[細菌戦真相] 常徳
●被害の発生
●被害の状況
●方さんの法廷陳述
●李さんの法廷陳述
●黄さんの法廷陳述
[常徳] 被害の発生
1、湖南省常徳市市街地内の細菌戦被害の死亡者は、一九四一年一一月から翌四二年七月の間に、少なくとも四二名にのぼるが、そのうち、原告(または傍線を付した原告の被相続人)の三親等内の親族である死亡者は、次の被害者番号146ないし152の七名である。
|
死 亡 者 |
性別 |
年齢 |
死 亡 日 |
原告との続柄 |
146
147
148
149 |
何 毛 它
方 運 登
馬 保 林
黄 雪 梅 |
男
男
男
女 |
1歳
8歳
53歳
57歳 |
41年11月
41年晩秋
42年4月17日
42年4月 |
原告何英珍の弟
原告方運芝の兄
原告方運勝の亡父の長男
原告馬培成の亡父の父
原告馬培成の亡父の母 |
|
死 亡 者 |
性別 |
年齢 |
死 亡 日 |
原告との続柄 |
150
151
152
|
柯 先 福
・ 緒 武
・ 緒 文
|
男
男
男
|
55歳
12歳
10歳
|
41年11月
41年11月中旬
41年11月中旬
|
原告柯・茂の養父
原告朱九英の長男
原告・緒官の亡父の長男
原告朱九英の次男
原告・緒官の亡父の次男 |
2、常徳市市街地に発生したペストの流行は、一九四二年五月上旬、常徳市桃源県の漆家河鎮莫林郷の李家湾村に伝播した。同村の細菌戦被害の死亡者は、一九四二年五月の間に、少なくとも一七名にのぼるが、そのうち、原告らの三親等内の親族である死亡者は、次の被害者番号153ないし162の一〇名である。
|
死 亡 者 |
性別 |
年齢 |
死 亡 日 |
原告との続柄 |
153
154
155
|
李 佑 生
陳 梅 姑
李 新 〓
|
男
女
男
|
55歳
55歳
20歳
|
42年5月10日
42年5月19日
42年5月31日
|
原告李玉仙の父
原告李宏華の祖父
原告李登清の祖父
原告李安谷の祖父
原告李玉仙の母
原告李宏華の祖母
原告李登清の祖母
原告李安谷の祖母
原告李玉仙の弟
原告李宏華の叔父
原告李登清の叔父 |
n 亡 者 |
性別 |
年齢 |
死 亡 日 |
原告との続柄 |
|
156
157
158 |
李 惠 〓
李 春 香
李 月 英 |
男
女
女 |
18歳
29歳
57歳 |
42年5月21日
42年5月21日
42年5月30日 |
原告李安谷の叔父
原告李玉仙の弟
原告李宏華の叔父
原告李登清の叔父
原告李安谷の叔父
原告李玉仙の姉
原告李宏華の伯母
原告李登清の伯母
原告李安谷の伯母
原告李玉仙の伯母 |
159
160
161
162 |
李 耀 金
朱 菊 英
李 宗 桃
李 元 成 |
男
女
男
男 |
61歳
61歳
20歳
12歳 |
42年5月15日
42年5月20日
42年5月20日
42年5月21日 |
原告李安清の祖父
原告李安清の祖母
原告李安清の父
原告李安清の叔父 |
3、常徳市市街地に発生したペストの流行は、一九四二年一〇月以降、常徳市の農村部の石公橋と鎮徳橋に伝播した。石公橋の細菌戦被害の死亡者は、一九四二年一〇月から同年一二月の間に、少なくとも四三名にのぼるが、そのうち、原告(または傍線を付した原告の被相続人)の三親等内の親族である死亡者は、次の石公橋の被害者番号163ないし186の二四名である。
|
死 亡 者 |
性別 |
年齢 |
死 亡 日 |
原告との続柄 |
163
164
165
166
167
168
169
170
171
172 |
周 蓮 清
王 春 初
王 苗 子
丁 柏 清
丁 劉 氏
丁 長 発
魯 開 秀
丁 尾 新
丁 尾 臣
丁 月 蘭 |
女
男
女
女
女
男
女
男
男
女 |
