢初平三年)に県を設立した。西暦紀元621年(唐武徳四年)に衢州を設立し始めた。南宗から中華民国29年(1940年)まで衢州は衢県、龍遊、江山(この事件では江山の原告が15名いる)、常山、開化の五つの県を管轄した。衢県は浙江省の西部にあって、省庁所在地の杭州から273q離れている。また、衢県は浙?(浙江省・江西省の略称である)鉄道の大きな駅として、江西省の県庁所在地南昌から370q離れている。衢県の南宋孔廟は中国古代有名な思想家孔子家族の第二の故郷で、文化の中心である。衢県の南の方は福建省と隣接、北の方は安徽省と隣接、西の方は江西省と隣接、東の方は浙江省の金華、麗水と接して、昔から「四省通衢」の美称がある。衢県は四つの省の領界貿易の中心で、更に軍事の用地である。
図:浙?の鉄道のルートの交通図
2 衢県飛行場、麗水飛行場、玉山飛行場は第二次世界大戦の間、中国から日本の本土までの最短の空港である。
衢県県内は鹿鳴、??という二つの町に分けられていた。1933年、民国政府は衢県県都より2q離れた東南の所の軍事用飛行場を造り始めた。1938年、それを拡張した。衢県飛行場、麗水飛行場、玉山飛行場は第二次世界大戦の間、中国から日本まで最も近い飛行場だった。
抗日戦争が勃発した後、国民政府航空委員会は衢県に麗水、玉山、建?などの飛行場を管轄する空軍第十三総站を設けた。そのほか、衢県県城の近くに永久軍事工事を行い、巨大な軍隊が駐屯し、つねに一つの軍団の兵力を保持していた。
連合軍の飛行機がこれらの飛行場を利用して、日本の本土を爆撃する脅威を排除するために、日本軍は何度も浙?沿線の町を攻撃し、飛行場を破壊した。その上、1940年10月4日と1942年8月下旬に衢県に細菌攻撃を二度実施した。そのため、ペスト、コレラ、チフス、パラチフス、赤痢、炭疽などの急性伝染病が衢州及び周辺地区で1948年12月まで流行した。当時の地方衛生部の記録によると、それらの病気にかかって死んだ人数は5万人以上だったそうである。
図:衢県飛行場、麗水飛行場、玉山飛行場の位置図
3 1940年10月4日に日本軍が衢県でペスト菌を空中投下した都市地域
1938年2月6日、日本軍は省都杭州を占領した。
1940年8月6日、731部隊遠征隊の人員と器材が全部杭州筧?飛行場に到着した。8月16日、中国に派遣された司令部作戦主任参謀井本熊男が杭州に到着し、細菌戦の準備の細部について、731部隊遠征部隊と連絡を取り合った。9月、浙?細菌戦(すなわち「保号作戦」である)が正式に始まった。(注:詳細は原告が東京地方裁判所に提出した証拠説明書甲第3号証「戦争と疫病」に見られる。1997年8月15日出版、作者は松村高夫、李力らである。)
1940年10月4日午前9時頃、日本軍の飛行機一機が衢県の北東側上空から近づいて、市街を一回り旋回した。しかしいつものように爆撃はしなかった。その代わり、200〜300mの高さまで急降下して、市内の人口稠密な西安門、上営街、水亭街、下営街、県西街、美俗坊などの団地の上空を2往復して、粒状の麦、大豆、トウモロコシ、麦のふすま、はぎれ、綿、紙の包み、ビラなどをたくさん撒いた。9時30分頃、日本軍機はもと来た方向へ去っていった。衢県鹿鳴区街路の地面、廃墟の瓦礫や家屋の屋根瓦の上には、日本軍機が撒いた食糧や品物が散乱していた。
図:1940年10月4日に日本軍の飛行機がペスト菌を撒布した県内地域の略 図
4 1940年10月4日の午前11時、衢県の診療所の張秉権院長などの5人が、羅漢井巷の住民黄石林宅の金魚池に空中投下された小さい紙包みの中からノミなどを収集して、それを省の衛生試験所に持ち帰って検査した。
1940年10月4日、午前11時、衢県防護総幹事熊俊川、幹事李笠農、県衛生院院長張秉権は、阜成紙荘(柴家巷22号)の経理許静山から、電話報告をもらった後、医者と看護婦の5人をつれて、現場を調査にいき、空中投下された食糧や物品を集めた。その中に、羅漢井巷3号の住民−黄石林の家の金魚池から取ったノミ、その家の正門の前の土地から取ったノミといくつかの小包み(小包1つあたり10匹以上のノミがいた)が含まれていた。午前1時頃、県防護団及び県衛生院が、事情を衢県県長の崔履坤に報告した。崔県長はすぐ、調査内容を電話で衢県の第五区行政督察専員であり、保安司令でもある魯忠修に伝えた。
