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鑑定意見書

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1941年の日本軍隊の常徳細菌戦による
常徳都市部と石公橋鎮一般住民の被害

中国・湖南文理学院歴史学部教授  陳  致 遠



目   次

一、常徳市と石公橋鎮の地理的な位置について

1.中国湖南省常徳市の位置

2.1940年代の常徳県城の街路と人口

3.常徳市石公橋鎮の位置

二、日本軍細菌戦による常徳都市部の住民の被害状況

1.中国防疫公文書に記録された常徳都市部の住民の死亡状況

2.公文書記録以外の調査による常徳住民がペストで死亡した状況

3.常徳都市部におけるペスト死亡者総数

4.人為的なペストが住民に与えた深刻な被害について

5.常徳市は今日でもペストの潜在的脅威に直面している

三、日本軍細菌戦による石公橋鎮住民の被害状況

1.公文書に記録された石公橋鎮のペスト状況

2.石公橋鎮ペストの疫病源について

3.石公橋の人々の記憶にある石公橋ペスト被害状況

4.石公橋鎮のペスト被害世帯と人数について

附属文書一:《常徳市及び石公橋鎮の17名の細菌戦被害者に対する調査》

附属文書二:《湖南省1991〜2000年の間のペスト監視測定報告》


 常徳細菌戦被害調査会の7年(1996年から2002年まで)にわたる調査によると、1941年の日本軍の常徳細菌戦によって常徳都市部及び周辺70郷鎮と486自然村ではペストが大流行した。これにより、7,643人が死亡した。本鑑定書は最も典型的な被害地区である常徳都市部と石公橋鎮を例に挙げて裁判所に対し陳述するものである。


一、常徳市と石公橋鎮の地理的な位置について

1、中国湖南省常徳市の位置
常徳市は中国大陸の揚子江中流域の南側にあり(図1、「常徳在中国位置図」参照。)、湖南省の北部、洞庭湖の西岸にある(図2、「常徳在湖南位置図」参照。)。1941年に日本軍の細菌戦で攻撃された常徳県城は現在の常徳都市部であり、常徳市は東経111°42″、北緯29°03″に位置している。



2、1940年代の常徳県城の街路と人口
1941年の常徳県城は、周囲約5キロにわたって煉瓦造りの城壁が築かれていた(図3、「1940年代常徳県城街路図」参照。)が城壁には大西門、小西門、北門、上南門、下南門と東門の計6つの城門があった。城内街路の配置は不規則なものであった。1941年、日本軍による常徳細菌戦の後に中国国民政府によって常徳に派遣され検疫を実施したペスト学専門家の陳文貴が1941年12月12日に書いた『常徳鼠疫(ペスト)調査報告書』によると、城内と近郊の住民数は、「約5万人」である 。

しかしながら、1942年に常徳の防疫部門が、都市部の住民に対してペスト・ワクチンを接種するために作成した人口統計によると、当時の常徳住民は62,510人、軍人は4,000人で、これを合計すると66,510人であった 。

3、常徳市石公橋鎮の位置
石公橋鎮は常徳県城の北東にある。石公橋鎮と常徳県城の間の距離は直線距離にすると24キロであるが、両地間の移動には水路と陸路を利用するため、実際には約30キロである(図4、「石公橋鎮在常徳位置図」参照。)。1941年当時、石公橋鎮は常徳県の新徳郷に属していた。石公橋鎮は、水路交通が発達し、東側へ行くと洞庭湖と、南側へ行くと元江と、北側へ行くと紜水と繋がっていた。そのため、当地で生産された穀物や綿花や水産物、湘 北西の諸県で生産された特産物などが集結されて販売され、1940年代には、商業貿易が非常に盛んであった。

1940年代の石公橋鎮の総人口は約2,000人で、大小商店と住居が合わせて400戸余りあった。比較的大きな商店は50余りで、それらは、シルク店や南方特産店、百貨店、金物屋、魚屋、穀物商店、花屋、布店、旅館、とさつ場、料理店、薬屋、染め屋、金屋、鍛冶屋と糸屋などを営んでいた。
石公橋鎮には湖北省や安徽省や江蘇省などの地区から避難してきた船舶と難民が少なくなく、日毎の流動人口は千人以上に達した。当時の石公橋街路は土硝湖 と陳家湖(今淤)の間を突っ切る通りにある街で、わずかに直角状に曲がっていた(図5、「1942年石公橋鎮街路示意図」、及び、図6、常徳市武陵区公文書館所蔵の1938年に日本軍がかいた石公橋地図コピー参照。)。その街の全長は約1.5キロで、北東端には「北極宮」があり、そこから西へ行き角までが「北横街」であり、そこから南へ行って石公大橋までが「北正街」、そして橋の南側に「南正街」がある。


二、日本軍細菌戦による常徳都市部の住民の被害状況

1.中国防疫公文書に記録された常徳都市部の住民の死亡状況
中国には1940年代に常徳住民がペストで死亡した状況を記録した種々の防疫書類が存在する。それらのうちでは、当時の中央衛生署防疫所所長である容啓栄が書いた「防治湘西鼠疫経過報告書[湘西地区におけるペストに対する予防と治療の過程報告書]」(以下、「報告書」という。)が最も詳しい記録である。
容啓栄は1942年5月に常徳に到着し、防疫指導と監督の仕事を担い、同年9月にその報告書を編集した。報告書は中国第二歴史公文書館と湖南省公文書館にも保存されている。報告書には1941年11月11日から1942年7月までの常徳中心地のペスト患者が42名で、死者が37名であったと記録されている(添付の容啓栄の「報告書」に記録された「常徳ペスト患者一覧表」から作成した下表及び図7参照。)。

>「常徳ペスト患者一覧表」はこちら(PDF:94KB)