33歳
31歳
22歳
18歳
63歳
43歳
48歳
29歳
25歳
11歳 |
42年11月
42年11月
42年11月
42年11月
42年11月17日
42年11月17日
42年11月13日
42年11月17日
42年11月17日
42年11月13日 |
原告王金山の母
原告王長生の父
原告王長生の叔母
原告丁年清の妹
原告李麗枝の亡夫の祖母
原告李麗枝の亡夫の父
原告李麗枝の亡夫の母
原告李麗枝の亡夫の叔父
原告李麗枝の亡夫の叔父
原告李麗枝の亡夫の妹 |
173
174
175
176
177
178
179
180
181
182
183
184 |
丁 妹 之
劉 学 金
黄 金 枝
陳 三 元
劉 冬 枝
王 煥 斌
陳 元 宝
梯 陽 春
王 清 秀
熊 瑞 皆
彭 善 中
石 東 生 |
女
男
女
女
女
男
女
女
女
男
男
男 |
0歳
10歳
15歳
55歳
30歳
38歳
61歳
9歳
28歳
46歳
31歳
34歳 |
42年11月
42年11月
42年11月
42年11月上旬
42年12月
42年11月中旬
42年11月
42年11月
42年11月15日
42年11月21日
42年11月21日
42年11月12日 |
原告李麗枝の亡夫の妹
原告劉学銀の兄
原告黄華清の妹
原告熊金枝の亡父の母
原告石聖久の母
原告王開進の父
原告梯梅林の祖母
原告梯梅林の妹
原告石開苹の妻
原告熊志成の父
原告向四秀の夫
原告文佑林の夫 |
|
死 亡 者 |
性別 |
年齢 |
死 亡 日 |
原告との続柄 |
185
186 |
王 以 圭
張 春 国 |
男
男 |
49歳
52歳 |
42年12月
42年11月18日 |
原告王鳳午の父
原告李桂香の伯父 |
なお、原告賀鳳鳴、原告黄岳峰は、ペストに罹患し、股間のリンパ節が腫れる等の症状を呈したが、防疫隊の注射等の治療により一命を取り留めた。
|
生 存 者 |
性別 |
罹患年齢 |
発 病 日 |
備 考 |
187
188 |
賀 鳳 鳴
黄 岳 峰 |
男
男 |
18歳
18歳 |
42年11月
42年11月 |
原告本人
原告本人 |
4、また、常徳で発生した細菌戦被害は、右のような死亡者の発生にとどまらない。一家がほぼ全滅するような激しく、長期間にわたった流行の結果、患者の家族・住民はつねに感染の恐怖にさらされるなどの被害を被った。
[常徳] 被害の状況 −細菌戦による常徳のペスト被害
1、一九四一年一一月、湖南省常徳市(当時常徳県、以下旧称を用いる)でペストが発生し、翌年になって市街地(県城)のみならず、農村部と桃源県に波及した。一九四一年以前、これらの地域でペストが発生した歴史事実はない。
同年一一月四日、七三一部隊の航空班増田美保少佐が操縦する九七式軽爆撃機から、ペスト感染ノミとそれを保護する綿・穀物などが投下され、県城中心の関廟街・鶏鵝巷一帯、および県城東門付近に落下した(次頁の地図参照)。
投下されたノミが直接人間を噛んだことから、常徳のペスト流行が始まった。ペストの潜伏期間を過ぎた一一月一二日から、ペスト患者が出始めた。関廟街に住む一二歳の少女(蔡桃児)が最初の犠牲者となった。同人は、広徳病院(長老派宣教病院)に運び込まれ、翌日死亡した。同院の医師譚学華と検査技師汪正宇は、すでに日本軍機から投下された綿や穀物を検査し、ペスト菌に形態学上類似している細菌を発見していたが、同人の解剖の結果、やはり同様の細菌が発見された。
さらに、一一月一三日から一四日にかけて三名の高熱、鼠径腺の腫れなどペストの症状を示す患者が死亡し、いずれも解剖の結果、ペスト菌に類似した細菌が発見された。