午後2時頃、衢県政府は、??と鹿鳴二つの鎮の鎮長に「すぐ住民全員を動員して全面的に衛生大掃除を行わせ、全ての空中投下物品、食糧及びノミを焼くように」という命令を出した。
1940年10月5日、県政府は再び県衛生院に専門家を派遣し、集めた空中投下物品、食糧及びノミを浙江省衛生処衛生試験所で検査するため持ち帰った。
1998年3月1日、衢県の社会各分野の人々は、羅漢井巷3号の住民−黄石林の家の正門の右側に「侵華日本軍細菌戦の被害者地方遺跡銘記碑」を立てて、その史実を記載した。
図:写真が7枚 @阜成紙庄の家屋 A羅漢井の入り口 B羅漢井巷の巷碑
C羅漢井巷の風景 D黄石林家の庭の上空 E銘記碑 F2003年2月 22日に本案の原告楊が羅漢井巷で当時の疫病発生の状況を述べたとき の写真。
5 1940年11月15日に羅漢の井巷と相連なる柴家巷3番の呉土英は、最初のペストによる死亡者である。
1940年10月10日から、衢城、上営街、下営街、天皇巷、県西街、寧紹巷などの団地で次々と死んだ鼠を発見した。11月12日午前、呉土英が発病した(女、12歳、柴家巷3番に住む)。当日の午後、鄭冬弟(女、12歳、羅漢の井巷の4番に住む)、黄寥氏(女、40歳、羅漢の井巷の5番に住む)も発病した。3人は高熱、頭痛、嘔吐、悪寒、出血、リンパ節の腫れと痛みなどの症状があった。グラム陰性菌も発見した。3人は11月15日、11月16日、11月17日に次々と死亡した。
呉土英の弟呉土福は、今回の訴訟事件の衢城の原告である。呉土福は1930年に生まれ、今は柴家巷9番(もとの住所は3番)に住んでいる。呉土福は陳述書において、当時のことを詳細に記している。
1940年10月4日、呉土福は、日本軍の飛行機が北から南へ低空飛行をし、羅漢井のあたりを中心に麦・米などの穀物や宣伝ビラなどと一緒にノミを落としていったのを見たという。その際、呉土福は動かなくなったノミを見た。飛行機を見てから1ヵ月ほどした11月12日、姉の呉土英がリンパ腺の腫れや高熱のために、痛い痛いと夜通し叫んで3日後に亡くなった。鼻や口から出血があったという。ペストによる初の被害者がでた呉土福の家は、家の周りをすぐに封鎖され、一家は離散されてしまったと、被害の悲惨さを記している。
図:写真が4枚 柴家巷の巷牌 柴家巷の風景 柴家巷9番の入り口
2004年1月5日に筆者と呉土福が柴家巷9番の入り口で撮った記念写真
6 1940年11月22日から、衢県は臨時隔離病院、臨時収容検疫所を設立し、遺体埋葬場所を指定して、伝染病の発生地区を封鎖した。
1940年11月22日、衢県で初めてペスト予防と治療の緊急会議が開かれた。会議では衢県のペスト予防と治療委員会の設立を決めた。その委員会は、各法団代表の21人からなり、浙江省第五区の専員魯忠修が主任を兼務した。医務、防疫、警衛、埋葬、工程、運輸、宣伝、募金、総務の九つの組がある。同日、衢県ペスト予防と治療委員会は薬王?(神農殿)、寧波紹興会館に臨時の隔離病院の設立を決めた。そこにペスト患者を収容し、治療をすることができる。民間の舟を徴用して、衢江の水上に収容検疫所を設置した。天妃宮で臨時収容検疫所を設置してペスト患者の家族を収容した。花園?をペスト患者の遺体埋葬場所と指定した。患者の人数が増えるにつれ、龍王?、火薬局、孔?、道貫小学校を隔離病院として使用した。
1940年11月25日、衢県すべての学校が臨時休校になった。塩公堂は速やかに疫病地区から移転した。ペスト患者は強制的に隔離病院に入れられて治療した。患者の家族も強制的に収容検疫所に入れられ、監視のもとにおかれた。疫病地区ではワクチンを注射し、患者の家を封鎖して消毒した。同日、衢県県西街、県学街、漢井、美俗坊、大西門、上・下営街、寧紹巷、p木巷口などの九つに泥塀を建てて、歩哨を置いて、疫区を封鎖した。