ここで、常徳都市部住民のペスト患者の死亡者が37名であるという前述の報告書の記録と実際の歴史的事実とが合わないということを指摘しておかねばならない。日本軍731部隊の戦闘機は1940年に中国寧波市で5キロのペスト蚤を投下し、氏名が判明している限りにおいて109人を死亡させたことが明らかになっている 。一方、日本軍が常徳で投下したペスト蚤の量は36キロと、寧波市の実に7倍であったのだから、報告書にある死亡者数はもちろん、寧波市での死亡者数を大幅に上回っていたことは容易に想像できる。今日、たくさんの歴史的資料を見ると、常徳のペスト被害者の状況を当時の政府防疫部門がよく把握していなかったことがわかる。
 当時の政府防疫部門が正確にペスト患者と死亡者の状況を把握できなかった原因は以下の3点である。
(1)第一は、日本の学者である江田憲治が指摘しているように、1940年代の中国国民政府の防疫系統には、日本軍細菌戦に直ちに対応する能力とプランがなかったことである 。常徳でペストが発生した後、医療、検疫、また防疫情報のシステムの構築が迅速になされず、そのため、多くの患者・死者が把握されなかったのである。
容啓栄の「報告書」によると、常徳の隔離病院は、日本軍戦闘機がペスト源を投下した11月4日の16日後の11月20日に設置された。このように施設の建設は遅く、その造りは粗末であった。また、住民に対する予防注射は、ペスト投下から20日経った11月24日からようやく実施された。予防注射を受けた市民は翌年の5月になっても30%に達しなかった。
容啓栄によると、この遅れは、防疫機構が十分でなく、防疫資金が不足していたことが防疫作業の円滑な推進を妨げたためにおこった。同人はこの実態を、次のように詳述している。「疫病情報を調査する仕事は…次第にしまりがなくなり、時折情報が伏せられたり、遅れて報告されたりすることがあった。今年三月から七月まではペスト感染者が31人であったが、そのうち、17人が解剖されたあとに病名が発覚した。しかし、ペスト大流行から5ヶ月の間に、6万人余りの常徳市民の中で、検査された死体は合わせて37体しかなかった。特に4月に検査された20人の死者の内11人がペストで死亡したことがわかっているが、これらの死亡者が発病していた時は、防疫所は何の情報も得ていなかった。このように考えると、常徳では春季ペスト流行期間の患者の報告漏れは決して少なくない。」
1941年に常徳でペストの調査をした有名な専門家である陳文貴は1950年2月に常徳細菌戦を取材していた記者に対して次のように述べた。「1941年11月11日の常徳の第一例目のペスト患者である蔡桃儿の発病から、24日までのわずか13日間に死者が17人にのぼった。そのうち、6人がペストで死亡したと調査により確認した」 。残りの11人は検査されず、ペストで死亡したか否かという情報は記録されなかった。
「井本日誌」によると、日本軍戦闘機が常徳で細菌を投下した後、「11月6日に常徳附近で中毒を引き起こし、11月20日頃に大流行し始めた」。しかしながら、常徳防疫部門は、1例目のペストによる死亡者は11月11日に感染したとしていた。ペストを投下してその経過を注視していた日本軍も、「11月6日には中毒が起こった」と記録していることから、6日から11日までのペスト患者・死亡者について、中国防疫部門は全く把握していなかったといえる。
1941年12月10日の『常徳県警察局第二十五回警務会議記録』によると、「都市部でペストを発見した。感染速度が速く、とても危険である…関廟街にいたペスト患者を、石公橋まで担いだが、黄土店で死亡してしまった。「今後の感染が危惧される」と記載されている 。常徳県城で感染した者が、周辺農村部に戻って死亡するという例を防疫機構は十分に把握していなかった。このような事柄に関する歴史的資料は枚挙にいとまがない。
(2)第二は、当時多くの住民が政府の防疫措置を理解せずに拒絶してしまったことである。約60年前の常徳住民は漢方を信頼し、西洋医学を疑っていた。常徳でペストが発生した後、常徳隔離病院は西洋医学によって1人のペスト患者も治癒し得なかった(容啓栄の「報告書」によると、1942年4月11日前に隔離病院に収容された患者が全員死亡した)。病院は死因を追究するために死体を解剖していたが、これは遺体に欠けたところがあってはならないという人々の観念を逆なでした。そのため、住民は「ペストに感染しても隠したり、患者を助けてこっそり逃がしたりしていた」 。
また、常徳市民は、感染の拡大を防ぐために死体を火葬することも受け入れなかった。火葬も習慣、すなわち「入土為安」という常徳市民の埋葬観念に逆らうからである。容啓栄の「報告書」ではそのことを次のように述べている。「常徳で火葬を行うとき、対応措置を十分取らなかったので…遺族や一般民衆の恨みをかいまたは反発を引き起こした。(常徳市民は)ペスト感染者についての情報を隠したり、周辺の農村に逃げたりしていた」。
容啓栄はまた、「報告書」において、予防注射についても「一切の緊急措置が一般民衆の理解を得がたい。予防注射についてだけ述べても、多くの高等教育を受けた者でも拒絶した。知識のない一般民衆がそれを受け入れることは期待しがたいだろう」と述べている。注射を拒絶する民衆によって、防疫役人が殴られる事態が発生することもあったという。
筆者が被害者遺族に対して行った独自の調査によって、常徳市民は多くの方法で疫病情報を隠し、患者または死体を移送するなどしていたことが明らかになった。すなわち、家庭内で秘密を守ること。隣人の間で互いに隠すこと。防疫役人を買収すること。にせの予防注射証を買うこと。夜中に城壁を乗り越えて逃げること。かごで人を担いで町を出ること。天秤棒で子供を担いで街を出ること。防空警報が鳴っている混乱の最中に町を出ること等々である。
(3)第三は、防疫部門自体に本当の死者数を把握する能力がなかったことである。当時、常徳の防疫システムは一台の効率の低い機械にすぎなかった。容啓栄の「報告書」によると、当時防疫資金が窮迫していたため、常徳でペストが発生した後、湖南省政府はわずか2万元程度、中央衛生署は1万元程度の資金しか支給しなかった。常徳防疫所のその他の経費は「地方からの寄付金や捕鼠税などからしかなく、そのため業務は遅々として進まない」という問題が起きていた。それから、1942年春のペスト大流行までに、「諸方の努力で6月15日まで防疫資金70万元を得た」。
常徳ペストが発生した後、衛生署、軍政部、紅十字総会と湖南省防疫署等各部門が常徳に派遣した防疫隊は10〜20隊前後に達したが、当時、仕事をどう協調してすすめ、とりしきっていくか問題がだった。常徳防疫所防疫技術を管理する設計委員会は「事務を管理する者がいなくて、問題を互いに押しつけ合った」 。
そのほか民衆への宣伝が足りなかった。民衆に対する強制的な注射や隔離、死体検査、火葬といったことは民衆の反発と拒絶を招いた。筆者の調査によると、常徳城東の回族の人々は火葬に運ばれる死体を防疫役人から強奪する事件を起こした。容啓栄は常徳の防疫状況を考察し、次の通りまとめた。「以前の常徳防疫機構は不健全であり、技術指導者の統一がなく、予防・治療経費は不足し、予防・治療手段は不適当だった。その上、地方党政軍諸方面の力も十分に発揮されず、防疫業務の推進は困難であった」。以上のことから、当時の常徳防疫機構がこのような状況の下で、正確な疫病状況とペスト患者死亡者数をよく把握することができたとは考えがたい。