報告を受けた国民政府は、ペストの専門家である陳文貴らの調査隊を派遣した(同人は、一九三六年、国連衛生部の招きでインドのハッフキン研究所に赴きペスト研究をした細菌学者であった)。陳文貴は、一一月二五日、その前日に死亡した五番目の患者(男、二八歳)を解剖し、細菌培養、動物接種などの実験を行い、同患者が真性腺ペストにかかり、ペスト菌のひき起こした敗血性感染によって死亡したことを医学的に証明した。またこの頃には、常徳防疫処が発足し、ペスト発生地区の封鎖、隔離病院や検査所の設置、予防注射の実施などが実施に移された。
なおこの後、前出のペストの専門家で、国民政府衛生署外国籍防疫専門官であったポリッツアーが、一二月二一日常徳に到着し、調査研究を開始した。ポリッツアーも、一二月三〇日付の衛生署長宛報告で、あらゆる観察と考察から、常徳における最近のペストの流行が、一一月四日の飛行機の攻撃と関連があることを疑う余地はない、と結論を下している。
常徳県城のペスト流行によって、一九四一年一一月から翌四二年一月までに少なくとも八名の死者が出た。
2、四二年二月には患者は発見されず、この時点で終息したかに見えた。だが、同年から、常徳県城(市街地)内においてペスト感染ネズミが増大し始め、このネズミ間の流行が、第二次流行を引き起こした。
同年三月から七月にかけて、常徳県城内で三四名の患者、二八名の死者が報告された。前記第一章の被害者番号146の何毛它から152の・緒文は、以上の常徳県城におけるペスト流行で死亡したものである。
ただし、これらの数値は病院か隔離病院に収容されたものだけであり、実際の患者数のごく一部にすぎない。なぜなら、ペストによる死者が発生しても、家族は自分たちも病院に収容されることを恐れ、遺体を密かに埋葬したため、当局に報告されないことが多かったからである。
なお、第二次流行は、ネズミの調査から予想されたため、常徳防疫処は常徳から移出される物資の検査、交通の要所への検疫所の設置、戸別の予防注射などの措置をとり、国民政府はあらかじめ防疫部隊を派遣した。第二次流行が現実のものとなるや、防疫活動はさらに強化されたが、それでも農村部への波及は防げなかった。
3、一九四二年五月初め、肺ペストが常徳県城の北西に二二キロ離れた桃源県漆家河鎮莫林郷李家湾村に伝播した。李家湾村の李佑生(男、五五歳)が常徳県城に豚を売りに行き、県城内でペストに感染した。李は李家湾に戻ってから死亡した。
死亡した李から、肺ペストが、李の妻をはじめとする家族、隣家、見舞いに訪れた親戚などに伝染し、少なくとも一七名が死亡した。前記第一章の被害者番号153の李佑生から162の李元成は、このペスト流行の被害者である。
またペストは、同年一〇月以降、常徳県城から三〇キロ離れた石公橋と、石公橋から五キロ離れた鎮徳橋にも伝播した。石公橋では、少なくとも四三名が死亡したが、このうち、石公橋の丁長発一家は、家族八名・雇用人三名が死亡し、当時この家に住んでいた者全員が死亡している。前記第一章の被害者番号163の周蓮清から188の黄岳峰は、石公橋のペスト流行で死亡、もしくは罹患したものである。
なお、常徳県城から農村地区に拡大した被害は、桃源、石公橋及び鎮徳橋を含めて死者約一〇〇名となるが、これは前述したように実際のペスト死亡者のごく一部を示す数値にすぎない。
[常徳] 方さんの法廷陳述
1、私は、方運勝と申します。中国湖南省常徳市武陵区に住んでいます。私が生まれたのは、中国人民と世界人民が反ファシスト戦争に勝利した偉大な年であり、同時に日本軍国主義にとっては忘れることのできない惨敗の年、すなわち1945年の9月3日です。本日、私は中国を侵略した日本軍731部隊の細菌戦被害者原告を代表して、この場で私の被害についての意見を陳述いたします。
