[細菌戦真相] 寧波
●被害の発生
●被害の状況
●胡さんの法廷陳述
[寧波] 被害の発生
浙江省寧波の細菌戦被害の死亡者は、一九四〇年一一月から同年一二月の間に、少なくとも一〇九名にのぼるが、そのうち、原告らの三親等内の親族である死亡者は、次の被害者番号138ないし144の七名である。
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死 亡 者
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性別
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年齢
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死 亡 日
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原告との続柄
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138
139
140
141
142
143
144
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何 福 林
蒋 阿 宝
蒋 信 発
胡 世 桂
胡 陳 氏
胡 菊 仙
胡 貢 慶
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男
男
男
男
女
女
男
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24歳
46歳
16歳
55歳
46歳
9歳
5歳
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40年11月1日
40年11月10日
40年11月16日
40年11月6日
40年11月11日
40年11月2日
40年11月6日
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原告何祺綏の叔父
原告付仁娟の夫
原告蒋杏英の父
原告蒋家駒の祖父
原告蒋杏英の兄
原告蒋家駒の叔父
原告胡賢忠の父
原告胡賢忠の母
原告胡賢忠の姉
原告胡賢忠の弟
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なお、原告銭貴法は、ペストに罹患し重傷者を対象とする甲部隔離病院に収容され、同病院で六一名中五九名が死亡したが、同原告は奇跡的に生き残ったものである。
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生 存 者
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性別
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罹患年齢
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発 病 日
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備 考
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145
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銭 貴 法
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男
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12歳
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40年11月1日
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原告本人
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また、寧波で発生した細菌戦被害は、右のような死亡者の発生と罹患した者にとどまらない。流行地区の家屋は焼燬され、同地区の患者の家族・住民は家屋・店舗を失って路頭に迷うなどの被害を被った。
[寧波] 被害の状況 −細菌戦による寧波のペスト被害
1、衢州、義烏(市街地)、崇山村と広がるペスト流行の原因となった衢州への細菌攻撃と同じころ、同じく浙江省の港湾都市、寧波に対してもペスト感染ノミが投下された。このため、寧波には突発的なペスト流行が起こったが、これ以前、寧波でペストが発生した歴史事実はない。
一九四〇年一〇月下旬、日本軍機は寧波市(旧称朶県)開明街上空に飛来し、小麦などとともにペスト感染ノミを投下した。飛行機が飛び去ったあと開明街一帯の商店の庭、屋根、水瓶、路上には小麦などが散乱し、生きている多量のノミも住民によって目撃された。
一〇月二九日、最初の患者が出た。開明街の入り口の滋泉豆汁店や、隣家の王順興大餅店、胡元興骨牌店及び中山東路(旧東大路)の元泰酒店、宝昌祥西服店、さらに東後街一帯で死者があいついだ。
2、患者及び死者は日本軍機がノミ等を投下した地域の住民に限られていた。汚染区の地域は、北は中山東路に沿って二二四番地から二六八番地、西は開明街に沿って六四番地から九八番地まで、南は開明巷に沿い、東は東後街から北太平巷に接して中山東路二二四号へ続く一帯である。汚染区内商店四三戸、住宅六九戸、僧庵一戸の計一一三戸、人口五九一人であった(次頁の地図参照)。