2、公文書記録以外の調査による常徳住民がペストで死亡した状況
1996年11月に常徳では「細菌戦被害調査委員会」という民間の調査組織が設立された。委員会の一部は退職した教師や医師、労働者や細菌戦被害者遺族からなる。かれらは長期的な努力で、2002年まで7年間のボランティア活動を通し、常徳市の9つの区または県で調査を行い、延べ約30万人を訪問した。そして、15,000余りの被害者提訴資料を取得した。その資料を審査・整理し、そのうちの7,643通(人)が日本軍細菌戦の被害者(死亡者)であると確定した。かれらは被害者に対する調査・鑑定に際し科学的・実務的な手段を用いることを求めた。
科学的・実務的手段とは、第一に、「時間的検証法」である。つまり、被害者の被害年代、季節、月日などを考査し、ペストが流行した時期と一致するか否かを確認する。第二に、「感染源検証法」である。これは、被害者が疫病に感染したルートを考察するものである。第三に、「症状検証法」である。これは、被害者の感染症状と死んだ後の死体状況などがペストの一般的な症状と一致するか否か考察するものである。第四に、「傍証検証法」である。これは、被害者に係る訴訟書類について状況を知る第三者の証言を聴取するものである。
こうして常徳細菌戦被害調査会は、これまでの7年間の努力を通して、2002年に『中国湖南省常徳市中国侵略日本軍731部隊細菌戦の被害死亡者と遺族名簿』(以下、「死亡者名簿」。)を編集した。その調査結果は信頼に足るので、以下、本証言の主な論拠とする。
その「死亡者名簿」によると、1941年11月4日に日本軍が常徳で細菌を投下したときから1941年12月末までに疫病による死者は、合計86人であった。1942年には合計174人、1943年に28人、1944年に8人、1945年に2人であった。5年間で合計297人が死亡した。彼らは163世帯に属する。
以下は、「死亡者名簿」に記録された都市部各年の住民ペスト死亡状況である。

>「1941年11月から1945年8月まで保存書類に記載されていないペストで死亡した常徳市民表」はこちら(PDF:208KB)

以下は常徳細菌戦被害調査委員会によって得られた1941年(図8)、1942年(図9)、1943年−1945年(図10)の各死亡家庭分布図である。

>1941年11月乃至12月常徳市街地ペスト被害家庭分布図(図8)

>1942年常徳市街地ペスト被害家庭分布図(図9)

>1943年乃至1945年常徳市街地ペスト被害家庭分布図(図10)


 常徳細菌戦被害調査会による上記「死亡者名簿」は相当の信憑性がある。1942年1月から7月まで常徳都市部のペスト感染率は容啓栄の「報告書」から:1月は20.03%、2月は19.04%、3月は22.35%、4月は44.29%、5月は13.68%、6月は3.47%、7月は0.78%であることが分かった(下図を参照)。

また、常徳細菌戦被害調査会の調査結果から見ると、1942年1月から7月までの毎月の死亡者は:1月は1人、2月は1人、3月は21人、4月は24人、5月は24人、6月は12人、7月は5人であった(下図を参照)。


以上のペスト患者数の割合を表した図と都市部各月の死亡者状況図を比較すると、まず、1942年3、4、5月の3ヶ月は都市部でペストが大流行した時期であることがわかる。常徳調査会の調査結果でも、同じ時期に死亡者数が高い値であったことが示されている。このように、60余年前の資料と60余年後の調査結果とが一致することは常徳細菌戦被害調査会の調査結果が確実に信頼できるものであることを証明している。したがって、全調査結果が信頼に足ると考えても差し支えない。