2、1941年11月中旬、日差しがなお清らかで美しく、秋の深まりゆくこの季節に、常徳は歴史上未だかつてなかった大きな災難に見舞われました。1941年11月4日、中国を侵略した日本軍731部隊は、飛行機から常徳市中心部の関廟街・鶏鵝巷一帯及び東門付近にペスト感染ノミを投下しました。それによって、常徳市内で11月12日から次々とペスト患者が出始めました。その流行は、翌1942年3月から7月にかけて、さらに爆発的な流行に広がりました。町の大きな通り、小さな路地、至るところで毎日死者が出ました。多くの家で、家族全員が死に絶えました。私の兄方運登も活発で可愛い子供でしたが、1941年11月にペスト細菌戦によって命を奪われました。そのとき兄はわずか8歳だったのです。何と可哀想なことでしょう。
3、私の家系は、曾祖父の父の代から曾祖父、祖父と、3代すべて男子一人っ子でした。私の父の代になって4人の弟と3人の妹ができたのです。そして、私の父には男女2名の子供がいました。これが、私の兄の方運登と姉の方運芝です。家族のみんなは子供たちを掌上の玉のように大切にしていました。希望にあふれ、幸せ一杯の大家族でした。
しかし、良いことは長続きしません。不幸にして、日本軍の中国侵略戦争が始まりました。私の父の二人の弟は抗日戦の前線で戦死しました。別の二人の弟と二人の妹は家にいて、中国を侵略した日本軍の飛行機の爆撃によって殺されました。父のたったひとりの男の子も日本軍のペストによって幼い命を奪われてしまったのです。数年の間に私の父の家族は、日本軍によって7人の命を奪われました。家屋は爆撃で壊され、財産は破壊されつくし、家族全員が永遠に抜け出すことのできない苦難の深淵に陥ったのです。
私のおばあさんはこの時60歳でしたが、一時に肉親を失い、耐え難い打撃に打ちのめされ精神を病んでしまいました。一日中町中をあちらこちら歩き回り、「私の息子よ、私の娘よ、私の孫よ、帰ってこいよー」と痛ましい叫びを口にしながら可哀想な子供たちや孫を捜し回りました。その叫び声は天地をもひっくり返さんばかりでした。
4、私たちのように日本軍に自分の父母兄弟姉妹を殺害された家庭は、常徳においては数え切れません。常徳の町は、一日中人々の悲痛な泣き声が満ち満ちていました。私の父母は、存命中日本の畜生どもが中国人民を殺害した犯罪行為について、毎年、毎月、毎日語り続け、国の仇、家の恨み、民族の恥辱を次の世代に語り伝えてきました。私たち中国人民の頭には日本軍の犯罪行為が深く刻みつけられており、子々孫々決して忘れることはできません。
5、古来から、常徳は洞庭湖畔の美しく豊穣な、肥沃で豊かな土地でした。しかし、日本軍が常徳を爆撃し、砲撃し、焼き殺し、略奪し、ペストを撒き散らして以来、常徳は深刻な災難に見舞われました。とりわけペスト細菌戦は、数多くの罪のない住民を殺しました。多くの家庭では家族全員死に絶え、死体を片づける人もなく、商店は倒産し、田畑は荒れ果てました。火葬場は、死体を焼く黒煙が日夜もうもうとして絶えることがありませんでした。運の良いものは、子女を連れて他郷に逃げました。私の父母は、ペストを避けるた め、湘西桑植県空殻樹大山溝に逃げ、そこで数年間暮らしました。1945年の冬になってやっと常徳に帰ってきました。市民たちが年寄りを助け、子供の手を引いて逃げ落ちる道筋は、泣き叫ぶ声が満ちあふれました。人々は、日本軍の行った人間性を失ったペスト細菌戦に対し、蒼天に向かって怒りを込めて訴えました。天が霊験を現すよう叫びました。天帝が日本の戦争犯罪人たちを情け容赦なく懲らしめることを求めました。