一一月二日、華美病院(現寧波第二病院)の丁立成院長が、東後街一三六号の患者王仁林(男、四七歳、同日死亡)のリンパ腺を穿刺し、染色液を使って標本をつくり顕微鏡検査によって桿菌を発見した。桿菌は典型的なペスト桿菌状を呈していた。翌日さらに患者兪元徳(男、一六歳、一一月六日死亡)の血液とリンパ腺穿刺液が採取され、モルモットを使った動物実験が行なわれた。翌日死亡したモルモットのリンパ腺穿刺液と血液から、やはりペスト菌状の桿菌が発見され、さらに細菌培養でも陽性の結果が得られた。その後培養物は省衛生処に送られ、呉昌豊技師が培養桿菌を検査し、血清凝集反応を行うと再び陽性の結果が得られた。このほか病院に殺到した住民たちの臨床診断(リンパ腺の腫れ、高熱、昏睡、頭痛等)の結果、寧波市開明街一帯で流行している病気は、ペストであることが証明されたのである。
3、一一月三日、ペスト撲滅臨時事務所が設置され、高熱、昏睡の病人を発見し次第、同事務所に送ることが市民によびかけられた。同事務所は診断のうえ、患者を県城南門外に設けられた臨時隔離病棟へ送り、他の病院ではペスト患者を受け入れないことになった。
しかし、この臨時隔離病棟は汚染区から遠く病人の搬送に不便なため、一一月四日、改めて汚染区内に、重症者を収容する甲部隔離病院と感染の疑いがある者を収容する乙部隔離病院が設置された。なお、六日以降、甲部隔離病院には真正ペスト患者が、乙部隔離病院〔のち汚染区外に移転〕には、汚染区住民及び潜伏期間中と疑われた者が、さらに旧乙部に設置された丙部隔離病院には、汚染区外の感染を疑われた者が収容された。
隔離病院には総計約二五〇人が収容された。甲部隔離病院に収容された六一名は、一一月末の時点で、前記第一章の被害者番号145の銭貴法とあと一名の計二名を除く五九名が死亡した。また乙部隔離病院に収容された一二七名は、潜伏期間を過ぎ、退院許可証を受けたが、このうち約半数は帰る家がなく院内に留まり続けた。
4、この間、防疫活動も活発に行なわれた。すでに一一月二日には汚染地域が封鎖され、四日、県政府は同地区の厳重封鎖を告示した。六日には、朶県防疫処が成立して防疫体制が整えられた。八日から、汚染区の周囲に高さ三・七メートルの壁をめぐらす工事が着手され、突貫工事によって一一日に完成した。このほか排水土管の破壊、暗渠の埋立てなどの工事が行われ、汚染区域は硫黄の薫蒸などによって消毒された。中央政府や省政府から防疫隊、防疫担当官が到着し、ペストワクチンの予防注射も、本格的に行われるようになった。
だが、ペストの死者が出ると汚染地区内の住民は、伝染病を避け実家へ戻ったり、親戚友人を頼って区外へ出た。県防疫処は設立と同時に、伝染病の蔓延を防ぐため、汚染区外に出た住民や感染者を専門的に捜索する捜索隊を組織した。この捜索は成果をあげ、多くの患者や汚染地区の住民が県外で発見され、連れ戻されたが、それでも汚染区外での死者は三二名にのぼった。
一一月三〇日夜、開明街の汚染区のすべての家屋の焼却が断行された。消毒作業だけでは菌を撲滅できなかったからであった。焼却は夜七時に始まり、汚染区一一カ所に同時に点火、四時間後汚染区内の建物はすべて燃え尽きた。焼却家屋は一一三戸、部屋数一三七室、面積約五〇〇〇平方メートルであった。
こうした防疫活動が功を奏し、一二月初めに最後の患者が死亡したのち、寧波のペスト流行は終息した。死者の合計は、少なくとも一〇九名であった。
前記第一章の被害者番号138の何福林から144胡貢慶は、このペスト流行で死亡したものである。
この他、汚染区の住民約五〇〇人は、住む家や生業(商店経営)を失い、路頭に迷うものも多かった。
[寧波] 胡さんの法廷陳述
日本軍731部隊の寧波細菌戦を血涙をもって告発する
1、私は寧波市に住んでいる胡賢忠です。日本軍731部隊が寧波に対して行った細菌戦の被害者の遺族です。私は1932年に寧波で生まれ、現在66才です。
寧波は、浙江省の東北部の港湾都市です。寧波は日本との間で非常に古い交流の歴史を持っています。唐の時代、中日間の海上航路の中国側の港は、寧波港でした。日本の唐招提寺を創建した有名な唐僧鑑真も、寧波の港を出発して日本に行きました。
日本軍731部隊は、このように、日本と深い歴史的、文化的な交流をもつ寧波の街に、細菌戦を強行したのです。
2、1940年10月下旬、日本軍731部隊の飛行機が、寧波の上空を低空で旋回し、街の中心の開明街に、麦やトウモロコシなどの穀物と一緒にペスト感染ノミを散布しました。その当時、私は8歳で、開明街70号に家族と一緒に住んでいました。私も近所の人たちも、日本軍の飛行機が落としたものが、まるで霧のように空一杯に散って地上に麦が落ちてくるのを見ました。
私の家は、開明街で「胡元興」という麻雀の牌を作って売る店を経営していました。私の家では、日本軍の細菌戦によって、両親と姉と弟の4人がペストに感染し、4人全員が殺されました。
3、私の家族の中で最初のペストの犠牲者は、姉の胡菊仙でした。11月初め、姉は、まず頭が痛くなって発熱し、顔がまっ赤になって意識が朦朧となり、太もものリンパ節が腫れてきました。姉は食欲が無くなって水さえも飲めなくなり体は衰弱していきました。母が、姉にいろんな薬をのませましたが、病状は回復せず、発病から間もなく、姉は家族に見取られながら死んでしまいました。死んだ姉は、いつも一緒にいて私をかわいがってくれました。