3、常徳都市部におけるペスト死亡者総数
公文書に記録された常徳都市部の死亡者数は37人であったが、常徳細菌戦被害調査会の調査結果による死亡者記録によれば297人であるとしている。両者の記録を合計すると、334人である。すなわち、公文書に記録された死亡者数は実際の死亡者数の内の氷山の一角である。常徳細菌戦被害調査会の調査データも実際の死亡者数との間に大きな隔たりがある。その理由は、かれらの調査は1996年に開始されたばかりで、事件発生当時から50年〜60年経過しており、この間に常徳住民の異動が進み、多くの被害者及びその遺族の捜索に困難を極めたからである。
筆者は、中国第二歴史公文書館で、一通の書類を発見した。それは、1941年12月12日に国民政府衛生署、軍政部軍政署、紅十字総会、重慶防空司令部と重慶衛戍総司令部などの部門が、常徳でペストが発生したことを聞いた後に開催した「重慶における敵機 の毒ガス及び細菌投下防衛会議」の会議記録であった。会議記録には次のように記されていた。「今年11月4日、日本戦闘機は常徳において細菌を付着させた布切れ及び穀物などを投下した。同月12日、常徳でペストが発見された。同月19日までに、感染者は55名に達し……(中略)……重慶方面は対策を準備しなければならない」 。この資料には1941年11月12日から19日までの8日間に常徳のペスト感染者が55名に達したとしている。このことから、第一に、井本熊男の作戦日誌が常徳ペストにつき「20/11頃猛烈なる『ペスト』流行」 と記載したことには根拠がある。第二に、今までにみたように、資料に記録された常徳都市部の死者数(5人)と調査会の調査による死者数(11月に43人死亡)を合計しても実際の死者数と大きな差があるということがわかる。
常徳ペスト防疫業務に従事していた重要な人物である3人が常徳都市部のペスト死亡者状況について話した。1人目は当時湖南省衛生処衛生士であった劉厚坤である。彼は1950年に『新湖南報』の記者に当時の常徳のペスト感染と死亡状況について話した。1950年2月11日付『新湖南報』にはこのような記事を掲載した。「劉厚坤医師が当時の状況について記者に、「常徳ではペストで死亡した人を我々の手で火葬したり、消毒処理にあたったものは、数十人に達する。死者の中には、一家全員が年寄りから子供まで死んだ家庭も、肺ペストに感染して治療不能となり24時間以内に死んだ人も含まれている。しかしながら、一般民衆の大部分は親族を火葬に付すことに抵抗を感じていたし、当時、悪知恵を働かせて人々を脅してゆすりをはたらく防疫役人がいくらかいた。そのため、多くの人々はペスト死亡者についての報告をしようとはしなかった。こうしたことを考慮すると、当時のペストによる死亡者数はおよそ400人にのぼると推定される」と語った。
2人目は当時常徳市広徳病院の副院長・譚学華である。彼は1972年の回想録でこう述べた。「民衆はペストに感染したら絶対死ぬと言っていた。だから、ペスト患者とその親族は隔離病院に入るよりも、自分の家で静かに死にたいと望んでいた。あるペスト患者は死んだあとに火葬されることを嫌い、こっそりに田舎へ逃げた。そのため、1942年の常徳ペストは一時は鎮徳橋や石公橋などの地区にまで蔓延した。例えば、桃源県出身の一人の農民が常徳市内で布を販売した際、ペストに感染し、桃源県に戻って、そこでペストを発病、流行をし、多くの死者が出たと聞いた。この時の常徳ペストの流行で、ペストに感染して死んだ人は500人以上に達した」 。
3人目は当時の常徳連合防疫処副処長・ケ一?である。彼は1965年に回想録を記し、その中で次のように述べている。「蔡桃儿の死に続き、関廟街と鶏鵝巷の辺りでは相次いでペストを発病する人が、殆どの人が治療不能で死んでしまった。ペスト感染者は日増しに増加し、一日あたり10人以上であった。感染速度は非常に速く、一人が感染したら、その家族全員に伝播した。…この期間にペストで死んだ人は約600人以上であった。そのうち、大部分は腺ペスト患者であった」 。
これら3人の体験者のうち、死亡者に関する推計において最も事実に近いのは、ケ一?説である。つまり、当時の死亡者は約600人以上であったと考えられるのである。その根拠は、第一に、彼は当時常徳防疫処副処長を担当し、把握していた情報が他の2人より比較的多いと考えられること。第二に、彼の推計には事実根拠があることである。彼の回想によると、当時隔離病院に収容したペスト患者は120人で、そのうちの大部分は死亡した 。火葬場で1942年4月までに火葬した遺体は360余りであった。4月以降は火葬をやめて多くの死体は指定の公共墓地に土葬されることになった。隔離病院、火葬場、指定公共墓地の3ヶ所の死亡者を合わせると約600人に上る。
しかしながら、我々の研究から、ケ一?の死亡者推計でも、いま一つの重要な事実が漏れていたことが判明した。それは、感染の事実を報告しなかった親族に城外に運ばれて埋葬された多くの死者の存在である。我々は常徳細菌戦被害調査会の「死亡者名簿」を調べた。それによると、都市部の死者は297人であり、そのうちの275人が親族に密かに城外まで運ばれ埋められたものである。
本書附属文書一「原告被害調査」をみても、大部分の人がペストによって死亡した家族を密かに城外に運び出し、土葬したと陳述している。例えば、「当時隔離病院での患者は死亡した後必ず火葬された。祖父は祖母の遺体を火葬させたくないので、4塊銀元 を払って密かに遺体を回収した。田舎の八闘湾で祖母を土葬した」 。「親と家族は声を出して泣くことができなかった。他人に知られて政府に報告されることを心配したからである。政府に知られたら、死体は解剖され、火葬されるからである。翌朝、父は防空警のどさくさにまぎれて、かごで2人の弟の死体を担ぎ出た。1つのかごに1人の死体を入れて、服で死体を覆い隠した。こっそり町を出て、ざっと小西門外乱葬岡という所に葬った」 。「姉が死亡した時、家族はこらえて声を出ないようにした。隣人と保長と甲長に知られることを恐れた。そして、夜中に小舟を頼んで遺体をのせ、徳山まで運び、そこで埋葬した」 。「死んだ後、どうしても他人に知られたくなく、政府に解剖され火葬されるのを恐れて、おじさんが人を頼んで夜に密かに遺体を城外に運び、北門外の乱葬崗(今の柳堤の辺り)に自分たちで埋葬した」 。
このように、死亡した家族を密かに城外へ運び出し埋葬した遺族が数多くいることが、1996年以来の常徳細菌戦被害調査委員会の調査によって判明した。
被害調査会の7年間にわたる調査は50年後に行われたもので、すべての被害者及びその遺族を網羅しきれておらず、彼らの調査した人数は死亡被害者数の50%にも達していないと推定される。この50%を考慮すると、当時都市部の実際の死亡者は1,000人ぐらいいたであろうことが推測できる。