6、庶民にとっては、家族がそろって団欒し、仲睦まじく無事で健康に過ごし、生活が安定し、一家団欒の楽しみを享受することが人生最大の幸福です。日本軍731部隊の侵略者たちよ。あなた達にも父母があり、家庭があり、妻や子供たちがいます。あなた達は人道に反し、良心をすっかり失い、国際条約に違反し密かに細菌兵器を使用して、中国の罪のない平和に暮らしていた住民を虐殺し、我が中華民族の無数の家庭を破壊し、数多くの私たちの同胞や親族を虐殺し、歴史に残る大きな悲劇をもたらしました。もしあなた達に人倫と良心があるならば、あなた達の政府があなた達に中国においてこのような罪業を犯させたことに対し、良心の呵責を感じないはずはないでしょう。自分の罪や過ちを悔い、告白すべきではないでしょうか。
7、私たち善良な中国人民は、正義は永久不変であると信じています。私たちは、日本政府が中国の被害者に謝罪し、損害賠償を行うことを待ちました。50年以上待ちました。もうこれ以上待つことはできません。私たちは、日本人民の正義の支持のもと、、日本政府を被告として、公正な道理を求める訴えを提起しています。私たちは、日本軍731部隊が中国で細菌戦を実施し、中国人民を虐殺した歴史的事実を認め、戦争責任を引き受けることを日本政府に求めます。現在、常徳には、日本軍のペスト菌による被害が発生する危険性が、今なお残っています。私たちは、日本政府がこのような危害に対し、有効な措置をとり、抑制し、除去することを求めます。
8、本日、私は、胸一杯の悲しみと憤りを持って、この場において、正義を堅持している弁護士のみなさん、裁判官のみなさん、友好人士のみなさんに、中国の被害者の共同の心の声を陳述いたしました。みなさまのご賢察を賜りますようお願い申しあげます。
1998年7月13日
[常徳] 李さんの法廷陳述
1、私は、李安谷と申します。1933年9月30日に生まれました。現在64歳です。日本軍731部隊細菌戦被害者遺族であり、本日は、原告を代表して日本に参りました。現在、中国湖南省桃源県馬宗嶺郷吉安湾村に住んでいます。1942年当時、ここは桃源県莫林郷李家湾村に属していました。この地域は、日本でも有名な詩人陶渕明の「桃花源記」の故地で、大変美しい地域です。
2、1941年11月、日本軍731部隊は、湖南省常徳市にペスト細菌を撒布しました。次の年の5月6日、私の祖父李佑生は豚の商いをしており、常徳に豚を売りに行ったとき、ペストに感染してしまいました。吐き気がして気分が悪くなり、家に帰り着いたときには病状はさらに悪化し、頭が痛くなり熱が出て、寒気がしたり火照ったりし、毛穴からは汗が出ず、床から起きあがることもできず、口から血の泡を吐きました。そして4日目、つまり5月10日にこの世を去りました。
3、祖父がペストに罹っていた間、隣人たちや親戚友人たちはみな我が家に見舞いに来ました。祖父が死んだときはみんな葬式を執り行うのを手伝ってくれました。このようにして我が家の親戚や友人たちも次々とペストに伝染してしまったのです。最初は、私の祖母陳梅姑と大叔父李耀金でした。彼らの病状は祖父と同じでした。高熱を発し、冷たい水を飲みたがり、口から血の泡を吐きました。祖父が死んでから5日目、すなわち5月15日、大叔父李耀金が死去しました。同じ月の19日、祖母陳梅姑も息を引き取りました。その次の日つまり5月20日に、大叔母すなわち李耀金の妻朱菊英とその子李宗桃が同じ日に一緒に亡くなりました。5月21日、叔父の李恵亥、伯母の李春香、父の従兄弟李元成の3人が同じ日に同時に亡くなりました。続いて、父の従兄弟の叔母李月英、叔父李新亥とその妻蕈鳳仙、父の従兄弟の叔母の曾祖母すなわち李耀金の叔母李福英、父の従兄弟の叔母李玉姑、父の従兄弟李宗運、舅の祖母胡月英、私の叔父李恵亥の親友向国恒など少なくとも17人が前後して祖父李佑生のペストに感染して相次いで死亡しました。