図:隔離病院、収容検疫所、死体埋葬区の略図
図:写真が12枚 神農殿 天妃宮 孔子廟・家屋の写真 寧紹会館
龍王廟 火薬局 道貫小学校の写真
図:封鎖された伝染病発生地区の略図
7 1940年12月22日から24日まで、衢県のペスト防治委員会は人員を組織して李清芳らの10戸の疫病家屋34軒を焼却した。
1940年12月9日に、衢県の県政府は住民を動員し、天井板や床板や壁板などを取り外し、軒の穴を埋めるなどの措置を取った。同日、衢県ペスト予防と治療委員会は県城の郊外で鼠を焼くための小屋を建て、各保(保とは、当時の住民管理の制度で、5戸で1保である。)に対し毎日捕殺された鼠と自ずから死んだ鼠を中に集め入れて焼くことを命令した。
1940年12月22日〜24日、県ペスト予防と治療委員会は人員を組織して、衢県疫病戸李清芳、江清林、王慶元、・正福、鄭根発、黄権、陳平生、周春禄、鄭昌恒、鄭紹周らの10戸の家屋34軒を焼却した。
図:焼却された10戸の家屋の位置図
中華民国29年(1940年)12月29日に衢県の県長柳一弥が発行した定期的に疫病家屋の焼却命令
焼却された家屋の見積書と調査表
8 1940年、1941年衢県診療所の伝染病調査登録表、疫病発生状況報告表および衢州日報日刊新聞と大明新聞の記録だけでも、1940年11月から1941年の12月までの14ヵ月間に、衢県県城内と近郊地区の死亡者数は204人であった。
1940年12月末に至って衢県ペストは既に県城内58本の通りに広く汚染していた。また柯山、万田、横路、浮石、樟潭など13の町村に拡散してしまった。
1941年3月、日本軍飛行機は衢州県の県区を爆撃した。住民は田舎へ逃げ、疫病は広く拡散された。ただ1940年、1941年衢県診療所の伝染病調査登録表、疫病発生状況報告、または「衢州日報日刊新聞」、「大明新聞」によっても、1940年11月から1941年12月にかけての14ヵ月間で、衢県県区と郊外市区の死亡人数は204人に至った。ペストを恐れてよそに逃げ出した人と隔離を嫌って死亡報告をしなかった人と報告し落とした人などを含めていない。この204人の死亡リストから見ると、死者は家族同士、隣同士の場合が多い。死亡時間は集中している。例えば、衢県県内では、1940年11月の死亡者数は23人、12月の死亡者数は11人、1941年2月の死亡者数は13人、3月の死亡者数は43人、4月の死亡者数は69人、5月の死亡者数は17人にのぼる。化尤巷30号では1941年3月に6人が死亡、羅漢井巷7号では1940年11月に7人が死亡、羅漢井巷5号では1940年11・12月に5人が死亡、柴家巷5号では1940年11・12月に5人が死亡と記載されている。衢県県内での全家族死亡は17戸、一家3人以上死亡は20戸、一家2人以上死亡は29戸である。この事件で衢州14人の原告は32人の親族がペストで死亡した。例えば、原告方石?、7人の親族は1941年5月に死亡した。原告葉賽舟も3人の親族が1941年5月に死亡した。
方石?によると、方石?の親族は皆ペストに感染してから約3日のうちに亡くなり、その間高熱と意識不明で何も食べられない状態が続き、また異常な喉の渇きから水ばかり欲しがるなど、その姿はとても悲惨で見ていられなかったと陳述書で述べている。また葉賽舟は、伝染病が流行していた地域に住んでいたために、ペストによって祖母、伯父、伯母を相次いで亡くしてしまった。当時まだ10歳くらいの子供だったが、苦しんだ家族のことを今でもはっきりと覚えており、ひどく恨んでいると陳述書で述べている。
表:衢県1940年11月から1941年12月までのペスト死亡者204人の名簿一 覧表
表:衢県1940年11月から1941年12月までのペスト死亡軒数統計表
図:衢県の14人の原告家族の被害場所位置図
衢県1940年から41年までのペストで死亡した疫病戸の主要な分布図