4.人為的なペストが住民に与えた深刻な被害について
旧日本軍国主義時代の731部隊が人道に反して実施した細菌戦は常徳の無辜の住民に深刻な被害を与えた。我々は東京高等裁判所の裁判官諸氏がこの事実に対して十分な認識を持たれることを期待している。
(1)常徳市街地の死亡者
常徳細菌戦被害調査会の7年に及ぶ被害調査資料によると、日本軍は常徳でペスト細菌攻撃を行い、1941年11月から1945年8月まで、常徳都市部で5年間に渡るペストの流行を引き起こした。そのため、平穏に暮らしていた163世帯が被害を受け、297人が死亡した(これは公文書に記録された死亡者数を含まないものである)。そのうち、婦人は85人、15歳以下の児童は72人であった。被害を受けた全163世帯の内、家族8人全員の家が1戸、家族の内7人が1戸、2戸で6人、6戸で5人、7戸で4人、12戸で3人、38戸で2人が死亡した。合わせて67戸で2人以上が死亡したのである。1942年の常徳都市部の人口は62,150人であった。調査によって判明したペスト死亡者297人に、公文書に記録された死亡者37人を合計するとペスト死亡者は334人にのぼる。このことから、日本軍のペスト攻撃による死亡率を計算すると1/186となる。また、ケ一?が主張する死亡者は600人余りであるとする説に則って計算すると、死亡率は約1/100となる。
(2)ペスト感染者の受けた苦しみ
伝染病に関する現代の学術書によると、ペストの特徴・症状は次の通りである。ペストの死亡率は極めて高く、病状は非常に重いため、患者は苦しみに耐えられない。また、発病が速く、病状は急速に悪化し、感染者は寒気をともなう高熱で震えた。全身に毒血症状を起こし、脱力感におそわれ、頭痛をおこし、激しいめまいと全身の痛疼におかれる。また、吐血、下痢を引き起こす。出血症状を起こし皮膚には斑点ができ、鼻出血、喀血、血便或いは血尿の症状を引き起こす。また呼吸は急速になり、チアノーゼを呈し、呼吸や脈拍が弱く速くなり、血圧が下降し、さらに全身が極度に衰弱する。
ペストの主な種類には腺型、敗血型、肺型の3種類がある。腺ペストの主な症状は、重度の急性リンパ腺炎を起こして、リンパ腺が急速に腫れて化膿し、ただれてしまう。耐えられないほどの激しい痛みで、3から5日間で死に至る。敗血症ペストは腺ペスト或いは肺ペストに続いて発病する。病状は重く、高熱で身震いする。全身に重度の毒血症状を引き起こす。呼吸は速くなり、意識がもうろうとしてしまう。数時間から2、3日以内で死亡する。肺ペストは腺ペストに続いて発病する。典型的な症状は高熱で、全身に毒血症状を起こすとともに、激しく咳をし、胸が苦しくなり、呼吸困難、血痰及び喀血を起こす。これによる死亡率は70%から100%で、死亡すると、その死体の全身の皮膚が黒い紫色に変色する 。 
日本軍は常徳で人為的にこれらの悪性伝染病源を撒き散らし、少なくとも334名の都市部住民を死亡させた。特に彼らにひどい肉体的苦痛を与えた。例えば、被害者の劉開国(被害当時14歳。現在、77歳。)は筆者に、彼の祖父・劉棟成(被害当時63歳。「死亡名簿」の第8号)が死ぬときの苦しむ状況を話してくれたが、祖父は鶏鴨港でペストに感染して、解剖や火葬を恐れて入院を拒み、田舎へ運ばれた。当時祖父の顔は赤く、額はとても熱かった。両眼は閉じていて、とても苦しい様子であった。祖父はもう話ができなかったため、私たちには身振り・手振りで話しをした。このようになんとか持ちこたえたが、3日後には亡くなってしまった。亡くなったとき、口や鼻からは出血し、全身には紫色の斑点が現れた。田舎の医師には、それは「鬼に殴られた黒い傷」と言われた 。
(3)親族・遺族の受けた精神的苦痛
日本軍の人為的なペストはペスト被害者に多大な肉体的苦痛を与えただけではなく、かれらの親族・遺族に精神的な苦痛をももたらした。本鑑定で提出した『常徳都市部住民のペスト死亡表』から分かるように、ある人は父または母を失い、またある人は子供を、祖父、祖母は孫を失い、妻は夫を、夫は妻を失った。人々はそれぞれの親族を失い、どれほど悲惨なめに遭い、どれほど残酷な精神的苦痛を被ったのか計り知れない。
「死亡者名簿」の第7号被害者・方運登は、1941年11月に8歳で、ペストに感染して死亡した後、彼の祖母は精神障害になり、一年中、夜中に孫の名前を呼びながら町を歩き回った。
「死亡者名簿」の第25号被害世帯は、鶏鵝巷に住む5人家族の家庭であったが、1941年12月、2人の男の子を亡くした。彼らは13歳の高緒文と11歳の高緒武である。彼らの死に母親は昼夜すすり泣きつづけた。母親は両眼とも殆ど失明し、さらには、一時的に二ヶ月ほど精神に異常をきたしてしまった 。
被害者遺族のこのような精神的苦痛は被害当時のみのものではなく、長期的、持続的なものである。我々は被害調査に行くたび、毎回被害者にその辛い記憶を呼び起こさせてしまう。多くの老人はいつも顔が涙に濡れ、泣きながらその悲しい歴史を訴える。
「死亡者名簿」の第1号被害世帯は1941年11月に6名の親族を失った。この家庭で幸い生き残った人物は今年、70歳になる何英珍である。同人は毎年清明節 に家族を連れて、その忌まわしい災難で死んだ6名の親族の墓参りに行く 。
(4)ペストによる家庭・生活の破壊
また、日本軍によって行われた細菌戦が常徳で平和に暮らしていた住民の家庭・経済を破壊した事実を指摘しなければならない。中国には人生で最大の被害に遭った時に使う諺がある。それは「家破人亡」(家もなくし、肉親も失う)である。日本軍の行った細菌戦は常徳都市部の世帯にそのような被害をもたらした。「死亡者名簿」に記載されている163の被害世帯の内、一部分は中産階級の家庭であったが、大部分は貧しいの家庭であった。その内の多くの家庭は日本軍が引き起こしたその忌まわしい災難で破産し、生活を破壊され困窮し、住むところを失って流浪した。
例えば、「死亡者名簿」の第3号世帯の被害者、劉棟成は元々常徳城内最大の味噌販売店2軒の経営者であり、豊かな中産階級に属していた。しかし、彼がペストで亡くなったため、店は閉店を余儀なくされた。そして、家族の暮らし向きは急速に悪くなった。「当時、私たちは鶏鵝巷華厳庵30号に住んでおり、7人家族(祖父と祖母と父と母と私と2人の弟)の裕福な家庭だった。祖父は徳豊祥と徳豊南という二つの醤園 の経営者であった。住宅は3千銀貨 する、とても立派な家だった。祖父の死後、2つの醤園を閉鎖する事になった。すぐに家が破産した」 。
例えば、「死亡者名簿」の第26号世帯、被害者謝行鈞は常徳城北にある「興盛祥南貨店」の経営者で、豊かな生活を送っていた。しかし、1941年12月に5人の家族の内4人が7日間の内に死んでしまった。家を離れて勉強していたため、13歳の次男、謝旋は幸い生き残った。彼の家はまさに「家破人亡」の家であると言えよう。その後、謝旋は単身彼のおじさんの家で養ってもらった。
謝莚は、「その年、私は城外の清平郷中心(今の七里橋)小学校に在住し勉強していて、実家にはいなかった」。学校に来たおじさんが、「あなたのお母さんとお父さん、そしてお兄さんとお姉さんがペストに感染し亡くなった。あなたは家を離れて勉強していたおかげで、幸いに生き残った。」と言った 。
また、容啓栄報告書『常徳鼠疫(ペスト)患者一覧表』中の第22号被害者、建築労働者の馬宝林は、人々に「馬瓦匠(左官)」と呼ばれて、常徳城東の五鋪街に住んでいた。1942年4月、夫人が先にペストに感染し、隔離病院で亡くなり、後に、彼も4月17日にペストに感染し、広徳病院で亡くなった。彼らの息子は14歳で孤児になったが、生活苦に耐えて成長していった 。