4、私の祖父母が死んだとき、家族みんなの泣き声は天をも震わせるものでした。そして、さらに悲惨なことには、それに続く10日余りの間、数日おきに立て続けに死者が出たのです。私たちの李家湾は一斉に泣き叫ぶ人々の声で天も地も暗くなるほどで、恐怖と悲しみと不安に覆われました。この急性伝染病の大流行は、当時の政府に大変注目され、常徳防疫所は医療隊を派遣し、李家湾で疫病発生の状況を検査し、鑑定を行いました。それで私たちは初めて祖父李佑生が常徳で肺ペストに感染しそれが伝染したことを知りました。
5、日本軍731部隊が実施したペスト細菌戦により、私たちは比べようもない悲惨な災難に遭遇しました。私の叔父と叔母が死んだ後、わずかに残されたのは、2人のまだ1歳にも満たない子供李安清、李安儒でした。向国恒夫婦が死んだ後、まだ1歳にも満たない幼い女の子がたったひとり取り残されました。それらの子供たちは父母を失い、寄る辺ない身の上となり、親戚や友人たちによって養われるほかありませんでした。
6、私たちの村でペストが発生した後、常徳防疫所は衛生隊と一個小隊の兵士を派遣し、私たちの村と周辺の市、羅家店、三口堰、馬宗嶺、興安などに対し、緊急戒厳令を敷き、疫病地区の交通を封鎖し、いかなる人が疫病地区に出入りすることも禁止し、ペストの蔓延と拡散を防止しました。この封鎖は数ヶ月の長きにわたり、私たち疫病区の三千人あまりの民衆の行動が制限され、田畑は荒れ放題となりました。私の家族親戚、友人は、桃源、石門、臨
豊、常徳など湘西北の広大な地域に広く住んでいます。この地域の広範な人々の間に恐るべき災難の恐怖が広がりました。日本軍731部隊が常徳にペスト細菌を散布した犯罪行為は、私たちにとっては今なお記憶に新しく、中国人民はこの肉親を殺された深い恨みを決して忘れません。
7、日本の中国侵略戦争が負け戦に終わってすでに半世紀以上が過ぎました。しかし、今になっても日本政府は731部隊が細菌戦を行ったという事実を認めようとしません。これでどうして本当の中日友好が実現できるというのでしょうか。私たち中国人民は、平和を望んでいます。中国人民と日本人民は、末永く友好的な関係を続けていかなければなりません。このために私たちは侵略に反対し、侵略戦争の根源を徹底的に取り除かなければなりません。
中国には古いことわざがあります。「前事不忘、後事之師」(過去のことを忘れず、将来の教訓とする。)加害国日本に対し訴訟を起こし、本日日本軍731部隊細菌戦被害者として、この厳粛な法廷で、自らが蒙った苦難を陳述することができました。これは中国人民と日本人民が長期にわたって日本の侵略戦争に対する反対を堅持してきた結果であり、多くの日本の友人による日本軍細菌戦に対する長年の調査研究の結果であり、そして、公正な道理を守る日本の弁護士のみなさんの法の尊厳を擁護する正義の行動の結果なのです。私たちは、日本の友人の皆様に崇高な敬意と心からの感謝を表明いたします。
ここに、私は日本政府に強く要求いたします。
日本軍731部隊が中国で行った細菌戦の歴史的事実を認めよ。
日本政府は戦争犯罪責任を引き受け、中国の被害者に公式に謝罪し、損害賠償を行え。
日本の裁判官のみなさんが自分の良心に従って731部隊の細菌戦事件に対し、公正な裁判を行うことを心から希望いたします。
1998年7月13日
[常徳] 黄さんの法廷陳述
1、私は、黄岳峰と申します。現在74歳です。代々、湖南省常徳県石公橋鎮に住んでいます。私は、1941年11月、日本軍731部隊が常徳において撒布したペスト細菌の被害を受けながら幸いにして生き残った歴史の体験証人です。本日、私は中国の被害者原告として、この公正を象徴する法廷において、裁判官各位、弁護士、傍聴人の皆様に対し、私の被害について陳述いたします。