9 もし医療部門と医療人員達が治療していなければ、日本軍の撒布したペスト等の恐ろしい伝染病は、中国民衆へ想像できないほどの影響を及ぼしただろう。
1940年11月15日から1941年末まで、軍政部第十兵門病院などの11の医療防疫部門、合計して489名の医療人員は衢県に駐在し、ペスト防疫のために協力した。ある者は自分の生命までもを捧げてしまった。医療人員達は恐れることなく一生懸命に働いていた。
例えば?宗?(男)は、医者で、当時中国赤十字社の312医療防疫隊の隊長であった。全部で25人の医療防疫人員がいる。1941年3月、全隊員はペストを治療するために重慶から衢県へ行き、下営街の周王廟に駐在した。同年12月、ペストが義烏まで爆発的に流行した。?宗?は、9名の医者をつれて義烏へ行ったが、不幸にして肺ペストに感染し、1941年12月13日に殉職した。29歳だった。
ペストが発生して、1940年11月22日に開かれた、衢県ペスト防疫緊急会議で、衢県ペスト防疫委員会が組織化され、委員会のもと、技術室、総務組、医務組、埋葬組、工程組、運輸組、警衛組、募金組、宣伝組、給養組が設置された。それ以後、その会議は1940年中、11月に2回、12月に1回開かれ、具体的な対策がとられた。11月25日、疫区の封鎖を実施した。
また12月4 日には、5000余人が参加する衢県城区防疫運動動員大会が開催され、各機関、団体、住民居住区、商店から各一人が出席した。鼠対策や消毒方法などの防疫のための具体的な対策が示され、「大掃除」の大会宣言がなされた。
1940年12月の一ヶ月にわたって、衢県市内で初めてペストワクチン予防注射を受けた人は合わせて17143人、硫黄消毒は11戸83間、石灰(炭酸カルシウム)消毒は106戸1102間、シアン化カルシウム(Calcium
Cyanide)消毒は99戸781間、鼠の巣を壊したのは973ヶ所、巣の閉鎖は1031ヶ所、また鼠を5287匹捕まえた。
1941年に、衢県ペスト防疫会議は、3月は4回、4月は5回、5月は8回開かれた。6月1日には衢県臨時防疫処が設立され、それ以降、臨時防疫処として対策会議が行われた。6月に6回、7月に5回、8月に4回、9月に4回、10月に4回、11月に3回、12月に4回と開かれた。
1941年にペストワクチン注射を受けた人は、11万4312人、鼠の穴の閉鎖は2万0010ヶ所、鼠の穴の薬物処理は1万6494ヶ所である。1941年の4月から12月までの消毒戸数は6945戸3万0801間になる。
1941年の5月と11月に行われた日本軍の空爆にあっても、防疫活動は続けられた。1942年にも、このような防疫活動は続けられた。しかし、1942年4月に大規模な日本軍の空爆、さらに浙?作戦により、6月から8月まで衢県は日本軍に占領されたのである。
1945年から1966年まで、12の医療防疫部門、合計して456名の医療人員は専門治療の仕事をするために衢州へ派遣された。監視と予防の仕事は今日まで続けられている。
さらに、1942年8月の下旬に、日本侵略軍は衢州の各県で細菌戦を行ったので、衢県のペストなどの強い伝染病が絶えず流行し、1948年の末まで続いた。それ相応の大規模の検疫、消毒、予防、治療も1941年11月から1966年にかけて続いて行われた。1956年、衢州五県は防疫所を設立し、ペストなどの伝染病を防ぐ措置を行った。
例えば、1962年3月から4月までの間に合わせて9万4622人にワクチンを注射した。1963年、衢州市内で全面的に鼠とノミを退治した。年間、鼠を29万8365匹、1万9175戸のノミを退治した。今でも、各レベルの防疫所はペストやコレラのような恐ろしい伝染病に気をつけて予防措置をとっている。
2003年2月3日(中国の農暦1月3日)の午後、筆者と王選一行は浙江省麗水市防疫所の寮に着き、元浙江省医療防疫大隊のメンバーである方祥発(86歳)を訪ねた。中国中央テレビ局のディレクター郭頂梅は、方祥発が当時の衢州防疫状況を述べた光景を全部録画した。