5.常徳市は今日でもペストの潜在的脅威に直面している
筆者は常徳市疫病予防制御センター(元常徳市衛生防疫センター。)を訪問した。当該部門の主任である鐘発勝は次のように述べた。彼らは1984年から毎年、1940年代にペストが大流行した常徳都市部と常徳石公橋鎮、それから桃源城関鎮の3つの地区の鼠に対して、ペスト検査を実施している。1990年には常徳都市部で2例、1991年には桃源城関鎮で1例のペスト抗体に陽性反応を示した鼠の血清が見つかった。これは今後常徳市でまだペスト発生の可能性があることを示している。彼らが検査した3例の陽性を示したサンプルは1991年に、中国ペストブルセラ症防治基地である、「吉林省地方病第一防治研究所」へ送られ、再検査された。その結果も陽性であった。以下に『再検査結果通知書』のコピーを付録した。また、湖南省常徳市ペスト連合監督観測組の『湖南省1991〜2000年ネズミ間ペストの監測報告』をも添付した。
鐘発勝主任は最後に筆者にこのように話した。「上述した検査結果は、常徳市で今日でもペスト再発の可能性があり、常徳の人民は今なお1941年の日本軍隊が投下したペストの危害に直面していること示している。」
 

注:常徳市疫病予防制御センター提供;『再検査結果通知書』 実物サイズ13cm×16cm。


三、日本軍細菌戦による石公橋鎮住民の被害状況

1、公文書に記録された石公橋鎮のペスト状況
中国第二歴史公文書館に保存されている『疫情旬報』第26号 には、石公橋鎮のペスト発生及び予防治療の状況について、次のように記されている。
「今年1月の間、常徳城内関廟街の胡という姓の者は城内でペストに感染し、新徳郷石公橋 に戻り、発病して死亡した。彼に続いて家の女性使用人も感染し死亡した。衛生署医療防疫総隊第十四巡回医療防治隊は一度役人を派遣し、調査処理をした後、再発はなく、ペストネズミも発見されなかった。しかし、10月27日には当該地区で突然、再び1名のペスト感染者を発見した。その後、殆ど毎日のように死亡者がでた。11月24日まで合計して35名のペスト感染者を発見した。そのうち、31名が死亡した。その他、石公橋より10華里離れた鎮徳橋では11月20日にも2人が死亡し、25日までに9人が死亡した。湘西防疫処が派遣した係の調査結果によると、病例が発見される前に死んだ鼠を発見していたのに、一般民衆はその鼠がペスト菌で死亡したと知らなかったので、最終的にペストの大流行が発生した…」。
「予防治療の経過:11月14日に湘西防疫事務所は大量の薬剤を持つ各課の防治作業員を派遣した。石公橋と鎮徳橋との両地で防疫の仮事務所を設け、石公橋で隔離病院支部を設置して当地駐在軍の協力の下で予防治療の仕事を進めた。現在、当該地区には衛生署医療防疫総隊第2大隊に属する10、14巡回医防隊…等9防疫部門がある。防疫専門家であるポリッツアー博士(オーストリア人)の指導下で、防疫に従事する役人が30人余りいた。その他、衛生署第15巡回医防隊と軍政部第4防疫大隊第1中隊とも疫病地区に行き、防治作業に協力した」 。
中国第2歴史公文書館に保存されている、1942年12月4日に戦時防疫連合事務所の容啓栄主任が署名した第37号『ペスト疫病情況緊急報告』には、

「湖南省疫病情況について:衛生署医療防疫総隊第2大隊の大隊長代理人である施毅軒は11月16日に電報で報告:常徳県新徳郷石公橋鎮では11月6日に腺ペストを発見し、11月15日まで死亡者が20人に達した…治療チームをすでに1組派遣した。施毅軒はポリッツアー博士と一緒に第2チームを引率し疫病地区の一切の事項を監督・指導。施毅軒とポリッツアーは11月28日に電報で報告:石公橋鎮ではもう隔離病院を設置し、当該地区の疫病情況に対し積極的に対処し、堤防を築いて隔離し、住民を移動させる準備をしている」

と述べている 。
同公文書館所蔵の1942年12月21日の第38号『ペスト疫病情況緊急報告』では下記のように書いている。

「湖南省の疫病情況について…(二)施毅軒大隊長が12月3日に電報で報告:石公橋鎮では合計40人余りの死体を発見した。最近の1週間には新しい病例を発見しなかった」。

以上の資料をまとめると、石公橋鎮は1942年10月27日にペスト流行が始まった。流行する前に大量の鼠の死体を発見した。11月6日、常徳防疫部門はペストの発生の情報を得た。11月14日、湘西防疫所は予防治療員を派遣し、疫病地区で予防治療の仕事を始めた。11月15日に統計した死亡者数は20人に達した。11月24日までに発見されたペスト感染者は35人で、うち31人が死亡した。12月3日まで合計して40人余りの病死者を発見した。
1943年4月に湖南省衛生処が編成した『湖南省防治常徳桃源鼠疫工作報告』中に『常徳県新徳郷石公橋、広徳郷鎮徳橋鼠疫人登録表』がある。そこに記録された石公橋に関する内容を下記に引用する 。

>「石公橋ペスト患者登録表」はこちら(PDF:92KB)