2、私の故郷石公橋鎮は、洞庭湖の西の平野部にある美しく歴史の古い集落です。周囲には広大な湖面が広がり、土壌は肥沃で、物産も豊かです。特に品質の良い米、綿花、魚類を豊富に産出し、水陸の交通は四方八方に開け、行き来する商人や客は絶えることがありませんでした。1942年当時、1キロ余りの通りに300以上の商家が立ち並び、1500人余りの住民が住んでいました。経済が発達して市場も繁栄し、活力に満ちた美しく賑やかな町でした。
3、しかし、1941年11月、日本軍731部隊が常徳にペスト菌を撒布しました。そしてその後、731部隊の黒い影が私たち石公橋鎮を覆ったのです。1942年の秋も深まったころ、石公橋鎮において聞いただけでぞっとするペストが爆発的に広がり始めました。周囲10数キロメートル四方の農村にまで蔓延し、数年の長きにわたって続いたのです。ペストの恐怖が洞庭湖西畔の広範な地域を覆いました。これから石公橋鎮においてペストが爆発的に流行した状況を具体的に陳述いたします。
4、1942年10月、石公橋鎮の商店、住宅において、多くのネズミが死ぬという現象が現れ始めました。特に、魚屋、肉屋、米屋、油屋、醤油屋、南方特産の食品雑貨屋は、とりわけ死んだネズミがたくさん出ました。私の家ではちりとり半分くらいで、私が自分で掃き出しました。それからわずか3、4日後、立て続けに疫病の死者が出ました。記憶によると、ペストで最初に死んだのは、熊金枝の祖母の陳三元でした。陳三元が死んで、まだ葬式もしないうちに隣の丁長発が死にました。丁長発の死体が地面に横たえられ、妻の魯開秀は死体をなでながら激しく泣き叫びました。そして一日もたたないうちに魯開秀もまた死んでしまいました。魯開秀を埋葬した人夫が家に帰って食事をしようとしたとき、さらにまた、魯開秀の満一歳に満たない下の女の子丁妹之が死にました。続いて丁長発の母丁劉氏、弟丁尾臣夫婦、弟丁尾新、上の娘丁月蘭も前後して死亡しました。
丁長発一家がことごとく死ぬのを目の当たりにして、ある人が、常徳で学校に通っている丁長発の息子丁旭章と許嫁を呼び戻し、告別式を行う式場で結婚させ、「喜び事で疫病神を追い払う」事を提案しました。二人は婚礼の礼拝の儀式が終わるとすぐに家を離れ、ペストを避けました。彼らのいわゆる「疫病神を追い払う喜び事」がまだ災害を追い払わないうちに、続いて丁さんの家で雇っていた3人の奉公人、魯方新、魏楽元、賀第卿もペストに感染し相次いでなくなりました。1ヶ月もたたないうちに、丁長発の家では11人が死んでしまいました。僅かに、他の所でペストを避けていた息子の丁旭章と嫁の李麗枝だけが、幸いにも難を逃れ、生き残りました。丁長発の家で死者が出たとき、魚屋の主人張春国夫婦と息子の張伯釣、それに娘一人と奉公人一人、合わせて5人が数日のうちに相次いで死にました。もう一軒の魚屋の主人丁国豪夫婦も死にました。薪屋の奉公人石冬生とその父親石元和も死にました。石開奇の妻の王金秀、酔仙居酒館主人黄伯梅の姉と妹、橋南の王金山の母親、傳家拐の丁才余夫婦、提灯屋余春和の妻王三姐なども前後して亡くなりました。石公橋で死者が最も多かった頃、近くに住んでいる親戚や友人達がやってきて葬儀に参加しました。そして多くの親戚や友人達がペストに罹り、家に帰った後、死にました。例えば、賀鳳鳴の姪何小妹は石公橋の叔父賀鳳鳴の家にたった二日泊まっただけでペストに感染し、豊県敖山の家に帰ってまもなく死にました。
5、石公橋は洞庭湖の西の広大な平野部にある中心的な町で周囲を取り巻くいくつかの小さな町と密接な商取引関係を持っていました。毎日数多くの人々が石公橋に来て商売を行っていました。石公橋に来て商いをしていた石門県易市の魚売りは石公橋でペストに感染 し、家に帰ってまもなく死にました。邵陽の申という青年は石公橋で綿花を買って帰る途中で死亡しました。湖北の石首県藕池などの木造船は石公橋に麻などの特産品を運んでいましたが、肖という年老いた船頭夫婦は特産品を船に積んで帰る途中で死にました。