付記:11ヶ所の防疫所と486人の医務員の出身を示す表
12ヶ所の防疫所と456人の医務員の出身を示す表
4枚の写真:周王寺の門、境内と簡単な説明書、方祥法と筆者らの写真
注:2004年2月5日、?宗?隊長の義理の息子の黄培家が筆者に送った手
紙と烈士の?宗?の伝記(写真)
注:この陳述書の第4から第9までの主な内容は、原告の東京地方裁判所に
提出した証拠説明書の“証号甲、罪証、製作者:黄可泰(邱明軒の誤記) ”のところに詳しく書かれている。
衢州で14人の原告の家族がペストで死んだ時の受害状況の一覧
1. 楊大方、男性、1932年生まれ、現住所は衢州市体育館路2番-10、電話:0086-570-30292189。父親の陽恵風が1941年3月28日、衢城南街恵風時計屋で死んだ。年は38歳。
2. 呉土福、男性、1930年生まれ、現住所は市柴家巷9番。姉の呉士英が1940年11月15日柴家巷3番で死んだ。年は12歳。
3. 葉賽舟、女性、1930年生まれ、現住所は市計生委宿舎1単位101室。電話:0086-570-3052619。伯母の葉李氏(40歳)は、1941年5月6日下営街10番で死んだ。祖母の葉孔氏(63歳)も1941年5月7日同じ場所で死んだ。それに伯父の葉松元(40歳)も1941年5月10日同じ場所で死んだ。
4. 程秀芝、女性、1925年生まれ、現住所は市内楊家巷6番ビル2単元301号室。電話:3049753。姉の程鳳娜が1940年12月1日上営街22番で死んだ。年は18歳。
5. 祝汝濤、男性、1920年生まれ、現住所は忠烈廟前9番。弟の祝汝松が1941年4月1日天皇巷6番で死んだ。年は10歳。
6. 林文卿、男性、1928年生まれ、現住所は市内門潭東区ビル42番2単元6番、電話:3029536。母親の姚翠英(43歳)と妹の林小金(2歳)が1941年2月県西街で死んだ。
7. 呉方根、男性、1926年生まれ、現住所は徳坪?南ビル2番202室、電
話:304261。父親の呉秋狗が1941年4月4日南街三聖巷19番で死んだ。年は44歳。
8. 呉世根(元の名字は陳)、男性、1930年生まれ、現住所は市区樟樹底
41号、電話:3036457。弟の陳小世根(9歳)と妹の陳四英(2歳)は1941年5月の始めに、城西汪村郷呂家村で死んだ。
9. 周文貴、男性、1928年生まれ、現住所は市中河沿饅頭巷建委の宿舎で
ある。電話番号:3052165。父の周元福(42歳)と妹の周水蘭(8歳)は1941年4月16日上街149号で死亡。
10. 黄(金玉)良、男性、1939年生まれ、現住所は市内松園総合楼1幢2
単元402室である。電話番号:3087016。父の黄登倫(31歳)と兄の黄(金玉)貴(6歳)は1941年4月の中旬に水亭街“黄源盛”香店で死亡。
11. (二馬)南寿、男性、1917年生まれ、2001年5月に死亡。娘の(二馬)雪娜は1955年に生まれ、原告の資格を受け継いだ。現住所は巨化賓二村2幢501室である。祖父の周毛毛と祖母の周(二馬)氏とおばさん三人は1940年12月8日に水亭街鍛冶屋で死亡。
12. 方石?、男性、1951年生まれ、現住所は市郊万田郷方家村である。電話:3012651。家族七人は、1941年5月同じ時に下方村で死亡。その七人は方正榴(58歳)、方蒋氏(47歳)、方魯氏(31歳)、方冬(女交)(19歳)、方三娜(17歳)、方卸姚曼(6歳)、方建(女交)(2歳)である。
13. 呉秀芬、女性、1932年生まれ、2000年5月に死亡。息子の朱左峰は原告の資格を受け継いだ。電話:3032448。呉秀芬の祖母の毛氏と父の呉炳揚と母の徐氏三人はそれぞれ1942年11月12日、16日、18日に市郊横路郷で死亡。
14. 範(女交)、女性、1919年生まれ、現住所は楊家巷21号1単元6-2室である。電話:3045590(娘の家)。父の範連宝(54歳)と母の危秀英(52歳)と弟の範三泥(19歳)は1941年4月に西郊鹿鳴山村で死亡。
|