2、石公橋鎮ペストの疫病源について
現在、把握されている石公橋鎮のペストの感染源は3つある。
第一は、前述した戦時防疫連合事務所の『疫情旬報』第26号に述べられている通りである。すなわち、「1942年1月に、常徳城内関廟街の胡姓子は城内でペストに感染し、新徳郷石公橋に戻った後発病して死亡した。彼に続いて彼の家で働いていた女性も感染し死亡した」。
第二は、常徳武陵区公文書館に保存されている1941年12月10日の『常徳県警察局第二十五回警務会議記録』に述べられている通りである。すなわち、「都市部ではペストを発見し、感染するのが速く、とても危険である…関廟街にいたペスト患者が石公橋に担いで運ばれてきて、黄土店で死亡した」。石公橋の老人黄岳峰と王耀来の証言によると、石公橋に運ばれて死亡したこの被害者は王孟連といい、当時17、8歳であった。彼は常徳の関廟街の劉義茂糸店の弟子で石公橋烽火の王家の家族であったが、1941年11月下旬城内でペストに感染し、石公橋に戻った後死んでしまった。
第三は、石公橋の多くの老人が証言する通りである。すなわち「1941年11月初めのある朝、まだ夜も明けない内に一機の日本の飛行機が鎮上空に飛んできて穀物等を投下した。屋根の瓦がさらさらと音をたてた」というのがある。一方『ハバロフスク裁判記録』の中でも次のように述べられている。「731遠征隊は常徳と洞庭湖付近の住民区で大量のペスト感染蚤を投下した」 。
口頭で述べられた証言は文献上の証拠と一致しており、信頼するに足る。

3、石公橋の人々の記憶にある石公橋ペスト被害状況
1993年、中国共産党常徳市委党史事務所が『辛巳災難─1941年常徳細菌戦紀実 』を編成するために、9月22日に石公橋鎮でペスト被害の体験者5名の老人 を呼んで、石公橋鎮におけるペスト被害を回想する座談会を開いた。座談会の会議記録によって彼らの回想をまとめると、石公橋鎮ペスト被害状況の要点は次の通りである 。
(1) 疫病源について
黄岳峰は、「その年のだいたい旧暦9月中旬(1941年11月4日)の明け方、まだら模様の日本の飛行機 が石公橋鎮の上空を飛んで、なにかを投下した。それは塊状の綿花や、布切れ、穀物、大豆などであった。」と話した。
賀鳳鳴は、「まだら模様の日本の飛行機は時々石公橋鎮の上空を飛んで、宣伝ビラを投下したことがある。」と話した。
丁連清は、「まだら模様の日本の飛行機は、時々低く飛んで屋根の上の瓦も振り動かして、とても脅威だった。」と言った。
(2) ペストの大流行について
黄岳峰は、「日本の飛行機がものを投下してから鼠の死体を発見した。その主な地域は橋北街である。正元堂薬店の鼠の死体が最も多かった。店主の丁為桂と医者のデブの聶の話によると、ネズミに疫病が発生して、人に感染するので鼠の死体を籠に入れ、川岸に埋めた。店で大量の硫黄を使って消毒した。私の家は高床式の家屋 である。普段はあまり鼠がいないのに、その日はペストに感染した鼠を発見した。鼠は体中の毛を矢のようにまっすぐたてて、頭を引っ込め、のろのろと這って歩く…ちょうど鼠を発見したその何日間のうちに、石吉勝のおじである石冬生が突然病気になり、身震いをして高熱を出し、翌日には死亡した。…石冬生が亡くなったばかりなのに、張春国の妻も同じ病気に感染しその次の日に死亡した。前後わずか1日である。妻にはまだ1歳に満たない息子がいて、その子は彼女と同時に感染し、やがて彼女に続いて死亡した。石冬生は張春国の隣に住んでいて、張春国はまた丁長発の隣に住んでいるため、張春国の妻と息子が亡くなった後、丁長発の妻、魯開英もまたペストに感染し、亡くなった。その後、まだ葬儀をしない内に、娘の丁月藍も人事不省となり、わずか1日で死亡した。丁国毫は丁長発の斜向かいの家に住んでおり、羅楚江は丁長発の家から五軒離れた所に住んでいたが、彼ら両世帯からもまた死亡者が出始め、丁国毫が感染して死亡した。羅楚江の妻もまた感染し彼に続いて死亡した。」と話した。
賀鳳鳴は、「彼ら数軒の家での死亡状況は最も悲惨で、老若男女が次々に亡くなった。わずか6、7日の間に張春国の家の7人が全員死んでしまった。石冬生の母親も死亡した。丁長発の家では死者が最も多かった。彼の家では雇い人を加えて11人が死亡した。それはとても悲惨であり、死体を収容する人も誰もいなくなった。」と話した。
丁連清は、「その病はとても酷いもので、感染したら死ぬしかない。私の妹もその病で急死した。高熱が出た後、意識が遠くなって夜中には死亡した。」と話した。
(3) 医療チームの石公橋での防疫について
黄岳峰は、「(石公橋)鎮では何十人もの人が死亡した。皆がこの災難を県城まで報告した後、県政府は石公橋鎮に医療チームを1チーム派遣してきた。警察もそれに同行した。その時はちょうど張春国の長男・張伯君と羅楚江の妻が亡くなったときで、防疫隊は強制的に彼らの遺体を解剖した。鼠の死体に対しても化学的な検査をした。」と話した。
賀鳳鳴は、「防疫隊には外国人の医者が1人いた。彼の名前はポリッツアーと言った。専門家だった。彼の科学的な検査結果によって、この病気がペストで、それは伝染病であることが判明した。」と話した。
司会者は、「防疫隊は結局のところ、具体的にどんな処置をしてペスト蔓延を防止したのか」と質問した。
黄岳峰、賀鳳鳴、丁連清は、以下のように述べた。「第一は、住民を動員し、予防注射をさせたことである。注射を受けたら、『注射通行証』がもらえる。住民は『注射通行証』で橋北街へ出入できた。第二は、南街と北街を繋いでいた大きな橋を取り外して吊り橋を設置し、警察が監視したことである。『注射通行証』があれば橋を渡ることができたが、その通行証がないと通行禁止となった。第三は、3本の溝を掘ったことである。溝の広さと深さは1丈(1丈は3.33m)余りであった。溝底に水が出てくるまで掘り、柳堤防を掘り壊した。また、傅家拐と南極宮で2本の溝を掘った。これによって外部の人は入れなくなった。こうしてペスト感染源が農村まで蔓延するのを防止した。第四は、ペストによる死亡者の着物を高温で煮沸したり焼却したりしてしまったことである。多くは煮沸したが、少なからず焼却した。第五には、隔離病院を設置し、家族と患者との接触を防いだことである。しかしこの措置は充分には実施されなかった。家族が患者の隔離を嫌がって、感染しても報告しなくなった。親族が死んだら泣くのを堪えて夜中に遺体を船に乗せてこっそり運び出し、唐家嘴の荒れ地に埋葬した。医者に知られて化学的な検査をされたり、火葬にされたりするのを恐れたのである。第六は、薬で鼠を殺したことである。防疫隊に薬を貰って食べ物と混ぜ、それぞれの家に撒いた。鼠を殺したら必ず埋める、勝手に放置してはいけないと。この措置はよく実施された。とても有効で、町中の鼠を殆ど駆除した。」
黄岳峰はまた、「死亡者数がピークに達したとき、防疫隊は橋北街を焼くことを提案したが、住民は断固反対し、県政府にまで訴え出て橋北街を保存した。」と話した。
(4)石公橋鎮ペストの死亡者について
周紹仁は、「石公橋では100人余りがペストで死亡した。私は死亡者のことをはっきりと覚えている。王秀貞は、女性で44歳だった。劉冬姐は女性で、年齢は不詳。丁長発の家では10人ぐらい死亡した。家を離れて勉強していた息子ただ1人が生き残った。張春国の世帯はすべての人が死亡した。また、丁子璋は17歳の女性であった。周連清は47歳の女性であった。丁国毫は47歳の男性であった。石谷記は58歳の男性、等々である。」と話した。
司会者は、「そのペスト流行で石公橋で死亡した人は合計何人か。」と質問した。 
黄岳峰と賀鳳鳴と丁連清は、「当時数えたのは、合計して160人余りである。今も名前をはっきり覚えている死亡者は、石冬生の家で2人、張春国の家は7人、賀孟秋の家は2人、武漢劇団では2人、烽火の王家は3人、草堰閣には3人、燕窩の張家では3人いた。また、石禄之の妻、石米記の妻、石谷記の妻、王桃清の妻、王雨廷の妻、丁連清の妹、黄華清の妹、賀鳳鳴の姪、何五爺、陳大姐、陳三元、熊瑞階等々である。また、名前を知らない人も多数ある。死者は非常に多かった。」と答えた。
(5)ペストが石公橋鎮の人々に与えた被害について
黄岳峰は、「住民は恐れ慌てて、次々と田舎へ逃げ出して災難を避けた。そのため、橋北街は人のいない死の街になった。」「その事件のおかげで受けた経済的損失は極めて大きかった。全鎮で営業活動は2ヶ月以上停止したが、その損失は計り知れないほど大きい。」と話した。
賀鳳鳴は、「鎮辺りの畑も荒れ地になった。農民はペストを恐れて、畑を耕して作物を植えることや秋冬作物を栽培することをはばかった。町中どこを見ても荒れ果てて、以前川にとまっていた100余りの船舶はペストが流行してからは来なくなった。商業的な町の姿はまったく見られなくなった。」と話した。
李麗枝は、「私は子供の頃、丁家と婚姻関係を結んだ。舅は丁長発であり、石公橋鎮橋北街で綿糸店を経営し、売上がとてもよかった。夫は丁旭章といって、長男で、常徳城内で勉強していた。よい夫の家を見つけたと周りの人に褒められた。しかし、私たちが結婚する準備をしているうちに、夫の家は大きな災難に逢った。家のすべての人が死亡したのだ。3人の雇い人を含め、合計11人である。夫だけは幸い家から離れて勉強していたので生き残った…家族全員が死んで、財産もなくなって、富裕な商人がわずか数日間で破産した…日本の強盗は私の家を奪い家族を殺した。憎くて歯ぎしりする思いだ。」と話した。