湖北漢口の漢劇院第五団は石公橋に来て公演していましたが、2人の劇団員がペストに罹って石公橋で死にました。この劇団は疫病が爆発的に広がるのを見て恐れおののき、すぐに湖北に引き返し、他の場所に移動していきました。そのため、石公橋のペストは周辺の鎮徳橋、韓公渡、陳家橋、周家店、蒿子港等の農村に伝染しました。このようにして石公橋はペスト伝播の中心にもなったのです。人々は石公橋に来て商売をしようとはしなくなりました。そして特に何軒かの大商店や遠くに親戚のある住民はみんな門を閉ざして外に逃げ出し、遠くの親戚や友人を頼ってペストの難から逃れようとしました。商店はほとんど門を閉め、人も少なくなりました。かつての賑やかな石公橋はあっという間に重苦しい恐怖に包まれた死の町に化してしまったのです。
6、石公橋でペストが爆発的に流行してから、常徳防疫所は医療隊と防疫部隊を石公橋に派遣し、ペスト防疫活動に当たらせ、石公橋に対し、交通封鎖を実行し、人々の出入りを禁止しました。石公橋の町の南北の二つの堤にそれぞれ深い溝を掘り、吊り橋を架け、昼間だけつなぎ、夜は断ち切りました。防疫医療隊は石公橋に簡易病院を設立し、注射センター、化学試験室、解剖室、隔離室を設けました。医療隊の中には欧州人医師のポリッツアーという人がいて、彼が病人を検査するのを私は自分の目で見ました。彼の検査の結果は、石公橋の死者はすべて常徳の死者と同様、日本軍731部隊の撒布したペスト細菌によるものであるという事実を証明しています。以上の陳述は私が自ら体験したことであり、自ら見聞きしたことです。続けて私自身がペストに感染した被害状況を述べます。
7、1942年、私はすでに20歳近くになっており、丁度身体が強健な頃でした。友人の家でペストによる死者が出ても、死体を運ぶのを手伝うことをいやがる人もいましたが、私は体が丈夫だったので伝染を恐れず死体を運ぶのを手伝いました。丁長発の家の上の娘丁月蘭が死に、丁年清の妹丁柏清が死に、黄華清の妹黄金枝が死にましたが、この人達の死体はすべて私が抱えて運んだのです。特に黄金枝が死んだ後、昼間は防疫隊の人が見ると火葬を強制するので、それを恐れて葬式を出せませんでした。夜、私は死体を抱きかかえて彼女の兄黄華清の背中に背負わせ、夜陰に紛れて、湖岸まで背負い、小舟で対岸の荒れた中州に運んで土の中に埋葬しました。
次の日、私は体の具合が悪くなり、鼠蹊部が赤くなり、体が冷たくなったり、寒気がしたりして、高熱が出ました。家族のものはすぐに防疫隊に行ってポリッツアー先生を捜して病気を診てもらうように言いました。先生は検査するとすぐにペストに罹っていると言いました。ただちに予防注射を打ち、丸薬を処方して飲ませ、臨時隔離病院に強引に数日間入院させました。ポリッツアー先生は私にこう言いました。「幸いあなたは来るのが早かったので治療が間に合った。もし来るのが一日遅れたら、もう治療方法はなかったよ。」治療が間に合ったおかげで幸いにも一命を取り留めることができました。そして、今日まで生き延び、歴史の生き証人として、日本軍731部隊が石公橋にもたらした罪業を事実のとおりに中国の子孫 達、日本人民、世界人民に証言することができたのです。
8、半世紀以上が過ぎ去りましたが、私が自ら体験した、日本軍による細菌戦の災難の一幕一幕は深く記憶の中に刻み込まれており、永遠に消え去ることはないでしょう。
本日、私は、裁判官、弁護士、傍聴人の皆様に対し、私の意見を陳述いたしました。裁判官が公正な審理を行うことを強く要求いたします。日本政府が中国において行った細菌戦の犯罪責任を承認し、中国人民に公式に謝罪し、被害者に損害賠償を行うことを要求いたします。
1998年7月13日
|