(3)そこで、上記(2)の前段の判断基準に基づき本件における国会の立法不作為の違法の有無を検討することとするが、その前提として、必要な範囲で、原告らの主張する本件細菌戦の事実の有無についてみておくこととする。

ア この点については原告らが立証活動をしたのみで、被告は全く何の立証 (反証)活動もしなかったので、本件において事実を認定するにはその点の制約ないし問題がある。また、本件の事実関係は、多方面岩たる複雑な歴史的事実にかかるものであり、歴史の審判に耐え得る詳細な事実の確定は、最終的には、無制限の資料に基づく歴史学、医学、疫学、文化人類学等の関係諸科学による学問的な考察と議論に待つほかはない。しかし、そのような制約ないし問題があることを認識しつつ、当裁判所として本件の各証拠を検討すれば、少なくとも次のような事実は存在したと認定することができると考える(認定に供した証拠は、書く認定事実の末尾に記載する。)。

(ア)731部隊の前進は、昭和11年(1936年)に編成された関東軍防疫部であり、これが昭和15年(1940年)に関東軍防疫給水部に改編され、やがて731部隊の名で呼ばれるようになった。同部隊は、昭和13年(1938年)ころ以降中国東北部のハルビン郊外の平房に広大な施設を建設してここに本部を置き、最盛期には他に支部を有していた。同部隊の主たる目的は、細菌兵器の研究、開発、製造であり、これらは平房の本部で行われていた。また、中国各地から抗日運動の関係者等が731部隊に送り込まれ、同部隊の細菌兵器の研究、開発の過程においてこれらの人々に各種の人体実験を行った。
 中国各地には他にも同様な部隊が置かれたが、その中で有力な部隊が南京に置かれていた中支那防疫給水部(「栄1644部隊」又は「1644部隊」)である。(甲1、2、3、18、25、27、33、54、76、77、82、85、86、88、91、99の1・2、105の1、証人篠塚良雄、証人松本正一、証人辛培林、証人吉見義明、証人松村高夫)

(イ)1940年(昭和15年)から1942年(昭和17年)にかけて、 731部隊や1644部隊等によって、次のa, f, g, h のとおり中国各地に対し細菌兵器の実践使用(細菌戦)が行われた。

a 衢県(衢州)
(a)1940年(昭和15年)10月4日午前、日本軍機が衢県上空に飛来し、小麦、大豆、粟、ふすま、布きれ、綿花などとともにペスト感染ノミ(小袋に入ったものもあった。)を空中から散布した。当日午後には、県知事の指示で、住民を総動員して散乱している投下物の収集・焼却が行われた。

(b)10月10日以降、上記の投下物のあった地域で病死者が出始め(ただし、その病気がペストかどうかは確認されていない。)、同じころからネズミの死体が続々と発見されるようになった。11月12日にペスト患者が多発した。
 衢県で11月12日以降に発生したペストは、日本軍機が投下したペスト感染ノミがネズミにペストを流行させ、これがヒトに感染したものと考えるのが合理的である。

(c)1940年(昭和15年)末までに当局に報告されたペストによる死者は24人であった。しかし、ペスト患者は、家族がこれを秘匿したり、隔離されることなどを恐れて逃亡するようなこともあって、病死者の実数はこれを上回るものとみられる。なお、証人邱明軒は、衢州細菌戦の被害者が1501人に上るとしている。
 また、衢県でのペストは、次のbからeまでのようにその周辺の地域にも伝播し、大きな犠牲をもたらした。(甲2、88、91、99の1・2、105の1、283の1・2、証人松本正一、証人吉見義明、証人邱明軒、原告呉世根)

b 義烏
 (a)1941年(昭和16年)9月、衢県に流行していたペストに感染した鉄道員が義烏に戻って発病し、これをきっかけに義烏においてペストが流行した。

 (b)ペストは、義烏からさらに周辺の農村へ伝播していったが、原告陳知法ら現地の被害調査会の調査によれば、義烏市街地におけるペストによる死亡者は309人に上るとされる。

(甲77、89、98の1・2、証人邱明軒、原告陳知法)

c 東陽
 (a)1941年(昭和16年)10月、義烏で流行していたペストが東陽県に伝播し、同所で流行した。

 (b)原告郭飛龍によれば、同原告の住む歌山鎮では40人以上がペストで死亡したとされる。
(甲77、98の1・2、353の1・2、証人邱明軒)

d 崇山村
 (a)江湾郷の崇山村は、北の上崇山村と南の崇山村の2つに分れており、住宅は密集して建てられていた。しかし、上・下の区域を越えた人の交流はほとんどなかった。同村のペストは、1942年(昭和17年)10月から上崇山村で爆発的に流行し、死者が続出する事態となった。その後、12月上旬には上崇山村のペストはほぼ終結するように見えたが、12月に入ると今度は下崇山村で死者が出るようになった。
 このペストは、義烏に流行していたペストが伝播したものと考えられる。