4、石公橋鎮のペスト被害世帯と人数について
現在判明している石公橋鎮の被害者は合計115名である(書類に記録されている人と、遺族がいて被害経過を陳述でき、氏名と当時の住所とも判明していて、隣人が証明してくれる人、及び詳細、当時ペスト被害から生き残った人を指す)。77世帯(詳しくは、以下の統計表と分布図を参照されたい。)。

>「ペストの被害を受けた石公橋の住民統計表」はこちら(PDF:141KB)


 石公橋鎮は1942年当時、人口が約2000人で、住民世帯数が約400戸であった。不完全ではあるが、以上の統計によると(石公橋のペスト流行が終わった時、鎮の統計による死亡者は160人余りであった)、当時ペストで死亡した人は合計して111人である(被害者は115人で、うち幸いに生き残ったのは4人。)。死亡率は1/200である。ペスト被害世帯は合わせて77戸であり、被害率は19/100である。
 石公橋鎮でのペスト感染は、街の中心を通る街道沿いの商店密集地で広がった。ペスト被害を受けた77世帯の大部分は、街道沿いの商店が並ぶ北横街にあり、被害率は非常に高い 。

>図11 1942年石公橋ペスト被害家庭分布図

 代々、石公橋に住んでいた黄岳峰老人は、次のように話した。
 「その年の秋、石公橋鎮では急性伝染病による死者が出始めた。常徳城からポリッツァー博士を始め、10数名の医者と20数名の軍人を含めた防疫隊が派遣され、橋北側の北正街と北横街は閉鎖された。この二つの街には多くの死者とネズミの死骸がでたため、感染地域として認定された。各家庭には薬が配られ、人々は注射を受けた。私の家族も薬を飲み、注射を受けた。
 石公橋を閉鎖するため、3ヶ所に深い溝が掘られた。1ヶ所は北横街の裏にあたる柳堤、2ヶ所目は北正街と北横街の結合部にある傅家拐、3ヶ所目は橋南側南正街の裏だった。石公橋も取り外され、新たに吊橋を設置して、軍人が感染地域の出入り口を守備し、『注射通行証』を持っているかどうかをチェックした。しかし夜になると、住民は船で水路を通じて出入ができたので、完全に閉鎖をすることはできていなかった。」