私は、突然、愛する姉を失って強いショックを受け、深い悲しみに打ちひしがれました。姉の死体は、棺桶に入れられて、祖母の墓の傍らに埋葬されました。私は、墓前にひざまづき、「お姉さん、あなたはなんでさっさとあの世に行ってしまったの。僕は、もっとお姉さんに遊んでもらったり、勉強を教えてもらいたかったのに。お姉さん、僕は、あなたと離れ離れになれないほどまだ小さいんだよ」と泣き叫びました。
4、姉の死から10日も経たない内に、弟が、そして父と母が、次々とペストで死んでしまいました。弟はとても活発な愛らしい子供でした。私は弟が死んだことが信じられませんでした。その後、父も姉や弟が死んだときと同じ症状で苦しむようになりました。やがてまっ白い帽子と服に白い長靴をはいた防疫隊の人が家にやって来て、彼らは、父を重症者だけを収容する甲部隔離病院に連れて行きました。私は、父が死なないように祈っていました。しかしまもなく、母が、泣きながら「お父さんは死んでしまった。こらからどうやって生きていこうか」と私に言いました。
その後、間もなく母の病状もひどくなり、脇の下が腫れてかたまりができました。母は、「私は隔離病院に入れられて死んでしまうだろう」と私に言いました。実際、間もなく母も、甲部隔離病院に収容されました。その後私は、近所の人から母が死んだということを聞かされました。
こうして私は、とうとう孤児になりました。私は、これから生きていけるのかどうか不安で胸が一杯になり、将来の生活のことを思えば思うほど、悲しみがこみ上げ、涙が出てきて止まりませんでした。孤児になってからの体験は、とても言葉では言い表せない悲惨なものでした。
私は、私の運命を翻弄した細菌戦を、心から憎みます。日本軍731部隊は絶対に許すことができません。
5、寧波細菌戦に関しては、ペストに対する防疫活動と住民被害について、黄可泰、呉元章両医師をはじめとする地元寧波の研究者による貴重な調査があります。その調査によれば寧波全体では、日本軍の細菌戦によるペストで死亡した人は、約110名で、その死者の半数近くは子供でした。
ペストが発生して間もなく、ペスト流行の拡大を食い止めるために、開明街などの汚染地区は、高さ約4メートルの壁で囲まれ、厳重に封鎖されました。こうして汚染地区の約600名の住民は、地区丸ごと移動を制限されました。またペスト患者のために、3つの隔離病院が設けられ、医師、看護婦などが献身的な治療を行いました。しかし甲部隔離病院に収容された真正ペスト患者は、後で述べる銭貴法さん以外は全員死亡しました。
さらにペスト発生から約1ヶ月後の11月末、ペスト防疫対策として、開明街などの汚染地域の100戸以上の建物が全部焼き払われました。汚染地区の約500人は、こうして家族を失い住まいも財産も失い、路頭に放り出されました。私の家も焼き払われ、私は、住む場所すら無くなりました。
6、甲部隔離病院に隔離された真正ペスト患者のうちに、ただ一人だけ奇跡的に生き残った、寧波細菌戦の歴史的な生き証人がいました。それが原告としてこの裁判を起こした銭貴法さんです。彼は当時開明街の元泰酒店の従業員でした。銭貴法さんは、第一回裁判のために日本を訪問し、この法廷で、寧波の原告を代表して意見陳述をする予定でした。
ところが、何と不幸なことでしょう、銭貴法さんは、パスポートの交付を受け、いよいよ訪日の日も近づいてきたとき、病に倒れたのです。そして病魔は無慈悲にも銭貴法さんを苦しめ、1997年12月16日、遂に彼の命を奪ってしまいました。銭貴法さんは、死の直前までベッドの上で日本軍の細菌戦は許せないと言い続けていました。私たちは、銭貴法さんの遺志を引き継ぎ、新しく原告となった銭貴法さんの奥さんの範小青さんとともに、731部隊細菌戦国家賠償訴訟の勝利を目指して闘い続けます。私は、この決意を銭貴法さんの霊に誓うものです。
7、日本政府は、敗戦から50年以上たった現在でも、日本軍が細菌戦を行った事実を認めていません。日本が、侵略戦争に沈黙したり、居直っておいて、一体、中日友好は実現できるのでしょうか。
戦後も長期間にわたって、中国の各細菌戦被害地では、ペスト再流行の危険があるため、戦後も防疫機関が長期間にわたって鼠を捕獲してペスト菌の有無を検査してきました。この一事に照らしてみても、日本政府は、中国のどの地域に、何時、どの部隊が、どんな手段で、細菌戦を実行したのかを、中国政府と細菌戦の被害地の住民に、説明する義務があるのではないでしょうか。日本政府は、一刻も早く日本軍の細菌戦の事実を、国家として公式に認めるべきです。
8、私たち中国人民は、恒久平和を望んでいます。また中国人民と日本人民は永遠に友好でなければならないと思います。それらを実現するためには、侵略戦争に反対し、侵略戦争の根っこそのものを断ち切らなければなりません。
私たち中国人民は、歴史上類例のない残虐な日本軍の細菌戦を、永久に許しませんが、「前事不忘、後事之師」と言います。日本政府が、日本軍の細菌戦の事実を認めて謝罪し、速やかに賠償することは、中日両国の真の和解と信頼関係を実現するのに重要な意味をもつことだと中国人民は信じています。
9、日本軍731部隊の細菌戦が裁かれるのは、この裁判が最初です。この裁判は、止むに止まれぬ中国人民の長年の思いを実現させたものですが、この私たちの裁判を周りから強く支えてくれている日本の多くの人たちの良心的なボランテイア活動に心から感謝したいと思います。
最後に、日本の裁判所の尊敬する裁判官諸士が、自分の心の中の良心の声を聞き分け、細菌戦の犯罪を勇気を持って裁くことを、心から期待します。以上をもって、寧波の細菌戦被害者を代表した私の意見陳述を終わります。
1998年2月16日
中華人民共和国浙江省寧波市
胡 賢 忠
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