 (b)崇山村のペストによる死者は、流行が終息する翌1943年(昭和18年)1月までに総計396人に上ったとされている。これは当時の崇山村の人口の約3分の1に当たる。

e 塔下州
 (a)崇山村で流行していたペストは、1942年(昭和17年)10月に塔下州に伝播し、同村で大流行した。

 (b)塔下州村のペストによる死者は、約2か月の間に103人に及んだとされている。この死者は、当時の村全体の人口の約5分の1に当たる。
(甲143の1・2、151、原告周洪根)

f 寧波
 (a)1940年(昭和15年)10月下旬、日本軍機が寧波上空に飛来し、中心部の開明街一体にペスト感染ノミ(後にインドネズミノミと鑑定された。)の混入した麦粒を投下した。

 (b)早くも10月29日ノミ等が投下された地域にペスト患者が出て、治療活動とともに防疫活動も活発に行われ、汚染区が封鎖され、消毒や家屋の焼却などが行われた。このような治療、防疫活動により、ペストは12月初めに最後の患者を出した後、終息した。
 このペスト流行は、主として、投下されたペスト感染ノミが直接ヒトを噛んでペストがヒトに感染したことによるものと考えられる。

 (c)当時公報による報道、国民政府中央防疫研究所長の報告書、治療に参加した医師等からの情報提供に基づく証人黄可泰らの調査(甲97の1・2参照)によれば、このペスト流行による死亡者で氏名が判明しているのは109人である。
(甲3、50、91、97の1・2、105の1、162の1・2、288の1・2、証人松本正一、証人吉見義明、証人黄可泰、原告何祺綏)

g 常徳
 (a)1941年(昭和16年)11月4日、731部隊の日本軍機が常徳上空に飛来し、ペスト感染ノミと綿、穀物等を投下し、これが県城中心部に落下した。

 (b)11月11日にはペスト患者が出始め、初発患者発生から約2か月間の1次流行で県城地区で8人の死亡患者が出た(当時の『防治湘西鼠疫経過報告書』による。)。ところが、約70日の間隔を置いて、1942年(昭和17年)3月から2次流行が起き、6月までに県城地区で合計34人の死亡患者が出た(同報告書)。
 1次流行は投下されたペスト感染ノミが直接ヒトを噛んでヒトがペストに感染したものである可能性が高く、2次流行は、ペスト菌がそれに感染したネズミの体内で冬を越し、春の活動期にノミを介してヒトに感染した可能性が高いと考えられる。

(c) 1942年(昭和17年)3月以降、常徳市街地のペストが農村部に伝播していき、各地で多数の犠牲者を出した。
 なお、「常徳関係のペストによる死亡者は7643人に上るとされている。(甲1,2,33,75,88,91,92,93の1,105の1,144の1・2,145の1・2、証人松本正一、証人吉見義明、証人中村明子、証人聶莉莉、原告易孝信、原告丁徳望)

h 江山
(a) 日本軍は、1942年(昭和17年)6月10日ころから江山県城を占領し、約2ヶ月後に撤退したが、この撤退の際、コレラ菌を使用した細菌戦を実行した。その方法は、主として、井戸に直接入れる、食物(餅状のもの)に付着させる、果物に注射するなどというものであった。

(b) 江山の人々の中には、これらの食物等を飲食しコレラに罹患して死亡する人が発生した。原告鄭科位及び同周法源の最近の調査によれば、当時七斗行政村においてコレラで死亡したと考えられるのは合計37人であった。
(甲91,105の1、163の1・2、293の1・2、原告周道信)
(ウ)これらの細菌兵器の実戦使用は、日本軍の戦闘行為の一環といして行われたもので、陸軍中央の指令により行われた。
(甲1,2,21,33,76,91、証人吉見義明、証人松村高夫)
(エ)(本件細菌戦によるペスト、コレラ被害の内容・程度)

a ペストは、歴史上14世紀ころにヨーロッパで猛威を振るい「黒死病」と恐れられた細菌感染症である。秒方としては、腺ペスト、敗血症ペスト、肺ペスト、皮膚ペストなどがある。一般に、軽微な前駆症状の後に突然に悪寒をもって発病し、激烈な頭痛、眩暈、吐き気、、嘔吐を伴い、速やかに高度な心臓障害及び血管障害が起こり、身体に色濃い斑点が現れ、痙攣を起こして、大変な苦痛のうちに死に至ることも多い。ただし、現在ではサルファ剤や抗生物質によって治療が可能になっている。
 腺ペスト(ヒトのペストの中で最も多く、80%から90%を占める。)や皮膚ペストは、ペストに感染したノミに噛まれて感染する。肺ペストは、ペスト患者の喀痰や飛沫が感染源になる。敗血ペストは主として腺ペストに続いて起こる二次性のものが多い。特に本件の被害地域のように人的な繋がりが強い地域では、ペストはそのような社会形態を介して伝播し、人々を次々に死に追いやることから、差別とお互いの疑心暗鬼を招き、地域社会の崩壊をもたらすとともに、人々の心理に深刻な傷跡を残す。そして、ペストは本来齧歯類の病気であることから、ヒト間の流行が始まった後も、病原体が自然の生物界で保存され、ヒトの間に感染する可能性が長く残存する。その意味で、ペストは、地域社会を崩壊させるだけではなく、環境をも長期的に渡って汚染する病気であるといえる。
(甲89,92,93の1、98の1・2、証人上田信、証人聶莉莉、証人中村明子、証人邱明軒、弁論の全趣旨)

b コレラは、経口的に伝染して起こる消化器系伝染病である。米のとぎ汁様の激しい下痢と嘔吐による脱水症状や、筋肉の痙攣を起こし、治療が行われないとかなりの割合で死に至る。極めて苦痛の大きい伝染病である。ただし、現在では、適切な輸液と抗生物質の併用により致命率を大きく下げることができる。
 伝染力が強く、次々と死者が出ると、地域社会において差別やお互いの疑心暗鬼を招くことも多い。
(甲163の1・2、179,293の1・2、原告周道信、弁護の全趣旨)


イ 次に原告らの主張する被害についてみてみる。
  原告らは、旧日本軍の本件細菌戦により別紙3の「原告らの主張」の別紙「原告及び死亡親族一覧表」記載のとおりの被害(ペスト又はコレラへの罹患やこれを原因とする死亡)を受けたと主張し、立証としてこれに符合する陳述書を甲号証として提出し(甲142から145までの各1・2、161から163までの各1・2、283から293までの各1・2、295から474までの各1・2)、一部の原告ら(原告呉世根、同何祺綏、同陳知法、同周洪根、同丁徳望、同易孝信、同周道信)が本人尋問においてその旨を供述している。大半の原告らについては、それ以上に原告らの上記主張事実を確認することができるより客観的な証拠は提出されておらず、これからの事実の的確な認定のためにはなお証拠の追加提出が可能かどうかが検討される必要があると思われるが、上記原告らの各陳述書及び本人尋問における各供述事態は十分了解し得る説得的なものである。

ウ そして、前示のとおりヘーグ陸戦条約の内容は遅くとも1911年(明治44年)ころまでには国際慣習法として成立していたものと認められるところ、ヘーグ陸戦規則23条1項が「特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止ノ外、特ニ禁止スルモノ左ノ如シ。」としていることや、ヘーグ陸戦条約前文にいわゆるマルテンス条項(締約国ハ、其ノ採用シタル条項ニ含マレサル場合ニ於テモ、人民及交戦者カ依然文明国ノ間ニ存立スル慣習、人道ノ法則及公共良心ノ要求ヨリ生スル国際法ノ原則ノ保護及支配ノ下ニ立ツコトヲ確認スルヲ以テ適当ト認ム。)が謳われていることを併せて考えると、ジュネーブ・ガス議定書のような条約ないしそれを介して成立する国際慣習法による害敵手段の禁止もヘーグ陸戦規則23条1項にいう「特別ノ条約ヲ以テ定メタル禁止」に該当すると解するのが相当である。したがって、ジュネーブ・ガス議定書を内容とする国際慣習法による細菌兵器の禁止に違反した場合にもヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生ずるというべきである。
 前記認定の旧日本軍による中国各地における細菌兵器の実践しよう(本件細菌戦)がジュネーブ・ガス議定書にいう「細菌学的戦争手段の使用」に当たることは上記イに説示したとおりであるから、被告には本件細菌戦に監視ヘーグ陸戦条約3条の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていたと解するのが相当である。
 原告らは、本件細菌戦はヘーグ陸戦規則23条1項ホにも該当し、さらに同規則25条にも違反すると主張しているが、上記のように本件細菌戦についてジュネーブ・ガス議定書を内容とする国際慣習法違反としてヘーグ陸戦条約の規定を内容とする国際慣習法による国家責任が生じていたと解する以上、それ以上の陸戦法規違反を検討する必要はないから、次に議論を進めることとする。


エ 前に説示した国際法の基本原則によれば、本件細菌戦に係る被告の国家責任は、我が国と中国との国家間でその処理が決定されるべきものである。しかるところ、周知のとおり、中華人民共和国政府は昭和47年(1972年)9月29日の日中共同声明(日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明)において、「中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄することを宣言」し、昭和53年(1978年)8月12日に署名され同年10月23日に批准書が交換された日中平和友好条約(日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約)も、「(日中)共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認」している。
 したがって、国際法上はこれをもって被告の国家責任については決着したものといわざるを得ない。

(略)

オ まとめ
  以上のとおりであって、本件細菌戦による被害は誠に悲惨かつ甚大であり、旧日本軍による当該戦闘行為は非人道的なものであったと評価を免れないと解されるものの、法的な枠組みに従って検討する限り、被告の国会に国会賠償法1条1項という違法な立法不作為があるとすることはできない。
 そこで、本件細菌戦被害に対し我が国が何らかの補償等を検討するとなれば、我が国の国内法ないしは国内的措置によって対処することになると考えられるところ、何らかの対処をするかどうか、仮に何らかの対処をする場合にどのような内容の対処をするのかは、国会において、以上に説示したような事情等の様々な事情を前提に、高次の裁量により決すべき性格のものと解される。


(略)